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"Cambridge Companion to Utilitarianism" sec.7. ルール功利主義 Rule utilitarianism(Dale E. Miller)

"Cambridge Companion to Utilitarianism" sec.7. ルール功利主義 Rule utilitarianism(Dale E. Miller)

 

【見出し】

 第1節 ルール功利主義とは何か?
 第2節 集合的な理想的コードによるルール功利主義
 第3節 その他のルール功利主義
 第4節 ルール功利主義の魅力
 第5節 ルール功利主義への反論

 

【各節ごとの要約】

 

第1節 ルール功利主義とは何か?

 

(1) ルール功利主義:行為功利主義の代替案として提示されるもの

・ルール功利主義とは?
 「個々の行為が正しかったりそうではなかったりするのは、効用を目的とした防御、正当化、帰結を導く一群のルールを参照することによって決定される(必要がある)、と考える功利主義の理論」David Lyon, "In Forms and Limits of Utilitarianism"
 (内容i) 行為の道徳的地位は「権威ある authoritative 」道徳規則 moral code または道徳的ルールの集合によって決せられる。「権威ある」道徳規則に基づいて禁止される行為は正しくなく、道徳規則の集合によって必要とされる行為は義務的なものとなる、などなど。
 (内容ii) 功利的な基準を満たすことは「権威ある」道徳規則に必要な条件である。

 

(2) ルールの役割についての比較

・行為功利主義にとっての「ルール」とは?
 「ルール」は、(注:個別の事例の後に来る)「要約」や「経験則」を含む「判定手続き decision procedure 」としての役割をもつ。これらのルールを参照して道徳的評価をなすものではない。功利最大化を害する限り、そのルールは(いかに正しい判定手続きに従ってなされたとしても)道徳的に正しくない。
・ルール功利主義にとっての「ルール」とは?
 「ルール」は、それが権威ある道徳規則であるかぎり、単なる判定手続きや発見手続きではなく、道徳的か否かを評価する「基準」となる。

 

(3) 「ルール功利主義」という用語の来歴

・始まりはR.Brantd(Smartが「限定的功利主義」と呼んだもの)
 他の用語法に寄れば、「間接的功利主義」。しかしこの語法は曖昧。
  
(4-5) ルール功利主義的発想の歴史

・(1900年代半ばに)名付けられる前の「ルール功利主義」的な発想
 バークリ:「神学的」ルール功利主義
 バークリによれば、神は人間の幸福を意志する義務をのだから、その目的にしたがって幸福の促進を為さねばならない存在である。そうして看取された定められたルールと道徳的教説は、人間の総和の幸福を必然的に最大化するものとなる。
 神がそうするようにと命じた事柄というのは、人間の幸福を高めるとされるそれらのルールに従うことだと、バークリはいう。

(以下、第5段落)

・通常「ルール功利主義」とは見られない論者たちにも、この発想はみられる。
 Mill:(後述)
 Kant
 「我々がある仕方で行為し、他の全ての人もまたそのように行為する場合には、幸福は最大限実現されることになる。我々はそのように行為することで、幸福というにふさわいしい存在になるのである」

 

(6) ルール帰結主義 rule consequentialism との関係

・1990年代以降は、ルール功利主義の議論は(より広い)ルール帰結主義の議論へと転回
 Brad Hooker:非功利主義的なルール帰結主義
  幸福に加え、徳 virtue と平等 equality にも固有の価値を割り当てる見解
  (注:筆者(Miller)はHookerの議論をルール功利主義適合的に解釈し直せるのではないかと考えている、とのこと)
 Derek Parfit:Parfit版ルール帰結主義
  ※ここでは名前が挙げられただけ

 

(7) 功利主義に対するRawlsの定説に対する批判

・John Rawlsの「正義の二概念」論文
 要約的ルール観と実践的ルール観の区別をなし、後者を重視すべきだとする見解
 ① 要約的見方:合理的な行為の集積
 ② 実践的見方:実践を明確にし、作り出すもの

・この定式から外れた、区別をこえたものが重要ではないか?
 (ex.) ③不運な者への所得再配分の例:これは(ii)ではないが、(i)でもない
 ルール功利主義者のいう「権威ある」道徳規則を作り出すルールは、要約的ルールに留まるものではない。しかし、かといって実践的ルールに留まるものでもない。
・このようにこの二つを越えたもの(注:混合的なケースに留まらないもの?)がある。
 それがルール功利主義者のいうルール③である。

 

(8) 予備的注意

 ルール功利主義多様性
 

 

第2節 集合的な理想的コードによるルール功利主義

 

(9) 現代のルール功利主義における主流:要素α「集合的」、要素β「理想的規則」

・基本的なアイデア
 (内容i) 同じ道徳規則が一定の規模の集団メンバー全員に権威あるものとして認められていることを前提として、
 (内容ii) その規則が「一般的に公認 general adoption される」ことで効用最大化(即ち、当該集団における「一般的公認による効用」が他の規則よりも大きいこと)に繋がる
 →「集合的な理想的規則によるルール功利主義」collective ideal-code rule utilitarianism
 (※以下、レジュメにおいては便宜的に「CIC」と略記することもあり)

・【CICの要素α】「集合的」collective とはなにか?
  同じ道徳規則が集団内の全メンバーに権威あるものとして認められていること

・【CICの要素β】「理想的規則」ideal-code とはなにか?
  現実に広く公認 adopt されているかは問わず(注:トイウ意味で「ideal」に)、
  権威ある道徳規則が(一般的公認 general adoption によって)効用最大化に通じるとされていること

 

(10-11) 現代のルール功利主義における主流:要素γ「公認」

・【CICの要素γ】一般的「公認」general adoption とはなにか?
  一つの見解:ルールに対して完全に従う comply perfectly こと

・このように考え、ルール功利主義を否定的に捉える論者
 ①Smart:行為功利主義
  「ルール功利主義は外延的に行為功利主義の原則に一致するばかりではなく、実際にはただ一つの行為功利主義の原則によって構成されている」
 ②Brandt:ルール功利主義
  一つに定まるわけではないにせよ、「ルールは多すぎて、結局行為功利主義と同じくらい煩雑な規定群になる」
 ∵ あらゆる状況に応じた具体的なルール、状況に応じてきっちりと区切られたルールが必要となるから。
  そのセットを得たときに、ようやく一般的な遵守は功利最大化を果たすことができる。

(以下、第11段落)

・更に別の見解
 ③LyonによるBrandtへの反対
  ルール功利主義は行為功利主義と外延的に一致しない
 別の解釈の提案

・【CICの要素γ 再論】一般的「公認」general adoption とはなにか?
  ルールを受け入れたり accepting 、内面化する internalizing こと:
   ここでの内面化とは?
    ある種のルールに従う obey 心理的傾向 psychological disposition をもつこと
    将来を見越して良心の呵責に苛まれる傾向を持つこと

・Brandtのみならず、Hookerも(またもともとのミルなども)おそらくはこの言い方を好んだはず。ある箇所でBrandtが言っていることによれば、道徳的規則を公認するとは、次のことを指す。
 ①ルールに従う固有の動機付けを得ることであり、規則を侵害した場合に罪 guilt の意識を抱え、他の人がそうしたなら非難を加える disapprove こと、
 ②また、規則が従って行為するのは重要だと信じ、規則に従う動機付けを持った他人を尊重し、「道徳的になすべし」という規則に関連した特殊な語法を用い、そしてこれらの動機や罪の感情、賞賛や尊重と言ったものが正当化できることを信じていること

 

(12-13) 「一般的公認」の基礎に単に内面化を置くだけでは足りないこと

・内面化の罠①
 どう考えても天文学的な数の規範(例外則が複雑化した規範も同様)を内面化することはできない
 →ここから、単一の「効用最大化」ルール(注:行為功利主義の規範に外延的に一致するもの)を引き受けたとしても、現実に効用最大化に繋がるとはいえないことが帰結する
 →自分たちの行為が功利最大化に繋がるかを殆ど知ることができないため、効用最大化をしそこないつづける
・内面化の罠②
 加えて、どの行為が最善の世界を生むのかがわからないために、人は容易に自己利益の最大化へと駆り立てられてしまう
 →何が最善なのかについての懐疑論に行き着く
・内面化の罠③
 更には、(ルールを内面化したとする)他人が、どのように行動するかは予期不能なものとなる。それは社会的協同 cooperation を損なうだろうことを帰結する
・内面化の罠④
 他者に対してルールを内面化するように促す「教育コスト」を支払うことになる

(以下、第13段落)

・前節の帰結から「内面化」が要求するもの
 具体的な行動指針の複雑化・高度化
 (一つの)効用最大化というルールでは足りない 
 我々が従うことができる一定の限度・レベルを把握する必要がある
 ※理想的規則によるルール功利主義は行為功利主義に陥る訳ではない

 

(14-16) 現代のルール功利主義における主流:要素δ「一般的」公認

・「一般的公認 general adoption 」の「一般的」とはなにか?

・【要素δ-1】公認する集団の範囲はどこまで(空間的に、時間的に)広がるか?
  HookerやParfit:広く全人類・時間的幅をもつ全体を考える
  Brand:所与の集団、特定の時機(注:例えば現在)の集団を考える
  Mill:これらとはまた別の考えをしている(注:検討されず)
 
(以下、第15段落)

・【要素δ-2】公認が「一般的公認」に至るためには、果たして何%の人口の公認が必要か?
  Parfit案:人口の100%を要求
  Brandt案:不確かなままとする
  現実主義:100%は無理だが、数を決めるのは困難

・Miller案の理由代替案
 上述のように「公認」について内面化の契機を強調したことからすれば、最初から教育コストには、将来世代に対して教え込むコストが織り込まれていたはず
 内面化前の人にとっては「余計な superflous 」ルールが教え込まれることは織り込み済み
 規則は内面化をなす全ての(注:100%の)人の効用を最大化することはないことは前提とされてよい
 
(以下、第16段落)

・【要素δ-2 再論】
  Miller案:多くの人(BrandtやHookerは概ね90%)という基準

・90%基準の理由
 現実には90%に充たない公認で規則が出来ることもあるし、実際に、それが効用最大化を為すことも多いかもしれない。
 しかし、もしルールを拒絶するマイノリティ集団に対しても権威ある規則がルールを適用しようとするなら、そのルールが、公認をした(だから反対意見には根拠がない)マイノリティであるのかどうかを決定するルールなのかどうかが問われる(従ってそれを考慮する必要がある)ことになる。
 また、90%の人の効用を最大化するルールの場合には、そこからはじかれる残りの10%にはどのような対処をすればよいか、という問いを検討するように促される。
 それゆえ、別のコードなら公認してくれるだろうか?また彼らはニヒリストに過ぎないのか?といった問いに応えることが要求される。
 マイノリティの包摂していくにあたっては、以上のような問いを問うことは適切なはず。

 


第3節 その他のルール功利主義

 

(17) version①:「集合的な現実的コードに基づく」ルール功利主義

・「理想的」ではなく「現実的」とは?
 規則が置かれた当該社会の慣習的道徳 conventional morality との関連を保持すること
 勿論、単に慣習であるというのではなく、それが効用最大化に繋がることは必須

・Richard Millerの「現実的」の定式化
 ①当該社会における正統 legitimate な倫理的ルールによって禁じられる場合に、道徳的に正しくないものとなる
 ②正統な倫理的ルールと言えるのは、それがデファクトルールとして通用している場合に限る
 ③その正統な倫理的ルールは、壊滅的な悪い結果を避ける場合には無視してよいものでなければならない
 ④その正統な倫理的ルールにより影響を受ける人の幸福を増進させるものでなければならない

・このような主張の根拠
 効用最大化という(注:あいまいな?)ものよりも「十分性 satisfying 」を重視する重視したことが根拠となる
 Miller「幸福を増進するルールは理想的なものに留まる必要はない。それは他の代替案よりも生を豊かにするものであればどんなものでもよい」
 (注:要するに理想化された効用概念に留まる限り、そこから大した帰結は導きだせないということだろうか?)

 

(18) version②:「個別的な理想的コードに基づく」ルール功利主義

・「集合的」ではなく「個別的」とは?
 権威ある道徳的規則が、その人のみならず他のメンバーに対しても権威を持たねばならない、という前提を不要とする。
 権威ある規則は、功利主義的観点から「その人」にとって公認できればそれで足る。

・D. H. Hodgsonの見解
 少なくとも行為功利主義の「個人ルール」に従うよりは、望ましい帰結が導かれるはず。
 なぜなら、個別的なルール功利主義ならば、その理論を受け入れる限りではそのルールに従うことが公認されるので、結果的に社会の慣習的道徳のルールに近似することがありうるからだ。一方、行為功利主義のいう個人ルールでは、全てが個人の計算に還元されるので、こういう近似はありえないだろう、と結論付ける。
・Hareとの関係
 ただ結局こういう要素はHareが行為功利主義でも取り込んでいけるとしているので、Hodgsonの主張は彼の経験則に基づくものといえるかも。

 

(19) version③:「素朴な規則功利主義

・現在、そのまま主張する人はいない。
 「ある行為が正しくなるのは、行為がルールの集合と一致する場合であり、そのルールに従うことが問題となるケースにおいて効用を最大化する場合に限られる」
・Lyonはこれを「功利主義の一般定式」と考えている。
・素朴な規則功利主義には、どのくらいのルールが含まれるかとか、どのぐらい具体的に例外則が盛り込まれるべきか、といった考慮が欠けている。このために、行為功利主義から、結局個別の状況、個別の行為、個別の行為者ごとに異なる道徳的立場があるだろうという反論を招いてしまうが、まぁこれに応えられるぐらいに洗練させていければよいことがわかる(注:という理論的意味はあるだろう)。

 


第4節 ルール功利主義の魅力

 

(20) 導入
  

(21-22) 魅力1、効用最大化をなす結果において行為功利主義よりもすぐれている

・John Harsaniの正当化手法
 「行為功利主義を採るいずれの社会よりも高いレベルの社会的効用を得ることができる」
 ①incentive:嘘をつくことが許されるような社会では人々の長期的な期待が保てなくなる
 ②procedural utility::手続き的効用が無視されてしまう
 ③coodonation effect:もし社会が行為功利主義者のみによって構成されていたら、彼らは集団的な行為によって得られる利益を生む機会を逸してしまう

・ex.) 投票行動
 社会的に有用な政策と投票行動の例。自分が足を運んだときに同政策が成立する場合にのみ投票にいくと考える。そして皆がそう考えることにより、投票が成立しなくなる。
 これと反対に、最もよい状態を実現しようとするルールは、全ての人を投票するように方向付ける。
 (Harsaniがルール功利主義が正しく構築できることを説明しようしているのに対して、Brandtが(構築済みのルール功利主義について、その)道徳規則の中身を論じているという違いはあるが、二人の主張はよく似ている)
 
(以下、第22段落)

・魅力1に対する留保
 Harsaniは行為功利主義を低く見積もりすぎている(Hodgsonと同様に)
 全員が行為功利主義の社会など馬鹿げた社会像。
 せめてHareが提示した洗練された行為功利主義の社会くらいを相手にしてほしい。
 実際、こういう議論が許されてしまうなら、ルール功利主義者の側だって、およそ現実の人間像とは乖離した「理想的規則」を全員が受け入れた社会などありえない、という批判を甘受しなくてはならないはず。

 

(23) 魅力2、我々が現に生きている「道徳的な直観」「熟慮された道徳的判断」に近い

・Harsaniの「常識」論
 行為功利主義は、個人が権利を持っていたり、良心が子供を保護する特別の義務を負っているという常識と齟齬をきたす、というもの
・Hookerの「反照的均衡」論
 大した利得もない場合における約束反故の事例や、自己犠牲の強要事例 

 

(24-25) 魅力3、人間本性としての「良心」

・Mill由来の議論:人間本性としての「良心」
 ①人はすでに理想的良心(非難語とか)と言えるようなものをもってしまっている
 ②経験的にみても、心理的な強制装置が埋め込まれた状態は達成されている
 ③規範的にみて、良心という観念は功利主義的には効用最大化に言い換え可能である
・現実に観察してみて、現実社会のメンバーが、いくつもの同一の道徳規則を(多かれ少なかれ)内面化しているという事実からは、権威ある道徳規則が現実の人間に付与されていることを前提にしてよい。
 
(以下、第25段落)

・Brandt「良心の功利主義 conscience utilitarianism」
 「道徳的にいって正しくない」とは、次のような道徳規則によって禁じられたものを指す。即ち、そこでいう道徳規則とは、
 ①もし人生をそこで過ごすとした場合において、
 ②十分に合理的な人間ならば、
 ③社会の行為者に対して、そうしたいと思ってしまったりまたはそうはすまいと思ってしまうだろうような、
 道徳規則である。
・Brandtの道徳理論の選択とは、社会的な道徳規則の選択に還元できる。要するに、個々の自己利益とか共感可能性とかを越えたパブリックな選択をなすように迫る。
・とはいえ、やはりHareのような修正行為功利主義の主張と殆ど変わらないだろう。

 

(26-28) 四つ目:カント理論と帰結主義の接続

・Parfit「三重理論」
 ①カント主義とルール帰結主義を接続した上で、②そのカント型契約論と、③スキャンロン型契約論を総合する理論。
 ①カント主義と帰結主義の接続においては、「誰もが分別を持って選び、そして意志するだろう普遍的に受け入れ可能な原理には、誰もが従わねばならない。普遍的な受け入れ可能性は、結果的最善を導くようなものである」とされる。
 結果的には便益の総和から負担の総和を差し引いて与えられる利益が最も大きい場合に正しいなものとされる。

 ※注:より厳密には、ある行為が不正となるのは、その行為が、次の原理によって否認される場合だけである、即ち「オプティミフィックであり、比類なく普遍的に意志され、かつ分別を持って拒絶することが出来ないような原理、によって否認される場合だけである、とされるよう。 
 

 

第5節 ルール功利主義への反論

 

(29) 導入

(30) 反論1、滑り落ち論 collapse

・行為功利主義へと不可避的に移行してしまう、という既に見た反論
 これは「内面化」という面を重視する本稿にしたがえば回避できている

 

(31-32) 反論2:はりぼて論 Rubber Duck

功利主義帰結主義を前提としている。しかし、帰結主義は定義上「行為者独立 agent-neutral」でなければならないはずにもかかわらず、ルール帰結主義(含む:ルール功利主義)は「行為者中心的 agent-centered」な理論になっている。
 つまり、功利主義帰結主義)の名に反しており、義務論にむしろ近いのではないか、という反論
・もしそうだとすると「福利最大化の義務論」とでもいいかえられるかもしれない、とHoward Snyder は述べる。

(以下、第32段落)

 Hookerは、Howard-Sydneyが不当に帰結主義の定義を歪めているのだろ主張するが、もはやここまで来るとネーミングの争いに過ぎない。
 本稿では別にネーミングはどうでもいいと考えている。

 

(33-35) 反論3、非一貫性 incoherency 

・ルール功利主義に潜む前提を暴くもの。最も重視すべき反論。内容は以下のとおり。
 ルール功利主義が前提としている権威ある道徳的規則は、それが一般に受け入れられることで効用を最大化するという信念に基づいている。しかし、この理由づけは、ルール功利主義が効用最大化が何よりも優先されるべき価値であるという観念にすでにコミットしていることにほかならない。
 しかし、効用最大化が本当に何よりも優先されるべき価値であるとすると、結局、コードを守ることよりも高い効用が得られる場合においてはいつでも、コードを侵害するほうが望ましいことになってしまうだろう。
 よってルール功利主義の内容は、ルール功利主義的に正しくなる別の議論との間に齟齬を来してしまう。

 

(以下、第34段落)

・Smartによる言い換え
 「行為功利主義によれば、道徳的なルールは経験則に過ぎないにもかかわらず、望ましくない経験則として機能してしまっている。」
 「しかし、もし我々が本当にルールを破るべきだという結論にいたったならば、そしてもし我々が自身の誤りやすさと責任を追っていることとの間のバランスを採らねばならないとしたら、どのようなルールを守る理由が残るだろうか?」
 「私の答えは「世界を最善に近づけること」というものこそ、行為のよき理由となると思う。」
 「しかし、そうだとすれば、「世界を通常は最善に近づける行為の集合に属するもの」や「一般的な集合よりはより世界を最善に近づける集合に属するような行為の集合に属するもの」はなぜよき理由とはならないのか?あなたは何度もこの続きを考えることができる。」

 

(以下、第35段落)

・上記ルール功利主義批判の要約
 ルール功利主義は(この反論をかわそうとするなら)そのルールが最初に推奨されたのと同じ考慮をしたならばそれを破ることを肯定しただろうときでも、ルールの集合を遵守するべきであると主張するだろう。これにたいして、反対派が「ルール崇拝 rule worship 」と呼んで反対するのには理由がある。
 これは強力な反論である。しかし、ルール功利主義の理論のすべてが、上述の前提を持っている訳ではない。いずれの議論も「よさを最大化することにコミットすることヘの橋渡し」と呼んでいるものに前提を置いている訳ではない。