書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

寄稿募集:アニクリ 2019冬号 vol.10「特集 総記:京都アニメーション」/制作協力(グロス請け)PRANK! 制作チーム #C97

f:id:Nag_N:20191228130245j:image

f:id:Nag_N:20191228133851p:plain

 

差出人不明

 これはあなたを守る魔法の言葉です。
 ●●●●
 ただそう唱えて

   Violet Evergarden: Eternity and the Auto Memories Doll

 

... the other’s sur-vival exceeds the “we” of a common present: brings together two friends, “incredible scene of memory,” written in absolute past; dictates madness of amnesic fidelity, forgetful hypermnesia ...
   Jacques Derrida, Memoires for Paul de Man(1988) 

 

Wo­-
gegen
rennt er nicht an?

Die Welt ist fort, ich muss dich
tragen.

 In-
 to what
 does he not charge?

 The world is gone, I must carry you.

   Paul Celan, "GROSSE, GLUHENDE WOLBUNG " (VAST, GLOWING VAULT)

 

...According to Freud, mourning consists in carrying the other in the self. There is no longer any world, it's the end of the world, for the other at his death. And so I welcome in me this end of the world, I must carry the other and his world, the world in me: introjection, interiorization of remembrance (Erinnerung), and idealization. Mel­ancholy welcomes the failure and the pathology of this mourning. But if I must (and this is ethics itself) carry the other in me in order to be faithful to him, in order to respect his singular alterity, a certain melancholy must still protest against normal mourning. This melan­choly must never resign itself to idealizing introjection. It must rise up against what Freud says of it with such assurance, as if to confirm the norm of normality. The "norm" is nothing other than the good conscience of amnesia. It allows us to forget that to keep the other within the self, as oneself, is already to forget the other. Forgetting be­gins there. Melancholy is therefore necessary. 

「...「規範」とは、健忘症者の潔白意識(良心の痛みの無さ=bad conscienceの欠如)に他ならない。そのおかげで私たちは、他者を自己の内部に自己として保存すること(※ 喪)、それはすでに他者を忘れることだということを、忘れることができる。忘却が、そこに始まるのだ。だから、メランコリーが必要なのだ」
   ジャック・デリダ『雄羊 Bélier』第5章

 

f:id:Nag_N:20191224184807p:plain

f:id:Nag_N:20191224082151p:plain

このたびも多くの方に寄稿いただき、A5版、本文188頁となりました。ご協力くださいました寄稿者のみなさん、コメンテータのみなさん、そしてPRANK!さんチームの皆様に改めましての感謝を...

 

表紙は大変迷いましたが、上記の通りとなります。寄稿募集時の「名」というテーマをさらに広げる形で「生き延び Sur-vie」というテーマに接続しています。

現在の我々をこえた関係...でありながら、決して現にあったことはない関係。しかし偽の記憶というわけではなく、むしろ現になかった(あるいは私の中ではこうだった)という「記憶」で自分を免責することそのものが許されないような関係。そうしたものについて、検討を加えたいと思いました。

ルビというか読み仮名についてですが、すでに世を去った人の各様の「生き延び」に加え、残された我々から見た「生き延び」(ただしエピグラフに掲げたように、決して勝手な理想化や体内化に還元しえないものとしてのそれ)に近づくべく、「耐え・担いtragen=carry」につなげ、ルビで「耐え存え」という読み仮名を提案した次第です。

...となるとやはり『AIR』であろうということで、両開きで、カラーリングを変えて、対称の構図(ただし目次ページなどで確認できるように微妙にずれているもの)で構成するのがよかろうというところでまとめてさせていただきました。ポスター右肩のセリフは次の通り、国崎往人のセリフからです。

「ひとは、変わってゆくことが悲しいんじゃない。 変わらなければ生きていくことができないことが、 寂しいだけなんだ」

もちろんこの変わりゆきそのものが、生者にしか許されていない特権であることは避けて通れません。「変わること(悲しみ)」や「変わりながらしか生きられないこと(寂しさ)」が原理的に許されていないものたち(...死者・キャラクター・いまだ生まれざるものたち..)にとっての「変わること」とはどのような意味を含むのか。

...というところが本号を通じた問いとなります。

 

ポスターのテーマ「Sur-vie」の後に付した副題は、こうしたあれこれを想起いただくために最後に付け加えました。「彼方」という語には、辞書的な意味にすでに含まれているとおり、物理的な距離のみにならず、過去の時間、そして(二人称的/三人称的)呼びかけの声が含まれています。各様の響きを聴取し、表紙・テーマ・ルビ等々とともに、解釈くださいましたら幸いです。

 

目次は下記の通りです。

 

f:id:Nag_N:20191224082537p:plain

f:id:Nag_N:20191224082627p:plain

 

A side 1 【フィクションと旅する 終わりなき喪/継承】

 subject. 武本監督作品、ツルネ、中二恋を中心に

 

[巻 頭] 安原まひろ 「アニメのなかに世界を見いだすこと 武本康弘の映像」

武本康弘作品(ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルてAIRらき☆すた氷菓)ほか論

[10 - 17 ] 土屋誠一 「疑似恋愛的五角形の美 『ツルネ 風舞高校弓道部』論」

 ツルネ論  

[18 - 23 ] 岡村真之介 「旅と風景 アニメとゲームから感じる世界の手触り」

 けいおん! ヴァイオレット・エヴァーガーデン、DEATH STRANDING ほか[聖地巡礼]論 [24 - 37] 古戸圭一朗 「不可視の境界をともにすること フィクションを旅する」

 中二病でも恋がしたい!

 

A side 2 【デッド・レターと郵便配達】  

 subject. ヴァイオレット・エヴァーガーデン

[38 - 49] みら 「 「匿名希望の手紙」 」    

 ヴァイオレット・エヴァーガーデンほか論  

[50 - 57 ] tacker10 「スクラップ・アンド・ビルド 「廃墟」たる「漫画映画」との偏差から考える種々の表現」    

 [アニメ/アニメーション]論   

[58 - 61 ] yono 「 『外伝』という「贈り物」 」    

 ヴァイオレット・エヴァーガーデン

 

A side 3 【私信 京都アニメーションが生み出したもの/生み出し続けるもの】

 

[62 - 71 ] すぱんくtheはにー 「 『私は京都アニメーションが嫌いだ』 付 解題 」

 [京都アニメーション] + [視聴者倫理] 論] 

 →編者解題「語られたことと語られなかったことから」 

[72 - 77 ] Barde 「瞳の中」    

 [小説]  

[78 - 91 ] フクロウ 「フィクションと現実のパラレリズム それを理解してしまったら、そのようにせざるを得ませんね」    

 [京都アニメーション] + [刑罰] 論

 

B side 3 【アニクリ・アーカイブ vol.4.6 「死/廃墟から透かした2019劇場アニメ」 】  subject. ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝

[96 - 129 ] (再録)アニクリvol.4.6

・すぱんくtheはにー 「 『だから私はエンドロールに手を合わせた』 」 & 「応答未満の自己言及」    

・tacker10 コメント 「それは、さながら献花の如く」 & 「あらためて修辞的運動の岸辺に立ってみて」    

・橡の花 コメント [無題]   

・フクロウ 「名前と媒介性 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 永遠と自動手記人形』評註」   

・あんすこむたん 「未来を示す郵便配達人 テイラーはなぜ自分の手紙を渡すために茂みから出てこないのか」    

・竹内未生 コメント 「過去と未来の郵便配達人」   

・yono 「 「その後」にどう描くかということ」 

[130 -141] unuboreda 「身勝手な愛を開く言葉 複層化する時間と間コマ/ショット性」

 ヴァイオレット・エヴァーガーデン

→ 付:tacker10コメント「手紙として受け渡されていくために必要なこと」

[142-145] みら 「アニクリ vol.4.6への手紙」    

 [アニメ/映像批評] 論

 

B side 2 【京アニのひと/キャラクター、その実存】

 subject. バジャのスタジオ、ハルヒらき☆すたかんなぎ、Wake Up Girls!、CLANNAD中二病でも恋がしたい! ほか 論

 

[148 -149] あんすこむたん 「 「境界」の〈彼方〉 過去と未来を巡る物語」

 境界の彼方

[150 - 157] サカウヱ 「 「あの人」は今 『ハルヒ』『らき☆すた』、そしてオタクを考える」

 山本寛作品(ハルヒらき☆すたかんなぎ、Wake Up Girls!)ほか論  

→ 付:古戸圭一朗コメント [無題]

[158 - 169] 北出栞 「京アニ作品にとってキャラクターとは何か インターフェイスからメディウムへ、アクターそしてキャラクターそのものへ」

 CLANNADけいおん! 中二病でも恋がしたい! ヴァイオレット・エヴァーガーデン

[ 170 - 171] あんすこむたん 「アニメーションという魔法 バジャのスタジオのメッセージ」

 バジャのスタジオ 論

 

B side 1 【特別収録】京都アニメーション作品履歴2002-2019

 

[巻 末 ] PRANK!チーム(羽海野渉、なーる、ウインド、永井光暁(アレ★Club)、小菊菜、LandScape Plus PRANK!編集チーム)

 京都アニメーション作品履歴2002-2019

 

以上です。コメンテーターの表記が一部抜けておりまして、こちら大変失礼しました。(tacker10さん、古戸さんご迷惑おかけいたしました。)

 

 

本文は以下のような感じです。安原まひろさんの冒頭カラー+白黒頁のイメージです。

f:id:Nag_N:20191224184907j:plain

 

f:id:Nag_N:20191224184923j:plain

f:id:Nag_N:20191224184937j:plain

f:id:Nag_N:20191224184950j:plain

f:id:Nag_N:20191224185011p:plain


当日は、これまでの京アニ関連本(2018/08 - 2019/08発刊)と、基本は会場でしか頒布できない「SSSS.GRIDMAN」表紙のバグ号(2019/08発刊)残部も持っていきます。

f:id:Nag_N:20191228133851p:plain

 

f:id:Nag_N:20191228133908p:plain

以上どうぞよろしくお願いいたします。(2019.12.28更新)

 

--------

 

下記のとおり、掲題のアニクリvol.10を作成いたします。是非みなさまご寄稿のほどどうぞよろしくお願いいたします。

なお、制作協力(グロス請け)でPRANK! 制作チームのみなさんに協力いただけることとなりました。紙面充実にご協力くださるチームの方も、是非ご参集くださいましたら幸いです。

 

 

1、vol.10 検討・寄稿募集作品(例)

 

(1)TVアニメ

フルメタル・パニック? ふもっふ

AIR
フルメタル・パニック! The Second Raid
涼宮ハルヒの憂鬱
Kanon
らき☆すた
角川コミックス・エース
CLANNAD
CLANNAD 〜AFTER STORY〜
木上益治
涼宮ハルヒの憂鬱(2009年版)
角川スニーカー文庫
山田尚子
けいおん!!
日常
氷菓
中二病でも恋がしたい!
たまこまーけっと
Free!
境界の彼方
中二病でも恋がしたい!戀
Free!-Eternal Summer-
甘城ブリリアントパーク
響け! ユーフォニアム
無彩限のファントム・ワールド
響け! ユーフォニアム2
小林さんちのメイドラゴン
ヴァイオレット・エヴァーガーデン
Free! -Dive to the Future-
ツルネ -風舞高校弓道部-

 

(2)劇場アニメ・OVA

MUNTO

天上人とアクト人最後の戦い
涼宮ハルヒの消失
映画けいおん!
"小鳥遊六花・改
〜劇場版 中二病でも恋がしたい!〜"
たまこラブストーリー
"劇場版 境界の彼方
-I’LL BE HERE- 過去篇"
"劇場版 境界の彼方
-I’LL BE HERE- 未来篇"
"映画 ハイ☆スピード!
-Free! Starting Days-"
"劇場版 響け!ユーフォニアム
〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜"
映画 聲の形
"劇場版 Free! -Timeless Medley-
絆"
"劇場版 Free! -Timeless Medley-
約束"
"劇場版 響け!ユーフォニアム
〜届けたいメロディ〜"
特別版 Free!-Take Your Marks-
"映画 中二病でも恋がしたい!
-Take On Me-"
リズと青い鳥
"劇場版 響け!ユーフォニアム
〜誓いのフィナーレ〜"
劇場版 Free!-Road to the World-夢
"ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝
-永遠と自動手記人形-"
Free!完全新作劇場版
劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン

etc etc..

(* 例示は対象作品を限定する趣旨ではありませんので、「これ入れろ」というのがございましたらリプライやメールなどください。なんなら特にリプなどなくとも送りつけてください。)

 

 

2、寄稿募集要項

 

(1)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。

 発刊時期は、2019/12/31、冬コミC97です。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 1600字程度から20000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1600字程度まで。

 ③掌編小説  : 2400字以内

 

b. 形式

 .txt または .doc

 

c. 締め切り

①第一稿:2019/11/17(日)

(※ 第一稿に、自身で納得いかない場合には、ドラフトまたは納得いかない点を送付くださいましたら一緒に考えられますので、よろしくお願いいたします。)

②最終稿:2019/12/8(日)

③相互コメントやりとり期間:2019/12/9(月)-2019/12/15(日)

(※ いずれも個別に連絡いただけましたら延長することは可能ですが、大幅な延長につきましては相当の期間前に相談くださいましたら幸いです。)

 

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

 

(3)進呈

寄稿いただいた方には、本誌2冊を進呈させていただきます。

 

 

3、発刊趣旨にかえて

 

---
(全面的な救いではないにしても)一つの救いなしにはこの告知はなかった。数日前、事件によって傷害を負った方の全てが回復の途上にあることが告げられたニュースなくしては、この告知はなかった。

 

---

今冬に向け、アニクリ10号「特集 総記:京都アニメーション」(仮)(通算20号)を発刊する。

当たり前だが、京都アニメーションは過去ではない。本号以後も(あるいはこれに先立つ9号シリーズも含め)、10号シリーズについては続刊を予定している。よって全てを今取りまとめる必要はなく、またそうするべきでもおそらくない。事件の渦中のいまにおいて、名状しがたい想念を数多抱える方々に、ぜひご参加いただければ幸甚である。

とは言え、2019年のいま、京都アニメーションについて取りまとめるというのは極めて難しい。事実関係が不明な点が数多くあるのみならず、一つ言葉を出せば、一つ以上の異論と観点とが即時に提示される状況にあることもその一つではある。あまりにも重い文脈とあまりにも多くの代表させられるものが、そこには憑き纏っている。

ある人は被害者の側から事件に迫り(あるいは寄り添い)、ある人は加害者の側から事件に迫り(あるいは寄り添い)、ある人は視聴者=ファンの側から事件に迫り(あるいは寄り添い)、ある人は事件と似た作品との連関から事件に迫り、そして、ある人は「業界」から、あるいは「オタク」から、あるいは「安全管理」から、あるいは(時代の)「狂気」から事件に迫ろうとするかもしれない。あるものは共苦であり、あるものは野次馬根性であり、またあるものは妄想でもあるだろう。

これらのうち、どれが正しいというわけではないし(どれもその人ごとの距離を示している)、「正しさ」を決める権限の所在が制度的に決せられているわけでもない。ましてやアニメ批評においてはなおの事である。(この2010年代においてアニメ批評(およびそれを代表するものたち)なるものが確固として存在しているなど、編者には信じがたいことのように思われる。)
しかし、もしも(ある種のアイロニーを抱えながらでしか存立し得ない)アニメ批評の場がこの事件を経てもなお生き延びるとするならば、次号で取りまとめたいのは、こうした諸々の観点が競合することで形作られる言論状況と時代認識にある。(集団の、あるいは時代の)「代表」という臆見の外にある烏合の集団の呟きと分析の集積の一端を、少なくとも次号では掬い取りたいと考えている。

 

---

そこで次号は、

①総論において、京都アニメーション作品についての通史的な概観を得る(それによって想起のための足がかりとする)ための論考を募集することに加え、

②各論においては、京都アニメーションが携わった各作品における「名」に関しての論考を募集したいと考える。京都アニメーションという名(それに伴う歴史)、スタッフの名(その公表基準)、ジャンルの名(その恣意性)、作品の名(その入れ子性)、キャラクターの名(その固有性)等々)

あるものをそれとして名指すこと。そこにはプライベートなものをめぐる闘争があり、名付ける(画定する)ことに伴う暴力がある。一方で、名無しには存在しないコミュニケーションの連鎖への希望があり、名付けることができないままに忘却の穴へと沈む事物たちへ向けられる絶望がある。

全く不明瞭な言い回しであることは自覚しているが、事件後に編者の頭を悩ませているのはこれらの点であり、寄稿者の方々とのやりとりの中で、この点についてともに考えていただければと思ってやまない。

 

---

例えば、劇場アニメ作品『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝』もまた名の話から始まる。「僕の名前はイザベラ・ヨーク、ここは僕の牢獄だ」。この言葉に始まり、作中では(最愛のその人から)呼ばれることのない「魔法の言葉」につながる物語のことである。

(1)一つには、本作は偽名から始まる物語であることを思い出す。言及するまでもないが、イザベラの真の名は「エミリー」である。しかし、政略婚の道具に使われた「イザベラ」の名が完全に偽名というわけではない。というのも、イザベラにとって、本当の名と偽名とが対峙しているわけではないのだから。イザベラは、「イザベラ」の名を(愛するものの生活保障との)衡量の下で自ら受け入れてしまった(そして受け入れてしまった決断=暴力が政略婚を図ったものたちと同種のものであることにこそ絶望しているのだ)し、イザベラを構成する「一つ」の歴史=制度を選ぶことで、綽名たる「エイミー」のもつ愛する者(テイラー)との歴史=物語を守ったのだから。それゆえに、「イザベラ/エイミー」という名は、自他の認識(齟齬)と、自他の暴力の記憶(齟齬)をまたぎ、錯綜する争点をなすことになる。

(2)いまひとつには、本作において、その名が常に遅延していることを思い出す。「エイミー」という名は、早々に視聴者に開示されるにもかかわらず、それが到達することは「決して」ない。テイラーからの手紙が、城から抜け出た湖畔のイザベラに届いてなおそうである。テイラーは容易にイザベラに会えるにもかかわらず茂みを出ることはないし、イザベラもまた、テイラーの所在について問いただすことはない。編者はここに、手紙というメディア、より広範には、時差を伴って名を届けることに主眼があるメディアの特質に思いを馳せることになる。「イザベラ/エイミー」という二重の名を持つ者から手向けられた「魔法の言葉」=「もう呼ばれることのない名」=「(愛していたから)捨てた名」の含意について、その「魔法の言葉」が未来の希望をなす所以について、思いを馳せることになる。

この読解がもたらす、現実の名を持つスタッフたちの名への敬譲とともに。

 

---

本号の売り上げは、前号vol.3.5「アニメにおける音楽」号と同じく、全て京都アニメーションに寄付することとさせていただくこと、お許しいただけたら幸いである。

 

---

名を除いた全て=全て救われた名 tout sauf le nom 

  

 ---

一つの名が与えられるとき、そこでは一体何が起こっているのか? そして、そのとき人が与えているものとは、一体何だろうか?
 人は、一つのものを送るのではない。人は実際にはなにものをも引渡しはしない。しかし、そこにおいて、何事かが生起する。何ごとかが、人が現に保有していないものを与えにやってくる。かつてプロティノスが「善」について述べたように。
 結局、綽名で呼ぶことが必要とされる時には、何が起こっているのか? 端的に言えば、名が欠けていることが明るみに出る場所において、再び名付けねばならないとき、一体そこでは何が起こっているのか?
 一体、何が固有の名を、綽名の一種へと変えてしまうのか? 何が固有の名を、筆名(偽名=ペンネーム)に、また匿名(秘密の名)に、変えてしまうのか? 何が固有の名を、 どうしたってその瞬間においては特異であり、翻訳不可能なままに留まるものものに、変えてしまうというのか?
...
 3書を隔てているものの一切にも関わらず、『パッション』『名を救う=名を除いて』『コーラ』の3書は互いに呼応しており、一つの地形の輪郭をなすことによって、互いが互いを照らし出しているようにみえる。
 3書のタイトルが揺れ動く、その構文上の布置において、読者は「あたえられた名についてのエッセイ」を読み取ることができるかもしれない。言い換えれば、無名や換喩、古名や匿名(秘密の名)、筆名が与えられるときに、一体何が起こるのかを、読み取ることができるかもしれない。それゆえ、名が受け取られるときに一体何がおこるのか、義務を負った名に一体何がおこるのかをも。
 言い換えれば、人が名に負っているもの、名という名に負っているもの、それゆえ、綽名に、義務(=与え、受け取るもの)の名に負っているものと同様に、犠牲に供さなくてはならず、与えなくてはならないものとは、一体何なのかを、読み取ることができるかもしれない。

ジャック・デリダ「読者への栞」

 

以上