書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

3つの『輪るピングドラム』論--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む(2)

 

 

『ピンドラ』雑記、二つ目です。今回はtacker10さんの論考をまとめたり、私見を述べたりです。

 

---(再掲)

  つい先日作成した同人誌『アニメクリティーク vol.2』では、特集の2つ目の解釈対象の一つに、TVアニメ『輪るピングドラム』を挙げていました。結果的には tacker10さんのものとsssafff+Nagの拙稿、計2論が掲載される運びとなりました。内容紹介等はこちらで

 と、折角なので、家にある同人誌で『ピンドラ』扱ってるのあったよな、と探してみたところ、『BLACK PAST vol.2』掲載の籠原スナヲさんの幾原監督論が発見できたので、上述した3評論をまとめて(後ほど関連づけて)紹介したいと思い立ち、紹介します。(以下、敬称略とさせていただきます)

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1、籠原スナヲさん
 「95年」と桃果の倫理---幾原邦彦少女革命ウテナ』『輪るピングドラム
(※掲載『BLACK PAST vol.2』2012年発行)

 

前記事分です。

3つの『輪るピングドラム』論--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む(1)

 

 

2、tacker10
 不純なるものたち--- 『輪るピングドラム』が描く彼方
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

 

 

 さて、やや時間が空いてしまって恐縮ですが、籠原さんの論に引き続き、tacker10さんの論を紹介したいと思います。

 今回更新部分は、『アニメクリティークvol.2』所収の「不純なるものたち--- 『輪るピングドラム』が描く彼方」、および、『日常系アニメのソフト・コア』より「アニメディウム---変遷する媒質の手触り」です。

 

 

(1)「不純性」からみる『輪るピングドラム


 「果たしてこの世に不純ならざるものはあるだろうか?」という冒頭の問いにあらわれているように、tacker10さんは『輪るピングドラム』をあらゆる側面から「不純性」を取り出すに至る物語として捉えている。

 逆から言えば、いかに人が純粋性に駆り立てられてしまうか(そしてそこからいかにして逃れるか)という問題意識に、本稿は支えられている。

 例えば本作中で用いられる語彙でいえば、「運命」は好ましいものなのか厭うべきものなのか、それは決定されているのか意味に満ちたものなのか、あるいは高倉家の三人は罪と罰に憑かれているのかそれともまだ自由をもっているのか、桃果の乗り換え或いは眞悧のテロは善であるのか悪であるのか、等々というように、(一見すると純粋な)概念は、二項対立的な左右の極に振られうる。

 しかし、それらの概念が純粋にされるときにこそ、思考から落ちてしまう多元的分岐があるだろう。本稿から印象的な一節を引くならば、「表現とは、受容者の思考を決定するのではなく、思考の機会を与えるのだ」(『アニクリvol.2』p.79)となるだろう。

 アニメの視聴体験もまた一元化・単純化したと嘯くことは容易であるが、しかし、むしろ表現技法の差異を介して思考が開かれる余地が、アニメ視聴においては重要となるはずだ。こうして、概念的な純粋化によって落ちてしまう「思考の機会」を、tacker10さんは掴もうとしているように思えるところである。

 


(1-1)純粋性を求めてしまう3人: 萃果/陽毬/眞悧


 とはいえ、まずは『輪るピングドラム』に即してまとめていくべきだろう。

 tacker10さんが追うのは、上記純粋化に駆られた、各キャラクターの運動である。事実、全五節のうち、三節分に渡って、この純粋化への落ち込みの諸パターンが詳述されていく。

 

① 第一節で検討されるのは荻野目萃果である。彼女は、あらゆる人から必要とされ愛されていた(それゆえ逆説的なことに、未だ多くの関係者が彼女に救いを求め続けてしまってもいる)亡き姉・桃果に、自らを重ねようと画策する。その過程で、彼女は自らの存在を殆ど抹消し、理想化された桃果であるかのように振る舞い、それを、なんとしても実現せねばならない「運命」と呼ぶに至るだろう。
 そんな彼女の狂信的なまでに戯画化された「運命」への欲望は留まるところを知らない。純化された理想の極点である限り、それは歯止めなくどこまでも追及されていくためである。本稿の語彙でいえば、「デカルト格子における消失点」としての運命、理想、抑圧が如実に現れるだろう。本稿で語られる「透明化」の病とは、このような多元的に構成されているはずの自らを、無化・無視した上でなされる、飽くなき自己消尽に他ならない。
 
② 第二説で(とりわけ重要なものとして)検討されるのは高倉陽毬である。彼女は、萃果とは反対に、自ら(消失点としての)運命をたぐり寄せるような振る舞いにはでない。彼女は余命幾ばくもないその日々を、高倉家の面々と共にただ過ごそうとする。既にみたように高倉家は実際には血のつながりのない疑似家族であるのだが、その真実に決して触れることがないように、根拠なきコミュニティの脆弱性を陽毬は(無意識にせよ)忌避しつづけるだろう。そうして穏やかに回るだけの日々を欲し、そこからの逸脱を恐れるだろう。外圧に晒され続けたが故の、消失点を持たないフラットなコミュニティがここに現れる。
 そんな彼女の問題は、萃果とは逆方向、他者に対する「透明化」である。陽毬は自身が安穏と生きることに隠された秘密(実はその安穏とした日々が、冠葉を彼の本当の妹・夏目真砂子から引き裂いていること)を、それとは知らぬままに見過ごし、抑圧している。夏目真砂子からすれば、愛する家族を奪っていることに気づきさえしない盲者として、陽毬が映っているいることだろう。
 つまり、陽毬は自身を無化・無視することはないが、自身が生きる周囲のものを等し並みに扱ってしまっていることを忘れている。全てをフラットに視るが故に、その差異に目を向けることがない、かりそめの等閑視が見過ごす抑圧が陽毬に課された生の条件なのだ。

③ 第三節で取り上げられるのが眞悧である。眞悧は、これまで見てきたあらゆる「透明化」が、全て選ばれなかった者たちの苦しみに端を発していることに気づいている。萃果においても、陽毬においても、その駆り立てられた「透明化」は彼女らの罪ではない、彼女らを取り巻く(社会)環境のせいだと彼はいう。そして、その苦しみの声を聴き、苦しみから開放するため、眞悧は「透明化」を生みだす全ての構造(典型的には「子供ブロイラー」)の破壊者として現れることになるだろう。あらゆる敗者たちが「何者にもなれないまま」に箱に詰められ、消されていく「透明化」の構造に抗して、彼は破壊活動(テロ)を敢行するに至るだろう。

 彼はたえず、抑圧され、呪いを溜め込んだ敗者の側に立つ。「列車はまた来る」と述べるように、呪いの連鎖が収まらない限り、彼のような存在は潰えることはない。眞悧は身体の復権という題目をかかげつつも、心と身体という構図(心身二元論)そのものの破壊を目論む。それは、抵抗という図式に駆られた一つの終わりのないバックラッシュを敢行しているかのようだ。すなわち、どこへも行き着かない抵抗の連鎖に、眞悧もまた絡めとられている。(※12/16一部訂正)

 

 


(1-2)3つの時代、3つの表現: 近代/ポストモダンポストコロニアル

 

 かくして、①萃果、②陽毬、③眞悧という三者の類型は、終わりのない負の連鎖を反復しているように見える。しかし、勿論、その反復は偶然ではない。

 というのも、その連鎖は彼らというキャラクターの問題だけではなく、それぞれ、①近代、②ポストモダン、③ポストコロニアルが反覆的に陥ってきた問題に重ねられるためである。スクリーンの向こうの萃果たちの問題は、我々視聴者の置かれた生存条件と、まさに地続きの問題として現れているともいえるだろう。

 端的にまとめれば、それは「近代/ポストモダンポストコロニアル」の問題といえる。

 ①萃果は、奥行きの消失点に規律され、一点透視の構図に則って事後形成された偽史を描く近代の問題を反復している。また、②陽毬も、全ての要素がフラット化(平板化)された運動に身を委ねるだけで、あらゆる構造的差異を見失いつつあるポストモダンの問題を反復している(という意味で、陽毬もまた、近代においてみられた、「女手」を言文一致と安易に重ねる再解釈を反復しているすぎない)。そして、③眞悧はこのような透明化を帰結する全ての構造(二元論・二元的構造)を破壊し、例えば心と身体という構図によって割り振られた運命に対しては、繰り返される抵抗を目論むことになるだろう。(※12/16一部修正)
 

 更に、tacker10さんの論は、この三者の対を、アニメの表現技法の問題、つまり「奥行き/横断性/構造破壊」という軸に重ねて論じてもいる。

 具体的には、①萃果はシネマティズム的一点透視に中心化しすぎたことの問題を、②陽毬はメディアミックス的横断性ばかりに目をとられた問題を、③眞悧はあらゆる構造を破壊・解放することで却って既に存在する複雑な構造を追うことができなくなってしまった問題を、それぞれ担っているというわけだ。

(勿論、問題はこれに尽きる訳ではなく、そこで抜けている論点が正射影遠近法といったアニメティズムの運動であることは明らかだろう。tacker10さんの言葉を借りれば、これらの要素を視ることで初めて視線は実作に追いつくのだし、「批評が実作に追いつく」のである。)

 

※とはいえ、この箇所を要約するのは容易ではないので、より子細にラマールの著書や本稿に直接あたってほしい。敢えて要約すれば、いずれにせよこれらの典型的で単純化しがちな視聴者の目線からズレていく表現が『輪るピングドラム』の「クリスタル・ワールド」(「生存戦略!」から始まるあの仮想空間)の開始に見ることはできるというところに、tacker10さんの本作への着眼の所以がある。

※12/16追記:この点について著者から追加コメントを頂きましたので、読解の正確を期すため、一部転載させていただきます。

・ 「クリスタル・ワールド」の背景は、金田的アクションや板野さんの描くミサイルを連想できる。元々、アニメのファンからすれば、金田さんや板野さんの映像が素晴らしいことは知られている。ただ、奥行きを尊ぶ(近代的)評価法では、それらは無視され、アニメはあくまで子供のものだと軽んじられてもいる。

・村上や東らはそれを持ち出して、フラット=ポストモダンだと再評価していった。つまり、ああした映像は、江戸時代と結び付けられながら、ポストモダンの根拠として機能している。

・が、そもそも正斜影遠近法自体は、より古くから存在し、また海外でも使用される。それを江戸時代と結び付けられながら既にポストモダンは日本に根付いた文化だった、という主張は、平安時代の「女手」を言文一致と結び付ける近代の反復(反動)でしかない。

・要は、ポストモダンの成立条件は、単に近代的奥行きを採用していないというだけを根拠にしており、そこでは近代的奥行を抑圧しつつ、その権威だけは利用することで、案に権力構造を温存してしまっている(これが、陽鞠と真砂子の関係です)

・そこで、奥行きと横向きのどちらかではなく、それらが如何にして共存し、互いに影響を与えてきたのか、その中で私たちはどんな影響を受けてきたのかが重要なのではないか。

 


(1-3)「3」の飽和: 「不純性」への開かれ

 

 かくして、萃果、陽毬、眞悧というこれら三者の取り組みは何度も反復されつつ、最終的にはそのどこへも行けなさの隘路に陥ってしまう。

 ではこの隘路からの脱出路はあるのか。その答えが、上記3者の後、最後にtacker10さんが行き着く、④「運命の乗り換え」の解釈である。

 

④ 最終話、「運命の乗り換え」の場面において、晶馬は、かつて理不尽で残酷なものとして映った「運命」について、こう運命を言い換える。

「楽しかった。ありがとう。返すよ、あの日、兄貴が僕に分け与えたもの。僕にくれた命。僕たちの愛も、僕たちの罰も、みんなわけあうんだ。これが、僕たちの始まり、僕たちの運命だったんだ」

 そこでは、あらゆる因果、多様な系譜が一挙に折り畳まれた(しかしそこから全てが始まる不純性の束として)「運命の果実」が名指される。そうして、その「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉が、かつて冠葉が晶馬に与え、そうして晶馬が陽毬に与え、更には陽毬がダブルHへ、更には桃果から萃果へと手渡されたあの日記の言葉として、萃果にまで届く。そこでは、多様な系譜の産出孔として分け与えられた「運命の果実」があり、かつ、そこから全ての歴史が新たに見られるべく留まっているとされるだろう。

 つまり、「運命の果実」という言葉は、歴史を我有化する視点、一つの眺望点から視られたパースペクティヴ、遠い-近いで判断された時間軸とは異なる、複数の時間軸が並走する時間認識と非決定論的な因果認識を導入するための魔法の言葉として置かれている。言い換えれば、歴史の異種混濁性、「不純なる歴史」を取り上げるために、決して(乗り換え後の冠葉・晶馬と陽毬・萃果のように)寄り添わないにもかからわらず、複数の時間の間で共有していることだけを共有するような時間認識・因果認識に開くのである。

 「運命の乗り換え」とは、この時間軸の複数の重なりの上に生きるように促す。つまりは、今、この瞬間が、①近代であり、②ポストモダンであり、かつ、③ポストコロニアルであるかのように生きる術を学ぶことに他ならない。勿論、それは同時に、今この瞬間が、①萃果のような「透明化」、②陽毬の様な「透明化」、③眞悧のような「バックラッシュ」に取り憑かれつつあるという危機の最中でもあるように生きることも意味する。同時に、一つのアニメの表現の中に、①シネマティズム、②メディアミックス、③構造破壊(勿論、これらを超え出る正射影遠近法やその他の仮現運動の分析等々)が畳み込まれていることを認識することをも、意味するだろう。

 

 このようにして、あらゆる単純化・純粋化に抗し、複雑性を保ったイリュージョンとして、アニメは我々の目の前にある。あらゆる方向への運動が一挙に折り畳まれ、共存したメディウムとして、我々の目の前にある。言い換えれば、静かに、紐解かれるときを待ちながら、かつてあったのではない仕方で、これからあるのでもない仕方で、時間の蝶番を外れたアニメというメディウムがそこにある。

 「あらゆる批評は「シネマティズム」や「アニメティズム」などの異なった運動が、どのように共存しているのかを分析することで、それが視聴者の目を一律に集中させるだけでなく、そこから如何に拡散させているのか、収束から分岐へ反転させ、解放することも意図しているのかということをこそ視ていかなければならない」(p.82)

 このようにtacker10さんは宣言し、本稿をもその一部として包含する「仮想的身体」論へとパスを繋いでいく。

 直接には描かれていないが、『ピンドラ』最終話における「死は終わりじゃない、むしろそこから始まるんだ」とは、tacker10さん的には、終わりと始まりが結びつけられていない時間認識のことであり、生と死が結びつけられていない因果認識のことであり、決定された関係性の手前からはじめることがいつでも出来るという不純なる歴史認識のことだということになるのだろうと推測するところである。(最終話が第一話の同じ会話の部分に接続されている以上、そのような因果・歴史・時間のことを描くことは最初から織り込み済みだったのだろうと思われる。)

 そして、全ての視えなくなりつつあるものを捨て置かず、それらが堆積した不可視(未だ可視ではない、というべき?)かつ不純な歴史の積層を遡行することにこそ、tacker10さんの追及している「倫理」と呼びうるものがあるのではないかと、思われるところでもある。

 


 

(2)籠原さん論考とtacker10さんの接続
 

 

 …と、色々描いてきてしまったので、ここまでの議論を、「交換可能性/交換不可能性」(萃果+冠葉)という対の反転に倫理を見出す籠原さんの論に引きつけつつ、まとめてみよう。
 
 籠原さんの提示した「交換可能性/交換不可能性」という対は、tacker10さんの論へとイメージを接続するなら、(そのまま重なる訳ではないけれど)「透明性/不透明性」(あるいは「非物質性/物質性」、「音/文字」)の対にあたるだろう。そして、桃果的倫理と呼ばれた「交換可能/不可能」の反転する倫理は、透明性と不透明性をともに産出する「不純性」「不純なる歴史」に相当するはずだ。

 既にみてきたように、籠原さんの論では、人は「かわりがきく」ことと「かけがえのない」ことのどちらによっても傷つきうるとされていた。だからこそ、人はその両者にともに足をつけねばならなかったし、その片側にしか立てないものへはその対応物を差し出さねばならなかった。「桃果的倫理」というのは、このくるくる回る個々の場面で、その度ごとその状況ごとに差し出されねばならない救済の手のことを指している。

 これに対して、tacker10さんの論は、(誰もがそこから逸脱してしまいがちな)その「倫理」に人を留めるための目の置き場・手の作法を探究しているといえる。つまり、籠原さんが提示した「倫理」を誰もが着実に手に取っていくための挙作こそが、一つ一つ追及されているとみれるのではないだろうかと考える。

 というも、人が倫理を貫徹し続けることができるかは、多かれ少なかれ、環境に依存してしまうだろうためだ。「倫理」を知見として知っていても、それに自らの内に置くことができないことは、ままある。事実、籠原さんの論でも、まずは桃果というやや特殊な(半ば狂信的な利他的)キャラクターにおいて、桃果的倫理の範型は抽出されていたように思われるところである。

 では、なぜその倫理は凡人たる晶馬・萃果にまで伝搬するのか、なぜその倫理は時を経てなお持続するのか。おそらく、その答えの一つが、tacker10さんの視聴の分析に見て取れる。
 
 再度tacker10さんの論をパラフレーズするなら、純化されたイメージに留まることは、一つの時代の拘束を受け入れ、一つの平面に取り込まれることにほかならない。というより、一つの遠近法と眺望、一つのイリュージョンを漫然と受け入れることに等しいだろう。
 勿論、価値評価をするだけなら、思考は単線的に決定付けられるだけでも足りるかもしれない。しかしこれに対して、アニメという複合メディア、とりわけその複数の平面・運動・方向の重なりに開かれるためには、多くの視聴者はいまだその手前に止められている。再度、本稿から引きつつ言うならば、「テクストがテクストであるための必要な両義性」を視ることなしには、人は「自らを語りだすこと」は決してできないままにとどまってしまうだろう。だからこそ、歴史が積層した不純なる歴史を、一挙に取り出すための視線を培わねばならない、と、tacker10さんはこのように読者を促しているし、その手法を種々提案してくれている。
 人は「倫理」に対して分析によって挑まねばならない、そんな決意に満ちた詳論として、本稿を視ることができるのではないだろうか。
 
 

(3)付論:「アニメディウム

 さて、これと関連して、同時期に出た別の論も紹介します。
 既に、「アニメというメディウム」という言葉は、(1-3)で出してましたが、その名のとおりの「アニメディウム」という論考が、去る2014/11/29、週末思想研『日常系アニメのソフト・コア』所収の論考として出ています。
 取り上げられている題材は、新海誠作品から一人称視点のゲーム、更には日常系アニメに至るまで幅広く取り扱われているところなのですが、あくまでも、tacker10さんの思考の一つの軸である「媒質」・「媒体」への着目が明確に見て取れるという点で、より先述した運動分析の着眼が深まるのではないかと思い、紹介します。

 

 

(3-1)表現技術としての…「透明性/不透明性」

 

 本稿で取り上げられるのは、新海誠作品に始まり、ゲームジャンルの一つであるFPS(ファースト・パーソン・シューティング)を経て、京アニの空気系と呼ばれる作品群である。
 ここでは、とりわけ、デジタル技術・3DCGといった技術的変遷とともにある「媒質」「媒体」の「透明さ/不透明さ」という相反する要素の重なりに、tacker10さんは取り組んでいる。
 
① まず、「媒質」「媒体」が透明であるとはどのようなことを指しているのか?

 導入箇所で出される例で言えば、特定班や聖地巡礼が、「媒質」「媒体」の透明性の例である。そこでは、画面の向こう側(の仮想的運動)を視ているのに、画面のこちら側と地続きの地点へと誘う「練り込まれた画面の質感」(p.43)が提示される。それは、「いま、ここ」へと誘う特殊なリアリティを与えるものとして、空気系が語られるときのイメージとして、よく伝わるのではないだろうか。つまり、そこには「まるで同じ世界の「空気」を共有出来るかのように感じられるまで練り込まれた画面の質感」がある。

 このリアリティの所以の一つには「奥行きの動線」の指示の仕方があり、一つにはその媒質の共通性を強調するような「透明感」がある、とtacker10さんは分析している。

 典型的には新海誠の『ほしのこえ』である。そこでは、先述した遠近法的な「消失点」をもたらす光を導線とし、アニメの内部に一直線に差し込むように描写される。そうすることで、アニメの中とこちら(視聴者)側との間に一筋の線が走り、そのまま「媒体」の奥へと手が伸ばせるかのような錯覚(その瞬間においては極めて自然でありながら、振り返ってみると奇妙な感覚)をもたらすだろう。

 別の例で言えば、先述したFPSにおいて、(キャラクターではなく)背景が後方に「飛ぶ」ことで進む動きが現出することが挙げられる。そこで動いているのは世界の方であり、その後方への背景の飛びは、我々を画面へと一直線に引き込む動線を用意する。そうして、我々との地続きの地平を強制的に創出するのである。
 
② 他方、「媒体」「媒質」が不透明であるとはどのようなことか?

 こちらはやや込み入っているが、テーゼとしては、いくら透明性が強調されようとその間には改変されつつある「媒体」「媒質」が残るということを意味している。典型的には「スクリーン」である。人は物理的な「スクリーン」の前に阻まれる。あくまでも仮現運動でしかないアニメの向こうは端的な不在なのだ、そうもいえなくはないだろう。

 しかし、問題の中核は、「スクリーン」のような物理に還元されない「媒質」がどの形で残るのか、どのようなレベルで残るのか、という問いだろう。むしろ、その不透明性は発見されなければならない問いとして立ちふさがる。

 そこで例示されるのが『けいおん!』シリーズである。そこでは、てらまっと氏が『セカンドアフターvol.1』で分析したように、あずにゃんカメラという機構を通じて、視聴者と『けいおん!』の風景が一挙に短絡させられる経験を得るだろう。なぜなら、あずにゃんこと梓は、かつての唯が入部した梓の知らない過去と同一の言葉「あんまり上手くないですね!」を発して、あたかも唯のその唯たちの歴史(つまり1期たる『けいおん!』)を視ていたかのように、その発言・瞬間・仕草をトレースするためだ。異なる二つの歴史が、決してありえない形でシンクロする。あたかも、二つの時間軸が同時に並走しているような錯誤に、人はぶつかることだろう。こうして、「フラッシュバック/フラッシュ・フォワード」という時間錯誤に、人は開かれるのである。

 不透明性というのは、この、決して短絡できないにもかかわらず、その邂逅が可能となる錯誤の瞬間に露になる。(若干推測まじりで恐縮だが、)決してひとところに集まることはないにもかかわらず、並列的に集まったかの様な経験を与え、過ぎ去りつつある時間・空間の中でなお、時間・空間から自由に動き回る能動的な経験を与えるものとして、アニメの生理的快感をもたらす動きがあるのだろう。これが、「決定論的に秩序付け」られた視聴者の欲望を「多様な生の形」へ開き、肯定するもの、とtacker10さんが言っていることではないだろうか。

 シャッフルされた時系列は、再度、前後関係を確立することで流れるのではなく、同時に複数の流れとして折り畳まれ、保存される。例えば『氷菓』において語りだされた歴史的遠近法においては、あらゆるものが彼方の古典へと落ち込んでいくとされていた。しかし、このテーゼは、千反田と折木のミステリー実践によって脆くも崩れる。遠近法のプロセスを遡行し、現在に「英雄」を開いたのは、折木たちの日常である。つまり、遠近法というパースペクティヴは、たえずズレを作り出すとともに、そのズレの仮想的シンクロによって、その遠のきの遠近法を破り、複数の時系列とともに開かれる日を待っていたのだ。そこで歴史は、今この瞬間において、同時的に複線化していることになるといえるだろう。


(3-2)分裂した意識、と、「媒体」「媒質」との関係

 「媒体」「媒質」が描かれるとき、それは同時に、(光のように)視聴を同時的にしつつ、(水のように)視聴を遅延させる。視聴を奥行きのあるものに仕立て上げつつ、一挙にフラットに折り畳みもする。更には、一つの運動しかなかったところに同時に複数のレイヤーを見出させるように働きもするだろう。

 そのときに生じる同期感/違和感が、アニメ視聴によって動かされるという体験をより洗練させてくれるはずだ。そこでは視る主体もまた複数に動かされることで分割される。視るパースペクティヴが分割されると共に、視る「媒質」が分裂しているのだから、これを一つに還元することは決してできない。

 複数の分裂した意識に追いつくためには、「視るという行為について視る」ことが必要となる。「媒質」を無化しつつも可視化してくれる、透明であり、かつ、不透明な経験を与えるアニメという特殊なメディアは、あらゆる「加速」とともに時間認識や空間認識の新たな形を与えるだろう。

 「空気系」という呼称にメディウムへの着目を読み込むことという冒頭付近の一文は、こうして、アニメのメディア性とともにある視聴体験へと一直線に通じている。そこで与えられるのが、タイトルにもある、「媒質」の手触りなのである。

 

 

(4)「仮想的身体」

 …にまで手を伸ばしてまとめようとしたのですが、ここまでくると『ピンドラ』から随分遠くに来てしまった感もあるので、一旦、ここで「アニメというメディア」についての話は終えるとして別稿に譲ります。
 (※予告してたのにすみません。また今度ということでどうぞよろしくお願いします)

 

 

 

 

【次回予告】

 

 

3、sssafff+Nag
 ほどけた輪の先--- 運命の果実を一緒に作る
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

 

ひとまず、まとめ前のものを置いておきます。

 


4、3つの評論から見える諸倫理

(1)Q1.) その倫理は、誰へ向けられたものか?
(2)Q2.) その倫理は、どのような手法によって接近すべきものか?
(3)Q3.) その倫理は、いつ貫徹されるのか?