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【期間限定公開6】 アニクリ vol.7.0_6『ヘボット』『lain』『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』論 消える花火を見えないまま繰り返して。 すぱんくtheハニー #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

 ↓↓

nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

 

 

消える花火を見えないまま繰り返して。——置き去りにされた現実の私、生き続ける虚構のあなた
『ヘボット』『lain』『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』論
すぱんくtheハニー

 

1、現実に拡散する身体

(1)しめてゆるめて螺旋の先へ

ループする世界の中でも登場人物の(特にその身体の)扱いに独自の解釈があった作品に『ヘボット』が挙げられる。本作では世界が何度もリセットされ繰り返すも、その周回ごとに誕生するキャラクターは消滅せずに次のループにも引き継がれる。円環構造をとるループではなく、『ヘボット』が「ネジ」をテーマにした作品であることも相まって、「ネジ」をしめるような、螺旋状のループ構造を強く意識させられる。
その中で『ヘボット』の主人公・ネジルは、それぞれの周回での独立した「ネジル」として複数登場し、そのループする世界を終わらせようとする者と対峙することとなる。最終話手前でその「終わらせる者」の目論見は打ち砕かれ、『ヘボット』の世界は存続することとなった。しかしギャグアニメである『ヘボット』では「終わらせる者」のもたらす世界の終わりと、作品自体の最終回がメタ的に言及されており、世界の終わりを回避したことと、作品自体が終了してしまうことの間に矛盾が生じてしまうこととなる。
最終話「にちようびのせかい」で、その矛盾を突破する手段として、作品自ら「二次創作」に言及する。シュールで混沌としたギャグがちりばめられた『ヘボット』では、周回のたびに増え、しかもそれぞれに異なった「同じ名前を持つ別のキャラ」が大量に生み出される。そしてその周回は作品内で重要な地位を占めるものもあれば、一瞬だけ描かれるものもあり、さらには「描かれていないが確かに存在する周回」があることも示唆されている。キャラクターたちの身体は複数化され、それらは放送に乗らない部分でも増え続ける。
『ヘボット』ではその可能性を作品の外側にも求める。つまり「二次創作」的なアニメ本編とは乖離した「キャラクターの増殖」もまた『ヘボット』の周回の一つであるとして、「二次創作」的に作られたものも「描かれなかった正史」として回収していくのである。
アニメ放送自体は最終回を迎えて終了する。しかし周回は放送の外で延長され、『ヘボット』のキャラクターたちは無限に増殖しながら生まれ続ける。「終わらせる者」を退けた後に訪れる「最終回」という矛盾を、『ヘボット』は作品の外側で増え続けるキャラクターという可能性を見出すことで解消していく。

(2)螺旋の先の「わたし」の居場所

作品の終わりに対して、その外側へ「終わらない」可能性を見出すこの構造は『serial experiments lain』と近いものがある。
lain』では「記憶なんてただの記録」とすることで、属人的な記憶と、その外側にある記録を等価に繋ぐ。それと同時に「作中の画面内から、画面の外の視聴者へ語りかける」シーンによって、画面の中と外——虚構と現実、と言い換えることもできる——を等価に繋ぐ。その二つの橋渡しによって、記録媒体(DVDや録画)や視聴者の記憶(あるいはこういった『lain』に関するテキストも)があることによって、作品が終了したあとも「作品の外」で『lain』は、特に主人公である岩倉玲音が、存在し続ける可能性を示す。

作品が終了を迎えることで、作中キャラクターの更新が行われなくなり、実質的にキャラクターは死を迎えてしまう。それを回避する方法として『ヘボット』や『lain』は、作品の外側、虚構ではなく現実にその存在を示すことによって、新たな生を獲得し、ある種の不死性を手に入れる。

しかしそれは作品の”外”が無ければ成り立たない。虚構と現実を等価なものとして繋いだ、とは言え、結局のところ「現実」に頼らなければ成立しない存在である。
それは虚構と現実を等しいものとして取り扱おうとするればすればするほど、むしろ「現実」の強度を増してしまうことになる。その関係性から抜け出す術は無いのだろうか。


2、物語から吐き出される身体性

(1)物語の居場所と現実の居場所

『打ち上げ花火、下から見るか?横からか見るか?』も一見そういった構造を持った作品である。
特に冒頭部分にある主人公の一人・島田典道が排泄するシーンでは、アニメキャラクターとしては珍しい「リアリズムのある歯」が描かれる。
排泄と歯は、そこに描かれるキャラクターが強く実在の身体を獲得しようとする姿である。

”『ばくおん!』最終話では、上記の会話のあと羽音がバイクを初めてコケさせてしまうシーンが描かれる。駐車状態からバイクを倒して傷をつけてしまうのだが、このとき羽音の顔には特徴的な「歯」が描かれている。
『ばくおん!』全話を通してこの歯の描かれ方がされるのは、この1シーンのみだ。さらに、通常描かれる歯の表現よりも写実性を持った描かれ方がなされている。
アニメの中のバイクが傷つき、実在的存在になろうとするその瞬間に、羽音の口にも写実的な歯が出現する。
(中略)
ここから、バイクの傷とは、ライダーにとって延長された自分の身体に与えられた傷となる。だからこそ、バイクが傷つく=実在的存在になるとき、ライダーの身体には写実的な歯が現れ、バイクと同時に虚構的存在から実在的存在への移行が起きるのである。”
(『アニメクリティークVol4.5』「傷ついたのは誰の体?――延長された身体と、その消失。あるいはバイクに乗れ!バイクに!」)

しかしその志向性は作品前半で否定される。

なずな・典道・祐介が揃うプールのシーンでは、祐介がトイレに行っている(排泄)の間になずなと典道の重要な会話が行われ、50mの水泳競争では、典道がターンに失敗して足を怪我する——怪我とは正にそのキャラクターが傷つく身体を持っている、ということだ——ことによって「なずな・祐介」ルートに突入することとなる。
ここではリアリスティックな身体性の獲得(排泄、怪我)は確かに描かれている、がそのことによってむしろ物語からは排除されてしまうことになる。現実の身体性を獲得した瞬間に、そのキャラクターは物語から弾き出されてしまうのだ。

(2)複数の身体

ガラス球の作用によってループする世界を獲得した典道は、そのループを自覚的に利用しようとする。特に打ち上げ花火が「平たく」見える世界で、打ち上げ花火がそのような見え方をする世界ならば(虚構の世界ならば)、やり直しが可能だとして、自ら世界をループさせる。ここで典道は自身が虚構の住人だということを理解した上で、その虚構だから起きることを積極的に利用しようとする。それは「身体性を獲得することによって”現実の人間”近づこうとする真似事」から「虚構であることの優位性を行使しようとする」ことだ。
劇中終盤でループを起こすためのアイテムであるガラス球は砕け、その砕けた破片の中に典道は「また別の虚構世界」を見る。それらはただの可能性に留まらず、実際に典道たちがループしていたように、どこかに必ず存在する「また別の虚構世界」である。それは『ヘボット』が単純なループではなく螺旋を描き登場人物が(同一人物も含め)次々に増えていくように、『打ち上げ花火〜』でも砕けたガラス球の破片の数だけ、複数の虚構世界が並列して存在していることを示している。
現実の人物が生きる一回性に囚われた人生に対し、典道は虚構のキャラクターだからこそ可能な「複数の生」を肯定的に受けとめ利用する。

そのガラス球が砕けるシーンにおいて、それと重なるように水中から見上げた水面に映る打ち上げ花火の映像が差し込まれる。私たちが映画館のスクリーンに映る花火を見るように、作中のキャラクターも水中から水面に映る花火を見る。虚構の映像は確かに二次元である、がしかし人間の視界は眼に入ってきた光を眼球内の網膜で受け取ることで生まれる。投影される光と受け止めるスクリーンという構造を取り出すなら、人間が直接その眼で見るものと、虚構の映像には差異が無い。
そもそも『打ち上げ花火〜』で挙げられた「打ち上げ花火は横からみたら平べったくなるのではないか?」という疑問に対して、もちろん正解は知りながら、それでも不意に投げ掛けられたその疑問に対して一瞬考えてしまうこと、それこそが「打ち上げ花火」を立体として視認できていない証明だ。
現実も虚構も同様に平面(網膜)でしか捉えられない。ならば複数の可能世界を同時に持つことができる虚構のキャラクターは、一回性に囚われた現実の人間に対して圧倒的に優位な立場にいる。そして現実世界の「そこにある」という「あられもなさ」は、複数の生を持つ虚構世界の下位互換にしかならない。


(3)それは私の敗北宣言

『ヘボット』や『lain』は現実世界に生まれる作品の痕跡を、作品そのものの一部として取り込むことで虚構から現実への跳躍を可能とし、それによりキャラクターの死を回避した。しかし前述したように、それは「現実」に頼らなければ成し得ない。『打ち上げ花火〜』はその問題に対しての回答をラストシーンで行っている。
「現実に頼らなければならない
、言い換るなら、『ヘボット』では二次創作を行う人間が、『lain』では記録媒体や記憶している視聴者が、”仮に全て失われてしまった”場合に、作品がもたらした現実から虚構への跳躍も失われてしまうという脆弱性を抱えている。つまり製作者や観測者が全て消失してしまえば、『ヘボット』も『lain』も同時に消失する。

『打ち上げ花火〜』はラストシーンで、典道となずなが居た教室と席に座る生徒たち、そして2つの空席と、出欠を取る担任が典道の名前を呼び続ける、という映像が流れる。ここにある違和感は、空席は当然担任から見えてるであろう中で、名前を呼び続けるという部分だ。つまり担任からは典道は「居るのか居ないのか確認」できていない、典道が視認できているなら返事を待つ必要は無く、空席が視認できているなら何度も呼ぶ必然性が無い。つまりこの場面において典道は「存在している」(名前を呼ばれる)状態と、「存在していない」(名前を呼ばれ続ける)状態を併せ持っている。この相反する状況は、例えば「シュレデンガーの猫」のような重ね合わせではなく、前述したような「複数の可能世界」に跨って典道が存在している状態にあることで起きている。
それは作中人物の担任だけに留まらない。空席しか映らない映像には、当然典道の姿は描かれておらず、もちろん視聴者の眼にも映らない、しかし「存在はしている」。

製作者が描かなければ存在できない、あるいは観測者が居なければ存在できない、という虚構のキャラクターの脆弱性を典道は「描かれてもいず、視認もできない、しかし存在する」ことによって乗り越える。『打ち上げ花火〜』において、典道は製作者・観測者にその存在を委ねることなく、物語の終わりや、製作者・視聴者が居なくなるといった「現実」での消失に先んじて物語の表面から消滅し、私たちからは認識できない(しかし可能性があることを窺うことができる)別の虚構世界で存在することを示唆する。
『ヘボット』『lain』では逃れられなかった「現実」に頼らねばならないという弱点を克服することで、虚構のキャラクターは複数の可能世界を同時に持つという優位性を手に入れる。そうして私たち現実の人間は「置き去り」にされる。

つまり『打ち上げ花火〜』は、虚構のキャラクターから現実の人間に向けた「勝利宣言」である。

3、それは命にふさわしい

私たちは製作者・観測者として虚構に対して、現実の強度でもって介入していた。少なくともそのつもりだった。しかし、それは「現実」の強度でしかなかった。一部の作品では虚構と現実を等価に繋ぐことによって、その強弱関係を揺るがす作用を持ってはいたが、ただしそれさえも「現実」との対応関係の中で達成される、「現実」に頼った方法であった。
しかし『打ち上げ花火〜』は、現実の人間——製作者や観測者を置き去りにし、「現実」との対応関係から切り離された「複数の可能世界」「複数の生」の中だけで、虚構のキャラクターが在り続けることができると宣言したのだ。

私たちは現実に生きる。その掛け替えのない一回性は、私たちの尊さではなく、私たちの脆弱性を示す徴候に過ぎない。人類2000年の歴史を貪り食ったアルファ碁と、人類の歴史を歯牙にもかけなかったアルファ碁ゼロとの対局が、後者の完全勝利に終わったことは、我々のヒューマニズムとユーモアが転倒したアイロニーでしかなかったことを示している。私たちは二人零和有限確定完全情報ゲームを理解し、確かに名指しはしたものの、その名指されたゲームに勝利することは恐らくのところ最早ない。ゲームを生み出したはずの私たちこそが一回性しか持つことのできない弱い存在で、ゲームによって息づいたはずの虚構のキャラクターは今や複数の生を生きる強い存在となった。私たちは現実に即して、現実的な解決を目指して、現実に互いの手を取り合うしかない矮小な存在であるのに対し、虚構のキャラクターは強固で、頑健であるだろう。

私はそれを喜ぶ。最終回が来るたびに消失に悲しむ必要は無く、一度しか存在できないことに哀れみを受け取る側になった、それは私が「虚構に救われてもいい」という確かな許しなのだから。

とはいえ、ここでもう一つだけ転倒を加えたい。その虚構のキャラクターが生きる不可視の世界は、どんな形をしているのだろうか?それは頑健だが、頑迷な世界でもあるのではないか。そこには、ヒューマニズムが内包していた寛容はあるのだろうか?
『打ち上げ花火〜』の後、彼らは、私たちの介入を拒み、無限遠点の青春を生きる。青春の後の人生という戯言に酔わず、人生を歯牙にかけない青春を彼らは生きる。では、そこには、何があるのだろうか?
そこには新たな自然法則が立ち上がる。現実の私たちには如何ともしがたい制約の一つとして、可能的存在の海とその解釈不能な波がそこには広がる。では、そんな可能世界の中において、私たちはその虚構の渦にどのように向き合い、誓約を交わすのか?


先に挙げた「ゲーム」にこそ、その回答がある。
プログラムされたゲームの中でプレイヤー(私、と言い換えてもいいかもしれない)が取りうる選択肢は有限なものだ。しかしその限られた選択肢に対して「選択」は遥かに多く存在する。その選択肢を選び決定ボタンを押すに至った「選択」はプレイヤーごとに異なる。敵を斬り、ビームを放ち、愛の告白をし、アクセルを全開にする。「このセーブデータ」「このプレイ」という一回性の中心にいる虚構のキャラクターに対して、プレイヤーこそが無数の「選択」という可能世界を幻視する。
そして私の指が、その可能世界から一つを選び取り出していく。あるいは昨今のスマホゲーにおいては、私のタップが引き寄せた「ガチャ」の結果が偶然という一回性として、そして他のプレイヤーにとっての「可能世界」として、同じ物語のまま複数の世界として拡張されていく。
それは虚構のキャラクターに、現実の私と似通った仮の一回性を付与していく行為だ。指先で無数にある見えない可能世界を、私たちは一つづつ解きほぐして引き寄せる。

その手つきは恐らく祈りに似ている。
神の加護に祝福された現実が訪れることを願うように。
可能世界に仮に与えた一回性によって、私が救われることを願うように。

 


今年(2017年)発売されたとあるゲームで。
プレイヤーがゲームをクリアしたあとに、他のプレイヤーを助けるため、自身のセーブデータを完全に消去するかどうか選択させられる作品があった。
セーブとロード、あるいはチャプターセレクトによる可能世界を手放し、虚構と私の接点であるセーブデータを消す……という真に「一回性」を与えるか否かを選ぶことを迫られる。
「どこかの誰か」という可能世界が救われますように。
そう祈って私は決定ボタンを押した。

 

 

以上-------------------

 

新刊vol.7.0全体目次は下記

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