書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

[発刊告知]アニメクリティークvol.7.0「声と身体/ 松尾衡×機動戦士ガンダム サンダーボルト」寄稿募集 #C93

以下の通り、2017/12/31(日)、第93回コミックマーケット(C93)に参加します。

詳細は下記にて。 

 

表紙

 

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Contents

 

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目次と試し読み頁へのリンク(総合)

 

第1部 時間と身体

 0、巻頭言 Outline.『GTB』 『メイドインアビス』『宝石の国

  「生ける道具としての我々を解釈する」

 

第2部 語り部と身体

 1、makito × Nag 『この世界の片隅に』論

  「現在を紡ぐ、あちこちのあなたへ」

 2、wak(かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン)

  『メッセージ』『ブレードランナー2049』論

  「『ブレードランナー2049』の偽物の痛みと本物の救済」

 3、あんすこむたん『メイドインアビス』論

  「上下・生死 反転・逆転する世界

 

第3部 作り手と身体

 4、パーフェクト寄生髭『機動戦士ガンダムサンダーボルト』評+詩

  「分裂、投影

 5、tacker10  『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論

  「コード・シンボル」付:橡の花レビュー & tacker10リプライ

 6、すぱんくtheハニー『ヘボット』『打ち上げ花火』論

  「消える花火を見えないまま繰り返して。——置き去りにされた現実の私、生き続ける虚構のあなた」付:橡の花レビュー & すぱんくtheハニーリプライ

 7、あんすこむたん『Re:CREATORS』論 

  「クリエイターとキャラクター」 付:tacker10コメント

 

 

 

特徴としては、読者とのコミュニケーションの便宜のためのレビュー/リプライ/コメント形式を復活させました。(参考画像ではtacker10さんの頁をご確認ください。)

デザイン的には、ノンブルを第一部、第二部、第三部、最終部とで別々にしたり、ロゴを自家作成するなど、既刊で取り入れてきた要素を盛り込んでいます。

挿絵も解釈可能なものとして配置に意味を持たせてあります。是非ご確認ください。

以下はサンプル画像。

 

 

0、冒頭頁、目次頁

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1、第一部より巻頭言・アウトライン

 (※ノンブル:レグとメイニャとタマちゃん)

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2、第二部より、

 『この世界の片隅に』論:makito氏×Nag、

 『ブレードランナー2049』×『メッセージ』論:wakさん、

 『メイドインアビス』論:あんすこむたん氏

(※ノンブル:リコとプルシュカ(カートリッジ)とリュウサザイ)

 

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3、第三部より、

 『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論:パーフェクト寄生髭氏、tacker10氏、totinohana氏、

 『ヘボット!』『lain』『打ち上げ花火、下からみるか?横からみるか?』論:すぱんくtheはにー氏、totinohana氏

 『Re:CREATORS』論:あんすこむたん氏、tacker10氏

(※ノンブル:ナナチとミーティ)

 

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(レビュー/リプライ構成)

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奥付(※小ネタですが、ここのノンブルは奥付の一箇所しか使われていないため是非注目ください)

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 以上です。

当日もどうぞよろしくお願いします。

 

c.bunfree.net

 

 

------------------------------以下、過去の募集要項など。

 

1、検討・寄稿募集作品例:


(概ね2010年以降における)アニメにおけるキャラクターの身体、MSや拡張身体、アニメ視聴・VR視聴における(身体的)経験など、アニメと身体、アニメと声に関連した任意の作品

 

 


対象作品例


(1)身体

 

リトルウィッチアカデミア
宝石の国

メイドインアビス

山田孝之3D

18if

幼女戦記
けものフレンズ
ACCA(アッカ)13区監察課
傷物語Ⅲ -冷血篇-
劇場版 甲鉄城のカバネリ
虐殺器官
LUPIN THE ⅢRD
龍の歯医者
劇場版 ソードアート・オンライン-オーディナル・スケール-
夜は短し歩けよ乙女

夜明け告げるルーのうた
BLAME!
プリンセス・プリンシパル
ボールルームへようこそ
ID-0
正解するカド
Re:CREATORS
終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?
劇場版 魔法少女リリカルなのはReflection

打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?
プリズマ☆イリヤ
RWBY(VOLUME 4 含む)
劇場版 Fate/stay night -Heaven’s Feel-

 

(2016以前)
この世界の片隅に
君の名は。
劇場版 艦隊これくしょん -艦これ-
機動戦士ガンダム サンダーボルト
結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-
亜人
花とアリス 殺人事件
同級生
劇場版 selector destructed WIXOSS
バケモノの子
ハーモニー
紅殻のパンドラ

 

(付属冊子予定)

機動戦士ガンダム サンダーボルト BANDIT FLOWER
GODZILLA(ゴジラ) -怪獣惑星- (第一章)

 

 

(2)声

聲の形
昭和元禄落語心中
劇場版 蟲師 続章 -鈴の雫-
ガールズ&パンツァー(GIRLS und PANZER)
心が叫びたがってるんだ。
てさぐれ!部活もの
THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!
たまこラブストーリー
かぐや姫の物語

 

 

(3)松尾衡作品

 機動戦士ガンダム サンダーボルト(2017)
 orange(2016)
 コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜THE LAST SONG(2016)
 ノラガミ ARAGOTO(2015)
 機動戦士ガンダム サンダーボルト(2015)
 ガンダム Gのレコンギスタ(2014)
 月刊少女野崎くん(2014)
 ソウルイーターノット!(2014)
 革命機ヴァルヴレイヴ(2013)
 夏雪ランデブー(2012)
 坂道のアポロン(2012)
 ベルセルク 黄金時代篇I 覇王の卵(2012)
 模型戦士ガンプラビルダーズ ビギニングG(2010)
 紅OVA(2010)
 機動戦士ガンダム戦記 アバンタイトル(2009)
 紅(2008)
 夜桜四重奏 〜ヨザクラカルテット〜(2008)
 アイドルマスター XENOGLOSSIA(2007)
 sola(2007)
 デッドガールズ(2007)
 ローゼンメイデン オーベルテューレ(2006)
 RED GARDEN(2006)
 ローゼンメイデン トロイメント(2005)
 ローゼンメイデン(2004)
 TEXHNOLYZE(2003)


2、寄稿募集要項


(1)募集原稿:

 「アニメと身体」あるいは「アニメと声」に関連して論じられる原稿。両者を接続するものも推奨。
 

(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2017年秋の第25回東京文フリ(11月)を想定しています。
 

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 3000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:2017/10/16(月)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2017/11/5(日)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨・発刊趣旨:


 画家[芸術家]は「その身体を携えている」とヴァレリーが言っている。実際のところ、〈精神〉が絵を描くなどということは考えてみようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。
 モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』

 

(1)「道具としての我々」を解釈する

 機械は肉体を超えるのか? とだけ問われたならば、迷わずイエスと答える人が、今なら多いかもしれない。
 
 第三次AIブームも然ることながら、IoT、自動運転技術といった環境的知能の発達に加え、我々の肉体を走査・探索し、肉体に入り込むスキャン・BMI(Brain Machine Interface)技術、補綴・補填具の発展による肉体の(身体的・認知的・道徳的)エンハンスメントも、このイメージに貢献していることだろう。
 よりわかりやすいところで言えば、義足での陸上競技記録が健常者の記録を上回る「逆転」(と呼ぶべきか自体が争点であるだろう)が実現しつつあり、介護・医療用(そして勿論軍事用の)パワードスーツの導入が本格化しつつあることを思い起こせばよい。いまや「自分の手足以上の機能が欲しいから、手足を切って最先端の義肢装具をつけて欲しいという人が現れるのではないか」という懸念は、フィクション作品にではなくごく日常的なニュースに現れる問いとなっている。確かな根拠の有無に関わらず、法的な尊厳・プライバシー問題やコントロール不可能性への不安、社会学的な疎外や不平等の拡大といった(古き良きラッダイト的な)懸念が様々に提示されつつも、我々の生活には早晩それが自然であるように入り込むことになるだろう。

 しかし、勿論アニメの名をもつ本号の問いは、この現象自体や現象のイメージに対する善し悪しの判断にはないし(それは願望表出と現状認識との混同に陥りがちだろう)、そもそも「機械」と「肉体」という対立図式やその勝敗予想にもない。
 歴史的に見ても、我々は不断に機械を作り出し、機械とともにコミュニケーションの様式を変化させてきた。何を食べるか、どのように他者とコミュニケートするか、いかなる「主体」であるかについて、絶えず肉体を統治し、肉体に改造を施してきた。損傷した脳が自らを変容させ、欠損した機能を補完するのと同様に、我々は常に環境の中で、環境として、環境を変形させてきた。
 物としての我々/道具としての我々という描像は、貧しく、避けられるべき何物かとしてだけではなく、視聴者であれキャラクターであれ(それらを含む)製作者であれ、我々の在りように迫るための「フレーム」として現れる。

 ここから次の問い、すなわち、そうした技術を前にした我々は果たして何者であるのか、我々はどこにいるのか、我々はどこまでが我々なのかという問いこそが、問いかけられるべきであると考える。
 私は、という心身問題に足を取られそうな主語は、ここでは外しておこう。これらの問いは、決して表皮によって限界を画され、脳によって外界を処理するというイメージによって回答を与えられるものではない。この問いは、人類としての「我々」が現在の技術的環境下において可能なことの限界を絶えず探索しつつも、同時に共同体としての「我々」の内にどれだけの行為の諸可能性を保全できるかというリスク受容の試みであり、さらには共同体のうちに自己の生を意味あるものとしようとする自由を闘争させる場を形成する倫理的な企てでもあるからだ。
 本号の表紙のみならず内容の中心をなすだろう『機動戦士ガンダム サンダーボルト』はその一例である。

 (A.クラークもJ.ギブソンも持ち出すまでもなく)我々はこれまでも、そして恐らくはこれからも、機械によって肉体の足場を拡張しつつ、機械を用いるように駆り立てられつつあるサイボーグである。電線を走る信号(発火-稲妻!!)やインプラントの有無に関わらず、機械(装置)なしには我々はない。この意味で、環境へと拡張された心という仮説は、それ自体としては受け入れやすい描像だ。
 すなわち、生物とテクノロジーの連合こそが我々の自然である。それゆえ、機械(装置)への懸念群を枚挙することで事足れりとはならない。問いかけられるべきは、機械(装置)といかに共存するかという我々の在りように他ならない。
 だから、外なる影響から自由であるという強い独立性を我々の条件として課すことはそもそも(フィクションでさえ)できない。反対に、影響を全面的に受け入れることも、我々の行為者性を消し去ってしまう。技術に依拠してしか我々の選択が生じない以上、我々が自由の領域を暫定的に確保するために、自分を決定づけつつあるものへと関与する能力が「自己への配慮」として求められることになるのは、その我々の自然の現在における現れである。

 しかし、何よりこの描像は畢竟アニメ向きであるようにも思える。アニメにおいてフレーム外の音も述懐も画面の構成要素をなすとともに、それが(例えば声優が声を自然に当てることができる、あるいは、運動を運動として処理することが可能である形で)秒数的に制限されているというのは、興味深い現象である。
 当然のように思われるだろうが、我々は彼のガンダムの「目にも留まらぬ」運動については(メタファーとして以外では)光の軌跡としてしか追尾することはできない。あるいはより物語に即して言えば、当該世界の戦争に終わりがないように、勝つべき時に勝つことは決してできず、負けるべき時に負けることもできない(いわば勝負はあっても勝敗はない。ただし歯切れが悪いことをお詫びすれば、殲滅を除いては。)イオ/ダリルの姿は、自らを物に限りなく近付けた道具(としての我々)と重ねられる。
 
 かつてバロウズは「私たちはここを去るためにここにいる」と述べた。勿論そこでいう「ここ」とは地球のことであっただろう。本号の関心に従えば「ここ」とは私の身体であり、我々の身体である。しかし、繰り返すようにそれは現在において偶然「こう」である肉体とは独立である。どこまで行っても身体は(拡張されることはありこそすれ)除去することはできない。
 冒頭で引用したように、身体が世界を絵に変えるのであり、そのように世界を別のものに振り向けるものこそ、我々の実存に他ならない。contingere という語が触覚(contact)と偶発(contingency)の双方に派生し、一触即発であること、偶然であることをも含意することを思い起こせば、我々の身体を考察するということは、キャラクターとフレームを考察することに近似するように思われる。


(2)「声の在り処」を積み上げる--生身の声優ではなく、虚構のキャラクターでもなく


 以上の思弁は、キャラクターにおける声の考察、声優という存在の考察にも、一つの問いを投げかける。

 キャラクターの声は少なくとも、①素材としての(主には)声優の息、声帯振動、共鳴腔、舌・唇・口腔が複合した音声(=共振周波数)、②当該音声が対応するキャラクターの音声(発生源)、③表現された演技、④(世界描写的意味と)世界内の意味とによって構成される。素朴にキャラクターの声と言われる時に想定されているのは概ね④であり、キャラソン等で求められるのは概ね③であり、声質として求められるのは概ね①であるだろう。
 さらに、①の素材はどの作品で、どのようなキャラで、どのような演技をしたかという来歴を背負っている。声優自身のキャラクターという意味での受容も、現在では一般化しているようだ。そのため、声の受容にあたっては、①から④までを自然か不自然かという観点から「聞き流す」最も素朴な聴取体験から、①の来歴に遡って物語の読み(勿論いい意味で裏切られる可能性もある)に反映させる聴取体験まで、幅広く存在するだろう。
 
 しかし、他方では、このような複層的構造を持つ声の解釈が縮減されてしまう恐れも垣間見える。これは、声優の履歴が容易に辿れるようになった環境要因にも一端があるし、声優が顔をもつアイドル化したことにも一端があるかもしれない。さらには、声優には(声優自身の自己プロデュースなるものがあるとすればまだマシなのだが)物語を壊さない形での自己のプロデュースという高度な技も求められているようにも観察されることにも、一端があるかもしれない。
 疑いようもなく声優は類い稀なる声を持つ。(全く関係はないはずなのだが)それゆえに、その声に求められる重さが生身の身体に過重されているとすれば、それは(偶さかに声を職業へと変え得たものに対する)悲劇であるだろう。

 勿論これは声優に限らず、ウェブが可視化した声の取り扱い方に重ねられる。むしろ、近時のネットを思い起こすなら、被害者然とした被害者ではない者、障害者然とした障害者ではない者、市民然とした市民ではない者への発言に場所を割り当てることは、ますます難しくなりつつあるように見受けられる。今般、声の取り扱いは単なる憑依問題を超え、誰に誰の代理として喋らせるべきかの闘争として現れているようにも。もちろんそれは、当事者から声を剥奪する(当事者を、聴き手にとって良いように語らせる)作為と表裏一体である。
 一つの例を示すならば、当事者に決定を委ねるという更なる暴力のことをあげればよい。科学的には安全な放射性物質の海への放出について、誰に決定権をゆだねれば良いかという問題である。被災者に委ねる場合、「Yes」という決定は、(単なる決定の意思表示を超えて)責任の自己帰属の表明として受け取られるリスクを創出するだろう。翻って、「No」という決定は、(単なる決定の意思表示を超えて)「地元民による反対(を押し切っての放出)」という物語を作出することへの寄与となる。決定権を委ねること自体が、非争点的な内容を孕んでしまう以上は、この選択に晒すことそのものが、被災者に対する暴力であることは否定できない。もちろん、被災者に決定させることそのものの利点を措いてなお、この点は避けようもないジレンマとして現れる。

 このように誰かのために、誰かに変わって声を発するということは不可避的にジレンマを作り出す。表現にまつわる課題として(ヘイトスピーチにせよ、ポルノグラフィにせよ)、声の解放を謳う場合には、「解放的ではない」声を拡散することも、声で表現することの亜種として認めねばならない。個人の尊厳といえば聞こえはよい。しかし、互いに自尊心を持ち、平等に互いを見上げ合う高い地位の普遍化を標榜する重みに、個人が耐えることは難しい。リスク社会化、専門分化とともに社会的・経済的格差が表面化する現在において、この「高い身分」の普遍化を貫徹することは容易ではない。
 「我々」一人一人は、その重みに耐えられないかもしれない。それでもなお、普遍化された「高い身分」を再度、「我々」の中での選択の中に馴致することは可能であるかもしれない。権利の内なる制約として高い身分に伴う義務があるように、行為者たりうるための自己形成過程には環境関与的な「我々」を担う自己像の構築が模索されるべきであるだろう。
 例えば、被造物における声の取り扱いのことを思い返せば良い。出生より10年の時を経た初音ミクのことだ。

 手短に一例だけ記せば、最も端的にこのことを示すのは、初音ミクの「声音」情報を用いた展示、「Ghost in the Cell:細胞の中の幽霊」である。ここで展示されているのは、表向きは単なる肉塊である。その実は、集合的かつ人為的に作出された初音ミク-DNA情報と心臓細胞である。
 ここでは倫理が二重に絡まっている。現実の人間の遺伝子編集でない以上は、通常の倫理的問題は回避しつつも、現実の人間以上に人間的なコミュニケーションの渦中にある初音ミクの情報を用いた遺伝子編集には、果たしてどのような意味があるのだろうか。さらに初音ミクには、原基として藤田咲から借り受けた声がある。画像としての身体があり、キャラクター性も十二分に備わっている。もはや足りないのは「身体」だけであると考えるならば、その時の身体とはどのような位置を持つのだろうか。

 身体と声というテーマは、この緊張関係を分有している。身体と声とを同時に取り扱うことはこの意味で必然のように思われる。
 

(3)発刊趣旨

 以上、本号vol.7.0「声と身体/ 松尾衡×機動戦士ガンダム サンダーボルト」で取り扱うのも、vol.3.0の「音/人工物」論、vol.5.0の「技術」論に引き続き、技術(道具)と身体が絡み合う場と時間に関する問いである。
 そして、これは勿論、vol.2.0の「SF」、vol.4.0「身体」論、vol.6.0「物語」論に続く問いでもある。
 
 冒頭に記したようにある哲学者は、画家の精神が絵を描くのではなく、「画家[芸術家]はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」と述べていた。声優がサンプリングされた声を貸し与えることによって、世界を歌に変えるように。
 しかし、もしこの言葉が画家やPという主体をイメージさせ、その主体に拘束されるなら、それは誤解であり杞憂であるだろう。既に20世紀半ば、写真技術は即物的に写実を為したのであり、そこでは目が手の代わりを果たした(これがベンヤミンのいう「芸術上の責務を課された手の消失」である)。だから、冒頭の哲学者の言は、身体を世界に貸し与える者は誰しも世界を絵に(歌に)変えうる、と解釈されるべきである。

 アニメに通じたこの文章の読者諸氏ならば多かれ少なかれ、自分が(あるいは別の視聴者が)原画の癖を見抜いたり、ミリ秒単位の作画を分析し、その巧拙を評価することもあるだろうし、そこから物語を読み取り、再解釈し、さらに整合的な形で付け加えることもあるだろう。あるいは、刹那の語り出しを聞いた瞬間に、声優の声とその主演記録を思い起こすかもしれない。そのどれもが、我々の身体を通して得られた、我々の世界の絵描きである。そうであるがゆえに、その絵を重ね合せる場所こそが、模索されるべきではないか。そう編者は考えている。
 

 

以上

 

 

 

4、今後に向けて

 

ガールズ&パンツァー 最終章

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