書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

2013/06/09『中二病でも恋がしたい!』視聴感想:恋を”しない”中二病、恋を”知らない”中二病…「妄想の…交差配列」

「大幅に書き換えて別紙掲載予定、」としてましたが、掲載予定もずいぶんさきになりそうなので、現段階(2013/6/14)のものを載せておきます。

 

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0、序

 

(1) 『中二病でも恋がしたい!』(『中二恋』)は、中二病の過去を消し去りたい高校生富樫勇太と、目下中二病を生きる小鳥遊六花が、自身の中二病との関わりを反省する中で、お互いに向き合う過程を描いた恋愛劇である。

メインキャラクターである、富樫勇太、丹生谷森夏はかつて中二病を患っていた。彼らは、現在においては、その過去に苛まれ、その過去を懸命に(ときに滑稽なほどに)打ち消そうとする、それは「忘れたい」「なかったこと」でなければならない「恥ずかしい」ものなのだから。これに対して、小鳥遊六花凸守早苗は、目下、中二病を生きている。勇太と丹生谷は、当初は(自分の「過去」そのものを想い起こさせる)六花、早苗の中二病を拒否し、矯正しようとするものの、物語中盤にかけては、それを受け入れ、楽しみ、ときにそれを助長しさえもするだろう。

 

物語が急展開を迎えるのが、後半、学園祭において、六花とその母親との確執が明らかになるときである。六花は父の死を受け入れられないことから(※後に見るように、実はこれは真実ではない。この誤認にもまた意味がある。)、母との間に心の溝が深々と刻まれている。ここで、勇太は、六花の母親が娘を想う心情を目の当たりにして、六花を「現実」に生きるようにと強く迫るのだ。勇太は、六花の中二病の象徴でもある眼帯を無理矢理剥ぎ取ろうとし、六花を「現実」へと引き戻そうとするのである。六花は勇太がそういうのならと、中二病的妄想を捨てる。しかし、六花にとって、中二病的妄想を棄てることとは、「普通の」「ただの」一般人の目線から見られた、ただ一つのこの「現実」を生きることを意味する。六花はこの「現実」、父の死んだこの現実を、そのように生きねばならないことに、深く傷つく。

 

しかし、最終話、このような六花を、再度勇太は救い出す。かつて「中二病に救われた女の子」である六花に、再度、自身の歴史(ダークフレイムマスター)を明示的に見せることを通じて、妄想の中の「不可視境界線」の中で死んだ父との「さよなら」を結実させることによって。つまり、再度六花に中二病を再獲得させることによって、六花の笑顔を取り戻すのである。

(2) さて、このように書くと、勇太が六花に向き合う仕方をころころ変えていっただけで、とうの六花はそれに振り回され続けただけ、あえていえば、結局中二病回帰の物語ではないか、と訝しがる向きもあるかもしれない。六花は、妄想から現実へ至り、再び妄想に回帰したと。あるいは、ナレーションが語っていたように「それは産まれてから死ぬまで人の中で永遠と繰り返される、果てしなく繰り返される。悲しくて恥ずかしくて愛おしい、自意識過剰という名の病。自分という名の避けては通れぬ営み。そう、人は一生中二病なのだ」と。

しかし、彼らは、単に中二病に回帰したわけではない。例えば、12話で一旦船の光について「ただの光」といっていたのに対して、13話ではその認識の上で、遊覧船から見る街の光をみて「きれい…」と頬を紅潮させていたことが挙げられる。つまり、六花はここで「普通の光」を見るとともに「きれいな光」を見、さらに「不可視境界線」に繋がる妄想をも見ている。そこでは、現実も理想も妄想も、ともに同じ地位を併有している。

(3) このように、『中二恋』は、中二病的妄想を重要視するとともに、それを全肯定した物語ではない。では、彼らはどのように中二病と向き合ったのか。それが恋に向き合う二人の仕方と重なる。

最終的に勇太と六花が付き合うことになるとしても、二人は「恋がしたい!」わけではない。先述した「光」を巡る会話で顕著に表れるように、二人は、現実の、ありふれた数々の「普通」の恋に全面的に乗ることはない。そのスピードも、その距離も。彼らは、13話で述べられるように、自然に、二人で中二病という病を引き受け、それを生きているのだから、「俗世」の理などどうして気にかけようか

(4) もともと二人は、外の現実の変化を受け入れるために、妄想を作り出してきた。その妄想は、現実から目を背けたり、現実に適応することとは異なり、別様でもありうる現実を生きることを可能にする。妄想を、現実からの逃避手段としてではなく、ポジティヴな生成力と捉えた上で、妄想と共に生きること、現実に絶えず妄想を混入し続けること。それが二人の、「普通」でありながら、中二病的妄想と恋に彩られた日常の形にほかならない。

 

 

1、妄想中二病における妄想

 

(1) 中二病者は、過剰な自意識が作り出す妄想に耽溺する。とはいえ、それは外の現実に対して盲目であるわけではない。凸守がいうように、中二病者も妄想が「現実ではない事くらい解っている」。では彼らは何を見ているのかと言えば、外の現実に、別の意味を重ねて見ているのである。

戦闘シーンを思いだせばわかるように、各キャラクターの行動は、逐一、現実における行為になぞらえられている。(ジャンプするときにその高さを誇張することはあれ、ジャンプしていないということはない。そこでは言葉が、物質と同様の重みを持っているにすぎない。)

中二病は、起こってしまった「現実」を拒絶する道具ではない。そうではなく、「現実」を受け入れるとともに、それを咀嚼するための色彩を自ら構築するための役割を果たしている。中二病は、過度な「現実」の浸食と、「現実」に即応するためのでき合いの経路選択の強制から、身を守る術として機能する。中二病は、現実と(択一的に)対峙しているのではなく、現実を能動的に受容するためのプロセスだといえる

 

(2) しかし、そうはいっても、中二病は無力でもある。十花との戦闘において六花はついぞ勝つことはできないし、凸守もまた卒業後の六花に影響を与えることができない。

もともと中二病は、「世界から取り残された」自分を、この世界に繋ぎ止めるために生み出された妄想だ。それにもかかわらず、妄想は他者と共有が困難である。だから通常、中二病は守りきれない(「ダークフレイムマスター(勇太)がいたから邪王心眼をここまで守る事が出来た」)。

中二病者といえども、他者に自分を理解してもらうためには、単一の「現実」、常識を共有しなくてはならない。しかし、六花のように、この単一の「現実」しか存在しないことを憂う場合、その悲しみは「現実」にも「妄想」にも行き場を失い、彷徨ってしまうのだ。

六花が、最終話、中二病「卒業」後の「現実」に特段の救い・意味を見いだす事はできないのは当然である(だから、勇太のもとを去る)。かつての父の死の後、中二病全開の勇太に出会うまでの六花と同じように、中二病卒業後の六花も、ただただ過ぎ去る「現実」を「当たり前のこととして」消化することしかできない。そこには色が無い。ただ過ぎていく、ほとんど時が止まったような、死んだような生しかない。そこには、世界に対する肯定が欠けている。

 

(3) もとより、六花の中二病を患ったのは、父親の死に原因がある。六花は父の死に深く傷ついた。ただし、父親の死を受け入れられないために、父の死を誤魔化すために、中二病が発症したわけではない。言い換えれば、父親の死から逃避するために、中二病を患ったのでは決してない(この点につき、勇太は終盤まで「逃避」だと誤解していた。ナレーターの役割を担うくみんを介して12話で知る)。

六花は、中二病であった勇太を見て、その現実を彩る信念の強さ、その「かっこよさ」に憧れたのだ。六花は父の死という「現実」を受け入れられないのではなく、受け入れられた単一の「現実」だけを生き抜くことに耐えられないでいる。だから、六花は、父親を忘れないために、過去のものにしないために、現在において、妄想的に、父親を呼び出し続けるのである。(父の死という)「現実」における欠如に耐えるとともに、「現実」に即応しなければならないという社会的圧力の中、言わば二重に塞ぎ込んだ生を解き放ち、そうではない別の色合いとともに肯定的に生きることを、妄想は可能にしてくれるからだ。

現実が、妄想によって重畳化する。それによって、世界は「きれい」に光輝く。現実化する妄想によって、そして、妄想が重なり合った現実によって。

「かっこいい!」と六花が述べる際、そこには妄想によって彩られた世界に対する肯定がある。そして、ここにこそ、「中二病によって救われた女の子」である所以がある。

 

 

2、妄想:恋における妄想

 

(1) 上記の中二病の妄想が、意識において、現実を別様に見る方法であったとするならば、『中二恋』における六花の恋は、無意識において現実を別様に見させるものであったといえる。ここに、妄想の二つ目の型がある。

六花は、恋による身体反応により、予期せず中二病妄想を用いれなくなる。六花に解るのは自らの身体反応とその徴候だけだ。

だが、六花は同時に、勇太宅に泊まるときに、誰もいない空間に「誰か」を見る。「誰っ!?」と呼んで飛び起きるも、そこには「現実」には誰もいない。しかし、鼓動は早まるばかりである。そこには(妄想という点で、不在を存在に替える)誰かの目があるのだ。

告白場面においても、六花は恋がなんであるかを殆ど理解していないようにみえる。六花の「小指」の距離(告白場面、13話)は、理想(虚構)に自らをあわせるためではなく、現実の身体が許す速度に自らを委ねた結果である。あるいは、(傘無しで)六花-勇太が向き合う形は、この段階では、二人が同じ方向を向く方向(六花の頭が勇太の背中に接する方向)でなければならない。二人が方向を同じくして、(恋を、互いを)見ないとともに見るということにより、六花の恋はその遅い歩みを始めるのだ。

このように六花は、タイトルにあるように(どこかにあると想定される)「恋がしたい!」わけではない。六花は、現実の距離の揺れ動きを、身体でまさに生きているのだ。

 

(2) 告白場面においても、劇場版においても、六花は「現実」のしきたりや取り決めを真に受けている様子はほぼない(「俗世のしきたりなどに何の意味がある」劇場版)。約束などなくとも、「契約は既になされている」のであるから。

もとより、特殊な仕方で目を合わせることが、より高度な契約を完成させるという事は、逃避行中の夜の電車で示されていた。六花は夜の電車の窓を介して、その写った勇太の像と目をあわせる。それは、相手を見ずに見ること、相手を見ずに(ガラスに写った)相手の残像を見ることで完成されるだろう。

ただし、自らに目を合わせる事を許す上記のおまじないも万能ではない。その斜交いの直視を、六花は、再度(でもゆるやかに、そして背面ではなく正面から)傘で覆わなければ、耐える事ができないでいる。それが六花の現在の、現実の距離だ。

 

(3) 六花の恋は、規範に縛られることではない。勇太との距離を、現実において縮めていくプロセスを生きることに他ならない。それにも関わらず、「現実」として「普通」を強制し、(生の形を自ら与える能動的な行為を類型的に)逃避と呼んではならない。

※だから、現実が強固に押し迫ってくるにもかかわらず、能力的に何かを成し遂げる事ができない14才前後の時期に、中二病が発生しがちなのだろう。しかしそれを嗤うべきではない

 

 

3、光と妄想「不可視境界線」

 

(1) 六花は子供の頃、父の死後に少なくとも一度「不可視境界線」を見ている。境界線の向こうには父が本当に見えたとされる。ここでは、不在の父を「現実」へと召喚するための経路として、不可視境界線が妄想されたことになる。

そして、2年後の夏の夜、姉の十花から、その境界線は「現実」のものではないと諭される。「もはや(父・家が)無い」のが「今」だとされる。それでもなお、六花は「不可視境界線はある」と主張していた。勇太は、当初はそれを「現実」的に(「六花は現実を受け入れようとしている」etc…)解釈していたが、夕焼けの空を見ながら「不可視境界線くらいあったっておかしくないって思えるんだ」としてそれを信じると主張した。それが、可視と不可視の境界をまたぐ存在としての勇太と六花の邂逅の瞬間だ。

 

(2) しかし、その後、直ぐに勇太の促しにより、六花は中二病を卒業してしまう。かつて街の光、走っている光(車の光)を見て、「きれい」だと評していた六花は、中二病を卒業することで、光を「不可視境界線」類似の物として認識できなくなる。それは「普通の光」「ただのヘッドライトの光」にすぎないものにしか見えなくなってしまう。更には、部の解散とともに、見つけなければならなかった「不可視境界線」(夏の夜、屋根から逃れてまでさんざん一緒に探したそれ)は、父への墓参り(遅れた喪)とともにもはや探究対象から外れてしまったかに見える…

※勿論、街の光そのものは、中二病を卒業した六花のいうように「普通の光」であり、物理的な光以上のものではない。この一義的な「光」以上の意味は物的にはなにもない(「いくら信じてもないものはない」)。「見えるものを享受するだけの一般人に成り下がっているかもしれない」と2年前の勇太は、2年後の勇太に書簡で警句を発していたが、それはそのままこの六花にも当てはまる。「不可視境界線」は不在の対象として措定・固定され、現実からすれば脇へと措かれ、存在するのは物理的な光だけとなったのだ…。以上が、誰にでも通じる「普通」のことを「現実」として処理する過程である。

 

(3) 先述したように、文化祭の場面において、「現実」をみせないでいる自分に自責の念を覚えた勇太は、その自責(詰まった「現実」)から逃れるために、六花の眼帯を外し「現実」を見せようとする。あるいは十花の「まともになれ」という発言を真に受け、「何もなかった事になる」ことを肯定し、「終わってしまう」ことへと向かうことを拒否せずに、受け入れようとする。

しかし、これまでみたような六花が世界と対峙してきた立ち方を見ることなく、「あいつが求めているものは永久に手に入らない、それを肯定するのは無責任だ」とする十花の発現のほうがより無責任であることは明白だ。ここでは「現実」は、関係する他者あるいは一般的他者の求めるものと等置されている(「行けばママが喜ぶと思う」、「六花がそうしたいって言うなら…」)。しかし、それは、「求めているもの」とどう関わったらいいのかを考えさせる前に、その機会を取り上げる様なものだ。そのような通俗的な承認によって構築された「現実」は、余りにも「現実」を単純にし、それを強制するものとなっている。

(例えば、六花が中二病グッズを片付けなくてはならない場面で、悲しくも「片付けた方がいいものとそうでない物の違いが解らない」と述べていたことを想起しよう。ここでは、六花は、自分の意志ではなく、他者(ここでは母)の心配の対象を先取りしようとするために、混乱している。物が物でしかないという認識と、その物に思い出が化体していることとは、矛盾しないにもかかわらず、六花は、それを区別すること無く棄てようとしていることがよくわかる。)

 

(4) 作中何度か「爆ぜろリアル、弾けろシナプス、VanishmentThisWorld!」と六花は、そして勇太は叫ぶ。そして、その呪文は、12話、六花を迎えにいった勇太の叫びとともに、「現実を(爆ぜて、そこに生きる大地へと)作り替えるために」存在していたことがわかる。

そして、そこでの現実とは、これまで見てきた様な、通俗的な承認によって構成された「見える」ものではない。その現実とは、構成されてしまえば「見える」ものでありながら、その手前では、不可視のままに留まる妄想の重なり合いによって次へ次へと更新され続けるものだ。

既に主題歌はこのことを予示していた。「理想も、妄想も、現実も、全て君を軸に回る…新しい世界へ…」。理想は現実に、現実は妄想に、妄想は理想へと絶えず写像される。しかし、それでいて、それらの三項は、写像されるがまま、相互に還元されるままには留まらないだろう写像が一回限りで終わらずに繰り返されるチャンスが残されていること…それが現実が新しい世界を作り出す条件であり、理想がその糧として成立するチャンスを保持する事でもあり、妄想が理想を解体しつつ再度現実をもたらす過程と呼ぶべきものではないだろうか。既に重なった現実を見よ、しかし、来たる現実に妄想を重ねよ!

ここから六花は、12話において、自分の目の半分を眼帯で隠して、つまり「現実」を半分だけ見ないで、半ば不可視のままに現実を構成する方向を選ぶことになるのだ。妄想によって世界を作り替えるために。

 

4、結論:理想も妄想も現実も

 

六花は、中二病の記憶を保ちつつ、非-中二病的視点を頑に否定する事のない六花となっている。かつての六花は現実への対抗として、妄想たる中二病を打ち立てたかもしれない。しかし。いまや、六花は「現実」を受け入れるとともに「妄想」を保つ。それは、中二病の過去を区切り、「普通」の名の下に過去を切り捨てる事ではない。そうではなく、中二病を連綿と続く現在において生きる事を六花は選んだといえる。

その選択は、現実と妄想をオッドアイのもとで(特に眼帯により半ば閉じられた形で)、可視と不可視の狭間で、二重に同時に見る事へと繋がる事になるだろう。過去を見すえる六花には、妄想を現実の代替物に据える機能ではなく、妄想が現実を形成していく機能が独立して新たに付与されている 

以上のように、六花を見ていると、恋は、立体視を形作ってくれる両目の正視・距離を把握する直視によってではなく、オッドアイの二つの独立した距離の感覚を併せ持つ斜視(それは統一的な立体視を撹乱し、複視を成立させる…)によって、初めて完遂されることのように思えてくる

中二病と共に生きる、恋とともに生きることは、同時に、現実に絶えず妄想を混入し続けることで、複数の現実を同時に生きることにほかならない。そんなことを、弾むように揺れる六花の身体と生は、視聴者に示し続けてくれる。

 

 

補、『中二恋』のフォーマットについて(未了)

 

映画、内容は六花の目線からの歴史追行。

形式上、ところどころぼやけた描写が多用される。記憶だから?妄想だから?

さながら公式によるMADムービーの様相を呈している。ストーリーを読むには速すぎる。しかしそれでも構わない。もともとがファンムービーと盛大な予告の機能を持っている。

 

 

【脚注】

1※(特に森夏は「偽者」性を解除するために(真の卒業を認めさせるために)敢えて中二病モードで戦わなければならなかったし、その後も、中二病からの卒業に「ムキになりすぎている」ことをやんわり指摘したりするなど、中二病に対して寛容な受容的態度をとっている。ただ森夏は眼帯を外させた際に「これでよかったんだと思うよ」として、必ずしも中二病への受容的態度が定まっているわけではない点には留意が必要である。)

2※数学のテストに向かう過程(を引き延ばそうと画策する様子)を描く原作と異なり、TV版では、もっと直接に、中二病がもたらす他の人との齟齬・衝突・葛藤が描かれる。※学校のテストを中心に(六花-勇太の関係を)回していた原作から、中二病という不可避の妄想傾向への向き合い方を中心に(六花-勇太、森夏-凸守の関係を)回すTV版は、話のテンポが格段によくなっていた。

3※森夏から(目をあわせられない、鼓動が止まらない、全身の毛穴からetc…)身体状態を言葉によって、恋として定義付けられたときも、それを受け入れられない。というか、それを受け入れる事がなんなのかを理解していない。六花にとって、恋は現実の揺れ動く距離に、自らを合わせるその仕方によって定義される

4※だからこそ、六花が勇太を受け入れようとするときも、それを「恋」の言葉として受け入れることを意味しはしない。「我が盟約に従い命令を聞け…」という六花の願いは自らの目に(輝く石)を押しあてられることで完成される。それはおそらく六花が、勇太の目を見るために、その勇気を得るために必要となるおまじないだ。六花にとって恋の現実とは、いまのところは、目を見つつ見ないこと、目をしばし合わせることにほかならない。

5(※なお、それにより、六花は恋心により目を逸らしていたはずの勇太、一時的に不可視となっていた勇太を直視する事ができた。このことは、不可視境界線が、それを信じる事で、その彼岸の対象を可視化する機能を持つ事を示しているようにも思える。)

 

6そして、そのような意味で、六花の現実の恋は、視聴者にも、現実とアニメーションの狭間において、オッドアイが作り出す二重の距離感を探究するようにと促すものであるように思う。

 

 

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中二恋2期を見終わっての所感(2014/4/3)。(見直してないので未了段階Twitterメモの集積)

2期最終回は1期13話のようなもので、ファン向けの仕様。8話-11話の七宮の中二病との対峙部分を増やして、七宮を展開上有効活用してくれたら嬉しかったのだけど、それはやむなし。

※ 1期については、下記のとおり: http://nag-nay.hatenablog.com/entry/2013/06/14/162503 

 

 

【目次】

0、導入

1、問題:「現実世界[ゲーム]が僕らを追いつめる為にあるならば?」

2、中二恋2期の主題;中二病の貫徹の方法とは?

3、不可視境界線を幻視する方法:多段式妄想

4、まとめ:煉獄への妄想、最終奥義「Purgatorial fascination」

 

 

 

0、導入

 

中二恋2期は、中二病の保持の仕方という点において、1期とはその趣を異にしている。

1期では、その最終話において、かつて在りし過去、中二病を、単に忘却させないこと(中二病のある種健全な形)が取り上げられた。中二病は単に打ち捨てられるべきものではなく、現実からの逃避でも、現実への諦念でもなく、現実を別様に見ることでそこに選択の余地を打ち立てる道具として有効な機能を果たす。しかし、中二病はそこでは、保持しようとする意志さえあればそこにあるもの、としてしか認識されていなかったように思う。

しかし、恋によってすら世界と身体を一元化したがるのだから、この世界の反中二病的単純化の圧力は深刻だ。中二病は依然、脆弱なままである。単一の過去の救い方として、「現実を複数の妄想で彩り、現実を妄想とともに生きる」という方法論はまだ生ぬるかったといえる。

それゆえ中二病の貫徹というテーマは望ましいものではあるものの、2期においては、そんな中二病が自然には貫徹できなくなるという病(健全な中二病に取り憑く病理)が、七宮をとおして主題化されていた。11話、七宮の「バイバイ」が示すように、中二病の妄想をもってしても、それ単体では(たとえ現実を複層化しえたとしても)余りに弱く、時が進んでしまうことで収斂する連環天測の現実[=ゲーム]、「僕らを追いつめるためにある(現実[=ゲーム])」に抗うことはできなかった。

ただ、こんな七宮型の中二病は、現実に敗北した「孤高の弱者」の劣等感を、自己慰撫してくれるツールに堕してしまっている。これではまずい。そのため、中二病を、①単に拒否し、視界から遠ざける(1期前半型)のでもなく、②単に真正面から対峙し、そうして受け入れる(1期後半〜七宮型)ような現実[=ゲーム]でもないような仕方で解放しなければならない。すなわち、③現実の生を(視認しえない速度を誇る邪王心眼ばりの妄想を受け入れるほどに)膨らませる形で、中二病を増殖させ、世界を「狂わせ」、その妄想に六花以下の面々を再度連れ出さなくてはならないように思われる。それが二期の主題であるだろう。

 


1、「現実世界[ゲーム]が僕らを追いつめる為にあるならば?」

 
現実世界-ゲーム-が僕らを 追いつめるために存在(あ)るならば せめて朽ちぬほどの馬鹿でありたい
 (Black Raison d’etre – Van!shment Th!s Worldより)

 

まずは、OP歌詞とED歌詞から、2期全体を振り返りたい。(流石に歌詞はよく出来ている。)

OPでは、「言葉じゃない声」に「触れ」(touch voice) 、「君の世界を変えられたら」と歌われていた。世界は、触れられるその距離によって、別様に変化する。願いもまた「再び違う夢にな」り、そういう「二つの糸」のからまりが、二人の世界を作りだしていく、というわけだ。

しかし、EDにあるように、そんな二人もまた、「現実[ゲーム]が僕らを追いつめる為にあるならば」と歌われる世界の中、現実世界へと投げ出され、「追い詰め」られることになることは避けられない。

世界へと投げ出され、「追いつめられる」というのは、世界へと投企された自己を見出すということだ。勿論、世界の理のヴェールは剥がせるだろう。しかし、それでは世界の理に開かれはしても、世界に抗うことはできない。そのため、実践的には、怨恨に由来する価値転換と殆ど大差なくなってしまう。例えば実際、過去に鍵を送るには平行世界を使うしかないと七宮は述べ、七宮はその鍵が開く過去と対峙することで、現実世界の理、回帰する連環天則に向き合い、敗北し、かつ、その敗北を受け入れる。これ自体は間違ったことではないけれど、上手に諦めるためになされた「朽ち」行く弱者の撤退戦ではある。いわば、七宮には撤退を通じた、小さくまとまった日常を肯定することしか出来ない。「葬りたいのは、絶望するしか能がない、愚かな劣等感」なのだが、撤退を繰り返す七宮はこれに嵌りかねない。

ここで、より困難ではあるが、そんな日常の外を希求する方法もまた存在する。それが「愚者」が虚妄の下に、(①世界”に”ではなく)②世界の方”を”投げ出すという方向であり、(世界ではなく)主体の生の技法の方を転換するという方向だ。即ち、六花のように、現実を諦め受け入れつつ同時にその現実の「異常[イマ]」をも壊す術もまたある。目にも留まらぬ速度で「異常[イマ]」の世界を「狂わせ」つつ「無へと還るまで」進ませるのが、邪王心眼最終奥義「Purgatorial fascination」(煉獄への幻惑)であり、そこでは、理想も現実も手が届かない妄想・夢の生成力が保持されていたことが思い起こされる。そこでは、妄想の下に繰り返しrenewalされる生自体が信念の対象となっていた。9話以降、六花が信じるのは、勇太が信じてくれた、中二病と恋を共に膨張させつつ生きる、六花の不可視の速度である。

「運命」は、①七宮的に固定された連環を巡るのではなく、②「行動そのもの」と一致する。(そもそも加速は、無時間的に見られるものではなく、見られ続けることで始めて可視になる。)その運命を掴む妄想は、過去に見出された(七宮型の)「もしもあのとき」(9話)という平行世界の連環にではなく、未来の平行世界の創出においてこそ、その真価を発揮する。過去と未来のそんな非対称な視線が見出す、不可視の来たる現実へのデコイ射出こそ、世界を「傾く」六花の行き着いた、新たな中二病の生の技法なのである。

この中二病の生の技法は、現実からの逃避でもなく、過去への回帰でもなく、また過去との対峙と現実への順応でもない。かつて二人が見出した不可視境界線もまた、このような現実逃避でも現実回帰でも現実への順応でもない、可視領域から絶えず逃れさるものを名指そうとしたものだった。それが、かつて在りし確定した過去(それは可視である。)でも、来てしまえば確定する未来(これも可視である。)でもないもの、即ち、更新される現在から妄想されたこの次に重なり行く特殊な時間のことであるといえるのではないだろうか。

異常[イマ]に凝り固まった「これまで」(現実)とも「これから」(理想)も、目に見ることができ、連環天測によって捕まえることもできる。しかし「運命」は、既に見たように、これらのとは異なり、連環せずに永劫に生成されるものであるだろう。来るべき不可視の運命たち、現在の別様なあり方は、過ぎ去る日常にではなく、「運命=行動そのもの」の中に、姿を潜めている。中二病の生の技法は、別の速度で、あらたに「違う夢になる」という不可視境界線への予期とともに、このような別様なあり方へと、六花を連れ出すのである。

 


2、中二恋2期の主題;中二病の貫徹の方法

 

中二病を、①単に拒否し、視界から遠ざける(1期前半型)のでもなく、②単に真正面から対峙し、そうして受け入れる(1期後半〜七宮型)ような現実[=ゲーム]でもないような仕方で解放しなければならない。すなわち、③現実の生を(視認しえない速度を誇る邪王心眼ばりの妄想を受け入れるほどに)膨らませる形で、中二病を増殖させ、世界を「狂わせ」、その妄想に六花以下の面々を再度連れ出さなくてはならないように思われる、とは既に述べた通りである。

※事実、七宮もこの点には気づいていたように思う。七宮のいう11話「最終決戦」がなぜブルームーン(=決してあり得ないこと)の最終決戦かといえば、①過去と対峙する確率が低いからでも、②対峙がこれからも続くからでもなく、③過去との対峙によって現在を駆動させうるという嘘に七宮が意識的に取り組んでいるからだ。嘘の魔法とて自分だけは騙せない。彼女に取り、中二病も恋も(奇妙なだけで)嘘ではなかった。しかし、中二病を中心化しつづけた七宮、かつて恋を殺して中二病に生き、いまや中二病が内破し対峙した七宮の「バイバイ」は、そんな意思の瓦解を示す。11話では、現実と虚構を繋ぐ突風が、中二病をかつ提起、今生きる者達の間に吹いている。中二病と恋を、求めることなくたゆたう非意思へ。中二病の別の形としての意思なき放浪へと、彼らは向かわねば成らないだろう。

しかし、具体的には、この③の方向とはどのようなものか。思うに、構成要素としては、大きくは、a.)(関係を無時間化しようとする「契約」を振り切って進む)妄想と時間の関連、b.)(森夏的に問題を解消しようとする「日常」を振り切って進む)人間関係と時間との関連、に区分されるだろう。

※短絡か永遠か、という違いはあれど、そのいずれも、無時間的なものに帰着しがちだからだ。


a.) 妄想と時間


中二病者は、いかに過去と対峙し、それを受け入れても、それだけで現実には打ち勝てない。いわば、新たなフェーズへと運命が収束を繰り返す、現実という「ゲーム」には敗北し続ける。

たとえば、11話までの七宮を例に取ればよくわかるように、(六花か七宮か、あるいは、中二病か恋人か、という)択一的な選択を強いる恋の理(=収斂する連環天則)に、七宮は絶えず敗北し続けている。少なくとも、七宮はそういう振り切り方を意識的にとっているようにみえる。

七宮は、かつて在りし過去を忘却するのではなく、その過去と対峙することで、流れる現実を受け入れるところまでは「追いつい」た。しかし、それはOP風に云えば、現実に「追いつめられた」結果でもある。七宮は、現実に「追い詰め」られたことを、解釈によって、ポジティヴなものに価値転換したに過ぎない。勿論、園解釈によっては、事態はなにもかわっていない。「葬りたいのは、絶望するしか能がない、愚かな劣等感」とEDでも謳われていたにもかかわらず、ここではその絶望が形を変えて再来しているように見える。

だからこそ、主題歌のルビの示すとおり、今度は六花が、現実[ゲーム]と現在[イマ]を、①逸らすことでも、②受け入れることでもなく、③爆ぜて「無へと還るまで」「異常[=イマ]をぶち壊」してしまわねばならないと考えているように思われる。六花によれば、世界の流れに追いつくのではなく、世界の流れを「傾き」別様に流さねばならない…

…EDでは「異常」という語に「イマ」というルビが振られている。世界の現実は調子が「狂って」おり、その運命の収束と云う異常さが糊塗された結果として「イマ」が現出している。そうだとすれば、その「イマ」、リアリスティックな「ゲーム」にこそ、中二病は、その「廃れない夢」「愚者の虚妄」で対抗しなければならないということだろう。


b.) 関係性と時間

このような問いが可能になったのは、一つには七宮の介在があったからではある。一介の「弱者」の叫びがあればこそ、「孤高の弱者」六花がその叫びに震えることができた。(実際、六花は中二病を生きることを決意したのに「契約」の名に頼ったばかりに、その力を失いかけていた。現実への従属の契機は「契約」にもあったことは明白である。)

七宮から見れば、六花は既に「恋人契約者」として収束した運命の上に安穏としていればよいものを、六花はわざわざ探しに出なくてもよい運命を、自分の手で探り当てに出かけている。それは七宮の目にはきわめて奇怪に映ったはずだ。ここにイマがあるのに、なぜイマをかなぐり捨てる様なまねをするのかと。しかし、六花のオッドアイにうつった「現実」としては、「運命」は無時間的ではない。「運命」はたえず動いており、その動的な妄想のほうを六花は捕まえにいっていたのだ。(それは、七宮がその行動で無意識に教えてくれていたことでもある)

このように、六花が運命の別の形、自分の「行動そのものが運命」であるような仕方を見付けるにいたったのは、七宮のおかげである。その七宮は、いまや連環天測という過去を信じることを止め、連環天測そのものである現在(イマ)を受け入れ、中二病から退出しようとしている。そんな七宮を現在(イマ)から救い出すのが、六花の願いとなるだろう。自らの魔力の減少、現実の恋による妄想力の低下を救ってくれた七宮にこそ、新たな行動によって次なる運命を開くために、新たな時間を与えるために、六花は邁進することになる。

 

中二恋は、1期では中二病を忘却させないこと(中二病の生きた形)が取り上げられたはいいものの、2期では中二病が貫徹できないことの病(中二病に取り憑く病)が、主題化されていた。その病を越え、快癒した生が訪れるならば、その形とは、OPにあるように、「叶った願いが再び違う夢になる」ような形で、更新されるものであるだろう。
願いはもはや、ない。即ち、夢もまたイマには存在しない。夢はもはや過ぎ去ったイマを置いてきぼりにする妄想として、視認不能なほどにその速度を加速し続ける。かといって、夢はいつか来るべき未来において到達するものでもない。そうではなく、夢は、「予感」として、絶えざる加速によって、不可視と可視の狭間、妄想と関係とをたえず作り替えながら、幻視されるものなのである。現実に「重ねる」妄想から、現実を「分散させる」妄想へと、夢は向かう。

 

 

3、不可視境界線を幻視する方法:多段式妄想

 

(1) 中二病という方法論への反論の検討

ここで、一つの反論を検討しよう。それは、「いかに複数の妄想を積み重ねたとしても、結局存在するのは、この一つの現実に過ぎないではないか」という常識的な反論である。言い換えれば、「人はときどき妄想を生きることはできるが、結局は、この一つの現実に足をつけるしかないではないか、妄想という遊びは程々にしておいたほうがいいのではないか」というものである。

これはアニメ視聴体験そのものにも現れる。「視聴者は、画面上に夢を見る。しかし、電源を切れば、画面から夢は消える。画面に現れる夢はパッケージングされた選択式のものであり、視聴者が選択しなければ現前しない。逆に、選択しさえすれば現前する、そういう調子のいい妄想に過ぎないのだ」というように。

しかし、この常識的見解にこそ、『中二恋』は刃を向けているとも云える。上述した常識的見解は、現実と妄想とを同時に成立させなければならないもの、同時に並列化しなければならないものとする「空間化」にとらわれた誤りに過ぎない。反対に、現実と妄想の関係を「時間化」すれば、現実は一つであり、かつ、複数化しつつある、ということが、矛盾でもなんでもない当然の事態として取り出せるだろう、と。

 

(2) 9話で再度、勇太への想いに囚われる七宮と、勇太への想いをrenewalした六花について

ここで、六花が力を取り戻した9話を見てみよう。

9話において七宮は、かつて「ソフィア-勇者」という妄想を理想とみなし、その妄想を現実に生きるという選択をすることで、「理想-現実-妄想」の3者を一気に現実へと畳み込み、そのパッケージを固定化したはずなのに、その固定から外れた勇太への想いに満ちた過去へと駆られている。これに対して、七宮と同じように現実を一元化する圧力に(一瞬)屈したはずの六花は、一元化する(勇太との恋人という)現実に引きずられ、失いかけた邪王心眼の妄想を、現実とは独立の形で取り戻すことができた。これはなぜか?

ひとまずの答えは、七宮の回答が、過去・現在・未来の固定的均衡をとるという空間的方法論を採っていたのに対して、六花の回答が、過去・現在・未来の運動を呼ぶために妄想を用いるという時間的方法論をとっていたことにある。七宮は、1期の回答の出した問題点、中二病を敢えて生きるというのも一つの抑圧だ、ということを身を以て示してしまっている。これに対して、六花は、中二病を生きることを現在を破壊し、再構築するためのメカニックとして用いているといえるだろう。

 

(3) 空間的七宮、時間的六花

これを先述した「空間」と「時間」の比喩で繋ごう。

1期は、現実に妄想を多層的に重ねるという方法を提案した。これは、現実と妄想を層として捉えて、ARのように重ねて行く方法論に等しい。そこでは、妄想は「空間的」に配置される。しかし、1期のこの方法論は、staticな分析としての中二病として、中二病を生きた次の瞬間には、どうしてもこの現実からの逃避に近づいて見えてしまうという難点をもつだろう。これに対して2期では、現実に妄想を重ねるのではなく、現実の次のstageを形成するために、多段的に展開する作用を妄想と呼びならわしているように見える。そこでは、妄想は「時間的」に配置される。2期でのこの方法論は、dynamicな分析としての中二病として、次の瞬間には現実破壊を引き起こす形で、妄想を普段に導入する。いわば、六花の妄想がメカニカルに備給されていくのである。

「空間化」された(staticな)妄想は、現状肯定に加えて、別の可能性へと逃避する振る舞いに重なる。妄想がある分だけましだが、妄想は常に現実に敗北し続ける。このように常に負け続ける妄想には、現実改変の力はない。そのために、今ある状況から導かれる最適解にしか、たどり着くことはできない。(勿論、七宮のいうように、それはそれで幸せな恋愛の結末を見ることが出来る。)一方で、「時間化」された(dynamicな)妄想は、絶えず、この現実を(円環や直線へと向かう圧力に抗して)多段式に重なっていく現実における一つの布石と看做すことだろう。絶えず現在のstageを振り切って進む、留まらざる次のstageを構想する力が、中二病の妄想の可能性として提示されている。

 

(4) 六花の「履歴」更新

この多段式の妄想は、「現在」の関係への収束を、悉く拒否するだろう。その妄想は、形式上、留まることができたはずの現在を、その安定的なはずの(?)恋愛関係や居場所を、絶えず壊してしまうだろう。

しかし、その一切の破壊においても共通し、更新されるものがある。六花と勇太、二人の破壊の「履歴」である。勿論、履歴書に書く様な履歴が一つであるように(クリプキ的固定指示 regid designator に従えば)「履歴」は現実には一つである。しかし、だからと言って、来たるはずの履歴は勿論一つではない。履歴は、D.ルイスにならって言えば、対応者 counterpart における非-同一性を免れないわけだから、未来において我々が一切到達できないというまさにその点において偶然的にならざるをえないのだ。

「履歴」が、現在から顧みられるとき、そこには「一つ」の(必然的な)ものと、そこから見られた「複数」の(偶然的な)妄想しかないようにみえるかもしれない。しかし、「履歴」が未来から顧みられるとき、そこには「複数」のものと、そこから見られた一元的に圧縮された(偶然的な)現在がある、といえる。

現実は、勿論多層化しているとしても、それを妄想の側から多層化しなければ、やはり現実は多層性を失い「現実-妄想」という階層化に陥ってしまう。脱構築が方法論化したことで、再度、階層化してしまったように。むしろ、多段式ロケットのように、あるstageの現実を絶えず切り離しつつ、次のstageの現実へと足を向かわせる力こそ、妄想に込められた潜勢力であるだろう。それゆえ、六花的妄想においては、一つの軌道は予期はされていても、その各stageにおいては次なる軌道は偶然的である。振り返れば、どうしたって一つになる軌道があったとしても、そこには幾つもの「もしも」が、(仮定法過去としてではなく)「未来」に向かって重ねられていたことを、我々は(振り返ってなお)想起することができるはずであろう。

※なお、もう一つイメージを加えれば、六花の「Purgatorial fascination」でのホーミングレーザーとか、まぁ現実的なところだとMRIVのようなミサイルを想定してもいい。8話で、六花の妄想が、なぜいきなり魔法ものからロボへと変わったのかといえば、端的に言えば、魔法という現実との対比を強力に想起させるモチーフから、ロボという現実からの遊離を想起させるモチーフへの進展があったと見るべきであろう。「Purgatorial fascination」において、いくつかの弾頭が拡散するとき、その一つ一つは、現実の(目標にとっての)デコイとして見ることができる。その複数の弾頭のうち、対空防衛をすり抜けて軌跡を描く弾頭は、おそらく数はそうないだろう。しかし、仮にそのいくつかがすり抜けられるならば、そのいくつかの弾頭は、デコイとなった複数の妄想の下に掴み採られた現実を構成していることになるだろう。

 

 

4、まとめ:煉獄への妄想、最終奥義「Purgatorial fascination」

 

「Purgatorial fascination」とは直訳すれば煉獄に対する幻惑を与えるものだ。煉獄とは勿論、天国でもなく地獄でもない、未浄化の曖昧な地のことだ。それは、現実とは異なる意味で、「我々が生きるこの地」をさすだろう「我々が生きるこの地」は、いまだ浄化されざる、湧き立つ妄想によって取り囲まれているのだ。それは、理想でもなく現実でもない、未決定の曖昧な妄想の地のことを指す。

しかし、このことは、六花が現実における決断を、たえず先延ばしにしているという、消極的な意味をもつものではない。六花は、邪王心眼であり恋人であるという、七宮が強いた二重性からの、魅力的(fascinate)とは言えない択一選択をこそ、拒否しているのである。

七宮は、かつて勇太との恋人関係を諦め、魔法少女ソフィアとして「理想-現実-幻想」を一貫させた、固定的な生しか生きることができなかった。それは自ら、「理想」といいきかせる「現実」であり、「現実」によって固定された「妄想」であり、「妄想」としてしか見ることができない「理想」を生きるという、撤退線にほかならない。残念なことに、決断に縛られる七宮において、理想と妄想と現実は、無時間的にある一時点において、互いに互いを緊縛し合っているのである。「空間」は矛盾を許さないためだ。

これに対して六花は、理想-現実を構成し直す幻想の徹底を図る。そうすることで、六花は、理想化する現実、現実化する妄想、妄想化する理想という螺旋的な生、時間を含みもつ煉獄を生きるのである。六花は、理想と現実と妄想とを、バランスによって調整するのではなく、互いを互いの踏み台にして、多段式に駆けあがるのである。「時間」は矛盾を包含するのである。

振り返られた単一の軌道や(ありえたかもしれない)多層性を越えて、螺旋的に、今まさに次なるstageが切り離されようとしている瞬間を、六花は待つことができるし、またその瞬間へと足を踏み出すことができる。その今を置いてきぼりにして、新たな妄想へと現実を更新し続ける力が描くキセキを、勇太は六花の隣で作り上げることになるだろう。軌跡である「履歴」の更新とは、一つの「履歴」に結実するものではなく、いくつもの軌跡を多段式にもつはずのものだ。それを、現実「に」駆られて忘れてしまうのは、とても勿体ない。

 

中二病は、現実「に」よって駆り立てられているが、しかし、それに留まることはない。「したい!」を越える恋の身体の躍動、そして、現実を超える、湧き立つ煉獄の妄想作用によって、現実「を」こそ駆り立てるのである。

※それゆえに、七宮もまた、過去の不可避的な回帰を前に、このstageの否定的な揚棄へとふらふらと向かわざるを得なかった。「戀」が過去にとらわれた我の恋の作用を果たすとすれば、七宮が新たに我を忘れる「恋」の作用に嵌ることで、過去は過去のままでは留まることができなくなる。その現在化した過去が、絶えず現在の現実を壊す営みとして現出してくるのは必然だろう。

「恋」は、イメージではなく時間を伴って、はじめてその生をもつ。このことを、六花の弾む身体は示してくれるのだ。

 

 

以上