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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

第19回文フリでの頒布物より (1) 批評・評論--- あじーる #bunfree

文フリ、お疲れさまでした。頒布されてた諸々を読んでいっているなかで、いくつか面白かったのでぼちぼち感想を。今後、追加分を上方に乗せていきます。

(ざっと書きなので、それは違うわな、という点などございましたら、ご指摘下さい)

 

 


1、『あじーる!特別号 〜そうかつ!〜』

 

 ということで、11/30本日分は、『あじーる!特別号 〜そうかつ!〜』。通しで読ませていただきました。

 「左右主義主張を越えた少数派の場」を掲げる本誌からには、現代における「アジール」の現出の仕方について諸々の提案がなされていましたが、特に、籠原スナヲさん、放蕩息子さん、永観堂雁琳さん(以下、敬称略)の論を興味深く拝読しましたので、少しだけまとめめいた感想まで。

 


(1)籠原スナヲ:なぜ「多党派性」は可能だったのか?

 

 「アジール」の系譜を遡り現代政治上に位置づけ直すことで、マイノリティを取り巻く「政治」の布置を分析し、新たな「アジール」の場を拓こうとする評論。
 
 本論によれば、「アジール」は統治権力の力の及ばない地域を意味するところ、その場は、①宗教的観念(/経済的事物)という軸と、②伝統(/現代的制度・国家)という軸によって分かたれる。しかし、この「アジール」の場は、ただ分割されるままに留まらない。それら諸アジールが行き交う場を可能にする外の場、つまり、諸アジールの結節を可能にする場こそが、多様性そのものを共存させる「アジール」として機能する。そのように筆者は分析している。

 読み進めれば判るように、本論は「アジール」という概念についての論を越えて、「政治」的なものの概念についての論へと接続されていく。
 曰く、アジールは、マイノリティを量的なものに加えて質的なものとして把握する。就中、マイノリティの右派的想定(内外区分)と左派的想定(上下区分)を可能にした ”上でなお”、その「マイノリティ」という複数の想定を並列的に配置していく。いわば、絶えず「マイノリティ」という名を複数の党派に共有させることで、その「マイノリティ」の名のもとに連帯している ”かのような” 場を拓く。
 加えて、アジールは、特定人への批判へ収斂する(人間的過ぎる)認識のみならず、人間を多元的に行き交わせる制度内在的なマイノリティ認識を可能にすることで、制度を動的な変容に晒し続ける起点を穿ち続けるだろう。

 つまるところ、アジール」が可能にするのは、党派性の概念を失って凝り固まった「非」党派性(の単一性)などではなく、その党派性を超克し続ける「多」党派性だ。反体制派と体制派の奇妙でありながら望ましい接続は、この多党派的アジールの場を透徹することによって作出されてきたし、これからもそうでありうるだろう。
(これをタイトルと併せて本稿の要約とすることができるかもしれない。)

 「政治」を語ることは、政治の主体といった虚構によって現実を限定することではない。政治を見出し、政治を作り出すとは、上述した「マイノリティ」のよって立つ布置を支えつつ、その布置を揺るがせにする「多」党派性の擁護と共にあり、そうあらざるをえない。冒頭で問いとして提起され、そして、最後の一節にある「政治について語ることを正しく政治的なものとする」ための振る舞いというのは、党派を失って自らを閉じた場にではなく、党派を探り当て、見出し、救い出すその挙作においてしか存立しえないためである。
 
※ なお蛇足ながら。一つだけ私見を述べれば、多数決批判が代表制批判に通じる場合にのみ受け入れ可能となるとする筆者のポジションは、同時に、代表制の枠内でどのような集約を果たしていくか、どのような声なき部分集団(のうちのどの部分)をカウントしていくか、という問いに取り組むことで、今後発展が予想される。というのも、質的マイノリティの想定をいかに経た上でも、今日この瞬間の決定が続いていく決定の連鎖の上では、誰をどのように(時間的・領域的・資源的制約の中で)数え上げるかという問題は、どこまでも避けられないままに残ってしまうためだ。
 つまるところ、各種「マイノリティ」の擁護を経たあとの(ある種の自己破壊的であり自己創出的である)修正された多数決システムとは、制度としていかなる形をとりうるものか?
 この問いが、本論を経た後に自分が検討に駆られた問いであった。

 


(2)放蕩息子:祈りについて

 

 何よりもまず驚くほど文体が洗練されている。そうして、文体だけで読ませる力があるということが示されるこの文そのものから、まず学ばれるべき散文の力=倫理の在処が示されているといっても過言ではない。

 本論は、大江健三郎の自選短編集に由来する「倫理」、「定義」、「祈り」の語を取り出し、そこから垣間見える暴力と一体たる「救済」を捉えようとする。
 そこで語られる「倫理」、すなわち「祈り」というのは、狂気を赦すということである。狂気を「飼育」(=「獲物」化)し、現実的なものに取り込んではならない。それは存在する狂気の忘却にすぎないためだ。「倫理」が在るとすれば、(例えば大江のいう「アグイー」と発音された)死んだ子の「言葉」を忘れることなしに、現実ならざる狂気のただ中において生きることにしか存しえない。そして、狂気と共にある生を貫徹するためには、この現在ならざる多数の時間、この現実ならざる多数の現実という別の狂気に、その身を委ねる必要があるのだろう。というのも、罪は(自らを害する)「他者」の側にではなく、どこまでも閉塞した「出口のない狂気」という不可避の厳然たる事実の中にあるためだ。いわば、自己の生に取り憑かざるえをえないあらゆる狂気を、人は罪付きの者として生きねばならない。

 かくして、狂気の閉塞から抜け出ることは叶わない(狂気の忘却を願ってはならない)のだから、狂気のただ中で狂気に触れ、それを赦さなければならない。だがそれはいかにしてか?

 その答えを本稿では、大江の「定義」に求めている。罪を贖うのは「狂気を否定しうる狂気」を措いて他にないのだし、そうした狂気の出口の無さに由来する狂気の行く先には、ただ「言葉」だけが在るからだ。
 勿論、その言葉は何度となく無に帰してしまうだろう。どこまでも深淵に落ちこんでしまうだろう。しかし、その言葉が無に帰す地点でこそ、狂気はなお「定義」を「足」がかりに歩み寄られうるだろう。その「足」を何度となく折ってなされる「祈り」の中でこそ、人は狂気へ向けて、新たな狂気に向けて超克されうるのである。

 「誰もが無意識に殴られ、誰もが自明の如く救済される」。そういう救済、暴力、散文の力と呼ぶべきものが、本論には賭けられている。「殺すにせよ救うにせよ」、その暴力の中からしか、狂気を否定する狂気、狂気を受け入れ赦しあう狂気は生まれない。つまり、救いは言葉・暴力と共にあり、その共在こそが救済をもたらす希望である。そう本論を言い換えることができるかもしれない。

 


(3)永観堂雁琳:物語と、形而上学と、
 
 ここ1世紀ほどの哲学史をトレースするかのように進む、思索と夢想、絶望と叛逆を手に「物語」を再興せよと迫る宣誓文。
 そこで物語の役割は、以下でみるように、巫山戯(ふざけ)、開け、そして死の契機を与えるものとして動的に変遷していく。(それでもなお変わらないのは、物語は、喪われたものを取り戻すためにではなく、新たな生を与えるように作り出されねばならないという筆者の姿勢であるだろう。)

 さて、第一には、「最早素朴に信じることの出来ないものを素朴に信じているかのように振る舞う」真剣な巫山戯として、物語は現れる。
 それは現実を二重化し、自足した風土と生活空間を与える。本論で述べられる流体の形而上学とは、認識=経験不可能な「出来事」を掬う手段として現れるが、それが物語に位置を与える基礎となる。一切の流れのうち一部が可視的なものとして現れた「形」、それを取り出す手段たる流体の形而上学は、経験不可能なものの経験として物語に結実するからだ。「力」の存在を取り出す物語、「力」の存在論として、物語は現実を動的な流れへと晒す。
 
 第二には、世界へのパースペクティヴを与える地平=「開け」として物語は現れる。
 存在者を存在者たらしめる「開け」、「形」を秩序付けつつ一望する主体、環境世界を作り上げる生として、物語は成る。物語は(過去と未来とを分かちかつ繋げる)主体と環境を、隔てかつ接近させる。こうして、二重化した現実を一元化する力=意味として、物語は生まれでる。かく乱され続ける現実を、物語が与えるのである。

 第三には、その統御しきれぬ未完性のニヒリズム、その徒労と夢想の二者択一という危機を保持しつつも、そこに生命の感覚を与えるものとして物語は現れる。
 ニヒリズム自由主義、消費資本主義…等々は、物語の前では無益な闘争の表れにすぎない。「流れと出来事の織りなす実相」を見つめる物語は、機械と化した我々に、生と死を、絶対の生と絶対の死を再度与える。イロニーとして、根源的な非連続を、余りに微細な「死」を経験することに拓かれることによって、物語は充溢した生と合一するのだ。

 かくして物語は、巫山戯、開け、そして死の契機を順に与えていく。そうして「絶望せよ 然る後に 叛逆せよ」という宣言文と共に、本論は閉じられる。しかし、本論の趣旨からすれば、「叛逆せよ」という末尾の宣誓文は、読者固有の「物語」を開くためにこそ置かれているはずだ。つまりは読者を動かす役割を持つ文としてこの一節を観ることなしには、「物語」は流れない。「吾々は、吾々は、吾々は…」という冒頭の一節は、この流れを「開く」ために、反響を繰り返していた。

 では、「吾々」はいかに絶望し、いかに叛逆すべきなのか? 物語をどのように組換え、どのように接続させ、どのように運用すべきなのか? 新たな「全体」についての問いの前におののくことから発し、新たな「全体」に向けて踏み出すための道筋としての「死」には、いかにして触れることができるのか?
 読者はこの問いを問うべく、(何に向けて抗うのかは不定のままに)投げ出されている。

 

 

(4)まとめにかえて

 

 この三者の論は、テーマ的には全く別の対象を扱っているように見えるにもかかわらず、相互に関連付けられているように思われる。

 その関連は、「吾々」という存在の把握を、「全体」との関連、とりわけ、死んだ者や歴史的な連関、あらゆるマイノリティを含む限界付けられない総体の運動のうちで捉える志向に求められるだろう。枠付けと線引きを拒否しつつ、揺れ動く制度の中にたえず罪と狂気を持ち込むことで新たな「開け」を生み出しつつ、同時にその多党派的共存の場をも生み出そうという、三者の戦略が奇妙に一致する地点にこそ、「あじーる」が望む連帯の向かう先が示されているように思われた。

 

 

 

 

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