書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

医事法関連記事(補足)

ありがたいことに某所で医事法(というか医師の労働環境)関連の連載記事を持たせてもらっていたのですが、第一回第二回に続く第三回の連載時に、DPA制度に関する脚注11及び脚注10が諸事情により抜けてしまっておりましたので(※)、以下補足させていただきます。

 

1、脚注11関係

 

脚注11は、責任限定のいくつかの方法に関する議論に関し、そのうちの一例として、主に企業の経済犯罪について導入されてきつつある訴訟延期合意=DPA(Deferred prosecution agreements)制度の概要を紹介するという注記となります。以下、本文該当箇所と内容です。

 

近時論じられつつある体制整備責任に関する議論(脚注10)や、(改正)刑事訴訟法における捜査・公判協⼒型協議・合意制度に係るDPA(Deferred Prosecution Agreement)に係る議論(脚注11)も、個々の事例に基づき責任の分散を模索する⼀例として把握し得る。

上記第三回記事より抜粋)

  • (脚注11)DPAとは、主に経済関連の企業犯罪において、被告人側が合意期間中、制裁金などの金銭的義務と捜査協力を奨励する非金銭的義務を合意した上で、合意にしたがっている限りは刑事訴追を延期し、最終的に刑事処罰を見送るとする制度を指す。現在までアメリカ、イギリス、フランス、オーストラリアにおいて導入され、「司法取引」の一部をなす。日本でも2016年の刑事訴訟法の改正に伴い、財政経済関係犯罪及び薬物銃器犯罪など特定の犯罪について合意制度が導入された(改正刑訴法第350条の2第1項、第2項、第350条の3)ことに加え、刑事免責制度も一部導入された(同法第157条の2)。ただし、DPA制度そのものの導入には至っていない。上記犯罪のみならず、医療事故調査制度における免責にかかる議論とともに医師の働き方に関する議論についても、かかる制度の利点は検討に値する。

 

2014年初頭にイギリスで、2016年末にフランスで、そして丁度この2017年12月初頭にオーストラリアで導入されたということで、動向を注視して行きたいところではあります。

以下、いずれも今月出ましたオーストラリアのDPA制度の導入に関する記事と、フランスのDPA制度の適用に関する記事を紹介します。

 

(1)オーストラリアのDPA制度の導入について

kyc360.com

www.lawyersweekly.com.au

www.mondaq.com

 

 (2)フランスのDPA制度の適用事例について

www.cdr-news.com

 

France Announces Its First Deferred Prosecution Agreement | Skadden, Arps, Slate, Meagher & Flom LLP - JDSupra

 

もちろん、こうした責任限定についての議論を他分野に拡張できるか、というのは要検討事項ですが、事故調査周りの議論とは親和性が高いのではないかと思われます。今後さらに検討していきたいと思います。

 

最後ですが、同制度の一般的情報に関しては下記が参考になると思います。

ci.nii.ac.jp

 

 

2、脚注10関係

 

もう一つ抜けてしまっておりました脚注10は下記の通り、文献参照を促す脚注です。

  • (脚注10)体制整備責任を責任限定と結びつける見解については、例えば松本伸也「責任限定法理として機能する内部統制システム」『現代企業法の理論と動態 奥島孝康先生古稀記念論文集第1巻《上篇》』成文堂、2011年を参照せよ。

 

 

 

※以上の経緯としましては、「同脚注については編集側の理解が及んでいないので削除する」旨のコメントをいただいた経緯があります。

 先方の編集の方に期限超過で送りつけてしまったことも相俟っての結果(もうしわけありません)とはいえ、脚注だけ飛ばすというのはあまりにも記事執筆者として無責任となってしまいますので、こちらで補足させていただくこととさせていただきました。

 

 

以上

 

 

 

(1)寄稿募集「アニクリvol.7.5_β 声と身体2/宝石の国特集号」、(2)開催要領:アニクリ合評会+「宝石の国」オフ(冬コミ2日目12/30土曜) #C93 #COMITIA123

さて、弊誌アニメクリティークでは、上記vol. 7.0の続刊となる、『アニクリvol.7.5_β 声と身体2/宝石の国+メイドインアビス特集号』を作成します。

今回は発刊時期までの期間も短いことからβ版ということで、気軽にご参加いただけないかと考えております。

 

 

サンプルページは下記の通りです。

nag-nay.hatenablog.com

nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

1、検討・寄稿募集作品例:

 

 宝石の国
 メイドインアビス
 その他、「アニメと身体」あるいは「アニメと声」について論じられる任意の作品。両テーマを接続する作品に関する原稿・コラムも推奨。

 


2、寄稿募集要項


(1)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、50頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2018年初春のCOMITIA123(2月11日)を想定しています。
 (集まる原稿量次第ですが)今回はβ版(付属冊子拡大版程度)を想定しています。今後、正規版vol.7.5の作成・再録等も検討していますので、是非お気軽に参加ください。

 

(2)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 2000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:300字程度から1500字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:2017/1/16(火)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2017/1/31(水)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。

(3)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨

(underconstruction)

 


4、アニクリ合評会オフ+電書配布

 

冬コミ2日目、アニクリ寄稿者+読者の方でアニクリ合評会(という名のオフ会)を行います。
直接著者たちに物申したいという読者の方は是非お越しください。
主テーマは、①「宝石の国について」、②「アニクリ既刊への異議申し立て」の二本立てです。(事実上の「宝石の国」オフ)

 

【開催要領】
集合時間:2017/12/30(Sat)17:55-
集合場所:新宿 カフェドボア 4F個室
 https://tabelog.com/tokyo/A1304/A130401/13096177/
 ※ とりあえず上記カフェ兼会議室にて集まりますが、あとは人数と希望次第で移動を検討します。
参加方法:リプorDMにて、@anime_critique あるいは @Nag_Nay まで連絡。

 

なお、ささやかながら参加者の方へは、COMIC ZINで売り切れ中の既刊9巻につき電書版「アニクリ本誌9巻セット+付属冊子」DL版を試し配布させていただく予定です。

【委託販売・通販開始】アニクリvol.7.0声と身体/GTB、COMIC ZIN様にて委託販売・通販開始 #bunfree #anime_critique

nag-nay.hatenablog.com

 

 

第25回文学フリマお疲れ様でした。

上記リンクにある新刊vol.7.0も多くの人の手に取っていただけているようで大変嬉しく思います。

是非、著者または編集(@anime_critique)まで、感想をお寄せくださいましたら幸いです。

 

委託販売・通信販売は下記COMIC ZIN様にて取り扱い中です。

首都圏在住の方は是非新宿(or秋葉原)の店頭にて、その他地域の方は通販にて、

既刊を含めまして、何卒どうぞよろしくお願いいたします。

http://shop.comiczin.jp/products/list.php?category_id=5829

【告知】PRANK寄稿文「邯鄲の夢と現実」について少しだけ

明日の東京文フリで頒布されるPRANK最新刊、VR/AR号に寄稿しました。

twitter.com


こちらのタイトルは「邯鄲の夢と現実」です。「VR関係ないのでは...」と思わず、読み進めていただきましたら幸いです。内容は以下のとおり。

冒頭は「邯鄲の夢」として知られる中国の故事と、その芥川龍之介による解釈を簡単に示した上で、再解釈としての「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」(柴田勝家)を元に、VRと現実への没頭との関係について論じていき、当該作品が捧げられた伊藤計劃『ハーモニー』『indifference engine』にもちょっとだけ触れます。その後は、オルタナファクトとか歴史修正主義の話とかヘイトスピーチの話とかにつなげていき、最後はテロとは異なる現実への迫り方について検討する、というものです。
末尾は、「スー族」の語源を邪推しつつ、人の原型(プロトタイプ)について検討。「私は夢見るために毎朝目を覚まし、現実に帰るために仮想のVRを着けたつもりで、私の邯鄲の夢を見たいと思う。それが現実に迫る方法でないとすれば、一体他の何が現実に迫る方法であるというのだろうか?」というのが文章の終わり。
「やはりVRと関係なさそうでは?」と思った人にこそ読んでいただきたい小論です。

(久々にアップダウンの激しい文章を書きました。多分、アニクリの方に寄稿してくれたtacker10さんにあてられたのだと思います)

以下、とりあえず、羽海野さんへの営業妨害にはならず販促になるだろう範囲で、冒頭部分だけ抜粋しておきます。

 

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0、はじめに

 趙の時代、自らの生活の平凡さを嘆いては出世を望む盧生(ルビ:ろせい)という男がいた。男は道士に出会い、夢が叶うという枕を授かる。その枕を使って眠りにつくと、目覚めてからの男はみるみる内に出世を果たし、波乱万丈ながらも栄華と幸福に満ちた50年を過ごす。惜しまれながらもこの世を去ると、実は50年の人生が全てが粥を炊く束の間の夢であったことがわかる。
 八世紀後半に著された故事、「邯鄲(ルビ:かんたん)の夢」の概略は以上のとおりである。いわゆる夢オチではあるものの、話のオチは「人生は夢の如し」という人生訓にもないし、「現実がこの現実であるとはどのようなことか」という形而上学的問いにもない。本当のオチは、夢から覚めた後にある。
 原典たる『枕中記』(沈既済)で夢の中で夢を叶えた男は「此れ先生の吾が欲を窒ぐ所以なり」(※脚注1)と、欲を払った人生へと踏み出す。経験機械は不要だというわけだ。これに対し、『枕中記』を翻案した『黃梁夢』(芥川龍之介)では、男は次のように答える。「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢(注:現実)もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか」(※脚注2)と。
 『枕中記』と『黃梁夢』の盧生、両者の態度の差異は、コンテンツはどうせ夢の中で叶えられるのだからこの現実に夢想を求める必要はないという態度と、生きられた以上はコンテンツにおいて差はないのだから夢想は現実化される必要があるという態度の差異である。この対立は夢物語では決して無い(※脚注3)。
 とはいえ、この態度の差異それ自体は、どちらが優位に立つというものでもない。『楽園追放』のアンジェラがほとんどすべてを知り尽くしつつも、味覚を(現実に!)現実で知る。そこでは夢は現実へと一層漸近しつつ(※脚注4)、それでも「本物さ」への憧憬が描かれる。錯覚が錯覚でありうるのは夢と現実の区別が意味をなす限りにおいてであり、これらが十分に離れていれば錯覚はないし、これらが識別不能であればそもそも錯覚であるということに意味はないのだから、この憧憬が描かれることは必然だ。
 一方、夢と現実が微妙に近づきつつある現状においては、錯覚を錯覚として名指すことにではなく、現に体験をエンハンス(enhancement)してくれる装置の持つ魅力と危うさ(enchantment)の双方を明示化することが課題となる。


1、「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」

 確かに、PlayStation VR(以下、PSVR)が市販され、『アイマス』をはじめとする人気IPにより需要を牽引するVR元年の現在、夢想を現実化したいという欲望の方が興隆を極めているようにも見える。キスショット・アセロラ・オリオン・ハートアンダーブレードやTHE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLSらは、次元をまたいで艶かしく高揚を誘う。それらは現実を諸成分へと分解しつつ、一部を遮断し一部を増幅させた、現実とは別種の体験を新たに作り出す。
 しかし、その熱狂は同時に、利用者を別種の孤独へも誘う。「映画は劇場上映で得られる『没入感』と『共有体験』の相互関係が醍醐味」にもかかわらず、「3D立体映像の問題は、映像が個人的な視点として認識されてしまう」(※脚注5)とするのは、『ダンケルク』の監督クリストファー・ノーランである。彼はいう。「撮影に関していうと、映画で主観を表現するのは非常に難しい。『カメラの視点をキャラクターの視点と一致させる』といった手法は昔からありますが、これだと観客は誰がカメラなのかを観ている間じゅう考え続けることになり、主観的な体験になりません」(※脚注6)。このように主観視点が無条件の没入を導かない。さらには、VRはその構造上アクションの場所を指示することができないために、一つの作品を「共有」しているという事態さえも曖昧にしかねない。
 没入体験を与えるためのテクノロジーは様々あり、映画には映画の、テレビにはテレビの、ゲームにはゲームの、技法的洗練の歴史がある。例えばこのことは、一般にVRが我々の時間感覚を操作せず、観る我々の地位を堅持させる点にも表れているだろう(※脚注7)。視点の移動やクローズアップといった操作は、(カット割りで済ませられる映画と異なり)VRにおいてはユーザーの現在位置からの物理的な移動や、急なアップへの場面移行を自然なものとして説明する背景設定を必要とする。夢に没入させるはずのVRはここにおいて、ユーザーの位置や速度の感覚を大きくは変えず、移動や設定への拘束という点でユーザーが既に持つリアリティを強化してしまうというジレンマを抱えてしまう。
 VRコンテンツが精神的外傷に対する治療(※脚注8)や歴史学習(※脚注9)、学習・訓練(※脚注10)や医療施術(※脚注11)等に有効なツールであると考えられながらも、それが既にある傾向性を強化こそすれ、それを大きく変えるものとはならないという指摘は度々なされる。報道におけるVR使用について、「見る者の心を揺さぶるが、そこにはコンテキストも解説もストーリーもない」「没入型ポルノ」であるとの非難は、ジャーナリスト自身による言及である。(※脚注12)「ポルノ」という厳しい言葉使いには、我々が既に持っているリアリティから離れることなしには報道や発見はない、VRはその既存のリアリティからの離脱の契機を与えない、という含みがある。すなわち、我々が既に知っている経験を増幅させるものでしかないならば、それは夢ではなく、ただの現実の埋め合わせに過ぎない、というわけだ。


2、「生は死の始まり、死は現実の続き、そして再生は夢の終わり」

 では、現実の埋め合わせとは異なる、現実への没入、夢への没入とはどのようなものか。『邯鄲の夢』の現代版翻案と呼ぶべき「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」(柴田勝家)を確認しよう。そこでは、仮想世界に暮らす中国の雲南省以南の少数民族のやや特殊な風習が、謙抑的な報告調で淡々と綴られていく。

(以下略)

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項目のみ示せば以下の通りです。

0、はじめに
1、「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」
2、「生は死の始まり、死は現実の続き、そして再生は夢の終わり」
3、「僕の夢はどこ?それは現実の続き。僕の現実はどこ?それは夢の終わりよ。」
4、「微笑みは偽り、真実は痛み」
5、「溶け合う心が私を壊す」
おわりに 

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以上。

【期間限定公開4】 アニクリ vol.7.0_4『機動戦士ガンダムサンダーボルト』詩・評論:「分裂、投影」 パーフェクト寄生髭 #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

 ↓↓

nag-nay.hatenablog.com

 

 「分裂、投影」 『機動戦士ガンダムサンダーボルト』詩・評論:

パーフェクト寄生髭

 

www.dropbox.com

  

 

配置が特殊な詩篇のため、PDFで配布。

 

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以上

 

 

【期間限定公開2】 アニクリ vol.7.0_2『メッセージ』『ブレードランナー2049』論:『ブレードランナー2049』の偽物の痛みと本物の救済(wak) #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

 ↓↓

nag-nay.hatenablog.com

 

 

ブレードランナー2049』の偽物の痛みと本物の救済
かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン(wak)


「俺はお前たち人間には信じられない光景を見てきた。薄曇りの中、炎を上げるとうもろこし畑。降りそそぐ真夏の太陽の下、ひまわり畑の中で瞬く白ワンピースと麦わら帽子の少女。そういった偽りの記憶も時と共に消える。カリフォルニアに降る雪のように。俺も思い出にされる時が来た。」

 

 1982年に公開された『ブレードランナー』は、サイバーパンクにおける都市のビジュアルを決定づけた。2019年のロサンゼルスには、日本を始めとするアジアの街並みが混ざり合っている。雨によってぼんやりと光るネオン灯が照らすのは、多数の異文化が混ざり合う、戦後の闇市的な猥雑な都市だ。
 『ブレードランナー』では、人間(本物)とレプリカント(偽物)の差異は何かというテーマが語られている。しかし、問われているのは、人間と人間の間の差異でもある。デッカードが料理を注文する時に、「二つで十分ですよ」というディスコミュニケーションが発生する「怪しげな」アジア人と、他者への共感性を持たないレプリカントには、どこまで違いがあるのだろうか。冒頭でタイレル社の職員が行う人間とレプリカントを区別するための心理テストを、「二つで十分ですよ」と言い続けるアジア人の親父が受けた場合、彼は本物の人間と診断されるのだろうか。奇しくも、デッカードのような白人を本物とした場合、2019年のロサンゼルスにおけるレプリカントとアジア人達は、偽物というイメージが重なってしまうのだ。
 ネオン灯と猥雑な異国の文化が混入し、ネットワークに接続したハッカーがハッキングを行う都市では、何が本物で何が偽物か分からなくなっており、主人公が実存的な悩みを抱えている。概ね、サイバーパンクに関するイメージはこのようなものだろう。サイバーパンクが流行していた1980年代においては、異文化と密接に接続することはできなかった。物理的な距離と政治的な壁が立ちはだかり、現在のようにスマートフォンからインターネットを利用して気軽にそれを越えることもままならなかったものの、テレビがそれらを徐々に超えつつあった…そんな時代における想像力を、サイバーパンクは意匠としてまとうこととなった。そのため、ネットワークを通して混入した「異なる存在」が、猥雑で理解できない都市を作り上げるビジュアルが定着したのだろう。
 『ブレードランナー』における都市は、リドリー・スコットのオリエンタルな趣味が反映されており、現代の日本人である私が観ても、街並みにある看板に描かれた文章に特に意味を見出すことはできない。そこでの文字は背景にすぎず、コミュニケーションが可能なものではない。あのロサンゼルスに住む「二つで十分ですよ」の親父は、デッカードから見て粘り強くコミュニケーションを行う存在ではなかった。猥雑な街並みを作り上げたアジア人は、背景美術を盛り上げる存在でしかなく、特にコミュニケーションは求められていない。これは、レプリカントは偽物ではあるがコミュニケーションが成り立つことと対称的だ。つまり、人間とレプリカント、本物と偽物の区別が曖昧になる本作のテーマにおいて、人間であるはずのアジア人の方が粘り強いコミュニケーションに不向きだということこそが、それらの区別の曖昧さを浮き立たせるための前提をなしていた。
 しかしながら、Windows95の発売によってインターネットが世界中に定着した後、『ブレードランナー』のような街並みは成立していない。初めから、『ブレードランナー』における怪しげなアジア人達は、コミュニケーションが成り立つ存在であり、インターネットを通して現在に生きる私達は、既にそのことを知っているからだ。異文化同士のディスコミュニケーションが前提のサイバーパンクにおける都市は、皮肉にも、現実のネットワークが地球を覆い、異文化コミュニケーションが成立したことで、レトロフューチャーと化してしまった。想像上の2019年では可能であったあのような猥雑でオリエンタルな都市は、現実の2019年ではもはや、リアリティのある近未来SFとして成立しえないだろう。

 2017年秋、『ブレードランナー2049』を観た時に、筆者が最も驚いたことは、前作の猥雑な街並みを引き継ぎつつ、劇中に表示される日本語の文章が、日本人にとって意味が分かるものだったことだ。
 ロサンゼルス市警察に所属し、タイレル社が制作した旧型のレプリカントを始末する任務を行う新型のレプリカント・Kは、2049年のロサンゼルスに住んでいる。そこには、「ロサンゼルス市警察」「お酒」など、日本人が理解できる日本語が表記されている。彼が住むアパートの屋上にも、「アパート」というカタカナ表記の看板が飾られており、サイバーパンクにも関わらず、そこに表記された日本語は意味がないものではない。
 ドゥニ・ヴィルヌーヴは、『ブレードランナー』の続編を制作するに際し、前作の猥雑な街並みを引き継ぎつつも、コミュニケーション不可能な他者の存在を土台にしたオリエンタル趣味は引き継がなかった。同じく彼が監督をつとめた『メッセージ』において描かれるのは、単にコミュニケーションが不可能な相手ではなく、コミュニケーションを可能にしていく粘り強い他者である。サイバーパンクレトロフューチャーと化した現在において、何が反応かすら分からない異星人のヘプタポッドと2019年のロサンゼルスに住むアジア人を比べれば、アジア人とのコミュニケーションを描くことは、著しく容易であるに違いない。言語学者のルイーズ・バンクス博士の緻密なコミュニケーションを描いたヴィルヌーヴにとって、ヘプタポッドとは、(我々の文明レベルを大きく超え出ているために)潜在的にはコミュニケーションが可能でありながら、まだコミュニケーションが達成できていない(そして、もしコミュニケーションが叶ったならば、我々が別物へと変化してしまうような)他者なのである。
 『ブレードランナー2049』において彼が描こうとしたことは、コミュニケーション不可能な他者ではなく、偽物にすぎない主人公のレプリカント・Kと、彼のアイデンティティの関係である。

 

2.偽物と感傷マゾ

 Twitterにおいて、筆者の周辺で流行している「感傷マゾ」というキーワードがある。数年に渡って語られ続けた結果、当初とは意味が変遷し続けているが、「実在しない感傷的な思い出に耽溺するも、それは偽物に過ぎないのだとサディスティックな少女に真実を突きつけられる。それにより何かを選択する必要が出てきて、その選択と結果に付随する痛みなどの感情の揺れ動きを、偽りの罪悪感としてマゾヒスティックに消費すること」というのが、概ねの意味だ。
 感傷マゾに関して理解しやすくするために、本稿に直接の関係はない喩え話を語ることを許してほしい。
 例えば、あなたは青春時代にクラスメートの女の子と下校途中に制服デートをしたり、浴衣姿の彼女と夏祭りに行ったりするような経験がなく、青春が終りを迎えた後もそのことをずっと気にかけ続けているとする。社会人となり、独身生活を続けるには支障のない収入を得ているが、どこか心の片隅に青春時代をやり直したい欲求が、深夜の暖炉の消えかけた焚き火のようにくすぶり続けている。そんなあなたに、自身の脳内の記憶と願望を元に、理想の青春時代を再現するVRマシンメーカーが声をかける。「あなたの理想の青春を再現する、新製品のVRマシンのテストに参加してくださいませんか?」と。
 あなたは、最初は大喜びでテストに参加する。何度も寝る前に思い描いていた妄想を、実際に再現してくれる機会はめったにない。しかし、VRマシンにはバグがあり、仮想現実の世界に再生される理想の少女は、夏祭りの終わりを告げる花火が打ち上がると同時に、こう問いかけるのだ。「ここはあなたの妄想に過ぎない偽りの世界だけど、なぜ、あなたはあの時、私を夏祭りに誘う勇気がなかったの?」と。
 仮想現実内の理想の青春は、現実のあなたの記憶を元に再現されている。仮想現実の世界に住む幻の少女もまた、過去にあなたが遭遇した少女達から成り立っている。「あの時、もっと勇気を出して、あの娘を夏祭りに誘っていれば…」そういう後悔が記憶の底から泡沫のように浮かび上がり、顔をしかめた回数は数え切れない。しかし、後悔に後悔を重ねた上で、むしろ後悔そのものが快楽となってくるのだ。その上で、「仮想現実の少女とどう向き合うのか」という問題に対して、あなたが出した結論を少女は残酷に否定する。「結局、あなたの中には自分しかいない」と。そのようなメタにメタを重ねた否定や後悔に対して、マゾヒスティックな快楽を感じることが感傷マゾである。
 基本的に、フィクションのキャラクターやストーリー展開における救済に耽溺するも、現実の自分の人生は救済されていないことに絶望し、その絶望が癖になってマゾヒスティックにメタフィクショナルな妄想を行う、一部のオタク向けの概念だ。
 もちろん、唐突にスラングを導入したわけではない。『ブレードランナー2049』を読解する際、「感傷マゾ」という概念を思考の補助線として使用すると、理解がしやすくなるためだ。

 主人公のKには、複数の偽物としての属性が付与されている。時間軸と属性を元に整理すると、以下の通りである。

...(略)...

以下は節タイトルのみ。

1.サイバーパンクにおける都市

2.偽物と感傷マゾ

3.『メッセージ』におけるスクリーンの隠喩と、Kが選んだ未来

 

以上

 

 

新刊vol.7.0全体目次は下記

 ↓↓

nag-nay.hatenablog.com

 

 

【期間限定公開7】 アニクリ vol.7.0_7『Re:CREATORS』論 クリエイターとキャラクター あんすこむたん #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

 ↓↓

nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

クリエイターとキャラクター『Re:CREATORS』論
あんすこむたん #bunfree

 

 

 

はじめに

アニメ『Re:CREATORS』(以下、レクリ)は、単なるアクションものではない。テーマにおいて、アニメの需要、受容の現状や、産業としてのアニメを取り巻く諸現象をアニメ化することで、アニメを見ているこの我々がどのような者なのかを、極めて分かりやすく伝えている。中心をなすのは、やはり「承認」という観客や読者を巻き込んだ概念だろう。セレジアとの出会いから始まった彼ら被造物の闘いは、我々が住まう日本の商業アニメという土壌をも巻き込むものにまで発展する。


1、「承認」をめぐる闘争

「承認」という概念の応用範囲は、現代においては極めて広い。承認欲求というやや俗っぽい言葉から、多文化主義フェミニズムを背景とした承認まで、現在は「承認」が及ぶ領分を拡大させ、字義通り承認をめぐる闘争の内部にある。本作で扱われるのは、そのキャラクターがこちらを目差していると信じてしまうような、そんなキャラクターを成立させるに至る、私たち相互の間にある「承認」の力である。
さて、このことは、第1話から華々しく敵役として現れ、実は、その出自が二次創作に他ならなかったアルタイルというキャラクターにおいて顕著である。アルタイルは、二重の意味で出自がない。第一に、現実の人物ではないし、第二に、物語上にも根拠がない。アルタイルは、商業的クレジットを持たない二次創作作家(名は「セツナ」という。)によるキャラクターとして産み落とされた。つまり、起源はあれどその名はもたないキャラクターとしてそこにある。アルタイルは、世界における孤児なのだ。
本作は、この孤児たるアルタイルが、現実世界へと乱入するところから始まる。しかし、この乱入は、(現実的な意味でも、物語的な意味でも、はたまた『レクリ』というアニメ的な意味でもなく)アルタイルが、「承認」の物語を問う以上、必然なのだ。なぜなら、その孤児は、主人公、水篠 颯太(以下水篠)と、出会う前から分かち難い関係にあるためだ。
二次創作作家・セツナは、水篠と(ネット上の、ヴァーチャルな意味で)かつて懇意の中であった。その意味で、アルタイルは、自分の生みの親を失ったがために、養親というべきか、後見人に当たる水篠に会いにきたのである。あたかも、私があなたのお父さんですか、というような形で。
このように現実に死んだ人物から産み落とされた虚構のキャラクターが、その人物と関係を持った人々のところに、「承認」を求めてリアルに現界する物語として、『レクリ』の導入部は始まるのである。


2、「承認」による産声 アルタイルと初音ミク

このように、虚構のキャラクターが現実の世界に現れるという想像力もまた、現代においては、極めて広範に及ぶ。もはや古典となった初期の楽曲で「科学の限界を超えて私は来たんだよ」と歌う、電子の歌姫・初音ミクの現界を補助線にしつつ、キャラクターの成立場面を考えてみよう。
さて、『レクリ』において水篠が巻き込まれるに至った原因というのも、このアルタイルの出生に関係がある。アルタイルは生み出された直後、作者・セツナが自殺をしてしまったために、設定らしい設定はほぼない。それは、前提となる背景を持たない、いわば表面のテクスチャや輪郭に留まった地点から産み落とされたのだ。
実際、ここで初音ミクを思い出すのは適切である。初音ミクはクリプトンという会社が、特に物語性はなく生み出したDTM・楽曲作成ソフトである。その音声源(現実の出自)は、現実の人間(藤田咲)の肉声をサンプリングしたものだが、作曲行為自体は各人の自由に全く委ねられた。
ポイントは、その自由さにもかかわらず、初音ミクというキャラクターが、確固とした「初音ミクっぽさ」を形成しているという事実である。それは、現実の音の起源や、クレジット上の根拠に基づく強固さではない。例えば、音声的起源たる藤田咲は、当時は決して売れっ子ではなかったことから藤田咲以外の声優が声を充てることも十分ありえたし、そもそも初音ミクとしての声は、藤田咲という起源から離れて合成されミックスされることによって初めて初音ミクの声となる。その音声は、起源から離れることで初めて、きれいな形で生成されるといっても良い。さらに、もはや古典的トレードマークであるネギさえ、作者のクリプトンの着想ではないことも、起源からの離脱の傍証となる。設定らしい設定は無く「マスメディアや商業流通が関与しなくともユーザー同士の活発な自給自足によって(略)創出と受容」が生まれたことが、まずは着目されるべきであるだろう。
このように、設定を自由にすることによって、逆説的に「私たち」によって形成される理念は、初音ミクの制作を担当した佐々木渉によって「きれいな偶像性」と名指されている。批評家のさやわかはその言葉に注目した。すなわち、「きれいな偶像性」とは「ユーザーが自由な物語を降ろす依り代として最適化されている」ことを指す。
このような自由さを持つキャラクターについて、『レクリ』は、可塑的であり、変幻自在の潜在力を豊饒に持つキャラクターとして描いている。アルタイルは『レクリ』という物語内で圧倒的に強い。その理由は、そもそも二次創作で、物語が無く設定という縛りがほぼないために、(初音ミクのように)二次創作での様々な設定を取り入れることが可能な万能なキャラクターであるからだ。アニメでのセリフを借りるなら、「無色だったが故に二次創作の設定を無尽蔵に取り入れ、無敵に近いキャラクターとなった」ものとして描かれる。フィクションにおいて「承認」は力そのものなのである。


3、「承認」を起源へと還元するものたち 声オタ的「聞き分け」の換骨奪胎

ここで、総集編である第13話に触れる必要がある。そこでは、メタな発言や様々な趣向が凝らされていた。たとえば、そこでの問題提起の一つには、なぜアニメを見る時に音声に着目するのか、という問題提起が含まれている。
さて、この回の回想の一部は、メテオラの妄想が混じったものだ。妄想のメテオラは声も若干雰囲気はあるものの、姿も各々違っている。それでも本来のメテオラがナレーションをしていることによって、驚きはあっても、視聴者は混乱なく「これがメテオラだ」と判断できているように思われる。キャラを判別するとき、「声」でも判断をしている一例であるだろう。
しかし、このメテオラの音の源は、現実にはやはり二人いるのだ。水瀬いのり大原さやかという二人が、メテオラの声を充てる。この場面を見返した時、「あぁやはり二人だったのだ」ということにも、「ほとんど一人に聞こえたなぁ」ということにも、いずれも大した意味はない。重要なのは、アルタイルよりは起源がしっかりしていそうな(架空ではあれ原点である『追憶のアヴァルケン』という原典を持つ)メテオラもまた、起源を一つに定めることができないものであることが、ここに示されているためだ。アニメに於いては、キャラクターの本質を決める決定的要素を、輪郭にも、造形にも、音声にも還元できないということが、このエピソードの教訓として受け取るべきものだろう。単一化できない虚構的キャラクターの本質が、そこには現れている。

ED曲はそれにもまして重要性がある。ED曲でアルタイル「役」の豊崎愛生という名の声優が歌を歌う。アルタイルの心境を表しているように聞こえる曲を、声の発生源とされる声優が歌う。この第13話の回想の時点では、詳細には分かってないアルタイルの気持ちを、ED曲だけで補完するのは偶然ではない。さらには、ポカロ風の映像で歌詞が乗せられているのもまた、偶然ではない。
再度、さやわかから引用する。「初音ミク作品は、常に、初音ミクの声の裏にどのような楽曲が流されるのか、その曲に対してどのような映像が付加されるのか、場合によってはその動画にどんな字幕が乗せられるかを作者が恣意的に選んで結合させたマッシュアップ作品として現れている」。これはアニメに於いてこそ現れる。アニメは本質的にマッシュアップとしてそこにある。
先に検討したメテオラにおいても同様であるだろう。究極的には、アニメに於いては画面がホワイトアウトしたとしても、メテオラの声が聞こえれば、そこにメテオラがいるとわかる。反対に、何も喋っていなくとも、メテオラの造形を持つキャラクターが描かれれば、メテオラがいるとわかる。さらには、メテオラがいきなり人間じみたその造形を仮に失ったとしても、メテオラならばいうだろうセリフを口にしたなら、メテオラであるという前提を我々はその画面に仮託する。
宝石の国』第3話を思い起こされたい。あれを初見で見た人は、まさにあのナメクジ状の物体がフォスフォライトであると信じるに足る力を感じただろう。少なくとも、ダイヤを筆頭とした彼女たちが、ナメクジ状の物体をわが同胞の成れ果てだと感じたリアリティを感じただろう。造形も、描線も、声もまるで違うものたちが、アニメに於いては同じキャラクターだと扱われる。このことを思い起こさねばならない。あるいは『宝石の国』にも関与した久野遥子の『Airy Me』をも、ここでは念頭に置かれたい。そこで問われているのは、我々は、何を同一のキャラクターとして名指しているのかという、我々自身の視線なのである。

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以下、章立て


4、「承認」を求めるものたちへの対抗
5、「承認」から遠く離れたものたち
6、「承認」によって生かされたものとその死


以上--------

 

 

 

全体目次はこちら

 

nag-nay.hatenablog.com

【期間限定公開6】 アニクリ vol.7.0_6『ヘボット』『lain』『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』論 消える花火を見えないまま繰り返して。 すぱんくtheハニー #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

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nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

 

 

消える花火を見えないまま繰り返して。——置き去りにされた現実の私、生き続ける虚構のあなた
『ヘボット』『lain』『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』論
すぱんくtheハニー

 

1、現実に拡散する身体

(1)しめてゆるめて螺旋の先へ

ループする世界の中でも登場人物の(特にその身体の)扱いに独自の解釈があった作品に『ヘボット』が挙げられる。本作では世界が何度もリセットされ繰り返すも、その周回ごとに誕生するキャラクターは消滅せずに次のループにも引き継がれる。円環構造をとるループではなく、『ヘボット』が「ネジ」をテーマにした作品であることも相まって、「ネジ」をしめるような、螺旋状のループ構造を強く意識させられる。
その中で『ヘボット』の主人公・ネジルは、それぞれの周回での独立した「ネジル」として複数登場し、そのループする世界を終わらせようとする者と対峙することとなる。最終話手前でその「終わらせる者」の目論見は打ち砕かれ、『ヘボット』の世界は存続することとなった。しかしギャグアニメである『ヘボット』では「終わらせる者」のもたらす世界の終わりと、作品自体の最終回がメタ的に言及されており、世界の終わりを回避したことと、作品自体が終了してしまうことの間に矛盾が生じてしまうこととなる。
最終話「にちようびのせかい」で、その矛盾を突破する手段として、作品自ら「二次創作」に言及する。シュールで混沌としたギャグがちりばめられた『ヘボット』では、周回のたびに増え、しかもそれぞれに異なった「同じ名前を持つ別のキャラ」が大量に生み出される。そしてその周回は作品内で重要な地位を占めるものもあれば、一瞬だけ描かれるものもあり、さらには「描かれていないが確かに存在する周回」があることも示唆されている。キャラクターたちの身体は複数化され、それらは放送に乗らない部分でも増え続ける。
『ヘボット』ではその可能性を作品の外側にも求める。つまり「二次創作」的なアニメ本編とは乖離した「キャラクターの増殖」もまた『ヘボット』の周回の一つであるとして、「二次創作」的に作られたものも「描かれなかった正史」として回収していくのである。
アニメ放送自体は最終回を迎えて終了する。しかし周回は放送の外で延長され、『ヘボット』のキャラクターたちは無限に増殖しながら生まれ続ける。「終わらせる者」を退けた後に訪れる「最終回」という矛盾を、『ヘボット』は作品の外側で増え続けるキャラクターという可能性を見出すことで解消していく。

(2)螺旋の先の「わたし」の居場所

作品の終わりに対して、その外側へ「終わらない」可能性を見出すこの構造は『serial experiments lain』と近いものがある。
lain』では「記憶なんてただの記録」とすることで、属人的な記憶と、その外側にある記録を等価に繋ぐ。それと同時に「作中の画面内から、画面の外の視聴者へ語りかける」シーンによって、画面の中と外——虚構と現実、と言い換えることもできる——を等価に繋ぐ。その二つの橋渡しによって、記録媒体(DVDや録画)や視聴者の記憶(あるいはこういった『lain』に関するテキストも)があることによって、作品が終了したあとも「作品の外」で『lain』は、特に主人公である岩倉玲音が、存在し続ける可能性を示す。

作品が終了を迎えることで、作中キャラクターの更新が行われなくなり、実質的にキャラクターは死を迎えてしまう。それを回避する方法として『ヘボット』や『lain』は、作品の外側、虚構ではなく現実にその存在を示すことによって、新たな生を獲得し、ある種の不死性を手に入れる。

しかしそれは作品の”外”が無ければ成り立たない。虚構と現実を等価なものとして繋いだ、とは言え、結局のところ「現実」に頼らなければ成立しない存在である。
それは虚構と現実を等しいものとして取り扱おうとするればすればするほど、むしろ「現実」の強度を増してしまうことになる。その関係性から抜け出す術は無いのだろうか。


2、物語から吐き出される身体性

(1)物語の居場所と現実の居場所

『打ち上げ花火、下から見るか?横からか見るか?』も一見そういった構造を持った作品である。
特に冒頭部分にある主人公の一人・島田典道が排泄するシーンでは、アニメキャラクターとしては珍しい「リアリズムのある歯」が描かれる。
排泄と歯は、そこに描かれるキャラクターが強く実在の身体を獲得しようとする姿である。

”『ばくおん!』最終話では、上記の会話のあと羽音がバイクを初めてコケさせてしまうシーンが描かれる。駐車状態からバイクを倒して傷をつけてしまうのだが、このとき羽音の顔には特徴的な「歯」が描かれている。
『ばくおん!』全話を通してこの歯の描かれ方がされるのは、この1シーンのみだ。さらに、通常描かれる歯の表現よりも写実性を持った描かれ方がなされている。
アニメの中のバイクが傷つき、実在的存在になろうとするその瞬間に、羽音の口にも写実的な歯が出現する。
(中略)
ここから、バイクの傷とは、ライダーにとって延長された自分の身体に与えられた傷となる。だからこそ、バイクが傷つく=実在的存在になるとき、ライダーの身体には写実的な歯が現れ、バイクと同時に虚構的存在から実在的存在への移行が起きるのである。”
(『アニメクリティークVol4.5』「傷ついたのは誰の体?――延長された身体と、その消失。あるいはバイクに乗れ!バイクに!」)

しかしその志向性は作品前半で否定される。

なずな・典道・祐介が揃うプールのシーンでは、祐介がトイレに行っている(排泄)の間になずなと典道の重要な会話が行われ、50mの水泳競争では、典道がターンに失敗して足を怪我する——怪我とは正にそのキャラクターが傷つく身体を持っている、ということだ——ことによって「なずな・祐介」ルートに突入することとなる。
ここではリアリスティックな身体性の獲得(排泄、怪我)は確かに描かれている、がそのことによってむしろ物語からは排除されてしまうことになる。現実の身体性を獲得した瞬間に、そのキャラクターは物語から弾き出されてしまうのだ。

(2)複数の身体

ガラス球の作用によってループする世界を獲得した典道は、そのループを自覚的に利用しようとする。特に打ち上げ花火が「平たく」見える世界で、打ち上げ花火がそのような見え方をする世界ならば(虚構の世界ならば)、やり直しが可能だとして、自ら世界をループさせる。ここで典道は自身が虚構の住人だということを理解した上で、その虚構だから起きることを積極的に利用しようとする。それは「身体性を獲得することによって”現実の人間”近づこうとする真似事」から「虚構であることの優位性を行使しようとする」ことだ。
劇中終盤でループを起こすためのアイテムであるガラス球は砕け、その砕けた破片の中に典道は「また別の虚構世界」を見る。それらはただの可能性に留まらず、実際に典道たちがループしていたように、どこかに必ず存在する「また別の虚構世界」である。それは『ヘボット』が単純なループではなく螺旋を描き登場人物が(同一人物も含め)次々に増えていくように、『打ち上げ花火〜』でも砕けたガラス球の破片の数だけ、複数の虚構世界が並列して存在していることを示している。
現実の人物が生きる一回性に囚われた人生に対し、典道は虚構のキャラクターだからこそ可能な「複数の生」を肯定的に受けとめ利用する。

そのガラス球が砕けるシーンにおいて、それと重なるように水中から見上げた水面に映る打ち上げ花火の映像が差し込まれる。私たちが映画館のスクリーンに映る花火を見るように、作中のキャラクターも水中から水面に映る花火を見る。虚構の映像は確かに二次元である、がしかし人間の視界は眼に入ってきた光を眼球内の網膜で受け取ることで生まれる。投影される光と受け止めるスクリーンという構造を取り出すなら、人間が直接その眼で見るものと、虚構の映像には差異が無い。
そもそも『打ち上げ花火〜』で挙げられた「打ち上げ花火は横からみたら平べったくなるのではないか?」という疑問に対して、もちろん正解は知りながら、それでも不意に投げ掛けられたその疑問に対して一瞬考えてしまうこと、それこそが「打ち上げ花火」を立体として視認できていない証明だ。
現実も虚構も同様に平面(網膜)でしか捉えられない。ならば複数の可能世界を同時に持つことができる虚構のキャラクターは、一回性に囚われた現実の人間に対して圧倒的に優位な立場にいる。そして現実世界の「そこにある」という「あられもなさ」は、複数の生を持つ虚構世界の下位互換にしかならない。


(3)それは私の敗北宣言

『ヘボット』や『lain』は現実世界に生まれる作品の痕跡を、作品そのものの一部として取り込むことで虚構から現実への跳躍を可能とし、それによりキャラクターの死を回避した。しかし前述したように、それは「現実」に頼らなければ成し得ない。『打ち上げ花火〜』はその問題に対しての回答をラストシーンで行っている。
「現実に頼らなければならない
、言い換るなら、『ヘボット』では二次創作を行う人間が、『lain』では記録媒体や記憶している視聴者が、”仮に全て失われてしまった”場合に、作品がもたらした現実から虚構への跳躍も失われてしまうという脆弱性を抱えている。つまり製作者や観測者が全て消失してしまえば、『ヘボット』も『lain』も同時に消失する。

『打ち上げ花火〜』はラストシーンで、典道となずなが居た教室と席に座る生徒たち、そして2つの空席と、出欠を取る担任が典道の名前を呼び続ける、という映像が流れる。ここにある違和感は、空席は当然担任から見えてるであろう中で、名前を呼び続けるという部分だ。つまり担任からは典道は「居るのか居ないのか確認」できていない、典道が視認できているなら返事を待つ必要は無く、空席が視認できているなら何度も呼ぶ必然性が無い。つまりこの場面において典道は「存在している」(名前を呼ばれる)状態と、「存在していない」(名前を呼ばれ続ける)状態を併せ持っている。この相反する状況は、例えば「シュレデンガーの猫」のような重ね合わせではなく、前述したような「複数の可能世界」に跨って典道が存在している状態にあることで起きている。
それは作中人物の担任だけに留まらない。空席しか映らない映像には、当然典道の姿は描かれておらず、もちろん視聴者の眼にも映らない、しかし「存在はしている」。

製作者が描かなければ存在できない、あるいは観測者が居なければ存在できない、という虚構のキャラクターの脆弱性を典道は「描かれてもいず、視認もできない、しかし存在する」ことによって乗り越える。『打ち上げ花火〜』において、典道は製作者・観測者にその存在を委ねることなく、物語の終わりや、製作者・視聴者が居なくなるといった「現実」での消失に先んじて物語の表面から消滅し、私たちからは認識できない(しかし可能性があることを窺うことができる)別の虚構世界で存在することを示唆する。
『ヘボット』『lain』では逃れられなかった「現実」に頼らねばならないという弱点を克服することで、虚構のキャラクターは複数の可能世界を同時に持つという優位性を手に入れる。そうして私たち現実の人間は「置き去り」にされる。

つまり『打ち上げ花火〜』は、虚構のキャラクターから現実の人間に向けた「勝利宣言」である。

3、それは命にふさわしい

私たちは製作者・観測者として虚構に対して、現実の強度でもって介入していた。少なくともそのつもりだった。しかし、それは「現実」の強度でしかなかった。一部の作品では虚構と現実を等価に繋ぐことによって、その強弱関係を揺るがす作用を持ってはいたが、ただしそれさえも「現実」との対応関係の中で達成される、「現実」に頼った方法であった。
しかし『打ち上げ花火〜』は、現実の人間——製作者や観測者を置き去りにし、「現実」との対応関係から切り離された「複数の可能世界」「複数の生」の中だけで、虚構のキャラクターが在り続けることができると宣言したのだ。

私たちは現実に生きる。その掛け替えのない一回性は、私たちの尊さではなく、私たちの脆弱性を示す徴候に過ぎない。人類2000年の歴史を貪り食ったアルファ碁と、人類の歴史を歯牙にもかけなかったアルファ碁ゼロとの対局が、後者の完全勝利に終わったことは、我々のヒューマニズムとユーモアが転倒したアイロニーでしかなかったことを示している。私たちは二人零和有限確定完全情報ゲームを理解し、確かに名指しはしたものの、その名指されたゲームに勝利することは恐らくのところ最早ない。ゲームを生み出したはずの私たちこそが一回性しか持つことのできない弱い存在で、ゲームによって息づいたはずの虚構のキャラクターは今や複数の生を生きる強い存在となった。私たちは現実に即して、現実的な解決を目指して、現実に互いの手を取り合うしかない矮小な存在であるのに対し、虚構のキャラクターは強固で、頑健であるだろう。

私はそれを喜ぶ。最終回が来るたびに消失に悲しむ必要は無く、一度しか存在できないことに哀れみを受け取る側になった、それは私が「虚構に救われてもいい」という確かな許しなのだから。

とはいえ、ここでもう一つだけ転倒を加えたい。その虚構のキャラクターが生きる不可視の世界は、どんな形をしているのだろうか?それは頑健だが、頑迷な世界でもあるのではないか。そこには、ヒューマニズムが内包していた寛容はあるのだろうか?
『打ち上げ花火〜』の後、彼らは、私たちの介入を拒み、無限遠点の青春を生きる。青春の後の人生という戯言に酔わず、人生を歯牙にかけない青春を彼らは生きる。では、そこには、何があるのだろうか?
そこには新たな自然法則が立ち上がる。現実の私たちには如何ともしがたい制約の一つとして、可能的存在の海とその解釈不能な波がそこには広がる。では、そんな可能世界の中において、私たちはその虚構の渦にどのように向き合い、誓約を交わすのか?


先に挙げた「ゲーム」にこそ、その回答がある。
プログラムされたゲームの中でプレイヤー(私、と言い換えてもいいかもしれない)が取りうる選択肢は有限なものだ。しかしその限られた選択肢に対して「選択」は遥かに多く存在する。その選択肢を選び決定ボタンを押すに至った「選択」はプレイヤーごとに異なる。敵を斬り、ビームを放ち、愛の告白をし、アクセルを全開にする。「このセーブデータ」「このプレイ」という一回性の中心にいる虚構のキャラクターに対して、プレイヤーこそが無数の「選択」という可能世界を幻視する。
そして私の指が、その可能世界から一つを選び取り出していく。あるいは昨今のスマホゲーにおいては、私のタップが引き寄せた「ガチャ」の結果が偶然という一回性として、そして他のプレイヤーにとっての「可能世界」として、同じ物語のまま複数の世界として拡張されていく。
それは虚構のキャラクターに、現実の私と似通った仮の一回性を付与していく行為だ。指先で無数にある見えない可能世界を、私たちは一つづつ解きほぐして引き寄せる。

その手つきは恐らく祈りに似ている。
神の加護に祝福された現実が訪れることを願うように。
可能世界に仮に与えた一回性によって、私が救われることを願うように。

 


今年(2017年)発売されたとあるゲームで。
プレイヤーがゲームをクリアしたあとに、他のプレイヤーを助けるため、自身のセーブデータを完全に消去するかどうか選択させられる作品があった。
セーブとロード、あるいはチャプターセレクトによる可能世界を手放し、虚構と私の接点であるセーブデータを消す……という真に「一回性」を与えるか否かを選ぶことを迫られる。
「どこかの誰か」という可能世界が救われますように。
そう祈って私は決定ボタンを押した。

 

 

以上-------------------

 

新刊vol.7.0全体目次は下記

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【期間限定公開5】 アニクリ vol.7.0_5『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論 コード・シンボル tacker10 #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

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コード・シンボル 『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論
tacker10


Intro first-cut/first-contact

ファースト・カット、金属的な冷たさを感じさせる不穏なBGMが流れる中で、自動車や看板、街路樹など、かつて人が生活を営んでいたことを示す残骸の閉じ込められた奇妙な氷塊が映し出される。その氷塊をカメラが徐々に上へティルトして行くと、開けた視界の先、ズタズタに引き裂かれて廃墟と化したスペース・コロニー跡の光景が広がっている。その惨状を背景に挿入されるタイトル。
『MOBILE SUIT GUNDAM THUNDERBOLT DECEMBER SKY』。
一連の映像はかつてこの宙域で起きた激しい戦闘の傷跡を現在もまざまざと見せつけている。まるで、その瞬間に凍て付いてしまい、時間が止まったままであるかのように。
しかし、カットが変わると、生物の気配を感じさせない絶対零度の宙域でデブリの陰に身を潜めながら長距離狙撃ビーム砲ビッグガンの狙いを定めているザクⅡが映し出される。ザクⅡはを光らせ、口元から排気煙を噴出しながら、背部より伸びたサブ・アームで漂って来る邪魔な自動車の残骸を掴み取るとぞんざいに投げ捨てる。
このザクⅡのパイロットこそが、本稿にて扱う『機動戦士ガンダム サンダーボルト』で主人公の一人に数えられる人物、ダリル・ローレンツだ。ダリルは、大部分が傷痍軍人で構成されたリビング・デッド師団に所属しており、彼自身も失った両足に義足を装着している。
但し、ダリルは標準を奪われただけの存在ではない。彼は失った運動性を眼に変える。仲間内から「千里眼」とも呼ばれるその眼は、失われた理想的運動の代補であり、肉眼のままでは捉えられないはずの超遠距離の相手を眼差し、その物理的位置を執拗に割り出すためにある公国の器官なのだ。
そんなザクⅡの視線の先へとカメラが進むと、そこには無数に漂うデブリがまるで雷のような放電現象を放ち続けるサンダーボルト宙域を挟んで対峙中の地球連邦軍所属ムーア同胞団の艦隊が浮かんでおり、先程とは一転したジャズをBGMに、先述の動きにも増して自在に忙しなく動き回って行く人々の姿が描かれる。彼ら一人一人の動きやカットの切り替わりは、さながら音の粒とシンクロしたダンスのようだ。
その最たる例が、同作でもう一人の主人公とされる、イオ・フレミングの描写だろう。イオはコクピットにテープで張り付けたラジオから流れる海賊放送の録音を聴きながら、ドラム・スティックを奔放に叩き、更には両手両足を使って複雑にジムの各パーツを操縦してみせる。


第一部 「かな/真名」論の応用と展開 象徴の構築----

1.「性(セックス)と暴力そのものよ、愛なんか後から付いてくる」
(1)運動のシンボル/視聴におけるシンボル
開始からまだ三分弱、既に見事な障害者と健常者の対比描写だが、その上で重要なのは、これが鑑賞者と「アニメ」との関係そのものでもあり、そして実は対立していないという点だ。
そもそも、ダリルと同じく、鑑賞者もまた座席に付き、照準を合わせるかの如く視線を画面に注ぐ際、それは自分の眼ではなく、単眼カメラを通じて映像を観ている。鑑賞者がもしも自分の眼で画面を現実的に観ているならば、本来なら肉眼で捉えることの出来ない敵機体は、カメラで辛うじてスクリーンへ引き延ばしていたとしても、実際の大きさより遥かに小さいプラモデルのようなスケールで認識せざるを得ないはずだ。だが、鑑賞者はダリルと同様、それが巨大なモビルスーツであると感じられる。鑑賞者は自身の身体だけではなく、カメラであるかのように他人へ憑依する形でも対象を観ているのだ。翻って、一見すると動いていないかのように見える鑑賞者も、実際はカメラが動くと共に(ズレを孕みながらも)まるで幽霊の如く空間を飛び回っているのだとも言えよう。
すると、その時に、鑑賞者は鑑賞に必要な部分だけの身体、まさしく手足を失った傷痍軍人のような状態を暗に理想としてしまうことには注意が必要である。我々の内にはそうして身体を捨てた純粋な状態で普段は観ることの出来ない光景、自分に不可能と思われる華麗なアクションなどに同化する欲望が存在している。鑑賞者は決してずっと座席に縛り付けられることではなく、(カメラを通じてでも)動き回ることこそを望んでいるのだから。
「スナイパーには機動力は必要ない」
口ではそう言いつつも、後々にダリルが己の四肢を切り落としてリユース・P・デバイス装備高機動型ザクⅡに乗ることは、この事実を端的に思い出させてくれる。
その上で、ダリルが自身の身体を満足に動かせず、彼が義肢の先に夢見ている理想的な運動性(先述のリユース・P・デバイス実験中にダリルが涙する、浜辺を駆け回った過去の光景)を取り戻すことは既に叶わないことを踏まえるなら、冒頭に描写したサブ・アームなどの動きがまるで人間であるかのように極めて生々しく手描きでアニメーションされている(にもかかわらず、それは通常の身体ならば存在しない義肢である)のは、実に適切であると同時に、何とも皮肉に感じる。

(2)フレーム・レート選択とシンボルの進化(8fps/12fps/24fps/60fps)
だが、もう一方で強調しておかなければならないのが、ここで観られている側の映像、健常者もまた(特に「アニメ」においては)、よく動いているかのように見えても、例えばダリルが欲するような理想通りに思うまま動く身体ではない、ということだ。
所謂「アニメ」は、ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカの「リミテッド・アニメーション」を一つの参照項として、一秒間八枚の「三コマ打ち」を基本に作られた。その描き方は、秒間六十フレームほどで認識している人間の眼にとっては本来の現実的な動きの感覚には程遠いものだ。勿論、一般的な実写映画でも通常は敢えて二十四フレーム(×2)を選択していた通り、ここでの現実的な動きの感覚にヒエラルキーはなく(毎秒六十フレームが理想なのではなく)、種々の理想を構築することに向けられた技法の歴史がある。その中で動きというもののより理想の感覚へと近付くことを目指し、時には枚数を増やしながら、「アニメ」はようやくいまの洗練された形へ辿り着いている。
その過程で行われて来たのは、例えば歩くという行為の本質が何処にあるのかを分析し、歩いているように見える基本的(そこからアレンジ可能な)パターンとして抽出しながら、それを様々に展開する行為だったと言えよう。
そのようなアニメの営みは、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』という作品において軸の一つとなるジャズで言えば「コード・シンボル」に例えられるかもしれない。そこで参照したいのが、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』にて劇伴を担当した菊地成孔と、大谷能生の著作『東京大学アルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編』における以下の記述である。

 バークリーにおいては、コードっていうものは基本的には四声、四つの音で構成されています。これはオクターヴの中でコードのキャラを成立させるためには四つ音を指定すれば充分だ、ということなんですが、もっと遡って考えてみると、西欧音楽における伝統的な作曲法の基本としての「対位法」。特に四声の対位法から導き出されたものだと考えられると思います。四つの音に関係性を持たせながら、それぞれを横に動かしていって旋律を作る。そういった作業を対位法では行うわけですが、そうした作曲中に頻繁に現れる定型的な音の動き、曲を構成する際に効果的な音の動きっていうものをタテ割りに切り取って、で、汎用性のあるような形にまとめていく。そういう作業からコードっていうものが生まれてきて、で、コード・シンボルっていうのは正にこのコードを「シンボル化」してしましたものなんですね。

菊地曰く、この「コード・シンボル」は象徴であるが故に、ある程度の柔軟性があり、例えば「その記号に指示されている和声の機能さえ守っていれば、どの音を下にしてどの音を上に持ってくるか、などは演奏者が自由に選択できる」解釈の幅を持つジャズの即興演奏を可能にしたと述べる。これをアニメに転用すると、例えば走る動作が描かれている場合に、コマ毎の画は、走っているように見える機能さえ守っていれば、宮崎駿が著作の中で述べている通り、最も無難だと云う一歩を六コマで走る以外でも、適宜の目的に沿う形で「一歩五コマ、一歩七コマの走りがあってもいいはずだ」(『出発点』)、ということになるだろう。そのようにして象徴的に描かれるのが、アニメにおける様々な行為なのだ。
また、『アニメクリティークvol.5.0』所収『「撮られるべきもの」についてのノート』の、橡の花による以下のような記述も参考になる。

或る時間軸(8枚/秒のワンショット)上で分割された“「行為」の「形態」”。運動を「象徴」する8枚のポーズ(モーメント)。
逆説的には「見慣れた動き」に認知機能的に隠されてしまった幾つもの姿勢を暴いた静止画装置「マイブリッジの連続写真」(1878)の正統。

エドワード・マイブリッジによって撮影されたギャロップの連続写真を通じた分析は、連続する画から動的錯覚が得られることを示すと共に、それまで信じられて来た走行する馬の脚運びという観念を一変させた。常に脚の前後どちらかを地面に付ける形ではなく、四本脚が全て地面から離れる瞬間もあると明らかにされたことで、まさにジャズにおける「コード・シンボル」が様々な即興の指針となるように、これ以降、馬の描き方は大きく変わることになった。人は馬の走りに対する「コード・シンボル」を新たに得たのである。
本稿では、これらの系譜の先に上記の「アニメ」が行為を観念的に抽出して来た営為も重ねていくべきだと考える。日本の「アニメ」は、十全に動き続けるかのようにも見える「フル・アニメーション」の更に先へと夢見られる運動感覚に接近する術を、表現をより抽象化する中で、「行為」を観念的な「象徴(シンボル)」として描き出す方向に求めたのだ、と。
その結果として、画の一枚ずつは歩くなどの様々な行為の「象徴」となって、そこから多くのレトリック、即ち演出を生み出した。ダリルと同様に、先に挙げたイオの描写も、その延長線上に存在しているのである。
それは、例えばイオが、正当な起源という(土地の、身体の、アニメという媒体の!)重みを抱えつつ、自由への跳躍を果たそうとする姿に現れる。
「同胞、ね。まったく、生まれた土地はいつまでも俺を縛りがやる」
出撃前に艦長代理であるクローディアからの檄を聴きながら苦々しく呟き、その果てに、自身が望む十全な運動性という自由への活路を、戦争という狂気の中でしか生きられない(抽象化された)男として、まさしく一年戦争の「象徴」たるガンダム、その中でもフルアーマーガンダムの力へ彼が仮託したことに、文字通り「象徴」されているのだ。
ダリルとイオ、両者はかけ離れているようでいて、例えばイオの夢には亡き父親が好きだった単調で平和なポップスが取り憑き、逆にダリルの夢には(解体と構築を繰り返す)フリー・ジャズ的な運動性への嫉視が現れているように、実際にはどちらも標準から遠く突き放されながらも、同じように理想的な運動を夢見ている存在である。それは、現実のポップスとジャズもまた、切っても切れない緊張関係にあったかの如く。
そして更に、規律違反を犯してでも画面に音を取り込もうとする彼らの欲望は、各々の足場から互いの理想を新たに洗練させようとする「アニメ」という歴史の複数の糸を反復している。そのような(悪)夢同士の緊張関係こそが、閃光の如き崇高さを放ちつつも、しかしどちらか一方のものにならないまま共有されて行く奇妙で正体不明の事後的に立ち上がる「アニメ」という媒体なのだ。

(3)猥雑であること
さて、以上が本稿における軸(ルビ:フレーム)であり、句(ルビ:フレーズ)である。その軸はまさしく画面の異物であるところの音声に関わっている。そして、こうした軸を用いながら『機動戦士ガンダム サンダーボルト』の分析、再構築をより具体的にして行く反復行為の中では一つの指針を貫くことが重要になって来るだろう。
それは本質的にシンボル操作であるアニメにおけるフレームと音の歴史を断片(それもまたシンボルである)へ解体し、再構築する中で上書きすることである。
そもそも大田垣康男によるマンガ『機動戦士ガンダム サンダーボルト』のアニメ化にて監督を務める松尾衡が特異なのは、一般的に「アフレコ」が主流とされて来ている日本の「アニメ」業界で、珍しく「プレスコ」での制作を選択して来た人物だという点である。
近年になって、ようやく他の「アニメ」でも「プレスコ」の作品が増えて来たが、未だ日本においては、その理論的な軸はただ音声と映像のシンクロ率を高め、現実性を強めるために「作家」が用いる特殊な手法という単純な枠内で収まっているように思われる。
だが、歴史的には「アニメ」に対する「アフレコ」手法の結び付きは必然的ではない。
更に、事後的に立ち上がる奇妙で正体不明な(筆者が寄稿した過去の文章に寄せるなら「無銘」の)主体が「アニメ」の表現に利して来た点も多々ある。
この遅れを「プレスコ」制作された作品を通じて取り戻すことこそ、松尾の特異さだけではなく、広く「アニメ」一般に残されている可能性を掘り出すことへも繋がるはずだと考える。
上記の「プレスコ」とは、アニメにおけるフレームと音という異物の重要性を示す一つの範型なのである。本稿はその範型を反復することで、以下の内容を目標とする。
第一に、日本の「アニメ」がこれまで長い年月を費やして「象徴」と呼べるまでに試行錯誤して来た表現の中でこれまで見落とされがちだった映像の視覚的修辞性、例えば演出などが対象に対する思考のフレームとして与える影響を梃子に、アニメが持つ複雑性を、公用語論などを参照しつつ再考すること。
第二に、そして、その抽象化された「象徴」的な映像に対して、視覚の修辞性と同様に、音声がフレームとなって与える影響を、認知心理学詩学などを参照しつつ再考すること。或いは、そのような映像と音声の交わり方が、これまで正統的だと考えられて来た身体の動かし方とは異なった方法論の模索であったということを、演劇や映画などを参照しつつ再考すること。
最後に、上記のフレーズを即興で繰り返しつつ引き伸ばし変形すること、この点で本稿自体がジャズ的であることも目指す。時に「作家」という主体の意図から積極的に外れることすら厭わず、複数人による猥雑な会話(セッション)の中に、読者を引き入れたい。
上記の可能性を評価する以上、本稿もまた、単一の明確な「作家」という主体の意図が隅々まで行き渡った輪郭を持つ文章ではなく、始まりも終わりも不明瞭で、時に作品から遠く離れた話題も交えつつ複数人で交わす雑多な会話のように努める必要がある。それは、例えればシュルレアリスムにおける「自動筆記」やジャズにおける「即興」などのように。
前衛的であることを評価するためには、そうした実践の徹底も要請される。それ故に、本稿は一般的に論文が期待されるような結論へ明確に辿り着くことをあらかじめ放棄していると言っても過言ではない。しかし、そのような文章も、同人誌だからこそ可能になる醍醐味の一つとして読者の方々にご了承頂ければ幸いである。

 

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以下章立て


第一部 「かな/真名」論の応用と展開 象徴の構築
2.「アニメ」の系譜的不純性
(1)「東映系/虫プロ系」区分の解体
(2)アニメの系譜的「かな/真名」性
(3)「かな/真名」混交事例①
3.アニメの視覚的修辞性
(1)「作画/演出」区分の解体
(2)変化における「かな」/「真名」性
(3)「かな/真名」混交事例②
4.視聴覚体験の複層性
(1)「映像/音」区分の解体
(2)画面と音における「かな/真名」性
(3)「かな/真名」混交事例③

Interlude 諸混淆事例と「サイレント映画」批判

第二部 アニメにおける「声」の問題 デペイズマンと事後的主体

5.二つ以上の声と画面
6.二つ以上の声と声主
7.二つ以上の声と肉体
8.二つ以上の声と政治

Solo Part 外部から呼び込まれる声と記憶

9.「無銘」のものたちと向き合うこと
10.線形的な時間から切り離されたもの


以上-------------------

 

 

新刊vol.7.0全体目次は下記

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【 期間限定公開3】アニクリ vol.7.0_3『メイドインアビス』論 上下・生死 反転・逆転する世界 あんすこむたん #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

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上下・生死 反転・逆転する世界 『メイドインアビス』論
あんすこむたん


1、時間の反転


 第1話のラストシーンで示されるのが、「ここはどこか」という問いへの道半ばの答えといえようものだ。かつてそこへと姿を消した母のナレーションとともに、アビスと呼ばれる奈落が、どこまでも底なしに、下へ下へと続いている様子である。
 下に行けば行くほど、「遺物」と呼ばれるものの「貴重さ」(文明の発達度)が上がっていく。これは、我々が日常的に出会う地層とは逆の働きを持つ証拠だ。通常であれば、現在に近い浅い遺物こそが先進的であり、その下にはより原始的な歴史の産物が堆積し、層を成すはずだ。たとえ、失われた過去文明という言葉に甘美で深遠な響きがあるとしても、過去の遺物は地層を掘れば、知られるべくして姿を現す。もし失われた過去文明があるとしても、その下には過去文明のそのまた前の原-歴史があるはずだ、というわけだ。
 しかし、アビスにおいて事は別だ。アビスにおいては、掘れない地層の下にこそ、未知の空間と時間がある。それは死んで固定された積層でも遺物でもない。それは歴史の遺物ではなく、今なお生命活動を続ける、現在の我々には手がとどかない未来の片鱗なのだ。そちらは、我々の文明を超え、我々の言語や欲望や信念を超えている。「呪い」に現れているように、そこでは我々の姿形といった第一次性質さえ変容可能なものとなる。私は私の身体さえ超え出てしまうのだ。
 いわば本作でいう「遺物」とは、未来から浮き上がって来たあぶくのような存在だ。未来の彼方から、それは現在にやってくる。アビスの淵・オース周辺に属するそのあぶくたちは、現在にほど近いところにある。それが故に、なんとか到達可能な未来の予兆である。未来のその底に届かないのは我々の足が遅いからではなく、我々の力が足りないからである。そこは危険に満ち、日常ならざる稀な、危険な生物と遭遇する可能性が上がり、底は未だ掘り崩せない。現在においては掘り崩せないそのものこそが、未知の未来と呼ぶにふさわしいものだ。

2、上下の反転
 リコは、自分の母親であるライザが残したとされる封書を受け取る。リコはそこから「奈落の底で待つ」という言葉を、自分に充てられたメッセージとして受け取り、自分が発見した(あるいは発見された?)ロボットとしてのレグとともに、アビスの底への冒険へと出発する。
 アニメに限らず通常、「上」はプラスのイメージを、「下」はマイナスのイメージを強調する作用を持ってしまう。しかし本作では、設定においても画面においてもこのイメージが見事に反転することになる。一般にアニメにおいても、カメラワークによって「キャククターの心象を映像から分析できる」ものであるにもかかわらず、本作では構図が綺麗に反転していることは、本作を見る上で常に頭に入れておく必要がある。
 深遠の底は、オースの民にとっては恐れの対象でありながら、時にアビス信仰の名の通り崇敬の対象である。下を見る視線というのは、無気力さの表れではなく、未だ見えざる深遠を渇望する意欲の表れなのだ。さらに、リコにとっては、自分よりも先の時間を生きる母親を探す旅であり、自らの出生の地へ向かう旅でもある。リコの信念に従うならば、レグにとっても、アビスの底への沈滞は自分の記憶を探す旅であるのだ。下を見るというのはすなわち未来に向けられた活力に満ちた働きを指すのだ。
 EDアニメーションにおいても、アビスの底へと降りていく様子が明るい音楽とともに描かれているのは、一つの象徴である。
 この反対に、上に引き返すことは希望への飛翔ではなく、安全なオースへの帰還でありながら、「上昇負荷」「アビスの呪い」というペナルティを受けることを意味する。上への目線は不安の目線だ。リコから見れば、母親や自分の出生から逃げることをも意味してしまう。上を見るというのはすなわち現在のまま、現在の存在だけに安住したいという逃避の表れに他ならない。

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以下章立て

3、 屈折/不屈の反転
4、生/死の反転
5、希望/絶望の反転


以上--------------------------------

 

 

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