書肆短評

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『Air』視聴雑感:きおく〜 a-mnesia 〜

1、雑感

TV版『Air』、終わりの4話を中心に見返してた。ストーリーの展開(とたたみ方)はご都合主義と云ってしまえばご都合主義に見えるかもしれない。けれど、視線の無能力と無責任さを常に視聴者に対して痛々しく可視化させてくれるという点では、やはり珠玉の作品だと思った。

(以下、ざっと思った事をメモ書きしておく。今回は、以前、東浩紀のAir論を読んでいたので、それに引きずられた感が有る…)(物語の要約は省く。)

 

 

2、構造

①物語上、往人は1周目は人間として、2周目はカラスとして物語を移動する(視聴者もまたその視線を推移する)。二周目の往人=カラスは、一周目の往人と同一人物でありつつ記憶喪失者(amnesia)であり、同時存在のドッペルゲンガーでもある。

 つまり、カラスになった往人は、もはや1周目の往人の記憶を保持していない。そのため、二回、同じ歴史を生きているはずなのに、往人=カラスは、視聴者からすれば、もどかしい対応しか観鈴にとってあげることができない。そして、二周目の往人=カラスが生きた歴史は、同一の日時において2度繰り返された歴史である。この帰結として、往人がカラスに”なる”とともに、往人は(往人の魂が抜けた状態でゾンビ的に)かつてと同じ動作を繰り返す存在として同時に”存在する”ことになる。

②このため、往人がカラスになった段階で、カラスは(まさに永井均的な)<私>の形で、ゾンビ的な往人を外から眺めることになる。しかし、記憶喪失故に、自己がかつて往人(自己であり他人)であったことさえも忘れてしまう。そのため、カラスは(所謂ドッペルゲンガーものと異なり)物語に介入しようとしない。自我の主張さえしない白痴として、往人=カラスは存在する。その白痴の不能性が、より一層、視聴者に無力感を誘うだろう。

③そして、往人のドッペルゲンガーたるカラスが(元々神奈のために引き延ばされ、繰り返される)歴史を「観鈴において」、二つ、別の形に用意する事が出来ている(一度目では恐竜のぬいぐるみを観鈴に届ける事はできない、二度目ではぬいぐるみを観鈴に届ける事ができる)。

それは観鈴の命を救う事にはならないのだが、観鈴の疑似家族的関係性を豊かにする役割は担っている。

(勿論、ご都合主義なのは、観鈴は死んでもなお神奈を巡る歴史はどうせ継続してしまうからである。観鈴は何度美しく死のうとも、末尾の女の子のように、再度の記憶継承者が発生、継続してしまうだろう)

④このことは、往人=カラスが一つの「現実」、一つの「歴史」、一つの「救済」を選びとるたびごとに、往人=カラスが、その「現実」「歴史」「救済」がすててきた別の「現実」「歴史」「救済」の可能性に取り憑かれていることを、視聴者に可視化してくれる。そして、その可能性を忘却しないようにと強迫するものでもある。

 

 

3、『Air』読解

(1)

このように、往人=カラスは、”既に”一度この夏の時間の経験を持ちつつ、”もはや”記憶を半ば忘却しつつ同経験を追体験しつつ有る、二重の時間的存在だ。そうであるために、この「既に/もはや」という二つの時間を同時にもっている彼の経験を、一つの「現実」「歴史」「救済」の記述でもって替えることはできない。往人=カラスは、一つの解によって満足する事が出来ない、そういう存在だ。

ここから、記憶のぶれと経験の二重化を生きる往人=カラスを見続けている視聴者は、『Air』において、往人が生きた「現実」「歴史」「救済」を、もはや単純に、往人が”現実において選んだ(選べなかった)/選ぶべきだった(べきではなかった)「現実」「歴史」「救済」”…等々と評価し、主張する事が、許されなくなる。『Air』に内在する要請からすれば、この選択をなすことが、実存的-倫理的に(※注:道徳的にという意味ではない。)許されなくなるようにおもわれるのだ。

 

往人において、生は、単一の「現実」「歴史」「救済」に還元される事なく生きられる。それは、現実と虚構、歴史と仮構、救済と悲劇が入り交じった、複層的な「現実」「歴史」「救済」を生きることでさえ、ない。そうではなく、往人=カラスが(単一の「現実」「歴史」「救済」に加えて)複層的な「現実」「歴史」「救済」さえも超え出る深い無力感=絶望に突き落とされることを、視聴者としては(少なくとも二度は)目の当たりにしなければならない。ここから、視聴者は、一旦は生きられた(と勘違いした)「現実」「歴史」「救済」に対する絶望とそれらへの捉え直し行為を反覆することこそ、『Air』視聴体験によって要求されているものと思われる。

 

(2)

さて、このような要求の後に、視聴者は、実践的には何をなせばよいというのか。

主張のレベルで云えば、あいかわらず、視聴者は、「現実」に価値の力点をおいても構わないし、「虚構」に価値の力点をおいても構わない、そのあわいの「混合物」に価値の力点をおいても構わないだろう。しかし、いずれかの力点に価値をおいたとしても、あるいは、いずれかの力点こそが「正しい/誤り」と(短絡して)評価し争ったとしても、そこにはなんの利益も生じさせない。先の「主張のレベルで云えば」という限定は、このことを意味している。

即ち、いずれの力点を選んだと仮定してもなお、戦略上の力点の置き方の差異のみが、そこには残存する。この結果、選択という決断そのもの、あるいは、決断した結果に対する価値評価は、端的に無益なものとなる。いずれの決断をしようとも、そこに留まらない残余が忘却されつつ、しかし、そこに残存している事には、半ば強迫的に気づかされるためだ。

ここから先は、ただ、力点相互を協同させることのみが、プラグマティックに重要となるだろう。選択/不選択の総和・重ね方・協同の方法に対する価値評価は、その限りにおいて、まだ有益となりうるだろう。

 

 

4、『Air』読解による示唆

ここまでのように、往人=カラスの立場が、(物語内在的な、単に虚構的-想像的な仕方でではなく)物語の外部に留め置かれる者として描かれる事で、視聴者と往人の立場は相同的となる。

(1)

まず、視聴者もまた往人と自分を重ねる事で、一つ「現実」を選ぶとともに、そうではなかった「現実」との二重の現実を生きている。視聴者もまた、虚構的な現実、現実という虚構を同時に生きつつ、かつ、それを短絡させつつ、個別に除去することくらいしかできない。

このことは、(接頭辞a-の両義性とともに、失われゆく記憶(amnesia)とともに再度記憶へと向かう状態を保持する(a-)ために、)視聴者に対して、ただ一つのさだまった現実、歴史、救済へと触れることができない絶望の上を、忘却を受け入れつつ、不確かな記憶を積む事で生きなければならない強迫を、与えるだろう。

往人であろうと視聴者たる我々であろうとも、このことは構造的には代わらない。

※なお、この振る舞いをこそ、忘却に抗がう、のよりましな意味として捉えかえすべきだろうと思う。忘却に対する好意的/批判的態度は(忘却してはならない、や、忘却が悪ではないという態度…)いずれも、忘却に抗ってはいない。いずれも、その彼岸の手前で無駄に抗争しているようにみえる)

(2)

更に、『Air』は、視聴者を立ち往生させるためというよりは、なお不可能に向き合うための繰り返しを与えるための装置として機能する。『Air』を内在的に視聴し、内在的にその限界を明らかにする事、それにより、視聴者は、現実には「救済」しきれない自己の立場を、往人とカラスの視点から二度看取し、そして二度挫折する。往人にはなしえなかったその二度の記憶を保持したままの挫折の上で、視聴者は非-救済の経験をもつことが、『Air』の忘却構造からすればたまさかに実現しているとさえいえるのだ。

つまり、責任の取り”きれ”なさの経験を『Air』視聴後の視聴者は担わされる。『Air』は実存的な重荷を不可避的に課す。『Air』の後味の悪さとして残る神尾春子の救済の欺瞞性は、その重荷を忘却してしまわないようにと、たえず訴えかけてくるようでもある。

※『Air』の後味の悪さは、その救済がストーリー上、神尾春子のモノローグによって欺瞞的にしか達成されていないことに由来するだろう(勿論、カラスが飛び立つ事へ積極的な意味を見いだす事はできるだろうが…)。しかし、その欺瞞が残る事によって、むしろ、救済の意味は、先述した忘却に類比的に、救済しきれない残余を忘却してしまう物的過程を受け入れつつ、その不確かな救済を積み上げる過程を複層化し、かつ、その運動を加速させる事にある、といえるだろう。その(視聴者の主義主張や感情によらない)不可能性の経験は、不可避的に、救済の意味の再構築に寄与する。

 

5、補

(1) 末尾の場面

そういえば、末尾の場面は、もうすこし考えてみたかった。末尾、二人の子どもへと歴史が継承される場面は、神奈を巡る意志が、往人と観鈴を越えてなお引き起こされる、継承された悲劇ではあるだろう。その繰り返しを救済と呼ぶ事は困難だ。しかし、そうであっても、これを偽の「救済」だと糾弾しても仕方ない。この場面はむしろ『Air』外にこの無慈悲かつ無責任な繰り返しが生じてしまっていることを可視化してくれる。その点では、むしろ、この末尾の場面は、往人=カラスの物語、に還元されない、現実に生きている我々へと続く歴史と現実、責任の連鎖への配慮を、絶えず要求しているように思える。

(あと、今思うと『まわるピングドラム』を見たときにこの場面を思い起こさなかったのは不思議である。)

(2) 『ひぐらし』と『Air』

『ひぐらし』のループによる快楽を与える手法とは異なり、『Air』ではループ毎に不能性が生じてしまう。ループは摩耗を生み、その摩耗を除去することはできない。この上での対処法が、二作では決定的に異なる。

『ひぐらし』においては、ループによる摩耗があるからこの一回に賭ける、摩耗に抗して残る記憶があること(痕跡の自覚)に物語構造上頼っていたし、その賭け・記憶という奇跡の上での決断が視聴者の快楽になっていた面もあると思われる。また、『ひぐらし』においては、快楽は物語の外部としての社会的解釈共同体、物語を受容し取り囲む人々の社会的集合によって与えられていた。そこでは「決めること」「決めることによって関係を取り結ぶこと」が過度に重視されていたともいえる。

一方で『Air』においては、視聴者は絶えず外部に放逐されるが、そこで与えられるのは共同体ではないし、快楽ではない。『Air』は人に孤独を与え、絶望を与える。『Air』においては、ループによる摩耗がまさにほぼ貫徹された摩耗であるが故に、登場人物のレベルではその摩耗の事実に気づき得ない。『Air』においては記憶はその痕跡すら消尽されて、記憶の灰しか残らない。『Air』では、往人からカラスへの視点変遷はあるがその快楽というものは殆どなく、単なる絶望だけが無慈悲に残存している。ここでは、何度決断をなそうとも「決めきれなかった」ことが、たえず関係や規約、取り結んだものを切断する契機として、亡霊的に強迫的に侵入してくるものといえる。

『ひぐらし』的な社会の与える快楽がどの程度のものか、自分にはよくわからない。しかし、その快楽はどこかで切断されて、終わりを迎える。絶望は、社会によることで一瞬は忘れる事ができる、しかし無化する事はできない(※ここでノージックの提示した「快楽機械」のことを思いだしても構わない)。それゆえ、(最終的には読みの種類の差異とはおもうが、)自分としては『Air』のもたらす絶望と非-責任の問題(責任のとり”きれ”なさの問題)に引きつけられるところが未だ大きい。この感覚が本論に通底していることだけは、反省的かつ補足的に付記しておくこととしたい。

(3) 『Air』に関するかつての所感(『QF』読み感想)とりあえず備忘的にはりつけ:

http://www.twitlonger.com/show/jck964

http://www.twitlonger.com/show/jck9hn

http://www.twitlonger.com/show/jck9nn