書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

C88頒布物詳細:アニメクリティーク新刊 『特集 蟲・生物・人工物/アニメにおける〈音〉』および『特集 細田守/バケモノの子』 #c88

以下のとおり、C88にて新刊を発刊します。

1日目、8/14(金)東フ36aにてみなさまのご来場お待ち申し上げます。

 

 

1、頒布物一覧

 

 

(1)新刊『アニメクリティーク vol.3.0 特集  蟲・生物・人工物/アニメにおける〈音〉』

 

・情報 

 500円/オフセット印刷 A5版80頁

 

・取り扱い作品と執筆者一覧

 第一部「蟲・生物・人工物」

 『イヴの時間』『シドニアの騎士』『攻殻機動隊』論:Nag @nag_nay

 『蟲師』論:あんすこむたん @deyidan

 『蟲師』論:tacker10さん @tackerx 

 『プリパラ』論:すぱんくtheはにーさん @SpANK888

 『リヴァイアス』『プラネテス』『スクライド』『ガンソード』『コードギアス』論:sssafffさん @sssafff 

 第二部「アニメにおける〈音〉」

 『響け!ユーフォニアム』論:おはぎさん @ohagi2334

 『SHIROBAKO』論:ヒグチさん @yokoline

 『四月は君の嘘』論:あんすこむたん @deyidan 

 『坂道のアポロン』『四月は君の嘘』『響け!ユーフォニアム』論:Nag @nag_nay

 

・表紙

 前号vol.2、前前号vol,1と同じく、yopinari先生 @yopinari 作。

 今号は『蟲師』の作風に合わせて、あえてアクリル絵の具で表紙を作成いただきました。

 ギンコは東北の森を渡り歩いてそうなので、今回は若干ずらしてyopinari先生在住の南国の植物をあるくギンコというテーマを提案いただき、まさにそのように描いていただきました。感謝です。

 

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(2)新刊『アニメクリティーク vol.3.1 特集 細田守/バケモノの子』

 

・情報 

 

  100円/コピー本 A5版28頁

※ 本誌(新刊or既刊)or 委託物を、計2冊以上購入の場合には無料にて献呈いたします。

 

・取り扱い作品と執筆者一覧

 『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみ子どもの雨と雪』論:Nag @nag_nay

 『バケモノの子』論:羽海野渉さん @wataruumino

 『バケモノの子』論:sssafffさん @sssafff

 『バケモノの子』論:Nag @nag_nay

 

・表紙

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(3)既刊『アニメクリティーク vol.2.0 特集  虚淵玄/〈彼方〉の思考』

 

・情報 

 

 600円/オフセット印刷 A5版128頁

※ 既刊につき、市価の約半額にて提供させていただきます。

新刊との同時購入で、若干のディスカウントをさせていただき、合計1000円とさせていただきます。

 

・取り扱い作品および執筆者一覧

nag-nay.hatenablog.com

 

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(4)委託引受物『PRANK! vol.1 ノイタミナ10周年評論集』

 

・情報

 価格不明/オフセット印刷A5版156頁

 

・取り扱い作品および執筆者一覧

 

wataruumino.hatenablog.jp

PRANK Vol.1 - LandScape Official Site

 

 

 

2、上記(1)『アニクリ』新刊 内容詳細

 

(1)第一部挿絵

 

コンカツマン先生 @konkatuman にお願いいたしました。

頁を重ねて二つの世界を表現してあるので、ぜひ本でご確認いただきたいところです。

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(2)目次

 

目次です。挿絵に合わせて暗めの雰囲気にしました。

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(3)Outline--失われたもの/失われつつあるものに触れるということ

 『イヴの時間』『シドニアの騎士』『攻殻機動隊』論:Nag

 

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本論考では、超自然的な蟲(supernatural being)、被造物(creature)としての生物、人が存在を与える人工物(artifact)という三つの非人間的な存在との取り組み方に関して、ディック的な問いとイーガン的な問いと呼べるような二つの問いを扱っている。
ディック的な問いの方は、『イヴの時間』、『シドニアの騎士』を通じて練り上げられる。それは、人工物や生物へと向かう微視的な視点に基づくものである。これらの作品では、個人としての人間がもつ幻想、即ち個としての人間存在のみが分割不能な(individual)理性的存在であるという幻想を相対化する。解像度を高めて観察すれば、人間・生物・人工物のいずれも、分割可能な(dividual)引き裂かれたものたちの緩やかな結びつきでしかない。当然、その上での問われるべきは、我々の結びつき方がいかなるものである(べき)かという問いとなる。
イーガン的な問いの方は、押井版『攻殻機動隊』『イノセンス』において練り上げられる。それは、超自然的存在へと向かう巨視的な視点に基づくものである。人間的性質を全て剥ぎ取ったあとに残る世界の(イノセンスな)自動運動、身体も意識もなく人形を互いに与え合う生こそが、本作において描かれる人間の姿だ。『攻殻』では、ディックのように人間性についての幻想を払うことが目的なのではない。単に現在しない「不在」のもの(可能的存在)への視線に人間が貫かれている事態を、本作は可視化してくれる。その上で可能なのは、この視線自体の可視化であるだろう。
各種SF作品を扱った『アニメクリティーク vol.2』特集3の続きとして、ぜひ一読いただきたい。

 

 

(4)劇場版『蟲師』における光と闇

 『蟲師』論:あんすこむたん @deyidan

 

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本評論は、『蟲師』における光と闇に着目する。劇場版『棘の道』のように極端に低周波の「闇」の轟きは、事実として身体を物理的に振動させるとともに、象徴的に此岸と彼岸の不可分性を強調する効果を生んでいる。反対に劇場版『鈴の雫』のように高く響く鈴の音とともに降り注ぐ「光」は、いくつも折り重なった反響する声としてその世界の多様性複数性を表現することになる。本作における人間と自然とが切り離せないというアニミズムの思想は、その人間の可聴域すれすれの高低に広がった音と無音の境界、あるいは「光」と「闇」の境界において示されることになるはずである。本稿を紹介するならば、以上の通りとなる。

さて、『蟲師』における光と闇ということで思い出されるのは、ギンコ誕生過程で語られる第一期 第十二話「眇の魚」である。そこで、描かれる光と闇、記憶と忘却、歴史と瞬間は、上記の音と無音の関係を、端的に表しているためである。編集者コメント・コラムでは若干この点を補足してある。 

 

 

※ ちなみに、左頁にはこんな感じでロゴを入れたり、著者に対する編集者コメント・コラムを入れたりしています。

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お手製ロゴ例です。「続章」の「続」とかが変な書体だったのでやや手こずりました。

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ロゴの配置場所は以下のように左頁左上肩な感じです。

下記画像は『SHIROBAKO』論、ヒグチさんの評論についているロゴで、

かなり迷いましたが最終的に「宮森の名刺ver.」で最終確定しました。

 

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(5)引き剥がされたものたちを偲ぶ場所--TVアニメ『蟲師 続章』が描く郷愁と漂着

 『蟲師』論:tacker10さん @tackerx

 

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本評論は『蟲師』の表現技法を通じて、密接にからまりつつも断絶と綻びからは逃れられない引き剥がされたものたちの「居場所」を問うものである。アニメにおいてそれは、制作側と視聴者側、diegetic/non-diegetic区分とdigesis/memesis区分の間の揺らぎに着目することで明らかになるはずである。

さて、ここでの問いは、どのようにアニメという媒体を通じて、「個々の画がキャラクターとして、またキャラクターがキャラとして立ち現れるか」、「音がその居場所をフレームの内外、映像の内外(オフ)に見出されるか」という問いである。

しかし、本評論の妙味はその先にある。本評論は上記の問いを問うのみならず、いかにそのずれに向き合うかという倫理的な問いにも応えようとするためだ。その答えとしては、一つには、放浪する者たちが(自身の記憶ではない歴史を語り継ぎ、筆記をなすことで)作り上げる時間的な連なりに参入することが、もう一つには、あらゆる生の中に境界をまたぐための追悼の所作を学ぶことが、上記の問いへと対峙する態度の例となる。はずだ 

編集者コメント・コラムでは、この例に『鈴の雫』における「山と、命と、理の間を流れる、約束の中に」という言葉が、ナレーションの「声」(さらにこれは、ギンコの師匠にあたるぬいの声と同一である)と、山のヌシであるカヤの声が重なった二重の声として述べられていることが数えられるのではないか、とコメントした。この簡潔な一節こそが「生者は死者を悼むことで歴史へ参入し、死者は生者によって息づく」という本評論にいう追悼の趣旨であり、『蟲師』が追悼の寓話である所以となっているものと思われる次第である。

 

なお、tacker10さんの原稿を始めとして、考察上必要となる図表とかを複数載っけています。

 

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下記画像は、後述するおはぎさんの、京アニ-『響け!ユーフォニアム論』の表とロゴです。

 

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(6)重なりあうレイヤーのステージ--プリパラ・ミク・聖地巡礼

 『プリパラ』論:すぱんくtheはにーさん @SpANK888

 

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本評論は、アニメにおける非実在の存在を力強く擁護する評論である。その擁護は、単に非実在の存在を非実在のままに想像し、慰みにするだけでは足りず、かといって、ニコ動などを介した共同の錯覚で人格のようなモノを立ち上げるだけでは足りない。アニメにおける非実在の存在は、妄想的な夢見や擬似生物的な自動生成から離れて、視聴者である我々の手による世界変化、世界制作を必要とするというのが、本評論の主張である。
本評論は、その枠組みとして、従来論じられてきた非実在/実在という区分に加えて、半実在のレイヤーを導入する。そこで目標とされるのは、夢想された非実在でも、諦念に満ちた実在でもなく、ニコ動や聖地巡礼的想像力といった実在を豊かに再解釈するレイヤーである。さらに本評論は、半実在のレイヤーによって我々の生が豊かに彩られつつある状況を前にしつつも、そのもう一歩先にあるものとして、その半実在のレイヤーによって育まれた非実在を生み出す仕組みを提案し、そこへと参入するように読者を促すのである。

 

なお、本稿は、『アニメクリティーク vol.2.0』に寄せられた、 『serial experiments lain』および『ガッチャマンクラウズ』を論じた同氏の評論の続きとしても読むことができる。そこでは、ひとところにとどまることもできず、かといって遍く存在することもできない震災後の私たちの揺らぐ立場と「遍在/偏在」するアニメキャラクターを重ねつつ、その非実在と実在を重ね合わせる祝祭の契機を、てらまっと氏の「花見2.0」プロジェクトに重ねて論じたものである。ぜひ、あわせて読まれたい。

 

 

(7)対立するものたちの併存--谷口悟朗が描く生の具体性

 『リヴァイアス』『プラネテス』『スクライド』『ガンソード』『コードギアス』論:sssafffさん @sssafff

 

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(8)第二部挿絵

 

コンカツマン先生 @konkatuman 作。 『ユーフォ』をみて非常に興奮された様子でしたので、編集冥利に尽きます。

引用は J. L. Austinの著作より。「なぜそれだけのことであってはならないのか?なぜそれらすべてが「響きのよさ(euphony)や偶然や無意味なぜいたくであってはならないのか?」という部分を引用しました。

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(9)京都アニメーションが描くもの--集団の数という視点から

 『響け!ユーフォニアム』論:おはぎさん @ohagi2334

 

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 個的な関係性を描いてきた京アニが新たに踏み出したのは、集団の中での空気というテーマである。『響け!ユーフォニアム』にあるように、空気という媒体は音を届けるのみならず、その嫌な感じ、誰も責任を引き受けない軽薄さ、しかし一度選択してしまうと重たくのしかかってくる圧力といったものを、誰となしに各人が感染させていくことになる。

本評論は、このような個人同士の間、個人と集団の間に張り詰めた媒体としての「空気」に、またその響きあいが「特別」を生み出すだろうことに着目する。(なお、これと関連して、アニメ版では、原作では簡潔に記述されていた行間を、息を呑む描写や息を吹きかける描写を介して密に表現している点でも興味深いものと思われる。)

顧問である滝のセリフに現れていたように、一つの言葉は一つの響きを持つわけではない。中でも、上記再オーディションが完了した時、滝は麗奈に対して、「あなたが吹くのです」と申し向ける。この言葉は、事実確認でもあり、命令でもあり、宣言でもあるという多義的な響きを含みもっている。その響きは、一つの「空気」という偽りを霧消させ、様々な響きあいへと至る予兆として現れる。

「音楽というのはいいですね。嘘をつけない… 良い音は良いと言わざるを得ない」という言葉のとおり、「空気」は音を曲げることはできても、「納得」を与えることはできない。正直すぎる音や久美子はときに残酷であったり性格が悪いものかもしれない。しかし、そのような偽りのない響きがもたらす和音がいつか重なりあう瞬間にこそ、各人が「特別」へと至り「納得」を得ることになるはずである。そんな集団の空気を取り巻く希望へと、京アニが新たに足を踏み入れつつあることを説得的に論じる良論となっている。 

 

 

(10)キャラクターの生まれる渚--『SHIROBAKO』の映像・音響演出

 『SHIROBAKO』論:ヒグチさん @yokoline

 

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 本評論は『SHIROBAKO』を題材に、いかに音響が映像の中に形を得るか、特に個人的な妄想じみた音やキャラクターといった虚構がいかにして現前性を獲得するか、に焦点を当てる。やや再整理を施せば、本稿で「絵と音の同期」と呼ばれるものは、第一に制作工程におけるずれが収束する過程を意味し、第二に、視聴者側において視聴時におけるずれを収束する過程を意味するだろう。
なぜこのずれの収束が『SHIROBAKO』において特徴的かといえば、本作が制作工程のドタバタを中心とし、また製作陣の間、原作者と監督の間においてさえ拭い去れない、印象や認識のずれをつぶさに追っているためである。しかし、私的な妄想が公的な音と映像へと結実するとき、ずれはたまさかに収束し、「現実に対して、キャラクター表現は浸潤して(にじみ出て)くる」のである。
しかし、ずれと収束という二極を超えた広がりを本稿はさらに摘出している。上記の現前性が生じる仕組みは反転して、私的な妄想が公的な音と映像を超えて「溢れ出す」ときの感動をも説明してくれることになるためだ。例えば作中作の映像に声優キャラクターである坂木しずかが声を当てるシーンにおいて、本作における宮森と画面の前の視聴者の両者にとり、坂木しずかの声というのはその不遇の歴史を背負った暁に形を得ることとなった声であり、そこに現れる以上に豊かな響きを持って聴かれることになるだろう。
この点は、本稿の広い射程を示す箇所であるので、ぜひ本文でお読みいただきたい。

 

 

(11)弾くこと、繋がること、触れること

 『四月は君の嘘』論:あんすこむたん @deyidan

 

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本評論では、『四月は君の嘘』は「つながり」の物語であるとされる。公生の演奏がかをりをはじめ、演奏者たちを鼓舞し、音楽へと向かわせた歴史が「つながり」であり、共感覚のような映像と音の共演もまた「つながり」である。さらには、教えあい-支え合うことで「ひとりじゃない」音を見つけることも、精神的な「つながり」を表すだろう。

とりわけ、『四月は君の嘘』は、「つながり」を作り出す「嘘」と「本当」をめぐる作品であるといってもよいだろう。ただし、それは「嘘」か「本当」かという択一選択の問題ではないし、「嘘」と「本当」がないまぜにされた未分の状態を希求するものでもない。本作品が示しているのは、「嘘」が「本当」を引っ張ってくる、その弾き方、つながり方、触れ方なのだ。

『四月は君の嘘』は、有馬公生が宮園かをりと出会うことで開始される。知ってのとおり、この出会いは、かをりの「嘘」が引き連れてきたものだ。もちろん、この「嘘」によって彼らの関係はなんら毀損されることなく、彼らの音楽へ向けて新たに躍動を始める。本評論の言うように、かをりは決して過去を振り向くことなく、公生の背中を、過去から逃げ出すことのないように、しかし今へと押しだす。それは、病床についてもはや弓を持てなくなったとしても変わることはない。「僕の中の君」は音楽を引き連れ、最終話付近、屋上においてたとえ無音しか奏でることが叶わなくなっても、嘘みたいに「奇跡」を連れてくることができるためだ。
「音楽というのはいいですね。嘘はつけない」とは、『響け!ユーフォニアム』の一節である。確かに、音楽には嘘をつけない。しかし、音楽を作り出すためには、とりわけ音楽を一緒に作り出すためには、嘘は避けて通れない。嘘が連れてくる本当、無音の中にある艶やかに色づく音。そんな日常に溢れる「奇跡」を集め、そんな「奇跡」を再度だれかに手渡すこと。過去に失われたものへの想いがこり固まってしまうのを避け、想いの再解釈と創造へとつなげること。過去の母親の「影」、 公生自身の「影」、かをりの「影」を忘れることなく、誰かの「影」になっていくこと。このいずれもが、音楽を聴き、弾き、つながる、音楽とともにある生に他ならない。 

 

(12)視線を聴くこと、音を視ること

 『坂道のアポロン』『四月は君の嘘』『響け!ユーフォニアム』論:Nag @nag_nay

 

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(13)奥付・執筆者一覧

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 以上。