書肆短評

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3つの『輪るピングドラム』論(3)--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む

 

 『ピンドラ』雑記、3つ目です。今回はsssafff+Nagの紹介です。掲載元は、tacker10さんのと同じく、『アニメクリティークvol.2』です。

 

 

---(再掲)

  つい先日作成した同人誌『アニメクリティーク vol.2』では、特集の2つ目の解釈対象の一つに、TVアニメ『輪るピングドラム』を挙げていました。結果的には tacker10さんのものとsssafff+Nagの拙稿、計2論が掲載される運びとなりました。内容紹介等はこちらで

 と、折角なので、家にある同人誌で『ピンドラ』扱ってるのあったよな、と探してみたところ、『BLACK PAST vol.2』掲載の籠原スナヲさんの幾原監督論が発見できたので、上述した3評論をまとめて(後ほど関連づけて)紹介したいと思い立ち、紹介します。(以下、敬称略とさせていただきます)

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1、籠原スナヲさん
 「95年」と桃果の倫理---幾原邦彦少女革命ウテナ』『輪るピングドラム
(※掲載『BLACK PAST vol.2』2012年発行)

 

前記事分です。

3つの『輪るピングドラム』論--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む(1)

 

2、tacker10
 不純なるものたち--- 『輪るピングドラム』が描く彼方
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

 

 前記事分です。

3つの『輪るピングドラム』論--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む(2)

 

3、sssafff+Nag
 ほどけた輪の先--- 運命の果実を一緒に作る
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

 

(前置き)

 こちらは、スナヲさん、tacker10さんのような射程の広い2論と違って、専ら作中のモチーフを拾っていく感じの論になっています。

 

第一節(下記1)は、眞悧などが述べている「箱」という概念の解釈を中心に、そ「子供ブロイラー」とは何か、そして(人的関係の欠如としての)社会的な一元化の陥る問題を、把握しようというものです。透明であることや、何者にもなれないこと、誰にも選ばれないということが、なぜそんなに切迫した問いとして現れるのか、というところを追及したつもりです。そこでは、一見、適材適所に人が配置されていくように見えても、実は、その分配秩序は全く固定されたまま、人の運命を「必然」に従って固定する環境にしかなっていない、という点が強調されるでしょう。

第二節(下記2)は、「95」や各話のモチーフとして散々出てくる「輪」の解釈を中心に、関係性の固定とその日ぐらしの循環によって疲弊していく高倉家という描像を抽出する箇所です。社会的な評価とは独立に、細々と人間関係作っていくだけでは枯渇するし、いずれにせよ「必然」として回帰してくる運命と言う描像から逃れられないがそれではいかんのではないか、「回る」といっても行き場のない「循環」によってはどこへも行けないのではないか、という筋です。

第三節と第四節(下記3)では、ようやく「ピングドラム」解釈にいたります。そこで問われているのは、なぜ「ピングドラム」は必然を課してくる運命から逃れさせることができるのか、という問いです。

 まず三節では、ピングドラムが、林檎(光球)と灰という二つの要素によって構成されていることに着目し、その二つによって分かち合われた「命」=生の意味を探究していきます。完結に述べると、人の可能性は、眞悧の様な「箱」や「ブロイラー」、あるいは、高倉家的な関係性の循環を破壊することによってではなく、人が互いの環境、互いを取り囲むものとして(一人として生きつつも)互いを生きているという(共)存在の条件に開かれる、ということにこそある、という主張となります。それが、最終話の回転する林檎の描写、宇宙を進む晶馬とペンギンたちの描写に現れているのではないだろうか、という解釈へと進んでいきます。

 更に四節にいたり、本作の中心的話題であった「運命」という語が、最終話を経たあとにおいては、もはや「必然」とは切り離された概念として読み取られる必要があることが強調されるでしょう。そこでの「運命」とは、(第一節でみたような)全てが効率や適材適所という規範によって一望された必然=「運命」でも、(第二節でみたような)コミュニケーション上作り上げられていく理想=日常=「運命」でもありません。そうではなく、一切の実存的な生がただ互いを支え合っているし、そうあることができるという様相的・可能性に満ちた生にこそ、『ピングドラム』が示した尊ぶべき生の条件が読みとりえ、また希望が引き出しうるのではないか。そして、その偶然性と「他性」に触れつつある(=回る)生こそ、『輪るピングドラム』を経た我々がこれから「運命」と呼んでいくべきものなのではないか、というところで〆となります。

 

 次回4つ目の記事でまとめをしたいなぁとはおもうところですが、いずれ、2016年1月からはじまる『ユリ熊嵐』と絡めたりして検討してみたいところです。

 

 以下、本論です。 

 

  ↓

  

3、sssafff+Nag
 ほどけた輪の先--- 運命の果実を一緒に作る
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

   

 本作、『輪るピングドラム』で回っているとされるのはなんであるのか? そして、その対象が回ることの価値とは何か?

 この回転にまつわる問いこそ、本稿が冒頭で提示するとともに、全体として探究する問いである。

 例えば、第一話から続くように、「運命日記」も各人の手をくるくると渡って行くし、「運命の人」も諸々の三者の間を(一方通行に)循環している。また、「95」という95年地下鉄テロの数字を摸した「輪」は、作中で終わることなく回り続ける。一方で、同形の話である各話数を表す「輪」は、最終話、24話において回転をやめ、煙のように消えていくに至るだろう(第24話Cパート手前を参照されたい)。更に決定的なところとしては、最終話、冒頭の少年に重ねられる形で、冠葉により「愛による死を自ら選択した者へのご褒美」として回転する林檎が名指されていたことを思いだしてほしい。

 では、このような反復と回転には、一体何が賭けられていたのだろうか? 反対に、回転・循環といったものは手放しで喜ぶべきものなのか、反対にこれによって失われるものがあるのだろうか?

 予め方針を提示しておこう。『輪るピングドラム』で最も頻繁に各キャラクターの口をついて出る表現の一つに「何者にもなれない」があるが、この「きっとなにものにもなれないってことだけははっきりしていた」停滞・循環する運命から脱し、運命を作り上げるに至る物語として、本稿は『輪るピングドラム』を見出している。

 

 

1、「子供ブロイラー」と「箱」:  固定される運命、関係性の欠如

 

 それにあたり、第一に本稿が着目するのが、「子供ブロイラー」および「箱」という本作で指示される、本作に特有の社会構造である。そこでは、人が誰しも「何者かであること」が、絶え間なく、過剰に求められ、それゆえに「なにものかでなくなること」にたえず脅かされている存在として描かれている。

 「選ばれたとか選ばれなかったとか。やつらは人に何かを与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている」(第20話より)

 人は、他者に対し、過剰に「(こちら側にとって)何者かであること」を求めすぎている。あたかもその評価によってしか生きることを許されないかのように、互いが互いを評価しあいすぎている。こうした評価の犠牲になるのはなによりもまず、田蕗や陽毬といった、他者の期待に沿えなくなった子供たちである。過剰な期待によって「消費」され、行き場を失った子供は、ただ外部から求められる事柄だけが積み上がることで「何者にもなれない」存在に避けようもなく落ち込んでいくのである。

 

 若干、語彙について説明を加えよう。

① 「子供ブロイラー」

 子供ブロイラーとは、「何者にもなれなかった」子供を集め、それをバラバラにしてし、透明な存在へと変えてしまう大きなシュレッダーとして描かれる。この象徴表現には、(a) 子供を大人へと急激に成長(broiler)させるとともに、(b) その色を失わせる、という二重の意味が読み取れるだろう。『ピンドラ』の社会が、剣山や眞悧によって、「色」を失った「氷の世界」と評されるのはこの故であろう。

 社会における未来を与える育て上げが、その実、単一の規範に沿った人間の未来しか用意できないという皮肉を、このブロイラーは象徴している。つまるところ陽毬の言葉を借りれば、子供ブロイラーとは、ある時期までに「予め失われる」ことで「何にもなれなかった」存在をその断片へと切り刻み、金輪際「何者にもなれない」存在として固定する装置なのである。

② 「箱」

 次いで「箱」である。これもまた眞悧によって語られる。「人は体を折り曲げて、自分の箱に入るんだ。ずっと一生そのまま」。こう眞悧は述べる。人は外部から課された「箱」を生きざるをえない。人は与えられた「箱」を生きることで、自己を守ることなく、自分から「何者であるか」が奪われるに任せている。

 「子供ブロイラー」と異なり、「箱」は、単に有用性に適合できないという無評価(存在価値の簒奪)を帰結するだけではない。それに加え、「箱」は人をしまいいれることで、「自分がどんな形をしていたのか。何が好きだったのか。誰を好きだったのか」(第23話)さえ、忘れさせてしまうのである。つまり、「箱」によって、人は「何者かであろう」と選ぶぬくはずの自己すら失っていくのである。

 

 こうして、「何者かでありえた」という色とりどりの可能性に満ちた人間は、ブロイラーによって断片化され、「箱」にしまわれることで、他者と自己によって固定された透明な装置の一部として組み込まれ、もはやただ生きられただけの生を送ることしかできなくなるのである。

 これこそが、高倉家や荻野目家を含む全ての人々が、その冒頭から陥っている、『ピンドラ』社会の出口のなさなといえるだろう。

 

 

2、「輪」の循環: 循環する関係といういきどまり、乗り換えの欠如

 

(2-1:循環の出口のなさ) 

 

 では、このような「箱」から、より人間的な関係を構築することで逃れ、社会が課する評価を遮断すればば足りるかというとそうでもない。

 実際、高倉家の三人や荻野目萃果は、そうやって、あるべき着地点としての日常・理想をみさだめ、ただそのために日々を過ごす。しかし、(第一話で、陽毬が一度絶命するように)そのような閉じた「輪」の中で、隠れるように生きられた細々とした生は、そのままに維持されることは決してない。 その細々とした生は「生存戦略」としては儚すぎるのだ。

 勿論、暫定的には、その閉じた「輪」の内部の関係によって、社会(ブロイラーや箱)による断片化・透明化を排除することができるかもしれない。しかし、同時にその関係は、病気に苦しむ陽毬の生存の残存時間や冠葉の資金調達といった制約を、端的に無視しているものでしかない。彼らは、関係性に逃げ込むことで、彼らに与えられた資源を食いつぶしているにすぎないのだ。「キスは無限じゃないんだよ。消費されちゃうんだよ。果実はないのにキスばかりしていると、私はからっぽになっちゃうよ」(第20話)と、陽毬は散々に奪われつくした者として、この事実に自覚的だったといえるだろう。

 つまり、閉じた「輪」の関係を求める心性もまた、互いの依存を招き、人を空洞にする作用を営む。たった一つの希望である運命の循環に、自らを拘束する作用を営むのである。ただ現実に分け与え合われただけの生は、関係性の枠内の生を切り崩して維持される生にすぎないことが、ここでは露呈している。

 こうして、必然として立ちふさがる運命は、社会によることなく、人間的関係においてさえ、再度強化されてしまう。(状況に適合しようとするという意味で)現実的かつ合理的なはずの生存戦略こそが、「箱」から逃れようとする彼らを、再度バラバラにしてしまう。 関係性の「輪」の周を循環する(終盤までの)高倉家や荻野目萃果は、こうして自らの(やむにやまれぬ)選択の必然にこそ、囚われているのである。

 

(2-2:破壊という偽りの出口) 

 

 このような「苦しみの声」を挙げる全ての者たちのために、眞悧はあらゆる必然の構造を破壊し、そこから脱しようとするかもしれない。「だからさ、僕は箱から出るんだ。僕は選ばれし者。だからさ、僕はこれからこの世界を壊すんだ」。そのために、眞悧は、奪われた典型である陽毬に薬を与え、冠葉へ一筋の希望を与え、自らの生を選ぶように唆すかもしれない。高倉家という偽の関係から脱したあるがままの生を、眞悧は追及せよと嘯いた。

 それは、勿論、一方では、彼らに自己の生を見つめ直すチャンスを与えただろう。しかし、眞悧と剣山がとった方策は、その理想としてあまりにも人間主義的すぎ、その方法としてはあまりにも短絡的すぎたことだろう。

 というのも、眞悧は、「箱」が回帰することのない新たな秩序を練り上げることではなく、いまある箱をただ壊そうとするが、「箱」の構造が歴史的に自制的な秩序に沿って生じた以上、この現在の現実にある「箱」を破壊したとしても、人は再度、その効率と評価を求めてしまうだろうためである。

 このため、人は、反覆的に収束する運命から逃れることはできないままに留まってしまう。その「箱」の回帰に抗うためには破壊によってもまだ足りない。

 

  

3、「愛」: 乗り換えられた運命

 

(3-1:ピングドラムの二重性)

 

 では、「必然」を課するこれら二つの構造から逃れる方策はあるのだろうか?

 ある、と本稿では考えている。そのトリガーが「ピングドラム」である。

 さて、本作で「ピングドラム」として名指されていたのは、(素朴にみる限り)「運命の果実」として冠葉から手渡され、晶馬の命を接ぐこととなった林檎であり、その林檎の輝きを放つ光球である。「かんちゃん、これがピングドラムだよ」と陽毬は述べ、晶馬の体から、かつて晶馬のもとへと届けられた光球を取り出し、冠葉へ返す。ただし、ここで返されるのは光球の半分である。というのも、光球の半分は、陽毬の手の中で煙のように揺らぎ、灰となって空へと舞ってしまっているためだ。

 この描写を筆者は次のように考えている。すなわち、「ピングドラム」とは、その描写どおり、灰と光の合わさった二重体であり、「ピングドラム」とは(装置に組み込まれた生でも、ただその日暮らしのためにシェアされた現実的な生でもなく、)たえず「他者」が生きたかもしれない生(灰と化した消えたもの)と、その灰が照らし出す自己の生(残存する光)との総和として成立している、ニ重化した生のことである、と。「運命の果実」、「命」の象徴たる林檎は、こうして、他者の生をも担うものとして、一人の生を最初から分かち合われたものとして成立させているのである。

 つまり、人が一人で生きるように見える時ですら、そこには(かつて生き、これから生きるものに加え、)かつて生きることがなく、これから生きるかどうかさえわからない者たちによってこの現実の生が支えられているということを、「ピングドラム」の上記二重性は示している。そう主張している。

 

(3-2:「罰」としての生のポジティヴな意味)

 

 現在において、そして、現実という平面における切り口を(振り返って)みれば、人は現にあるようにしかありえず、そこにそうではなかった可能性は見ることはできない。いかなる出来事が起ころうとも、切断面のみを見る限り、そこには例外が無いためだ。

 しかし晶馬は言っていた。「あの日、兄貴が僕に分けたもの、愛も罰も全部分け合う」と。なぜここで「愛」と「罰」が名指されるのか、そして、なぜ陽毬が言うように「生きるってことは罪」なのかといえば、人一人が生きるときには、決して「ひとりぼっち」では収まらない「他者」と混濁し、「他の時間」と地続きで、「他の世界」と等価なものとして実在する可能的な生(様相的な生)が、横に置かれなければならないためだろう。いいかえれば、人一人が生きるときには、たえず、他者の生を、可能性を、運命を、喰っている。その罪を忘却せず、正当な罰を引き受けなければ、「必然」を脱する生はないのである。 

 

 こうして、冒頭の問いにおける回転の対象とは、詰め込まれ適所へと輸送・配置されていく「箱」の連鎖のことでもなければ、その日暮らしの循環を繰り返すとじた「輪」のことでもない。それは、最終話にあるとおり「回転する林檎」のことであり、単線的な時間や世界に還元されない「他性」の繰り返しのことである、と本稿では捉えている。それを、冠葉の声をした少年の言葉を借りて「宇宙そのもの」「手のひらに乗る宇宙」と呼んでも差し支えはないだろう。それは「この世界とあっちの世界をつなぐ」。決して現実にはなることがない世界によって、この現実が支えられていることを、冠葉に似た少年は語っているのだ。

 だからこそ、彼が次いで言うように、「愛による死」もまた「死んだら全部終わり」ということを意味しない。「愛による死」とは、現実の死亡という出来事をさすのではなく、たえず、現実を取り囲む「必然」という事態(閉じこもる現実)を、別の「他なる」運命へと結びつけうる希望のことを指しているためだ。 

 

(3-3:「愛」、すなわち、「必然」を取り囲む様相へと開くもの)

 

 最終話、陽毬は、もはや(現実的にみれば存在したことがなく、これからも存在することはない)兄たちからのメッセージを読み、理由なく涙を流す。全てが始まりに戻ったはずの初期化済みの世界において、しかし、そこには通過した(現実ならざる)過去があったことを思いだすかのようにして、萃果は涙しているのである。火傷痕とガラスの傷跡は、林檎を介して生きられた、他者が折り重なった生なのであろう。陽毬と萃果の傍らを、決して出会い、会話することなく、そして第一話の少年たちの会話を繰り返しつつ、冠葉と晶馬が通り過ぎていくのである。

 「信じてるよ。いつだって一人なんかじゃない。忘れないよ、絶対に。ずっと、ずっと」。いわば、この錯誤を生きることこそが、「箱」と「輪」、二つの隘路から抜け出した陽毬が至る「運命」であり、陽毬が初めて「私は運命って言葉が好き」といえた理由である。世界にこの秘密を見つけ出し、その秘密と共に歩むことの中にこそ、「必然」を超え出る運命が生まれる。

 かくして「いつだってひとりじゃない」愛を受け取った子供たちは、また別の誰かに愛を傾けることができるようにり、そうして(可能的な生という宇宙の中で)互いを含み込む「運命の果実」を一緒に作り出し、そしてその命の果実を一緒に食べ、「罪」を分かち合うことを学ぶのである。

 これこそが、本稿が取り出そうとした『輪るピングドラム』の主題であり、その希望である。そう述べて、本稿は閉じられる。