書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

寄稿募集(04/ 16 〆切):アニクリ 2022春号 vol.2s_β 特集「〈彼方〉の歴史/記憶 [第一文冊] 」 #文フリ

1、アニクリ vol.2s(仮) 検討・寄稿募集作品(例)

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(作品例)

平家物語

進撃の巨人The Final Season

・地球外少年少女

・オッドタクシー イン・ザ・ウッズ

ウマ娘 プリティーダービー(Season1, 2含む。)

無職転生異世界行ったら本気だす~

ゴジラ S.P<シンギュラポイント>
・Sonny Boy
・アーティスウィッチ
・逆転世界ノ電池少女
不滅のあなたへ
・SSSS.DYNAZENON
ゾンビランドサガ リベンジ
・さらざんまい

 etc etc..

 

2、寄稿募集要項

(1)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。

 →(※04/03追記:原稿数・企画内容の関係で、5月発刊(β号)と8月発刊(無印号)に分冊して発刊予定です。β版の形式・配布形態は今後の執筆・修正・編集経過によります。なお、vol.1.5, vo.4.6, vol.6.6など従前の例に応じ、β号収録の論考は(希望に応じ)無印号へと修正/再録予定です。)

 発刊時期は、2022/05/29 東京文学フリマ(β号) および2022/ 08/ 14 コミックマーケット100(無印号)にて発刊予定です。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 1600字程度から20000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1600字程度まで。

 ③掌編小説  : 2400字以内

b. 形式

 .txt または .doc

c.  締め切り

(5月発刊 β号について)

①第一稿:2022/ 04/ 02  2022/ 04/ 16(土)

(※ 第一稿に、自身で納得いかない場合には、ドラフトまたは納得いかない点を送付くださいましたら一緒に考えられますので、よろしくお願いいたします。)

②最終稿:2022/ 04/ 30(土) ※原稿数・やりとりに応じる(※04/03追記)

③相互コメントやりとり期間:②までの期間・随時 @dropboxほか

(※ いずれも個別に連絡いただけましたら延長することは可能ですが、大幅な延長につきましては相当の期間前に相談くださいましたら幸いです。)

(8月発刊 無印号について)

①第一稿:2022/ 06/ 11(土)

②最終稿:2022/ 07/ 16(土)

③相互コメントやりとり期間:②までの期間・随時 @dropboxほか

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、本誌2冊を進呈させていただきます。


3、発刊趣旨・募集趣旨

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以上

寄稿募集(11/30〆切):アニクリ 2021冬号 vol.12 特集「ジャンルのリフレーミング/ゴジラS.Pから劇場版 少女歌劇レビュースタァライトまで」(仮) #C99

......諸ジャンルを混交しないことは不可能だとしたら? そのうえ、法 [掟] そのもののうちに住み着いている不純さの法 [掟] 、汚染の原理というものがあるとしたら? それに法 [掟] の存在可能性の条件とは、(法に対して)対抗的である法がアプリオリに存在すること、意味、秩序、理性を狂気に陥らせるだろう不可能性の公準アプリオリに存在することであるとしたら?
 ジャック・デリダ「ジャンルの掟」(若森栄樹 訳)『境域』368頁


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1、vol.5s 検討・寄稿募集作品(例)

 「ジャンル」についての何らかの言及(作品内であれ、受容環境であれ...)を含む作品群/批評を、主たる対象とする。2020-2021の例であるものの、下記の作品群を念頭に自由に選んでいただきたい(※限定する趣旨ではないことにご留意を)。


(1)ジャンルの操作/自己言及:メタジャンル/ アンチジャンル
ゴジラ S.P<シンギュラポイント>
・Sonny Boy
・TENET
・シャドーハウス
・逆転世界ノ電池少女
・かぎなど
不滅のあなたへ
・サイダーのように言葉が湧き上がる
BEASTARS
・オッドタクシー
・呪術廻戦
炎炎ノ消防隊


(2)ジャンルの歴史化
・シン・エヴァンゲリオン
ひぐらしのなく頃に業/ひぐらしのなく頃に
マブラヴ オルタネイティヴ
機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ
ルパン三世 PART6
進撃の巨人
・SSSS.DYNAZENON
NOMAD メガロボクス2

(3)対象のジャンル化/ジャンルの横断:シリーズ/リメイク
・劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト
・かげきしょうじょ!!
・美少年探偵団
・さらざんまい
波よ聞いてくれ
・荒ぶる季節の乙女どもよ。
・アサルトリリィ Bouquet
・マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝 2nd SEASON -覚醒前夜-
・ぼくたちのリメイク
無職転生異世界行ったら本気だす~
蜘蛛ですが、なにか?
・裏世界ピクニック
・映像研には手を出すな!


(4)政治性-土地性の中のジャンル開拓
アズールレーン びそくぜんしんっ!
ラブライブ!スーパースター!!
ゴールデンカムイ
ゾンビランドサガ リベンジ
・どうにかなる日々
・イジらないで、長瀞さん
からかい上手の高木さん
スーパーカブ
・異種族レビュアーズ




2、寄稿募集要項

(1)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。

 発刊時期は、2021/12/29、C99 冬コミにて発刊予定です。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 1600字程度から20000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1600字程度まで。

 ③掌編小説  : 2400字以内

b. 形式

 .txt または .doc

c. 締め切り

①第一稿:2021/ 11/30(火)

(※ 第一稿に、自身で納得いかない場合には、ドラフトまたは納得いかない点を送付くださいましたら一緒に考えられますので、よろしくお願いいたします。)

②最終稿:2021/12/15(土)

③相互コメントやりとり期間:②までの期間・随時 @dropboxほか

(※ いずれも個別に連絡いただけましたら延長することは可能ですが、大幅な延長につきましては相当の期間前に相談くださいましたら幸いです。)

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、本誌2冊を進呈させていただきます。


3、発刊趣旨・募集趣旨

 今号では「ジャンル」という言葉を導きの糸とし、広く深夜アニメ・劇場アニメ作品について批評・評論を募集したい。ただしここでは、特定の作品について、厳密なジャンルの特定を志向したり、特定基準の明示化それ自体を目的にしたものではない。
 広く「ジャンル」の先入見なしにはあらゆるアニメ作品は(素朴にさえ)見れないことは明らかであるが、決して個々の作品は特定ジャンルにすっぽり取り込まれてしまうわけではない......ジャンルはこの意味で生態的であり、たえず別ジャンルと接しており混交しつつあるし、ある境界を持つ(とされる)「作品」の単位とは独立して、受容側からも直接に名指しえ、発見しえ、生成しうる点で独特の境域(parage)をなす。
 今号ではこのジャンルの生態について作品を通じて再考するという意味で、「ジャンルのリフレーミング」を掲げ、制作側・受容側の双方からアプローチできる視聴の条件・環境について、寄稿者と読者の皆さんとともに考えたい。

1.)
 例えば、配信サイト・dアニメの「アニメジャンル一覧」を例にとれば、SF/ファンタジーものから、ロボット/メカもの、アクション/バトルもの、コメディ/ギャグもの、恋愛/ラブコメもの、日常/ほのぼのもの......などなど各種のジャンルが既に用意されている。これら商業-流通上のジャンルは、より内容面に立ち入ってみればジャンル混交的であることにはすぐにわかる魔法少女ものはどこに位置するのか?戦闘少女ものとの差異とは?『魔法少女まどか☆マギカ』以降のジャンル変化とは...? ...... あるいはタイトルそのものが各話それぞれでの即興的ジャンル混交を示している『カウボーイ・ビバップ』はどうか?......などなど)。既存のジャンルを越え出ること自体、驚きや解釈を誘うものである以上は、固定化されたジャンルとは(「あー、あれね」という理解の入り口をなすとともに)乗り越えられるべき背景であることは自明である。
 他方で、ニコニコ動画のタグのようにある種の自生性を持つジャンル化の作用をもってしても、この流動性を捉えられるかと言えばそれもまた難しい。消費のサイクルが激しいTVアニメでは、ジャンルを付与する作用自体もまた一過的な空気感で命名され、しかし明確な定義も持続的な継承も制度的にされることはない。この悪循環によって、タグの収束や忘却が進行してしまう結果となることもしばしばである。(例えばかつての呼称である「空気系」を作品レベルで継承する群を特定することは難しいように...)

2.)
 しかしながら、特に現在の深夜アニメの一部作品においては、このジャンルそのものの拡散とともに、作品そのものにジャンル性への関心が強くたたみ込まれているようにも見える。たとえば『ゴジラS.P』は、長年にわたるゴジラシリーズの遺産/負債の上で(特におそらく『シン・ゴジラ』を強く意識した上で)、SF的な伝統とファンタジー的な伝統を織り交ぜた作品であるし、『Sonny Boy』もまた青春群像劇のガワを借りて、メタジャンル的な世界移動をギャグテイストに落とし込まないギリギリで留めた稀有な作品である。また『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』と『かげきしょうじょ!!』を並べたときに、同じ歌劇への言及の裏で、表現形式としては全く別の志向を持つ(例えば前者は「観客」の観客たる地位を揺らがせる点に焦点を当て、後者は「演者」の演者たるが故の苦悩にスポットを当てる)点も興味深い。
 このように2020−2021における幾つかの作品は、ジャンルを特定したり横にずらしたりする構造や支配力のバランスそのものを、既にメタジャンル的な関心を制作-受容環境の中に取り込んでいるように見える。今号の寄稿募集の主たる関心はここにある。

3.)
 もちろん、2020−2021における幾つかの作品といったものの、そのうちのあるものは商業的な事情に由来するのかもしれないし(お仕事もの、飯もの、アウトドアもの等々 所謂「趣味もの」はどうか? 個別作品・対象レベルで一つのジャンルを形成してしまう力を持つ「シリーズ」もの、あるいはシリーズ手前の「リメイク」ものはどうか?)、あるいは受容者の生活スタイル/趣味の拡散という多様性を踏まえた(再帰的な)作用かもしれない。
 しかし他方で、解釈レベルで複数のジャンルを移動/操作する(その異化効果を利用する)「メタジャンル」ものも隆盛しているように見える。さらには、「東アジア圏におけるゼロ年代批評を振り返る会」(2021/10/23)で論点として上がったように、ゼロ年代後期(2006-2011)におけるメタジャンル群としての「ゼロ年代批評を取り込んだ(かのような)作品群」は、決してゼロ年代後期特有の事情ではなく、むしろ現在まで拡大を続けている現象でもあるように思える。
 この運動に、制作/製作環境、社会/受容環境の双方から光を当てることが、寄稿募集の主たる狙いである。

4.)
 なお編者としては、具体的な作品について「ジャンル」との取り組みを見ることによって、2021の現在においてアニメ批評を行うという営為についても反照的に明らかにしたいという期待をもって寄稿文を募集している。
 (批評的なものに親しんでいる)誰しもが、とある作品について何らかの違和感を覚えた際、まずはその違和感を背景となる(既存の/新たな)ジャンルを探り、可能的な(複数の)ジャンルの中から適切なコンテクストを選び、規定のジャンルとは異なるジャンルを付与する作業に、自然と従事しているはずである(不完全であれmake-believeとはこの作業のことではないか?)。ある意味では、批評とは「ジャンルの細分化」作業と「ジャンルの発見」作業の往復作業とさえ言えるかもしれない。
 しかし残念なことに、この「ジャンル」なるものは、ファンコミュニティが自己集団を防衛するための道具にも用いられたり、あるいは(PCや表現の自由などの旗印をベースに)「ジャンル」を解さない人との間で粗雑なレスバを生み出したりすることも多々ある。歴史的にもジャンル開拓にはつきものであったし、(例えばいわゆる「エッチ絵」的なものを念頭に置くならば)その筆致を生み出してきた、元の文脈が忘れられ、現在の消費スタイルのみによって、わずかならざる誤解を含む非難を浴びたりすることもあるかもしれない。特にコロナ禍を経た現在、国を跨いだアニメ視聴・配信環境が整備の方向に向かう中、国境を越えた作品のコンテクストを踏まえた取り扱いは、より重要性を増しているだろう。
 それでもなお、単に「ジャンル違い」を過度に忌避するのではなく、作品の可能性の中心を探るための基礎となるジャンル特定/生成的な営為についての議論を開きたいと考えている。寄せられた寄稿文と今号の発刊を超えて、発刊後、継続的に研究会(たまけん2022例会)のテーマとして練り上げていきたいとも考えている。
 以上を一言でまとめれば、「特定の作品に(自明ではない)ジャンルを見出したり、別のジャンルへと接続することで、作品に位置(価値)を与える」という批評の役割について検討したいというのが、(編者としては裏の)目的にある。この辺りに関心がある諸氏にもぜひご参加願いたい。




以上

寄稿募集(9/30〆切):アニクリ 2021秋号 vol.5s アニメートされる〈屍体〉Ⅱ /「中国夢」中『羅小黒戦記』 付: たまけん2020/2021」

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アニクリvol.4s「アニメートされる〈屍体〉」(2020)の続刊を発刊する。本巻は、下記の多摩地区動画批評研究会企画「フィクションと政治」の成果も含めて合本予定である。以下、(研究会)企画趣旨を転載するとともに、発刊告知(締め切り等を含む)・募集作品例を提示する。

 

1、(研究会)企画趣旨+発刊告知

 映画『羅小黒戦記』をめぐっては、2020年の日本語吹き替え版が公開され、その洗練された表現技法・アニメーション技術が高く評価されたことは、多くの人の記憶に新しいだろう。ただし、上映後「良質のエンターテインメントか、体制のプロパガンダか」という問題提起がなされたことは、もしかしたらそこまで多くの人が認識しているとも限らず、また多くの人の頭から抜け落ちているかもしれない。今回の企画で探求するのは、今回、登壇者の一人であるてらまっと氏が提起したこの問い(そのものではないが。)を起点とした「政治とフィクション」に関するいくつかの問題群である。
 もちろん、映画『羅小黒戦記』文字通りの意味では国策としてのプロパガンダではない。政治的意図もなければ組織性も欠く。例えば、今回の登壇者の一人である辻田氏による定義、すなわち「政治的な意図にもとづき、相手の思考や行動に、しばしば相手の意向を尊重せずに影響を与えようとする、組織的な宣伝活動」という定義からは外れていよう。しかし本作において、(アニメーション研究者・田中大裕氏によるtweetの語彙を借用するならば)中国映画産業における体制迎合的エコノミーの可能性を読み取りうるとすればどうか?そしてこの読み方は、『羅小黒戦記』という作品ユニットの持つ芸術的ー政治的価値(その関係)にどのように関わるのだろうか?

 (1) 正道ならざる「プロパガンダ的なるもの」とフィクション作品を取り巻く環境
 この点にかんし、辻田氏の主張する「たのしいプロパガンダ」、あるいは『新プロパガンダ論』において繰り返し問題となっている「下からの便乗」=民製プロパガンダの諸例や各種広告宣伝(コラボ)との比較、「かわいい」的感性についての議論は、大いに参考になるだろう。すなわち、情報の受け手にとって好ましく受容されたことそのものへの対抗言論や(より広く)競争環境の構築は、どのようになされうるか? 辻田氏のいう事前対策としてのプロパガンダ論の「ワクチン」的な機能・射程は、前記の体制迎合的エコノミーにどのように関わるのだろうか? これらの問いが、決して「正道」のプロパガンダとは言い難いものの、周辺的でありながら「ゆるく」作品を枠づける「プロパガンダ的なるもの」の領域を形作るように思われる。(元のてらまっと氏の「良質のエンターテインメントか、体制のプロパガンダか」の問題提起もまた、もとをたどればこのようなものであった。)
 さて、これらの問いは、本邦のフィクション作品の制作・受容プロセスについても跳ね返るだろう。具体的には、特に本邦の深夜アニメの商業的な広がりや、渡邉氏が名指したポストシネマ時代における表現ー技術のアニメーションにおける多層的な試み、さらにはそれら(内容上の反社会的なものも含むもの)の社会的な受容スタイルや、てらまっと氏の指摘する視聴者共同体の倫理的な変容の広がりにも跳ね返る問いであるだけに、目下問われるべきものである。

 (2) プロパガンダの歴史的側面と、現下における諸課題
 そもそもこうした受容と供給の過程で増幅される暴力=エコノミーを分析するにあたり、「戦前」における文化と国家の関係、あるいは「国際化」の態様についての歴史的検討を抜きにすますことはできない。この点で、渡邉氏の戦前〜戦中〜占領下〜戦後期にまたがる映画教育・「国策」映画・映画国際化研究と、辻田氏の戦時歌謡研究や「空気」を読ませる手法を多用した戦前の検閲に関する研究とをともに参照することができる場を持つことは有益であろう。辻田氏の近著『超空気支配社会』(2021)への参照も、この点から求められるはずである。
 翻って、現実の本邦の状況においてもこの検討は示唆を持つはずである。COVID19下において、法に服する主体の権力作用を表立っては欠いた形で様々な準ー法的権力作用が生まれては消えたことは記憶に新しい。集団のなかでフィクショナルに構成されたリスク感覚に基づく「自粛"要請"」や「協力」が横行する中、上記のフィクション(作品)と政治の関係を問うことは、フィクションを介した想像力の意義と限界を知る上で避けて通れない。

 (3) その他
 最後に、フィクションと政治という範疇で言えば、古くは政治的な罪(アウシュヴィッツ)と技術(産業・工場)との差異を素通りしたハイデガーの技術論を思い起こさずにはいられない。そのハイデガーを論じたPh. ラクー・ラバルト『政治という虚構』(1988)、当該テキストへのジャック・デリダの応答、さらには近時の東浩紀「悪の愚かさについて」(2019/2020)にもこれらの問いは通じている。

 折しも来たる7/9に『羅小黒戦記』のBlu-rayが発売となる。この時期にあわせ、上記広範な射程に属する問題群を一連の問いとして取り扱うべく、2021.07たまけんの講演・座談会を企画した。

 

ptix.at

 上記研究会を踏まえ、2020.05発刊「アニメートされる〈屍体〉」の続刊を発刊したい。アニメーション技術によってのみならず、広く制度・資本・文化によって「動かされる身体」(と反転して「動き出すキャラクター」を包含する作品:かつてのアニクリvol.5.0の主要論点)は、下記2.に列挙するように数多放映された。

 たとえば2021年現在にあっては『ゾンビランドサガ リベンジ』のみならず、舞台とキャラクター(観客)の関係を鋭く問う『劇場版少女☆歌劇 レビュスタァライト』もまた、本テーマで接続するべき作品群であるだろう。そこでは観客の欲望によって、終わった物語だろうが、物語から身を剥がしたはずのキャラクターだろうが、「全ては舞台の上」にあげられてしまう。観客を象徴するキリンから落ちたトマトの身は、キャラクターによってかじられて肉とされることを避けられない。観客と演者の相互依存関係は、互いを屍者じみた自動機械にしてしまいはしないだろうか。あるいは『不滅のあなたは』はどうか。本作でフシは、生/死を、生者と死者を、生物と無生物とを、自/他を、その他「膜」で隔てられた生命と環境とを分かつあらゆる境界線を行き来しつつ、生きる術を学ぶ(ついには大地そのものとなるだろう)。非人間的でありながらどこまでも人間的な「それ」は、アニメにおいてこそ、原キャラクター体と呼ぶべきもののメタモルフォーゼを露出させている。しかし、何にでもなれる「それ」は、歴史から取り残されることで(あるいは歴史そのものになることで)、「何者にもなれない」(原作13巻#119)と口ごもらざるをえない(だからこそそこから13巻以降の展開が始まらざるをえない)。不死性ゆえに支持体から距離を取ることができないこの点で、本作はアニメーションの構造そのものを示す作品としても受け取れるはずである。更には目下『マギアレコード』続編も控えている今、「アニメートされる〈屍体〉」を再度問う意義は大きい。

 昨年末からのEテレ再編問題もいまだ燻り、Netflixなどによる「クール」の解体が足元で進行しつつある現在、『羅小黒戦記』を起点にしてアニメーションと(多くは)日本にすまう私たちとの関係を問い直すことは、大きな意義を有するものと思われる。

 

2、vol.5s 検討・寄稿募集作品(例)

 アニメーション技術によってのみならず、広く制度・資本・文化(vol.5.0の話題)によって「動かされる身体」と、反転して「動き出すキャラクター」を包含する作品は、全て対象とする。2020-2021の例であるものの、下記の作品群を念頭に自由に選んでいただきたい(※限定する趣旨ではないことに留意)。

 

(1)アニメートされる屍体/身体
・マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝(2nd SEASON含む)
・かげきしょうじょ!!
・劇場版 Fate/Grand Order
・劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト/ 再生産総集編ロンド・ロンド・ロンド
ゾンビランドサガ(リベンジ含む)
不滅のあなたへ
・MARS RED
・シャドーハウス
ウマ娘 プリティーダービー(Season 2含む)
WIXOSS DIVA(A)LIVE
ワンダーエッグ・プライオリティ
・劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel]
・神様になった日
・アサルトリリィ BOUQUET
など

※ 間に合う場合には2021秋『結城友奈は勇者である-大満開の章-』なども含む

(2)ロボット/機械/身体
・SSSS.DYNAZENON/SSSS.GRIDMAN
NOMAD メガロボクス(2含む)
スーパーカブ
・Vivy -Fluorite Eyeʼs Song-
シドニアの騎士 あいつむぐほし
ガールズ&パンツァー 最終章
など

(3)コマ撮りアニメ/パペット・アニメーション
・PUI PUI モルカー/マイリトルゴート
Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀
・でざいんあ(Eテレ)ほか
など

 

3、寄稿募集要項

(1)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。

 発刊時期は、2021/11/21、東京文フリにて発刊予定です。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 1600字程度から20000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1600字程度まで。

 ③掌編小説  : 2400字以内

 

b. 形式

 .txt または .doc

 

c. 締め切り

①第一稿:2021/09/30(木)

(※ 第一稿に、自身で納得いかない場合には、ドラフトまたは納得いかない点を送付くださいましたら一緒に考えられますので、よろしくお願いいたします。)

②最終稿:2021/11/01(月)

③相互コメントやりとり期間:②までの期間・随時 @dropboxほか

(※ いずれも個別に連絡いただけましたら延長することは可能ですが、大幅な延長につきましては相当の期間前に相談くださいましたら幸いです。)

 

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

 

(3)進呈

寄稿いただいた方には、本誌2冊を進呈させていただきます。

 

 

寄稿募集:アニクリ第二期創刊号 vol.11 "Re-taking Evangelion Seriously" #C99

1、検討・寄稿募集作品

 

(underconstruction) 

 

 

2、寄稿募集要項

(1)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。

 発刊時期は、2021/05/04、夏コミC99です。

 ※『シン・エヴァンゲリオン』公開が遅れておりますため、上記日程は見込みとなります。寄稿者各位は状況注視の上、待機くださいますようよろしくお願いいたします。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 1600字程度から20000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1600字程度まで。

 ③掌編小説  : 2400字以内

 

b. 形式

 .txt または .doc

 

c. 締め切り

①第一稿:2021/04/04(日)

(※ 第一稿に、自身で納得いかない場合には、ドラフトまたは納得いかない点を送付くださいましたら一緒に考えられますので、よろしくお願いいたします。)

②最終稿:2021/04/18(日)

③相互コメントやりとり期間:②に至るまでの期間・随時 @dropboxほか上

(※ いずれも個別に連絡いただけましたら延長することは可能ですが、大幅な延長につきましては相当の期間前に相談くださいましたら幸いです。)

 

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

 

(3)進呈

寄稿いただいた方には、本誌2冊を進呈させていただきます。

 

 

3、発刊趣旨

 

(underconstruction)

 

寄稿募集:アニクリ 2020春号 vol.4s「特集 アニメートされる〈屍体〉/葬送の倫理」(仮) #C98 #bunfree

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1、vol.4s 検討・寄稿募集作品(例)


メイドインアビス 深き魂の黎明』、見ていただけましたでしょうか? EDカッコ良すぎとかいう点は超えて、本当に小・中学生の時にこの作品に出会いたかったな、と思う次第です。生き方が変わっていたかも(いなかったかも)しれません。

さて、アニクリvol.4.0「境界線上の身体」およびvol.4.5「ガルパン総特集号」のテーマを引き継ぐ形で、アニクリ新号vol.4sでは「アニメートされる屍体」をテーマとして、関連する諸作品を広く募集いたします。

折しも、『Fate』シリーズのHFの完結を目前とし、ゾンビランドサガの続編を控えている現在、〈屍体/死体〉という切り口から(究極的にはアニメーションの初期からその主題とされていたはずの「モノを動かす」ということから)2020年に至る「アニメ」についての振り返りの機会としていただけましたら幸甚です。

近日中に追記しますが、現状では(例えば)次のような事項に関連する作品について、皆様の関心を惹起する作品が思い浮かんだら、お寄せください。

(ぜひ作品例として明記させていただきたく思います。)

 

(1)キャラクターとしての「ゾンビ/屍体」を中心とするアニメ

 ・メイドインアビス

 ・ゾンビランドサガ

   ・スペース☆ダンディ

   ・ドロヘドロ

 ・甲鉄城のカバネリ
 ・がっこうぐらし!
 ・さんかれあ
 ・フランチェスカ
 ・屍者の帝国
 ・さらざんまい

 ・灰羽連盟

 ・死者の書 など

 

(2)モノを動かす/『Thunderbolt Fantasy』からクレイ・人形アニメーションへの遡行

 

(3)「バグ」/「リミテッド」を含み込む身体
 ・vol.7sにおける各作品を参照

 

(4)動かされる/召喚される死体
 ・AIみそらひばり/初音ミクと不在者のパブリシティ権
 ・Fateシリーズ(Fate Grand Order/HF/UBW/Zero全て含む)

 

(5)「キャラクターの死」にまつわる作品群

etc etc..


(* 例示は対象作品を限定する趣旨ではありませんので、「これ入れろ」というのがございましたらリプライやメールなどください。なんなら特にリプなどなくとも送りつけてください。)


なお、以上の点につきましては、アニクリの寄稿者・こもんさんから諸々のプッシュをいただいておりましたところで、皆様のお力添えになるかもなので、一部、引用させていただきます。


「松浦は、映画がゴダールのいうように1秒に24回の死だったとしても、映画が死を直接露呈させたことはないのではないか、死者すら長時間映すことは憚られてきたのではないか?と問うています。むしろ、映画を取り囲む環境は、死者のいない葬列、輪廻のように途切れなく循環する世界、そういうものが似つかわしいといいます。もうひとつ、ベルクソン論ではベルクソンが心霊研究の学会で論考を発表したりしていたことを取り上げて、持続の切断としての死はやはりベルクソニスムには場所を持たないと論じています。だから、ベルクソニスムにとって死は通過点であり、心霊的な死後の生はオカルトでも不可知論でもない、持続が理論的に要請してることだったのだと。」
「もちろん、そこから返す刀でドゥルーズのシネマも問題になります。」
「このへんを念頭において、ラマールが宮崎駿について、特にその「大自然」という宮崎アニメを支えるシステム、環境?、摂理?について言っていることを論じてみたい、宮崎が腐海の底で大いなる浄化が進行していることを信じることができるのは「大自然」という自らのアニメが取り込まれている大いなる循環のシステムを信じているからだと。描線も、運動も、キャラクターも全てがその循環に巻き込まれている。これはまるでベルクソニスム…?死者を欠いた葬列?と。」(@commonko)

 

 

2、寄稿募集要項

(1)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。

 発刊時期は、2020/05/03、東京文学フリマ+C98(夏コミ)です。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 1600字程度から20000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1600字程度まで。

 ③掌編小説  : 2400字以内

 

b. 形式

 .txt または .doc

 

c. 締め切り

①第一稿:2020/03/30(月)

(※ 第一稿に、自身で納得いかない場合には、ドラフトまたは納得いかない点を送付くださいましたら一緒に考えられますので、よろしくお願いいたします。)

②最終稿:2020/04/13(月)

③相互コメントやりとり期間:2020/04/01(火)-2019/04/18(土)

(※ いずれも個別に連絡いただけましたら延長することは可能ですが、大幅な延長につきましては相当の期間前に相談くださいましたら幸いです。)

 

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

 

(3)進呈

寄稿いただいた方には、本誌2冊を進呈させていただきます。

 

 

3、発刊趣旨

(underconstruction)

寄稿募集:アニクリ 2019冬号 vol.10「特集 総記:京都アニメーション」/制作協力(グロス請け)PRANK! 制作チーム #C97

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差出人不明

 これはあなたを守る魔法の言葉です。
 ●●●●
 ただそう唱えて

   Violet Evergarden: Eternity and the Auto Memories Doll

 

... the other’s sur-vival exceeds the “we” of a common present: brings together two friends, “incredible scene of memory,” written in absolute past; dictates madness of amnesic fidelity, forgetful hypermnesia ...
   Jacques Derrida, Memoires for Paul de Man(1988) 

 

Wo­-
gegen
rennt er nicht an?

Die Welt ist fort, ich muss dich
tragen.

 In-
 to what
 does he not charge?

 The world is gone, I must carry you.

   Paul Celan, "GROSSE, GLUHENDE WOLBUNG " (VAST, GLOWING VAULT)

 

...According to Freud, mourning consists in carrying the other in the self. There is no longer any world, it's the end of the world, for the other at his death. And so I welcome in me this end of the world, I must carry the other and his world, the world in me: introjection, interiorization of remembrance (Erinnerung), and idealization. Mel­ancholy welcomes the failure and the pathology of this mourning. But if I must (and this is ethics itself) carry the other in me in order to be faithful to him, in order to respect his singular alterity, a certain melancholy must still protest against normal mourning. This melan­choly must never resign itself to idealizing introjection. It must rise up against what Freud says of it with such assurance, as if to confirm the norm of normality. The "norm" is nothing other than the good conscience of amnesia. It allows us to forget that to keep the other within the self, as oneself, is already to forget the other. Forgetting be­gins there. Melancholy is therefore necessary. 

「...「規範」とは、健忘症者の潔白意識(良心の痛みの無さ=bad conscienceの欠如)に他ならない。そのおかげで私たちは、他者を自己の内部に自己として保存すること(※ 喪)、それはすでに他者を忘れることだということを、忘れることができる。忘却が、そこに始まるのだ。だから、メランコリーが必要なのだ」
   ジャック・デリダ『雄羊 Bélier』第5章

 

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このたびも多くの方に寄稿いただき、A5版、本文188頁となりました。ご協力くださいました寄稿者のみなさん、コメンテータのみなさん、そしてPRANK!さんチームの皆様に改めましての感謝を...

 

表紙は大変迷いましたが、上記の通りとなります。寄稿募集時の「名」というテーマをさらに広げる形で「生き延び Sur-vie」というテーマに接続しています。

現在の我々をこえた関係...でありながら、決して現にあったことはない関係。しかし偽の記憶というわけではなく、むしろ現になかった(あるいは私の中ではこうだった)という「記憶」で自分を免責することそのものが許されないような関係。そうしたものについて、検討を加えたいと思いました。

ルビというか読み仮名についてですが、すでに世を去った人の各様の「生き延び」に加え、残された我々から見た「生き延び」(ただしエピグラフに掲げたように、決して勝手な理想化や体内化に還元しえないものとしてのそれ)に近づくべく、「耐え・担いtragen=carry」につなげ、ルビで「耐え存え」という読み仮名を提案した次第です。

...となるとやはり『AIR』であろうということで、両開きで、カラーリングを変えて、対称の構図(ただし目次ページなどで確認できるように微妙にずれているもの)で構成するのがよかろうというところでまとめてさせていただきました。ポスター右肩のセリフは次の通り、国崎往人のセリフからです。

「ひとは、変わってゆくことが悲しいんじゃない。 変わらなければ生きていくことができないことが、 寂しいだけなんだ」

もちろんこの変わりゆきそのものが、生者にしか許されていない特権であることは避けて通れません。「変わること(悲しみ)」や「変わりながらしか生きられないこと(寂しさ)」が原理的に許されていないものたち(...死者・キャラクター・いまだ生まれざるものたち..)にとっての「変わること」とはどのような意味を含むのか。

...というところが本号を通じた問いとなります。

 

ポスターのテーマ「Sur-vie」の後に付した副題は、こうしたあれこれを想起いただくために最後に付け加えました。「彼方」という語には、辞書的な意味にすでに含まれているとおり、物理的な距離のみにならず、過去の時間、そして(二人称的/三人称的)呼びかけの声が含まれています。各様の響きを聴取し、表紙・テーマ・ルビ等々とともに、解釈くださいましたら幸いです。

 

目次は下記の通りです。

 

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A side 1 【フィクションと旅する 終わりなき喪/継承】

 subject. 武本監督作品、ツルネ、中二恋を中心に

 

[巻 頭] 安原まひろ 「アニメのなかに世界を見いだすこと 武本康弘の映像」

武本康弘作品(ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルてAIRらき☆すた氷菓)ほか論

[10 - 17 ] 土屋誠一 「疑似恋愛的五角形の美 『ツルネ 風舞高校弓道部』論」

 ツルネ論  

[18 - 23 ] 岡村真之介 「旅と風景 アニメとゲームから感じる世界の手触り」

 けいおん! ヴァイオレット・エヴァーガーデン、DEATH STRANDING ほか[聖地巡礼]論 [24 - 37] 古戸圭一朗 「不可視の境界をともにすること フィクションを旅する」

 中二病でも恋がしたい!

 

A side 2 【デッド・レターと郵便配達】  

 subject. ヴァイオレット・エヴァーガーデン

[38 - 49] みら 「 「匿名希望の手紙」 」    

 ヴァイオレット・エヴァーガーデンほか論  

[50 - 57 ] tacker10 「スクラップ・アンド・ビルド 「廃墟」たる「漫画映画」との偏差から考える種々の表現」    

 [アニメ/アニメーション]論   

[58 - 61 ] yono 「 『外伝』という「贈り物」 」    

 ヴァイオレット・エヴァーガーデン

 

A side 3 【私信 京都アニメーションが生み出したもの/生み出し続けるもの】

 

[62 - 71 ] すぱんくtheはにー 「 『私は京都アニメーションが嫌いだ』 付 解題 」

 [京都アニメーション] + [視聴者倫理] 論] 

 →編者解題「語られたことと語られなかったことから」 

[72 - 77 ] Barde 「瞳の中」    

 [小説]  

[78 - 91 ] フクロウ 「フィクションと現実のパラレリズム それを理解してしまったら、そのようにせざるを得ませんね」    

 [京都アニメーション] + [刑罰] 論

 

B side 3 【アニクリ・アーカイブ vol.4.6 「死/廃墟から透かした2019劇場アニメ」 】  subject. ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝

[96 - 129 ] (再録)アニクリvol.4.6

・すぱんくtheはにー 「 『だから私はエンドロールに手を合わせた』 」 & 「応答未満の自己言及」    

・tacker10 コメント 「それは、さながら献花の如く」 & 「あらためて修辞的運動の岸辺に立ってみて」    

・橡の花 コメント [無題]   

・フクロウ 「名前と媒介性 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 永遠と自動手記人形』評註」   

・あんすこむたん 「未来を示す郵便配達人 テイラーはなぜ自分の手紙を渡すために茂みから出てこないのか」    

・竹内未生 コメント 「過去と未来の郵便配達人」   

・yono 「 「その後」にどう描くかということ」 

[130 -141] unuboreda 「身勝手な愛を開く言葉 複層化する時間と間コマ/ショット性」

 ヴァイオレット・エヴァーガーデン

→ 付:tacker10コメント「手紙として受け渡されていくために必要なこと」

[142-145] みら 「アニクリ vol.4.6への手紙」    

 [アニメ/映像批評] 論

 

B side 2 【京アニのひと/キャラクター、その実存】

 subject. バジャのスタジオ、ハルヒらき☆すたかんなぎ、Wake Up Girls!、CLANNAD中二病でも恋がしたい! ほか 論

 

[148 -149] あんすこむたん 「 「境界」の〈彼方〉 過去と未来を巡る物語」

 境界の彼方

[150 - 157] サカウヱ 「 「あの人」は今 『ハルヒ』『らき☆すた』、そしてオタクを考える」

 山本寛作品(ハルヒらき☆すたかんなぎ、Wake Up Girls!)ほか論  

→ 付:古戸圭一朗コメント [無題]

[158 - 169] 北出栞 「京アニ作品にとってキャラクターとは何か インターフェイスからメディウムへ、アクターそしてキャラクターそのものへ」

 CLANNADけいおん! 中二病でも恋がしたい! ヴァイオレット・エヴァーガーデン

[ 170 - 171] あんすこむたん 「アニメーションという魔法 バジャのスタジオのメッセージ」

 バジャのスタジオ 論

 

B side 1 【特別収録】京都アニメーション作品履歴2002-2019

 

[巻 末 ] PRANK!チーム(羽海野渉、なーる、ウインド、永井光暁(アレ★Club)、小菊菜、LandScape Plus PRANK!編集チーム)

 京都アニメーション作品履歴2002-2019

 

以上です。コメンテーターの表記が一部抜けておりまして、こちら大変失礼しました。(tacker10さん、古戸さんご迷惑おかけいたしました。)

 

 

本文は以下のような感じです。安原まひろさんの冒頭カラー+白黒頁のイメージです。

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当日は、これまでの京アニ関連本(2018/08 - 2019/08発刊)と、基本は会場でしか頒布できない「SSSS.GRIDMAN」表紙のバグ号(2019/08発刊)残部も持っていきます。

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以上どうぞよろしくお願いいたします。(2019.12.28更新)

 

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下記のとおり、掲題のアニクリvol.10を作成いたします。是非みなさまご寄稿のほどどうぞよろしくお願いいたします。

なお、制作協力(グロス請け)でPRANK! 制作チームのみなさんに協力いただけることとなりました。紙面充実にご協力くださるチームの方も、是非ご参集くださいましたら幸いです。

 

 

1、vol.10 検討・寄稿募集作品(例)

 

(1)TVアニメ

フルメタル・パニック? ふもっふ

AIR
フルメタル・パニック! The Second Raid
涼宮ハルヒの憂鬱
Kanon
らき☆すた
角川コミックス・エース
CLANNAD
CLANNAD 〜AFTER STORY〜
木上益治
涼宮ハルヒの憂鬱(2009年版)
角川スニーカー文庫
山田尚子
けいおん!!
日常
氷菓
中二病でも恋がしたい!
たまこまーけっと
Free!
境界の彼方
中二病でも恋がしたい!戀
Free!-Eternal Summer-
甘城ブリリアントパーク
響け! ユーフォニアム
無彩限のファントム・ワールド
響け! ユーフォニアム2
小林さんちのメイドラゴン
ヴァイオレット・エヴァーガーデン
Free! -Dive to the Future-
ツルネ -風舞高校弓道部-

 

(2)劇場アニメ・OVA

MUNTO

天上人とアクト人最後の戦い
涼宮ハルヒの消失
映画けいおん!
"小鳥遊六花・改
〜劇場版 中二病でも恋がしたい!〜"
たまこラブストーリー
"劇場版 境界の彼方
-I’LL BE HERE- 過去篇"
"劇場版 境界の彼方
-I’LL BE HERE- 未来篇"
"映画 ハイ☆スピード!
-Free! Starting Days-"
"劇場版 響け!ユーフォニアム
〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜"
映画 聲の形
"劇場版 Free! -Timeless Medley-
絆"
"劇場版 Free! -Timeless Medley-
約束"
"劇場版 響け!ユーフォニアム
〜届けたいメロディ〜"
特別版 Free!-Take Your Marks-
"映画 中二病でも恋がしたい!
-Take On Me-"
リズと青い鳥
"劇場版 響け!ユーフォニアム
〜誓いのフィナーレ〜"
劇場版 Free!-Road to the World-夢
"ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝
-永遠と自動手記人形-"
Free!完全新作劇場版
劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン

etc etc..

(* 例示は対象作品を限定する趣旨ではありませんので、「これ入れろ」というのがございましたらリプライやメールなどください。なんなら特にリプなどなくとも送りつけてください。)

 

 

2、寄稿募集要項

 

(1)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。

 発刊時期は、2019/12/31、冬コミC97です。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 1600字程度から20000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1600字程度まで。

 ③掌編小説  : 2400字以内

 

b. 形式

 .txt または .doc

 

c. 締め切り

①第一稿:2019/11/17(日)

(※ 第一稿に、自身で納得いかない場合には、ドラフトまたは納得いかない点を送付くださいましたら一緒に考えられますので、よろしくお願いいたします。)

②最終稿:2019/12/8(日)

③相互コメントやりとり期間:2019/12/9(月)-2019/12/15(日)

(※ いずれも個別に連絡いただけましたら延長することは可能ですが、大幅な延長につきましては相当の期間前に相談くださいましたら幸いです。)

 

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

 

(3)進呈

寄稿いただいた方には、本誌2冊を進呈させていただきます。

 

 

3、発刊趣旨にかえて

 

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(全面的な救いではないにしても)一つの救いなしにはこの告知はなかった。数日前、事件によって傷害を負った方の全てが回復の途上にあることが告げられたニュースなくしては、この告知はなかった。

 

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今冬に向け、アニクリ10号「特集 総記:京都アニメーション」(仮)(通算20号)を発刊する。

当たり前だが、京都アニメーションは過去ではない。本号以後も(あるいはこれに先立つ9号シリーズも含め)、10号シリーズについては続刊を予定している。よって全てを今取りまとめる必要はなく、またそうするべきでもおそらくない。事件の渦中のいまにおいて、名状しがたい想念を数多抱える方々に、ぜひご参加いただければ幸甚である。

とは言え、2019年のいま、京都アニメーションについて取りまとめるというのは極めて難しい。事実関係が不明な点が数多くあるのみならず、一つ言葉を出せば、一つ以上の異論と観点とが即時に提示される状況にあることもその一つではある。あまりにも重い文脈とあまりにも多くの代表させられるものが、そこには憑き纏っている。

ある人は被害者の側から事件に迫り(あるいは寄り添い)、ある人は加害者の側から事件に迫り(あるいは寄り添い)、ある人は視聴者=ファンの側から事件に迫り(あるいは寄り添い)、ある人は事件と似た作品との連関から事件に迫り、そして、ある人は「業界」から、あるいは「オタク」から、あるいは「安全管理」から、あるいは(時代の)「狂気」から事件に迫ろうとするかもしれない。あるものは共苦であり、あるものは野次馬根性であり、またあるものは妄想でもあるだろう。

これらのうち、どれが正しいというわけではないし(どれもその人ごとの距離を示している)、「正しさ」を決める権限の所在が制度的に決せられているわけでもない。ましてやアニメ批評においてはなおの事である。(この2010年代においてアニメ批評(およびそれを代表するものたち)なるものが確固として存在しているなど、編者には信じがたいことのように思われる。)
しかし、もしも(ある種のアイロニーを抱えながらでしか存立し得ない)アニメ批評の場がこの事件を経てもなお生き延びるとするならば、次号で取りまとめたいのは、こうした諸々の観点が競合することで形作られる言論状況と時代認識にある。(集団の、あるいは時代の)「代表」という臆見の外にある烏合の集団の呟きと分析の集積の一端を、少なくとも次号では掬い取りたいと考えている。

 

---

そこで次号は、

①総論において、京都アニメーション作品についての通史的な概観を得る(それによって想起のための足がかりとする)ための論考を募集することに加え、

②各論においては、京都アニメーションが携わった各作品における「名」に関しての論考を募集したいと考える。京都アニメーションという名(それに伴う歴史)、スタッフの名(その公表基準)、ジャンルの名(その恣意性)、作品の名(その入れ子性)、キャラクターの名(その固有性)等々)

あるものをそれとして名指すこと。そこにはプライベートなものをめぐる闘争があり、名付ける(画定する)ことに伴う暴力がある。一方で、名無しには存在しないコミュニケーションの連鎖への希望があり、名付けることができないままに忘却の穴へと沈む事物たちへ向けられる絶望がある。

全く不明瞭な言い回しであることは自覚しているが、事件後に編者の頭を悩ませているのはこれらの点であり、寄稿者の方々とのやりとりの中で、この点についてともに考えていただければと思ってやまない。

 

---

例えば、劇場アニメ作品『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』もまた名の話から始まる。「僕の名前はイザベラ・ヨーク、ここは僕の牢獄だ」。この言葉に始まり、作中では(最愛のその人から)呼ばれることのない「魔法の言葉」につながる物語のことである。

(1)一つには、本作は偽名から始まる物語であることを思い出す。言及するまでもないが、イザベラの真の名は「エミリー」である。しかし、政略婚の道具に使われた「イザベラ」の名が完全に偽名というわけではない。というのも、イザベラにとって、本当の名と偽名とが対峙しているわけではないのだから。イザベラは、「イザベラ」の名を(愛するものの生活保障との)衡量の下で自ら受け入れてしまった(そして受け入れてしまった決断=暴力が政略婚を図ったものたちと同種のものであることにこそ絶望しているのだ)し、イザベラを構成する「一つ」の歴史=制度を選ぶことで、綽名たる「エイミー」のもつ愛する者(テイラー)との歴史=物語を守ったのだから。それゆえに、「イザベラ/エイミー」という名は、自他の認識(齟齬)と、自他の暴力の記憶(齟齬)をまたぎ、錯綜する争点をなすことになる。

(2)いまひとつには、本作において、その名が常に遅延していることを思い出す。「エイミー」という名は、早々に視聴者に開示されるにもかかわらず、それが到達することは「決して」ない。テイラーからの手紙が、城から抜け出た湖畔のイザベラに届いてなおそうである。テイラーは容易にイザベラに会えるにもかかわらず茂みを出ることはないし、イザベラもまた、テイラーの所在について問いただすことはない。編者はここに、手紙というメディア、より広範には、時差を伴って名を届けることに主眼があるメディアの特質に思いを馳せることになる。「イザベラ/エイミー」という二重の名を持つ者から手向けられた「魔法の言葉」=「もう呼ばれることのない名」=「(愛していたから)捨てた名」の含意について、その「魔法の言葉」が未来の希望をなす所以について、思いを馳せることになる。

この読解がもたらす、現実の名を持つスタッフたちの名への敬譲とともに。

 

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本号の売り上げは、前号vol.3.5「アニメにおける音楽」号と同じく、全て京都アニメーションに寄付することとさせていただくこと、お許しいただけたら幸いである。

 

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名を除いた全て=全て救われた名 tout sauf le nom 

  

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一つの名が与えられるとき、そこでは一体何が起こっているのか? そして、そのとき人が与えているものとは、一体何だろうか?
 人は、一つのものを送るのではない。人は実際にはなにものをも引渡しはしない。しかし、そこにおいて、何事かが生起する。何ごとかが、人が現に保有していないものを与えにやってくる。かつてプロティノスが「善」について述べたように。
 結局、綽名で呼ぶことが必要とされる時には、何が起こっているのか? 端的に言えば、名が欠けていることが明るみに出る場所において、再び名付けねばならないとき、一体そこでは何が起こっているのか?
 一体、何が固有の名を、綽名の一種へと変えてしまうのか? 何が固有の名を、筆名(偽名=ペンネーム)に、また匿名(秘密の名)に、変えてしまうのか? 何が固有の名を、 どうしたってその瞬間においては特異であり、翻訳不可能なままに留まるものものに、変えてしまうというのか?
...
 3書を隔てているものの一切にも関わらず、『パッション』『名を救う=名を除いて』『コーラ』の3書は互いに呼応しており、一つの地形の輪郭をなすことによって、互いが互いを照らし出しているようにみえる。
 3書のタイトルが揺れ動く、その構文上の布置において、読者は「あたえられた名についてのエッセイ」を読み取ることができるかもしれない。言い換えれば、無名や換喩、古名や匿名(秘密の名)、筆名が与えられるときに、一体何が起こるのかを、読み取ることができるかもしれない。それゆえ、名が受け取られるときに一体何がおこるのか、義務を負った名に一体何がおこるのかをも。
 言い換えれば、人が名に負っているもの、名という名に負っているもの、それゆえ、綽名に、義務(=与え、受け取るもの)の名に負っているものと同様に、犠牲に供さなくてはならず、与えなくてはならないものとは、一体何なのかを、読み取ることができるかもしれない。

ジャック・デリダ「読者への栞」

 

以上

寄稿募集:アニクリ 2019秋号(コピー本)vol.4.6「 “死” / “廃墟”から透かした2019劇場アニメ」事後報告+PDF配布

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お品書きです。(2019.11.23)

 

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新刊本編はカット袋状のものに穴あきのシートが封入されています。

(2019.11.24)

 

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紙版を購入できなかった方のために、アニクリvol.6.6「続・終物語」の時の鏡箱/横スクロール筒の時と同様にネットプリントで配布しようと思ったのですが、容量的にup失敗しましたため、下記の通り5年ぶりにnoteを立ち上げましたため、そちら経由にて配布させていただきます。一個100円です。

①アニクリvol.4.6_A ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝+ガルパン最終章

https://note.com/nag_nay/n/n02e86939a0af

②アニクリvol.4.6_B 天気の子+空青

https://note.com/nag_nay/n/n29a9e8d7c0b8

 

なお、紙版をご購入の方は対面伝書様にてDL可能(なはず)です。

※ PDFが欲しいがシリアルNoがないぞ...という人は個別にご連絡ください。( @anime_critique まで)

 

(2019.11.25)

 

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京アニの事件の後で、何を作ればいいのか(一つの同人誌というフォーマット上で何か面白いことをやるだけではなく、事件を別の形で思考するためにいかなる契機となるか)をあれこれ考えて、にえきらないままに当日になってしまいましたが、以下、編集として考えていたことを備忘的に記しておきます。

 (2019.11.23)

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(1) 穴について

 

パンチでくり抜かれた穴(傷)は、まずもって暴力そのものの痕跡であり、失われてしまった特定の部分の欠如であり、欠如がなにかを指し示してくれないという意味で「忘却の穴」でもある。

それは突如として噴出し、日常を途絶させ、日常に入り込み、不可逆的に日常とそれをとりまく環境を別の形に変えてしまうかもしれない。大規模テロであれ、もっとも個人的な事件であれ、このような一同人誌の紙面に穿たれた穴であれ、大なり小なりそうであるように。確かにこうは言えるし、その暴力のことは念頭に浮かびやすい。原理的に、歴史が1つで不可逆なのであれば、いかなるものについてもこの語りは適用できるからだ。

しかし、そういった被害の大きさやその回復不能性・計測不能性を言い募る語り口は、穴についての語りを、プログラム通りのもの、固定されたものにしてしまう。たしかに穴は穿たれたのであり、その穴は回復不能であり、計測すら不能かもしれない。被害を受けた側からすれば、生きている限り無限にこの欠如に向き合わねばならず、あるいは、まだ生きていないものにとってすら、この欠如の歴史そのものは継承されねばならない、とさえ考えられるかもしれない。

(ここで編者はデリダの「許し得ないもの」についての語りと歴史的災禍そのものの「傷つける真理」のことを、そしてすぱんくtheはにー氏の『宝石の国』論と氏をその後に襲った出来事のことを思い出す。もちろん関連して京アニ関連号とバグ号のことを思い出す。)

穴において何が見えないのか、穴を埋めようという試み(その欲望)が覆い隠すものは何か、穴を通して浮かび上がる意味(固有名/数)と非意味(必然としての意味を暴力的に付与されてしまう偶然)との間の間隙に宿るものは何か。

それが本号の問いであり、装丁の形式を定める指針である。

 

(2) 装丁について

あくまでも編集はということだけれど、今回の号では京アニの事件と「躓きの石(Stolperstein)」について考えることとなった。死者の名を一人一人刻み、過去への責任と未来への責任を引き受けんとする、あの真鍮板のことだ。

京アニの事件による36名の名前が仮に明らかになったとして、その名の取り扱いは尚も問題になる。作品との紐付けが必ずしもうまくいくわけではないのに、その名はクレジット(エンドロール)とともに「永遠」になるように思えてしまうからだ。(もちろん全くそうではないにもかかわらず)

36名の名前は、京アニ作品に触れてきたファン個人個人にとってももちろん重要である(マスメディアが喧伝し、見出してしまうような「社会的な意義」どうこうではなく)。作画から名へと遡行する鑑識眼が1つのアニメ語りの型をなしている。ように。しかし同時に、アニメという媒体が名と距離をおいてきたこともまた別の意義を有するのに...と、そのようにも思われるのだ。

指標としての名はもちろん本人そのものではないし、本人の筆致そのものを示すものでもない。しいてあげれば作品という(未完の)プロジェクト、あるいはキャラクターという(未完の)プロジェクト、あるいは...等々の名でしかない。

それにもかかわらず、死をめぐる事件は、個人に紐づけられた名を特権化してしまうし、名に対する欲望を喚起してしまう。死は(あるいは時間は、あるいは「経路」は)不用意に固有名を迫り上がらせてしまうというわけだ。

こうした逡巡は、指標にすぎない名に拘泥することの誤りばかりではなく、事件後に名が象徴的なものとなること、あるいは事件を思い起こすための触媒に落とされること、名が(歴史的に見て)必然的な意味を具備させられてしまうことの問題を惹起する。

 

そこで、名に触れないことによって作品に触れる、名に触れないことによってその人(が触れたことに)触れる...そのような触覚のことを、本誌では再現しようと試みた。単なる追悼でも、36の「石」を(一同人誌の誌面上に)並べるのでもないようなそれを...。

自ずから冊子の形態もそれに合わせて、冊子を広げて、捲って、覗き込んだならば、「穴」にすら落ち込めなかったものへと触れられるような誌面を目指すこととなった。つまりは、記念碑的に名前を与えられることによってむしろ損なわれてしまうようなものを拾い上げようとした。

①一つは印刷上で可能な穴と透過性を、②もう一つは物理で再現可能な穴をそれぞれ配置することとなった。具体的にはStolpersteinにならい、正方形の穴を物理的に誌面にはあけてある。他、文章の随所に文章を避ける(不可読的)黒「石」や、文章にまたがる(可読的)黒「石」を配置している。さらに、文章に被る半透明の「石」や、黒石を覆う白「石」を配置している。執筆者を示すのも石であるし、引用もまた正方形の「石」を浮かび上がらせる形状をもって表示している。

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同じ穴を塞ぐ石でも機能は様々である。例えば、奥を見通せてしまう(かに思える)その穴が、まさに見ることを通過させられてしまう不可視のモノを思い起こすために使われることもあるのだから。

さらには、穴はこうして意味によって埋められる穴ばかりではない。原理的に埋められない穴もあれば、埋めようとする営みによって連帯することに本体がある...そう言う穴もある(死者や秘密のことをここで思い出してもよい)。本誌で再現したのはその一部ではあるが、それに尽きるものではない。

本誌で再現したのは、①穴の性質(表現(色)の差異、物理の穴...)がもたらす差異であり、②その性質が穴の解釈に与える影響(言葉が乗るか、言葉を阻害するか)であり、③その解釈が意味を生み出す循環を受け入れるか否かという立場の差異である。

この着想はいくつかの著作に依拠している。一つは、
LINDA RADZIK, Historical Memory as Forward- and Backward-Looking Collective Responsibility(2014)
であり、いま一つは、
東浩紀の「ソルジェニーツィン試論」(1993)および「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」(2019)である。

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(3) 配布方式について

とはいえ、以上の趣旨を一同人誌のフォーマット上で仮に表現しえたとして、それはよくできた現在の記録に留まるのではないか。あくまでも自由な批評・評論の集積であることを旨とする本誌においてはそれでも問題ないようにも思われるが、同時に、いまなお進行中の事件に対峙する姿勢として「よくできた同人フォーマット」として頒布することに躊躇を覚える。

従って、荒削りなフォーマットではあるものの、読者には「制作進行」の役回り、あるいは「郵便配達人」or「代筆屋」の役回りを負っていただくのがよいと考えた。封筒に模した装丁にはその趣旨が込められている。お手に取っていただいた各人は、回収したシートに対して、死と廃墟について思いを馳せながら、自らの行程を辿り、考案し、追加することができる。反対に、積ん読にしてしまうと、おそらくページはバラバラになり、文章相互の連関をたどるのは、作画オタク的な努力なしには難しくなってしまうだろう。(それが嫌な場合にはホチキスで仮止めすることができる。)物理的損耗や散逸のリスクに対する緊張感とともに、シートを預かる役回りとともに、事件へ向かう1つの足がかりになれば幸いである。

 

手紙は必ずしも宛先に瑕疵なく届くわけではないし、変形されずに透明なコミュニケーションの道具に止まるわけでもない。衝撃によって物理的に穴もあくし、宛先不明となって歴史の穴に落ちるかもしれない。しかし、読者諸氏にはその手前で、この手紙類似の紙束に、例えば加筆し、例えば加工を加え、例えばあいだに自筆の備忘録を挿入することで、私家版アニクリを各人で作り出すことができる。手紙はその意味で「あなたの」宛先に送ることができる。

いまなお続く京アニの事件、これからもなお続く京アニの未来、そしてそれを受け取る視聴者-読者-寄稿者たち。それらの間にある転送プロセス、その連鎖を支えるプロセスに参与していただくことが、心ならずも不遇の歴史の経路を辿った京アニの喪に服し続けることであり、一回限りの喪で終わるのではなく、それに失敗しながら続けることなのではないかと考える。

 

願わくは、まずは本誌に開いたいくつもの穴にいくつもの解釈を張り巡らせていただきたい。その上で、その解釈に付随する欲望とその限界を可視化するための契機となれば幸いである。

 

(2019.11.23)

 

 

 

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夏コミお疲れ様でした。

 

さて、本年初頭から刊行についてtwitter上で示唆しておりました『アニクリvol.4s「アニメートされる〈屍体〉/葬送の倫理」』(2020.初春〜春)の刊行に先立ち、東京文フリ(2019/11/24)にて、

コピー本:『アニクリ 2019秋号vol.4.6「 “死” / “廃墟”から透かした2019劇場アニメ」』 

を発刊させていただきます。

 

[到着原稿リスト]

1.ヴァイオレット・エヴァーガーデン

・あんすこむたん「未来を示す郵便配達人 テイラーはなぜ自分の手紙を渡すために茂みから出てこないのか」

 →竹内未生コメント「過去と未来の郵便配達人」

・フクロウ「名前と媒介性」

2.天気の子論

・めんみ「自身を葬る 三つの「自然」の毀し方」

・猫鍋奨励会新海誠作品における廃墟の表象」

高橋秀明「せめて、よい夢を 代々木会館から考える『天気の子』論」

・フクロウ「令和元年日本のマニフェスト

・古戸圭一朗「重力への抵抗 "狂った世界"で生きるということ」

 →ねりま コメント

3.空の青さを知る人よ論

・フクロウ「昆布をアプリオリに優先すること」

・コラム「駆け寄られるべきは写真であってギターではない、それはなぜか?」

・コラム「あいよりあおい 空耳と時間」

・コラム「伝聞法則とその外 先回りするノイズ」

・コラム「誤差に向かって走る 大人びた子供たち」

・コラム「田舎の錆とルーティンと 頬に手を当てる仕草から」

4.[   ]

・すぱんくtheはにー「だから私はエンドロールに手を合わせた」

→ tacker10コメント「それはさながら献花のごとく」

 →answer「応答未満の自己言及、あるいは"最低"」

→橡の花コメント「 」

5.ガルパン最終章

・yono「「その後」にどう描くかということ」

6. HELLO WORLD

 ・コラム「幸せになること しかし、誰が?」

 

 

従来からvol.4sの告知はしておりましたため、すでに準備をいただいている方もいらっしゃるところと存じますが、vol.4sの作成・編纂には十分な準備を設けたく、掲題のテーマに紐づける形で2019年劇場アニメを俯瞰する号を作成したいと思います。

もちろん、vol4sで書くだろうテーマを先取りしつつ、2019劇場アニメ作品へと適用したり、比較したりする論考も大変嬉しいです。(来たるvol.4sにおける論の発展を期しつつ、編集部とのやりとりの時間を二重に確保することが見込めるため。)

※ なお、主としてアニクリ編集部の体制整備の観点から、アニクリvol.4sは2020の初春〜春にかけてのイベントにて、頒布を予定しています

 

もちろん、作品論を募集する趣旨ですので、2019年劇場アニメ作品が「死」を直接に描くものであるという解釈を取っているという趣旨ではありません。もっぱら現在の編者の関心を反映したものであり、少なくともいくつかの劇場作品の主題・演出・描写・技術に「死」という語から紐解くことで得られる視点があるのではないか、という着想のもとでの寄稿募集となります。

 

よって、コピー本のvol.4.6では寄稿者各位のテーマ設定は(もちろん各作品の主題/描写・技法等々に依存するため)任意ですので、「死」あるいは「廃墟」(あるいはそれを象徴する演出上の「水」の用い方や、3DCG・背景美術等に関する技術的側面からの検討などなど)についての見解を論考中のどこかで明示しつつ、選定作品を自由に評していただけましたら幸いです。

 

 

1、vol.4.6 検討・寄稿募集作品(例)

 

・空の青さを知る人よ
HELLO WORLD
ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -
二ノ国
・天気の子

・劇場版 Free!-Road to the World-夢
センコロール コネクト
薄暮
・きみと、波にのれたら
ガールズ&パンツァー 最終章
・プロメア
・LUPIN THE IIIRD 峰不二子の嘘
・劇場版 えいがのおそ松さん
Fate/stay night [Heaven's Feel]」
メイドインアビス(旅立ちの夜明け/放浪する黄昏)

etc etc..

(* 例示は対象作品を限定する趣旨ではありませんので、「これ入れろ」というのがございましたらリプライやメールなどください。なんなら特にリプなどなくとも送りつけてください。)

 

 

2、寄稿募集要項

 

(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷、A5、80頁程度で企画しています。

 発刊時期は、2019/11/24、文学フリマ東京です。

 是非お気軽にご参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 2000字程度から15000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1000字程度まで。

 

b. 形式

 .txt または .doc

 (英数記号は原則として大文字にて。二桁の数字の場合のみ小文字推奨。)

 

c. 締め切り

①第一稿:2019/9/29(日) *『Hello World』『空の青さを知る人よ』のみ10/26(土)

(※ 第一稿に、自身で納得いかない場合には、ドラフトまたは納得いかない点を送付くださいましたら一緒に考えられますので、よろしくお願いいたします。)

② *9/29にドラフトor草案を送付した方の第一稿〆切:2019/10/13(日))

③最終稿:2019/10/27(日)

④相互コメントやりとり期間:2019/10/28(月)-2019/11/17(日)

(※ いずれも個別に連絡いただけましたら延長することは可能ですが、大幅な延長につきましては相当の期間前に相談くださいましたら幸いです。)

 

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

 

(3)進呈

寄稿いただいた方には、本誌2冊を進呈させていただきます。

 

 

以上

寄稿募集:C96新刊③「アニクリvol.8.1 海獣の子供」レビュー本 寄稿募集について #C96

 

1、検討・寄稿募集作品:

 

アニメーション映画『海獣の子供』についてのレビューを募集します。

 

編者もまた本作をみてあっけにとられた者の一人ですが、この作品の(翻案の、映像の、運動の、音楽の)良悪、巧拙を語ることで、直ちに、発言者自身がアニメ/アニメーション作品に何を求めているのかをさらけ出してしまう/出させられてしまう...そんな作品であると考えています。(編者のこのコメントも、つぶやきも同様)

そんな作品のどこに着目して、何を語りうるか、皆さんのご参加をお待ちしています。

 

※なお、原稿集約状況によっては、コピー本からオフセット本への移行・統合もあります。ご協力のほど、何卒よろしくお願いいたします。

 

 

 

2、寄稿募集要項

 

(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷A5100頁程度で企画しています。

 発刊時期は、2019/08/12C96コミックマーケット(日曜日 西け31b)です。

 是非お気軽にご参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 2000字程度から10000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1000字程度まで。

b. 形式

 .txt または .doc

c. 締め切り

 最終稿:2019/07/28(日)

 (※ 7月中旬にドラフト段階のものでもいただいてやりとりできましたら幸いです)

 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊3種(音楽号・バグ号・海獣の子供号)の中から一冊を進呈させていただきます。

 

以上

【訂正表追加】アニクリvol.7s_特集〈アニメにおけるバグの表象〉発刊 #C96

www.dropbox.com

 

先日は夏コミお疲れ様でした。編集Nagです。

二冊刊行に加えて諸々の時期が重なった結果、いくつか本文に入れられなかったり、ミスが残ってしまったものがありました。この場をお借りしましてお詫び申し上げます。

当日までに見つかったものにつきましては、別紙として印刷→特装版のクリアファイル(地味)に訂正版を挟みつつ、「これからもバグが見つかったら(ないほうがいいのだけど)さしこんでいってね」というお話をしていたのですが、当日も早々に売り切れてしまい、その後お渡しする機会を逸しておりましたため、本文差し替え版をここに公開するとともに、訂正表を下記に掲げます。

 

www.dropbox.com

 

 

アニクリ vol.7s & vol.3.5  追加ファイル+正誤表

 

1、01_05_てらまっと+藍嘉比沙耶稿

 藍嘉比沙耶さんの自己紹介文が時間的に入れられなかったため、夏コミ当日配布。

 ※ てらまっと稿本文には訂正箇所なし

 

2、8_17_安原まひろ稿+竹内未生コメント

 竹内さんからのコメントが時間的に入れられなかったため、夏コミ当日配布。

 ※ 安原まひろ稿本文には訂正箇所なし

 

3、26_39_竹内未生稿

 図1−3等ハイフンが入っている箇所について、4箇所、「図3」等ハイフン抜きの表記とすべき箇所が残っていたため、20190826修正。

 ※p.29下:8-11行

  • (誤)実際の作中においては、図1-3のカットからカメラが左方向に急速に進むことで図1-1→図1-2の描写になる。このとき図1-3の緑の物体と...
  • (正)実際の作中においては、図3のカットからカメラが左方向に急速に進むことで図1→図2の描写になる。このとき図3の緑の物体と...

 ※p.29下:17-21行

  • (誤)このように図1-3の物体と図1-2の物体の同一性が理解されることは、それぞれの物体の特徴を結びつけて理解することを可能にする。つまり、図1-3で描かれる物体が、元々半球体なのではなく、...
  • (正)このように図3の物体と図1-2の物体の同一性が理解されることは、それぞれの物体の特徴を結びつけて理解することを可能にする。つまり、図3で描かれる物体が、元々半球体なのではなく、...

 ※p.30上:1-3行

  • (誤)ところで、図1-3で描かれる、まな板のうえに素材を置き、包丁によって一定間隔で切ってゆくというやり方は、「千切り」といわれる切り方を連想するだろう。
  • (正)ところで、図3で描かれる、まな板のうえに素材を置き、包丁によって一定間隔で切ってゆくというやり方は、「千切り」といわれる切り方を連想するだろう。

 ※p.30上:11-15行

  • (誤)このように緑色の物体が「野菜」として理解されることは、「野菜」の切り方として「千切り」は自然であることから、図3の活動が「千切り」であることを確証するだろう。つまり、緑色の物体が「野菜」であることと、図1-3の活動が「千切り」であることは、お互いに支えあうような推論なのである。
  • (正)このように緑色の物体が「野菜」として理解されることは、「野菜」の切り方として「千切り」は自然であることから、図3の活動が「千切り」であることを確証するだろう。つまり、緑色の物体が「野菜」であることと、図3の活動が「千切り」であることは、お互いに支えあうような推論なのである。

 

4、86_97_みら稿

 本文の図表の色彩が暗く図の読み取りに困難をきたすためカラー版と差し替え。期間限定公開のものと同。

 

5、98_100_田中大裕_講演記録

 当日までの編者のミスにより主催者への確認ができなかったため、改めて確認を受けて夏コミ当日配布。

 

6、110_123_あにもにのコピー

 フクロウさんからのコメントが時間的に入れられなかったため、夏コミ当日配布。

 ※あにもに稿本文に訂正箇所なし。

 

7、vol.3.5_16_37_難波優輝

 バグ号ではないものの、音楽号の方で編者と著者の間での図の受け渡し時にミスが発生し、図3が誤って図4と同一のものとなっている(※確認すればわかるが、若干似ているものの異なる。)ため、期間限定公開時に下図に差し替え。

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------以下寄稿募集時

 

 

 

溝口力丸 on Twitter: "アレクサ、全部消して
Hey Siri、あの子を止めて"

https://twitter.com/YahooNewsTopics/status/1134037049525149696

 

早乙女まぶた on Twitter: "バラバラにされた鳩羽つぐを修復しているがどんなに頑張ってもうまくいかなくて絶望的な気持ちで切断面をテープで繋ぎ合わせている(肩に腕、首に頭、それは分かっているのに、うまくいかないのだ)"

 

 

 [表紙: 進捗]

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「ミラーワールドとは、現実の都市や社会や私たち自身といった物理世界の情報が全てデジタル化された〈デジタルツイン〉で構成される鏡像世界のことだ。デジタルツインについてはドイツの「インダストリー 4.0」といったスマート製造業の文脈でご存知かもしれないが、ここで双子になるのは〈世界〉そのものだこのデジタルツインの世界では、デジタル記述されていない物体は、いわばダークマターでしかない。あるいは伝説のSFアニメ電脳コイル」において、それは単純に「バグ」と呼ばれる。12年前のこの作品で監督の磯光雄は、子供たちが没入する拡張現実の空間を描き出した。その空間とリアルのズレが「電脳コイル」と呼ばれるわけだけれど、僕らはまさにこれからふたつが重なり合う世界を生きることになるだろう。」

Michiaki Matsushima 2019, Wired, 33

 

「一つの時代の黎明期は、まだ誰も「起承転結」の「起」しかしらない。それで人生を語れる人間が、まだ一人もいない。(中略)気をつけたいのは、完成度を求めるあまり、こうした「起」しかない題材に、前世紀の「承転結」をくっつけてしまいがちなこと。21世紀の物語を作りにあたって、それは何としても避けたい。」

磯光雄 2019, Wired, 33

 

「いつの日か、地図製作組合は、帝国の地図を作り上げるだろう。それは帝国の領土と全く同じ大きさで、全ての地点が一致したものだ

Jorge Luis Borges

 

「現実の風景(ランドスケープ)と情報の風景(インフォスケープ)のあいだに大きな落差が生まれ、そしてインフォスケープもまた複数に分裂し始めている」

東浩紀, 2015, 『テーマパーク化する地球』(2019)所収

 

 

1、検討・寄稿募集作品例:

 

今号では、アニメ制作段階/映像/視聴段階など諸段階における「バグ」についての検討が可能な作品、あるいは、それらバグがいかに表象されてきたかについての検討が可能な作品を広く募集したい。

また、あわせてアニメにおけるサイバースペース(電脳空間)の表象(それは時に「精神世界」と地続きのものとして描かれてきた。)についての検討が可能な作品についても、広く募集したい。

なお、全体の章構成は、以下の通りである。 

 

【章構成】

第1章 状況:「作画崩壊」 archive 2018-2019(※)

第2章 アニメにおける「バグ」の表象(下記作品例参照)

第3章 実験アニメーションの現在 archive 2019.06.08

第4章 アニメにおける「サイバースペース」の表象(下記作品例参照)

※第1章については、①てらまっと 「多層化するスーパーフラット(4.0):藍嘉比沙耶とレイヤーの理論」、②ナンバユウキ 「作画崩壊の美学」、③DIESKE 「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」、④tacker10 「「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」に関するメモ書き」を改訂・再掲する。ここから、上記既存論考へのさらなるレビュー・コメントも広く募集する。

 もちろん、これら既存論考に加えて、「作画崩壊」に関する新規論考も募集する。 

 

【募集作品例】

SSSS.GRIDMAN

ケムリクサ

きみと、波にのれたら(※前号「アニメにおける線」の続き)

・・・ 

Serial experiments lain

TEXHNOLYZE

電脳コイル

妄想代理人

攻殻機動隊

イノセンス

.hack//SIGN

新世界より

シムーン

フラクタル

ハーモニー

ブギーポップは笑わない

・・・

などなど(上記はあくまでも例示に過ぎないため、自由に作品を選定いただきたい。)

 

 

2、寄稿募集要項

 

(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷A5100頁程度で企画しています。

 発刊時期は、2019/08/12、C96コミックマーケット(日曜日 西け31b)です。

 是非お気軽にご参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 2000字程度から15000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1200字程度まで。

b. 形式

 .txt または .doc

c. 締め切り

 最終稿:2019/07/21(日)

 (※ 7月初旬にドラフト段階のものでもいただいてやりとりできましたら幸いです)

 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

3、趣旨文:バグ号発刊にあたって

 

 

ダイクストラという人をご存じだろうか。ダイクストラは1930年オランダ生まれの計算機科学者で、 現在はテキサス大学にいる。ダイクストラは「構造化プログラミング」の提唱者であり、 現代のプログラマはこの人の名前を忘れてはいけないほど重要な人物である。その偉大なダイクストラがこんなことを述べている。「バグと呼ぶな。エラーと呼べ」 つまり、プログラマにとって非常になじみ深い「バグ」という言葉を使わないようにしろと言っているのである。「バグ」という言葉を使うかわりに「エラー」すなわち「誤り」という 言葉を使うように提案しているのである。ダイクストラの理由はこうだ。「バグ」という言い方は、あたかもプログラムの誤りがプログラマの見ていないうちに 自然に入り込んでくるような錯覚を起こしやすい。もちろん、 プログラムの誤りは自然発生するわけでもないし、プログラマがよそ見をしている間にのそのそとプログラム中に忍び込んでくるわけでもない。プログラムの誤りは、 プログラマ自身が作り込んだものなのだ。 「バグ」という言葉はこの厳しい事実を覆いかくしてしまうのである。ダイクストラはこのように主張する。(中略)

もっとも危険なバグとは、実はプログラム上の誤りではない。 もっとも危険な誤りはプログラマの意識の上の誤りである。 プログラムの誤りはいつの間にか入り込むものだという誤解こそ何よりこわいものなのである。バグはプログラムの中ではなく、プログラマの頭の中にいたのである。

結城浩, 1991330日, Oh!PC所収)

 

上記のダイクストラ発言のいわんとすること、その文脈は十分理解できる。

プログラムの誤りという意味での「バグ」というのは徹頭徹尾、人為の所産であり、後から混入した外在的なものではなく、それゆえにプログラマー責任の下にある(責任追及のための因果的起点は、まさに物理的にバグを生み出した設計者・製造者にある)、「ロボットに倫理を教えること」はできない、それに尽きる、というわけだ。

 

その文脈が必要とされた理由も、その風土も、もちろん理解できる。しかし、この文脈が限定的であることもまた十分に理解可能である。それは、何者かに責任を求める文脈を除いては、現に起こっている事態を記述するには、貧弱な道具立しか与えない。

 

例えば、人の手による制作を超えた政策について、「バグ」と「エラー」を、結果としての成果物から峻別することはほぼナンセンスである。

 

その成果物は、もとより、人間と(技術)環境が複合した所産である。

 

例えば、時を超える都市の同一性/逸脱についても、何も示しはしない。一つ以上の記述を内包する変形には、可塑的な歴史が折りたたまれる。

 

これを我々の認知の問題として検討してみる。

我々の認知能力側にあるイレギュラーなものの「レギュラー」としての認知についても、「バグ」を「エラー」へと置き換える用語法は、おおよそ何も示してはくれない。

 

私たちは、この点において、「私たちにとっての自然」を構築しつつある。錯覚であり、認識でもあるものとして。

 

制作においてもこれと並行的な取り組みは見て取れる。

 

かくして、リアルタイムの制作という理念が実現されつつあるように見える。

 

さて、今一度「バグ」に戻れば、"First actual case of bug being found."の逸話はあまりにも有名である。そこでは「バグ」とはプログラム上のエラーそのものではなく、作動を中断させ、あるいは別方向へと逸らす現象一般(およびその原因)を指す語として流通する。バグは、責任帰属以前の、我々の認識を新たにさせる経験として、バグはそこに(そこかしこに)現れる。

 

他にも、例えばゲームにおいて、我々はむしろ、そのバグすらも理解しようとし、そのバグを前提とした上で、その限定空間における最適解を発見したりすることも、ここで思い起こせるだろう。

「I hate this game」をプレイ。画面に出る言葉をヒントに男をドアに導くがそのバリエーションが異常に豊富&柔軟‼️QRコードを読んでパスワードを得たりウィンドウを最小化しないと行けない箇所があったりゲームを鮮やかに解体して新しい見事なルールを大量に提示する大傑作🔥https://t.co/wYIkqN3vXq pic.twitter.com/6FmqtAGCto

— ソーシキ博士 (@soshikihakase) May 21, 2019

「あなたのバグはどこから?」というわけだ。そこには、近時語られる「アニメーションの原形質性」という解釈枠組みとは別の、評価枠組みが現れる。

わたくしには、ここ最近のアニメーション研究における原形質性神話の解体のようにも聞こえました。巨大な鍋と期待するハイジと無視するおんじというCM前のカットから生まれるサスペンスを指摘されてましたので。

— 長谷正人 (@mtokijirou) May 27, 2019

(内在的なエラーかそうでないか、過失か無過失か、集団か個人かも問うことなく、「イレギュラー/リスク」が顕在化した時、我々は「バグった」という言葉を頻繁に用いている。このことの含意は大きい。)

 

 

状況論的にも、デジタルツイン/IoT時代の現代においては、リアルスケープ(現実空間)とインフォスケープ(情報空間)はますます相互依存的になりつつある。それとともに、「エラー」ならざるバグの領域はますます拡張しつつある。つまりは、我々ならざる行為者の所産を、自然として引き受けよという指令として、バグの領域は拡張しつつある。

そこに、新たな自然が発生するのは、文字通り自然である。

クロノ・トリガー』や『ペルソナ5』から影響を受けたという海外産JRPG『Cris Tales』。その体験版が6月24日まで配信中!過去・現在・未来が同時に見えるようになった少女の物語を描く https://t.co/EX8mqeob9K pic.twitter.com/ajMRN7QgK0

— IGN Japan (@IGNJapan) June 12, 2019

 

そうした想像力の行く先は、例えばlain, 電脳コイルにはじまり、ケムリクサに連なる90年代-10年代の本邦アニメの中で繰り返し描かれ、洗練されてきた。時に、サイバースペースへのハッキングと同時に描かれる精神世界での「解決」は、アニメ的想像力が外部の技術環境とともに拡張しつつある自体を示している。

他方、そうしたバグをあからさまに制作に取り入れる一群の作家もいる。(例えば、現代アニメーションの礎とも言えるマクラレンに始まり、NikitaDIAKURもまた、その一人である)

 

 

人為と自然は厳密に峻別できるものではない。人(あるいは人工物)が介在したとしても、自然的所産・自然的作用の可能性は拭いされるものではない。一人の人間の中においても、または集団制作の中においても、こうした観察レベルの融和は常に働いている。ましてや責任の語法抜きには、「バグ」とそうではない「エラー」の差はごく小さなものとなるはずである。

 

以上、こうしたバグという語の持つ、人為と自然の差異、(時間的、経済的によって)限定された環境と拡張された環境の差異を踏まえて、アニメ/アニメーション(制作・映像・視聴)における「バグ」というものの混入・利用(転用)・表象にはいかなるヴァリエーションがあるのか? それが現れた作品にはいかなるものがあるのか? 我々はバグ的なものにいかなる情動を掻き立てられるのか?

 

寄稿者に検討を依頼したい点はここにある。

 

 

 

 

 

 

こうしたハッキング的なもの=バグ的なものに対して、我々はいかに向き合えば良いのか。単なる平板なものへの希求ではおそらく足りない。そこには不可避的に政治的な問題が付随する。

murashit on Twitter: "TRIPLE HがSpotifyにぎゅうぎゅうに箱詰めされている様子です… "

 

我々に見えているものは何か。ナグが排除された状態とはなにか。反対に、バグが排除されないという状況において、目の前にあるものとは何か。「見えるものと見えないもの」。その現代的な形が問われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--------素材

音楽

現実

周防周 on Twitter: "夢見りあむは鳩羽つぐが動画をupし始めたとき感じた他のVtuberとは違った虚構と現実のズレに似ていて、入力も出力も結局は虚構なんだけど間に一つ現実が挟まっているんだよな。"

部分

ヴァーチャル・リアリティ

 projection mapping

 ヘッドアップディスプレイ

ロトスコープ

自律性

廃墟

ケムリクサ 

時間(速さ遅さ/過去未来)

批評

 

 

 

新刊「アニクリvol.3.5 特集〈アニメにおける音楽/響け!ユーフォニアム+ 号〉」 #C96

(訂正)

本誌掲載のナンバユウキさん論考中、主として編者のミスで、誤って図3が図4と同一となっておりました。

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訂正版を下記にてuploadいたしますので、紙版をお持ちの方もぜひこちらで差し替えくださいましたら幸いです。

この度は大きな誤りを見逃したままの発刊となり、大変申し訳ございませんでした。著者および読者の皆様に深く陳謝いたします。

 

www.dropbox.com

 

 

アニクリ編集部Nag

 

 

 

 

1、検討・寄稿募集作品

 

2019.04の劇場版を持って映像化が完結する『響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』に合わせ、〈アニメにおける音楽〉について論じることができる近時の作品についての評論・批評・論考を募集します。

 

※ 音楽アニメ論は元より、アニメにおける個々の音楽の分析、アニメに付される音楽の種類と効果、映像に音を付することの困難と工夫などを主たる検討対象として考えています。

※ 関連するアニクリ既刊の例として、2015.08刊行『アニメにおける音』特集号を起点として、2016.11君の名は。特集号、2017.08『劇場版ガルパン特集号、2017.11『声と身体』特集号、2018.08刊行リズと青い鳥号、2018.12刊行山田尚子監督作品』号を挙げさせていただきます。

※ なお、vol.3.0は本日、2019/02/26、メロンブックスDL様にて電子書籍にて復刊しました。お待たせいたしました。


例)

 

(underconstruction)

 

 

2、寄稿募集要項


(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2019/08/11、C96です。
 是非お気軽に参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 2000字程度から12000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:300字程度から1200字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り(第一弾)
 最終稿:2019/07/14(日)
 (※ 6月中旬に第1稿(ドラフト段階のものでも可)いただいてやりとりできましたら幸いです)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

 

3、発刊趣旨

 

  • 調べとリズムは言葉に従わなければならない。(プラトン『国家』)
  • おそらく私たちはモダニズムが抱くユートピアニズム(=不在の場所への憧れ)と、ポストオダニズムが示すディストピアニズム(=不全の場所の観察)を越えて、人間とは歴史の中に生きるものとして意識的無意識的に様々な場所を想像するものであることを認めるトピアニズム(=場所に立つ自覚)へと向かうべき時である。(Olwig, K. Landscape, place, and the state of progress)

 

物理的に還元すれば、音は媒体の中の自動的な振動である。物質的、生理学的、神経学的な必要条件としての振動を疑うものはいない。

音楽を視覚化する方法も多々あり、直感的にわかりやすい一例として下記のようなものが挙げられるだろう。

vimeo.com

 

もちろん、音楽の視覚化は各種試みられているところであり、下記の黒川良一氏のもの(偶然だがちょうど編者が2012年に観に行ったもの)などもこの例に連なる。

vimeo.com

 

しかし、我々に聴かれる音/音楽を論じるにあたって、上述した還元的な定義から説明しようとする向きは、決して大きな賛同を得られるものではないだろう。

振動は我々の耳朶の奥深くの毛細胞を揺らし、聴覚神経を刺激したうえで、我々に「聴かれる」ことによって音になる。精神的加工によってであれ、聴覚環境のパターン認識によるものであれ、振動は変換されなければならない。無限音階に代表される音の錯覚(錯聴 auditory illusion)など、聞こえ(sonority)にまつわる各種の困難と工夫の上で、音の響き(peals)は聴かれることになる。

※ なお、この音/音楽に関する議論と並行的なものを、色に関するニュートン-ゲーテ間における議論に見て取ることができる。ゲーテ『色彩論』は、古典的なニュートン的なスペクトルの差として色を把握する見解に対して、情動の差として色を把握する見解を打ち出した。「白いものは暗くされ曇らされると黄色になり、黒は明るくなると青になる」。なお、ウィトゲンシュタインの色彩論もまたこの延長でなされた検討である。

 

言うまでもなくアニメに付される「音」それ自体は、映像に対して外在的である。音を「リアル」に寄せるか、効果音として場面に(説明的に)付加するか、あるいは場面と無関連な音を配置するか。これらの問いは、まずは音響監督の手にかかっているが、同時に視聴者に「聴かれる」ことによって各種の効果を発生させることが期待されている。
とりわけ、楽譜(記譜)を持った「音楽」をアニメに移し替えるにあたっては、カット割と音楽/ストーリーラインと旋律の同期/ズレの構築など、数々の段階・作業を経る必要があることは言うまでもない。これを視聴者側で(一旦バラしたりなどして)組み直すことなしには、アニメにおける音楽の効果を十全に把握することは難しいように思われる。(一例

 

※ そもそも楽譜(記譜)を音楽に移し替える場面でも、潜在的には複数の段階・作業を経る必要がある点については、様々に議論されている。

 現在、楽譜(記譜)と音楽の関係については、「楽譜は表記法の中にあって、作品を定義する」指示であり、その実行の手前にあると考えられている(ネルソン・グッドマン『芸術の言語』を参照)。記述物や線描画がそれ自体として芸術であるのに対して、音楽は、楽譜に示された指示が実行されることにより芸術になる、というわけだ。しかし他方で、こうした観念が成立したのはたかだか18世紀末と言われる(Lydia Goehr, The Imaginary Museum of Musical Works)。長らく音楽は(演劇におけるスクリプトのように)都度の演奏行為において存在する、と考えられてきたのであり、旋律は明確な音程を持つ音連鎖ではなく「歌われるもの」であった。
 能の上演において(笛で「演奏」される)「唱歌」がそうであるように、「一つ」の音楽は、絶対音/絶対的な旋律の(近似的)再現ではなく、(標準化されない)指の配置、笛ごとに異なる音孔、声として表記される音色と言う、手や声帯と一体化した身体動作として現れる。これらの点については、ティム・インゴルド『ラインズ』(2007)第1章「言語・音楽・表記法」を参照されたい。

www.youtube.com

 

 

以上を踏まえ、アニクリ次次号は〈アニメにおける音楽響け!ユーフォニアム完結記念〉を取り扱う。

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4年前に刊行した〈アニメにおける音〉の続編であり、アニメにおける個々の音楽の分析に加え、アニメに付される音楽の種類と効果、映像に音を付することの困難と工夫などを主たる検討対象とする。

 

 

※ 4年前のvol.3.0に関する内容紹介は以下

nag-nay.hatenablog.com

 

nag-nay.hatenablog.com

 

 

以上