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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

J.Derrida『パッション』『名を救う=名を除いて』『コーラ』付属ペーパー: デリダによる「読者への栞」

デリダ「読者への栞」をざっくりと訳してみる。

(※節番号は訳出に際して付したもの)

 

 

1. 『パッション』『名を救う』『コーラ』

 これら3つのエッセイはそれぞれに独立なものとして書かれたし、実際そう読まれうる。それにもかかわらず、この三書が同時に出版されるのが望ましいと思われたのだとすれば、その理由は、その三書が同一の起源に拠っているということではなく、三書の間には共通した主題の命脈がかよっていることに求められるであろう。
 三書は、名についてのエッセイという形式を採っている。三つの章によって、また三つのステップによって。更には、それぞれが三つのフィクションを提示することにおいて。
 三書の「登場人物(配役)」が、沈黙のうちに、別の書へと合図を送り、もう一方が、名についての問いの反響を聴き取る。その問いの反響が聴き取られるのは、その応答の前か後かは問わず、約束の、要求の、また呼びかけの縁において、その問いが口ごもる場所においてなのである。


2. 名:

 一体、何がこのように呼ばれるのか? 名という名において、一体なにが了解されているのか? そして、一つの名が与えられるとき、そこでは一体何が起こっているのか? そして、そのとき人が与えているものとは、一体何だろうか?
 人は、一つのものを送るのではない。人は実際にはなにものをも引渡しはしない。しかし、そこにおいて、何事かが生起する。何ごとかが、人が現に保有していないものを与えにやってくる。かつてプロティノスが「善」について述べたように。
 結局、綽名で呼ぶことが必要とされる時には、何が起こっているのか? 端的に言えば、名が欠けていることが明るみに出る場所において、再び名付けねばならないとき、一体そこでは何が起こっているのか?
 一体、何が固有の名を、綽名の一種へと変えてしまうのか? 何が固有の名を、筆名(偽名=ペンネーム)に、また匿名(秘密の名)に、変えてしまうのか? 何が固有の名を、 どうしたってその瞬間においては特異であり、翻訳不可能なままに留まるものものに、変えてしまうというのか?


3.『パッション』

 この書は、ある絶対的な秘密について、述べたものだ。すなわち、その瞬間においては本質的であり、人がその名詞/名としての秘密という語によって一般的に言おうとしているものとは異邦的なままに留まる秘密について、述べている。
 その本質であり異邦の地へと至るためには、多かれ少なかれ「これは私の身体である」という言い回しを、虚構的な形で復誦する必要がある。
 そして、礼儀正しいとはどのようなことかについて熟慮する際に陥るパラドクスを、慎重に吟味する必要がある。
その上で、上述した過程を経た上で(もし義務というものがあるのならば)計算不可能な負債が突発する経験にその義務を載せることが、必要なのではないだろうか?[※訳者注: 最後の文はコピーをとったときにぶれて読み取り不能なので後ほど再検討を要する]

 計算不能な負債とは、義務が存在しないところにこそ、そうする義務が欠けたところでなさねばならないこと、そうする必要がないところで為さねばならないところにこそ、存するのではないだろうか? カントの言うところの「義務に発して」ではないような形、すなわち「義務に準じる仕方で」行為するのではないような仕方で、なさねばならないなかに、存するのではないだろうか?

 こうした場合の、倫理的または政治的な帰結とは、果たしてどのようなものになりうるだろうか?「義務」という名の下に、何が了解されるべきことになるだろうか? そして、このような義務を、責任という概念の中に運び入れ、そして責任という概念から運び出すことができるのは、一体どのようなものということになるだろうか?

 

4.『名を救う=名を除いて』
 ここでの問題は、挨拶であり、救済である。
 ある夏の日、二人の(架空の)対話者が、虚構的な物語についての会話を交わす。それは、何が名の周りを巡っているのかについての会話であり、とりわけ神という名、名についての名の周りを巡っているものについての会話である。
 それは、否定神学と呼ばれる考えにおいて、名というものがどうなってしまうのかについての会話である。
否定神学においては、綽名は名付けえないものとして名指される。そこでは、名付けること、定義すること、知ることが、不可能でありかつすべきでもないもの、とされるのだ。なぜなら、そもそも綽名を付されたものというのは、そこに留まることができずに、存在の彼方へと滑り落ちてしまうためだ。
 「否定神学」が(この日または明日来たるべき)「政治」の上へと開かれるように思われる場所において、「否定神学」という虚構的な物語は、「(シレジウスの云う)ケルビムのごとき旅人」たる痕跡や名残を引き継ぐ、遺産相続人としての歩みを敢行する。
 綽名とは、一体何なのだろうか? 名それ自体よりも多くの価値がある名、名の場所をとって代わる(名の場所を占めにやってくる)名としての綽名とは、一体何なのだろうか?
 そのような綽名は、かつて一度たりとも、名の救済として置かれることになった綽名として、最終的には「耐えうるもの」として、練り上げられたことはあっただろうか? つまり、簡単にいえば挨拶として、簡単にいえば「こんにちは」や「さらば」といった挨拶として、練り上げられたことはあっただろうか?

 

5.『コーラ』
(※under construction)

 

付.
 三書を隔てているものの一切にも関わらず、『パッション』『名を救う=名を除いて』『コーラ』の3書は互いに呼応しており、一つの地形の輪郭をなすことによって、互いが互いを照らし出しているようにみえる。
 三書のタイトルが揺れ動く、その構文上の布置において、読者は「あたえられた名についてのエッセイ」を読み取ることができるかもしれない。言い換えれば、無名や換喩、古名や匿名(秘密の名)、筆名が与えられるときに、一体何が起こるのかを、読み取ることができるかもしれない。それゆえ、名が受け取られるときに一体何がおこるのか、義務を負った名に一体何がおこるのかをも。
 言い換えれば、人が名に負っているもの、名という名に負っているもの、それゆえ、綽名に、義務(=与え、受け取るもの)の名に負っているものと同様に、犠牲に供さなくてはならず、与えなくてはならないものとは、一体何なのかを、読み取ることができるかもしれない。