書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

C87第1日目、戦果報告

備忘的に戦果報告(備忘)まで。

おそらく年明けからぼちぼち感想を書いていくと思います。

 

※ 一日目も完売でいただくこと叶わなかったところがあと10個ほどあるのですが、これはやむなしと思って、事後に再販希望リストを作っていきたいと思います。

※ 二日目はそもそも行けなかったので、後追いでメロンとかとらとかに行って追加していくと思います。

※ 三日目は、東S26aにて売り子担当のため、買いに行けるか甚だ疑問ですが、年始明けにでも更新予定です。

 

 

(1)漫画

 

(1−1:百合)

Girls monochrome 2010−2012再録集(Chisakoさん)

後藤さんと岸田さん1(やまもとまもさん)

後藤さんと岸田さん(やまもとまもさん)

後藤さんと岸田さん3(やまもとまもさん)

冬彼女(百乃モトさんほか)

 

(1−2:まどマギ

かみさまごっこ(す茶らか本舗さん)

少女採集標本(す茶らか本舗さん)

dream,dream,dreaming 3(す茶らか本舗さん)

安息の日曜日(す茶らか本舗さん)

レテの庭1(Hallowさん)

レテの庭2(Hallowさん

レテの庭3(Hallowさん

パーフェクト・ワールド(ズートホートさん)

Familia(ズートホートさん)

 

 

(2)小説

湿り 孕む(月砲屋さん)

断簡拾遺-補遺(河村塔王さん)

卒塔婆カーニバル(兎角毒苺園さん)

Spiklenci Slasti(悦楽共犯社さん)

 

 

(3)写真集

ruins material 型月的廃墟探訪録1(Pimetailさん)

探訪路 創刊準備号(部隊探訪者コミュニティーさん

 

 

(4)評論

最新危機管理マニュアル2015(柏原ボンクラーズ

最新危機管理マニュアル2014(柏原ボンクラーズ

余白のR(ふるとさん)

アニバタvol.11(なしれいさん)

Fani通2014(Fani通編集部さん)

しのぶについての考察(タケさん)

 

 

 

 

3つの『輪るピングドラム』論(3)--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む

 

 『ピンドラ』雑記、3つ目です。今回はsssafff+Nagの紹介です。掲載元は、tacker10さんのと同じく、『アニメクリティークvol.2』です。

 

 

---(再掲)

  つい先日作成した同人誌『アニメクリティーク vol.2』では、特集の2つ目の解釈対象の一つに、TVアニメ『輪るピングドラム』を挙げていました。結果的には tacker10さんのものとsssafff+Nagの拙稿、計2論が掲載される運びとなりました。内容紹介等はこちらで

 と、折角なので、家にある同人誌で『ピンドラ』扱ってるのあったよな、と探してみたところ、『BLACK PAST vol.2』掲載の籠原スナヲさんの幾原監督論が発見できたので、上述した3評論をまとめて(後ほど関連づけて)紹介したいと思い立ち、紹介します。(以下、敬称略とさせていただきます)

---

 

1、籠原スナヲさん
 「95年」と桃果の倫理---幾原邦彦少女革命ウテナ』『輪るピングドラム
(※掲載『BLACK PAST vol.2』2012年発行)

 

前記事分です。

3つの『輪るピングドラム』論--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む(1)

 

2、tacker10
 不純なるものたち--- 『輪るピングドラム』が描く彼方
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

 

 前記事分です。

3つの『輪るピングドラム』論--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む(2)

 

3、sssafff+Nag
 ほどけた輪の先--- 運命の果実を一緒に作る
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

 

(前置き)

 こちらは、スナヲさん、tacker10さんのような射程の広い2論と違って、専ら作中のモチーフを拾っていく感じの論になっています。

 

第一節(下記1)は、眞悧などが述べている「箱」という概念の解釈を中心に、そ「子供ブロイラー」とは何か、そして(人的関係の欠如としての)社会的な一元化の陥る問題を、把握しようというものです。透明であることや、何者にもなれないこと、誰にも選ばれないということが、なぜそんなに切迫した問いとして現れるのか、というところを追及したつもりです。そこでは、一見、適材適所に人が配置されていくように見えても、実は、その分配秩序は全く固定されたまま、人の運命を「必然」に従って固定する環境にしかなっていない、という点が強調されるでしょう。

第二節(下記2)は、「95」や各話のモチーフとして散々出てくる「輪」の解釈を中心に、関係性の固定とその日ぐらしの循環によって疲弊していく高倉家という描像を抽出する箇所です。社会的な評価とは独立に、細々と人間関係作っていくだけでは枯渇するし、いずれにせよ「必然」として回帰してくる運命と言う描像から逃れられないがそれではいかんのではないか、「回る」といっても行き場のない「循環」によってはどこへも行けないのではないか、という筋です。

第三節と第四節(下記3)では、ようやく「ピングドラム」解釈にいたります。そこで問われているのは、なぜ「ピングドラム」は必然を課してくる運命から逃れさせることができるのか、という問いです。

 まず三節では、ピングドラムが、林檎(光球)と灰という二つの要素によって構成されていることに着目し、その二つによって分かち合われた「命」=生の意味を探究していきます。完結に述べると、人の可能性は、眞悧の様な「箱」や「ブロイラー」、あるいは、高倉家的な関係性の循環を破壊することによってではなく、人が互いの環境、互いを取り囲むものとして(一人として生きつつも)互いを生きているという(共)存在の条件に開かれる、ということにこそある、という主張となります。それが、最終話の回転する林檎の描写、宇宙を進む晶馬とペンギンたちの描写に現れているのではないだろうか、という解釈へと進んでいきます。

 更に四節にいたり、本作の中心的話題であった「運命」という語が、最終話を経たあとにおいては、もはや「必然」とは切り離された概念として読み取られる必要があることが強調されるでしょう。そこでの「運命」とは、(第一節でみたような)全てが効率や適材適所という規範によって一望された必然=「運命」でも、(第二節でみたような)コミュニケーション上作り上げられていく理想=日常=「運命」でもありません。そうではなく、一切の実存的な生がただ互いを支え合っているし、そうあることができるという様相的・可能性に満ちた生にこそ、『ピングドラム』が示した尊ぶべき生の条件が読みとりえ、また希望が引き出しうるのではないか。そして、その偶然性と「他性」に触れつつある(=回る)生こそ、『輪るピングドラム』を経た我々がこれから「運命」と呼んでいくべきものなのではないか、というところで〆となります。

 

 次回4つ目の記事でまとめをしたいなぁとはおもうところですが、いずれ、2016年1月からはじまる『ユリ熊嵐』と絡めたりして検討してみたいところです。

 

 以下、本論です。 

 

  ↓

  

3、sssafff+Nag
 ほどけた輪の先--- 運命の果実を一緒に作る
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

   

 本作、『輪るピングドラム』で回っているとされるのはなんであるのか? そして、その対象が回ることの価値とは何か?

 この回転にまつわる問いこそ、本稿が冒頭で提示するとともに、全体として探究する問いである。

 例えば、第一話から続くように、「運命日記」も各人の手をくるくると渡って行くし、「運命の人」も諸々の三者の間を(一方通行に)循環している。また、「95」という95年地下鉄テロの数字を摸した「輪」は、作中で終わることなく回り続ける。一方で、同形の話である各話数を表す「輪」は、最終話、24話において回転をやめ、煙のように消えていくに至るだろう(第24話Cパート手前を参照されたい)。更に決定的なところとしては、最終話、冒頭の少年に重ねられる形で、冠葉により「愛による死を自ら選択した者へのご褒美」として回転する林檎が名指されていたことを思いだしてほしい。

 では、このような反復と回転には、一体何が賭けられていたのだろうか? 反対に、回転・循環といったものは手放しで喜ぶべきものなのか、反対にこれによって失われるものがあるのだろうか?

 予め方針を提示しておこう。『輪るピングドラム』で最も頻繁に各キャラクターの口をついて出る表現の一つに「何者にもなれない」があるが、この「きっとなにものにもなれないってことだけははっきりしていた」停滞・循環する運命から脱し、運命を作り上げるに至る物語として、本稿は『輪るピングドラム』を見出している。

 

 

1、「子供ブロイラー」と「箱」:  固定される運命、関係性の欠如

 

 それにあたり、第一に本稿が着目するのが、「子供ブロイラー」および「箱」という本作で指示される、本作に特有の社会構造である。そこでは、人が誰しも「何者かであること」が、絶え間なく、過剰に求められ、それゆえに「なにものかでなくなること」にたえず脅かされている存在として描かれている。

 「選ばれたとか選ばれなかったとか。やつらは人に何かを与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている」(第20話より)

 人は、他者に対し、過剰に「(こちら側にとって)何者かであること」を求めすぎている。あたかもその評価によってしか生きることを許されないかのように、互いが互いを評価しあいすぎている。こうした評価の犠牲になるのはなによりもまず、田蕗や陽毬といった、他者の期待に沿えなくなった子供たちである。過剰な期待によって「消費」され、行き場を失った子供は、ただ外部から求められる事柄だけが積み上がることで「何者にもなれない」存在に避けようもなく落ち込んでいくのである。

 

 若干、語彙について説明を加えよう。

① 「子供ブロイラー」

 子供ブロイラーとは、「何者にもなれなかった」子供を集め、それをバラバラにしてし、透明な存在へと変えてしまう大きなシュレッダーとして描かれる。この象徴表現には、(a) 子供を大人へと急激に成長(broiler)させるとともに、(b) その色を失わせる、という二重の意味が読み取れるだろう。『ピンドラ』の社会が、剣山や眞悧によって、「色」を失った「氷の世界」と評されるのはこの故であろう。

 社会における未来を与える育て上げが、その実、単一の規範に沿った人間の未来しか用意できないという皮肉を、このブロイラーは象徴している。つまるところ陽毬の言葉を借りれば、子供ブロイラーとは、ある時期までに「予め失われる」ことで「何にもなれなかった」存在をその断片へと切り刻み、金輪際「何者にもなれない」存在として固定する装置なのである。

② 「箱」

 次いで「箱」である。これもまた眞悧によって語られる。「人は体を折り曲げて、自分の箱に入るんだ。ずっと一生そのまま」。こう眞悧は述べる。人は外部から課された「箱」を生きざるをえない。人は与えられた「箱」を生きることで、自己を守ることなく、自分から「何者であるか」が奪われるに任せている。

 「子供ブロイラー」と異なり、「箱」は、単に有用性に適合できないという無評価(存在価値の簒奪)を帰結するだけではない。それに加え、「箱」は人をしまいいれることで、「自分がどんな形をしていたのか。何が好きだったのか。誰を好きだったのか」(第23話)さえ、忘れさせてしまうのである。つまり、「箱」によって、人は「何者かであろう」と選ぶぬくはずの自己すら失っていくのである。

 

 こうして、「何者かでありえた」という色とりどりの可能性に満ちた人間は、ブロイラーによって断片化され、「箱」にしまわれることで、他者と自己によって固定された透明な装置の一部として組み込まれ、もはやただ生きられただけの生を送ることしかできなくなるのである。

 これこそが、高倉家や荻野目家を含む全ての人々が、その冒頭から陥っている、『ピンドラ』社会の出口のなさなといえるだろう。

 

 

2、「輪」の循環: 循環する関係といういきどまり、乗り換えの欠如

 

(2-1:循環の出口のなさ) 

 

 では、このような「箱」から、より人間的な関係を構築することで逃れ、社会が課する評価を遮断すればば足りるかというとそうでもない。

 実際、高倉家の三人や荻野目萃果は、そうやって、あるべき着地点としての日常・理想をみさだめ、ただそのために日々を過ごす。しかし、(第一話で、陽毬が一度絶命するように)そのような閉じた「輪」の中で、隠れるように生きられた細々とした生は、そのままに維持されることは決してない。 その細々とした生は「生存戦略」としては儚すぎるのだ。

 勿論、暫定的には、その閉じた「輪」の内部の関係によって、社会(ブロイラーや箱)による断片化・透明化を排除することができるかもしれない。しかし、同時にその関係は、病気に苦しむ陽毬の生存の残存時間や冠葉の資金調達といった制約を、端的に無視しているものでしかない。彼らは、関係性に逃げ込むことで、彼らに与えられた資源を食いつぶしているにすぎないのだ。「キスは無限じゃないんだよ。消費されちゃうんだよ。果実はないのにキスばかりしていると、私はからっぽになっちゃうよ」(第20話)と、陽毬は散々に奪われつくした者として、この事実に自覚的だったといえるだろう。

 つまり、閉じた「輪」の関係を求める心性もまた、互いの依存を招き、人を空洞にする作用を営む。たった一つの希望である運命の循環に、自らを拘束する作用を営むのである。ただ現実に分け与え合われただけの生は、関係性の枠内の生を切り崩して維持される生にすぎないことが、ここでは露呈している。

 こうして、必然として立ちふさがる運命は、社会によることなく、人間的関係においてさえ、再度強化されてしまう。(状況に適合しようとするという意味で)現実的かつ合理的なはずの生存戦略こそが、「箱」から逃れようとする彼らを、再度バラバラにしてしまう。 関係性の「輪」の周を循環する(終盤までの)高倉家や荻野目萃果は、こうして自らの(やむにやまれぬ)選択の必然にこそ、囚われているのである。

 

(2-2:破壊という偽りの出口) 

 

 このような「苦しみの声」を挙げる全ての者たちのために、眞悧はあらゆる必然の構造を破壊し、そこから脱しようとするかもしれない。「だからさ、僕は箱から出るんだ。僕は選ばれし者。だからさ、僕はこれからこの世界を壊すんだ」。そのために、眞悧は、奪われた典型である陽毬に薬を与え、冠葉へ一筋の希望を与え、自らの生を選ぶように唆すかもしれない。高倉家という偽の関係から脱したあるがままの生を、眞悧は追及せよと嘯いた。

 それは、勿論、一方では、彼らに自己の生を見つめ直すチャンスを与えただろう。しかし、眞悧と剣山がとった方策は、その理想としてあまりにも人間主義的すぎ、その方法としてはあまりにも短絡的すぎたことだろう。

 というのも、眞悧は、「箱」が回帰することのない新たな秩序を練り上げることではなく、いまある箱をただ壊そうとするが、「箱」の構造が歴史的に自制的な秩序に沿って生じた以上、この現在の現実にある「箱」を破壊したとしても、人は再度、その効率と評価を求めてしまうだろうためである。

 このため、人は、反覆的に収束する運命から逃れることはできないままに留まってしまう。その「箱」の回帰に抗うためには破壊によってもまだ足りない。

 

  

3、「愛」: 乗り換えられた運命

 

(3-1:ピングドラムの二重性)

 

 では、「必然」を課するこれら二つの構造から逃れる方策はあるのだろうか?

 ある、と本稿では考えている。そのトリガーが「ピングドラム」である。

 さて、本作で「ピングドラム」として名指されていたのは、(素朴にみる限り)「運命の果実」として冠葉から手渡され、晶馬の命を接ぐこととなった林檎であり、その林檎の輝きを放つ光球である。「かんちゃん、これがピングドラムだよ」と陽毬は述べ、晶馬の体から、かつて晶馬のもとへと届けられた光球を取り出し、冠葉へ返す。ただし、ここで返されるのは光球の半分である。というのも、光球の半分は、陽毬の手の中で煙のように揺らぎ、灰となって空へと舞ってしまっているためだ。

 この描写を筆者は次のように考えている。すなわち、「ピングドラム」とは、その描写どおり、灰と光の合わさった二重体であり、「ピングドラム」とは(装置に組み込まれた生でも、ただその日暮らしのためにシェアされた現実的な生でもなく、)たえず「他者」が生きたかもしれない生(灰と化した消えたもの)と、その灰が照らし出す自己の生(残存する光)との総和として成立している、ニ重化した生のことである、と。「運命の果実」、「命」の象徴たる林檎は、こうして、他者の生をも担うものとして、一人の生を最初から分かち合われたものとして成立させているのである。

 つまり、人が一人で生きるように見える時ですら、そこには(かつて生き、これから生きるものに加え、)かつて生きることがなく、これから生きるかどうかさえわからない者たちによってこの現実の生が支えられているということを、「ピングドラム」の上記二重性は示している。そう主張している。

 

(3-2:「罰」としての生のポジティヴな意味)

 

 現在において、そして、現実という平面における切り口を(振り返って)みれば、人は現にあるようにしかありえず、そこにそうではなかった可能性は見ることはできない。いかなる出来事が起ころうとも、切断面のみを見る限り、そこには例外が無いためだ。

 しかし晶馬は言っていた。「あの日、兄貴が僕に分けたもの、愛も罰も全部分け合う」と。なぜここで「愛」と「罰」が名指されるのか、そして、なぜ陽毬が言うように「生きるってことは罪」なのかといえば、人一人が生きるときには、決して「ひとりぼっち」では収まらない「他者」と混濁し、「他の時間」と地続きで、「他の世界」と等価なものとして実在する可能的な生(様相的な生)が、横に置かれなければならないためだろう。いいかえれば、人一人が生きるときには、たえず、他者の生を、可能性を、運命を、喰っている。その罪を忘却せず、正当な罰を引き受けなければ、「必然」を脱する生はないのである。 

 

 こうして、冒頭の問いにおける回転の対象とは、詰め込まれ適所へと輸送・配置されていく「箱」の連鎖のことでもなければ、その日暮らしの循環を繰り返すとじた「輪」のことでもない。それは、最終話にあるとおり「回転する林檎」のことであり、単線的な時間や世界に還元されない「他性」の繰り返しのことである、と本稿では捉えている。それを、冠葉の声をした少年の言葉を借りて「宇宙そのもの」「手のひらに乗る宇宙」と呼んでも差し支えはないだろう。それは「この世界とあっちの世界をつなぐ」。決して現実にはなることがない世界によって、この現実が支えられていることを、冠葉に似た少年は語っているのだ。

 だからこそ、彼が次いで言うように、「愛による死」もまた「死んだら全部終わり」ということを意味しない。「愛による死」とは、現実の死亡という出来事をさすのではなく、たえず、現実を取り囲む「必然」という事態(閉じこもる現実)を、別の「他なる」運命へと結びつけうる希望のことを指しているためだ。 

 

(3-3:「愛」、すなわち、「必然」を取り囲む様相へと開くもの)

 

 最終話、陽毬は、もはや(現実的にみれば存在したことがなく、これからも存在することはない)兄たちからのメッセージを読み、理由なく涙を流す。全てが始まりに戻ったはずの初期化済みの世界において、しかし、そこには通過した(現実ならざる)過去があったことを思いだすかのようにして、萃果は涙しているのである。火傷痕とガラスの傷跡は、林檎を介して生きられた、他者が折り重なった生なのであろう。陽毬と萃果の傍らを、決して出会い、会話することなく、そして第一話の少年たちの会話を繰り返しつつ、冠葉と晶馬が通り過ぎていくのである。

 「信じてるよ。いつだって一人なんかじゃない。忘れないよ、絶対に。ずっと、ずっと」。いわば、この錯誤を生きることこそが、「箱」と「輪」、二つの隘路から抜け出した陽毬が至る「運命」であり、陽毬が初めて「私は運命って言葉が好き」といえた理由である。世界にこの秘密を見つけ出し、その秘密と共に歩むことの中にこそ、「必然」を超え出る運命が生まれる。

 かくして「いつだってひとりじゃない」愛を受け取った子供たちは、また別の誰かに愛を傾けることができるようにり、そうして(可能的な生という宇宙の中で)互いを含み込む「運命の果実」を一緒に作り出し、そしてその命の果実を一緒に食べ、「罪」を分かち合うことを学ぶのである。

 これこそが、本稿が取り出そうとした『輪るピングドラム』の主題であり、その希望である。そう述べて、本稿は閉じられる。

 

3つの『輪るピングドラム』論--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む(2)

 

 

『ピンドラ』雑記、二つ目です。今回はtacker10さんの論考をまとめたり、私見を述べたりです。

 

---(再掲)

  つい先日作成した同人誌『アニメクリティーク vol.2』では、特集の2つ目の解釈対象の一つに、TVアニメ『輪るピングドラム』を挙げていました。結果的には tacker10さんのものとsssafff+Nagの拙稿、計2論が掲載される運びとなりました。内容紹介等はこちらで

 と、折角なので、家にある同人誌で『ピンドラ』扱ってるのあったよな、と探してみたところ、『BLACK PAST vol.2』掲載の籠原スナヲさんの幾原監督論が発見できたので、上述した3評論をまとめて(後ほど関連づけて)紹介したいと思い立ち、紹介します。(以下、敬称略とさせていただきます)

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1、籠原スナヲさん
 「95年」と桃果の倫理---幾原邦彦少女革命ウテナ』『輪るピングドラム
(※掲載『BLACK PAST vol.2』2012年発行)

 

前記事分です。

3つの『輪るピングドラム』論--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む(1)

 

 

2、tacker10
 不純なるものたち--- 『輪るピングドラム』が描く彼方
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

 

 

 さて、やや時間が空いてしまって恐縮ですが、籠原さんの論に引き続き、tacker10さんの論を紹介したいと思います。

 今回更新部分は、『アニメクリティークvol.2』所収の「不純なるものたち--- 『輪るピングドラム』が描く彼方」、および、『日常系アニメのソフト・コア』より「アニメディウム---変遷する媒質の手触り」です。

 

 

(1)「不純性」からみる『輪るピングドラム


 「果たしてこの世に不純ならざるものはあるだろうか?」という冒頭の問いにあらわれているように、tacker10さんは『輪るピングドラム』をあらゆる側面から「不純性」を取り出すに至る物語として捉えている。

 逆から言えば、いかに人が純粋性に駆り立てられてしまうか(そしてそこからいかにして逃れるか)という問題意識に、本稿は支えられている。

 例えば本作中で用いられる語彙でいえば、「運命」は好ましいものなのか厭うべきものなのか、それは決定されているのか意味に満ちたものなのか、あるいは高倉家の三人は罪と罰に憑かれているのかそれともまだ自由をもっているのか、桃果の乗り換え或いは眞悧のテロは善であるのか悪であるのか、等々というように、(一見すると純粋な)概念は、二項対立的な左右の極に振られうる。

 しかし、それらの概念が純粋にされるときにこそ、思考から落ちてしまう多元的分岐があるだろう。本稿から印象的な一節を引くならば、「表現とは、受容者の思考を決定するのではなく、思考の機会を与えるのだ」(『アニクリvol.2』p.79)となるだろう。

 アニメの視聴体験もまた一元化・単純化したと嘯くことは容易であるが、しかし、むしろ表現技法の差異を介して思考が開かれる余地が、アニメ視聴においては重要となるはずだ。こうして、概念的な純粋化によって落ちてしまう「思考の機会」を、tacker10さんは掴もうとしているように思えるところである。

 


(1-1)純粋性を求めてしまう3人: 萃果/陽毬/眞悧


 とはいえ、まずは『輪るピングドラム』に即してまとめていくべきだろう。

 tacker10さんが追うのは、上記純粋化に駆られた、各キャラクターの運動である。事実、全五節のうち、三節分に渡って、この純粋化への落ち込みの諸パターンが詳述されていく。

 

① 第一節で検討されるのは荻野目萃果である。彼女は、あらゆる人から必要とされ愛されていた(それゆえ逆説的なことに、未だ多くの関係者が彼女に救いを求め続けてしまってもいる)亡き姉・桃果に、自らを重ねようと画策する。その過程で、彼女は自らの存在を殆ど抹消し、理想化された桃果であるかのように振る舞い、それを、なんとしても実現せねばならない「運命」と呼ぶに至るだろう。
 そんな彼女の狂信的なまでに戯画化された「運命」への欲望は留まるところを知らない。純化された理想の極点である限り、それは歯止めなくどこまでも追及されていくためである。本稿の語彙でいえば、「デカルト格子における消失点」としての運命、理想、抑圧が如実に現れるだろう。本稿で語られる「透明化」の病とは、このような多元的に構成されているはずの自らを、無化・無視した上でなされる、飽くなき自己消尽に他ならない。
 
② 第二説で(とりわけ重要なものとして)検討されるのは高倉陽毬である。彼女は、萃果とは反対に、自ら(消失点としての)運命をたぐり寄せるような振る舞いにはでない。彼女は余命幾ばくもないその日々を、高倉家の面々と共にただ過ごそうとする。既にみたように高倉家は実際には血のつながりのない疑似家族であるのだが、その真実に決して触れることがないように、根拠なきコミュニティの脆弱性を陽毬は(無意識にせよ)忌避しつづけるだろう。そうして穏やかに回るだけの日々を欲し、そこからの逸脱を恐れるだろう。外圧に晒され続けたが故の、消失点を持たないフラットなコミュニティがここに現れる。
 そんな彼女の問題は、萃果とは逆方向、他者に対する「透明化」である。陽毬は自身が安穏と生きることに隠された秘密(実はその安穏とした日々が、冠葉を彼の本当の妹・夏目真砂子から引き裂いていること)を、それとは知らぬままに見過ごし、抑圧している。夏目真砂子からすれば、愛する家族を奪っていることに気づきさえしない盲者として、陽毬が映っているいることだろう。
 つまり、陽毬は自身を無化・無視することはないが、自身が生きる周囲のものを等し並みに扱ってしまっていることを忘れている。全てをフラットに視るが故に、その差異に目を向けることがない、かりそめの等閑視が見過ごす抑圧が陽毬に課された生の条件なのだ。

③ 第三節で取り上げられるのが眞悧である。眞悧は、これまで見てきたあらゆる「透明化」が、全て選ばれなかった者たちの苦しみに端を発していることに気づいている。萃果においても、陽毬においても、その駆り立てられた「透明化」は彼女らの罪ではない、彼女らを取り巻く(社会)環境のせいだと彼はいう。そして、その苦しみの声を聴き、苦しみから開放するため、眞悧は「透明化」を生みだす全ての構造(典型的には「子供ブロイラー」)の破壊者として現れることになるだろう。あらゆる敗者たちが「何者にもなれないまま」に箱に詰められ、消されていく「透明化」の構造に抗して、彼は破壊活動(テロ)を敢行するに至るだろう。

 彼はたえず、抑圧され、呪いを溜め込んだ敗者の側に立つ。「列車はまた来る」と述べるように、呪いの連鎖が収まらない限り、彼のような存在は潰えることはない。眞悧は身体の復権という題目をかかげつつも、心と身体という構図(心身二元論)そのものの破壊を目論む。それは、抵抗という図式に駆られた一つの終わりのないバックラッシュを敢行しているかのようだ。すなわち、どこへも行き着かない抵抗の連鎖に、眞悧もまた絡めとられている。(※12/16一部訂正)

 

 


(1-2)3つの時代、3つの表現: 近代/ポストモダンポストコロニアル

 

 かくして、①萃果、②陽毬、③眞悧という三者の類型は、終わりのない負の連鎖を反復しているように見える。しかし、勿論、その反復は偶然ではない。

 というのも、その連鎖は彼らというキャラクターの問題だけではなく、それぞれ、①近代、②ポストモダン、③ポストコロニアルが反覆的に陥ってきた問題に重ねられるためである。スクリーンの向こうの萃果たちの問題は、我々視聴者の置かれた生存条件と、まさに地続きの問題として現れているともいえるだろう。

 端的にまとめれば、それは「近代/ポストモダンポストコロニアル」の問題といえる。

 ①萃果は、奥行きの消失点に規律され、一点透視の構図に則って事後形成された偽史を描く近代の問題を反復している。また、②陽毬も、全ての要素がフラット化(平板化)された運動に身を委ねるだけで、あらゆる構造的差異を見失いつつあるポストモダンの問題を反復している(という意味で、陽毬もまた、近代においてみられた、「女手」を言文一致と安易に重ねる再解釈を反復しているすぎない)。そして、③眞悧はこのような透明化を帰結する全ての構造(二元論・二元的構造)を破壊し、例えば心と身体という構図によって割り振られた運命に対しては、繰り返される抵抗を目論むことになるだろう。(※12/16一部修正)
 

 更に、tacker10さんの論は、この三者の対を、アニメの表現技法の問題、つまり「奥行き/横断性/構造破壊」という軸に重ねて論じてもいる。

 具体的には、①萃果はシネマティズム的一点透視に中心化しすぎたことの問題を、②陽毬はメディアミックス的横断性ばかりに目をとられた問題を、③眞悧はあらゆる構造を破壊・解放することで却って既に存在する複雑な構造を追うことができなくなってしまった問題を、それぞれ担っているというわけだ。

(勿論、問題はこれに尽きる訳ではなく、そこで抜けている論点が正射影遠近法といったアニメティズムの運動であることは明らかだろう。tacker10さんの言葉を借りれば、これらの要素を視ることで初めて視線は実作に追いつくのだし、「批評が実作に追いつく」のである。)

 

※とはいえ、この箇所を要約するのは容易ではないので、より子細にラマールの著書や本稿に直接あたってほしい。敢えて要約すれば、いずれにせよこれらの典型的で単純化しがちな視聴者の目線からズレていく表現が『輪るピングドラム』の「クリスタル・ワールド」(「生存戦略!」から始まるあの仮想空間)の開始に見ることはできるというところに、tacker10さんの本作への着眼の所以がある。

※12/16追記:この点について著者から追加コメントを頂きましたので、読解の正確を期すため、一部転載させていただきます。

・ 「クリスタル・ワールド」の背景は、金田的アクションや板野さんの描くミサイルを連想できる。元々、アニメのファンからすれば、金田さんや板野さんの映像が素晴らしいことは知られている。ただ、奥行きを尊ぶ(近代的)評価法では、それらは無視され、アニメはあくまで子供のものだと軽んじられてもいる。

・村上や東らはそれを持ち出して、フラット=ポストモダンだと再評価していった。つまり、ああした映像は、江戸時代と結び付けられながら、ポストモダンの根拠として機能している。

・が、そもそも正斜影遠近法自体は、より古くから存在し、また海外でも使用される。それを江戸時代と結び付けられながら既にポストモダンは日本に根付いた文化だった、という主張は、平安時代の「女手」を言文一致と結び付ける近代の反復(反動)でしかない。

・要は、ポストモダンの成立条件は、単に近代的奥行きを採用していないというだけを根拠にしており、そこでは近代的奥行を抑圧しつつ、その権威だけは利用することで、案に権力構造を温存してしまっている(これが、陽鞠と真砂子の関係です)

・そこで、奥行きと横向きのどちらかではなく、それらが如何にして共存し、互いに影響を与えてきたのか、その中で私たちはどんな影響を受けてきたのかが重要なのではないか。

 


(1-3)「3」の飽和: 「不純性」への開かれ

 

 かくして、萃果、陽毬、眞悧というこれら三者の取り組みは何度も反復されつつ、最終的にはそのどこへも行けなさの隘路に陥ってしまう。

 ではこの隘路からの脱出路はあるのか。その答えが、上記3者の後、最後にtacker10さんが行き着く、④「運命の乗り換え」の解釈である。

 

④ 最終話、「運命の乗り換え」の場面において、晶馬は、かつて理不尽で残酷なものとして映った「運命」について、こう運命を言い換える。

「楽しかった。ありがとう。返すよ、あの日、兄貴が僕に分け与えたもの。僕にくれた命。僕たちの愛も、僕たちの罰も、みんなわけあうんだ。これが、僕たちの始まり、僕たちの運命だったんだ」

 そこでは、あらゆる因果、多様な系譜が一挙に折り畳まれた(しかしそこから全てが始まる不純性の束として)「運命の果実」が名指される。そうして、その「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉が、かつて冠葉が晶馬に与え、そうして晶馬が陽毬に与え、更には陽毬がダブルHへ、更には桃果から萃果へと手渡されたあの日記の言葉として、萃果にまで届く。そこでは、多様な系譜の産出孔として分け与えられた「運命の果実」があり、かつ、そこから全ての歴史が新たに見られるべく留まっているとされるだろう。

 つまり、「運命の果実」という言葉は、歴史を我有化する視点、一つの眺望点から視られたパースペクティヴ、遠い-近いで判断された時間軸とは異なる、複数の時間軸が並走する時間認識と非決定論的な因果認識を導入するための魔法の言葉として置かれている。言い換えれば、歴史の異種混濁性、「不純なる歴史」を取り上げるために、決して(乗り換え後の冠葉・晶馬と陽毬・萃果のように)寄り添わないにもかからわらず、複数の時間の間で共有していることだけを共有するような時間認識・因果認識に開くのである。

 「運命の乗り換え」とは、この時間軸の複数の重なりの上に生きるように促す。つまりは、今、この瞬間が、①近代であり、②ポストモダンであり、かつ、③ポストコロニアルであるかのように生きる術を学ぶことに他ならない。勿論、それは同時に、今この瞬間が、①萃果のような「透明化」、②陽毬の様な「透明化」、③眞悧のような「バックラッシュ」に取り憑かれつつあるという危機の最中でもあるように生きることも意味する。同時に、一つのアニメの表現の中に、①シネマティズム、②メディアミックス、③構造破壊(勿論、これらを超え出る正射影遠近法やその他の仮現運動の分析等々)が畳み込まれていることを認識することをも、意味するだろう。

 

 このようにして、あらゆる単純化・純粋化に抗し、複雑性を保ったイリュージョンとして、アニメは我々の目の前にある。あらゆる方向への運動が一挙に折り畳まれ、共存したメディウムとして、我々の目の前にある。言い換えれば、静かに、紐解かれるときを待ちながら、かつてあったのではない仕方で、これからあるのでもない仕方で、時間の蝶番を外れたアニメというメディウムがそこにある。

 「あらゆる批評は「シネマティズム」や「アニメティズム」などの異なった運動が、どのように共存しているのかを分析することで、それが視聴者の目を一律に集中させるだけでなく、そこから如何に拡散させているのか、収束から分岐へ反転させ、解放することも意図しているのかということをこそ視ていかなければならない」(p.82)

 このようにtacker10さんは宣言し、本稿をもその一部として包含する「仮想的身体」論へとパスを繋いでいく。

 直接には描かれていないが、『ピンドラ』最終話における「死は終わりじゃない、むしろそこから始まるんだ」とは、tacker10さん的には、終わりと始まりが結びつけられていない時間認識のことであり、生と死が結びつけられていない因果認識のことであり、決定された関係性の手前からはじめることがいつでも出来るという不純なる歴史認識のことだということになるのだろうと推測するところである。(最終話が第一話の同じ会話の部分に接続されている以上、そのような因果・歴史・時間のことを描くことは最初から織り込み済みだったのだろうと思われる。)

 そして、全ての視えなくなりつつあるものを捨て置かず、それらが堆積した不可視(未だ可視ではない、というべき?)かつ不純な歴史の積層を遡行することにこそ、tacker10さんの追及している「倫理」と呼びうるものがあるのではないかと、思われるところでもある。

 


 

(2)籠原さん論考とtacker10さんの接続
 

 

 …と、色々描いてきてしまったので、ここまでの議論を、「交換可能性/交換不可能性」(萃果+冠葉)という対の反転に倫理を見出す籠原さんの論に引きつけつつ、まとめてみよう。
 
 籠原さんの提示した「交換可能性/交換不可能性」という対は、tacker10さんの論へとイメージを接続するなら、(そのまま重なる訳ではないけれど)「透明性/不透明性」(あるいは「非物質性/物質性」、「音/文字」)の対にあたるだろう。そして、桃果的倫理と呼ばれた「交換可能/不可能」の反転する倫理は、透明性と不透明性をともに産出する「不純性」「不純なる歴史」に相当するはずだ。

 既にみてきたように、籠原さんの論では、人は「かわりがきく」ことと「かけがえのない」ことのどちらによっても傷つきうるとされていた。だからこそ、人はその両者にともに足をつけねばならなかったし、その片側にしか立てないものへはその対応物を差し出さねばならなかった。「桃果的倫理」というのは、このくるくる回る個々の場面で、その度ごとその状況ごとに差し出されねばならない救済の手のことを指している。

 これに対して、tacker10さんの論は、(誰もがそこから逸脱してしまいがちな)その「倫理」に人を留めるための目の置き場・手の作法を探究しているといえる。つまり、籠原さんが提示した「倫理」を誰もが着実に手に取っていくための挙作こそが、一つ一つ追及されているとみれるのではないだろうかと考える。

 というも、人が倫理を貫徹し続けることができるかは、多かれ少なかれ、環境に依存してしまうだろうためだ。「倫理」を知見として知っていても、それに自らの内に置くことができないことは、ままある。事実、籠原さんの論でも、まずは桃果というやや特殊な(半ば狂信的な利他的)キャラクターにおいて、桃果的倫理の範型は抽出されていたように思われるところである。

 では、なぜその倫理は凡人たる晶馬・萃果にまで伝搬するのか、なぜその倫理は時を経てなお持続するのか。おそらく、その答えの一つが、tacker10さんの視聴の分析に見て取れる。
 
 再度tacker10さんの論をパラフレーズするなら、純化されたイメージに留まることは、一つの時代の拘束を受け入れ、一つの平面に取り込まれることにほかならない。というより、一つの遠近法と眺望、一つのイリュージョンを漫然と受け入れることに等しいだろう。
 勿論、価値評価をするだけなら、思考は単線的に決定付けられるだけでも足りるかもしれない。しかしこれに対して、アニメという複合メディア、とりわけその複数の平面・運動・方向の重なりに開かれるためには、多くの視聴者はいまだその手前に止められている。再度、本稿から引きつつ言うならば、「テクストがテクストであるための必要な両義性」を視ることなしには、人は「自らを語りだすこと」は決してできないままにとどまってしまうだろう。だからこそ、歴史が積層した不純なる歴史を、一挙に取り出すための視線を培わねばならない、と、tacker10さんはこのように読者を促しているし、その手法を種々提案してくれている。
 人は「倫理」に対して分析によって挑まねばならない、そんな決意に満ちた詳論として、本稿を視ることができるのではないだろうか。
 
 

(3)付論:「アニメディウム

 さて、これと関連して、同時期に出た別の論も紹介します。
 既に、「アニメというメディウム」という言葉は、(1-3)で出してましたが、その名のとおりの「アニメディウム」という論考が、去る2014/11/29、週末思想研『日常系アニメのソフト・コア』所収の論考として出ています。
 取り上げられている題材は、新海誠作品から一人称視点のゲーム、更には日常系アニメに至るまで幅広く取り扱われているところなのですが、あくまでも、tacker10さんの思考の一つの軸である「媒質」・「媒体」への着目が明確に見て取れるという点で、より先述した運動分析の着眼が深まるのではないかと思い、紹介します。

 

 

(3-1)表現技術としての…「透明性/不透明性」

 

 本稿で取り上げられるのは、新海誠作品に始まり、ゲームジャンルの一つであるFPS(ファースト・パーソン・シューティング)を経て、京アニの空気系と呼ばれる作品群である。
 ここでは、とりわけ、デジタル技術・3DCGといった技術的変遷とともにある「媒質」「媒体」の「透明さ/不透明さ」という相反する要素の重なりに、tacker10さんは取り組んでいる。
 
① まず、「媒質」「媒体」が透明であるとはどのようなことを指しているのか?

 導入箇所で出される例で言えば、特定班や聖地巡礼が、「媒質」「媒体」の透明性の例である。そこでは、画面の向こう側(の仮想的運動)を視ているのに、画面のこちら側と地続きの地点へと誘う「練り込まれた画面の質感」(p.43)が提示される。それは、「いま、ここ」へと誘う特殊なリアリティを与えるものとして、空気系が語られるときのイメージとして、よく伝わるのではないだろうか。つまり、そこには「まるで同じ世界の「空気」を共有出来るかのように感じられるまで練り込まれた画面の質感」がある。

 このリアリティの所以の一つには「奥行きの動線」の指示の仕方があり、一つにはその媒質の共通性を強調するような「透明感」がある、とtacker10さんは分析している。

 典型的には新海誠の『ほしのこえ』である。そこでは、先述した遠近法的な「消失点」をもたらす光を導線とし、アニメの内部に一直線に差し込むように描写される。そうすることで、アニメの中とこちら(視聴者)側との間に一筋の線が走り、そのまま「媒体」の奥へと手が伸ばせるかのような錯覚(その瞬間においては極めて自然でありながら、振り返ってみると奇妙な感覚)をもたらすだろう。

 別の例で言えば、先述したFPSにおいて、(キャラクターではなく)背景が後方に「飛ぶ」ことで進む動きが現出することが挙げられる。そこで動いているのは世界の方であり、その後方への背景の飛びは、我々を画面へと一直線に引き込む動線を用意する。そうして、我々との地続きの地平を強制的に創出するのである。
 
② 他方、「媒体」「媒質」が不透明であるとはどのようなことか?

 こちらはやや込み入っているが、テーゼとしては、いくら透明性が強調されようとその間には改変されつつある「媒体」「媒質」が残るということを意味している。典型的には「スクリーン」である。人は物理的な「スクリーン」の前に阻まれる。あくまでも仮現運動でしかないアニメの向こうは端的な不在なのだ、そうもいえなくはないだろう。

 しかし、問題の中核は、「スクリーン」のような物理に還元されない「媒質」がどの形で残るのか、どのようなレベルで残るのか、という問いだろう。むしろ、その不透明性は発見されなければならない問いとして立ちふさがる。

 そこで例示されるのが『けいおん!』シリーズである。そこでは、てらまっと氏が『セカンドアフターvol.1』で分析したように、あずにゃんカメラという機構を通じて、視聴者と『けいおん!』の風景が一挙に短絡させられる経験を得るだろう。なぜなら、あずにゃんこと梓は、かつての唯が入部した梓の知らない過去と同一の言葉「あんまり上手くないですね!」を発して、あたかも唯のその唯たちの歴史(つまり1期たる『けいおん!』)を視ていたかのように、その発言・瞬間・仕草をトレースするためだ。異なる二つの歴史が、決してありえない形でシンクロする。あたかも、二つの時間軸が同時に並走しているような錯誤に、人はぶつかることだろう。こうして、「フラッシュバック/フラッシュ・フォワード」という時間錯誤に、人は開かれるのである。

 不透明性というのは、この、決して短絡できないにもかかわらず、その邂逅が可能となる錯誤の瞬間に露になる。(若干推測まじりで恐縮だが、)決してひとところに集まることはないにもかかわらず、並列的に集まったかの様な経験を与え、過ぎ去りつつある時間・空間の中でなお、時間・空間から自由に動き回る能動的な経験を与えるものとして、アニメの生理的快感をもたらす動きがあるのだろう。これが、「決定論的に秩序付け」られた視聴者の欲望を「多様な生の形」へ開き、肯定するもの、とtacker10さんが言っていることではないだろうか。

 シャッフルされた時系列は、再度、前後関係を確立することで流れるのではなく、同時に複数の流れとして折り畳まれ、保存される。例えば『氷菓』において語りだされた歴史的遠近法においては、あらゆるものが彼方の古典へと落ち込んでいくとされていた。しかし、このテーゼは、千反田と折木のミステリー実践によって脆くも崩れる。遠近法のプロセスを遡行し、現在に「英雄」を開いたのは、折木たちの日常である。つまり、遠近法というパースペクティヴは、たえずズレを作り出すとともに、そのズレの仮想的シンクロによって、その遠のきの遠近法を破り、複数の時系列とともに開かれる日を待っていたのだ。そこで歴史は、今この瞬間において、同時的に複線化していることになるといえるだろう。


(3-2)分裂した意識、と、「媒体」「媒質」との関係

 「媒体」「媒質」が描かれるとき、それは同時に、(光のように)視聴を同時的にしつつ、(水のように)視聴を遅延させる。視聴を奥行きのあるものに仕立て上げつつ、一挙にフラットに折り畳みもする。更には、一つの運動しかなかったところに同時に複数のレイヤーを見出させるように働きもするだろう。

 そのときに生じる同期感/違和感が、アニメ視聴によって動かされるという体験をより洗練させてくれるはずだ。そこでは視る主体もまた複数に動かされることで分割される。視るパースペクティヴが分割されると共に、視る「媒質」が分裂しているのだから、これを一つに還元することは決してできない。

 複数の分裂した意識に追いつくためには、「視るという行為について視る」ことが必要となる。「媒質」を無化しつつも可視化してくれる、透明であり、かつ、不透明な経験を与えるアニメという特殊なメディアは、あらゆる「加速」とともに時間認識や空間認識の新たな形を与えるだろう。

 「空気系」という呼称にメディウムへの着目を読み込むことという冒頭付近の一文は、こうして、アニメのメディア性とともにある視聴体験へと一直線に通じている。そこで与えられるのが、タイトルにもある、「媒質」の手触りなのである。

 

 

(4)「仮想的身体」

 …にまで手を伸ばしてまとめようとしたのですが、ここまでくると『ピンドラ』から随分遠くに来てしまった感もあるので、一旦、ここで「アニメというメディア」についての話は終えるとして別稿に譲ります。
 (※予告してたのにすみません。また今度ということでどうぞよろしくお願いします)

 

 

 

 

【次回予告】

 

 

3、sssafff+Nag
 ほどけた輪の先--- 運命の果実を一緒に作る
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

 

ひとまず、まとめ前のものを置いておきます。

 


4、3つの評論から見える諸倫理

(1)Q1.) その倫理は、誰へ向けられたものか?
(2)Q2.) その倫理は、どのような手法によって接近すべきものか?
(3)Q3.) その倫理は、いつ貫徹されるのか?

 

  

3つの『輪るピングドラム』論--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む(1)

 つい先日作成した同人誌『アニメクリティーク vol.2』では、特集の2つ目の解釈対象の一つに、TVアニメ『輪るピングドラム』を挙げていました。結果的には tacker10さんのものとsssafff+Nagの拙稿、計2論が掲載される運びとなりました。内容紹介等はこちらで

 と、折角なので、家にある同人誌で『ピンドラ』扱ってるのあったよな、と探してみたところ、『BLACK PAST vol.2』掲載の籠原スナヲさんの幾原監督論が発見できたので、上述した3評論をまとめて(後ほど関連づけて)紹介したいと思い立ち、紹介します。

 (以下、敬称略とさせていただきます)

 

 

 

1、籠原スナヲさん
 「95年」と桃果の倫理---幾原邦彦少女革命ウテナ』『輪るピングドラム
(※掲載『BLACK PAST vol.2』2012年発行)


(1)交換可能性による苦しみ/交換不可能性による苦しみ、その重ね合わせとしての倫理


(1-1)導入


 籠原スナヲさんの幾原監督論、「「95年」と桃果の倫理---幾原邦彦少女革命ウテナ』『輪るピングドラム』」は、幾原監督による『少女革命ウテナ』と『輪るピングドラム』を、交換(不)可能性という両義性という問題意識の下で読み解いていく評論だ。
 著者の他の論考(※たとえば新しめのものだと『あじーる』2014)にも通じるところであるが、明確な概念の抽出と振り分けによって、人・キャラクターがどのような現実の/物語上の負荷を担わされているかが、極めて明晰に取り出されていく。『アニバタ』含め、数多くの評論が同名義で発表されているので、是非他論考も一読されたい。
 (※ 『ウテナ』部分も極めて示唆的なのだが、著者自身も分析の主軸においているのは後者であることから、今回は『輪るピングドラム』部分に限り、紹介してみたい)

 そこで『輪るピングドラム』に関して、著者は、高倉冠葉と荻野目萃果という二人の主要キャラクターに着目している。というのも、物語前半における彼らはそれぞれ、(上述した)交換不可能である自己の存在に苦しむ者と、交換可能であるが故に苦しむ者、という普遍的な二つの立場を代表しているためだ。
 つまり、冠葉は(疑似家族ではあれ)妹を愛する禁忌を越えることができない苦しみに身を焦がされる者として、萃果は誰からも愛された亡き姉の代わりを演じる苦しみに苛まれる者とし、姿を現す。
 一方、物語後半において、彼らの位置は反転するに至る。冠葉は、高倉家が疑似家族であることを露見させることで家族の楔から解き放たれるが、同時に、家族の紐帯を失い、誰でもいい「代わりがきく」者に堕してしまう。翻って、萃果は姉の代わりであることを止めたことで「かけがえのない」晶馬に惹かれるものの、同時に、犯罪被害者(萃果の姉、桃果)と犯罪加害者(晶馬の父、剣山)の家族という、彼らの間にひかれた避けられない運命に直面せざるをえなくなる。
 
 このように、物語の前半後半を通じて、彼らはこの両極を行き来し続ける。しかし、その両極のいずれにも救いはない。「かけがえのない」ものであることを求める心性には、そうでしかありえないという呪縛がつきまとい、「代えがきく」ことを求める自由には、誰でも構わなかったという価値しか付与されないためだ。
 かくして、いくら足掻こうとも「かけがえのない」ことと「代えがきく」こと、両極のいずれかにしか留まれなかったことこそが、彼らを苦しめているといえるだろう。


(1-2)桃果的倫理の在り方

 この分析から読者が得られる知見には次のようなものがある。
 運命に追いすがられる冠葉と運命に見放される萃果は、丁度、現実に生きる我々の生が、ときに「代わりがきき」、ときに「かけがえのない」ものとなるという偶然の反転を突き詰めている。そういうキャラクターとして表象されている。
 例えば本作が参照している95年のテロ事件は、誰かが死に、誰かが生きていることの偶然性(ex.たまたま一つ前の列車に乗っていたら…。たまたま遅刻したら…)に見る人を直面させる。更にその事件は、「私」にとって「かけがえのない」誰かを喪ったことが、他の人にとっては「代わりがきく」死として処理されるという残酷な価値的反転をも、同時に目の当たりにさせるだろう。
 つまり、その忌まわしい出来事は、我々の生の偶然性を露呈させ、生の価値的な反転へと我々を突き落とすものだった。「かけがえのない」ことも「代わりがきく」ことも、常に隣り合ったものとしてあり、そして等しく人を苦しめることができる。

 では、その生の偶然と反転に対して、著者の言葉でいえば「死の両義性」に対して、人はどのように向き合えばよいだろうか?
 本稿において提示される回答は、その両義性に目を瞑ることなく、人はその両義性に同時に開かれるべきだという回答だった。
 その両義性への開放を担ったのが、かつての桃果である。そこで彼女は、父親に拘束されていたゆりを自由にし、母親から捨てられた田蕗を子供ブロイラーから救い出す。つまり、「代わりがきく」者を「かけがえのない」存在として遇し、「かけがえのない」存在へ「代わりがきく」脱出路を与える役割を背負ったのである。(※12/15追記: 前者のガジェットがピングドラムであり、後者のガジェットが運命日記である、と著者は述べていたことが参考になるだろう。)
 この開放に至る取り扱いの連鎖の中にこそ、両者の境界を不断に揺らがせる(かつて桃果が担った)倫理がある。そう著者が述べていたところである。


(1-3)晶馬へと引き継がれた倫理


 さて、更に論は続く。

 物語上、桃果という人間は、95年のテロによって死亡している。そのため、桃果不在の今(2011年)においては、交換(不)可能性の前で苦しむ冠葉と萃果に対する関係では、別の者によってその倫理は担われなくてはならない。著者は晶馬がこの役割を担うものとして指定する。

 
① まず晶馬は、冠葉に「運命の果実」と呼ばれる生の象徴を与え返す。それはピングドラムと呼ばれる、半分が煙のように消えてしまう林檎のような光球であった。

 それは、先に挙げた、「代わりがきく」者を「かけがえのない」存在として遇することに眼目がある。とはいえ、ここで運命(の果実)を与え返すというのは、冠葉を、かつての(物語前半のように家族という「かけがえなさ」に苦しめられた)運命に再度拘束することではない。そうではなく、冠葉に、旧来の歴史とは異なる来歴の生を与えることを意味するだろう。おそらくは、新たな運命を、新しい運命として生きるかのような生を与えることがこれにあたるだろう。
 最終話の末尾、晶馬や冠葉は、かつての名もない少年の位置をトレースする形で(=現実の改変が最も少ない小さな奇跡の形をとって)現れる。そこで彼らが、高倉家という家族という呪縛から自由になり、かつ、現実の生へと至ったかは、実際のところは定かではない。(というより、彼らが人間としての生を送っているのかさえ、定かではない)
 しかし、ひとまず冠葉に限って言えば、その自責と逡巡に満ちた堂々巡りの生は、運命の乗り換えによって、家族関係からの自由が与えられ、陽毬へのアクセスはこれから来るべき可能性として残されたことになる、とはいえるだろう。
 この所作が現実の我々の生へと与える示唆としては、おそらくは自らに課された歴史・規範を継承しつつ、その除去と再構築を同時に遂行するような共同体主義的な振る舞いであるだろう。その除去と再構築の中にこそ、現実に運用される倫理として構想されているものが蔵されている。


② 次いで晶馬は、萃果に「愛してる」という「かけがえのない」言葉を与えるとともに、(運命の乗り換えと共に)その記憶を消去するに至るだろう。

 ここでは「かけがえのない」存在へ「代わりがきく」脱出路を与える役割こそ、強調されるべきだろう。(※ここはやや推測まじりではあるが、)丁度萃果による「運命の乗り換え」が彼らを因果の呪縛から解き放つ(=「代わりがきく」脱出路を与える)ように、晶馬は萃果に対して、愛されたという「かけがえのない」原初的な(具体の記憶なき)記憶を植え付け、しかし、そこに拘束されないように(運命日記無しにではあれ)記憶の片鱗”だけ”を残すという二重作業を遂行する。これが晶馬による救済にあたるものであろうと思われる。(※12/15追記)
 つまり、ただ一度きりしかありえないという意味で「かけがえはない」が、しかし拘束する来歴は持たない(消滅させる)という意味で「代わりがきく」言葉を、晶馬は与えるのである。萃果が交換可能なのは呪文を用いる存在である(ここに来ても桃果の代補であるという)ことよりは、おそらくは(晶馬の苦痛を除くためには)関係ない赤の他人としてしか接することができなかったという萃果の関係構築の作法にあるのだろう。
 これを晶馬は運命の乗り換えによって変えるにいたる。晶馬が述べた「愛してる」という言葉は、かつて萃果が晶馬によって愛されたという呪縛に留め置く(拘束する)ためにあるのではない。(だからこそすぐに記憶は消去される)
 そうではなく、その「愛してる」という言葉を受け取った者が、新たに誰か(勿論それは次の瞬間の自分かもしれない)を愛することができるようにするために、その自由とともに置かれるべき言葉であるのだろう。人を「愛する」とは、このような呪縛でも放任でもないところの自由としてあるということも、示唆されているのだろうと思われた。

 
 こうして、「代わりがきく」ことと「かけがえのない」こともまた、不即不離の拘束でありながら、同時にその両儀的な位置を組み直し、「バラバラのまま併存させ」る作用を伴うことによって、生を、耐える価値のあるものへと仕立て上げる倫理として、立ちあがることになる。ピングドラムと日記という二つのガジェットが用意され、それが各人の手を渡っていったという著者の洞察は、この倫理の二つの発現の型として理解されるべきだろう。

 そうして、これこそが、『輪るピングドラム』が冒頭と最後の子供の口を借りて述べた、終わり(=死)が同時に始まりでもあるかのように生きるという倫理に繋がることに疑いはない。倫理は継承され、次の愛を生み、再度「かけがえのなさ」と「代わりがきく」ことを相補う形で次代を生んでいくだろう。桃果亡き後に晶馬がその倫理を担ったように、晶馬亡きには萃果こそが、誰かを想ってその桃果-晶馬的倫理を継承することだろう。

 かくして、「どうせ死んじゃうのに何で生きているんだろう」というかつてウテナで問われた問いには、項答えるべきであるだろう。即ち、誰かに手を差し伸べることができるのだからこそ、我々はときに「かわりがきくこと」に絶望しても生きることができたし、「かけがえのなさ」に押しつぶされそうになっても生きることができる、と答えるべきなのだろう。そう思われたところである。(※12/15追記)

 

(2)陽毬の位置


(2-1)疑問点


 以上が、私がまとめた限りにおける籠原スナヲさんの『ピンドラ』論のパラフレーズとなる。

 一方で、若干の疑問とともに、この論を更に拡張することが可能だと思われるので、以下、感想めいた私見を述べていきたい。

 具体的には、物語が回る中心軸に置かれ、かつ、最終的に(人間の形をとって)救われることとなったのは、一見したところ萃果と陽毬であり、決して星々の間をペンギンたちと共に縫うように進む冠葉ではないという点に、疑問の中心がある。

(※勿論、籠原さんが冒頭で述べていたように)敢えて主人公たちの思考を逃れる存在へと着眼したというのは、幾原監督の問題意識をかくも明確に抽出しえた点において、正しい方法だと考える。

 一方で、冠葉についての分析の途中で萃果に寄る運命の乗り換えの呪文の話題を提示しなければならず、冠葉を主眼とした救済ではない場面で彼の救済の話をしなければならなくなった点など、冠葉に着目しすぎることで、一部理路の迂遠さがあったようにも思えたところである。
 無論、上述の籠原さんのロジックが、このような些末な指摘で揺るがされることはありえないし、そう主張するつもりも毛頭ない。むしろ、この指摘の主眼は、陽毬を中心に据えたときに籠原さんのロジックがうまく機能した可能性を捉える検討をしてみたいという点にある。

 ということで、以下は、籠原さんの思考に触発された所感としてご理解いただきたい。


(2-2)一度死んだ者たる陽毬の位置


 ここで、陽毬に着眼する理由は以下のとおりである。

a.) 本作で(桃果の身体が象徴的に分かたれた)ペンギン帽が辿り着いたのは陽毬であり、その陽毬はプリンセス・オブ・クリスタルとして顕現している。その彼女は、周りの冠葉や晶馬に対して「ピングドラムを探せ」という内容空疎な命令を与え、この無内容な命令が本作の物語を駆動させていたとみることは容易に見ることができるだろう。
 つまり、陽毬というのは、もともとそこで(「かけがえのなさ」の呪縛に耐え、「代わりがきく」ことの不毛さを噛み締めることで)冠葉たちが諦めることもできた、避けようもない運命の回避を「してはならない」と促し、運命への抗いを方向付けた起点となる存在であり、その後も、継続してその抵抗を嗾け続ける不在の中心でもあることが、着目を誘う理由の一つ目としてあげられる。つまり、「かけがえのなさ」「かわりがきくこと」が主題化されるためにも、陽毬の存在が不可欠であったのではないか、というのが、第一の点だ。

b.) 加えて、第二に、陽毬に結びつけられた死への近接性という彼女の生に課された条件がある。
 陽毬は、第一話冒頭から死に瀕しており、事実、第一話で死亡してしまう。その後初恋のように「一度しか効かない」奇跡によって生き存えたに過ぎない脆弱な存在だ。その死は、いかに眞悧が冠葉を釣り上げるために、薬や金と言った(一見したところ”量的に”越えられるかにみえるだろう)物理的リソースによって陽毬の命が買えるように偽装したところで、避けようもない事実として現れる。(※下記補足)
 つまり、彼女は、放っておいて、その日暮らしで生きることによってさえ避けることのできない、忘却されてきた死を突きつける存在として現れる。そうして、陽毬とっての「かけがえのなさ」の苦しみと「代わりがきく」ことの苦しみというのは、第一話の死によって、既に一旦はどちらも通り過ぎられた贅沢品として現れているのではないかというのが、第二の点である。

(※死というのは、典型的にかけがえがない(固有の死である)のに、万人にとりさけようもないありふれた(死亡という)事態としても解釈されるというのが、この理由である。)

 

 それゆえに、現実世界におけるコミュニケーションとしての「かけがえのなさ」と「代わりがきく」ことの調和という以上の問題を、陽毬は抱えているように思われたところである。冠葉たちのような両極端の間で悩むものたちの苦悩を、一旦通り過ぎたものとして、陽毬は、再度この「かけがえのなさ」と「代わりがきく」ことを獲得しなければならない者として現れているといえるように思われた。
 陽毬にとって、生というのは(表面上は楽しそうに振る舞うが、)酷く退屈なものとして、かつ、来るべき死というのも避けられないものとして現れる。そのため、陽毬の主観からすると、ただただ日々が平板に過ぎ去っていくようにも感じられるような描写が時折挟まる。陽毬は「代わりがきく」ことにも「かけがえがない」ことにも飽き、そして諦めているように見受けられるのだ。(※ここらへんの描写は幾原監督も執筆者として加わっている小説版のほうが詳しいかもしれないが、やはり措いておこうとおもう。)

 再度、問いの形にすればこうだ。人が既に死に直面したのに、それでもなお「かけがえがない」とどうしていえるのか、それでいて「代わりがきく」とは言い切れない生を生かされていることをどう評価すればよいのか? 更には、上記1-3で先述した「愛してる」との言葉との関係で言えば、既にこの現在という瞬間で言えば「愛されている」者でさえ、時間的な、次の瞬間には、かつてのように再度「代わりがきく」ことと「かけがえのない」ことの狭間に陥れられてしまうのではないだろうか?この悲劇を、いかにして回避すればよいのだろうか? このような問いへと、結びつくところだろう。


(※補足: 冠葉というのは、そういう意味では、高倉剣山の反復として現れていたともいえる。彼らはともに、誰もが「代わりがきく」世界、あるいは、必然ではないのに陽毬が死んでしまう世界に絶望し、自らの手で「かけがえない」ものを護るしかないと判断した者として現れるだろう。そういう意味で、冠葉は、子供たちから未来と多様性を奪い、「代わりがきく」ものとして固定してしまうブロイラーに、果敢に抗ったかつての剣山によく似ている。「嵐が過ぎるのを待っていては大切なものを護れない」と高倉剣山は冠葉に教えていたが、一方で、この道徳命題に駆られ、眞悧に利用され尽くされた者として、冠葉は剣山同様に追い込まれていったとも言えるだろう。だからこそ、彼の救いというのは、世界に新たな人間としての生が用意されることではなく、自己の消尽という形でしかありえなかったのだろうか。)


2-3、系譜学的遡行という倫理


 こうしてみると、陽毬という、死を経た後に再度上記狭間へと陥れられた存在、声なき不具者の口を伝って出る「生存戦略ー!」という言葉には、桃果的倫理が提示した両義性を超え出る倫理の余地があるとはいえないか。

 陽毬という死に近接した存在に着目することで、運命に振り回される生ではなく、運命を新たに作り出す契機が見出されうるのではないだろうか、とここでは開いた問いの形で、問いを提示しておきたい。

 仮説を述べるならこうである。

 プリンセス・オブ・クリスタルという(桃果という倫理から発した)幽霊的な口伝師は、このような両義性の狭間で諦念に満ちた陽毬の生を、陽毬のためを思う者達を生を通じて生きるに値する生に仕立て上げる仕方を、一周巡って辿り着いた第24話において教えていたのではなかろうか。
 この見立てに従えば、おそらくは、陽毬が「運命」という言葉を、作中のキャラクターの中で唯一途中で評価しなおし、そうしてはじめて「好き」になることができたというのは偶然のことではない。24話においては、もはやそこに兄もいなければペンギンもいない。しかし、陽毬にとっての「運命」というのは、24話に至り、かつて自分を苦しめた外在的に自分たちの外にあるものから、今や不在のものたち(冠葉や晶馬、かつて友達になったときの萃果やペンギンたち etc…)と一緒に生きられたという(記憶なき)記憶によって繋ぎ止められている生に内在した別様に生きうる契機のことを意味するだろうからだ。この段階の陽毬にとって、「運命」とは、苦しみを与える環境条件ではなく、自らを生かしつつある全てのものへの想像の別名に他ならない。

 こうしてみれば、むしろ、24話、最後の場面で冠葉と晶馬のような少年たちが、第一話の少年たちの会話を反復していたことには、次の様な意味があるだろう。つまり、もともと第一話で、冠葉と晶馬は、高倉家とは何らの関係のない少年たちを、自らが彼らの様な形で生を繋いだかもしれない歴史へと開き、(第一話の段階から)彼らのように生きるようにと促され、そのことを「愛する」ことができるようにと自分自身を開かなければならなかった、というように。勿論、視聴者も同様である。視聴者は、第一話の少年たちの会話が冠葉と晶馬の形をとって現れたときに、第一話の段階からその声をきくべきだったことに、その声を聞き逃したことに、おののき、次いでその声に耳を傾けるべきだったことに気づかねばならなかった。

 つまり、そこでの倫理というのは、任意の子供を見たときに、いるはずがない自分の(血のつながりさえない)兄妹を見出すということに他ならないのではなかろうか。

 勿論、この思考方法は、妄想と殆ど区別がつかない。しかし、その錯誤めいた想像こそが、この生を、現実の因果・現実の運命を辿れば決して繋がりを見出せないにもかかわらず、繋がってたかもしれない別の生へと触れることを可能にしてくれるかもしれない。反対に、そのような錯誤なしには、現実のコミュニケーション上の他者とは看做されてこなかったもの、典型的には、今や不在のもの、もはや不在のものへと触れることは、これからも叶わないままに留まるだろう。

 運命をたどれば「かけがえがない」(自分たちでしかありえない)にもかかわらず、「代わりがきく」(自分たちではなかったかもしれない)歴史を見出すこと。これこそが、系譜学的遡行そのものであるような倫理と、この私見で述べたいところのものであり、本稿の拡張として行き着くべき倫理のように思えたところである。
  

 

(3)倫理を時間に開く

 

 コミュニケーションとしての「かけがえのなさ」「代わりがきくこと」という対は、こうして陽毬において時間に開かれる。運命というのもまた、人を規定する環境といった空間的な外なるイメージから脱し、時間的な持続とうねりの中で把握されるあらゆる主体が生まれ出る場として把握されることになるだろう。
 「かけがえのなさ」と「代わりがきくこと」は、時間的な運命の混和、時間的に忘れられてしまった別の因果への想像、あるいは時間的に重なり合った重畳的な生を生きることの中から発する、生の二つのタイプである。だとすれば、人はそのタイプを互い違いにすりあわせることに加え、その源泉へと遡行することによって、その二つが分かたれる前の「ありえただろう可能的生」を、陽毬のように(何を忘れたのかすら定かではない中で)「ずっと忘れない」と涙を流し、覗き見る必要がある。
(※籠原さんの洞察を踏まえるならば、)上述の倫理が、幾原監督が示そうとしたもう一つの「かけがえのなさ」と「代わりがきくこと」の重ね合わせとはいえないか。

 こう問いを提示して、籠原さんの『ピンドラ』論の紹介と私見を終えることとしたい。
 

 

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2、tacker10
 不純なるものたち--- 『輪るピングドラム』が描く彼方
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

 

ということで長くなったので、次記事に移動しました

 

 

 

【次回予告】

 

3、sssafff+Nag
 ほどけた輪の先--- 運命の果実を一緒に作る
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

(1)透明性への抵抗
(2)果実の作り上げ
(3)現実ならざる秘密への視線


4、3つの評論から見える諸倫理

(1)Q1.) その倫理は、誰へ向けられたものか?
(2)Q2.) その倫理は、どのような手法によって接近すべきものか?
(3)Q3.) その倫理は、いつ貫徹されるのか?

 

 

 

【※12/13時点での予告 : tacker10さん評論の紹介】

 tacker10さんの論は『輪るピングドラム』を題材に、ラマールらを引きながらアニメを分析する批評の方法まで論じる、射程の広い論考となっています。詳しくは、彼の「仮想的身体論」(継続中)を見ていただくのが速いかも手っ取り早いかもしれないですが、単純化され、純粋化された経験としてあるアニメ体験に至る認知的過程を遡行することによって、人が動かされるという経験を論じる方向に向かう重厚な批評となっています。
 本作、『輪るピングドラム』との関連で、籠原さんが提示した「交換可能性/交換不可能性」(萃果+冠葉)という対を引き継いで言うなら、それに検討対象としての眞悧を加え、「近代/ポストモダンポストコロニアル」(萃果/陽毬/眞悧)という軸に置き換えつつ、これらの軸の終わりなき抗争に陥らない「不純なる歴史そのもの」という位相の抽出を行おうとするものとなっています。
 つまり、籠原さんの論も、「交換可能」と「交換不可能」という極のいずれかという既存選択肢から選択することの出口の無さを指摘していたと思うのですが、tacker10さんの論ではそれが「純粋性」、「二者択一性」の忌避としてテーマ化されているといえます。(そこでの例としては、和歌研究における「女手」概念等にも拡張されるのですが、とりあえずは詳述しません)
 その過程で取り出されるのが、純粋性へ対置された「不純性」の追及と分析という方向です。本作『輪るピングドラム』で提示される「運命の乗り換え」というのは、純粋性への欲望によって収束されてしまいがちな運命を、分岐・分散させる機構として再解釈され、「身体か文字か」、「近代かポストモダンか」といった択一的な問いを退け、その横向き/奥への運動といった現存する多層的諸構造の分析へと向かうようにと、視聴者を促す余地がみられる。そう主張されることでしょう。
 まとめです。tacker10さんの論の一部を捩って言えば、「テクストがテクストであるための必要な両義性」を視ることなしには、人は「自らを語りだすこと」は決してできないままにとどまるでしょう。反対にこの構造分析の貫徹は、分析途上であるためにまだ先であるかもしれないでしょうが、分析なしには人は自己を省みることができないのだからそこへと人は挑まねばならない。そういう決意に満ちた詳論となっています。

 『ピングドラム』と「仮想的身体論」、どちらの関心からでも入れる間口の広い評論ですので、是非、視てみてください。

 tacker10さん原稿につき、紙の形で欲しい方はCOMIC ZINへ、とりあえずPDFでも何でもいいので読んでみたいという人は個別に @nag_nay まで、ご相談ください。

 



アニメ『四月は君の嘘』第四話カットについて:追い抜かれる視線(1)

 

 本作『四月は君の嘘』についての細かな導入や説明は、公式サイトも原作漫画もwikiもありますし、おそらく別の方が詳しくやってくれてると思うので、ばっさり省きます。

 ここでは、『四月は君の嘘』第四話の弾き直し後の演奏シーン、とりわけ、宮園かをりの「アゲイン」の後のふたりの演奏シーンについて、若干の検討をしたいとおもいます。

 曲目は、サンサーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」。その152小節以降最後までのわずか4分にも満たない演奏シーンに限って、今回の検討の俎上にあげます。

 これを書いたときの筆者の疑問としては「音楽アニメにおけるカットはどう割られているのだろう?他の割り方と違うのだろうか?」という素人めいた疑問がありました。とはいえ、楽曲分析もしたことないのでお恥ずかしい限りですが、上記疑問に発した視聴雑感として、お目汚しお許しいただければ幸いです。

 

※ 参考にした録画映像の都合上、「アゲイン」後の弾き始めを00:00:54として、終わりを00:04:44として、秒数を数えています。各自の録画で見る際には、-54秒するなりして、調整を図ってください。

※ なお「そもそもこの曲よく知らないんだが…」という方は、1955年 オイストラフの手になるものがお勧めです。 

 

 

1、進行とカット

 

 

(1)宮園かをり 単独での演奏部分 00:00:54 - 00:02:09

 

一旦演奏を取りやめた公生に続いてかをりも演奏を一旦止めた後、「アゲイン」と言って公生についてくるようにと述べ、152節、副主題Dのヴァイオリンパートから再度弾き始めるシークエンス。その後、公生の回想シーンが挿入される。

(00:00:54)

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※ ちなみに副主題Dとはこの箇所から始まる箇所。

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以下では、観客側のカットと、公生・かをりのカットが交互に挿入されていく。そこでは、観客側のカットが挿入されるタイミングと、公生・かをりのカットが入るタイミングの違いについて着目したい。

本節における仮説としては、

1、観客側のカットが挿入されるのは連続した音の切れ目である。旋律とともにカットを区切ろうとするなら、音の切れ目の直前(眼=視覚による処理は若干遅れるため)に置くのが最も自然に思える。そのため、おそらく観客側のカットのシーンで違和感を覚える人はすくないだろう、

2、これに対して、公生とかをりのカットが挿入されるのは、フレーズ・パッセージの中である、

というものだ。

 

 

具体的に見ていこう。

まずは、公生がいまだ伴奏を弾くことができず、かをりの演奏を追うことしかできないカット。

(00:01:00)

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ここでのカットは、上に貼った副主題Dの直後、スラーで繋がっている「ラ♭」の直後に置かれる。ちょっと不思議な感じがする。公生の驚きをそのまま示した様な挿入箇所になっている。155小節。

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続いて、そのかをりが再度弾き始めた様子を半ば呆然と眺めるカット

(00:01:04)

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挿入箇所は、「ファソファミレ…」の二個目の「ファ」の位置。なんでこんな箇所にカットが入るのだろう?という違和感を初見で感じた。(そしてここから本稿を書く動機が生まれた。)(157小節。)

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観客側へと移り変わる場面ではこれらと異なる。たとえば、椿アップのカット。

(00:01:08)

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次いでなされる会話に至る溜めの意味から、二度目となる副旋律D冒頭部「ミミファソファミレ…」のフレーズ前に置かれたものと考えられる。(160小節)

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より典型的なのが、舞台俯瞰カット。

(00:01:34)

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挿入箇所は、「ミソ♯シレミ…」と音が流れる箇所の直前。同フレーズが二度目の登場であることもあって、ここでカットが区切れると安心な感じがする。俯瞰から一定のリズムを先んじて取る観客目線が表れてる感じ。(176小節)

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そこから再度、公生のカットへ戻り、回想シーンへと入っていくという流れ。(00:01:39)

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ここは微妙なとこだけど、作中でかをりが「ミ」の連続箇所を(あたかもタイ記号でも存在するかのように)繋げて弾いているところから、広い意味で中に置かれているといえるだろう。(178小節)

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上述した違いを、ひとまずは、手前から観る側真横で聴く側の違いとして提示してみてはどうだろうか、というのが、最初に本作『四月は君の嘘』第四話の上記演奏シーンを観たときに感じたところ。

つまり、手前にいる観客側としては、ある種のテンポに沿って観ざるをえないという事態を観客カットの連続は提示している。セリフ回しと関連づけて言えば、観客はコンクールの規範に沿って二人の演奏を観ている。そのために「じゃあなんであの子はまだ弾くの?」という発言や、「かをりちゃんをひとりで弾かせるのかよ」という発言などが当然のように飛び出してくる。これらの発言はそういう俯瞰的な視点を先取りしようとする手前性の表れなのではないだろうか。

翻って、これと対照的に公生は、かをりの音にこれから触発されなければならない者として置かれている。そのため、この段階における公生にとっての音は、観客的な規範的視線とはズレ、遅れて届かなければならなかった。これがカットとして、音のさなかに置かれた公生の気づきのカットとして表されているのではないだろうか。

 

 

ちなみに、このズレが一旦収まる(同期する)のが、ホワイトアウトからの公生の回想シーンにいたるカットである。かをりのヴァイオリンでいえば、下記に示した譜面の箇所のとおり、激しい上下音階の始まる直前の箇所にあたる。

(00:01:43)

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ホワイトアウトでの溜めが入っての回想カットへの移行。この箇所の激しいパッセージは、公生が急き立てられるように回想を重ねて行くことと、軸を一つにしているようにみえる。(182小節)

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(2)公生弾き始めから音を引き出すまで 00:02:10 - 00:02:47

 

さて、公生が弾き始め、自身の中から音を取り出すまでのシークエンス。

(00:02:01)

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譜面では、三度繰り返された最後の「ミソ♯シレ♯ミ…」のフレーズにおけるレの音のときに最初に挙げた目を瞑った公生のカットが入り、直後公生はかをりを見る。これは、一度目の「ミソ♯シレミ…」のフレーズ時、回想で「私を見て」の言葉がおかれていたように、繰り返しを見過ごさないということの表れだろうか。

そうして公生は、上記三度目の「ミソ♯シレ♯ミ…」のフレーズにおいて、ようやく光差すかをりに目を向けるに至る。ここまで若干1.5秒。(193-194小節)

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そうしてはっとした公生の顔のアップ

(00:02:05)

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ここでもパッセージの真ん中に、公生のカットが挿入されている。つまり、このパッセージでは既に音階が降りてきているにもかかわらず、ねじ込むように、公生のカットが挿入されている。しかし、このねじこみも、流れ上は自然に思える。というのも、公生の急き立てられつつ「飛び込め」というセリフと、奇妙にも即応しているといえるためだ。(196小節)

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(00:02:08)

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(00:02:10)

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 楽譜冒頭「ミ」の箇所で、公生が曲に割って入るカット。本作では「ミ」の音が表現上伸ばされていることから、カットは直前という訳でもなく、音とほぼ同時にカットが入り込んだ印象を受ける。その上で、曲の主題Aの回帰とともに、公生は鍵盤をぎこちなく弾きはじめる。(199小節)

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公生の「飛び込み」に気づき、これに応じるかをり。とはいえ、ここにいたってもなお、(公生ではなく)かをりの弾き始めにあわせたカットが採用されている。つまり、この段階では、かをりの主導権は揺らいでいない。

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カットは、主題A冒頭反復の直前。かをり主導の安定感が示される。(207小節)

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ここから先、一部小節が省略されている(というか公生の主観時間が早回しになっていることと、彼の耳の特殊性のため、表現としての音には表れていない)。

その後、彼が譜面も音も見ないことによって、ようやくかをりと目をあわせることができるようになるという場面へと繋がっていくところまで、回想シーンが続く。

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(3)かをりと公生の役割転換 00:02:48 - 00:03:01

 

 

さて、00:02:28まできて、ようやく、かをりと公生のカット上の位置が反転するに至る。つまり、公生がかをりに先行する形で、音を引き連れるようにカットが振られていく。

まず、ヴァイオリンが先行するはずの「ドドレドララシラ…」のフレーズの直前、前のフレーズの位置で、公生のカットが挿入される。既にこの時点で、公生が次のかをりの音を準備していることがわかる。

(00:02:48 - 00:02:50)

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譜面で言うと、冒頭「ファ」の音からカットが入る。上記のとおり、254小節までが意図的に削除されていた編集の都合から考えれば、この「ファ」の音は、公生の伴奏を先行させ、際立たせるために残された音と評価すべきだろう。二つ目のスクショは、公生の音の変化に気づくかをりのカットである。そして、そのカットの直後、更に公生の演奏箇所が挿入される。相互の音のかけあい(後にいう「殴り合い」)が、ここに現れはじめている。(255小節)

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次いで来るカットが、公生に中心化された諸カットの連鎖。公生の眼はこの時点では(肯定的な意味で)何も見ていない。

(00:02:52 - 00:02:55)

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カットのタイミングを見ると、「ファ」音の始まりとほぼ同時に、公生とかをりの二人が含まれるカットが入る。かをり主導であれば第一のカットは、「ファ」音の直前に挿入されるべきであった。しかし、ほぼ同時に挿入されるこのカットにおいては、いまや(主題でも副主題でもなんでもない)公生の末尾の音をにおわせる機能をもっているかのように聴こえる。

次のカットも同様である。「ソ」音に若干遅れるカット挿入が入ることで、公生の周りを回る様なカメラの動きと共に、公生(とりわけその眼)へと収斂するカット割りがなされているといえよう。(257小節)

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(4)「殴り合い」 00:03:02 - 00:03:52

 

 

ここから、一部、俯瞰を挟んでの長めの公生のカット。

(00:03:02)

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その後、アルペジオが強調される形で、それに併せてカットが挿入される。

(00:03:14)

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アルペジオ的箇所はつぎのとおり。(275小節)

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これに苦言を呈するように、割って入るかをり。自分へ目を向けるようにと目線で促している。

(00:03:18)

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「ソファ♯ファ♯ドラファ」の三つ目の「ファ♯」音でのカット。これも本来ならば入るべきではないパッセージ途中からの、かをりの強引な入り込みといえる。

もちろんこの箇所については、「こらこら、友人A」のセリフを入れるためでもあるのだろうけれど。(278小節)

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満を持しての、公生による同パッセージの掛け合いの箇所。

(00:03:21)

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「ミソ♯シミシソ」冒頭の「ミ」の直前に、公生の上記カットが挿入される。(281小節)

そして公生のパッセージの終わりを若干先取りするように、「主役を喰おうとするんじゃないわよ」とのかをりのカットが挿入される。音と同期する形で完璧にカットが挿入されている公生に対して、ここでのかをりは後手に回っている。(282小節)

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そこからの公生の主題Aの伴奏。いくぶんか余裕をもってはいるようではあるが、公生のカット挿入のための安定した入りの範囲内といえる。ここからのヴァイオリンの分散和音による二人の「殴り合い」が表現されるだろう。

※ちなみに作中では「殴り合い」に「会場(観客)が飲み込まれていく」と形容されている。

この「飲み込み」は割と長く30秒ほど続けられる。

(00:03:27)

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(5)カデンツァ 00:03:53 - 00:04:05

 

 

かをりによる、各音を大きく引き延ばしたカデンツァ。そしてカデンツァ末尾の箇所で、公生を待つかのようにしてカットは俯瞰へと移動していく。

(00:03:53)

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二人の殴り合いはこうして、会場全体の俯瞰へと繋がっていく。ここにあらわれているように、もはや、観客も、ただ規範的に観るだけの立ち位置をずらされているといえよう。ここでもカットとの対応関係は見出される。観客をゆったりと引き込むかのような余裕をもって、カットが先回りしてくれているためだ。

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(6)転調 00:04:06 - 00:04:19

 

 

上記俯瞰がそのまま繋がってイ長調への転調。アレグロ。

転調箇所で、上記(5)におけるカデンツァ箇所とのショットを区切らなかったのは、極めて興味深い。もはや観客も、上記楽曲上の規範的な区切りを受け入れていないということを示しているのだろうと推察される。

(00:04:06)

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ということで明らかに、”音楽的には” 区切れているのに、カットとしての区切りがないため、譜面を見ても特に照合するところはないのですが、一応譜面を示しておきます。

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ここからはテンポ的には落ち着いたカットが続く。

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(7)終局 00:04:20 - 00:04:42

 

 

目線が音楽に合わせて振られていく。

(00:04:20)

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(00:04:21)

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(00:04:22)

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(00:04:23)

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(00:04:25)

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(00:04:28)

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不憫な子もいますが…。

 

さて、そこから、クライマックス。加速しつつも、十分に前に置かれているカット。

カットの先後関係と持続に着目する限りは、特段の解説不要と思われます。

(00:04:30)

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ということで、カットの時間と先後関係についてのみ絞って追ってみました。

 

以下検討しようと思ってたのですが、若干長くなったので、次回以降に譲って、一旦切ります。

 

 

※ 12/5 昼 追記:(a)「速度」について

 『四月は君の嘘』第四話からは、「速度」のブレをとても強く感じました。しかし、立ち止まって考えると少しおかしいのは、この第四話って殆どキャラクターが動いていないので、本来は「速度」を感じられないのではないか、ということです。では、なぜ動いてないキャラクターから強烈に「速度」を感じることができたかというと、やはりこの話では音楽が視聴の速度・期待を決定しているからだと思うところです。

 通常、空間的にものが移動するのをみるときには、あまりそこに時間を意識することはないと思います。つまり、空間的な移動は、それ自体としては無時間的な速度経験であったって別に構わないように思えます(フッサールから、別方面からではベルグソンからも怒られそうだけど、とりあえず)。しかし、敢えて言い切ってしまえば、運動は必ずしも時間を要請しないのではないか、というか、運動の瞬間は任意の時点でよいものとしてあり、運動そのものはいつだっていいものとしてあるのではないかとも思われます。要するに、運動だけを取り出した場合には、今顕在化しない運動というのは成り立つ気がするところです。

 いいかえれば、視線の揺れを強調する運動把握の場合には、やはり運動することの方が例外(特に超自然的な動きは例外)であって、動かなさの方が自然ではあるように思われるところです。(運動はいつか終わりを迎えなければならない)

 けれど音楽を聴くという体験においては、時間が流れないということはありえない気がします。いまにおいて顕在化しない音楽は音楽ではない。音楽を聴く場合には、流れがとどめられた瞬間に、強烈な違和感に襲われる。いわば、音楽が始まった瞬間に、人は神経症になるというか。

 だからこそ、第四話の公生の目線カット一つで、視聴者にとっては、彼のテンポの遅れや焦りが一つ一つ目につくようになる。第四話の演奏シーンにおいて、視聴者は常に音楽によって身体を揺らされているので、その揺れと同期しない非運動に対しても自動的に敏感にさせられてしまう。外部から見たら不動なのにもかかわらず、内部的には動いているリズムを生きてしまうことで、(運動の比喩を用いるならば)全てが動いていなければならないように身体が調教されるというか、そんな感じ。

 だからこそ、「アゲイン」に繋がりやすいというか、そういうことも思ったんだけど、なんでだったっけ?忘れてしまった。(もしかしたらノイズミュージックとかも関係あるのかなぁ)

 あいまいな感じですが、こういうことを次回以降で考えたかったんだよな、ということの備忘のために付けくわえておきます。

 

 

とりあえず、現状装丁している次回(2)の内容予告だけ。 

【予告】 

2、カットについての検討

(1)カットの提示比較---2012年『坂道のアポロン』第7話

(2)音楽漫画のコマのカット化

(3)譜面の価値についての所見

(4)音楽アニメにおける速度表現について

3、おわりに

 

 

以上です。 

 

※ 楽譜は手元にあるのは日本楽譜出版社の紙版で切り取りが大変だったので、ISMLP04173から一部使わせていただきました。

第19回文フリでの頒布物より(3)小説---艦これトリビュート、Liminality、しあわせはっぴーにゃんこなどなど #bunfree

第19回文フリでの頒布物で頂いてきたものから、小説を幾つかご紹介。

 1: 艦これトリビュート、

 2: METEOR EP、

 3: しあわせはっぴーにゃんこ、

 4: Liminality、

 5: ゆりくらふと2、

 6: 甘受の才能

まで読み終えました。12/4追加。
 

 

1、艦隊これくしょんトリビュート 京都大学SF・幻想文学研究会(KUSFA)編

 

 京大SF・幻想文学研究会の艦これ二次創作集。艦これSSとしても、史実に基づく歴史ものとしても、SFとしても、圧倒的なクオリティの高さに驚く。その裏付けあっての艦これの設定や状況への着地が巧みで、これは他の頒布会で入手できるのであれば、何を差し置いても読むべき一冊。
 一つ、例を挙げる。例えば、里野サトさん著「わが愛しき艦娘たちよ」では、意識・記憶の概念についてこんなやり取りが続く。
 「記憶は意識よりももっと根源的な現象なんだ。人間には意識があるが、物には意識はない。だが記憶は物にも人間にも等しく備わっている。記憶を記録メディア、意識をその最盛期に喩えてみると判りやすい。もしこの世から最盛期が無くなっても、記録メディアは変わらず残っていて、その中には再生されるべき上方が眠っている。人間というのは言ってみれば最盛期の中の記録メディア、物というのは最盛期を持たない単独の記録メディアだ。普通の最盛期と記録メディアの関係と違うのは、人間ってのは最盛期全体がそのまま記録メディアになっていて、記録メディアだけ取り外して他で再生することができないってところか。もっと正確にいえば、人間というのは進化の過程で自らを再試する機能を獲得した記録メディアに過ぎない…(中略)…人間にとって戦争は遠い過去の出来事に過ぎないが、物にとってはそうじゃない。過去を現在から分かつことで記憶から距離を獲ることができる人間とは違って、物にとって記憶はいつまでも現在に留まり続ける。”奴ら”を戦いに駆り立てるのは、永遠の現在の厚みを持つ歴史の中で、今も繰り広げられている戦争そのものだ」。
 人であり艦船でもある艦娘たちと人間である提督が集う鎮守府という場に、このような意識の概念が持ち込まれることで何が起こるか。そこで提起されるのは、鎮守府とは物の意識を人に植え付けることで、人を物化し、その数々の物のヴァリエーションに人が落ち込んでいく物語として現れるという問題状況だろう。だからこそ「君は君自身に値するか?」という問いは、半物・反人間の艦娘においてこそ、愛憎半ばするシビアな問いであり、希望の言葉として与えられることになるのだ。
 このような重厚な裏付けが、『艦これ』という物語をより苦しく、辛いものとしながら、しかしより愛おしいものに変えてくれることは間違いないし、その力が本書の随所に感じられる。京大SF・幻想文学研で出されているものは、過去分も含めてとてもよいのが多いので(百合特集号とか特に)、ぜひ今後頒布されているところで見かけたら考えるよりも前に購入をお勧めしたい。(※勿論、自分はKUSFAとは何の関係もない単なる一ファンです。)
 今回の『艦これトリビュート』もまた通しで読んで、どれも面白かったが、特に里野サトさん「わが愛しき艦娘たちよ」、谷林守さん「忘れられた船」、船戸一人さん「娘の魂に安らぎあれ」がよかったので、少しだけご紹介。
 (春眠蛙さんの二編、坂永雄一さんのも捨て難かったところですが…)

※以下、著者名等について敬称略とさせていただきます。


(1)里野サト「わが愛しき艦娘たちよ」

 曙と潮を中心とした、現在と過去、意識と記憶にまつわるエピソードを紐解きながら、人が自身を物のように扱わざるをえなくなる状況としての鎮守府という、暗く、出口のない、しかしそこにも胎内する愛情を繊細に描く物語。百合あり、(隠れた)家族愛あり、思春期的苛立ちあり。物語構成も極めて緻密でありつつ、(蔓延する不安の裏返しではあるという皮肉も交えつつ)軽妙な会話のテンポやさりげない引用も相まって、読みやすさも損なっていない。これぞ艦これSSのお手本にしたいという風情の小説。ぜひ他も読んでみたい。
 内容について触れるのはとても勿体ないので、読者にはぜひ、既に引用した意識と記憶にまつわるエピソードを念頭において、読み進めていってほしいとおもう。読後感だけをにおわせておけば、曙の暗鬱とした淡々と生きられただけの生が、自らの死・他なる死に出会うことで、他なる生のその視線によって「私として」生き延びることができるになるという希望を描ききっていて、辛くも暖かな心持ちにいたるはずだ。「私が私として生き続ける限り私と共に在り続ける」二つの生、過去(戦下)の曙の生と現在の曙の生が、ともにいくつもの死に囲まれつつも、別の愛によって彩られているという末尾の箇所では落涙を禁じえなかった。


(2)忘れられた船

 亡霊船と化した第五福竜丸を中心として、船自体の願いと深海棲艦と呼ばれる戦禍の残滓のような存在の両方に向けた鎮魂へと向けられている物語。
 現代から返り見られた「史実」のルポを行う主人公のもとに現れる、都市伝説めいた深海棲艦。彼女を通じて、物に宿った意識へ向き合う仕方が推移していく。「”それ”が、腕を伸ばし」、「彼に触れようとゆっくりと手を近づける」、その手に、人が手を伸ばす場面では身震いに駆られた。
 「史実」もまたその亡霊船のように、何も過去の手がかりがないところでなお、物に化体された記憶を(現在すら越えて)運ぶためにあるのではないか、そんな妄想とともに読了した。全体的に落ち着いたトーンで進めつつ、ふっと記憶の残滓を垣間見せる物語全体のテーマを思わせるさらっとした末尾も、よく合っている。


(3)娘の魂に安らぎあれ

 艦船と化した艦娘たちの自意識と幸福を巡る物語。ごく短いこともあって、概ね対話とその裏にある逡巡に悩む提督のゆれる視線を追うことで、物語が駆動される。あまりにも人間じみた、人間の意識を持つかのような艦娘たちに、提督の目線からではなく艦娘の目線の方から意識が芽生える様を記述していくその触れられなさに、決して縮めることのできない距離を感じ、かつ、それでいて親密な、幸福の届かなさが描写されていく。
 兵器としての純粋性、機械仕掛けの理想形と幸福との関係(いまでいうとロボット倫理とかに通じるのかもしれないけど、こういう話題)について、未だ自分は何も知らないのだなということに打ちのめされる小編でした。

 

 

2、Meteor EP 木野誠太郎さん著

 

 きのせい(木野誠太郎)さんの著で、「青空さんのメテオ」「天使二号」「無限鉄道の夜」からなる小説三編。文庫です。西野田さんの装丁がとても綺麗。飾りたいくらいです。

 まとまりを感じるのは「青空さんのメテオ」。学校という舞台を最大限活用して、逃避としての「妄想」から離脱し、日常へ再着陸する様子が、落ち着いた筆致で描かれていく。からっとした読後感。最も好きな箇所は、present day, present time を「過ごす」ためにも meteor day, meteor time を夢想することでしかやり「過ごせ」ない、という冒頭付近の物語の実質的な始まりの箇所。計87頁、すいすい読めました。

 個人的な好みで言えば「天使二号」。43頁と短かったのでもう少し続きが欲しい感じだったかもですが、そここそ読者側での妄想のしがいがあるとも感じるところ。具体的には、p.127「名前を覚えていてくれた」というセリフから展開される妄想がとまらない。全体を通じて世界観を端的に示して活用できてるのも好みなタイプ。

 

 

3、しあわせはっぴーにゃんこ はるしにゃん編


 はるしにゃん編の(概ね)小説集。どれもフィクションと呼んでいいのだとは思うけれど、(雑多でありつついて一貫している点があるとすれば、)生の避けようもない生きにくさと、それを(軽やかに?)越えていく「はっぴーにゃんこ」という名とともにある生へと振り向ける希望、そんな両者を一挙に捕まえようとする(?)点にあるのだろうか。
 こちらからは、全体のトーンを強く反映しているのではないかと思しき二つを紹介。はるしにゃんの「リトルネロの猫」とK坂ひえきさんの「泉こなたの亡骸に愛を込めて」。四流色夜空さん、教祖☆雨子さんのも好みでしたが、うまくまとめられませんでした。(ごめんなさい…)

※以下、著者名等について敬称略とさせていただきます。

 

(1)はるしにゃん「リトルネロの猫」

 最も判りやすいのは、編者であるはるしにゃんの「リトルネロの猫」。まず、いいタイトルだと思う。勿論、タイトルだけではない。本編は「しあわせ」という音の響きの連鎖から全てが発するのだ、ということに人を開く。これを示す印象的な一節としては次の箇所がある。
 「ただ「彼女に幸せになってほしい」と思っていた。独りよがりにそう思った。それから「彼女に幸せになってほしい」という塊から「彼女に」が剥落して、「しあわせになってほしい」となり、それから「なってほしい」というのも剥落していって、ただ「しあわせ」という言葉だけが残った。それだけが残留して心の中を循環的に舞った。それは錯誤でしかなかった。僕は亡霊に祈っている。僕は無に祈っているのだ。」
 勿論、「しあわせはっぴーにゃんこ」という語を連呼したところで、それによって世界が変わるというのではない。けれど、その語を繰り返すことで生まれるリズムには、おそらくは、世界へと、もう一度自らを開く、詩情めいたものがあるのだろう。そんなふうに感じて「しあわせ」と口ずさみたくなる、そんな一編。
 

(2)K坂ひえき「泉こなたの亡骸に愛を込めて」

 圧倒的に引き込まれたのが「泉こなたの亡骸に愛を込めて」。
 全体を通じてあるのはただ、『らき☆すた』の泉こなたへの愛を、どう止めることなく噴出させることもなく保つべきなのか(或いはそうではないのか)という、暗鬱とした苦しみの叙述である。何度も記述されるように、著者にとっての『らき☆すた』とは「真摯な出来事」であり、画面のこちら側からであれ「共に生活していた」、「主体的に誠実な」生であったのだ。これを、外面を取り繕うことや、逆に、外向けの表現一般に落としてしまうことは赦されないだろう。そこらにいる他者ではなく自己の問題、錯覚であろうとも一抹の(一切の)肯定をもたらす嵐として、泉こなたは記述されていく。
 それでもなお時間は過ぎる。あらゆるアニメが、『らき☆すた』の上に積層していく。そうして、もはや著者には、「泉こなた」という名しか思いだせない。しかしそれでもなお、泣き喚くことなく見ることができる。「愛と追悼を込めて」。
 それが、著者が殆ど動くことなく示す倫理の形である。

※なお、K坂ひえきさんには、本書所収の別稿「天使の位置」がある。そこでも同じく愛と信頼が問題とされている。

 

4、Liminality 小鳥遊さん著

 

 小鳥遊さんの小説。「幽霊」の存在を感じつつも、その避けられない距離についての心象風景とともに、古書店員の女の子と怪談趣味をもつ「先生」を中心とした日常生活を繊細に描いている。怪奇小説、として頁を繰るだけでも勿論面白いのだけど、本書の楽しみはそれだけというのでもない。

 本書では、この世ならざるものへの近づき方が、手を替え品を替え場面を替え、次々と淡々としかし着実に、折り重ねられるように提示されていく。

 読者は読み進めるごとに、まるで自分を呼ぶかのような不気味な声に取り憑かれる。しかる後に、「視える」ものと「視えない」もの、「恐れ」をもって幽霊に触れることと「恐れなし」に幽霊に触れること、「こちら」と「あちら」、そして時の流れなどなどといった、あらゆる境界線を跨ぎ越えるときの”構え”をもつようにと促されるだろう。そうして最後には「怪を暴かず。幽を見出さず」という言葉と共に、この本を閉じることになるはずだ。

 幽霊を取り込むことなく、乱さず、しかし触れようとする瞬間の切迫した気配にこそ、この本のぞくりとする怪奇の醍醐味が詰まっている。

「真実は今や骨となり、灰となり、風、或いは埃の中に紛れてしまっている」。

 冒頭にあるように「恐ろしさ」、「美しさ」、「哀しみ」。これらはどれもが、幽霊を視、幽霊に触れるときに携えていなければならない感覚だ。怪談を、「恐れ」を、単に楽しみの一つとして消費するのではなく、「恐れ」を携えて幽霊に触れようとしなければならない。その上でなお避けようもない「世界に線を引いた」、境界線の上で躍るかの様なその立ち居振る舞いにこそ、(あらゆる「主体」の以前に主体を動かす真犯人たる)幽霊とともにある生が浮かび上がる、のかもしれない。そんなことを思わされる一冊。

 読みやすくまとまりもよく、『艦これトリビュート』の次に気に入ってる文フリ調達小説です。

 

 

5、ゆりくらふと2 彩+省子+八月うまれ さん編


 全編13編に及ぶ百合総合誌。アニメレビューあり、百合小説あり、マンガあり、短歌ありの計232頁。(以下敬称略)

 アニメレビューは、百合アニメ総論と、『ガールフレンド(仮)』、『ヤマノススメ』、『さばげぶっ』、『悪魔のリドル』、『seletor infected wixoss』の五作品のレビュー。百合的に観る、というのを押し進めた熱のこもったレビューでした。『ヤマノススメ』の第13話の8分間の筆者の心の叫び集は是非一読されたい。

 小説からは、中野史子『petunia』と『まずは友達から』、あと『過去からのケーキ』をご紹介(ほか、『艦娘による永遠』)。
 まず、『petunia』は、本書に所収されている以上、百合作品なんだろうなぁ、と言う先入見をいい意味で崩しつつ(手汗のところか…)、淡い百合友情ものへとふんわり着地するという、本書冒頭に相応しい一編。まっすぐに後輩の恋路を応援しようとする「先輩」と彼女への憧れを抱く「わたし」が、別の恋愛事情を機に、自分たちに見合った距離とスピードを再度獲得していくところには、言葉に尽くせない清々しい読後感が残る。かつて芳文社『つぼみ』で連載してたようなさっぱり目の百合漫画の雰囲気だろうか。
 次に、『まずは友達から』は、記憶喪失にいたった「わたし」と、親友と名乗る少女との関係構築のお話。ネタバレをさけつついえば、「わたし」が、記憶が残っていた時代の自分に嫉妬する、自分が自分に焦がれ、焦り、関係の取り戻しに急いてしまうという描写の箇所が、最もお気に入りの箇所。自分と競うという描写って、なかなかにそそるものがある。
 『過去からのケーキ』は、自分の現在の同居人に送られた招待状を機に、同居人の過去の親友へと逢いにいくことから始まる。過去という褪せた関係と、親友という淡い距離感が、一見さばさばとした互いの関係が、招待状への答えによって現在において繋がれることで、色を取り戻す、という雰囲気。力強い同居人へのちりっとした焦燥や不安がよく現れている一編。

 漫画は『遅刻車両』と『dear signal』の二つ。どちらも触れずに触れるという距離を、たまたま一緒だった電車や生活に重ねて、未成年煙草や朝練という若い設定によって、とても丁寧に表していた。『遅刻列車』の高校五年目生のとぼけっぷりというかぬけっぷりが可愛い。

 短歌から、一つすごく好みなのがあったので抜粋。「眼鏡をとられてしまった夜 ぼんやり光る蜂の巣みたいな街灯り」。百合を前提に読むと、とっても…

 

 

 6、甘受の才能 かかり真魚 さん著

 

(うまくまとめることができずに申し訳ありません…)

 読んでいて、息苦しくなるような、真綿で絞められるような生の苦しみがよく伝わってくる…ただ生きるだけでのしかかる辛みがぼとぼとと滲んでくる…そんな短歌・俳句の数々と小説一つ。

 全体を占める雰囲気としては次の短歌がよく示しているように思えた。

「キリストがもし斜視なれば救わるる地点へ伸びる影のあざやか」

 小説においては、このリアルの生の救いのなさが更に強調されていた。学校という閉鎖空間において、教師から(二重の、三重の意味で)「お気に入り」=「目をかけられた」女生徒の苦しみが。好きなブルー・ブラックのボールペンも、お気に入りの薄黄色のノートも、生活のすべてを秘かに彩っていた薔薇のモチーフも、教師にその秘密が「見られている」という事実と記憶によってどす黒い感情に飲み込まれ、もう一度たりとも使えなくなる。とはいえ、他人から来る、優しさ・気持ちの悪さだけなら耐えられただろうに、それらへの迎合を自然になしてしまう自分を、遅かれ早かれ、彼女は何よりも唾棄すべきものとして捉えるに至るだろう。「お気に入り」はそうやって反復され、塗りつぶすのだ。そうして彼女の、他者と自己のすべてを否定・拒絶する意思と、「圧倒的なもの」とを希う祈りが、切々と綴られていく。それも、「圧倒的なものに殺されてみたい」という願いに向けて…。

 ずんと重い全体のトーンの下、短歌の中にはいくつか生活からそのまま転がり出たようなものもあって、あぁこれが本当の救いだなぁと感じ入ったので、一つだけご紹介。

「液化する朝をかさ増しさせているコーンフレークの砂糖 かなしい」

 勿論手放しで幸福が満ちあふれている訳ではないけど、この一編の短歌が数多の中にそっと置かれているだけで、あぁこの瞬間が著者にあったならば自分は少しだけ楽になれた、勝手ながらほっとした、と…恐らくこの同人誌を手に取ったならば同じように感じていただけるのではなかろうか。

 

 

第19回文フリでの頒布物より (2)写真集---廃墟探索部 『IMPRISNED』 #bunfree

今回は写真集は一個だけ。

 

廃墟探索部 稲葉渉さんの『IMPRISNED』


ruins

 

廃墟探索部さんの写真集は、軍艦島のとかサハリンのとか摩耶観光ホテルのも、どれもとてもよかったので是非。

委託販売もZINなどでやっている模様。

 

廃墟への憧憬がどこに由来するのか、どこに結びつくのかはまぁそのうち考えてみたいと思います。

いわゆる「遺骸」とかそういう概念にも勿論近いのだろうけれど。

とりあえず細部をただひたすらみて想像しているだけで時間が過ぎていく。

第19回文フリでの頒布物より (1) 批評・評論--- あじーる #bunfree

文フリ、お疲れさまでした。頒布されてた諸々を読んでいっているなかで、いくつか面白かったのでぼちぼち感想を。今後、追加分を上方に乗せていきます。

(ざっと書きなので、それは違うわな、という点などございましたら、ご指摘下さい)

 

 


1、『あじーる!特別号 〜そうかつ!〜』

 

 ということで、11/30本日分は、『あじーる!特別号 〜そうかつ!〜』。通しで読ませていただきました。

 「左右主義主張を越えた少数派の場」を掲げる本誌からには、現代における「アジール」の現出の仕方について諸々の提案がなされていましたが、特に、籠原スナヲさん、放蕩息子さん、永観堂雁琳さん(以下、敬称略)の論を興味深く拝読しましたので、少しだけまとめめいた感想まで。

 


(1)籠原スナヲ:なぜ「多党派性」は可能だったのか?

 

 「アジール」の系譜を遡り現代政治上に位置づけ直すことで、マイノリティを取り巻く「政治」の布置を分析し、新たな「アジール」の場を拓こうとする評論。
 
 本論によれば、「アジール」は統治権力の力の及ばない地域を意味するところ、その場は、①宗教的観念(/経済的事物)という軸と、②伝統(/現代的制度・国家)という軸によって分かたれる。しかし、この「アジール」の場は、ただ分割されるままに留まらない。それら諸アジールが行き交う場を可能にする外の場、つまり、諸アジールの結節を可能にする場こそが、多様性そのものを共存させる「アジール」として機能する。そのように筆者は分析している。

 読み進めれば判るように、本論は「アジール」という概念についての論を越えて、「政治」的なものの概念についての論へと接続されていく。
 曰く、アジールは、マイノリティを量的なものに加えて質的なものとして把握する。就中、マイノリティの右派的想定(内外区分)と左派的想定(上下区分)を可能にした ”上でなお”、その「マイノリティ」という複数の想定を並列的に配置していく。いわば、絶えず「マイノリティ」という名を複数の党派に共有させることで、その「マイノリティ」の名のもとに連帯している ”かのような” 場を拓く。
 加えて、アジールは、特定人への批判へ収斂する(人間的過ぎる)認識のみならず、人間を多元的に行き交わせる制度内在的なマイノリティ認識を可能にすることで、制度を動的な変容に晒し続ける起点を穿ち続けるだろう。

 つまるところ、アジール」が可能にするのは、党派性の概念を失って凝り固まった「非」党派性(の単一性)などではなく、その党派性を超克し続ける「多」党派性だ。反体制派と体制派の奇妙でありながら望ましい接続は、この多党派的アジールの場を透徹することによって作出されてきたし、これからもそうでありうるだろう。
(これをタイトルと併せて本稿の要約とすることができるかもしれない。)

 「政治」を語ることは、政治の主体といった虚構によって現実を限定することではない。政治を見出し、政治を作り出すとは、上述した「マイノリティ」のよって立つ布置を支えつつ、その布置を揺るがせにする「多」党派性の擁護と共にあり、そうあらざるをえない。冒頭で問いとして提起され、そして、最後の一節にある「政治について語ることを正しく政治的なものとする」ための振る舞いというのは、党派を失って自らを閉じた場にではなく、党派を探り当て、見出し、救い出すその挙作においてしか存立しえないためである。
 
※ なお蛇足ながら。一つだけ私見を述べれば、多数決批判が代表制批判に通じる場合にのみ受け入れ可能となるとする筆者のポジションは、同時に、代表制の枠内でどのような集約を果たしていくか、どのような声なき部分集団(のうちのどの部分)をカウントしていくか、という問いに取り組むことで、今後発展が予想される。というのも、質的マイノリティの想定をいかに経た上でも、今日この瞬間の決定が続いていく決定の連鎖の上では、誰をどのように(時間的・領域的・資源的制約の中で)数え上げるかという問題は、どこまでも避けられないままに残ってしまうためだ。
 つまるところ、各種「マイノリティ」の擁護を経たあとの(ある種の自己破壊的であり自己創出的である)修正された多数決システムとは、制度としていかなる形をとりうるものか?
 この問いが、本論を経た後に自分が検討に駆られた問いであった。

 


(2)放蕩息子:祈りについて

 

 何よりもまず驚くほど文体が洗練されている。そうして、文体だけで読ませる力があるということが示されるこの文そのものから、まず学ばれるべき散文の力=倫理の在処が示されているといっても過言ではない。

 本論は、大江健三郎の自選短編集に由来する「倫理」、「定義」、「祈り」の語を取り出し、そこから垣間見える暴力と一体たる「救済」を捉えようとする。
 そこで語られる「倫理」、すなわち「祈り」というのは、狂気を赦すということである。狂気を「飼育」(=「獲物」化)し、現実的なものに取り込んではならない。それは存在する狂気の忘却にすぎないためだ。「倫理」が在るとすれば、(例えば大江のいう「アグイー」と発音された)死んだ子の「言葉」を忘れることなしに、現実ならざる狂気のただ中において生きることにしか存しえない。そして、狂気と共にある生を貫徹するためには、この現在ならざる多数の時間、この現実ならざる多数の現実という別の狂気に、その身を委ねる必要があるのだろう。というのも、罪は(自らを害する)「他者」の側にではなく、どこまでも閉塞した「出口のない狂気」という不可避の厳然たる事実の中にあるためだ。いわば、自己の生に取り憑かざるえをえないあらゆる狂気を、人は罪付きの者として生きねばならない。

 かくして、狂気の閉塞から抜け出ることは叶わない(狂気の忘却を願ってはならない)のだから、狂気のただ中で狂気に触れ、それを赦さなければならない。だがそれはいかにしてか?

 その答えを本稿では、大江の「定義」に求めている。罪を贖うのは「狂気を否定しうる狂気」を措いて他にないのだし、そうした狂気の出口の無さに由来する狂気の行く先には、ただ「言葉」だけが在るからだ。
 勿論、その言葉は何度となく無に帰してしまうだろう。どこまでも深淵に落ちこんでしまうだろう。しかし、その言葉が無に帰す地点でこそ、狂気はなお「定義」を「足」がかりに歩み寄られうるだろう。その「足」を何度となく折ってなされる「祈り」の中でこそ、人は狂気へ向けて、新たな狂気に向けて超克されうるのである。

 「誰もが無意識に殴られ、誰もが自明の如く救済される」。そういう救済、暴力、散文の力と呼ぶべきものが、本論には賭けられている。「殺すにせよ救うにせよ」、その暴力の中からしか、狂気を否定する狂気、狂気を受け入れ赦しあう狂気は生まれない。つまり、救いは言葉・暴力と共にあり、その共在こそが救済をもたらす希望である。そう本論を言い換えることができるかもしれない。

 


(3)永観堂雁琳:物語と、形而上学と、
 
 ここ1世紀ほどの哲学史をトレースするかのように進む、思索と夢想、絶望と叛逆を手に「物語」を再興せよと迫る宣誓文。
 そこで物語の役割は、以下でみるように、巫山戯(ふざけ)、開け、そして死の契機を与えるものとして動的に変遷していく。(それでもなお変わらないのは、物語は、喪われたものを取り戻すためにではなく、新たな生を与えるように作り出されねばならないという筆者の姿勢であるだろう。)

 さて、第一には、「最早素朴に信じることの出来ないものを素朴に信じているかのように振る舞う」真剣な巫山戯として、物語は現れる。
 それは現実を二重化し、自足した風土と生活空間を与える。本論で述べられる流体の形而上学とは、認識=経験不可能な「出来事」を掬う手段として現れるが、それが物語に位置を与える基礎となる。一切の流れのうち一部が可視的なものとして現れた「形」、それを取り出す手段たる流体の形而上学は、経験不可能なものの経験として物語に結実するからだ。「力」の存在を取り出す物語、「力」の存在論として、物語は現実を動的な流れへと晒す。
 
 第二には、世界へのパースペクティヴを与える地平=「開け」として物語は現れる。
 存在者を存在者たらしめる「開け」、「形」を秩序付けつつ一望する主体、環境世界を作り上げる生として、物語は成る。物語は(過去と未来とを分かちかつ繋げる)主体と環境を、隔てかつ接近させる。こうして、二重化した現実を一元化する力=意味として、物語は生まれでる。かく乱され続ける現実を、物語が与えるのである。

 第三には、その統御しきれぬ未完性のニヒリズム、その徒労と夢想の二者択一という危機を保持しつつも、そこに生命の感覚を与えるものとして物語は現れる。
 ニヒリズム自由主義、消費資本主義…等々は、物語の前では無益な闘争の表れにすぎない。「流れと出来事の織りなす実相」を見つめる物語は、機械と化した我々に、生と死を、絶対の生と絶対の死を再度与える。イロニーとして、根源的な非連続を、余りに微細な「死」を経験することに拓かれることによって、物語は充溢した生と合一するのだ。

 かくして物語は、巫山戯、開け、そして死の契機を順に与えていく。そうして「絶望せよ 然る後に 叛逆せよ」という宣言文と共に、本論は閉じられる。しかし、本論の趣旨からすれば、「叛逆せよ」という末尾の宣誓文は、読者固有の「物語」を開くためにこそ置かれているはずだ。つまりは読者を動かす役割を持つ文としてこの一節を観ることなしには、「物語」は流れない。「吾々は、吾々は、吾々は…」という冒頭の一節は、この流れを「開く」ために、反響を繰り返していた。

 では、「吾々」はいかに絶望し、いかに叛逆すべきなのか? 物語をどのように組換え、どのように接続させ、どのように運用すべきなのか? 新たな「全体」についての問いの前におののくことから発し、新たな「全体」に向けて踏み出すための道筋としての「死」には、いかにして触れることができるのか?
 読者はこの問いを問うべく、(何に向けて抗うのかは不定のままに)投げ出されている。

 

 

(4)まとめにかえて

 

 この三者の論は、テーマ的には全く別の対象を扱っているように見えるにもかかわらず、相互に関連付けられているように思われる。

 その関連は、「吾々」という存在の把握を、「全体」との関連、とりわけ、死んだ者や歴史的な連関、あらゆるマイノリティを含む限界付けられない総体の運動のうちで捉える志向に求められるだろう。枠付けと線引きを拒否しつつ、揺れ動く制度の中にたえず罪と狂気を持ち込むことで新たな「開け」を生み出しつつ、同時にその多党派的共存の場をも生み出そうという、三者の戦略が奇妙に一致する地点にこそ、「あじーる」が望む連帯の向かう先が示されているように思われた。

 

 

 

 

2、

11/24文フリ #bunfree Nag名義 頒布文章一覧(オ-45『アニバタ』+オ-41『アニメクリティーク』)

 Nag個人として書いた文章について、まとめておきました。

 以下、(1)から(6)まで、11/24文フリ#bunfree 頒布物にNag名義で載ってる掲載批評文の一覧となります。

 ご意見、ご要望、あるいは入手方法や原稿の内容について訊きたいとか、なにかしらあれば、@nag_nay まで。個別対応も可なので、大体のことには対応できるとおもいます。

 


(1)オ-45 『アニバタvol.6』

 たつざわさん主宰のアニメ・マンガ評論刊行会の『アニバタ』に、TVアニメ[氷菓]についての論、『遠回りする「愚者」たち』を掲載していただきました。

 ミステリーの謎解き(消去法的選択)に終始することがもたらす閉塞と、その閉塞を回避するための選択肢形成についての評論です。視聴者の謎解き(ミステリー)の快楽を越えて、その予期を逃れるものとして現れてくる「ありえた過去を探究し、その上で、ありえた未来を構想するため」の謎、つまり謎を作り出す謎の機能を検討する形で、本作の大体全話をまとめていっています。

 導入から半分くらいまでは、こちらで読めます →

11/4文学フリマについて。『アニバタ』京都アニメーション特集、寄稿しました。詳細決定。 #bunfree - 書肆短評

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(2)同オ-45『vol.9』


 劇場アニメ[たまこラブストーリー]論、『物語の外にあるもの』を掲載していただきました。

 「いつも」という時間の無時間化と短絡の両方に抗い、ズレを引き受け「いつも」を形作っていく、そんなたまこの姿勢変遷を検討しています。

 結論めいたものとしては、4節タイトルにあるとおり、「”いつも”を固定することなく複数の歴史に開いていくためには、「By always thinking unto “construction”.」、すなわち、(たえず新たに考えはじめるかのように)解釈(construe)と建築(construct)のことを考えなくてはならない」という感じになると思います。これがかんなからたまこへのメッセージであり、本作から視聴者へのメッセージとして読み取れるのではないか、というのが、本稿の結論めいたものです。

 導入から半分くらいまでは、こちらで読めます→

『たまラブ』、二つの牧野かんな論 - 書肆短評

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(3)オ-41 『アニメクリティークvol.1』(既刊)

 

 メインで活動している同人誌です。DTPやロゴなども担当しています。

 Nag名義掲載批評文は、『vol.1』だけで計8本です。多すぎるので、タイトルは省きます。

 扱っている作品タイトルは以下です。

 ①岡田麿里脚本作品論6本(tt、とらドラ!、カナン、放浪息子フラクタル論)
 ②EVA+RETAKE論
 ③まどマギ

 思い入れがあるのは、放浪息子でしょうか。志村貴子さん原作のを映像作品へ完璧に昇華しているとおもわれるため、時間的には無理矢理でしたが、あのときまとめられてよかったとおもいます。あと、たしか、ttかとらドラ!かどちらかが何らかの形で makito3 の目に留まって、(読む方じゃなくて)同人誌制作をするきっかけになったような気がしています。よって、これが評論活動の原点的な感じかもしれないです。

 本誌が品切れ状態となっており、当日、データ版での提供となります。内容についてはこちらの過去分を参照ください。何個かはこんな感じで読めた様な気がします。 → 

【お試し読み】「とらドラ!」論 : 『アニメクリティーク(anime critique)』刊行会

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(4)同オ-41 『1.1』(既刊)

 

 昨年出した、まどマギ[叛逆の物語]についての最速レビュー本です。計3本。

 最後にほんとにちょっとだけ創作(SS)まじりの評論があって、ああいうのももうすこし発展させてみたいなぁ、とおもっています。

 内容については、同じく、アニメクリティークサイトにて、一部原稿は読める感じです  →

【一部公開】劇場版まどか☆マギカ〔叛逆の物語〕論「終わりなき2つの「叛逆」---まどかとほむらの相補」 #アニクリ : 『アニメクリティーク(anime critique)』刊行会

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(5)同オ-41 『vol.2』+『2.1』(新刊)

 

 新刊です。同じく諸々担当。計16本+αです。

虚淵玄関連アニメ作品論6本(ファントム、フェイトゼロ、ブラスレイターまどマギサイコパスガルガンティア論)
虚淵玄各論4本(まどマギサイコパスガルガンティア、アルドノアゼロ)
輪るピングドラムlain新世界より、シュタゲ論

 思い入れがあるのはアルドノアゼロか、まどマギ論でしょうか。ちょうどまどマギ論を書いた時期に『荘子』を読み返してたこともあって、最終節は「寓話」という形をとって叛逆後のことを考えてみたものですが、まだこなれてないこともあり、今後こういう方向でもなにかしら遊んでみたいなぁと思ったりしています。

 試し読み公開はまだできていませんが、こちらでざっと画像とちょっとした説明によって紹介しています →

なかなかよい本となりましたという告知、11/24文学フリマ(オ-41) #bunfree 『アニメクリティーク vol.2』+『vol.2.1』発刊 #もうゴールしてもいいよね - 書肆短評

 

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(6)同オ-41 『2.1』

 先日公開されたばかりの虚淵玄脚本、『楽園追放』評論です。

 ネタバレ含みになるので、こちらで一つだけ、原稿を見れるようにしておきました。→ 

11/24『楽園追放 最速レビュー』の原稿紹介---the expelled’s resonance #bunfree - 書肆短評

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※ サイト案内→

#bunfree 頒布物、Nag掲載批評文は以上です。

以下は、サイト案内になります。

(1)〜(2)アニメマンガ批評刊行会HP http://www.hyoron.org/
(3)〜(6)アニメクリティークHP http://blog.livedoor.jp/anime_critique/

(2015/12/21 続刊『2.5』情報追記)11/24文学フリマ #bunfree 『アニメクリティーク vol.2』+『vol.2.1』発刊 #もうゴールしてもいいよね

(2015/12/21追記)

『vol.2.0』の付属冊子、『vol.2.5 〈ゴースト〉, 不在者の倫理 特集号』を発刊します。

取り扱い作品は、まどマギ新世紀エヴァンゲリオン+『RETAKE』、ガルガンティア、楽園追放、細田守4作品、となります。

既存の文章の再編集版ですが、読みさすさ重視でほぼ全面改稿しています。

どうぞよろしくお願いします。

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以上、2015/12/21追記。

 

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『vol.2』発刊と『vol.2.1』の寄稿募集、あと(個人的な)内容紹介


Nag(@nag_nay)です。今号では、全体の紙面(DTP)構成、対象作品名ロゴデザイン、関連文献提示、あと寄稿と運営一部を担当しました。

 

(1) 『アニメクリティーク vol.2』について

今号は、(前号との比較を抜きにしても)なかなかよいと思える内容で、昨日、印刷所に無事データ送信することができましたので、ここに告知したいとおもいます。

11/24 文学フリマ東京流通センター第二展示場、ブース: オ-41)にて、A1ポスター(下の画を基調に作り直したもの)を机下に掲げてお待ちしておりますので、どうぞよろしくお願い致します。

多分無料ペーパーも配る、はず

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(2) 『アニメクリティーク vol2.1 楽園追放最速レビュー』発刊

あと、現在上映している劇場アニメ『楽園追放』についてのレビュー本もコピー本として出すとのことで、目下、寄稿募集中です。書きたいなぁというひとはメール(anime_critique*yahoo.co.jp)かDMか、とりあえず何らかの形で連絡下さい。

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(3) 内容紹介について

近日中に、アニメクリティーク刊行会HPにて個々にいただいた論考についての紹介はされていくとおもいますが、以下の、2、から、6、は、「とりあえずどんなものか見てみようかな」という人向けの、いくつかの頁画像紹介と、それにまつわる自分の雑感です。

(以下、人名については、全て敬称略とさせていただきます) 

 

 

 

2、表紙頁

 

表紙絵は、上に掲げた感じです。
前回と同じく @yopinari 君にお願いしました。身内を褒めるのもあれですが、かなりいい感じです。
特に、カタフラクトがいい感じに大破してるところは、読者の方に「なんでだろ?」という疑問とともに、考えてほしいところです。

 

 

3、目次と寄稿者一覧

 

目次です。いろいろな作品を扱いましたね。

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寄稿者一覧、制作者一覧です。HPアドレスとかも載ってるので、是非、事前にチェックしてみてください。

 

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4、特集1 虚淵玄2008-2014

 

 読んで字の如くですが、虚淵玄の携わったアニメ作品(原作作品含む)を、すべて取り上げました。そんなに詳しくないよという人は、OUTLINEにて作品紹介と評論を載せていますのでそちらから。

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(1)OUTLINE
 虚淵玄の携わったアニメ作品(原作作品含む)の内、ひとまず完結している下記6作品を、各々見開き2頁(3500字)ずつ評釈し、全体像を提示するもの。各作品評は独立して読めるものの、全体を通じて「バッドエンド」の機能を、物語で度々登場する「亡霊性」と絡めて検討する。

 ※作品一覧:①Phantom、②Fate/Zero、③BLASSREITER、④魔法少女まどか☆マギカシリーズ、⑤PSYCHO-PASS、⑥翠星のガルガンティア

 

(2)PSYCO-PASS
 makito/Nag/羽海野渉の三名の評論、および、あんすこむたんによる BOOK GIDE を載せている。評論については、評者間の相互レビューあり。
 全二者については、シビュラの描く「安らぎ」の極北としての理想社会と常守がどう折合いをつけていけばよいのかを、第一期の先を見据えて考察するというもの。そこではpsychoという単一のpassに還元できない「pass」自体の複数化という主張と、「pass」の受容形態の多元化という、類似しつつも異なった2つの提案がなされている。是非、対比的に把握していただきたい。
 羽海野論考は、そのようなシビュラから逃れる槙島聖護の抵抗としてなされた犯罪の変遷の意味と価値を再検討するというもの。観察するものとしての槙島が一役者として運命の偶然に身を預けるとき、そこに何によっても変え難い死の瞬間が訪れることになるだろう。
 あんすこむたんによるブックガイドは、笠井潔、P.K.Deickの諸作品そして『まどか☆マギカ』との連関を、作品紹介とともに提示したもの。さらに、評論、小節、映画を含む諸々の作品が「more readings」に掲げられている。

 

(3)アルドノア・ゼロ
 Nag評論。「友誼」を示すためになされた地球訪問によって戦渦を招いたアセイラム姫を中心に、「Amity llines」の価値を問うていくもの。友敵に代表されるような二項的区分の間に引かれた線を、伊奈帆のように無視=抹消するのでも、スレインのように過剰に引き続けるのでもない、線の分割というモチーフをアセイラム姫に重ねて取り出した感じ。

 

(4)翠星のガルガンティア
 Nag評論。「今を生きるという特権」というフェアロック船長の言葉を引きつつ、その特権性の上でなされた「ただ生きるだけの生」(ベベル)に不可避的に伴う犠牲に対して、レドがどう向き合っていくべきなのかを、OVA前編まで含めて検討。「今」の特権性というモチーフは、現在や現実に重ねられるべき〈彼方〉として、第二部の問題意識へと繋がっていく。

 

(5)魔法少女まどか☆マギカ
 Nag評論。「叛逆後の生」のサブタイトルのとおり、分割された秩序を、どのようにしてほむらが(融和を免れつつも)受容していくことができるのかを、「叛逆後」の時点を視野に入れて検討したもの。書いた自分的には、最後の「4、翻訳: 寓話」の箇所で、まどか☆マギカ叛逆の物語のその後を『荘子』風のノリで創作してみたら、予想に反して校閲者から何も言われずに校閲を通過してしまった(そのまま載ることになった)ため、今見るとすこし恥ずかしいものがありますね…。せめてもうすこしちゃんと作りこんでおくべきでした

 

特集1は以上な感じ。ページイメージは、下の様な感じ。

※画が入っているものは(アルドノアゼロをのぞき)全て、東方方面で活躍されていたあめいも先生にお願いすることができました。
ちなみに、折角なのでということで、絵の横に置いてあるロゴデザインや(ピンドラの細かいのとかの)背景の一部とかは、自分が担当しました。

二人で一つの画を完成させるというのは初めてのことだったので、あめいも先生にはご迷惑おかけしたと思いますが、最終的に画の邪魔をしていなかったら嬉しいところです。

 

(①アウトライン、ブックガイドページ例)

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(②通常ページ例)

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(③レビューページ例)

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5、特集2 〈彼方〉の思考---thoughts beyond the horizon

 

 〈彼方〉という語をもとに、各評者の論を取り集めた特集。

 もともと呼びかけ人からは「彼方”への”思考」というタイトルが提案されてたものの、そこはごねて「彼方の思考」に変えてもらった。僅かな違いだけど、個人的には「越境」や「移動」とは異なる視点も集められることになるとの思いから、そのように変更してもらいました(という経過報告)

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(1)『輪るピングドラム


 tacker10、sssafff+Nagの2評論。

 tacker10評論は、アニメというメディアの特性に着目しつつ、「近代/ポストモダン」という枠組みから逸れてしまう外部=「不純なる歴史そのもの」を露出させていくその手管を提案するものとして、本作を視ようという試論。そこでは役割を固定・収束させるいくつもの傾向性を、分岐・分散させる力へと転換するものとして「運命の乗り換え」が解釈される。そうして、イリュージョンに魅了された身体から多元的な仮想的身体への移行を呼び起こすものとしてアニメが機能する様が分析されることになる。
 sssafff+Nag評論は、①運命を固定する社会=「箱」と、②循環とシェアのなかで疲弊する3者関係=「輪」のいずれからも外れた、③多層化された「生」を析出するというもの。そこでは、他人の人生や他の可能性の上に佇む(つまり生きるだけで既に人の死を含んでいるという)「罰」であり「愛」が畳み込まれたものとしての「生」が、回転する林檎に重ねて解釈される。タイトルにある「輪」は、回転という運動によって(最終話、「24」の輪のように)消えつつ、その回転の影として他人の「生」の中に残っていく。それが、運命の運動に他ならない。

 

(2)『serial experiments lain』×『ガッチャマンクラウズ
 makito+Nag、makito、すぱんくtheハニーの3評論。
 最初の論では、『lain』における現実世界とワイヤードを巡る三つの実験(experiments)が対比される。最後の玲音による実験が完了することで、単層化されたものとしての現実世界を生きざるを得ないものたちとして、人々の生が描かれる。しかしそれは、因果の多層性を忘却することで生きることができる視聴者の生に重ねらるものではないかと本稿は問う。だからこそ、すべてが始まったはずの第一話[layer:01]のサブタイトルへと戻り、「奇妙さ=この世のものでなさ weird」が生まれた時間こそ分析されねばならない、と結論付けている。
 makito評論は『ガッチャマンクラウズ』のゲーミフィケーションを意志に先行する運動性の拡充として読み解いていく。そこでは、責任と結びつけられた意志というモデルの限界が示された後、運動性の速度を極端に早めるものとしての累やカッツェの振る舞いが分析される。しかし、再度、意志の契機を運動の中に導入するためのはじめ的な生活態度(複数の他のゲームへの離脱、再参入、同時所属)を基礎に、生を自らの意志で、しかし自然に変えていく作法が提案される。
 すぱんくtheはにー評論では、『lain』の遍在/『ガッチャマンクラウズ』の偏在という二つの存在の在り方が俎上に挙げられ、その偏在と偏在の両方に足をつけたものとしての人間の在り方が取り出される。それが繋がりにも移動にも還元できない、「どこにも行けないわたしたち」という人間の描像だ。ディアスポラを避けることができないなら、接続と離散の連鎖の中に生きられる「共同体」像を模索するしかないし、そうすることができる、と本稿は、希望を謳っている。

 

ページイメージを一つだけ。

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6、特集3 SFアニメ選評

新世界より/ぼくらの/電脳コイルプラネテス/ガン・ソード/ゼーガペインSteins;Gate

 sssafffとNagの分担作業。上記6作品の紹介と分析。BOOK GUIDEと同じく、各作品を足がかりとして、第一部、第二部の問題提起が拡充される余地が、各作品に見出せることを示している。

 ページイメージは割愛。

 

7、最後に------「もうゴールしてもいいよね」…

 

以上です(長かった)。

あと「なんかスクロールしていくとNagって文字すげーみるんだが…」という感想の方、あながちまちがいじゃないです。これは運営上の不備や途中での原稿落としといった「偶発事情」のゆえでもあるのですが、空いたとこの穴埋めなど含め、計95000文字(数え方にもよるけど主観的には文章17個)を、本業の傍ら、二ヶ月で書くこととなってしまいました。自分が9月に避けたいなぁと呼びかけ人に伝えてた事態のため、さっき数えて自分でも驚いています。いやはや…

※ 運営体制の改善対策については、今後はしっかりとお願いしたいと思います。

同人活動という意味でだけきりだしてみても、DTP担当と多量の文章書きを並走させるのはミスを誘発しそうで適切じゃないし、書いた量が多すぎると自己批判しつつ改稿するのも限界だし…。ちょっとアレ…

とはいえ、なにはどうあれ世に出したわけです。上の点から、自分のかかわったとこについては拙い箇所が(正直)散見されると思いますが、忌憚のないご叱責、ご意見、お待ちしております。

 文フリ当日もよろしくお願い致します。