書肆短評

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11/4文学フリマについて。『アニバタ』京都アニメーション特集、寄稿しました。詳細決定。 #bunfree

TVアニメ『氷菓』について、一つ評論を『アニバタ』に載せていただくことになりました。『アニバタ』についてはこちらから。 http://www.hyoron.org/anibata6 

担当くださった群馬さんの編集作業がかなりしっかりしていて、本当はその成果の一部でもおみせしたいところですが、当日までお待ちくださればとおもいます。

 

以下、宣伝ついでに、『氷菓』論、0,導入 + 1,問題提起編、を載せておこうかと思います。問題を共有していただいて、さらに、2,回答編、3,総括編を読まれたいという方は、『アニバタ』本誌をどうぞよろしくお願い致します。

 

 

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0 序:ミステリーからそれる『氷菓

 

テレビアニメ『氷菓』は、いわゆる〈日常の謎〉を扱う日常ミステリーに属するとされる。そこでは、「省エネ主義」高校生、折木奉太郎が、「私、気になります」が口癖の同級生、千反田えるに引きずられながら、古典部の面々とともに、神山学校で発見されるさまざ

まな「謎」を解き明かしていくことになる。

しかし、『氷菓』における「謎」は、通常のミステリーから、少しずれたものとして描かれている。一般に、ミステリーは、解かれるべき謎の提示(典型的には技巧的な殺人事件)から始まり、意外性をもつ結末(解の提示)で終える。原作者である米澤穂信氏もまた、ミステリー小説一般の技術論としては、謎が解けた瞬間に「登場人物の屈託(犯意)が明らかになる」という手法が重要となる旨を述べていた。謎は冒頭で、解は末尾で、自明なものとして描かれる。

それに対して、『氷菓』の謎は、単に事実として既に生じた過去の犯罪などの事件でないばかりではなく、通常の日常ミステリーとさえも異なり、多くの人には一見して解くべき「謎」とはわからないものばかりである。その謎は、わざわざ日常生活の澱(おり)のなかから発見され、すくいとられなければ、そもそも「謎」とは呼べないようなものだ。

つまり、『氷菓』では「謎」は、それ単体では、事件性が希薄であるために、奉太郎のみならず視聴者に対しても「解くこと」を迫ってこない。『氷菓』は、万人にとって解かれるべき謎を過去の単一の事実へと遡行することで白日の下にさらすというミステリーの快楽を持っていない。むしろ、謎を「解くよう」迫ってくるのは千反田える本人である。千反田が、既定の日常の中に垣間見える別の可能性に気づくことで、「謎」を何でも無い日常からすくい取り、「謎」を現在において作り上げる。そうして、奉太郎に強固に迫り、渋々奉太郎が謎を「解」いていく……それが彼らの日常となっていく。

そうこうしていく内に、奉太郎の「省エネ主義」もまた、日常の中で変化を被る。奉太郎が「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に」をモットーに合理化してきた、「処理」の連鎖としての日常、灰色の日常は、若干の憧憬とともに、千反田の「薔薇」色が付加されることになる。彼らの日常は、既存の「謎」を効率よく解消することにではなく、まるで遠回りするかのように、可能性(謎)を想像し、その想像がそらされていく過程で、日常が積み上げていくことに向けられる。

それでは、彼らは具体的にどんな謎を、どのように作り上げ、そして解いていったのか?また、謎を解くにあたっては、何を考慮し、どのように解を提示し、また提示しなかったのか?

本稿では(奉太郎たちの設定や事件ごとの立ち回りに加えて)視聴者の日常に新たな謎と希望を想像させ、導入するこのような問いを立てたいと思う。

 

1 奉太郎の問題

 

(1) 虚構を見いだす想像力の欠如:固定する欲望(第1話〜第7話)

 

(a) 奉太郎のモットーの一つ目は前述したとおり、「やらなくてもいいことなら、やらない」である。

奉太郎は序盤から少なくとも中盤まで、行為上このモットーに極めて忠実である。奉太郎は何ら積極的に謎を見いだすことにも、解決することにも執着していない。過去の事実は、それだけでは解くべき事件ではない。普通に過ごす限り、日常は最初から単一の歴史しか持たない、自明なものであるためだ。「いまそこにある危険を回避するだけの俺に、思い出など何の意味があろうか」。奉太郎にとっては謎を内包する事件など存在しない。奉太郎は事実への視線を固定し続けてきた。

しかし、『氷菓』における謎は誰も謎と思わないような現実を、あえて無自覚に、虚構化するところから始まる。その役割を担ったのが千反田である。「私、気になります!」という宣言は、過去の事件にではなく、現在の日常に向けられている(※2)。

千反田は、日常に謎を当然に(半ば強迫的に)見いだしてしまう存在だ。千反田は日常を単一の歴史によってではなく、複数の線によって彩られたミステリーによって描く。いわば、単一だとされた現在に虚構を混ぜ込み、虚構によって二度書きする。千反田は日常の出来事を、夢遊病的に、ミステリーに仕立て上げる。

彼女にとっての日常は、安易な単純化を受けつけない、複数の可能性(謎)に満ちたものとしてあらわれる。

 

(b) そもそも文集氷菓2 号の序文にはこうあった。

「全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典になっていく。いつの日か現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう」

これは、過去についての避けようもない一般論を述べたものでもある。現在は常に「主観性を失って」「古典になる」すなわち、未来から見れば現在は常に過去の歴史として資料化されていく過程にある。これは歴史的な探究を可能にする条件でさえあるだろう。

しかしながら、このようなフラットな文章の奥底に英雄とはおよそ呼べない、関谷という声なき生贄(犧)がかつて存在したことを、そしてその悲しみをたたえつつ書かれたのがあの序文であることを、視聴者は既に知っている。奉太郎の態度、現在も過去と等しく扱うという態度だけでは、この悲しみに到達することはできなかった。

事件は遠近法によって単線的に過去になる、それは避けられない。そんな諦めに満ちた奉太郎の「現在」の「日常」を複数化したのが千反田に他ならない。千反田は、その強固な記憶の中に、忘却の片りん(叔父の言葉、そしてなぜか流した涙の記憶)を見いだすことで、遠近法的に収束しつつある単一の過去(叔父との関係)に別の可能性を見いだそうとした。千反田はそんなミステリーを生きることで、日常の出来事に眠っていた悲しみをすくいとることができたのである。

 

(2) 虚構を解こうとする欲望の過剰:固定される欲望(第8話〜第11話)

 

(a) 奉太郎のモットーの二つ目は「やらなければいけないことなら手短に」であった。このような奉太郎は、謎の前に連れ出されるや、それを単に解こうとしてきた。あたかも「文章問題を解く」かのようにである。

この奉太郎が突き当たる障害 が、愚者のエンドロール回(第8 話から第11 話)で入須のかけた偽計に他ならない。そこでは、入須から依頼を受けた奉太郎がミステリー映画の脚本を(叙述トリックとして)「解く」ことで、入須のもくろみ通りに未完の映画を完成させる「脚本家」として利用されてしまう過程が描かれていた。入須の謀略 により、奉太郎は、ミステリーを解くことが半ば「やらなければならない」日常、自分なら「探偵役」が務まるという気分になったところでワナにはめられる。奉太郎は「(映画脚本家が書いた)謎」を解けばいいと思っていたが、入須の認識では(映画脚本家がまともに書けなかった)「謎」を解くことで、現在において謎を作成するために奉太郎を利用していた。つまり、入須は奉太郎の(自任たる「探偵役」とは異なる)ミステリー脚本家としての才能を利用する。謎の解決過程が、謎の創出過程として、逆利用されているのである。

奉太郎は自身が知らぬ間に、物語内の探偵の役回りから物語外のミステリー作家の役回りに移行させられている。これは、あたかも入須のクラスの映画「万人の死角」において、カメラ視点が実は犯人の目であったという叙述トリックと同様である。「謎は観客が謎に感じればよいのであって、登場人物には自明のことでも構わない」と奉太郎は述べていた。しかし、これは奉太郎が物語内の探偵に自らを重ねたはずの発言でありながら、その実、入須から見れば、奉太郎こそが観客の地位にあったことを意味する。ちょうど、福部がタロットカードの絵柄を用いつつ、奉太郎のことを「女帝」にコントロールされる「力」だと評していたように。

奉太郎は、ミステリー脚本家としての行為(つまらない映画脚本しか書けなかった脚本担当の子を守るための行為)に加担させられていたことに後から気づく。しかしそのこと自体、『氷菓』において謎を解くという作業が、単に既存の謎への一筋の解答を与える行為ではもはやないことを示している。

 

(b) この鍵は、既に引用した文集氷菓2 号序文にもあった。氷菓回(第1 話から第5 話)においては、古典部文集氷菓に秘められた歴史を解読することが模索されていた。そこでは、目の前に文集の序文で過去は見える形で存在しているが、悲しみは読めずに隠されていることがわかった。事後的に振り返ると、あたかもその悲しみが探偵役によって発見されねばならなかったかのように奉太郎には思えたことだろう。しかし、このような謎(が存在すること)への過剰な期待こそが、「女帝」入須の降臨を可能にした。歴史を再度描くことが、過去の複雑な線を繰ることでたどり着く、単一の解であることを決定する過程であるならば、どうしてもその単純化をへる謎解きはそれ自体として、手段化、道具化される危険をもつ。入須が奉太郎を「踊らせるためだけに」「才能を持ち上げた」ように。

謎解きに参入することは、同時に、別の謎にとらわれることでもある。謎を解くことは、最終的に、単一の「謎」と「解」のセットで満足することではなく、そのセットが不可避的に招いてしまった複数の出来事・コミュニケーションに、さらに謎を見いだしていく過程によって、初めて貫徹されるものであるのだ。実はこの貫徹に最も近く、最も謎から自由だったのが千反田でもある。千反田の興味は、最初から謎を解くことではなく、なぜミステリーを脚本家が書けなくなってしまったのかという謎についてのメタ的問題に向かっていた。千反田は夢遊病的に謎を見いだしてしまう主体であった以上、謎は常に与えられた思考の枠を超え出ている(※3)。

ここに至って、愚者のエンドロールというタイトルの意味が理解できるだろう。タロットカードで、千反田は好奇心、行動への衝動を表す「愚者」として名指されていた。「愚者」千反田は、映画タイトルである「万人の死角」たる叙述トリックのさらに外に飛び出している。その外で、「愚者」千反田がエンドロール、すなわち(作品における謎ではなく)脚本家に関するあり得た作成経緯を夢想している。つまり、謎はミステリー内部の解によってではなく、物語外の想像によって初めて完遂されることを、千反田は行動で示しているのである。

ミステリー内部の謎に生真面目に向かっているのは、むしろ「力」たる奉太郎の方だった。

「俺たちは入須から謎解きの当否を依頼されているのであって、ビデオの作成過程なんて純粋にどうでもいい」

無論「愚者」だけはその無邪気さゆえに、物語内外を問わない多すぎる謎にとらわれてしまうので、謎の解決は「力」が担うはずだった。しかし、「愚者」千反田が隣にいないときの「力」奉太郎は、物語内の謎の解決へとまっすぐに駆り立てられてしまうために、やすやすと「女帝」入須に御されてしまったのである

(※3 もちろん、愚者のエンドロール回では、上記の奉太郎が陥ってしまう失敗を描くために、あえて千反田は、ウィスキーボンボンによるアルコール摂取や体調不良という名目で、千反田は舞台から排除されていた。仮に千反田がいれば、奉太郎も入須の謀略には乗せられることなく、メタ的に、張り巡らされた謎の全体を解消しえていただろうためだ。)……

 

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その後、この問題への回答が与えられるという評論の構造です。

 

【項目】

2 日常の障害の逃れ方

 (1)固定する視線から逃れること(第18話、第19話)

 (2)固定される欲望から逃れること(第17話、第20話、第21話)

 (3)未来を想うこと(第22話)

3 非ミステリーとしての『氷菓

 

と続きます。11/4発刊『アニバタ』をどうぞよろしくお願い致します。

 

 

 

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