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(全文公開)『アニクリ vol.7.5_β 宝石の国+ 号』すぱんくtheはにー「切り分ける肉/編集される生/磨かれる宝石」&編者解題 #COMITIA123 #COMITIA

下記の通り、来たる 2/11(日)COMITIA123 にて、『アニクリvol.7.5_β 宝石の国+ 』号を刊行する。

 

nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

 刊行に際して、いくつか内容紹介として、いくつかの本文全文と本文解題を掲載していく。

 

 

 

 まずは本文として、下記のすぱんくtheはにー(著)「切り分ける肉/編集される生/磨かれる宝石」である。多くの人の目に触れるべく、レビュー/リプライを含め、全文を掲載することとした。各位、DLされたい。

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 さて、以下は、編者(@nag_nay)によるすぱんく論の解題である。章題は、基本的には同論考で提示される概念によっているが、一部は同氏の別所でのものも含んでいる。
 以下では、(1)複数の「終わり」(2)合金=血管=流体的「個体」(3)断面性 phásis という3点から、同論考のガイドの役を果たしたい。

 願わくは、すぱんく氏の意思に沿ったものであることを。

 

 

すぱんく論 解題


(1)複数の「終わり」:分岐する「終わり」を抱えた者

 一般に、「終わり」に対する態度には複数のパターンがありうる。片や「終わり」を求めるものがあり、迫る「終わり」に焦っては希望に縋るものがあり、それとは関係なしに「終わり」を忘却したように生き続けてしまうものもある。
 いうまでもなく『宝石の国』の背景に照らせば、これは月人とアドミラビリス族と宝石たちのことである。『宝石の国』の宝石たちは、勿論、この「終わり」を忘却したように、生きつづけてしまうものたちである。
 下線部には二つの含みがある。
 まず一つは、①「忘却したように」という言葉が示すように、物理的に人にとっては悠久の時とも思える時間を生きることができる、という含みだ。もう一つは、②「生き続けてしまう」という言葉に込められているように、「終わり」を回避するために変わらない現在を繰り返し続けねばならないということだ。この帰結として、宝石たちは生き続け得るが故に何事も諦められないし、自らが置かれている現在に疑いを向けることが終ぞ出来ないでいるのである。

 

 すでにこの点に明瞭に表れているように、すぱんく論考は『宝石の国』を通して、虚構のキャラクターが「現実」をどのように捉えることができるのかという点に向けられている。無論、この問いは反転され、反対に、現実の我々がどのように「虚構的」に現実(※複数形)を構成しうるのかという課題にも接続される。このように捉えれば、同論考は『アニクリ』既刊だけで見ても、同vol.2.0来の「虚構と現実」「虚構的身体性」に関する7つの論考の理路の行き着く尖端であり、とりわけ同vol.7.0の『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』論を批判的に乗り越えるものでもあるということが見て取れる。
 とはいえ、本論考はもちろん独立した論として読むことができる。よって、以下では、専ら内在的に読んだ場合におけるすぱんく論考のポイントをパラフレーズする。

     *

 さて、冒頭でまず強調されるのは、既存の諸論考に見られるように、フィクションのキャラクターにおける身体的特徴の描写である。すなわち『宝石の国』においては、宝石たちの傷口=切断面である。つまり、宝石もまた「傷つきうる」身体は持っている。だから、上記の「何事も諦められないし、自らが置かれている現在に疑いを向けることができない」という理は、宝石がそれ自体として永遠であるということを意味しない。宝石もまた傷つく。敵の矢が身体を射抜き、傷口が断面として現れることも勿論ある。
 しかしそれでも、砕かれてもなお美しいその切断面に見られるように、身体の切断(=欠損)は宝石たちにとって死ではない。すなわち、歴史の終わりではない。すぱんく論考の言葉を借りれば、切断面は「無時間的な歴史の切断面」として現れる。人体における血液や”かさぶた”が、交換不可能な痛みを象り、不可逆な不在を否応なく示すのとは異なり、切断面は「取り返し」が効く、たまたまの不在(=留守)を示すにすぎない。
 理念的に「記憶(歴史)の完全性は失われない」というこうした安心が、彼らの(表面上の)グロテスクな欠損と無邪気な楽観を両立させ、共に支えていることは事実である。そして同時にその安心こそが、(欠損を経ても維持しえてしまう)現在への批判を無力化してしまうものでもある。例えば、何かしら如何わしい過去が「先生」に隠されているとしても、それを掘ることは(永劫に続いている現在を否定するものとして)許されないことである、との了解に現れているように。
 かくして、宝石に課されたこの業は、失われるものがないという意味で祝福であるとともに、失われるものがないはずだという信念を保持してしまう意味で呪いとしても機能することになる。

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 『宝石の国』においては、「終わり」を求める魂(月人)、迫る「終わり」に焦る肉(アドミラビリス族)、「終わり」を忘却したように生きつづけてしまう骨(宝石)。造形されたこれら3類型は、原始の「にんげん」が分岐した人類の未来(成れ果て)である。
 このことからすれば、「終わり」への3つの態度というのは、もちろん、人間の「終わり」に対する引き裂かれた態度を示すだろう。つまり、我々もまた、日々の些事に「終わり」を見出すことで焦りを覚えるとともに、「終わり」を忘却したように日常を過ごし、その一方で、人生に目標=落ちとしての「終わり」も求めるという、不整合でかつ引き裂かれた存在としてあるはずである、と。よって、『宝石の国』は、人間の原型を分解することにより、「終わり」への態度を析出する。

 

 すぱんく論考が追うのはまさにこの人間の引き裂かれ具合であり、造形上も微小な無数の「裂け目」を内包したフォスフォフィライトである。同論考によれば、フォスの皮膚のすぐ下にある無数の「裂け目」は、祝福と呪いを生み出す一つの「終わり」という不条理な現実を一つならず抱え込んだ存在の向かう先を、虚構を介して指し示すものとして現れる。すなわち、「終わりの無いもの、終わってしまうもの、終わりを求めるものを同時に駆動させている」というのが、すぱんく論考によるフォス像の要約である。

 そうだとすれば、問題はフォスの特殊性にある。以下、章を改め、この点を明示化していこう。


(2)合金=血管:流体を含んだ「個体」

 作中、フォスは両脚、両腕、髪、頭と、身体の総量の大部分を徐々に失っていく、それに伴い、例えば、シンシャの名と約束を忘れてしまうことに表れているように、プライベートな記憶もまた失っていく。その意味でフォスは、外見のみならず、元あるフォスとは身体的な構成要素からしても、心理的連結性からしても別物としてある。アイデンティティが失われていないという臆見は見かけ上のことであり、周囲の宝石たちが同一性に対する信頼を過剰に持っているからにすぎない。事実、現在のフォスに残っているのは、依り代としての身体の一部と、その起源の同一性くらいのものである。
 それだけではない。フォスは、腕の代わりに挿げ替えられた金属の重さを支えるために、流体化させた合金を血管のように全身に張り巡らせることとなった。生物の血管にも似たその「血脈」は、フォスの身体を少しずつ削り落とすとともに、時には自ら制御しきれず、宝石の身体を内側から砕き割る。こうしてフォスは、身体の統一性・制御可能性という内なる根拠さえも失っているのである。
 こうして、フォスは、宝石の身体に貝殻(アゲート)と金属を継ぎ合せるのみならず、その内に、辛うじて自らの外見=見た目を維持するために、流体の合金に自らの身体を侵食させるに任せる。固体である宝石の内部に張り巡らされた異物たる流体の合金は、人間の傷にできる”かさぶた”のように、傷を癒すとともに傷を別のもので置き換える。”かさぶた”が、傷のあった皮膚の同一性を奪うことで傷を癒すように。フォスは合金で出来た血管に身体を蝕ませるに任せるとともに、(関係的な意味での「距離」の大小を測ることのできない)宝石の中にあってただ一人、失われた者との距離を想って合金の涙を流すに至るのだ。

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 ここにおいて注目すべき点が露わになる。
 すぱんく論考によれば、外見においても、記憶においても、身体においてもフォスの同一性が失われていくことは、逆説的に、フォスを人間めいたものにしていくことになる。つまり、両脚、両腕、髪、頭、記憶、そして身体の統一性といった「人間らしく見える」要素が欠如していくことで、見た目とは反対に、フォスは確実にその本性を人間じみたものへと変えていく。この理由は、こうした無数の「裂け目」が人間の本性にこそ根を張っているためだ。
 すぱんく論考の言葉を借りれば、フォスは、その時間的長さが一瞬であるにせよ永遠であるにせよ、いずれも「一つ」しかないが故に「生」を(それゆえにその逆である「終わり」を)理想化せざるをえないものたちから離れ、複数の「生」を渡り歩き、流浪の生という選択の只中に生きる。例えば、月人にせよ、アドミラビリス族にせよ、宝石たちにせよ現実は一つで十分であり、その現実が本当は嘘に固められたものであっても構わなかったこととは対照的に。例えば、宝石たちが先生との現在の関係を固持するため、先生への疑いを意識的にせよ避けることとは対照的に。
 さらに同論考から言葉を借りれば、流体によって辛くも繋ぎとめられた現在のフォスは、そうした犇めき合う複数の現実の間で押しつぶされた「埋もれた可能性」を、「見つけ出し、虚構として甦らせ」る個体として、そこにある。
 身を挺してフォスを守ったアンタークチサイトの幻影をまなざすものとして、アドミラビリスの言語を理解するものとして、また月人の未知の言語を探すものとして、フォスが「宝石の国の現実」ならざる別の現実へと足を踏み入れ、その身体に異世界の物を容れるのはそのためである。月の食物にせよ、月の眼球にせよ、それらはフォスが別世界を見るために、別世界から見られたものとして自身を明け渡した徴憑である。

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 このように、フォスは、身体の構成が「一つ」でないからできるというにとどまらず、失われたものとの距離を構築してしまったことで、失われたものを含む現実と虚構の間で揺れ動かざるを得なくなった流動的存在である。人格をもつ存在としての人間に課された物語的拘束から離れることで、フォスは、安定した「学校」や「戦闘」のルールに切れ目を入れ、切子面(facet)に張り付いたべとべとの流体を飛び散らせながら、自らの物語を駆動する存在として現れた。一つならずの物語を。だからすぱんく論考でいう「本当のこと」とは(もちろん、宝石である自らには無い「魂」=月人の真実であることはもとより)自らの住まう現在と現実を取り巻く、他の現在と現実をも含んだ、広義の現在と現実のことを意味することになる。


(3)断面:面=現れ phásisの系譜

 以上のような(宝石以上に、月人以上に、アドミラビリス族以上に、そして人間以上にあまりに)人間じみたフォスのあり方は、「今よりもずっと楽しい」「君にしかできない仕事」という不可能な約束=アポリアを果たそうとすることにも現れている。
 そのアポリアの一つは、存在するだけで他者を傷つけてしまうシンシャを、まさに傷つきやすいフォスが救い出そうとすることに現れる。また別の一つは、数百年の眠りに囚われたパパラチアの時間をルチルが掬い取ろうとすることに現れるだろう。
 そのことは、ルチルの作中最初の発言にすでに含まれている。

  • 「私たちの中には私たちを造ったとされる微小生物が内包物(インクルージョン)として閉じ込められており 現在は光を食べ 私たちを動かしてくれています 彼らは私たちが砕け散っても ある程度集まりさえすれば傷口をつなぎ生き返らせるのです ...たとえ粉になり土に紛れ海に沈もうとも 仮死にすぎない 他の生物にはない素晴らしい特性です しかし この性質のために私たちは何事も諦められないのですけれど...

 すぱんく論考が扱うのは、宝石であろうと人であろうと(あるいは虚構的存在者であろうと)「種」をまたいで分有しているこのジレンマであり、アポリアである。上記のルチルに見られるように、希望を持ち続けることができる幸運が希望を持ち続けてしまう絶望へと転じるジレンマもまた、この一つと言える。

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 これは勿論、諦めの悪さを貶め、有限の生しか持たない人に諦めを推奨するものではない。反対に、ただ現在だけを生き、何も積み上げない代わりに何も失うことのない刹那の快を称揚するものでも勿論ない。幻(phantasm)の希望の光に身を投じ続けることも、幻想を失った絶望の炎に身を焦がすことも、共に自らの身体の本性に依存した反応にすぎないからだ。幻は、そこにないからこそ、現在を永遠にするための道具たりうる。しかし、幻は端的にない。(反対に、アンタークチサイトは亡霊(phantasm)でありながら、画面の中に明瞭に、しかしフォスにのみ可視的な形で姿を現す。取り戻せる過去ではなく、失った、回復しえない過去の生々しい傷口として彼は現れる(phásis)) 仮に残された時間が長くなければ、そして失われた身体が可逆的でなければ、宝石たちもまた自死を求めただろう。その証拠に月に行った宝石の多くは自壊する。
 ここには機会主義に駆られた片手落ちの自らの生しか残らない。しかるべく、永遠の現在を維持する合理性に基づく生。そこには、自らの生を取り巻くルールに対する反省のフェイズ(phase)が欠けている。言い換えれば、希望を写し、絶望を湛(たた)えるに足る切断面=ファセット(facet)が欠けている。反省するためには傷つかねばならない。振る舞いにおいては人間のようでいて、人間とは本性を異にするものたちがもたらす不気味さは、このことを強調する(em-phasis)。

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 そこですぱんく論考は寧ろ、傷つきうる身体であり死すべき存在であるからこそ強調される、身体と時間と歴史の切断面にこそ目を向ける。すなわち、「「本当のこと」を知るにも、「明るい予感」を待ち続けるにも、人生は短すぎる」と。これは、すぱんく論考からの引用であると同時に自己言及でもある。私たちは誰もが短い生しか持っていない。私たちは誰もが、短い記憶の中で、戯れのコミュニケーションの中でしか、相手を推し量ることしかできていない。それでもなお、相手を掴み取ろうとするならば、それが越権出ないことがありえないと知りつつも、切断面に限定されない流血の中身を知りたいと思うだろう。願わくは、その痛みを代わりたいとも。
 この点に関し、ルチルの冒頭の発言には、もう一つ、見るべき点がある。再度引用しよう。

  • 私たちの中には私たちを造ったとされる微小生物が内包物(インクルージョン)として閉じ込められており 現在は光を食べ 私たちを動かしてくれています 彼らは私たちが砕け散っても ある程度集まりさえすれば傷口をつなぎ生き返らせるのです ...たとえ粉になり土に紛れ海に沈もうとも 仮死にすぎない 他の生物にはない素晴らしい特性です しかし この性質のために私たちは何事も諦められないのですけれど...

 「たとえ粉になり土に紛れ海に沈もうとも 仮死にすぎない」という点に着目されたい。これは、宝石の成れ果てであるとともに、仮死的に残存するもの全てに共通するもののことを指し示す。我々に馴染み深いもののことで言えば、端的に、これは墨(ink)のことであり、文字(écriture)のことである。あるいは、すぱんくさんが常々語っていたインターネット-ミームのことである。

 確か「私はミームになりたい」と語っていたすぱんくさんは、ミームとして生き続けてしまう宝石たちのことをどのように把握するのだろうか。編者としては、こう問うことへと駆られる。
 そして編者としては、その表れを形にしたいと願う。同人誌という媒体で、墨(ink)で、文字(écriture)で。少なくともウェブサービス上のテキストは2018年の現在にあってなお、人間にもまして脆弱であると解されている。アーカイヴにも多くの資料は蓄積されていないという。仮に網羅的に蓄積されたならば、今度は検索性と推奨性の問題が生じよう。kindleの端末での誤配のなさのように。
 紙はそれよりも少しは形を保ち、アクセスを容易にするかもしれない。もしかしたら欲しくもなかったはずの人に思いも寄らずに届くかもしれない。典型的には、死を契機とした相続によって物が誤配されるように。本号『アニクリ』が何か意味をなすとすれば、こうした文字を流動的かつ蓄積的な形で残すことにある。


おわりに(補論) 切断すること、編集すること、切断面を磨きあげること

 最後に、タイトル「切り分ける肉/編集される生/磨かれる宝石」についてだけ補足したい。
 タイトルには、カッティングというルビが3つ登場する。カッティングという語は、すでに述べてきた切断(=切り分ける肉)の契機を思い起こさせるとともに、「終わり」を分岐させる編集の意味をもふ組み込まれている(=編集される生)。しかしそれだけでは無い。3つ目の含意は、磨き上げにある。
 フォスは、自らの身体を削り落とすとともに、自らの生に新たな断面を構成し続ける。「血脈」が通ったその身体には、無数の断面が走っている。それは表面の奥深くにあるために、通常は不可視なままに止まる。その断面が無いことはありえない。しかしその断面は、いつか磨き上げられるような断面でもない。宝石たちにとっても、フォスにとってもどうしようもない断面だ。ただ、それはある。利用価値もなければ、審美的価値もない。ベタベタな流線とともに、ただ単に走った傷口であるが、それは存在する。すぱんく論考に従うならば、こうして走ったはみだした線こそが、フォスの「複数の生」へと至るための「裂け目」として構成されているのだと解釈できる。

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 もし編者が妄想を膨らませるのであれば、ここには、カッティングの形容詞的用法である「身を切るような」という意味をも含み込みうる。すぱんく論考のタイトルは「切り分ける肉/編集される生/磨かれる宝石」であった。言い換えれば次の通りとなる。身を切る痛みなしに肉はなく、身を切る痛みなしに生はなく、身を切る痛みなしに宝石はない、と。
 これは、すぱんく論考による解、「だからこそ傷つき失われる身体を利用して、埋もれた可能性を見つけ出し、虚構として蘇らせなければならない」に通じる。痛みを失うことは、この現在と現実の裂け目を失うことでもある。
 フォスは、単に終わらないのでも、終わりを忘却するのでもない。フォスは「終わるまでは終わらない」ものとなり、自らが置かれたルールに抗う。切断面を剥き出しにして、自らを内から蝕むものを抱え込むことで、フォスは、自らの現在と現実とを分割し続ける。

 「ほんとのことが知りたいだけなのに」とモゴモゴ口にしつつ、シンシャに抱きついては、またルチルに表面を削り取られる光景が目に浮かぶ。そういう不合理であり、しかし、幸福かもしれない光景を待ちわびるのは、不謹慎なことだろうか、あるいは余りに人間的なことだろうか。読者諸氏のご意見を乞いたい。

 

 

以上