書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

寄稿募集:C96新刊③「アニクリvol.8.1 海獣の子供」レビュー本 寄稿募集について #C96

 

1、検討・寄稿募集作品:

 

アニメーション映画『海獣の子供』についてのレビューを募集します。

 

編者もまた本作をみてあっけにとられた者の一人ですが、この作品の(翻案の、映像の、運動の、音楽の)良悪、巧拙を語ることで、直ちに、発言者自身がアニメ/アニメーション作品に何を求めているのかをさらけ出してしまう/出させられてしまう...そんな作品であると考えています。(編者のこのコメントも、つぶやきも同様)

そんな作品のどこに着目して、何を語りうるか、皆さんのご参加をお待ちしています。

 

※なお、原稿集約状況によっては、コピー本からオフセット本への移行・統合もあります。ご協力のほど、何卒よろしくお願いいたします。

 

 

 

2、寄稿募集要項

 

(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷A5100頁程度で企画しています。

 発刊時期は、2019/08/12C96コミックマーケット(日曜日 西け31b)です。

 是非お気軽にご参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 2000字程度から10000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1000字程度まで。

b. 形式

 .txt または .doc

c. 締め切り

 最終稿:2019/07/28(日)

 (※ 7月中旬にドラフト段階のものでもいただいてやりとりできましたら幸いです)

 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊3種(音楽号・バグ号・海獣の子供号)の中から一冊を進呈させていただきます。

 

以上

寄稿募集:C96新刊②「アニクリvol.7.1 特集〈バグ/サイバースペースの表象〉/lain・電脳コイルからSSSS.GRIDMAN・ケムリクサまで」0.5稿 #C96

溝口力丸 on Twitter: "アレクサ、全部消して
Hey Siri、あの子を止めて"

https://twitter.com/YahooNewsTopics/status/1134037049525149696

 

早乙女まぶた on Twitter: "バラバラにされた鳩羽つぐを修復しているがどんなに頑張ってもうまくいかなくて絶望的な気持ちで切断面をテープで繋ぎ合わせている(肩に腕、首に頭、それは分かっているのに、うまくいかないのだ)"

 

 

 [表紙: 進捗]

f:id:Nag_N:20190616233259j:image

 

「ミラーワールドとは、現実の都市や社会や私たち自身といった物理世界の情報が全てデジタル化された〈デジタルツイン〉で構成される鏡像世界のことだ。デジタルツインについてはドイツの「インダストリー 4.0」といったスマート製造業の文脈でご存知かもしれないが、ここで双子になるのは〈世界〉そのものだこのデジタルツインの世界では、デジタル記述されていない物体は、いわばダークマターでしかない。あるいは伝説のSFアニメ電脳コイル」において、それは単純に「バグ」と呼ばれる。12年前のこの作品で監督の磯光雄は、子供たちが没入する拡張現実の空間を描き出した。その空間とリアルのズレが「電脳コイル」と呼ばれるわけだけれど、僕らはまさにこれからふたつが重なり合う世界を生きることになるだろう。」

Michiaki Matsushima 2019, Wired, 33

 

「一つの時代の黎明期は、まだ誰も「起承転結」の「起」しかしらない。それで人生を語れる人間が、まだ一人もいない。(中略)気をつけたいのは、完成度を求めるあまり、こうした「起」しかない題材に、前世紀の「承転結」をくっつけてしまいがちなこと。21世紀の物語を作りにあたって、それは何としても避けたい。」

磯光雄 2019, Wired, 33

 

「いつの日か、地図製作組合は、帝国の地図を作り上げるだろう。それは帝国の領土と全く同じ大きさで、全ての地点が一致したものだ

Jorge Luis Borges

 

「現実の風景(ランドスケープ)と情報の風景(インフォスケープ)のあいだに大きな落差が生まれ、そしてインフォスケープもまた複数に分裂し始めている」

東浩紀, 2015, 『テーマパーク化する地球』(2019)所収

 

 

1、検討・寄稿募集作品例:

 

今号では、アニメ制作段階/映像/視聴段階など諸段階における「バグ」についての検討が可能な作品、あるいは、それらバグがいかに表象されてきたかについての検討が可能な作品を広く募集したい。

また、あわせてアニメにおけるサイバースペース(電脳空間)の表象(それは時に「精神世界」と地続きのものとして描かれてきた。)についての検討が可能な作品についても、広く募集したい。

なお、全体の章構成は、以下の通りである。 

 

【章構成】

第1章 状況:「作画崩壊」 archive 2018-2019(※)

第2章 アニメにおける「バグ」の表象(下記作品例参照)

第3章 実験アニメーションの現在 archive 2019.06.08

第4章 アニメにおける「サイバースペース」の表象(下記作品例参照)

※第1章については、①てらまっと 「多層化するスーパーフラット(4.0):藍嘉比沙耶とレイヤーの理論」、②ナンバユウキ 「作画崩壊の美学」、③DIESKE 「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」、④tacker10 「「作画崩壊の形式的な分析にむけたノート」に関するメモ書き」を改訂・再掲する。ここから、上記既存論考へのさらなるレビュー・コメントも広く募集する。

 もちろん、これら既存論考に加えて、「作画崩壊」に関する新規論考も募集する。 

 

【募集作品例】

SSSS.GRIDMAN

ケムリクサ

きみと、波にのれたら(※前号「アニメにおける線」の続き)

・・・ 

Serial experiments lain

TEXHNOLYZE

電脳コイル

妄想代理人

攻殻機動隊

イノセンス

.hack//SIGN

新世界より

シムーン

フラクタル

ハーモニー

ブギーポップは笑わない

・・・

などなど(上記はあくまでも例示に過ぎないため、自由に作品を選定いただきたい。)

 

 

2、寄稿募集要項

 

(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷A5100頁程度で企画しています。

 発刊時期は、2019/08/12、C96コミックマーケット(日曜日 西け31b)です。

 是非お気軽にご参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:

 ①論評・批評 : 2000字程度から15000字程度まで。

 ②作品紹介・コラム:300字程度から1200字程度まで。

b. 形式

 .txt または .doc

c. 締め切り

 最終稿:2019/07/21(日)

 (※ 7月初旬にドラフト段階のものでもいただいてやりとりできましたら幸いです)

 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)

d. 送り先

 anime_critique@yahoo.co.jp

 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。

 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

3、趣旨文:バグ号発刊にあたって

 

 

ダイクストラという人をご存じだろうか。ダイクストラは1930年オランダ生まれの計算機科学者で、 現在はテキサス大学にいる。ダイクストラは「構造化プログラミング」の提唱者であり、 現代のプログラマはこの人の名前を忘れてはいけないほど重要な人物である。その偉大なダイクストラがこんなことを述べている。「バグと呼ぶな。エラーと呼べ」 つまり、プログラマにとって非常になじみ深い「バグ」という言葉を使わないようにしろと言っているのである。「バグ」という言葉を使うかわりに「エラー」すなわち「誤り」という 言葉を使うように提案しているのである。ダイクストラの理由はこうだ。「バグ」という言い方は、あたかもプログラムの誤りがプログラマの見ていないうちに 自然に入り込んでくるような錯覚を起こしやすい。もちろん、 プログラムの誤りは自然発生するわけでもないし、プログラマがよそ見をしている間にのそのそとプログラム中に忍び込んでくるわけでもない。プログラムの誤りは、 プログラマ自身が作り込んだものなのだ。 「バグ」という言葉はこの厳しい事実を覆いかくしてしまうのである。ダイクストラはこのように主張する。(中略)

もっとも危険なバグとは、実はプログラム上の誤りではない。 もっとも危険な誤りはプログラマの意識の上の誤りである。 プログラムの誤りはいつの間にか入り込むものだという誤解こそ何よりこわいものなのである。バグはプログラムの中ではなく、プログラマの頭の中にいたのである。

結城浩, 1991330日, Oh!PC所収)

 

上記のダイクストラ発言のいわんとすること、その文脈は十分理解できる。

プログラムの誤りという意味での「バグ」というのは徹頭徹尾、人為の所産であり、後から混入した外在的なものではなく、それゆえにプログラマー責任の下にある(責任追及のための因果的起点は、まさに物理的にバグを生み出した設計者・製造者にある)、「ロボットに倫理を教えること」はできない、それに尽きる、というわけだ。

 

その文脈が必要とされた理由も、その風土も、もちろん理解できる。しかし、この文脈が限定的であることもまた十分に理解可能である。それは、何者かに責任を求める文脈を除いては、現に起こっている事態を記述するには、貧弱な道具立しか与えない。

 

例えば、人の手による制作を超えた政策について、「バグ」と「エラー」を、結果としての成果物から峻別することはほぼナンセンスである。

 

その成果物は、もとより、人間と(技術)環境が複合した所産である。

 

例えば、時を超える都市の同一性/逸脱についても、何も示しはしない。一つ以上の記述を内包する変形には、可塑的な歴史が折りたたまれる。

 

これを我々の認知の問題として検討してみる。

我々の認知能力側にあるイレギュラーなものの「レギュラー」としての認知についても、「バグ」を「エラー」へと置き換える用語法は、おおよそ何も示してはくれない。

 

私たちは、この点において、「私たちにとっての自然」を構築しつつある。錯覚であり、認識でもあるものとして。

 

制作においてもこれと並行的な取り組みは見て取れる。

 

かくして、リアルタイムの制作という理念が実現されつつあるように見える。

 

さて、今一度「バグ」に戻れば、"First actual case of bug being found."の逸話はあまりにも有名である。そこでは「バグ」とはプログラム上のエラーそのものではなく、作動を中断させ、あるいは別方向へと逸らす現象一般(およびその原因)を指す語として流通する。バグは、責任帰属以前の、我々の認識を新たにさせる経験として、バグはそこに(そこかしこに)現れる。

 

他にも、例えばゲームにおいて、我々はむしろ、そのバグすらも理解しようとし、そのバグを前提とした上で、その限定空間における最適解を発見したりすることも、ここで思い起こせるだろう。

「I hate this game」をプレイ。画面に出る言葉をヒントに男をドアに導くがそのバリエーションが異常に豊富&柔軟‼️QRコードを読んでパスワードを得たりウィンドウを最小化しないと行けない箇所があったりゲームを鮮やかに解体して新しい見事なルールを大量に提示する大傑作🔥https://t.co/wYIkqN3vXq pic.twitter.com/6FmqtAGCto

— ソーシキ博士 (@soshikihakase) May 21, 2019

「あなたのバグはどこから?」というわけだ。そこには、近時語られる「アニメーションの原形質性」という解釈枠組みとは別の、評価枠組みが現れる。

わたくしには、ここ最近のアニメーション研究における原形質性神話の解体のようにも聞こえました。巨大な鍋と期待するハイジと無視するおんじというCM前のカットから生まれるサスペンスを指摘されてましたので。

— 長谷正人 (@mtokijirou) May 27, 2019

(内在的なエラーかそうでないか、過失か無過失か、集団か個人かも問うことなく、「イレギュラー/リスク」が顕在化した時、我々は「バグった」という言葉を頻繁に用いている。このことの含意は大きい。)

 

 

状況論的にも、デジタルツイン/IoT時代の現代においては、リアルスケープ(現実空間)とインフォスケープ(情報空間)はますます相互依存的になりつつある。それとともに、「エラー」ならざるバグの領域はますます拡張しつつある。つまりは、我々ならざる行為者の所産を、自然として引き受けよという指令として、バグの領域は拡張しつつある。

そこに、新たな自然が発生するのは、文字通り自然である。

クロノ・トリガー』や『ペルソナ5』から影響を受けたという海外産JRPG『Cris Tales』。その体験版が6月24日まで配信中!過去・現在・未来が同時に見えるようになった少女の物語を描く https://t.co/EX8mqeob9K pic.twitter.com/ajMRN7QgK0

— IGN Japan (@IGNJapan) June 12, 2019

 

そうした想像力の行く先は、例えばlain, 電脳コイルにはじまり、ケムリクサに連なる90年代-10年代の本邦アニメの中で繰り返し描かれ、洗練されてきた。時に、サイバースペースへのハッキングと同時に描かれる精神世界での「解決」は、アニメ的想像力が外部の技術環境とともに拡張しつつある自体を示している。

他方、そうしたバグをあからさまに制作に取り入れる一群の作家もいる。(例えば、現代アニメーションの礎とも言えるマクラレンに始まり、NikitaDIAKURもまた、その一人である)

 

 

人為と自然は厳密に峻別できるものではない。人(あるいは人工物)が介在したとしても、自然的所産・自然的作用の可能性は拭いされるものではない。一人の人間の中においても、または集団制作の中においても、こうした観察レベルの融和は常に働いている。ましてや責任の語法抜きには、「バグ」とそうではない「エラー」の差はごく小さなものとなるはずである。

 

以上、こうしたバグという語の持つ、人為と自然の差異、(時間的、経済的によって)限定された環境と拡張された環境の差異を踏まえて、アニメ/アニメーション(制作・映像・視聴)における「バグ」というものの混入・利用(転用)・表象にはいかなるヴァリエーションがあるのか? それが現れた作品にはいかなるものがあるのか? 我々はバグ的なものにいかなる情動を掻き立てられるのか?

 

寄稿者に検討を依頼したい点はここにある。

 

 

 

 

 

 

こうしたハッキング的なもの=バグ的なものに対して、我々はいかに向き合えば良いのか。単なる平板なものへの希求ではおそらく足りない。そこには不可避的に政治的な問題が付随する。

murashit on Twitter: "TRIPLE HがSpotifyにぎゅうぎゅうに箱詰めされている様子です… "

 

我々に見えているものは何か。ナグが排除された状態とはなにか。反対に、バグが排除されないという状況において、目の前にあるものとは何か。「見えるものと見えないもの」。その現代的な形が問われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--------素材

音楽

現実

周防周 on Twitter: "夢見りあむは鳩羽つぐが動画をupし始めたとき感じた他のVtuberとは違った虚構と現実のズレに似ていて、入力も出力も結局は虚構なんだけど間に一つ現実が挟まっているんだよな。"

部分

ヴァーチャル・リアリティ

 projection mapping

 ヘッドアップディスプレイ

ロトスコープ

自律性

廃墟

ケムリクサ 

時間(速さ遅さ/過去未来)

批評

 

 

 

寄稿募集:東京文フリ新刊①「アニクリvol.3.5 特集〈アニメにおける音楽/響け!ユーフォニアム+ 号〉」 #C96

 

 

1、検討・寄稿募集作品

 

2019.04の劇場版を持って映像化が完結する『響け!ユーフォニアム 誓いのフィナーレ』に合わせ、〈アニメにおける音楽〉について論じることができる近時の作品についての評論・批評・論考を募集します。

 

※ 音楽アニメ論は元より、アニメにおける個々の音楽の分析、アニメに付される音楽の種類と効果、映像に音を付することの困難と工夫などを主たる検討対象として考えています。

※ 関連するアニクリ既刊の例として、2015.08刊行『アニメにおける音』特集号を起点として、2016.11君の名は。特集号、2017.08『劇場版ガルパン特集号、2017.11『声と身体』特集号、2018.08刊行リズと青い鳥号、2018.12刊行山田尚子監督作品』号を挙げさせていただきます。

※ なお、vol.3.0は本日、2019/02/26、メロンブックスDL様にて電子書籍にて復刊しました。お待たせいたしました。


例)

 

(underconstruction)

 

 

2、寄稿募集要項


(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2019/08/11、C96です。
 是非お気軽に参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 2000字程度から12000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:300字程度から1200字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り(第一弾)
 最終稿:2019/07/14(日)
 (※ 6月中旬に第1稿(ドラフト段階のものでも可)いただいてやりとりできましたら幸いです)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

 

3、発刊趣旨

 

  • 調べとリズムは言葉に従わなければならない。(プラトン『国家』)
  • おそらく私たちはモダニズムが抱くユートピアニズム(=不在の場所への憧れ)と、ポストオダニズムが示すディストピアニズム(=不全の場所の観察)を越えて、人間とは歴史の中に生きるものとして意識的無意識的に様々な場所を想像するものであることを認めるトピアニズム(=場所に立つ自覚)へと向かうべき時である。(Olwig, K. Landscape, place, and the state of progress)

 

物理的に還元すれば、音は媒体の中の自動的な振動である。物質的、生理学的、神経学的な必要条件としての振動を疑うものはいない。

音楽を視覚化する方法も多々あり、直感的にわかりやすい一例として下記のようなものが挙げられるだろう。

vimeo.com

 

もちろん、音楽の視覚化は各種試みられているところであり、下記の黒川良一氏のもの(偶然だがちょうど編者が2012年に観に行ったもの)などもこの例に連なる。

vimeo.com

 

しかし、我々に聴かれる音/音楽を論じるにあたって、上述した還元的な定義から説明しようとする向きは、決して大きな賛同を得られるものではないだろう。

振動は我々の耳朶の奥深くの毛細胞を揺らし、聴覚神経を刺激したうえで、我々に「聴かれる」ことによって音になる。精神的加工によってであれ、聴覚環境のパターン認識によるものであれ、振動は変換されなければならない。無限音階に代表される音の錯覚(錯聴 auditory illusion)など、聞こえ(sonority)にまつわる各種の困難と工夫の上で、音の響き(peals)は聴かれることになる。

※ なお、この音/音楽に関する議論と並行的なものを、色に関するニュートン-ゲーテ間における議論に見て取ることができる。ゲーテ『色彩論』は、古典的なニュートン的なスペクトルの差として色を把握する見解に対して、情動の差として色を把握する見解を打ち出した。「白いものは暗くされ曇らされると黄色になり、黒は明るくなると青になる」。なお、ウィトゲンシュタインの色彩論もまたこの延長でなされた検討である。

 

言うまでもなくアニメに付される「音」それ自体は、映像に対して外在的である。音を「リアル」に寄せるか、効果音として場面に(説明的に)付加するか、あるいは場面と無関連な音を配置するか。これらの問いは、まずは音響監督の手にかかっているが、同時に視聴者に「聴かれる」ことによって各種の効果を発生させることが期待されている。
とりわけ、楽譜(記譜)を持った「音楽」をアニメに移し替えるにあたっては、カット割と音楽/ストーリーラインと旋律の同期/ズレの構築など、数々の段階・作業を経る必要があることは言うまでもない。これを視聴者側で(一旦バラしたりなどして)組み直すことなしには、アニメにおける音楽の効果を十全に把握することは難しいように思われる。(一例

 

※ そもそも楽譜(記譜)を音楽に移し替える場面でも、潜在的には複数の段階・作業を経る必要がある点については、様々に議論されている。

 現在、楽譜(記譜)と音楽の関係については、「楽譜は表記法の中にあって、作品を定義する」指示であり、その実行の手前にあると考えられている(ネルソン・グッドマン『芸術の言語』を参照)。記述物や線描画がそれ自体として芸術であるのに対して、音楽は、楽譜に示された指示が実行されることにより芸術になる、というわけだ。しかし他方で、こうした観念が成立したのはたかだか18世紀末と言われる(Lydia Goehr, The Imaginary Museum of Musical Works)。長らく音楽は(演劇におけるスクリプトのように)都度の演奏行為において存在する、と考えられてきたのであり、旋律は明確な音程を持つ音連鎖ではなく「歌われるもの」であった。
 能の上演において(笛で「演奏」される)「唱歌」がそうであるように、「一つ」の音楽は、絶対音/絶対的な旋律の(近似的)再現ではなく、(標準化されない)指の配置、笛ごとに異なる音孔、声として表記される音色と言う、手や声帯と一体化した身体動作として現れる。これらの点については、ティム・インゴルド『ラインズ』(2007)第1章「言語・音楽・表記法」を参照されたい。

www.youtube.com

 

 

以上を踏まえ、アニクリ次次号は〈アニメにおける音楽響け!ユーフォニアム完結記念〉を取り扱う。

f:id:Nag_N:20190228095134p:image

 

4年前に刊行した〈アニメにおける音〉の続編であり、アニメにおける個々の音楽の分析に加え、アニメに付される音楽の種類と効果、映像に音を付することの困難と工夫などを主たる検討対象とする。

 

 

※ 4年前のvol.3.0に関する内容紹介は以下

nag-nay.hatenablog.com

 

nag-nay.hatenablog.com

 

 

以上

 

 

 

記事紹介+期間限定公開:アニクリvol.6.5(本号)改めアニクリvol.6s 特集〈アニメにおける線/湯浅政明監督総特集〉」 #bunfree

アニクリ6.5(本号)改め、アニクリ6s「アニメにおける線/湯浅政明総特集号」のご紹介+期間限定公開(各章冒頭記事である難波論考、tacker10論考、DIESKE論考)です。

f:id:Nag_N:20190503165434p:plain

発刊は2019.05.06 東京文学フリマエ-39〜40
152頁/A5版、お値段700円での頒布です。

 

さて、本誌は、本年初頭に公開した寄稿募集/企画趣旨文に応じて寄稿者計15名の協力を得て作成されました。
各論考は内容に応じて3章に配置され、各々
 1、理論編「アニメにおける線」
 2、応用編「動画における平面/光」
 3、各論編「湯浅政明森見登美彦アーカイブス2017」
に分類されています。
目次は以下のとおりです。

[目次]

0、発刊趣旨
 Nag. 総論
 「アニメを形作る線/アニメの中の線 etc.」
 http://nag-nay.hatenablog.com/entry/2019/02/24/145014

1、アニメにおける線
 1) 難波優輝 総論 [新世紀エヴァンゲリオン, かぐや様は告らせたい, ルクソーJr. 他]
 「アニメーションの美学 原形質性から多能性へ」
  commentator: tacker10, シノハラユウキ
 2) こもん 『夜明け告げるルーのうた』論
 「異形の異-形 『夜明け告げるルーのうた』における「形態」」
 3) 竹内未生 『魔法少女まどか☆マギカ』試論
 「線と表情の魔法」
  commentator: tacker10, すぱんくtheはにー
 4) すぱんくtheはにー 『ピンポンthe Animation』『 Devilman crybaby』『悪の華』論
 「悪魔の囁きに耳を貸せ 変身と叫べ、我が身体」
  commentator: 猫鍋奨励会
2、動画における平面/光
 1) tacker10 『Spider-Man: Into the Spider-Verse』論
 「平面の/複数の/混淆の可能性」
  commentator: すぱんくtheはにー
 2) unuboreda 『Spider-Man: Into the Spider-Verse』論
 「シュミラークルのアウラ
 3) 猫鍋奨励会 『夜明け告げるルーのうた』論
 「水面に揺蕩うものたちへ」
3、湯浅政明森見登美彦アーカイブス2017
  Column: 今村広樹 a.k.a. yono & Nag.
 1) フクロウ 『ペンギン・ハイウェイ』論
 「科学・フィクション・アニメーション ペンギン・ハイウェイ評註」
 2) DIESKE 『夜は短し歩けよ乙女』論
 「四畳半期の終わり 映画『夜は短し歩けよ乙女』の時間と社会性」
 3) ねりま 『夜は短し歩けよ乙女』『四畳半神話大系』論
 「乙女と妖怪」
 4) 小菊菜 『夜は短し歩けよ乙女』論
 「なぜパンツ総番長は学園事務局長に恋をしていたのか?」
 5) テリー・ライス 『夜は短し歩けよ乙女』論
 「演劇詭弁論 アニメ映画としての「夜は短し歩けよ乙女」」
4、後記/奥付

(※commentatorとあるのは、いつも通り、各論へのレビュー・コメント、それへの著者からの応答を合わせています。)

 

f:id:Nag_N:20190503165540p:plain

 

 


以下、各々の論考の紹介+期間限定公開です。

 

1、アニメにおける線

 

1) 難波優輝「アニメーションの美学 原形質性から多能性へ」  
  commentator: tacker10, シノハラユウキ

 対象作品:『人形のおどり』『惡の華』『リズと青い鳥』『この世界の片隅で』『新世紀エヴァンゲリオン』『かぐや様は告らせたい』の「チカダンス」、『ルクソーJr.』他

www.dropbox.com


(期間限定公開)

 

https://twitter.com/deinotaton/status/1123502705723371520

 


以上のツイートに見られるとおり、難波論考は、エイゼンシュテインの原形質性概念をひきつつ、素材/メディウム/内容の各レベルにおける「アニメーションの自由度」としての多能性概念を取り出しています。

特に3章のメディウム/内容における自由さについて、アニメーションが(種々の画像システム/映像システムなどなど)様々な記号システムを採用することができる(cf. Kulvicki/難波)点に着目することから、内容上の多能性(すなわち、内容p(pictorial)/内容m(moving- pictorial)が重なり合う内容a(animational))を抽出している箇所は、今後のアニメーション分析を行う諸議論に共通した起点を与えてくれるものと考えます。

アニメーションを作る/見るときに、どのレベルで表現が模索され、選択され、創造されているのかを把握する標準となる議論として、本誌では第1章冒頭に置かせていただきました。


さて編者が難波論考を初めて一読して思いだしたのが、「マンガのおばけ」に関する伊藤剛氏/シノハラユウキ氏の議論でした。手塚治虫の『地底人の怪人』には「耳男」というウサギのキャラクターが出てくるのですが、そのウサギは普段は(自らの長い耳を隠すため)帽子をかぶって人間の変装をしています。現実には、単に耳を隠すだけならば(単なる帽子をかぶったウサギに過ぎないので)およそ変装にはなりえません。しかし、漫画においては体毛などは省略される(そういうお約束である)ので、耳を隠してしまえば(描写された対象と内容とが別々でありながら重なり合うことができる)「そういうもの」として耳男が描かれるというわけです。これは描写の哲学の問題でもありますし、「隠喩」のコノテーションに関わるところでもあります。

以上に基づき、シノハラユウキ氏及びtacker10氏に掲載用コメントを依頼し、コメントをいただくことができました。難波氏からリプライも合わせてお読みください。

 

(なお、(難波論考とは全く出発点は違うのですが)後述する「キャラクターを描くときにはキャラクターではないものを描いている」というすぱんくtheはにーさんの論考との重なりも見せるところで、興味深いシンクロだと思っているところです。)

 


2) こもん 「異形の異-形 『夜明け告げるルーのうた』における「形態」」

 対象作品:『夜明け告げるルーのうた

 

こもん論考もまた、アニメーションにおける図像の変形、とりわけ「形態」の異化効果に着目しています。そして湯浅政明監督の『ルー』が、この異化効果を体現するアレゴリカルな特徴を持っている、という仮説とともに、アニメーションにおける「形態」についての複数の見立て(マティスシーニュマラブー的可塑性/リオタール的フィギュール)を提示し、作品の分析につなげています。
湯浅政明作品の特徴としてしばしば指摘される(本人もインタビューで語っている通り)キャラクターデザイン上の特徴と作業環境(フラッシュアニメーション)の選択は不即不離の関係にあり、それは同時に「形態」を保ったままの可塑的変形(運動イメージ/シュミレート/フリースケール性)を可能とする、という観点は、指摘されればなるほど湯浅政明監督作品の線を論じるにあたっては必然のように思えるところでした。
この点もまた、難波論考でいう画像システム-映像システムとの関連に加えて、記録=参照/産出するものとしての「アーカイブ」(Jacques Derrida)との関連においても興味深い論点を提示するように思います。


3) 竹内未生 「線と表情の魔法 『魔法少女まどか☆マギカ』試論」
  commentator: tacker10, すぱんくtheはにー

 対象作品『魔法少女まどか☆マギカ
 

 

https://twitter.com/carta_pergamena/status/1123523811993722880
 
 
竹内論考は、『魔法少女まどか☆マギカ』において特徴的な多重線(下図参照)を例に出しつつ、線と表情の相互関係/相互創出について具体的場面(計26シーン)に即して論じています。

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そこでは、図像的なレベルにおいて、場面によって顔の意味(表情)が構成されるとともに、顔の表情によって場面の意味が構成されるという二重性が定式化された上で、表情「顔」「手」「セリフ」「風景」といった様々な各描写が当の「場面」全体と相互に意味づけ関係にある、という方向へと議論が進められます。
もっとも興味深かったのは、最終話の(まどか概念化時の)眼の描き方についての言及です。

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そこでは、ループを繰り返した末に線が上書きされていったほむらとは対照的に、まどかの目は円環(ループ)をなすシンプルな線で構成されるようになります。この点を、物語のレベルと描写のレベルの相互陥入として理解することができるとする点は、作品論とアニメ分析の方法論が共同して進む様を示す恒例であると考えています。


4) すぱんくtheはにー 「悪魔の囁きに耳を貸せ 変身と叫べ、我が身体」
 commentator: 猫鍋奨励会

 対象作品:『ピンポンthe Animation』『 Devilman crybaby』『悪の華』論

すぱんくtheはにー論考は、湯浅政明作品から主には『ピンポンthe Animation』『 Devilman crybaby』を取り出し、それをロトスコープ作品『悪の華』と比較することで、自らを意味付ける線/抵抗の起点としての線という両義的な線の運動性を取り出しています。そこから進んで論考は、湯浅作品においては自らを意味付け直すというモチーフとの相同性を取り出すことで、湯浅作品に通底する倫理的テーマとの関連を指摘しています。
この点は、すぱんくさんによる竹内論考へのコメントに現れているアニメ『ULTRAMAN』(2019)論とも強く相関するところであり、、是非あわせて読んでいただきたいと思います。コメントでは、アニメにおいて「単線を描くこと/多重線を描くこと」という対立から「一つ以上の線を見いだす」要請を引き受けること(その倫理性)への移行が示されています。描写のレベルから運動のレベルへ、そして運動のレベルから作品-視聴者のレベルへと、すぱんく論考の運びは湯浅作品全体(ひいてはアニメ視聴態度)へのまなざしを変更させうる潜勢力を持った論考と言えるかもしれません。

 


2、動画における平面/光


1) tacker10 「平面の/複数の/混淆の可能性」
  commentator: すぱんくtheはにー

 対象作品:『Spider-Man: Into the Spider-Verse』論

www.dropbox.com


(期間限定公開)


tacker10論考は、『Spider-Man: Into the Spider-Verse』から「平面をわたる」というモチーフを取り出し、素材/画面/技術etc..の混濁と(一時的な)融和の連続に焦点を当てて、本作品-シリーズ(そしてアニメーション映画)の今後の展開への批判的-発展的視座を提示するものです。
tacker10論考が(パルクールやフリー・ランニングといったストリート文化を横目で確認しつつ)指摘する通り、本作がコミックという平面を画面へと置き換え、引いてはアニメーションという媒体の運動の中に取り込む時には、立体的なキャラクターを如何にして平面の上に位置付けるか、平面を獲得するか、という課題が見出せます。伊藤剛の「漫画の2つの顔」論考において提示されるように、一つのマンガの「スタイル」には二つ以上の「顔」の重ね合わせが読み取れるのであり、アニメーションにおける運動にもまた、線=輪郭のレベル/平面=ウェブのレベル/コマ=フレーム間のレベルの重ね合わせにおいて、こうした異種的なものの同居性が(その政治的危うさを含めて)読み取れるというのが、tacker10氏の本作への(文字通りに見たときの解釈)と言えるでしょう。つまりは、一つの歴史(と我々が語りにおいて示すもの)に一つの線(のみ)を見出してしまうことへの危惧感が、『Spider-Man: Into the Spider-Verse』の描写/運動と並走する形で論じられていると言えます。


さて、こうした素直な読解とともに、本論考へはすぱんく氏からのコメントとして「この論自体の出自/歴史性/欲望はなんぼのもんか?」という趣旨(多分...)のコメントが付されています。作品の(技術的)出自とともに歴史の混淆性を問う眼差しを持った論考自体への批判は(3.2節の節名の通り)tacker10論考でも自覚的ではあった論点ではありますが、この点をリプライにおいては丁寧に解いていただいています。この点も含め、(一つの)作品を(一つ以上に)論じることの倫理性という、先のすぱんく氏との並走が浮かび上がる、という点も含めて『Spider-Man: Into the Spider-Verse』的なコメントの応酬と言えるでしょう。是非ご笑覧ください。


2) unuboreda 「シュミラークルのアウラ
 対象作品:『Spider-Man: Into the Spider-Verse』『LEGO(R) ムービー』
 
前稿tacker10論考に続き、unuboreda論考が追うのは『スパイダーバース』を成り立たせる技術と物語との(一糸乱れぬ)即応関係です。
最も顕著なものとして例示されるのがエンドロール、様々なスタイルのスパイダーマンが「ブロック」のように画面を埋め尽くす描写です。本作のキャラクターがCGで構成されていることから考えれば、本来的には本作のキャラクターは崩れることがありません。しかしながら、本作はあえてそこにコマの間の分裂を可視化し、表象することになります。
分裂した(せざるをえなかった)ものが、パーツを寄せ集める=縒りあわせることで固有の接触を見せる。それは、マイルスの父親と叔父の関係においてであれ、スパイダーマン同士の関係であれ、マイルスという一少年とヒーローとの関係であれ、幾度も反復を見せることになります。
unuboreda論考は、上述した反復を「グラフィティ」の物理的特性/記号的特性に照らして明らかにしています。とりわけ「からっぽの記号表現」(ボードリヤール)と「表面積の格闘」(戸田ツトム)を引用しつつ、絵画的なものとCG的なもの、文字を「打つ」ことと文字の力学的運動の差異(反復)をもとに『スパイダーバース』を読み解く仕方は、物語をその描写的・技術的・映像的特徴から訓み解くひとつの好例と言えるものと考えます。
以上はおいても、『LEGO(R)ムービー』や『バットマン』との比較において本作の位置付けを明確に与えようとする点のみにおいても、本論考の価値は高いものと考えます。是非ご一読願えれば幸いです。
 
 
3) 猫鍋奨励会 「水面に揺蕩うものたちへ」
 
 対象作品: 『夜明け告げるルーのうた』論
 
猫鍋奨励会論考が最初に着目するのは、こもん論考と同じく、『ルー』の線を形作ることになった技術(フラッシュアニメーション/ベクター)の特性です。ただし重要なのは、フラッシュがもたらす独特の違和感(それは監督も自覚している。)にも関わらず、湯浅監督があえてフラッシュアニメーションを自作の表現として取り入れたことの動機と効果にこそあるでしょう。
例えばその「効果」として本論考があげるのが、「リアリティ」を写し取る(作り出す)ための歪んだ線です。本論考の例とは異なりますが、現実の我々には輪郭線はない、という端的な事実を考えてみても良いかもしれません。我々の身体は線で区切られているわけではないし、線によって構成されるべき部分を持っているわけでもありません。しかしながら、我々が自分の姿を観念するときには、こうした線を象徴的に想定してしまいます。本論考が『ルー』の歪んだ線に見ているのは、この「リアリティ」の根底にある未加工のブレであり、線を呼び出す「(ex.遠近)法」の彼方を「描写の範疇に迎え入れようとする」試みです。
猫鍋奨励会論考は、この理路を提示すべく、東=村上的な「スーパーフラット」概念や、ラカンの「資本主義のディスクール」、メタファーとしての「セイレーン」(アポローニオス)、「人魚」(『諸国里人談』)を並置させ、最終的には、線を逸脱する「光」というモチーフを取り出すに至ります。それらはいずれも、「法が失効した世界」におけるリアリティの所在を運動の中で追い求めるふるまいに重ねられるはずです。とりわけ、奇しくも『ルー』末尾において、長らく光を妨げていたお陰岩が崩れるとともに、人工物たる半透過性の傘によって(フィクションの)人魚たちの実存が保持されたことに思いを馳せるならば、技術(人工物)=フラッシュから光=フラッシュに戻る論考の構成は、本論考自体が『ルー』で表現されたことを今一度文字によって再現し直したものとも思えます。
蛇足ですが、末尾の『四畳半神話体系』樋口師匠へのさりげない言及もまた、湯浅監督による森見作品解釈とオリジナル作品とに等しく光を投げかけるものとして、注目に値する点であると言えるでしょう。

 
 
3、湯浅政明森見登美彦アーカイブス2017

  Column: 今村広樹 a.k.a. yono & Nag.
  
  
1) フクロウ 「科学・フィクション・アニメーション ペンギン・ハイウェイ評註」

 対象作品:『ペンギン・ハイウェイ』論
 
 (underconstrution)
 

2) DIESKE 『夜は短し歩けよ乙女』論

 対象作品:『夜は短し歩けよ乙女』『おとぎ話』
 

www.dropbox.com

(期間限定公開)

  (underconstrution)

 

3) ねりま 「乙女と妖怪」

 対象作品:『夜は短し歩けよ乙女』『四畳半神話大系』論

  (underconstrution)
 

4) 小菊菜 「なぜパンツ総番長は学園事務局長に恋をしていたのか?」

 対象作品:『夜は短し歩けよ乙女』論

  (underconstrution)
 

5) テリー・ライス 「演劇詭弁論 アニメ映画としての「夜は短し歩けよ乙女」」

 対象作品:『夜は短し歩けよ乙女』論

  (underconstrution)


以上 

 

※ 2018.12発刊の前号アニクリvol.6.5_β「文字と映像」と、小冊子(コピ本)アニクリvol.6.1「四畳半神話体系×夜は短し歩けよ乙女」(2017.05発刊)の続刊であり、一部再販合本(32/152頁分)となります。

寄稿募集:東京文フリ新刊「アニクリvol.6.5(本号) 特集〈アニメにおける線/湯浅政明+森見登美彦〉」 #bunfree

 

 

  • 彼ら[ドゥルーズ=ガダリ]が言う区分された空間とは、均質で、容積の計測することができる空間である。そこでは多様な事物がそれぞれ割り当てられた場所に配列されている。反対に、滑らかな空間は配置されていない。むしろ、それは連続変化のパッチワークであり、あらゆる方向に限りなく広がる。滑らかな空間において、眼は諸事物むかうのではなく、それらのあいだを漂う。つまり、固定された標的を狙うのではなく、通り道を探すのである。換言すれば、それは環境への視覚的ではなく触覚的な知覚をもたらすのだ。ティム・インゴルド(筧・島村・宇佐美 訳)『ライフ・オブ・ラインズ』160頁)

 

  

1、特集〈アニメにおける線/湯浅政明+森見登美彦発刊趣旨のさわり/かわり


この2019年2月初旬に話題になった小話を二つだけ。
一つは、①ビリビリ動画の新たなコメント表示機能(2019/02/01)、もう一つは、②AIによるアニメ生成・中割(2019/02/06)である。

前者①については、コメントの「弾幕」を避けてキャラクターを表示する機能として、『かぐや様は告らせたい』第3話ED「チカっとチカ千花っ♡」(2019/01/19放送)を用いて、1/29にビリビリ動画公開、2/1に技術的説明を含む公式記事で紹介された。

www.youtube.com

 

このコメントの(半)表示機能は、すでに現実の歌手のライブシーンなどでは用いられていた技術であるが、これまでのところはアニメーションコンテンツには応用されてこなかった。
ビリビリ動画(公式)によれば、この理由は、(1)アニメキャラクター画の多様性、現実の人物との違い、(2)アニメにおけるシーン・背景の複雑性、フレーム間の不連続性の2点にあり、これを克服するための技術的課題としてデータセットの作成と輪郭抽出・マスク作成(その滑らかさ)の困難があげられている。
この点につき、アニメOP/EDの定石ともなったダンスシーンで、この技術が応用されたのは自然な成り行きかもしれない。『かぐや様は告らせたい』第3話EDアニメ「チカっとチカ千花っ♡」では登場キャラクターが一人、カメラワーク/背景が単純であり、さらにEDダンスシーンゆえに、背景との関連性が小さく、かつ、ほぼワンカットで描かれインパクトが大きかった。これらのことから、2019年1月時点、本技術の紹介に最も適した素材として利用されたのだろう。

※ もちろん単純に、ロトスコープを元にスカートの翻りから皺の襞の動きまで緻密にトレースさえ、描き込まれた書記・藤原千花がとりあえず可愛いというのが初発であることは間違いないだろう。ただし、後述するように、ロトスコープは元々ディズニーの『白雪姫』で初めて用いられた際に、リアルでありながらどこかふわふわした運動性とともに、不気味で、グロテスクな印象を与えてしまう点が既に指摘されていた。この「リアルな印象」と「リアル」の差異についても検討の余地があるだろう。例えば下記記事を参照。

boid-mag.publishers.fm



※なお、完全に偶然だがビリビリ公式から説明記事がでた2019/02/01の同日、『かぐや様は告らせたい』公式から、期間限定で制作過程(原画845枚(中割参考含む))が公開されていたので、こちらを見ていた人も多いだろう。貼りはしないけれどもビリビリ動画ではまだ見ることができたり...

youtu.be

 

さて、話はここから。

【提題】

そもそもコメントをキャラクターの前に表示させるか、後ろに(半)表示させるか、そもそも表示させないか、つまり「この機能を使うかどうか」はユーザー側に委ねられている。ユーザーは、コメントによってキャラクターと背景が分割されることを強制されるわけではないし、コメント職人も「職」を奪われることはない。そうである以上、個人としては選択肢は増えこそすれ、奪われているものなど何もないかに思える。
しかし、今回の機能については、ニコニコ動画的「弾幕」や「職人」文化、あるいはMAD文化やコメント文化などに慣れ親しんできたと思しきアニメファンからの違和感が、少なからず観察された。これはなぜだろうか? 与えられた一つの画面への介入という点では既存のコメントの延長線上にあるにもかかわらず、このビリビリ動画における新たな介入手法は何が異なる(と感じられた)のか?

 

【仮説】

・一つには「制作者でも視聴者でもないプラットフォーマーが、画面への介入の仕方を規定した」と思われた点にあるのかもしれない。(しかしそれを言えば、なぜ制作者たちならば、あるいは視聴者たちならば画面への介入が許されてきたのかを省みれば、現在のアニメ制作/視聴環境に親しんだものたちの習慣でしかないようにも思われる。)


・あるいは、例えば絵画においてそうであるように「背景とキャラクターという分離すべきでないものを分離した」と思われた点にあるのかもしれない。あたかもキャラクターを物語世界から引き剥がし、コメントという舞台に載せたように感じられたように見えたのかもしれない。(しかし、キャラクターが作品間・メディア間で引き抜かれつつも同一性を保つ事態は、古くは二次創作の勃興以来、現在でもソシャゲ周りのコラボなどで広範に観察されるところであるし、そもそもあえて意識せずとも、キャラクターを突出したものとして認識する段階で一定の分離はなされているかもしれない。)


・いやそうではなく、「分割の仕方が単純すぎた」あるいは「もっとうまい分割の仕方があるはずなのに...」と思われた点にあるのかもしれない。(どうせ分割するなら背景とキャラクターだけではなく、各レイヤー間を自在にコメントが行き来できたら、Live2DやSpineのような2D立体化ソフト、カメラマップ/Light Fields技術のように介入の新たな展開として歓迎されたのかもしれない。)

youtu.be

 

※ もちろんアニメでこれと類比的なことを実現するためには、データセットが迅速に共有されることが必要であることから、(後述する『ずんだホライずん』のようにクラウドファンディングのリターンでデータセットを提供するような動きが広まる場合や、教育目的利用での提供の場合を除いては)実現可能性は権利上の課題から一般的には著しく低いだろう。しかし、プラットフォーマー側・視聴者側でレイヤーを操作可能にするアニメ作品が提供されたならば、その時のプラットフォーマー側/視聴者側による文化醸成がどのようなものになるのかは、興味深いところである。
※ なお、この点は、伊藤剛パタリロの住まう「場所」」(ユリイカ2019年3月臨時増刊号)における「コマ枠とキャラ図像の「あいだ」において、コマ内にサブフレームを構築するもの」としての(読者を宙吊りにする)マンガ表現と類比的かもしれない。

 

【解決の指針】

まとめよう。コメントを非表示にすれば制作者が期待した映像が、コメントを表示すれば視聴者側が作り上げた「ぼくらの(擬似同期の)映像」がある、と考えているのであれば、話をやや単純化しすぎているように思われる。実際には、映像配信もコメントもプラットフォーマーを媒介としており、視聴者側による介入可能性は、運営するプラットフォーマー自体の安定性に頼っている。動画プラットフォーマーの一翼を担ってきたニコニコ動画さえも、不振によりカドカワ社長が引責辞任する事態となり(2019/02/13)、先にあげたビリビリ動画でもまた、昨年来、アニメの大量削除、リアルタイムコメントの内容に基づく表示/非表示の事前規制(つまり厳密な意味ではないが「検閲」類似のもの)等、規制当局との「連携」の話題には事欠かない。GAFAをはじめとするデジタル・プラットフォーマー規制/デジタルレーニズムが同時並行する中で、アニメにおけるこうした「連携」への抵抗を、視聴者側における運営側への協働の中に探ることも、あながち牽強付会とも言えないのではないか。


2017年刊行の『アニクリvol.5.0 アニメにおける資本』では十分に展開できなかったこれら論点も、ここに再来しているように思われる。

nag-nay.hatenablog.com


...さて、あまりにも長くなりすぎたので、後者②については(名前どおりであることもあり)説明は省略する。下記の動画を参照してほしい。(2019/02/06)

www.youtube.com

 

 

※ こちらの実験は、「ずんだホライずんのデータをゲットできる特別コース:3万円」というクラウドファンディングのリターンとしてのデータを利用したとのことである。

 

アニメにおける作業効率の問題としてもしばしば取り上げられてきた中割り=動画は、3DCG側と2DCG側の研究が共に進んでいる分野でもある。これは単に原画の間を埋める作業が効率化しうる(可能性がある)点に加え、我々がアニメにおける複数の動き/リズムについての態度へと反省を迫る。
この点で、湯浅政明監督がFlashアニメでの制作に傾注していることは注目できるだろう。例えば、『夜明け告げるルーの歌』は全編をFlashアニメで制作しているが、日本での会話劇メインのFlash利用とは異なり、「異形」とされる何ものかや「異形」へと変身しつつある人間の姿、ある線と別の線との混交を軽やかに描き出す。

youtu.be

 

上記文献においてティエリ・グルンステンを引用しながら、伊藤剛は次のように述べていた。「「マンガは、想像上のデッサン」と、資料など「あらゆるところから切り取られた図像の再利用」からなると同時に、その混合の痕跡を見えなくするものだとしているが、「写真のトレース」とは、その再利用の痕跡を逆に痕跡としてみせることで利用するものと言えるだろう」、と。
アニメにおける中割りの自動化という問題は、ここでいう「写真のトレース」に相当する効果をもつものと考えることができる。「リアル」を写すものとも、「リアルな印象」を与えるものとも異なる、「リアルの特徴選択」の位置付けは検討の余地があるはずだ。

 

 

...ということで、次号『アニクリvol.6.5(本号)』は、〈アニメにおける線/湯浅政明+森見登美彦〉と題した特集としたい。
大仰に〈アニメにおける線〉と書くと、本邦のアニメは(通常)ほとんど「手書き」の「線」ではないか、とお叱りを受けるかもしれない(確かに典型的なセルアニメにおいては構造上、セルに引かれた線が重ね合わされることが同時に表面=画面の構成にもなる点が特徴である)。しかし、もちろん、これに例外が多数存在することは、コメントによる画面への介入や中割り自動化の例で、既に見てきたところである。加えて、前号、『アニクリvol.6.5_β』でも、アニメにおける文字利用の諸形態を概観することで、アニメを線に還元することの危険について検討してきた。

nag-nay.hatenablog.com


次号ではこの蓄積の上で、こうした線の連なりが作り出す運動の「リアル」についても、アニメにおける視線の問題(猫鍋奨励会さんの記事を起点に先日議論がおこった)作画崩壊と呼ばれる現象(dieske氏による記事を参照)モーションキャプチャの技術向上とVtuberの実存の問題(ナンバユウキさんが硝煙画報さんやユリイカにて分析している)なども合わせて検討していきたいと考えている。(おそらくはこの延長上に、(tacker10氏が年来着目されている)顔に刻まれる「皺」を線として表象することについても、検討の俎上に上る。)
とはいえもちろん、編者のこうした思いつきを超えた論点を抽出いただければ幸いである。

 

以上より、特集1では〈アニメにおける線〉に関わる作品を自由に選択し、寄稿していただきたいと考えている。この特集を顕著に示す例として、編者としては湯浅政明監督作品と森見登美彦の映像化を念頭に置いており、これらについても是非ご考察いただきたいと考える所存である。これが特集2を置いた理由である。

 

※ なお、本号と関連して、

付属冊子(コピー本) 特集〈バグ/サイバースペースの表象〉を、

2019/04/20 金沢文フリ...はさすがに無理がすぎたので、

『きみと、波に乗れたら』(2019/06公開)レビューと、本号(2019/05刊行)の振り返りを兼ねて、

2019/08/11夏コミに合わせて刊行したい。

(変更に伴い、付属冊子ではなく薄い本(A5/50頁程度を想定)にしたい。)

ご興味お有りの方は、4/18 23:59 7/10 23:59までに anime_critique@yahoo.co.jp まで何卒。

 

 


2、検討・寄稿募集作品例


湯浅政明監督作品
マインド・ゲーム(2004年)
ケモノヅメ(2006年)
カイバ(2008年)
四畳半神話大系(2010年)
ピンポン THE ANIMATION(2014年)
夜は短し歩けよ乙女(2017年)
夜明け告げるルーのうた(2017年)
デビルマン crybaby(2018年)
きみと、波にのれたら(2019年)※未公開

森見登美彦原作
四畳半神話大系(2010年)
有頂天家族(2013年)
夜は短し歩けよ乙女(2017年)
有頂天家族2(2017年)
ペンギン・ハイウェイ(2018年)

・アニメにおける線
(自由選択可)

 

3、寄稿募集要項


(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2019/05/05、東京文フリです。
 是非お気軽に参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 2000字程度から12000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:300字程度から1200字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り(第一弾)
 最終稿:2019/04/21(日)
 (※ 4月初旬にドラフト段階のものでもいただいてやりとりできましたら幸いです)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 

 

以上

冬コミ新刊寄稿募集:②「アニクリvol.6.5_β ペンギン・ハイウェイ/文字と映像(序)」 #C95

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画像サンプル

 

 


新刊は、①夏コミ リズ本の続き、vol.9.0山田尚子監督号、②vol.6.5 文字と映像 / 森見登美彦×湯浅政明+

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やや締め切りを変則化しますが募集要項詳細の告知は明日で何卒。 pic.twitter.com/NOSSi0wpJh

— Nag.@書 (@Nag_Nay) August 18, 2018

 

 

上記、Twitter上での告知以来、時間が空いてしまいまして申し訳ありません。

ようやく新刊告知です。(本誌としては)累計16冊目となる新刊を作成します。

 

弊誌では冬コミに向け、vol.6.5_β「ペンギン・ハイウェイ/文字と映像(序)」を発刊します。

vol.9.0「山田尚子総特集号」と同時発刊です。(既刊のアニクリvol.9.5「リズと青い鳥」特集号の続きです

※ なお、「β」がついていることからお分かりのとおり、続けて、2019年春文フリに向けてvol.6.5本号「湯浅政明×森見登美彦/文字と映像(本)」を発刊予定です。 

なぜ今『ペンギンハイウエイ』なのか、それは「文字と映像」という特集といかなる関係にあるのか、につきましては、下記3の企画趣旨の項にて簡単に記していますので、こちらも是非どうぞよろしくお願いします。

 

 

まずは皆さま、奮ってご参加の程、どうぞよろしくお願いいたします。

なお上記の通り、冬コミ同時発刊で、vol.9.0「山田尚子監督 総特集号」を発刊予定です。こちらも是非に。

 

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1、検討・寄稿募集作品例:

 

ペンギン・ハイウェイ

 

四畳半神話大系

夜は短し歩けよ乙女

有頂天家族

 

マインド・ゲーム

ケモノヅメ

カイバ

ピンポン THE ANIMATION

アドベンチャー・タイムSeason6 Episode 163「Food Chain」

Genius Party 〈ジーニアス・パーティ〉 「夢みるキカイ」

キックハート

夜明け告げるルーのうた

DEVIL MAN

 

 


2、寄稿募集要項


(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、第一弾は2018年12月の冬コミ(12月30日)です。
 是非お気軽に参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 2000字程度から12000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:300字程度から1200字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り(第一弾)
 第一稿:2018/11/4(日)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か内容に関するやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2018/12/2(日)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨

 

 

さて、映像、そして広く動画における文字の位置を考えてみると、製作された「一つ」の映像作品には複数の「文字」の層が積み重なっていることが見て取れます。

すぐに了解されるだろう例としては次のようなものが「文字」の例となるはずです。例えば、翻案さるべくものとしてある文字(原作と映像の関係)、文字を介した企画・調整過程(制作過程における「合意」の問題)、文字を現実に読む肉化(声優において現勢化するプロセス=プレスコ/アフレコの問題)、文字自体の映像化タイポグラフィの問題)、映像の中にまさに書き込まれた端正な文字(ペンギンハイウェイにおけるアオヤマ君の文字)などなど。「一つ」の映像の中に、複数の「文字」が伏在・介在していることは、この例になります。

(既刊で言えば、アニクリvol.6.0にて「キネティック・タイポグラフィ」を論じたDieske氏の論考は、まさにこの支えをなすでしょうし、 あるいは、「一つ」の映像作品が象られる前にある文字の輻輳、文字自体の自己増殖の過程(©️円城塔『文字渦』)は、この最たる例と言えるかもしれません。)

これらは、結果的に劇場で流されることになる「一つ」の(完結した)映像という「像」を当然ながらゆるがせにします。加えて、「一つ」の映像をなす複層的な文字の運動の更に手前にある「線 gramme」の問題一般に拡張するならば、この問題は作画(崩壊)の問題に直結することは明らかでしょう。そこでの線 gramme は文字どおり「一つ」の歴史を複線化するのですから。

 

本号では、上記のような問い一般を扱うものとして、主として『ペンギン・ハイウェイ』を題材に取り上げて欲しいと考えています。

ではなぜ『ペンギンハイウェイ』なのか。もっとも目立つのは変形するペンギンの線(©️久野遥子)でしょうが、それを措いても、そもそも我々が知るペンギンではありえないペンギン(©️森見登美彦や、(〈海〉からお姉さんの胸部に至るまでの)曲線に包まれたお椀=球の形をした心を揺さぶる物体の存在、その存在を探求するアオヤマ君の実験プロセス、その記録、記録の洗練、それら記録の「折りたたみ」。そこには線を、文字に発して、「街がぜんぶ世界の果てみたい」(お姉さんの発話)な地点に到達した後に、再度、文字に、線に折りたたまれたプロセスが反覆されているとも言えるはずです。事実、キャラクターの一人は、次のようにメタ言及をなしています。

 

「世界の果ては外側にばかりあるものではない」

「世界の果ては折りたたまれて、世界の内側に潜り込んでいる」

(アオヤマ君の父の発話)

 

そうして得られる記録の集積が一つの形を再度なすとき、重なり合った文字が「一つ」の映像をなす。「エウレカ」の瞬間において、世界の「破れ」(定義上なし得ないはずのもの)が可視化され、世界の再縫合が成し遂げられる。すなわち、『ペンギン・ハイウェイ』映像内部における「ノート」における諸線の再結合とその解かれが露出する。

そういう不可能なはずのものの現勢化を露出させる瞬間を、本作は描いたと言えるかもしれません。

 

ここで、かつて、とある哲学者に対して提示された次の問いを思い返しても良いかもしれません。

「結局のところ、あなたが記入行為(アンスクリプション)に対して魅惑されるのは、どうしてでしょうか」

ジャック・デリダ「肉声で」 『言葉にのって』p.28)

 

映像作品について、この問いに答えるには、どういう点に着目するならば可能となるでしょうか。

β版の本誌における問いかけは、以上の通りです。

 

 

冬コミ新刊寄稿募集:①「アニクリvol.9.0 監督 山田尚子総特集号」 #C95

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以上サンプル画像

 

 

連続上映最終の徳島での鑑賞以来、ほぼ1ヶ月ぶりに立川シネマシティにて極音「リズと青い鳥」を観てきました、アニメクリティーク誌編集のNagです。

 

 

 

上記、Twitter上での告知以来、時間が空いてしまいまして申し訳ありません。

ようやく新刊告知です。

 

さて、山田尚子監督作「リズと青い鳥」のブルーレイ発売(2018/12/5)まであとわずか

発売に合わせて、(本誌としては)累計15冊目となる新刊を作成します。

 

弊誌では、夏コミC94発刊アニクリvol.9.5「リズと青い鳥」特集号に続き、冬コミC95にて、アニクリvol.9.0山田尚子総特集号」を発刊いたします。

そこで、①この度、改めて新規原稿の募集をさせていただきますので、奮ってご参加の程、どうぞよろしくお願いいたします。

なお、②既にいただいている依頼論考の他、③「リズ」号の面々による振り返り座談会も企画しております。前号にいただいたご意見を踏まえて、新刊作成に勤しみたいと思います。前号読者のみなさまも、何卒ご意見くださいますよう、どうぞよろしくお願いいたします。

 

なお、冬コミ同時発刊で、vol.6.5_β「ペンギンハイウェイ/文字と映像(序)」を発刊予定です。こちらも是非に。

 

 

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1、検討・寄稿募集作品例:

 

山田尚子氏関連諸作品

 ex.

(監督作)

リズと青い鳥
映画 聲の形
たまこラブストーリー
・映画けいおん!

(コンテ、シリーズ演出ほか)

けいおん!

けいおん!!

AIR
フルメタル・パニック!The Second Raid
涼宮ハルヒの憂鬱
Kanon
らき☆すた
CLANNAD
・日常
氷菓
中二病でも恋がしたい!
Free!
境界の彼方
響け! ユーフォニアム
無彩限のファントム・ワールド
小林さんちのメイドラゴン
ヴァイオレット・エヴァーガーデン


2、寄稿募集要項


(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、第一弾は2018年12月の冬コミ(12月30日)です。
 是非お気軽に参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 2000字程度から12000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:300字程度から1200字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り(第一弾)
 第一稿:2018/11/4(日)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か内容に関するやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2018/12/2(日)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨

(underconstruction)

 

 

 

 

 -----以下は「リズ特集号」についての情報

 

 

 

(頁中部にDL用jpg素材あり)

 

 

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表紙

 

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目次

 

※ 両開きの構成となっておりますので、目次は右1-3と左1-3、二つあります。

(1)右綴じ目次(1-3ページ 注:Dropbox sample)

(2)左綴じ目次(258-260ページ 注:Dropbox sample)

  

1、世界/劇中劇 die Welt / die Schachtelgeschichte (注:Dropbox sample) pp.4-43


1−1 無題

    ヒサゴプラン review/comment: 杉小路武弘  
  
      掌編小説「無題」すぱんくtheはにー

 

1ー2 「セカイ」と「世界」を作曲する 『リズと青い鳥』論
    灰街令 review/comment: 北出栞・シノハラユウキ

1ー3 無意識をアニメートする 『リズと青い鳥』と微小なものの超越性(第二稿)
    てらまっと review/comment: tacker10・橡の花

1ー4 ハッピーアイスクリームとハッピーエンドのお話
    サカウヱ review/comment: wak

      掌編小説「サムデイ イン ザ スノウ」儚美behind.


2、演技/振動 die Technik / die Frequenz  pp.44-119


2−1 結んで、開いて 映画『リズと青い鳥』論

    tacker10 review/comment: 灰街令・みら・シノハラユウキ
 
     掌編小説「ある分身の余剰」tacker10
    
2−2 girls, dance, curtain call —切り離され、繋げられる観客について
    すぱんくtheはにー review/comment: みら・unuboreda
   
2ー3 重なる物語、重なる未来
    Ford review/comment: tacker10
   
2−4 『リズと青い鳥』の亡霊たち
    こもん review/comment: tacker10


3、笑い/自由 das Lachen / die Freiheit


3−1 少女の笑いと救い/傘木希美はなぜ笑ったのか?
    wak(かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン)
 
     掌編小説「summer, silence, staircase」ねりま

3ー2 貴女は私の全て 鎧塚みぞれと青い鳥の自由の在り処
    びおれん review/comment: 儚美behind. 

3−3 密会、吸血鬼、そして生の残像たち
    横山タスク
   
3−4 heterogenetic heterogeneity 異主観・コミュニケーション
    あんすこむたん(でりだん)

 

 

4、規律/歩き die Disziplinartechnik / das Gehen


4−4 山田尚子による/山田尚子作品における「卒業する」ということ
    yono

4−3 すべてはハッピーエンドのために 「歩く」という行為を手がかりに
    バーニング review/comment: ねりま
   
4−2 演奏の終わりに、残酷さを。 『リズと青い鳥』・『響けユーフォニアム』における「特別」
    儚美behind. review/comment: ねりま 
   
4−1 青い鳥の居場所、うつくしい希 誤配と偶然の空間について
    ねりま review/comment: 儚美behind.・バーニング
    

 

5、図式/転倒 das Schema / die Umdrehung


5−3 嫉妬心とずるさ 傘木希美と鎧塚みぞれ
    杉小路武弘 review/comment: ヒサゴプラン
   
5−2 視線と視覚、無意識と想像 『リズと青い鳥』論
    あんすこむたん(でりだん) review/comment: (岡村真之介)・ヒサゴプラン
   
5−1 私たちは溶け合っている 『リズと青い鳥』における交換可能性/交換不可能性について
    みら

    掌編小説「I feel fall in the air」みら

 

6、劇中劇/セカイ  die Schachtelgeschichte / das Ende der Welt


6−4 二人のペルソナ 建前系少女の行方
    岡村真之介 review/comment: DIESKE・菊池涼也
   
6−3 彼女たちの帰る道 構図から読み解く『リズと青い鳥
    菊池涼也 review/comment: 岡村真之介
   
6−2 二重原形質性 浸透する色彩と想像力
    小川和キ review/comment: 北出栞

6−1 セカヰの栞
    パーフェクト寄生髭 inscription: tacker10・すぱんく・橡の花

 

(掌編小説/聖地巡り写真ほか:随所に挿入) 

 

 

A5版260頁

頒布:C94 コミックマーケット

価格 :800円(予定)

 

 

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(jpg素材) 

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弊誌アニメクリティークでは、『vol.9.0 監督 山田尚子特集号』を作成します。

第一弾は「vol.9.5_β リズと青い鳥 特集」として8月夏コミにて、

第二弾は「vol.9.0 山田尚子 総特集号」として11月文フリ及び12月冬コミにて、

刊行を予定しています。

みなさま、何卒どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

1、検討・寄稿募集作品例:

 

山田尚子氏関連諸作品

 ex.

(監督作)

リズと青い鳥
映画 聲の形
たまこラブストーリー
・映画けいおん!

(コンテ、シリーズ演出ほか)

けいおん!

けいおん!!

AIR
フルメタル・パニック!The Second Raid
涼宮ハルヒの憂鬱
Kanon
らき☆すた
CLANNAD
・日常
氷菓
中二病でも恋がしたい!
Free!
境界の彼方
響け! ユーフォニアム
無彩限のファントム・ワールド
小林さんちのメイドラゴン
ヴァイオレット・エヴァーガーデン


2、寄稿募集要項


(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、第一弾は2018年8月の夏コミ(8月15日)、第二弾は11月の文フリ(11月)を想定しています。
 是非お気軽に参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 2000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:300字程度から1500字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り(第一弾)
 第一稿:2018/6/30(土)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2018/7/16(月)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨

(underconstruction)

 

 

寄稿募集「アニクリvol.8.0 終わりを「旅」する少女」号 #bunfree #C94

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Contents

 

1.批評

1_1 #宇宙よりも遠い場所 #yorimoi #よりもい
 ①すぱんくtheはにーさん『宇宙よりも遠い場所』論
 Title:たった一つの冴えた、あるいは『宇宙よりも遠い場所』でいっぱいの旅
 ②Fordさん『宇宙よりも遠い場所』論
 Title:彼女たちが踏み出す「最初の足跡」〜「宇宙よりも遠い場所」における「ふたつの成長」
 ③儚美behind.さん『宇宙よりも遠い場所』×『ゆるキャン△』論
 Title:イマココのソーシャルアウト〜コンサマトリー化する物語

1_2 #ゆるキャン #Yurucamp
 ③儚美behind.さん『宇宙よりも遠い場所』×『ゆるキャン△』論
 Title:イマココのソーシャルアウト〜コンサマトリー化する物語
 ④にしけんさん『ゆるキャン△』論
 Title:次の日常へ

1_3 #少女終末旅行 #girls_last_tour
 ⑤みらさん『少女終末旅行』論
 Title:崩壊する都市、懐かしい風景、終末を旅する少女
 ⑥あんすこむたん(でりだん)『少女終末旅行』論
 Title:生きる/動く/遺す

1_4 #ヴァイオレット・エヴァーガーデン #VioletEvergarden
 ⑦SdRkさん『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』論
 Title:火の捧げ物(La Part du Feu)ー「道具」から「自動手記人形」への旅
 
1_5 #キノの旅

1_6 #メイドインアビス #miabyss

1_7 #プリンセス・プリンシパル #pripri
 ⑧あんすこむたん(でりだん)『プリンセス・プリンシパル』論
 Title:声と嘘


2.紀行
2_1 #ヨコハマ買い出し紀行
 ⑩wakさん『ヨコハマ買い出し紀行』論
 Title:旅の目的地としてのカフェ・アルファー


3.対談
 3_1 #宝石の国 ほか、アニメーション、ゲームなど
 ⑪Dieskeさん × tacker10さん『宝石の国』ほかゲームからVtuberまで諸々詰め合わせ対談。
 Title:未定
 取り扱い作品・人物:『宝石の国』、久野遥子さん、オライリー、『ワンダと巨像』、渡邉大輔さん、TPS、『NieR:Automata』、『INSIDE』、『EVERYTHING』、『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと』、山下理紗、『螺旋のクオリア』、ハーツフェルト、『父を探して』、ノルシュテイン、『話の話』、『ゼルダの伝説』、『Moutain』、『人喰いの大鷲トリコ』、『FF15』、『スターオーシャン』、『ひぐらしのなく頃に』、『グランド・セフト・オート5』『Martin Cries(Martin Pleure)』、マノヴィッチ、押井守、リプセット、『ピノキオ』、『白雪姫』、猫宮ひなた、鳩羽つぐ、『ノーモア★ヒーローズ 英雄たちの楽園』、『リズと青い鳥』、月ノ美兎、キズナアイ、『エヴァ』、『きっと全て大丈夫』、フィルムロイ、『クリスティ』、『Moon』(以上、取り扱い作品・人物)
 概要:※多岐に渡るため主題と節名のみ列挙
  1、『宝石の国』のナラティヴと特異性
  2、アニメとゲームにおける相違:視点、空間、情報、ナラティヴ
  3、ゲームの現代性とリアリティ 「組み替え」、配置、動かされるこちら側
  4、インタラクションを超えたゲームと評価の基準 実況文化と「切り出し」
  5、現代アニメーションの二つの軸:自律的非人間とVtuberの肉体
  終わりに 事後的に見出されるもの、呼び込み可能性=誰でもなさ性(No Man's Land)、時代性
 (了)

 

 

 -------

 

表紙はいつもの @konkatuman 、挿絵もいつもの @yopinari + @konkatuman です。


以下(掲載順とは異なりますが)寄稿紹介していきます。

①すぱんくtheはにーさん『宇宙よりも遠い場所』論
Title:たった一つの冴えた、あるいは『宇宙よりも遠い場所』でいっぱいの旅
概要:リハビリ経験が著者自身に与えた「身体の再獲得」という視点が『宇宙よりも遠い場所』のキマリたち4人の旅路に重ね合わせつつ論じられる。そこから「幸福な離散」のための旅というモチーフが浮かび上がる。旅を経てかけがえのない関係を彼女たちは確かに築く。しかし、旅は彼女たちの足場をさらに組み替え、そこから離脱してもなお共に「ここから」(EDテーマ)バラバラの旅を続けるための、最初の足跡(挿入歌「ハルカトオク」)として描かれる。旅とはリハビリの語源通り「慣れ」「住まう」彼女たちの可塑的足場だ。彼女たちはバラバラになり、失敗して転ぶために旅に出る。なぜか?失敗だけが一つならずの紆余曲折と(この私は)選ばなかった無限の別の道程を、共に旅した仲間たちと決して同じではない形にせよ分有させてくれるからである(了)

付記:すぱんくさんの論考にはtacker10さんからのレビューと応答、橡の花さんからのレビューと応答が付記されています。アニクリ7号台の『宝石の国』『ガンダムサンダーボルト』などに絡めて『宇宙よりも遠い場所』の論点について深掘りしてありますので、是非応答を含めてご笑覧ください。

②Fordさん『宇宙よりも遠い場所』論
Title:彼女たちが踏み出す「最初の足跡」〜「宇宙よりも遠い場所」における「ふたつの成長」
概要:キマリたち四人が個々の悩みを乗り越え「一歩踏み出す」青春物語として、各人の歩の進め方を丁寧に追う。しかしその一歩は所謂「成長もの」ではない。その一歩は、いわゆる「大人」になることで自分自身にさえ見えなくしてしまう傷を乗り越えるための仲間の存在を強く映し出す。単なる「普通」の一歩では足りない。その「普通」の先へと背中を押す。「普通」の解決と成長とされるルートがもたらす抑圧をも彼女たちは踏みつけ、投げ飛ばし、笑い飛ばす。だから、本作には「普通」の成長譚は描かれない。共にあることで初めて自分に向き合い、世界との間に横たわる溝を超えていける仲間との、いつでも初めての「一歩」先へと、彼女たちは歩みを進める。共依存的なものとは関わりなく、別々ゆえに「切なく」も、共にある「爽やかな」旅路として。(了)

③儚美behind.さん『宇宙よりも遠い場所』×『ゆるキャン△』論
Title:イマココのソーシャルアウト〜コンサマトリー化する物語
概要:第一話そして第五話のモノローグに現れているように、日常とは「淀んだ水が溜まっている」ようなものだ。だからそこからの解放が描かれるが、しかし、その「淀の中で蓄えた力が爆発して全てが動きだす」時に、画面のこちら側の我々の姿はといえば、動かず停滞したものではないか?否、そうであってはならない。我々は「○○難民」に酔ったり、コンサマトリーなミニマリズムに満足しているところから踏み出さなければならない。社会に出よ、とは逆向きに社会からの離脱は、同調や引きこもりによってでなく、共に同じ思いの下、ただ「同じ」なだけでもない旅の仲間と連れ立つことで成り立つ。抑圧と暴力が犇めく社会の中でも、自分の正しさを見つけるための、決して一人ではないがどこまでも個人的な歩みと目標にこそ、キマリたちの旅の達成がある。(了)

付記:儚美さんの論にも、すぱんくさんからのレビューとふるとさんからのレビューが寄せられています。合わせてご笑覧ください。

④にしけんさん『ゆるキャン△』論
Title:次の日常へ
概要:日常系の先にある日常系とは何か?『ゆるキャン△』は、箱庭的なゆるい「みんな」の中に潜む不自由さ(「みんなのこの関係はずっと変わらないよ」のきつさ)の先にある、個的でありつつ繋がりつつある「ゆるいつながり」を描いている。それは、例えばLINE的な画面の構成や、そこに送付されてきた最新画像がチャットルームの背景となる機能(現実のLINEには実装されていない機能)によって、時と場を隔てつつも、いつでもここからまた繋がりうることを巧みに演出しており、彼女たちの関係の微温性を描き出している。さらに本作はキャンプという非日常を日常と繋げることで、他者の細かな非日常を迎え入れる日常と、こちら側の非日常を支えてくれる他者の日常とを共に描く。公か私かという形で窮屈さが前面化する現代、泥酔する教員と一緒に焚き火をするという小さな「法外」のゆるさの重要性を映してもいるのだ(了)

⑤みらさん『少女終末旅行』論
Title:崩壊する都市、懐かしい風景、終末を旅する少女
概要:全てが崩壊した場所からみれば、過去はいつも新しく、未来は常に懐かしい。筆者が回顧する寂れた商店街の風景は、「本当にこれは私の記憶だったのだろうか」という問いに晒される。記憶は常に、実際には体験していない記憶が呼び覚まされたものかもしれない。他の誰かの記憶かもしれない。しかし、そうであっても構わない。なぜなら、それはまさに他者の記憶を垣間見、自らの予兆を形作り、時に心躍らせるものだからだ。記憶を記録することとはこうして、他者の記憶を自らに浸透させる過程となる。水が歌い、光は踊り、ネジがジャンプし、鉄の塊はその身を震わせる。一粒の水滴が水たまりに弾けて音楽を奏でる。夕日の光線はラジオの音と同期して彼女たちのリズム(周波数)を震わせる。「この旅路が私たちの家ってことだね」の言の通り、一瞬は永遠となり、旅は終わるまでは終わらず続くのだ。

⑥あんすこむたん(でりだん)『少女終末旅行』論
Title:生きる/動く/遺す
概要:彼女たちは廃墟の街を、食料を求めて進む。しかしそれは悲劇に満ちた凄惨な旅ではない。カタストロフ自体は悲劇ではなく、道を失った時に絶望は訪れる。ならば「絶望と仲良くする」方法を学べば良いし、旅にはそれができるのではないか。記録メディアのみならず、廃墟だって、墓だって、人工機械だって、物言わぬ過去からの遺骸として、ここにある。「終わりがあること」を持って生命だとするとともに、「生きるとは螺旋のこと」と呼ぶチトとユーリは、「終わるまでは終わらないよ」と宣言して進むのだ。チトとユーリの軌跡には戦車の足跡が刻まれる。しかし、チトとユーリの中にも、死した全ての人たちの遺物や、旅先で出会った人の残した「歴史の末端」は刻まれる。彼女たちもまたその末端を更新する。いかに小さくても他の誰かに刻むのは、メディアを再生する視聴者たちもまた同じであるように。(了)

⑦SdRkさん『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』論
Title:火の捧げ物(La Part du Feu)ー「道具」から「自動手記人形」への旅
概要:手紙は一人では書けない。本作では手紙が三人で描かれることを強調する。送り手、受け手、そして代筆者である。不可視の、卓越した、つまりは「人離れした」人形でなければならない。しかし、それは人以上に人でなければならない。未来の可能性を奪った過去を忘れ、あるいはその過去に囚われ、自らを後悔と絶望に焦がすだけのものには、人から人へ、そして自分から誰かへの「愛」を届けることはできないままにとどまるだろう。本作は自らを焦がす火とともに他者を照らす火を描く。末尾のヴァイオレットの花に落ちる朝露と、その中に燃えるように輝く朝日は、決してなかったことにはできない過去をこの今において同じく身を焦がす他者と分かち合い、時差をもつデッド・レターを届ける「人形」の役割を魅力的に描いている。(了)

⑧あんすこむたん(でりだん)『プリンセス・プリンシパル』論
Title:声と嘘
概要:自分が追い求めている願いを長く保持しておくのは難しい。抜け落ちるだけではなく色褪せることもあるし、不可逆に変形してしまうかもしれない。特に嘘が混じれば尚のことだ。決して道徳的な意味ではなく「嘘」が混入せざるを得ないところから始まるスパイたちを描く本作では、旅が容易に逃避に落ち込む様を描く。プリンセスの願いを、プリンセスの真意とともに守るためには、アンジェは自らの思いを描くだけでは足りない。カサブランカは逃げ場所じゃない。花言葉にあるように「高貴」で「純粋」で「祝福」をこれからも届けたいならば、それは単に無垢なだけでは足りないのだ。守られるだけの偽りの王女の下には「祝福」は決して訪れない。白くて黒い「嘘」を交えた、壁を乗り越えるための「嘘」が求められる。「嘘」の先のアンジェとプリンセスの掛け合いには、もう少しの猶予が求められる。(了)

⑨コラムページで『キノの旅』『メイドインアビス』論。
現在、『てるみな』『ぱのらま』論も準備中。

⑩wakさん『ヨコハマ買い出し紀行』論
Title:旅の目的地としてのカフェ・アルファー
概要:日常の埋め合わせとしての行楽地への移動は旅ではないかもしれない。旅が日常と非日常の往還として現れるとするならば。旅する者が全て動く者だとは限らない。旅は動かない者においても訪れる。本作で描かれるのは、物理的には旅をしないカフェ・アルファーの店主アルファーさんである。しかし、アルファーさんは動かずして旅をする。彼女はロボットの体を持ち、旅をする人であり、時間とともに成長し、老いを迎える人々をただ見つめている。彼女は人々と「同じ時代」の船には乗れない。それでも彼女は、変わりゆく人々をこちら側から眺めることで動かずして旅をし、旅する者はいつでも時が止まった日常であるカフェを訪ねることで旅をする。旅の目的地であり続ける「同じ」場所として、そうでありながら「無常」の場所として。旅はこうして古きの中の新たなものであり続けるのだ。


⑪Dieskeさん × tacker10さん『宝石の国』ほかゲームからVtuberまで諸々詰め合わせ対談。
Title:未定
取り扱い作品・人物:『宝石の国』、久野遥子さん、オライリー、『ワンダと巨像』、渡邉大輔さん、TPS、『NieR:Automata』、『INSIDE』

『EVERYTHING』、『フィンチ家の奇妙な屋敷でおきたこと』、山下理紗、『螺旋のクオリア』、ハーツフェルト、『父を探して』、ノルシュテイン、『話の話』、『ゼルダの伝説』、『Moutain』、『人喰いの大鷲トリコ』、『FF15』、『スターオーシャン』、『ひぐらしのなく頃に

グランド・セフト・オート5』『Martin Cries(Martin Pleure)』、マノヴィッチ、押井守、リプセット、『ピノキオ』、『白雪姫』、猫宮ひなた、鳩羽つぐ、『ノーモア★ヒーローズ 英雄たちの楽園』、『リズと青い鳥』、月ノ美兎、キズナアイ、『エヴァ

『きっと全て大丈夫』、フィルムロイ、『クリスティ』、『Moon』(以上、取り扱い作品・人物)

概要:※多岐に渡るため主題と節名のみ列挙
1、『宝石の国』のナラティヴと特異性
2、アニメとゲームにおける相違:視点、空間、情報、ナラティヴ

3、ゲームの現代性とリアリティ 「組み替え」、配置、動かされるこちら側
4、インタラクションを超えたゲームと評価の基準 実況文化と「切り出し」
5、現代アニメーションの二つの軸:自律的非人間とVtuberの肉体


終わりに 事後的に見出されるもの、呼び込み可能性=誰でもなさ性(No Man's Land)、時代性

(了)

 

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画像サンプル

 

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さて、弊誌アニメクリティークでは、上記vol. 7.0の続刊となる、『vol.8.0 終わり(margin / no man's land)を旅する少女」号』を作成します。

前号vol.7.0号とvol.7.5_β号と関連した続刊として編んでいきますので、何卒どうぞよろしくお願いいたします。

 

nag-nay.hatenablog.com

nag-nay.hatenablog.com

 

 

1、検討・寄稿募集作品例:

 

Cosy Catastrophe」を中心に、広義の「旅」概念に関連した諸作品。

 

 ex. 「心地よい破滅」「ポストアポカリプス」アニメ

少女終末旅行

宝石の国

BLAME!

メイドインアビス

終末のイゼッタ

終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?

けものフレンズ

planetarian

シドニアの騎士

人類は衰退しました

がっこうぐらし!

新世界より

ソラノヲト

灰羽連盟

ヨコハマ買い出し紀行

TEXHNOLYZE

 

 ex. 2017-2018 「旅」アニメ

少女終末旅行

宝石の国

ゆるキャン△

宇宙よりも遠い場所

メイドインアビス

ヴァイオレット・エヴァーガーデン

ハクメイとミコチ

ポプテピピック

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夜は短し歩けよ乙女

夜明け告げるルーのうた

 

 

etc etc.. 

 


2、寄稿募集要項


(1)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2018年5月の文フリ(5月7日)を想定しています。
 是非お気軽に参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 2000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:300字程度から1500字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:2018/4/8(日)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2018/4/25(水)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨

 

 

企画趣旨に先立ち、とりあえず、以下、TVtrope "Cosy Catastrophe"記事(※ Creative Commonsライセンス)全訳。

 

"It's the end of the world as we know it, and I feel fine."
R.E.M., "It's The End Of The World As We Know It (And I Feel Fine)"

 

 「心地よい破滅」とは Brian Aldiss による造語である。「心地よい破滅」の筋書きにおいて、(読者には慣れっこの)いわゆる「世界の終焉」が到来したそのとき、物語の主人公たちはこの破滅した世界を心地よく受け入れる。
 もちろん、感染爆発や地球外生命体のほか核戦争のせいで一掃されてしまった有象無象の犠牲者たちには、誠にお生憎さまなことである。しかし、安全に済んだ、そしてごく普通の(通常)疚しさとは無縁の主人公たちにとって、「心地よい破滅」はまさしくチャンスなのだ。何しろそこでは仕事をしなくてよい。罪悪感を感じることなく高価な車を盗んでもよい。5つ星ホテルに忍び込んで寝たっていい。自分の周りで世界が崩壊していく様を横目に、束の間の寛ぎを得られる。そんな又とないチャンスなのだ。
 おそらくのところ往年と比較すれば、物事は大してよくはないだろう。とはいえ全体としては、主人公たちの人生は十分に楽しく過ごせるものであるろう。とりわけ、あなたが犬を連れていた場合には。

 

 もしかすると、主人公たちは道中よりあつまり、一緒に組んで、慎ましやかだけれどもそこそこ暮らしていける(継ぎ接ぎの)前-技術社会を作り直すかもしれない。
 もしかすると、主人公たちのジェンダーが複数で構成されている場合、種を再生する義務を感じたりなどするかもしれない(にっこり)。
 反対に、もしかすると、主人公たちは早晩、静かに、尊厳をたずさえ、人類の絶滅を受け入れることを学ぶかもしれない。
 しかしいずれにしても、この世界の終焉は、いわゆる(絶望に彩られた)「世界の終わり」ではないのだ。

 

 「心地よい破滅」ということで、穏やかな理想郷 Arcadia を期待してもらっても構わない。「心地よい破滅」には等しく、既存の何かを汚すこともなければ、新たに何かを作り出すこともないのだから。

 

 なお、いわゆる「ゾンビもの」がメディアでこんなに人気なのは、おそらくこの「心地よい破滅」の比喩に起因しているのではないか?と記す人も数多い。「ゾンビもの」の筋書きにおいては、あなたは肉に飢えたグールの餌食として事切れる可能性が圧倒的に高いわけだが、(「心地よい破滅」と同様に)少なくとも現代社会の生活が押し付けてくる圧力と責任に直面する必要は一掃されるのだから。

 

 「心地よい破滅」は、人生で抱え込むすべての圧力を落とすことまでは望んではいないが、望むことをやりたいとは思うような「現実逃避癖 Escapism」の高次の形態かもしれない。
 あるいは、「心地よい破滅」を、終末もの After the End やスカベンジャー(ゴミあさり)ワールド Scavenger World と比較してもらいたい。一般的に「心地よい破滅」は、終末後の物資確保 Apocalyptic Logistics と連動している。その他、破滅後の民主主義 Disaster Democracy や失うものがない不安 Angst? What Angst? もあわせて参照せよ。

 

©️ tvtropes "Cosy Catastorophe"

http://tvtropes.org/pmwiki/pmwiki.php/Main/CosyCatastrophe

 

(underconstruction)

 

(全文公開2)『アニクリ vol.7.5_β 宝石の国+ 号』DIESKE「マンガとアニメ、二つの『宝石の国』読解」 #COMITIA123 #COMITIA

下記の通り、来たる 2/11(日)COMITIA123 にて、『アニクリvol.7.5_β 宝石の国+ 』号を刊行する。

 

nag-nay.hatenablog.com

 

 

刊行に際して、いくつか内容紹介として、いくつかの本文全文と本文解題を掲載していく。

 

 

 

 まずは本文として、下記のDIESKE(著)「マンガとアニメ、二つの『宝石の国』読解  マンガ/アニメーションの視覚表現を中心に」である。多くの人の目に触れるべく、レビュー/リプライを含め、全文を掲載することとした。各位、DLされたい。

 

www.dropbox.com

 

以上

(全文公開)『アニクリ vol.7.5_β 宝石の国+ 号』すぱんくtheはにー「切り分ける肉/編集される生/磨かれる宝石」&編者解題 #COMITIA123 #COMITIA

下記の通り、来たる 2/11(日)COMITIA123 にて、『アニクリvol.7.5_β 宝石の国+ 』号を刊行する。

 

nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

 刊行に際して、いくつか内容紹介として、いくつかの本文全文と本文解題を掲載していく。

 

 

 

 まずは本文として、下記のすぱんくtheはにー(著)「切り分ける肉/編集される生/磨かれる宝石」である。多くの人の目に触れるべく、レビュー/リプライを含め、全文を掲載することとした。各位、DLされたい。

www.dropbox.com

 

 さて、以下は、編者(@nag_nay)によるすぱんく論の解題である。章題は、基本的には同論考で提示される概念によっているが、一部は同氏の別所でのものも含んでいる。
 以下では、(1)複数の「終わり」(2)合金=血管=流体的「個体」(3)断面性 phásis という3点から、同論考のガイドの役を果たしたい。

 願わくは、すぱんく氏の意思に沿ったものであることを。

 

 

すぱんく論 解題


(1)複数の「終わり」:分岐する「終わり」を抱えた者

 一般に、「終わり」に対する態度には複数のパターンがありうる。片や「終わり」を求めるものがあり、迫る「終わり」に焦っては希望に縋るものがあり、それとは関係なしに「終わり」を忘却したように生き続けてしまうものもある。
 いうまでもなく『宝石の国』の背景に照らせば、これは月人とアドミラビリス族と宝石たちのことである。『宝石の国』の宝石たちは、勿論、この「終わり」を忘却したように、生きつづけてしまうものたちである。
 下線部には二つの含みがある。
 まず一つは、①「忘却したように」という言葉が示すように、物理的に人にとっては悠久の時とも思える時間を生きることができる、という含みだ。もう一つは、②「生き続けてしまう」という言葉に込められているように、「終わり」を回避するために変わらない現在を繰り返し続けねばならないということだ。この帰結として、宝石たちは生き続け得るが故に何事も諦められないし、自らが置かれている現在に疑いを向けることが終ぞ出来ないでいるのである。

 

 すでにこの点に明瞭に表れているように、すぱんく論考は『宝石の国』を通して、虚構のキャラクターが「現実」をどのように捉えることができるのかという点に向けられている。無論、この問いは反転され、反対に、現実の我々がどのように「虚構的」に現実(※複数形)を構成しうるのかという課題にも接続される。このように捉えれば、同論考は『アニクリ』既刊だけで見ても、同vol.2.0来の「虚構と現実」「虚構的身体性」に関する7つの論考の理路の行き着く尖端であり、とりわけ同vol.7.0の『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』論を批判的に乗り越えるものでもあるということが見て取れる。
 とはいえ、本論考はもちろん独立した論として読むことができる。よって、以下では、専ら内在的に読んだ場合におけるすぱんく論考のポイントをパラフレーズする。

     *

 さて、冒頭でまず強調されるのは、既存の諸論考に見られるように、フィクションのキャラクターにおける身体的特徴の描写である。すなわち『宝石の国』においては、宝石たちの傷口=切断面である。つまり、宝石もまた「傷つきうる」身体は持っている。だから、上記の「何事も諦められないし、自らが置かれている現在に疑いを向けることができない」という理は、宝石がそれ自体として永遠であるということを意味しない。宝石もまた傷つく。敵の矢が身体を射抜き、傷口が断面として現れることも勿論ある。
 しかしそれでも、砕かれてもなお美しいその切断面に見られるように、身体の切断(=欠損)は宝石たちにとって死ではない。すなわち、歴史の終わりではない。すぱんく論考の言葉を借りれば、切断面は「無時間的な歴史の切断面」として現れる。人体における血液や”かさぶた”が、交換不可能な痛みを象り、不可逆な不在を否応なく示すのとは異なり、切断面は「取り返し」が効く、たまたまの不在(=留守)を示すにすぎない。
 理念的に「記憶(歴史)の完全性は失われない」というこうした安心が、彼らの(表面上の)グロテスクな欠損と無邪気な楽観を両立させ、共に支えていることは事実である。そして同時にその安心こそが、(欠損を経ても維持しえてしまう)現在への批判を無力化してしまうものでもある。例えば、何かしら如何わしい過去が「先生」に隠されているとしても、それを掘ることは(永劫に続いている現在を否定するものとして)許されないことである、との了解に現れているように。
 かくして、宝石に課されたこの業は、失われるものがないという意味で祝福であるとともに、失われるものがないはずだという信念を保持してしまう意味で呪いとしても機能することになる。

     *

 『宝石の国』においては、「終わり」を求める魂(月人)、迫る「終わり」に焦る肉(アドミラビリス族)、「終わり」を忘却したように生きつづけてしまう骨(宝石)。造形されたこれら3類型は、原始の「にんげん」が分岐した人類の未来(成れ果て)である。
 このことからすれば、「終わり」への3つの態度というのは、もちろん、人間の「終わり」に対する引き裂かれた態度を示すだろう。つまり、我々もまた、日々の些事に「終わり」を見出すことで焦りを覚えるとともに、「終わり」を忘却したように日常を過ごし、その一方で、人生に目標=落ちとしての「終わり」も求めるという、不整合でかつ引き裂かれた存在としてあるはずである、と。よって、『宝石の国』は、人間の原型を分解することにより、「終わり」への態度を析出する。

 

 すぱんく論考が追うのはまさにこの人間の引き裂かれ具合であり、造形上も微小な無数の「裂け目」を内包したフォスフォフィライトである。同論考によれば、フォスの皮膚のすぐ下にある無数の「裂け目」は、祝福と呪いを生み出す一つの「終わり」という不条理な現実を一つならず抱え込んだ存在の向かう先を、虚構を介して指し示すものとして現れる。すなわち、「終わりの無いもの、終わってしまうもの、終わりを求めるものを同時に駆動させている」というのが、すぱんく論考によるフォス像の要約である。

 そうだとすれば、問題はフォスの特殊性にある。以下、章を改め、この点を明示化していこう。


(2)合金=血管:流体を含んだ「個体」

 作中、フォスは両脚、両腕、髪、頭と、身体の総量の大部分を徐々に失っていく、それに伴い、例えば、シンシャの名と約束を忘れてしまうことに表れているように、プライベートな記憶もまた失っていく。その意味でフォスは、外見のみならず、元あるフォスとは身体的な構成要素からしても、心理的連結性からしても別物としてある。アイデンティティが失われていないという臆見は見かけ上のことであり、周囲の宝石たちが同一性に対する信頼を過剰に持っているからにすぎない。事実、現在のフォスに残っているのは、依り代としての身体の一部と、その起源の同一性くらいのものである。
 それだけではない。フォスは、腕の代わりに挿げ替えられた金属の重さを支えるために、流体化させた合金を血管のように全身に張り巡らせることとなった。生物の血管にも似たその「血脈」は、フォスの身体を少しずつ削り落とすとともに、時には自ら制御しきれず、宝石の身体を内側から砕き割る。こうしてフォスは、身体の統一性・制御可能性という内なる根拠さえも失っているのである。
 こうして、フォスは、宝石の身体に貝殻(アゲート)と金属を継ぎ合せるのみならず、その内に、辛うじて自らの外見=見た目を維持するために、流体の合金に自らの身体を侵食させるに任せる。固体である宝石の内部に張り巡らされた異物たる流体の合金は、人間の傷にできる”かさぶた”のように、傷を癒すとともに傷を別のもので置き換える。”かさぶた”が、傷のあった皮膚の同一性を奪うことで傷を癒すように。フォスは合金で出来た血管に身体を蝕ませるに任せるとともに、(関係的な意味での「距離」の大小を測ることのできない)宝石の中にあってただ一人、失われた者との距離を想って合金の涙を流すに至るのだ。

     *

 ここにおいて注目すべき点が露わになる。
 すぱんく論考によれば、外見においても、記憶においても、身体においてもフォスの同一性が失われていくことは、逆説的に、フォスを人間めいたものにしていくことになる。つまり、両脚、両腕、髪、頭、記憶、そして身体の統一性といった「人間らしく見える」要素が欠如していくことで、見た目とは反対に、フォスは確実にその本性を人間じみたものへと変えていく。この理由は、こうした無数の「裂け目」が人間の本性にこそ根を張っているためだ。
 すぱんく論考の言葉を借りれば、フォスは、その時間的長さが一瞬であるにせよ永遠であるにせよ、いずれも「一つ」しかないが故に「生」を(それゆえにその逆である「終わり」を)理想化せざるをえないものたちから離れ、複数の「生」を渡り歩き、流浪の生という選択の只中に生きる。例えば、月人にせよ、アドミラビリス族にせよ、宝石たちにせよ現実は一つで十分であり、その現実が本当は嘘に固められたものであっても構わなかったこととは対照的に。例えば、宝石たちが先生との現在の関係を固持するため、先生への疑いを意識的にせよ避けることとは対照的に。
 さらに同論考から言葉を借りれば、流体によって辛くも繋ぎとめられた現在のフォスは、そうした犇めき合う複数の現実の間で押しつぶされた「埋もれた可能性」を、「見つけ出し、虚構として甦らせ」る個体として、そこにある。
 身を挺してフォスを守ったアンタークチサイトの幻影をまなざすものとして、アドミラビリスの言語を理解するものとして、また月人の未知の言語を探すものとして、フォスが「宝石の国の現実」ならざる別の現実へと足を踏み入れ、その身体に異世界の物を容れるのはそのためである。月の食物にせよ、月の眼球にせよ、それらはフォスが別世界を見るために、別世界から見られたものとして自身を明け渡した徴憑である。

     *

 このように、フォスは、身体の構成が「一つ」でないからできるというにとどまらず、失われたものとの距離を構築してしまったことで、失われたものを含む現実と虚構の間で揺れ動かざるを得なくなった流動的存在である。人格をもつ存在としての人間に課された物語的拘束から離れることで、フォスは、安定した「学校」や「戦闘」のルールに切れ目を入れ、切子面(facet)に張り付いたべとべとの流体を飛び散らせながら、自らの物語を駆動する存在として現れた。一つならずの物語を。だからすぱんく論考でいう「本当のこと」とは(もちろん、宝石である自らには無い「魂」=月人の真実であることはもとより)自らの住まう現在と現実を取り巻く、他の現在と現実をも含んだ、広義の現在と現実のことを意味することになる。


(3)断面:面=現れ phásisの系譜

 以上のような(宝石以上に、月人以上に、アドミラビリス族以上に、そして人間以上にあまりに)人間じみたフォスのあり方は、「今よりもずっと楽しい」「君にしかできない仕事」という不可能な約束=アポリアを果たそうとすることにも現れている。
 そのアポリアの一つは、存在するだけで他者を傷つけてしまうシンシャを、まさに傷つきやすいフォスが救い出そうとすることに現れる。また別の一つは、数百年の眠りに囚われたパパラチアの時間をルチルが掬い取ろうとすることに現れるだろう。
 そのことは、ルチルの作中最初の発言にすでに含まれている。

  • 「私たちの中には私たちを造ったとされる微小生物が内包物(インクルージョン)として閉じ込められており 現在は光を食べ 私たちを動かしてくれています 彼らは私たちが砕け散っても ある程度集まりさえすれば傷口をつなぎ生き返らせるのです ...たとえ粉になり土に紛れ海に沈もうとも 仮死にすぎない 他の生物にはない素晴らしい特性です しかし この性質のために私たちは何事も諦められないのですけれど...

 すぱんく論考が扱うのは、宝石であろうと人であろうと(あるいは虚構的存在者であろうと)「種」をまたいで分有しているこのジレンマであり、アポリアである。上記のルチルに見られるように、希望を持ち続けることができる幸運が希望を持ち続けてしまう絶望へと転じるジレンマもまた、この一つと言える。

     *

 これは勿論、諦めの悪さを貶め、有限の生しか持たない人に諦めを推奨するものではない。反対に、ただ現在だけを生き、何も積み上げない代わりに何も失うことのない刹那の快を称揚するものでも勿論ない。幻(phantasm)の希望の光に身を投じ続けることも、幻想を失った絶望の炎に身を焦がすことも、共に自らの身体の本性に依存した反応にすぎないからだ。幻は、そこにないからこそ、現在を永遠にするための道具たりうる。しかし、幻は端的にない。(反対に、アンタークチサイトは亡霊(phantasm)でありながら、画面の中に明瞭に、しかしフォスにのみ可視的な形で姿を現す。取り戻せる過去ではなく、失った、回復しえない過去の生々しい傷口として彼は現れる(phásis)) 仮に残された時間が長くなければ、そして失われた身体が可逆的でなければ、宝石たちもまた自死を求めただろう。その証拠に月に行った宝石の多くは自壊する。
 ここには機会主義に駆られた片手落ちの自らの生しか残らない。しかるべく、永遠の現在を維持する合理性に基づく生。そこには、自らの生を取り巻くルールに対する反省のフェイズ(phase)が欠けている。言い換えれば、希望を写し、絶望を湛(たた)えるに足る切断面=ファセット(facet)が欠けている。反省するためには傷つかねばならない。振る舞いにおいては人間のようでいて、人間とは本性を異にするものたちがもたらす不気味さは、このことを強調する(em-phasis)。

     *

 そこですぱんく論考は寧ろ、傷つきうる身体であり死すべき存在であるからこそ強調される、身体と時間と歴史の切断面にこそ目を向ける。すなわち、「「本当のこと」を知るにも、「明るい予感」を待ち続けるにも、人生は短すぎる」と。これは、すぱんく論考からの引用であると同時に自己言及でもある。私たちは誰もが短い生しか持っていない。私たちは誰もが、短い記憶の中で、戯れのコミュニケーションの中でしか、相手を推し量ることしかできていない。それでもなお、相手を掴み取ろうとするならば、それが越権出ないことがありえないと知りつつも、切断面に限定されない流血の中身を知りたいと思うだろう。願わくは、その痛みを代わりたいとも。
 この点に関し、ルチルの冒頭の発言には、もう一つ、見るべき点がある。再度引用しよう。

  • 私たちの中には私たちを造ったとされる微小生物が内包物(インクルージョン)として閉じ込められており 現在は光を食べ 私たちを動かしてくれています 彼らは私たちが砕け散っても ある程度集まりさえすれば傷口をつなぎ生き返らせるのです ...たとえ粉になり土に紛れ海に沈もうとも 仮死にすぎない 他の生物にはない素晴らしい特性です しかし この性質のために私たちは何事も諦められないのですけれど...

 「たとえ粉になり土に紛れ海に沈もうとも 仮死にすぎない」という点に着目されたい。これは、宝石の成れ果てであるとともに、仮死的に残存するもの全てに共通するもののことを指し示す。我々に馴染み深いもののことで言えば、端的に、これは墨(ink)のことであり、文字(écriture)のことである。あるいは、すぱんくさんが常々語っていたインターネット-ミームのことである。

 確か「私はミームになりたい」と語っていたすぱんくさんは、ミームとして生き続けてしまう宝石たちのことをどのように把握するのだろうか。編者としては、こう問うことへと駆られる。
 そして編者としては、その表れを形にしたいと願う。同人誌という媒体で、墨(ink)で、文字(écriture)で。少なくともウェブサービス上のテキストは2018年の現在にあってなお、人間にもまして脆弱であると解されている。アーカイヴにも多くの資料は蓄積されていないという。仮に網羅的に蓄積されたならば、今度は検索性と推奨性の問題が生じよう。kindleの端末での誤配のなさのように。
 紙はそれよりも少しは形を保ち、アクセスを容易にするかもしれない。もしかしたら欲しくもなかったはずの人に思いも寄らずに届くかもしれない。典型的には、死を契機とした相続によって物が誤配されるように。本号『アニクリ』が何か意味をなすとすれば、こうした文字を流動的かつ蓄積的な形で残すことにある。


おわりに(補論) 切断すること、編集すること、切断面を磨きあげること

 最後に、タイトル「切り分ける肉/編集される生/磨かれる宝石」についてだけ補足したい。
 タイトルには、カッティングというルビが3つ登場する。カッティングという語は、すでに述べてきた切断(=切り分ける肉)の契機を思い起こさせるとともに、「終わり」を分岐させる編集の意味をもふ組み込まれている(=編集される生)。しかしそれだけでは無い。3つ目の含意は、磨き上げにある。
 フォスは、自らの身体を削り落とすとともに、自らの生に新たな断面を構成し続ける。「血脈」が通ったその身体には、無数の断面が走っている。それは表面の奥深くにあるために、通常は不可視なままに止まる。その断面が無いことはありえない。しかしその断面は、いつか磨き上げられるような断面でもない。宝石たちにとっても、フォスにとってもどうしようもない断面だ。ただ、それはある。利用価値もなければ、審美的価値もない。ベタベタな流線とともに、ただ単に走った傷口であるが、それは存在する。すぱんく論考に従うならば、こうして走ったはみだした線こそが、フォスの「複数の生」へと至るための「裂け目」として構成されているのだと解釈できる。

     *

 もし編者が妄想を膨らませるのであれば、ここには、カッティングの形容詞的用法である「身を切るような」という意味をも含み込みうる。すぱんく論考のタイトルは「切り分ける肉/編集される生/磨かれる宝石」であった。言い換えれば次の通りとなる。身を切る痛みなしに肉はなく、身を切る痛みなしに生はなく、身を切る痛みなしに宝石はない、と。
 これは、すぱんく論考による解、「だからこそ傷つき失われる身体を利用して、埋もれた可能性を見つけ出し、虚構として蘇らせなければならない」に通じる。痛みを失うことは、この現在と現実の裂け目を失うことでもある。
 フォスは、単に終わらないのでも、終わりを忘却するのでもない。フォスは「終わるまでは終わらない」ものとなり、自らが置かれたルールに抗う。切断面を剥き出しにして、自らを内から蝕むものを抱え込むことで、フォスは、自らの現在と現実とを分割し続ける。

 「ほんとのことが知りたいだけなのに」とモゴモゴ口にしつつ、シンシャに抱きついては、またルチルに表面を削り取られる光景が目に浮かぶ。そういう不合理であり、しかし、幸福かもしれない光景を待ちわびるのは、不謹慎なことだろうか、あるいは余りに人間的なことだろうか。読者諸氏のご意見を乞いたい。

 

 

以上