書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

冬コミ新刊寄稿募集:②「アニクリvol.6.5_β ペンギン・ハイウェイ/文字と映像(序)」 #C95

 

 

上記、Twitter上での告知以来、時間が空いてしまいまして申し訳ありません。

ようやく新刊告知です。(本誌としては)累計16冊目となる新刊を作成します。

 

弊誌では冬コミに向け、vol.6.5_β「ペンギン・ハイウェイ/文字と映像(序)」を発刊します。

vol.9.0「山田尚子総特集号」と同時発刊です。(既刊のアニクリvol.9.5「リズと青い鳥」特集号の続きです

※ なお、「β」がついていることからお分かりのとおり、続けて、2019年春文フリに向けてvol.6.5本号「湯浅政明×森見登美彦/文字と映像(本)」を発刊予定です。 

なぜ今『ペンギンハイウエイ』なのか、それは「文字と映像」という特集といかなる関係にあるのか、につきましては、下記3の企画趣旨の項にて簡単に記していますので、こちらも是非どうぞよろしくお願いします。

 

 

まずは皆さま、奮ってご参加の程、どうぞよろしくお願いいたします。

なお上記の通り、冬コミ同時発刊で、vol.9.0「山田尚子監督 総特集号」を発刊予定です。こちらも是非に。

 

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1、検討・寄稿募集作品例:

 

ペンギン・ハイウェイ

 

四畳半神話大系

夜は短し歩けよ乙女

有頂天家族

 

マインド・ゲーム

ケモノヅメ

カイバ

ピンポン THE ANIMATION

アドベンチャー・タイムSeason6 Episode 163「Food Chain」

Genius Party 〈ジーニアス・パーティ〉 「夢みるキカイ」

キックハート

夜明け告げるルーのうた

DEVIL MAN

 

 


2、寄稿募集要項


(1)装丁・発刊時期:

 各々、オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、第一弾は2018年12月の冬コミ(12月30日)です。
 是非お気軽に参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 2000字程度から12000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:300字程度から1200字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り(第一弾)
 第一稿:2018/11/4(日)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か内容に関するやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2018/12/2(日)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨

 

 

さて、映像、そして広く動画における文字の位置を考えてみると、製作された「一つ」の映像作品には複数の「文字」の層が積み重なっていることが見て取れます。

すぐに了解されるだろう例としては次のようなものが「文字」の例となるはずです。例えば、翻案さるべくものとしてある文字(原作と映像の関係)、文字を介した企画・調整過程(制作過程における「合意」の問題)、文字を現実に読む肉化(声優において現勢化するプロセス=プレスコ/アフレコの問題)、文字自体の映像化タイポグラフィの問題)、映像の中にまさに書き込まれた端正な文字(ペンギンハイウェイにおけるアオヤマ君の文字)などなど。「一つ」の映像の中に、複数の「文字」が伏在・介在していることは、この例になります。

(既刊で言えば、アニクリvol.6.0にて「キネティック・タイポグラフィ」を論じたDieske氏の論考は、まさにこの支えをなすでしょうし、 あるいは、「一つ」の映像作品が象られる前にある文字の輻輳、文字自体の自己増殖の過程(©️円城塔『文字渦』)は、この最たる例と言えるかもしれません。)

これらは、結果的に劇場で流されることになる「一つ」の(完結した)映像という「像」を当然ながらゆるがせにします。加えて、「一つ」の映像をなす複層的な文字の運動の更に手前にある「線 gramme」の問題一般に拡張するならば、この問題は作画(崩壊)の問題に直結することは明らかでしょう。そこでの線 gramme は文字どおり「一つ」の歴史を複線化するのですから。

 

本号では、上記のような問い一般を扱うものとして、主として『ペンギン・ハイウェイ』を題材に取り上げて欲しいと考えています。

ではなぜ『ペンギンハイウェイ』なのか。もっとも目立つのは変形するペンギンの線(©️久野遥子)でしょうが、それを措いても、そもそも我々が知るペンギンではありえないペンギン(©️森見登美彦や、(〈海〉からお姉さんの胸部に至るまでの)曲線に包まれたお椀=球の形をした心を揺さぶる物体の存在、その存在を探求するアオヤマ君の実験プロセス、その記録、記録の洗練、それら記録の「折りたたみ」。そこには線を、文字に発して、「街がぜんぶ世界の果てみたい」(お姉さんの発話)な地点に到達した後に、再度、文字に、線に折りたたまれたプロセスが反覆されているとも言えるはずです。事実、キャラクターの一人は、次のようにメタ言及をなしています。

 

「世界の果ては外側にばかりあるものではない」

「世界の果ては折りたたまれて、世界の内側に潜り込んでいる」

(アオヤマ君の父の発話)

 

そうして得られる記録の集積が一つの形を再度なすとき、重なり合った文字が「一つ」の映像をなす。「エウレカ」の瞬間において、世界の「破れ」(定義上なし得ないはずのもの)が可視化され、世界の再縫合が成し遂げられる。すなわち、『ペンギン・ハイウェイ』映像内部における「ノート」における諸線の再結合とその解かれが露出する。

そういう不可能なはずのものの現勢化を露出させる瞬間を、本作は描いたと言えるかもしれません。

 

ここで、かつて、とある哲学者に対して提示された次の問いを思い返しても良いかもしれません。

「結局のところ、あなたが記入行為(アンスクリプション)に対して魅惑されるのは、どうしてでしょうか」

ジャック・デリダ「肉声で」 『言葉にのって』p.28)

 

映像作品について、この問いに答えるには、どういう点に着目するならば可能となるでしょうか。

β版の本誌における問いかけは、以上の通りです。