アニメ『四月は君の嘘』第四話カットについて:追い抜かれる視線(1)
本作『四月は君の嘘』についての細かな導入や説明は、公式サイトも原作漫画もwikiもありますし、おそらく別の方が詳しくやってくれてると思うので、ばっさり省きます。
ここでは、『四月は君の嘘』第四話の弾き直し後の演奏シーン、とりわけ、宮園かをりの「アゲイン」の後のふたりの演奏シーンについて、若干の検討をしたいとおもいます。
曲目は、サンサーンス作曲「序奏とロンド・カプリチオーソ」。その152小節以降最後までのわずか4分にも満たない演奏シーンに限って、今回の検討の俎上にあげます。
これを書いたときの筆者の疑問としては「音楽アニメにおけるカットはどう割られているのだろう?他の割り方と違うのだろうか?」という素人めいた疑問がありました。とはいえ、楽曲分析もしたことないのでお恥ずかしい限りですが、上記疑問に発した視聴雑感として、お目汚しお許しいただければ幸いです。
※ 参考にした録画映像の都合上、「アゲイン」後の弾き始めを00:00:54として、終わりを00:04:44として、秒数を数えています。各自の録画で見る際には、-54秒するなりして、調整を図ってください。
※ なお「そもそもこの曲よく知らないんだが…」という方は、1955年 オイストラフの手になるものがお勧めです。
1、進行とカット
(1)宮園かをり 単独での演奏部分 00:00:54 - 00:02:09
一旦演奏を取りやめた公生に続いてかをりも演奏を一旦止めた後、「アゲイン」と言って公生についてくるようにと述べ、152節、副主題Dのヴァイオリンパートから再度弾き始めるシークエンス。その後、公生の回想シーンが挿入される。
(00:00:54)
※ ちなみに副主題Dとはこの箇所から始まる箇所。
以下では、観客側のカットと、公生・かをりのカットが交互に挿入されていく。そこでは、観客側のカットが挿入されるタイミングと、公生・かをりのカットが入るタイミングの違いについて着目したい。
本節における仮説としては、
1、観客側のカットが挿入されるのは連続した音の切れ目である。旋律とともにカットを区切ろうとするなら、音の切れ目の直前(眼=視覚による処理は若干遅れるため)に置くのが最も自然に思える。そのため、おそらく観客側のカットのシーンで違和感を覚える人はすくないだろう、
2、これに対して、公生とかをりのカットが挿入されるのは、フレーズ・パッセージの中である、
というものだ。
具体的に見ていこう。
まずは、公生がいまだ伴奏を弾くことができず、かをりの演奏を追うことしかできないカット。
(00:01:00)
ここでのカットは、上に貼った副主題Dの直後、スラーで繋がっている「ラ♭」の直後に置かれる。ちょっと不思議な感じがする。公生の驚きをそのまま示した様な挿入箇所になっている。155小節。
続いて、そのかをりが再度弾き始めた様子を半ば呆然と眺めるカット
(00:01:04)
挿入箇所は、「ファソファミレ…」の二個目の「ファ」の位置。なんでこんな箇所にカットが入るのだろう?という違和感を初見で感じた。(そしてここから本稿を書く動機が生まれた。)(157小節。)
観客側へと移り変わる場面ではこれらと異なる。たとえば、椿アップのカット。
(00:01:08)
次いでなされる会話に至る溜めの意味から、二度目となる副旋律D冒頭部「ミミファソファミレ…」のフレーズ前に置かれたものと考えられる。(160小節)
より典型的なのが、舞台俯瞰カット。
(00:01:34)
挿入箇所は、「ミソ♯シレミ…」と音が流れる箇所の直前。同フレーズが二度目の登場であることもあって、ここでカットが区切れると安心な感じがする。俯瞰から一定のリズムを先んじて取る観客目線が表れてる感じ。(176小節)
そこから再度、公生のカットへ戻り、回想シーンへと入っていくという流れ。(00:01:39)
ここは微妙なとこだけど、作中でかをりが「ミ」の連続箇所を(あたかもタイ記号でも存在するかのように)繋げて弾いているところから、広い意味で中に置かれているといえるだろう。(178小節)
上述した違いを、ひとまずは、手前から観る側と真横で聴く側の違いとして提示してみてはどうだろうか、というのが、最初に本作『四月は君の嘘』第四話の上記演奏シーンを観たときに感じたところ。
つまり、手前にいる観客側としては、ある種のテンポに沿って観ざるをえないという事態を観客カットの連続は提示している。セリフ回しと関連づけて言えば、観客はコンクールの規範に沿って二人の演奏を観ている。そのために「じゃあなんであの子はまだ弾くの?」という発言や、「かをりちゃんをひとりで弾かせるのかよ」という発言などが当然のように飛び出してくる。これらの発言はそういう俯瞰的な視点を先取りしようとする手前性の表れなのではないだろうか。
翻って、これと対照的に公生は、かをりの音にこれから触発されなければならない者として置かれている。そのため、この段階における公生にとっての音は、観客的な規範的視線とはズレ、遅れて届かなければならなかった。これがカットとして、音のさなかに置かれた公生の気づきのカットとして表されているのではないだろうか。
ちなみに、このズレが一旦収まる(同期する)のが、ホワイトアウトからの公生の回想シーンにいたるカットである。かをりのヴァイオリンでいえば、下記に示した譜面の箇所のとおり、激しい上下音階の始まる直前の箇所にあたる。
(00:01:43)
ホワイトアウトでの溜めが入っての回想カットへの移行。この箇所の激しいパッセージは、公生が急き立てられるように回想を重ねて行くことと、軸を一つにしているようにみえる。(182小節)
(2)公生弾き始めから音を引き出すまで 00:02:10 - 00:02:47
さて、公生が弾き始め、自身の中から音を取り出すまでのシークエンス。
(00:02:01)
譜面では、三度繰り返された最後の「ミソ♯シレ♯ミ…」のフレーズにおけるレの音のときに最初に挙げた目を瞑った公生のカットが入り、直後公生はかをりを見る。これは、一度目の「ミソ♯シレ♯ミ…」のフレーズ時、回想で「私を見て」の言葉がおかれていたように、繰り返しを見過ごさないということの表れだろうか。
そうして公生は、上記三度目の「ミソ♯シレ♯ミ…」のフレーズにおいて、ようやく光差すかをりに目を向けるに至る。ここまで若干1.5秒。(193-194小節)
そうしてはっとした公生の顔のアップ
(00:02:05)
ここでもパッセージの真ん中に、公生のカットが挿入されている。つまり、このパッセージでは既に音階が降りてきているにもかかわらず、ねじ込むように、公生のカットが挿入されている。しかし、このねじこみも、流れ上は自然に思える。というのも、公生の急き立てられつつ「飛び込め」というセリフと、奇妙にも即応しているといえるためだ。(196小節)
(00:02:08)
(00:02:10)
楽譜冒頭「ミ」の箇所で、公生が曲に割って入るカット。本作では「ミ」の音が表現上伸ばされていることから、カットは直前という訳でもなく、音とほぼ同時にカットが入り込んだ印象を受ける。その上で、曲の主題Aの回帰とともに、公生は鍵盤をぎこちなく弾きはじめる。(199小節)
公生の「飛び込み」に気づき、これに応じるかをり。とはいえ、ここにいたってもなお、(公生ではなく)かをりの弾き始めにあわせたカットが採用されている。つまり、この段階では、かをりの主導権は揺らいでいない。
カットは、主題A冒頭反復の直前。かをり主導の安定感が示される。(207小節)
ここから先、一部小節が省略されている(というか公生の主観時間が早回しになっていることと、彼の耳の特殊性のため、表現としての音には表れていない)。
その後、彼が譜面も音も見ないことによって、ようやくかをりと目をあわせることができるようになるという場面へと繋がっていくところまで、回想シーンが続く。
(3)かをりと公生の役割転換 00:02:48 - 00:03:01
さて、00:02:28まできて、ようやく、かをりと公生のカット上の位置が反転するに至る。つまり、公生がかをりに先行する形で、音を引き連れるようにカットが振られていく。
まず、ヴァイオリンが先行するはずの「ドドレドララシラ…」のフレーズの直前、前のフレーズの位置で、公生のカットが挿入される。既にこの時点で、公生が次のかをりの音を準備していることがわかる。
(00:02:48 - 00:02:50)
譜面で言うと、冒頭「ファ」の音からカットが入る。上記のとおり、254小節までが意図的に削除されていた編集の都合から考えれば、この「ファ」の音は、公生の伴奏を先行させ、際立たせるために残された音と評価すべきだろう。二つ目のスクショは、公生の音の変化に気づくかをりのカットである。そして、そのカットの直後、更に公生の演奏箇所が挿入される。相互の音のかけあい(後にいう「殴り合い」)が、ここに現れはじめている。(255小節)
次いで来るカットが、公生に中心化された諸カットの連鎖。公生の眼はこの時点では(肯定的な意味で)何も見ていない。
(00:02:52 - 00:02:55)
カットのタイミングを見ると、「ファ」音の始まりとほぼ同時に、公生とかをりの二人が含まれるカットが入る。かをり主導であれば第一のカットは、「ファ」音の直前に挿入されるべきであった。しかし、ほぼ同時に挿入されるこのカットにおいては、いまや(主題でも副主題でもなんでもない)公生の末尾の音をにおわせる機能をもっているかのように聴こえる。
次のカットも同様である。「ソ」音に若干遅れるカット挿入が入ることで、公生の周りを回る様なカメラの動きと共に、公生(とりわけその眼)へと収斂するカット割りがなされているといえよう。(257小節)
(4)「殴り合い」 00:03:02 - 00:03:52
ここから、一部、俯瞰を挟んでの長めの公生のカット。
(00:03:02)
その後、アルペジオが強調される形で、それに併せてカットが挿入される。
(00:03:14)
アルペジオ的箇所はつぎのとおり。(275小節)
これに苦言を呈するように、割って入るかをり。自分へ目を向けるようにと目線で促している。
(00:03:18)
「ソファ♯ファ♯ドラファ♯」の三つ目の「ファ♯」音でのカット。これも本来ならば入るべきではないパッセージ途中からの、かをりの強引な入り込みといえる。
もちろんこの箇所については、「こらこら、友人A」のセリフを入れるためでもあるのだろうけれど。(278小節)
満を持しての、公生による同パッセージの掛け合いの箇所。
(00:03:21)
「ミソ♯シミシソ♯」冒頭の「ミ」の直前に、公生の上記カットが挿入される。(281小節)
そして公生のパッセージの終わりを若干先取りするように、「主役を喰おうとするんじゃないわよ」とのかをりのカットが挿入される。音と同期する形で完璧にカットが挿入されている公生に対して、ここでのかをりは後手に回っている。(282小節)
そこからの公生の主題Aの伴奏。いくぶんか余裕をもってはいるようではあるが、公生のカット挿入のための安定した入りの範囲内といえる。ここからのヴァイオリンの分散和音による二人の「殴り合い」が表現されるだろう。
※ちなみに作中では「殴り合い」に「会場(観客)が飲み込まれていく」と形容されている。
この「飲み込み」は割と長く30秒ほど続けられる。
(00:03:27)
(5)カデンツァ 00:03:53 - 00:04:05
かをりによる、各音を大きく引き延ばしたカデンツァ。そしてカデンツァ末尾の箇所で、公生を待つかのようにしてカットは俯瞰へと移動していく。
(00:03:53)
二人の殴り合いはこうして、会場全体の俯瞰へと繋がっていく。ここにあらわれているように、もはや、観客も、ただ規範的に観るだけの立ち位置をずらされているといえよう。ここでもカットとの対応関係は見出される。観客をゆったりと引き込むかのような余裕をもって、カットが先回りしてくれているためだ。
(6)転調 00:04:06 - 00:04:19
上記俯瞰がそのまま繋がってイ長調への転調。アレグロ。
転調箇所で、上記(5)におけるカデンツァ箇所とのショットを区切らなかったのは、極めて興味深い。もはや観客も、上記楽曲上の規範的な区切りを受け入れていないということを示しているのだろうと推察される。
(00:04:06)
ということで明らかに、”音楽的には” 区切れているのに、カットとしての区切りがないため、譜面を見ても特に照合するところはないのですが、一応譜面を示しておきます。
ここからはテンポ的には落ち着いたカットが続く。
(7)終局 00:04:20 - 00:04:42
目線が音楽に合わせて振られていく。
(00:04:20)
(00:04:21)
(00:04:22)
(00:04:23)
(00:04:25)
(00:04:28)
不憫な子もいますが…。
さて、そこから、クライマックス。加速しつつも、十分に前に置かれているカット。
カットの先後関係と持続に着目する限りは、特段の解説不要と思われます。
(00:04:30)
ということで、カットの時間と先後関係についてのみ絞って追ってみました。
以下検討しようと思ってたのですが、若干長くなったので、次回以降に譲って、一旦切ります。
※ 12/5 昼 追記:(a)「速度」について
『四月は君の嘘』第四話からは、「速度」のブレをとても強く感じました。しかし、立ち止まって考えると少しおかしいのは、この第四話って殆どキャラクターが動いていないので、本来は「速度」を感じられないのではないか、ということです。では、なぜ動いてないキャラクターから強烈に「速度」を感じることができたかというと、やはりこの話では音楽が視聴の速度・期待を決定しているからだと思うところです。
通常、空間的にものが移動するのをみるときには、あまりそこに時間を意識することはないと思います。つまり、空間的な移動は、それ自体としては無時間的な速度経験であったって別に構わないように思えます(フッサールから、別方面からではベルグソンからも怒られそうだけど、とりあえず)。しかし、敢えて言い切ってしまえば、運動は必ずしも時間を要請しないのではないか、というか、運動の瞬間は任意の時点でよいものとしてあり、運動そのものはいつだっていいものとしてあるのではないかとも思われます。要するに、運動だけを取り出した場合には、今顕在化しない運動というのは成り立つ気がするところです。
いいかえれば、視線の揺れを強調する運動把握の場合には、やはり運動することの方が例外(特に超自然的な動きは例外)であって、動かなさの方が自然ではあるように思われるところです。(運動はいつか終わりを迎えなければならない)
けれど音楽を聴くという体験においては、時間が流れないということはありえない気がします。いまにおいて顕在化しない音楽は音楽ではない。音楽を聴く場合には、流れがとどめられた瞬間に、強烈な違和感に襲われる。いわば、音楽が始まった瞬間に、人は神経症になるというか。
だからこそ、第四話の公生の目線カット一つで、視聴者にとっては、彼のテンポの遅れや焦りが一つ一つ目につくようになる。第四話の演奏シーンにおいて、視聴者は常に音楽によって身体を揺らされているので、その揺れと同期しない非運動に対しても自動的に敏感にさせられてしまう。外部から見たら不動なのにもかかわらず、内部的には動いているリズムを生きてしまうことで、(運動の比喩を用いるならば)全てが動いていなければならないように身体が調教されるというか、そんな感じ。
だからこそ、「アゲイン」に繋がりやすいというか、そういうことも思ったんだけど、なんでだったっけ?忘れてしまった。(もしかしたらノイズミュージックとかも関係あるのかなぁ)
あいまいな感じですが、こういうことを次回以降で考えたかったんだよな、ということの備忘のために付けくわえておきます。
とりあえず、現状装丁している次回(2)の内容予告だけ。
【予告】
2、カットについての検討
(1)カットの提示比較---2012年『坂道のアポロン』第7話
(2)音楽漫画のコマのカット化
(3)譜面の価値についての所見
(4)音楽アニメにおける速度表現について
3、おわりに
以上です。
※ 楽譜は手元にあるのは日本楽譜出版社の紙版で切り取りが大変だったので、ISMLP04173から一部使わせていただきました。