書肆短評

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3つの『輪るピングドラム』論--- 籠原スナヲさん、tacker10さん、sssafff+Nag評を並べて読む(1)

 つい先日作成した同人誌『アニメクリティーク vol.2』では、特集の2つ目の解釈対象の一つに、TVアニメ『輪るピングドラム』を挙げていました。結果的には tacker10さんのものとsssafff+Nagの拙稿、計2論が掲載される運びとなりました。内容紹介等はこちらで

 と、折角なので、家にある同人誌で『ピンドラ』扱ってるのあったよな、と探してみたところ、『BLACK PAST vol.2』掲載の籠原スナヲさんの幾原監督論が発見できたので、上述した3評論をまとめて(後ほど関連づけて)紹介したいと思い立ち、紹介します。

 (以下、敬称略とさせていただきます)

 

 

 

1、籠原スナヲさん
 「95年」と桃果の倫理---幾原邦彦少女革命ウテナ』『輪るピングドラム
(※掲載『BLACK PAST vol.2』2012年発行)


(1)交換可能性による苦しみ/交換不可能性による苦しみ、その重ね合わせとしての倫理


(1-1)導入


 籠原スナヲさんの幾原監督論、「「95年」と桃果の倫理---幾原邦彦少女革命ウテナ』『輪るピングドラム』」は、幾原監督による『少女革命ウテナ』と『輪るピングドラム』を、交換(不)可能性という両義性という問題意識の下で読み解いていく評論だ。
 著者の他の論考(※たとえば新しめのものだと『あじーる』2014)にも通じるところであるが、明確な概念の抽出と振り分けによって、人・キャラクターがどのような現実の/物語上の負荷を担わされているかが、極めて明晰に取り出されていく。『アニバタ』含め、数多くの評論が同名義で発表されているので、是非他論考も一読されたい。
 (※ 『ウテナ』部分も極めて示唆的なのだが、著者自身も分析の主軸においているのは後者であることから、今回は『輪るピングドラム』部分に限り、紹介してみたい)

 そこで『輪るピングドラム』に関して、著者は、高倉冠葉と荻野目萃果という二人の主要キャラクターに着目している。というのも、物語前半における彼らはそれぞれ、(上述した)交換不可能である自己の存在に苦しむ者と、交換可能であるが故に苦しむ者、という普遍的な二つの立場を代表しているためだ。
 つまり、冠葉は(疑似家族ではあれ)妹を愛する禁忌を越えることができない苦しみに身を焦がされる者として、萃果は誰からも愛された亡き姉の代わりを演じる苦しみに苛まれる者とし、姿を現す。
 一方、物語後半において、彼らの位置は反転するに至る。冠葉は、高倉家が疑似家族であることを露見させることで家族の楔から解き放たれるが、同時に、家族の紐帯を失い、誰でもいい「代わりがきく」者に堕してしまう。翻って、萃果は姉の代わりであることを止めたことで「かけがえのない」晶馬に惹かれるものの、同時に、犯罪被害者(萃果の姉、桃果)と犯罪加害者(晶馬の父、剣山)の家族という、彼らの間にひかれた避けられない運命に直面せざるをえなくなる。
 
 このように、物語の前半後半を通じて、彼らはこの両極を行き来し続ける。しかし、その両極のいずれにも救いはない。「かけがえのない」ものであることを求める心性には、そうでしかありえないという呪縛がつきまとい、「代えがきく」ことを求める自由には、誰でも構わなかったという価値しか付与されないためだ。
 かくして、いくら足掻こうとも「かけがえのない」ことと「代えがきく」こと、両極のいずれかにしか留まれなかったことこそが、彼らを苦しめているといえるだろう。


(1-2)桃果的倫理の在り方

 この分析から読者が得られる知見には次のようなものがある。
 運命に追いすがられる冠葉と運命に見放される萃果は、丁度、現実に生きる我々の生が、ときに「代わりがきき」、ときに「かけがえのない」ものとなるという偶然の反転を突き詰めている。そういうキャラクターとして表象されている。
 例えば本作が参照している95年のテロ事件は、誰かが死に、誰かが生きていることの偶然性(ex.たまたま一つ前の列車に乗っていたら…。たまたま遅刻したら…)に見る人を直面させる。更にその事件は、「私」にとって「かけがえのない」誰かを喪ったことが、他の人にとっては「代わりがきく」死として処理されるという残酷な価値的反転をも、同時に目の当たりにさせるだろう。
 つまり、その忌まわしい出来事は、我々の生の偶然性を露呈させ、生の価値的な反転へと我々を突き落とすものだった。「かけがえのない」ことも「代わりがきく」ことも、常に隣り合ったものとしてあり、そして等しく人を苦しめることができる。

 では、その生の偶然と反転に対して、著者の言葉でいえば「死の両義性」に対して、人はどのように向き合えばよいだろうか?
 本稿において提示される回答は、その両義性に目を瞑ることなく、人はその両義性に同時に開かれるべきだという回答だった。
 その両義性への開放を担ったのが、かつての桃果である。そこで彼女は、父親に拘束されていたゆりを自由にし、母親から捨てられた田蕗を子供ブロイラーから救い出す。つまり、「代わりがきく」者を「かけがえのない」存在として遇し、「かけがえのない」存在へ「代わりがきく」脱出路を与える役割を背負ったのである。(※12/15追記: 前者のガジェットがピングドラムであり、後者のガジェットが運命日記である、と著者は述べていたことが参考になるだろう。)
 この開放に至る取り扱いの連鎖の中にこそ、両者の境界を不断に揺らがせる(かつて桃果が担った)倫理がある。そう著者が述べていたところである。


(1-3)晶馬へと引き継がれた倫理


 さて、更に論は続く。

 物語上、桃果という人間は、95年のテロによって死亡している。そのため、桃果不在の今(2011年)においては、交換(不)可能性の前で苦しむ冠葉と萃果に対する関係では、別の者によってその倫理は担われなくてはならない。著者は晶馬がこの役割を担うものとして指定する。

 
① まず晶馬は、冠葉に「運命の果実」と呼ばれる生の象徴を与え返す。それはピングドラムと呼ばれる、半分が煙のように消えてしまう林檎のような光球であった。

 それは、先に挙げた、「代わりがきく」者を「かけがえのない」存在として遇することに眼目がある。とはいえ、ここで運命(の果実)を与え返すというのは、冠葉を、かつての(物語前半のように家族という「かけがえなさ」に苦しめられた)運命に再度拘束することではない。そうではなく、冠葉に、旧来の歴史とは異なる来歴の生を与えることを意味するだろう。おそらくは、新たな運命を、新しい運命として生きるかのような生を与えることがこれにあたるだろう。
 最終話の末尾、晶馬や冠葉は、かつての名もない少年の位置をトレースする形で(=現実の改変が最も少ない小さな奇跡の形をとって)現れる。そこで彼らが、高倉家という家族という呪縛から自由になり、かつ、現実の生へと至ったかは、実際のところは定かではない。(というより、彼らが人間としての生を送っているのかさえ、定かではない)
 しかし、ひとまず冠葉に限って言えば、その自責と逡巡に満ちた堂々巡りの生は、運命の乗り換えによって、家族関係からの自由が与えられ、陽毬へのアクセスはこれから来るべき可能性として残されたことになる、とはいえるだろう。
 この所作が現実の我々の生へと与える示唆としては、おそらくは自らに課された歴史・規範を継承しつつ、その除去と再構築を同時に遂行するような共同体主義的な振る舞いであるだろう。その除去と再構築の中にこそ、現実に運用される倫理として構想されているものが蔵されている。


② 次いで晶馬は、萃果に「愛してる」という「かけがえのない」言葉を与えるとともに、(運命の乗り換えと共に)その記憶を消去するに至るだろう。

 ここでは「かけがえのない」存在へ「代わりがきく」脱出路を与える役割こそ、強調されるべきだろう。(※ここはやや推測まじりではあるが、)丁度萃果による「運命の乗り換え」が彼らを因果の呪縛から解き放つ(=「代わりがきく」脱出路を与える)ように、晶馬は萃果に対して、愛されたという「かけがえのない」原初的な(具体の記憶なき)記憶を植え付け、しかし、そこに拘束されないように(運命日記無しにではあれ)記憶の片鱗”だけ”を残すという二重作業を遂行する。これが晶馬による救済にあたるものであろうと思われる。(※12/15追記)
 つまり、ただ一度きりしかありえないという意味で「かけがえはない」が、しかし拘束する来歴は持たない(消滅させる)という意味で「代わりがきく」言葉を、晶馬は与えるのである。萃果が交換可能なのは呪文を用いる存在である(ここに来ても桃果の代補であるという)ことよりは、おそらくは(晶馬の苦痛を除くためには)関係ない赤の他人としてしか接することができなかったという萃果の関係構築の作法にあるのだろう。
 これを晶馬は運命の乗り換えによって変えるにいたる。晶馬が述べた「愛してる」という言葉は、かつて萃果が晶馬によって愛されたという呪縛に留め置く(拘束する)ためにあるのではない。(だからこそすぐに記憶は消去される)
 そうではなく、その「愛してる」という言葉を受け取った者が、新たに誰か(勿論それは次の瞬間の自分かもしれない)を愛することができるようにするために、その自由とともに置かれるべき言葉であるのだろう。人を「愛する」とは、このような呪縛でも放任でもないところの自由としてあるということも、示唆されているのだろうと思われた。

 
 こうして、「代わりがきく」ことと「かけがえのない」こともまた、不即不離の拘束でありながら、同時にその両儀的な位置を組み直し、「バラバラのまま併存させ」る作用を伴うことによって、生を、耐える価値のあるものへと仕立て上げる倫理として、立ちあがることになる。ピングドラムと日記という二つのガジェットが用意され、それが各人の手を渡っていったという著者の洞察は、この倫理の二つの発現の型として理解されるべきだろう。

 そうして、これこそが、『輪るピングドラム』が冒頭と最後の子供の口を借りて述べた、終わり(=死)が同時に始まりでもあるかのように生きるという倫理に繋がることに疑いはない。倫理は継承され、次の愛を生み、再度「かけがえのなさ」と「代わりがきく」ことを相補う形で次代を生んでいくだろう。桃果亡き後に晶馬がその倫理を担ったように、晶馬亡きには萃果こそが、誰かを想ってその桃果-晶馬的倫理を継承することだろう。

 かくして、「どうせ死んじゃうのに何で生きているんだろう」というかつてウテナで問われた問いには、項答えるべきであるだろう。即ち、誰かに手を差し伸べることができるのだからこそ、我々はときに「かわりがきくこと」に絶望しても生きることができたし、「かけがえのなさ」に押しつぶされそうになっても生きることができる、と答えるべきなのだろう。そう思われたところである。(※12/15追記)

 

(2)陽毬の位置


(2-1)疑問点


 以上が、私がまとめた限りにおける籠原スナヲさんの『ピンドラ』論のパラフレーズとなる。

 一方で、若干の疑問とともに、この論を更に拡張することが可能だと思われるので、以下、感想めいた私見を述べていきたい。

 具体的には、物語が回る中心軸に置かれ、かつ、最終的に(人間の形をとって)救われることとなったのは、一見したところ萃果と陽毬であり、決して星々の間をペンギンたちと共に縫うように進む冠葉ではないという点に、疑問の中心がある。

(※勿論、籠原さんが冒頭で述べていたように)敢えて主人公たちの思考を逃れる存在へと着眼したというのは、幾原監督の問題意識をかくも明確に抽出しえた点において、正しい方法だと考える。

 一方で、冠葉についての分析の途中で萃果に寄る運命の乗り換えの呪文の話題を提示しなければならず、冠葉を主眼とした救済ではない場面で彼の救済の話をしなければならなくなった点など、冠葉に着目しすぎることで、一部理路の迂遠さがあったようにも思えたところである。
 無論、上述の籠原さんのロジックが、このような些末な指摘で揺るがされることはありえないし、そう主張するつもりも毛頭ない。むしろ、この指摘の主眼は、陽毬を中心に据えたときに籠原さんのロジックがうまく機能した可能性を捉える検討をしてみたいという点にある。

 ということで、以下は、籠原さんの思考に触発された所感としてご理解いただきたい。


(2-2)一度死んだ者たる陽毬の位置


 ここで、陽毬に着眼する理由は以下のとおりである。

a.) 本作で(桃果の身体が象徴的に分かたれた)ペンギン帽が辿り着いたのは陽毬であり、その陽毬はプリンセス・オブ・クリスタルとして顕現している。その彼女は、周りの冠葉や晶馬に対して「ピングドラムを探せ」という内容空疎な命令を与え、この無内容な命令が本作の物語を駆動させていたとみることは容易に見ることができるだろう。
 つまり、陽毬というのは、もともとそこで(「かけがえのなさ」の呪縛に耐え、「代わりがきく」ことの不毛さを噛み締めることで)冠葉たちが諦めることもできた、避けようもない運命の回避を「してはならない」と促し、運命への抗いを方向付けた起点となる存在であり、その後も、継続してその抵抗を嗾け続ける不在の中心でもあることが、着目を誘う理由の一つ目としてあげられる。つまり、「かけがえのなさ」「かわりがきくこと」が主題化されるためにも、陽毬の存在が不可欠であったのではないか、というのが、第一の点だ。

b.) 加えて、第二に、陽毬に結びつけられた死への近接性という彼女の生に課された条件がある。
 陽毬は、第一話冒頭から死に瀕しており、事実、第一話で死亡してしまう。その後初恋のように「一度しか効かない」奇跡によって生き存えたに過ぎない脆弱な存在だ。その死は、いかに眞悧が冠葉を釣り上げるために、薬や金と言った(一見したところ”量的に”越えられるかにみえるだろう)物理的リソースによって陽毬の命が買えるように偽装したところで、避けようもない事実として現れる。(※下記補足)
 つまり、彼女は、放っておいて、その日暮らしで生きることによってさえ避けることのできない、忘却されてきた死を突きつける存在として現れる。そうして、陽毬とっての「かけがえのなさ」の苦しみと「代わりがきく」ことの苦しみというのは、第一話の死によって、既に一旦はどちらも通り過ぎられた贅沢品として現れているのではないかというのが、第二の点である。

(※死というのは、典型的にかけがえがない(固有の死である)のに、万人にとりさけようもないありふれた(死亡という)事態としても解釈されるというのが、この理由である。)

 

 それゆえに、現実世界におけるコミュニケーションとしての「かけがえのなさ」と「代わりがきく」ことの調和という以上の問題を、陽毬は抱えているように思われたところである。冠葉たちのような両極端の間で悩むものたちの苦悩を、一旦通り過ぎたものとして、陽毬は、再度この「かけがえのなさ」と「代わりがきく」ことを獲得しなければならない者として現れているといえるように思われた。
 陽毬にとって、生というのは(表面上は楽しそうに振る舞うが、)酷く退屈なものとして、かつ、来るべき死というのも避けられないものとして現れる。そのため、陽毬の主観からすると、ただただ日々が平板に過ぎ去っていくようにも感じられるような描写が時折挟まる。陽毬は「代わりがきく」ことにも「かけがえがない」ことにも飽き、そして諦めているように見受けられるのだ。(※ここらへんの描写は幾原監督も執筆者として加わっている小説版のほうが詳しいかもしれないが、やはり措いておこうとおもう。)

 再度、問いの形にすればこうだ。人が既に死に直面したのに、それでもなお「かけがえがない」とどうしていえるのか、それでいて「代わりがきく」とは言い切れない生を生かされていることをどう評価すればよいのか? 更には、上記1-3で先述した「愛してる」との言葉との関係で言えば、既にこの現在という瞬間で言えば「愛されている」者でさえ、時間的な、次の瞬間には、かつてのように再度「代わりがきく」ことと「かけがえのない」ことの狭間に陥れられてしまうのではないだろうか?この悲劇を、いかにして回避すればよいのだろうか? このような問いへと、結びつくところだろう。


(※補足: 冠葉というのは、そういう意味では、高倉剣山の反復として現れていたともいえる。彼らはともに、誰もが「代わりがきく」世界、あるいは、必然ではないのに陽毬が死んでしまう世界に絶望し、自らの手で「かけがえない」ものを護るしかないと判断した者として現れるだろう。そういう意味で、冠葉は、子供たちから未来と多様性を奪い、「代わりがきく」ものとして固定してしまうブロイラーに、果敢に抗ったかつての剣山によく似ている。「嵐が過ぎるのを待っていては大切なものを護れない」と高倉剣山は冠葉に教えていたが、一方で、この道徳命題に駆られ、眞悧に利用され尽くされた者として、冠葉は剣山同様に追い込まれていったとも言えるだろう。だからこそ、彼の救いというのは、世界に新たな人間としての生が用意されることではなく、自己の消尽という形でしかありえなかったのだろうか。)


2-3、系譜学的遡行という倫理


 こうしてみると、陽毬という、死を経た後に再度上記狭間へと陥れられた存在、声なき不具者の口を伝って出る「生存戦略ー!」という言葉には、桃果的倫理が提示した両義性を超え出る倫理の余地があるとはいえないか。

 陽毬という死に近接した存在に着目することで、運命に振り回される生ではなく、運命を新たに作り出す契機が見出されうるのではないだろうか、とここでは開いた問いの形で、問いを提示しておきたい。

 仮説を述べるならこうである。

 プリンセス・オブ・クリスタルという(桃果という倫理から発した)幽霊的な口伝師は、このような両義性の狭間で諦念に満ちた陽毬の生を、陽毬のためを思う者達を生を通じて生きるに値する生に仕立て上げる仕方を、一周巡って辿り着いた第24話において教えていたのではなかろうか。
 この見立てに従えば、おそらくは、陽毬が「運命」という言葉を、作中のキャラクターの中で唯一途中で評価しなおし、そうしてはじめて「好き」になることができたというのは偶然のことではない。24話においては、もはやそこに兄もいなければペンギンもいない。しかし、陽毬にとっての「運命」というのは、24話に至り、かつて自分を苦しめた外在的に自分たちの外にあるものから、今や不在のものたち(冠葉や晶馬、かつて友達になったときの萃果やペンギンたち etc…)と一緒に生きられたという(記憶なき)記憶によって繋ぎ止められている生に内在した別様に生きうる契機のことを意味するだろうからだ。この段階の陽毬にとって、「運命」とは、苦しみを与える環境条件ではなく、自らを生かしつつある全てのものへの想像の別名に他ならない。

 こうしてみれば、むしろ、24話、最後の場面で冠葉と晶馬のような少年たちが、第一話の少年たちの会話を反復していたことには、次の様な意味があるだろう。つまり、もともと第一話で、冠葉と晶馬は、高倉家とは何らの関係のない少年たちを、自らが彼らの様な形で生を繋いだかもしれない歴史へと開き、(第一話の段階から)彼らのように生きるようにと促され、そのことを「愛する」ことができるようにと自分自身を開かなければならなかった、というように。勿論、視聴者も同様である。視聴者は、第一話の少年たちの会話が冠葉と晶馬の形をとって現れたときに、第一話の段階からその声をきくべきだったことに、その声を聞き逃したことに、おののき、次いでその声に耳を傾けるべきだったことに気づかねばならなかった。

 つまり、そこでの倫理というのは、任意の子供を見たときに、いるはずがない自分の(血のつながりさえない)兄妹を見出すということに他ならないのではなかろうか。

 勿論、この思考方法は、妄想と殆ど区別がつかない。しかし、その錯誤めいた想像こそが、この生を、現実の因果・現実の運命を辿れば決して繋がりを見出せないにもかかわらず、繋がってたかもしれない別の生へと触れることを可能にしてくれるかもしれない。反対に、そのような錯誤なしには、現実のコミュニケーション上の他者とは看做されてこなかったもの、典型的には、今や不在のもの、もはや不在のものへと触れることは、これからも叶わないままに留まるだろう。

 運命をたどれば「かけがえがない」(自分たちでしかありえない)にもかかわらず、「代わりがきく」(自分たちではなかったかもしれない)歴史を見出すこと。これこそが、系譜学的遡行そのものであるような倫理と、この私見で述べたいところのものであり、本稿の拡張として行き着くべき倫理のように思えたところである。
  

 

(3)倫理を時間に開く

 

 コミュニケーションとしての「かけがえのなさ」「代わりがきくこと」という対は、こうして陽毬において時間に開かれる。運命というのもまた、人を規定する環境といった空間的な外なるイメージから脱し、時間的な持続とうねりの中で把握されるあらゆる主体が生まれ出る場として把握されることになるだろう。
 「かけがえのなさ」と「代わりがきくこと」は、時間的な運命の混和、時間的に忘れられてしまった別の因果への想像、あるいは時間的に重なり合った重畳的な生を生きることの中から発する、生の二つのタイプである。だとすれば、人はそのタイプを互い違いにすりあわせることに加え、その源泉へと遡行することによって、その二つが分かたれる前の「ありえただろう可能的生」を、陽毬のように(何を忘れたのかすら定かではない中で)「ずっと忘れない」と涙を流し、覗き見る必要がある。
(※籠原さんの洞察を踏まえるならば、)上述の倫理が、幾原監督が示そうとしたもう一つの「かけがえのなさ」と「代わりがきくこと」の重ね合わせとはいえないか。

 こう問いを提示して、籠原さんの『ピンドラ』論の紹介と私見を終えることとしたい。
 

 

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2、tacker10
 不純なるものたち--- 『輪るピングドラム』が描く彼方
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

 

ということで長くなったので、次記事に移動しました

 

 

 

【次回予告】

 

3、sssafff+Nag
 ほどけた輪の先--- 運命の果実を一緒に作る
(※掲載『アニメクリティーク vol.2』2014年発行)

(1)透明性への抵抗
(2)果実の作り上げ
(3)現実ならざる秘密への視線


4、3つの評論から見える諸倫理

(1)Q1.) その倫理は、誰へ向けられたものか?
(2)Q2.) その倫理は、どのような手法によって接近すべきものか?
(3)Q3.) その倫理は、いつ貫徹されるのか?

 

 

 

【※12/13時点での予告 : tacker10さん評論の紹介】

 tacker10さんの論は『輪るピングドラム』を題材に、ラマールらを引きながらアニメを分析する批評の方法まで論じる、射程の広い論考となっています。詳しくは、彼の「仮想的身体論」(継続中)を見ていただくのが速いかも手っ取り早いかもしれないですが、単純化され、純粋化された経験としてあるアニメ体験に至る認知的過程を遡行することによって、人が動かされるという経験を論じる方向に向かう重厚な批評となっています。
 本作、『輪るピングドラム』との関連で、籠原さんが提示した「交換可能性/交換不可能性」(萃果+冠葉)という対を引き継いで言うなら、それに検討対象としての眞悧を加え、「近代/ポストモダンポストコロニアル」(萃果/陽毬/眞悧)という軸に置き換えつつ、これらの軸の終わりなき抗争に陥らない「不純なる歴史そのもの」という位相の抽出を行おうとするものとなっています。
 つまり、籠原さんの論も、「交換可能」と「交換不可能」という極のいずれかという既存選択肢から選択することの出口の無さを指摘していたと思うのですが、tacker10さんの論ではそれが「純粋性」、「二者択一性」の忌避としてテーマ化されているといえます。(そこでの例としては、和歌研究における「女手」概念等にも拡張されるのですが、とりあえずは詳述しません)
 その過程で取り出されるのが、純粋性へ対置された「不純性」の追及と分析という方向です。本作『輪るピングドラム』で提示される「運命の乗り換え」というのは、純粋性への欲望によって収束されてしまいがちな運命を、分岐・分散させる機構として再解釈され、「身体か文字か」、「近代かポストモダンか」といった択一的な問いを退け、その横向き/奥への運動といった現存する多層的諸構造の分析へと向かうようにと、視聴者を促す余地がみられる。そう主張されることでしょう。
 まとめです。tacker10さんの論の一部を捩って言えば、「テクストがテクストであるための必要な両義性」を視ることなしには、人は「自らを語りだすこと」は決してできないままにとどまるでしょう。反対にこの構造分析の貫徹は、分析途上であるためにまだ先であるかもしれないでしょうが、分析なしには人は自己を省みることができないのだからそこへと人は挑まねばならない。そういう決意に満ちた詳論となっています。

 『ピングドラム』と「仮想的身体論」、どちらの関心からでも入れる間口の広い評論ですので、是非、視てみてください。

 tacker10さん原稿につき、紙の形で欲しい方はCOMIC ZINへ、とりあえずPDFでも何でもいいので読んでみたいという人は個別に @nag_nay まで、ご相談ください。