書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

(2015/12/21 続刊『2.5』情報追記)11/24文学フリマ #bunfree 『アニメクリティーク vol.2』+『vol.2.1』発刊 #もうゴールしてもいいよね

(2015/12/21追記)

『vol.2.0』の付属冊子、『vol.2.5 〈ゴースト〉, 不在者の倫理 特集号』を発刊します。

取り扱い作品は、まどマギ新世紀エヴァンゲリオン+『RETAKE』、ガルガンティア、楽園追放、細田守4作品、となります。

既存の文章の再編集版ですが、読みさすさ重視でほぼ全面改稿しています。

どうぞよろしくお願いします。

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以上、2015/12/21追記。

 

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『vol.2』発刊と『vol.2.1』の寄稿募集、あと(個人的な)内容紹介


Nag(@nag_nay)です。今号では、全体の紙面(DTP)構成、対象作品名ロゴデザイン、関連文献提示、あと寄稿と運営一部を担当しました。

 

(1) 『アニメクリティーク vol.2』について

今号は、(前号との比較を抜きにしても)なかなかよいと思える内容で、昨日、印刷所に無事データ送信することができましたので、ここに告知したいとおもいます。

11/24 文学フリマ東京流通センター第二展示場、ブース: オ-41)にて、A1ポスター(下の画を基調に作り直したもの)を机下に掲げてお待ちしておりますので、どうぞよろしくお願い致します。

多分無料ペーパーも配る、はず

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(2) 『アニメクリティーク vol2.1 楽園追放最速レビュー』発刊

あと、現在上映している劇場アニメ『楽園追放』についてのレビュー本もコピー本として出すとのことで、目下、寄稿募集中です。書きたいなぁというひとはメール(anime_critique*yahoo.co.jp)かDMか、とりあえず何らかの形で連絡下さい。

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(3) 内容紹介について

近日中に、アニメクリティーク刊行会HPにて個々にいただいた論考についての紹介はされていくとおもいますが、以下の、2、から、6、は、「とりあえずどんなものか見てみようかな」という人向けの、いくつかの頁画像紹介と、それにまつわる自分の雑感です。

(以下、人名については、全て敬称略とさせていただきます) 

 

 

 

2、表紙頁

 

表紙絵は、上に掲げた感じです。
前回と同じく @yopinari 君にお願いしました。身内を褒めるのもあれですが、かなりいい感じです。
特に、カタフラクトがいい感じに大破してるところは、読者の方に「なんでだろ?」という疑問とともに、考えてほしいところです。

 

 

3、目次と寄稿者一覧

 

目次です。いろいろな作品を扱いましたね。

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寄稿者一覧、制作者一覧です。HPアドレスとかも載ってるので、是非、事前にチェックしてみてください。

 

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4、特集1 虚淵玄2008-2014

 

 読んで字の如くですが、虚淵玄の携わったアニメ作品(原作作品含む)を、すべて取り上げました。そんなに詳しくないよという人は、OUTLINEにて作品紹介と評論を載せていますのでそちらから。

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(1)OUTLINE
 虚淵玄の携わったアニメ作品(原作作品含む)の内、ひとまず完結している下記6作品を、各々見開き2頁(3500字)ずつ評釈し、全体像を提示するもの。各作品評は独立して読めるものの、全体を通じて「バッドエンド」の機能を、物語で度々登場する「亡霊性」と絡めて検討する。

 ※作品一覧:①Phantom、②Fate/Zero、③BLASSREITER、④魔法少女まどか☆マギカシリーズ、⑤PSYCHO-PASS、⑥翠星のガルガンティア

 

(2)PSYCO-PASS
 makito/Nag/羽海野渉の三名の評論、および、あんすこむたんによる BOOK GIDE を載せている。評論については、評者間の相互レビューあり。
 全二者については、シビュラの描く「安らぎ」の極北としての理想社会と常守がどう折合いをつけていけばよいのかを、第一期の先を見据えて考察するというもの。そこではpsychoという単一のpassに還元できない「pass」自体の複数化という主張と、「pass」の受容形態の多元化という、類似しつつも異なった2つの提案がなされている。是非、対比的に把握していただきたい。
 羽海野論考は、そのようなシビュラから逃れる槙島聖護の抵抗としてなされた犯罪の変遷の意味と価値を再検討するというもの。観察するものとしての槙島が一役者として運命の偶然に身を預けるとき、そこに何によっても変え難い死の瞬間が訪れることになるだろう。
 あんすこむたんによるブックガイドは、笠井潔、P.K.Deickの諸作品そして『まどか☆マギカ』との連関を、作品紹介とともに提示したもの。さらに、評論、小節、映画を含む諸々の作品が「more readings」に掲げられている。

 

(3)アルドノア・ゼロ
 Nag評論。「友誼」を示すためになされた地球訪問によって戦渦を招いたアセイラム姫を中心に、「Amity llines」の価値を問うていくもの。友敵に代表されるような二項的区分の間に引かれた線を、伊奈帆のように無視=抹消するのでも、スレインのように過剰に引き続けるのでもない、線の分割というモチーフをアセイラム姫に重ねて取り出した感じ。

 

(4)翠星のガルガンティア
 Nag評論。「今を生きるという特権」というフェアロック船長の言葉を引きつつ、その特権性の上でなされた「ただ生きるだけの生」(ベベル)に不可避的に伴う犠牲に対して、レドがどう向き合っていくべきなのかを、OVA前編まで含めて検討。「今」の特権性というモチーフは、現在や現実に重ねられるべき〈彼方〉として、第二部の問題意識へと繋がっていく。

 

(5)魔法少女まどか☆マギカ
 Nag評論。「叛逆後の生」のサブタイトルのとおり、分割された秩序を、どのようにしてほむらが(融和を免れつつも)受容していくことができるのかを、「叛逆後」の時点を視野に入れて検討したもの。書いた自分的には、最後の「4、翻訳: 寓話」の箇所で、まどか☆マギカ叛逆の物語のその後を『荘子』風のノリで創作してみたら、予想に反して校閲者から何も言われずに校閲を通過してしまった(そのまま載ることになった)ため、今見るとすこし恥ずかしいものがありますね…。せめてもうすこしちゃんと作りこんでおくべきでした

 

特集1は以上な感じ。ページイメージは、下の様な感じ。

※画が入っているものは(アルドノアゼロをのぞき)全て、東方方面で活躍されていたあめいも先生にお願いすることができました。
ちなみに、折角なのでということで、絵の横に置いてあるロゴデザインや(ピンドラの細かいのとかの)背景の一部とかは、自分が担当しました。

二人で一つの画を完成させるというのは初めてのことだったので、あめいも先生にはご迷惑おかけしたと思いますが、最終的に画の邪魔をしていなかったら嬉しいところです。

 

(①アウトライン、ブックガイドページ例)

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(②通常ページ例)

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(③レビューページ例)

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5、特集2 〈彼方〉の思考---thoughts beyond the horizon

 

 〈彼方〉という語をもとに、各評者の論を取り集めた特集。

 もともと呼びかけ人からは「彼方”への”思考」というタイトルが提案されてたものの、そこはごねて「彼方の思考」に変えてもらった。僅かな違いだけど、個人的には「越境」や「移動」とは異なる視点も集められることになるとの思いから、そのように変更してもらいました(という経過報告)

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(1)『輪るピングドラム


 tacker10、sssafff+Nagの2評論。

 tacker10評論は、アニメというメディアの特性に着目しつつ、「近代/ポストモダン」という枠組みから逸れてしまう外部=「不純なる歴史そのもの」を露出させていくその手管を提案するものとして、本作を視ようという試論。そこでは役割を固定・収束させるいくつもの傾向性を、分岐・分散させる力へと転換するものとして「運命の乗り換え」が解釈される。そうして、イリュージョンに魅了された身体から多元的な仮想的身体への移行を呼び起こすものとしてアニメが機能する様が分析されることになる。
 sssafff+Nag評論は、①運命を固定する社会=「箱」と、②循環とシェアのなかで疲弊する3者関係=「輪」のいずれからも外れた、③多層化された「生」を析出するというもの。そこでは、他人の人生や他の可能性の上に佇む(つまり生きるだけで既に人の死を含んでいるという)「罰」であり「愛」が畳み込まれたものとしての「生」が、回転する林檎に重ねて解釈される。タイトルにある「輪」は、回転という運動によって(最終話、「24」の輪のように)消えつつ、その回転の影として他人の「生」の中に残っていく。それが、運命の運動に他ならない。

 

(2)『serial experiments lain』×『ガッチャマンクラウズ
 makito+Nag、makito、すぱんくtheハニーの3評論。
 最初の論では、『lain』における現実世界とワイヤードを巡る三つの実験(experiments)が対比される。最後の玲音による実験が完了することで、単層化されたものとしての現実世界を生きざるを得ないものたちとして、人々の生が描かれる。しかしそれは、因果の多層性を忘却することで生きることができる視聴者の生に重ねらるものではないかと本稿は問う。だからこそ、すべてが始まったはずの第一話[layer:01]のサブタイトルへと戻り、「奇妙さ=この世のものでなさ weird」が生まれた時間こそ分析されねばならない、と結論付けている。
 makito評論は『ガッチャマンクラウズ』のゲーミフィケーションを意志に先行する運動性の拡充として読み解いていく。そこでは、責任と結びつけられた意志というモデルの限界が示された後、運動性の速度を極端に早めるものとしての累やカッツェの振る舞いが分析される。しかし、再度、意志の契機を運動の中に導入するためのはじめ的な生活態度(複数の他のゲームへの離脱、再参入、同時所属)を基礎に、生を自らの意志で、しかし自然に変えていく作法が提案される。
 すぱんくtheはにー評論では、『lain』の遍在/『ガッチャマンクラウズ』の偏在という二つの存在の在り方が俎上に挙げられ、その偏在と偏在の両方に足をつけたものとしての人間の在り方が取り出される。それが繋がりにも移動にも還元できない、「どこにも行けないわたしたち」という人間の描像だ。ディアスポラを避けることができないなら、接続と離散の連鎖の中に生きられる「共同体」像を模索するしかないし、そうすることができる、と本稿は、希望を謳っている。

 

ページイメージを一つだけ。

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6、特集3 SFアニメ選評

新世界より/ぼくらの/電脳コイルプラネテス/ガン・ソード/ゼーガペインSteins;Gate

 sssafffとNagの分担作業。上記6作品の紹介と分析。BOOK GUIDEと同じく、各作品を足がかりとして、第一部、第二部の問題提起が拡充される余地が、各作品に見出せることを示している。

 ページイメージは割愛。

 

7、最後に------「もうゴールしてもいいよね」…

 

以上です(長かった)。

あと「なんかスクロールしていくとNagって文字すげーみるんだが…」という感想の方、あながちまちがいじゃないです。これは運営上の不備や途中での原稿落としといった「偶発事情」のゆえでもあるのですが、空いたとこの穴埋めなど含め、計95000文字(数え方にもよるけど主観的には文章17個)を、本業の傍ら、二ヶ月で書くこととなってしまいました。自分が9月に避けたいなぁと呼びかけ人に伝えてた事態のため、さっき数えて自分でも驚いています。いやはや…

※ 運営体制の改善対策については、今後はしっかりとお願いしたいと思います。

同人活動という意味でだけきりだしてみても、DTP担当と多量の文章書きを並走させるのはミスを誘発しそうで適切じゃないし、書いた量が多すぎると自己批判しつつ改稿するのも限界だし…。ちょっとアレ…

とはいえ、なにはどうあれ世に出したわけです。上の点から、自分のかかわったとこについては拙い箇所が(正直)散見されると思いますが、忌憚のないご叱責、ご意見、お待ちしております。

 文フリ当日もよろしくお願い致します。

J.Derrida『パッション』『名を救う=名を除いて』『コーラ』付属ペーパー: デリダによる「読者への栞」

デリダ「読者への栞」をざっくりと訳してみる。

(※節番号は訳出に際して付したもの)

 

 

1. 『パッション』『名を救う』『コーラ』

 これら3つのエッセイはそれぞれに独立なものとして書かれたし、実際そう読まれうる。それにもかかわらず、この三書が同時に出版されるのが望ましいと思われたのだとすれば、その理由は、その三書が同一の起源に拠っているということではなく、三書の間には共通した主題の命脈がかよっていることに求められるであろう。
 三書は、名についてのエッセイという形式を採っている。三つの章によって、また三つのステップによって。更には、それぞれが三つのフィクションを提示することにおいて。
 三書の「登場人物(配役)」が、沈黙のうちに、別の書へと合図を送り、もう一方が、名についての問いの反響を聴き取る。その問いの反響が聴き取られるのは、その応答の前か後かは問わず、約束の、要求の、また呼びかけの縁において、その問いが口ごもる場所においてなのである。


2. 名:

 一体、何がこのように呼ばれるのか? 名という名において、一体なにが了解されているのか? そして、一つの名が与えられるとき、そこでは一体何が起こっているのか? そして、そのとき人が与えているものとは、一体何だろうか?
 人は、一つのものを送るのではない。人は実際にはなにものをも引渡しはしない。しかし、そこにおいて、何事かが生起する。何ごとかが、人が現に保有していないものを与えにやってくる。かつてプロティノスが「善」について述べたように。
 結局、綽名で呼ぶことが必要とされる時には、何が起こっているのか? 端的に言えば、名が欠けていることが明るみに出る場所において、再び名付けねばならないとき、一体そこでは何が起こっているのか?
 一体、何が固有の名を、綽名の一種へと変えてしまうのか? 何が固有の名を、筆名(偽名=ペンネーム)に、また匿名(秘密の名)に、変えてしまうのか? 何が固有の名を、 どうしたってその瞬間においては特異であり、翻訳不可能なままに留まるものものに、変えてしまうというのか?


3.『パッション』

 この書は、ある絶対的な秘密について、述べたものだ。すなわち、その瞬間においては本質的であり、人がその名詞/名としての秘密という語によって一般的に言おうとしているものとは異邦的なままに留まる秘密について、述べている。
 その本質であり異邦の地へと至るためには、多かれ少なかれ「これは私の身体である」という言い回しを、虚構的な形で復誦する必要がある。
 そして、礼儀正しいとはどのようなことかについて熟慮する際に陥るパラドクスを、慎重に吟味する必要がある。
その上で、上述した過程を経た上で(もし義務というものがあるのならば)計算不可能な負債が突発する経験にその義務を載せることが、必要なのではないだろうか?[※訳者注: 最後の文はコピーをとったときにぶれて読み取り不能なので後ほど再検討を要する]

 計算不能な負債とは、義務が存在しないところにこそ、そうする義務が欠けたところでなさねばならないこと、そうする必要がないところで為さねばならないところにこそ、存するのではないだろうか? カントの言うところの「義務に発して」ではないような形、すなわち「義務に準じる仕方で」行為するのではないような仕方で、なさねばならないなかに、存するのではないだろうか?

 こうした場合の、倫理的または政治的な帰結とは、果たしてどのようなものになりうるだろうか?「義務」という名の下に、何が了解されるべきことになるだろうか? そして、このような義務を、責任という概念の中に運び入れ、そして責任という概念から運び出すことができるのは、一体どのようなものということになるだろうか?

 

4.『名を救う=名を除いて』
 ここでの問題は、挨拶であり、救済である。
 ある夏の日、二人の(架空の)対話者が、虚構的な物語についての会話を交わす。それは、何が名の周りを巡っているのかについての会話であり、とりわけ神という名、名についての名の周りを巡っているものについての会話である。
 それは、否定神学と呼ばれる考えにおいて、名というものがどうなってしまうのかについての会話である。
否定神学においては、綽名は名付けえないものとして名指される。そこでは、名付けること、定義すること、知ることが、不可能でありかつすべきでもないもの、とされるのだ。なぜなら、そもそも綽名を付されたものというのは、そこに留まることができずに、存在の彼方へと滑り落ちてしまうためだ。
 「否定神学」が(この日または明日来たるべき)「政治」の上へと開かれるように思われる場所において、「否定神学」という虚構的な物語は、「(シレジウスの云う)ケルビムのごとき旅人」たる痕跡や名残を引き継ぐ、遺産相続人としての歩みを敢行する。
 綽名とは、一体何なのだろうか? 名それ自体よりも多くの価値がある名、名の場所をとって代わる(名の場所を占めにやってくる)名としての綽名とは、一体何なのだろうか?
 そのような綽名は、かつて一度たりとも、名の救済として置かれることになった綽名として、最終的には「耐えうるもの」として、練り上げられたことはあっただろうか? つまり、簡単にいえば挨拶として、簡単にいえば「こんにちは」や「さらば」といった挨拶として、練り上げられたことはあっただろうか?

 

5.『コーラ』
(※under construction)

 

付.
 三書を隔てているものの一切にも関わらず、『パッション』『名を救う=名を除いて』『コーラ』の3書は互いに呼応しており、一つの地形の輪郭をなすことによって、互いが互いを照らし出しているようにみえる。
 三書のタイトルが揺れ動く、その構文上の布置において、読者は「あたえられた名についてのエッセイ」を読み取ることができるかもしれない。言い換えれば、無名や換喩、古名や匿名(秘密の名)、筆名が与えられるときに、一体何が起こるのかを、読み取ることができるかもしれない。それゆえ、名が受け取られるときに一体何がおこるのか、義務を負った名に一体何がおこるのかをも。
 言い換えれば、人が名に負っているもの、名という名に負っているもの、それゆえ、綽名に、義務(=与え、受け取るもの)の名に負っているものと同様に、犠牲に供さなくてはならず、与えなくてはならないものとは、一体何なのかを、読み取ることができるかもしれない。

10/04 日本倫理学会 主題別討議3 「リスクの倫理学的考察」

1、導入

・視点: リスクの哲学的考察に加えて、リスクの倫理学的考察を行いたい。
 ・既存の研究: リスク学者(水質学、工学(失敗学)、リスクコミュニケーション)
 ・その問題 : 規範的な観点の不在(科学技術社会論のうまくいかなさ)
 ・今後の課題: 倫理学的な観点導入による問題解決の可否?


2、伊勢田「専門家は価値についても専門家か?エンドポイントの倫理学に向けて」

・定義: リスク = (1)ネガティヴな出来事の重大さ、と、(2)その確率、の積
 今回の話は、(1)について: 出来事の評価(事実評価面/価値評価面)

・関心:
 評価におけるエンドポイント(損失余命、種の絶滅…)
 どのようにこの各種評価を「足す」のがよいのか?

・概観: 現状の取り組みとそれへの倫理学的目線
 LCA(ライフサイクルアセスメント: 清算から廃棄までの全過程を通じた評価手法)
  ①目的と調査範囲の確定
  ②インベントリ分析 (物質や音→環境問題リスク→影響・貢献評価)
  ③影響評価
  ④解釈、評価、意思決定
  → LIME(ライフサイクル環境影響評価手法)※現在はヴァージョン2
 →倫理学者(伊勢田)からの問い:
  √ どうやってエンドポイントを選んだか?
  √  エンドポイントの重要性をどのように判断したのか?
 
・検討: 現状の取り組みの詳細
 (a) エンドポイントの選択
  人間社会と生態系という二本立て
  →「生存権」の二つのパターン: 健康・社会資産と生物多様性
 (b) 統合化手法の選択: 問題比較型→被害算定型
  被害算定は専門家パネルが行うのか、一般人の経済感覚(仮想評価)から考えるのか
  コンジョイント分析(社会調査法などの手法の採用: 選好功利主義的)
 (c) 評価
  分析全体の中での一般人の見解の取捨選択
  公平性(利益享受者/その他という分類を無視した分析)
  世代間倫理(現在人/未来人: ReCiPe)
  社会体制への影響
  一般市民感覚の無制限なオーソリティ化(≠問題発見機能)
  (たとえば生物種の減少を一般感覚で本当に問題だとわかるのか?)

・展望: 倫理学者にはなにができるか?
 素朴には倫理学視点は役に立たない?すくなくともそう思われてしまう。
 個々の倫理学説ではなく、倫理学利用法論を提示する。
  

3、蔵田「潜在的被害者の視点から見たリスク評価」

・問題関心: 「誰」の視点からリスク評価をするのか?
 →行政なのか、被害者なのか、潜在的被害者(hazardの高い人)なのか?
 →科学技術論的な「欠如モデル」(知識欠如による問題)から「潜在的被害者モデル」へ
 →ネーゲル的な「主観-客観」を軸としたリスクアセスメントの可能性
 
・問題の所在
 (1) 不平等
  健康リスクの分布の不平等(弱者のバリエーション)
  利益享受者と被害者のギャップ
  利益配分(受益圏/受苦圏)
 (2) リスク認知バイアス
  リスクの心理的側面を無視できるか?
  専門家支配の問題
 (3) 責任
  当事者責任の問題
  倫理的な悪としてのリスク増大
 →これらを解消すること = リスク曝露の受け入れ可能条件?

・紹介: リスクコスト便益分析(RCBA)
 ①確率的リスクアセスメントの問題:
  潜在的被害者のリスク増大の正当化への利用
    政策論-マクロ的な対策コスト削減手法としての利用=「権力性」
    リスクの過小評価
    実質的な選択の自由を失わせる
  ②確率的リスクアセスメントの利点
    不可逆事例への予防原則(絶対的衡量)通常事例への費用便益分析(相対的衡量)の併用
    社会的文脈を導入したリスクアセスメント

・検討: リスクの不確実性と評価の「客観性」
 ①不確実性
   ランダムネス
   データ不足
   対策の明確化
 ②客観性
   客観性の不存在
   実のところ「誰」の目線かの選定を前提にしている
 ③主観性
   価値観や意図の主観性
   解釈の主観性
   専門家認知バイアス(Kahnemanなど、ほかパターナリスティックな自己欺瞞)
 →impersonalな観点の不可能性のうえで、リスクの実在性を想定させ、審理に載せること

・結論: 「欠如モデル」から「潜在的被害者モデル」へ
 ①「欠如モデル」の問題
   リスクを減らすことではなく問題認識と予算を「啓蒙」へと振り向けてしまう
   lay-expertの知識の軽視
   フィードバックの欠如
   参加型アセスメントの無視
 ②「潜在的被害者モデル」による評価法
   便益とリスクのパッケージを受容するかどうかの判断を委ねる
   権利規定的-非帰結主義的-リスクアセスメント
   評価のためのニーズから出発する


4、原「対話型科学コミュニケーションと科学者の社会的責任」

・対話型科学コミュニケーションの利点・難点
 「啓発・行動変容」「信頼・相互理解」「問題発見」「合意形成」「被害回復・和解」
  → 社会的合理性と科学的合理性の調整の必要
 
・科学者の社会的責任論
 ①内部責任と外部責任
 (科学者共同体の内部の職業倫理)と(社会の成員に対する知的責任/応答責任)
  →これらの分離のメリット(秩序維持)/分離の不都合
 ②前向き責任/後ろ向き責任
 (行為者自身の役割に応じて引き受けるべき責任)と(実際にやった行為と帰結への責任) 
  →システム問題(知識凄惨や伝達の問題)か個人問題(意図や感情)かは未規定

・まとめ: 他者加害についての責任の定式化の必要
 

5、討議

Q1.) 現状は文系自体、存亡の危機にある。そういう状況の中で、科学論についての哲学・倫理学の立ち位置を論じることはどのようになせばよいか?
 →
(i )共同作業で開発するしかない。
(k)ある種のガイドラインに対するメタ的な批判を内在化する立ち位置を提示できるかも。
(h)お題を貰ってから考えればよい(受動的でよい)と思うがどうか。

Q2.) 蔵田先生の主張を考えると、潜在的被害者からみたリスク評価はあるのだけど、それを阻害している要因がある、ということをいったほうがいいのでは? 結局、アドボカシーをもった専門家の問題なのでは?
 →
(k)ある意味では専門家のアドボカシーを不要とする可能性も考えて入るけれど。

Q3.) 潜在的被害者論というのは、結局のところ、どういう方法論を採用したいと考えているのか?
 →
(k)問題は、ハザード×確率という計算において「えいや!」で決められたナイーブな条件について考えている。恣意的なモデル選択において、被害者寄りのデータ選択、被害者寄りの解釈を考えていく。計算法自体を捨てるものではない。

Q4.) 内部責任と外部責任の峻別について
 →
(h)科学者の責任を問わない方向で展開された議論を、なるべく問う方向で考えていきたい、ということ。

Q5.) 科学者共同体と国策の関係はどのように考えていればいいのか? 現実離れした仮定なのでは?
 →
(h)科学共同体を規律しようと言う意図が希薄で、科学共同体を正当化しようとするロジックが興隆していることに対して、批判的検討を加えたもの。

Q6.) 倫理学利用法論といったとき、それはアクティヴな意味なのか、それともパッシヴな意味なのか? あるいは科学共同体に対する外側からの批判なのか、科学共同体の内側からの批判なのか?
 →
(i)一つは、功利主義とかからのある立場を示す。その上で、第二に、それぞれの立場に重要なポイントがあるはず、というそのポイントを組み込むような倫理と付き合っていくという立場を提示する、ということ。

Q.7) 藤垣さんが、法的責任に注力し過ぎな歴史的状況のなかで、前向き責任を押し出した意味はどのように考えているのか?
Q.8) 原さんの対象としているのは、科学者なのか、技術者なのか?
Q9.) ローカルナレッジの組み込みはどのようになされていくべきか? 妥当性領域と責任の箇所について。
Q.10) リスクについて論じられた鼎談だった。そこでは、倫理学の受容者は、リスク論者や一般市民だったということだったと思うが、そこでの方法論は変わるのか? どうなのか?
Q.11) 義務論の使い方とか、非-帰結主義的という言い方と「潜在的被害者」との関係はどのように考えればよいか?
Q12.) 三方の考えとしては、各論(ここの論者を各個撃破していく)というよりは(トータルな)総論が必要なのでは?

"Cambridge Companion to Utilitarianism" sec.16. 功利主義と未来の人々への責務 Utilitarianism and our obligations to future people (Tim Mulgan) ※途中

"Cambridge Companion to Utilitarianism" sec.16. 功利主義と未来の人々への責務 Utilitarianism and our obligations to future people (Tim Mulgan)

 

1 功利主義を採らないと未来の人々を捉え損なってしまうこと
 i.) 非同一性問題
 ii.) 世代間の互恵の欠如
 iii.) 場違いとなる楽観主義
2 集合にまつわるパズル
 i.) 全体を見る見方(がもたらす望ましからざる帰結)
 ii.) 平均をとる見方
 iii.) 辞書的な(※語彙に基づく)見方
 iv.) 効用の無限性問題
 v.) 単純追加パラドクス
3 正しい行為にまつわるパズル
4 幸福についての再検討
5 壊れ行く世界に対して功利主義がなせること


【本論要約】


(1段落) 問題提示

・未来の人々に対する配慮の必要
 将来への対処を間違うことで、今後生きれたかもしれない人が生まれることすら許されなくなる。
 現在の何気ない行為は、潜在的には未来に生きる人に対して甚大な影響力をもつ。
 たとえば環境危機が起こりそうなときには、誰もが、未来の世代に対する影響力を行使していることにうすうす気づいている。

・世代間倫理
 歴史は長くはない。それゆえ、答えを提示するというよりは、解答困難な問いの前で足踏み状態。
 「何が(※未だ生まれていない人の)生を、生きる価値があるものにするのか?」
 「下の世代について、我々は何をする義務を負っているのか?」
 「下の世代のニーズと、我々のニーズとが衝突したときに、どのようにバランスをとればよいのか?」


(2-4段落) 功利主義者の解答

功利主義者の解答
 功利主義的には感覚能力ある存在の幸福を最大化することが目的となる。
 (未来の人も現在の人と同じ道徳的な地位を有する)
 未来の人々の幸福もまた至高の道徳的な関心事と認めうる。

・理由
 理由①:功利主義の不偏性 impartiality (ベンサム「ひとりをひとりとして数えよ」)
  ここから、時間的な不偏性が帰結する。
 理由②:功利主義の反エゴイズム性
  自然的傾向として、自己利益を追求したり、価値や伝統、観点に対する過度な重み付けをしてしまうことから、自身を護らねばならない。
  現在の利益のみを(※未来等別の時点に比して)特権化する道徳原理は当てにならない。
    
・楽観的な見方の修正
 もはや時を追うごとに暮らし向きがよくなるという想定は成り立たない
 単に現行の生活を続けることで世界を破滅的な状況に追い込むことも十分ありうる


1 功利主義を採らない人がどのようにして未来の人々を捉え損なってしまうか


(5段落) 功利主義でない人が陥る3つの問題


i.) 非同一性問題


(6-7段落) D.Parfitの問題提起「same people / different people」

・二つの影響関係の区別
① same people 同一の人々問題:
 未来の人々に起こる事態に影響を与えはするが、これから存在することになる具体的なその人に影響を与える訳ではない、とするパターン
② different people 別の人々問題:
 これから存在することになる具体的な人に影響を与える、とするパターン

功利主義の利点:区別をもたない観点 no difference view
 多くの道徳的立場が same people 問題として考えているパターンについて、別の人々問題としても捉えることができる。功利主義は、それ自体としては、difference people 問題になんら新たに発生した倫理的な問題があるとはとらえない。


(8-12段落) いくつかの例

・例1:特殊体質者メアリーの選択
 メアリーには特殊な体質がある。メアリーから生まれる子供が冬に生まれた場合、必ず慢性疾患を患うことになるのだ。反対に夏に生まれれば、全くの健康体で生まれてくる。こともあろうに、メアリーはなぜか冬に子供を産んだ。とはいえ、子供は疾患持ちではあれど、その生は生きるに値するものだったと仮定しよう。その場合、メアリーの選択は道徳的に誤っているだろうか?

 Q.) メアリーは子供を害したか?
 ---A.) 害してそうにみえるけれど、害していない。
 ---理由。存在する子供は生まれるべくして(慢性疾患者として)生まれた。
  「害した」という想定に必要な健康体の主体が全く存在しない。これからも存在することはない。
  決して生まれることのなかった誰かを傷つけることはできない。
  ※つまり、same people問題を乗り越えられない。
 
・例2:リスキーな政策
 核廃棄物について、完全に安全な政策と、安いが一定のリスクを伴う政策がある。
 後者を採った場合、遠くはなれた時点においては地震によって放射線漏れが発生し、多くの人の命を奪うかもしれない。その場合、リスキーな政策は道徳的に誤っているだろうか?
 
 Q.) リスクテイクした決定は未来の人々を害しているか?
 ---A.) 害していそうに見えるけれど、害していない。
 ---理由。二つのエネルギー政策を採ったとき、そもそも別の未来が開かれる。
  リスキーなエネルギー政策を採らない未来の場合、恐らくその死者はそもそも存在していなかった。
  それゆえ、「エネルギー政策をとらなかったならばその人は傷つかなかっただろう」とはいえない。
  ※つまり、same people問題を乗り越えられない。

・例3:資源保存の例
 資源を使い尽くして未来の人々には資源を残さないか、資源を保存することで未来の人々の暮らし向きをよくするか。
 使ったところで、その人たちなりの幸福な人生を歩める。危害に基づく問題提起は困難。 
 

(12-13段落) いわゆる非同一性問題 

・非同一性問題の一般的定式:
 別の行為が選択されると(別の可能世界において)別の人々を作り出すにいたる。よって、直感的には害を与えたように感じる場面においても、具体的な個人について不遇な取り扱いを受けたとか、傷つけられたとかを指摘できない、という問題が生じる。
 ※直感的にこの問題を理解してもらえる場合のみ通用するのではあるが。

・different people 問題の広がり、非同一性問題の避けられなさ:
 別の可能世界においては、あなたと同じ人間は存在しない。
 (ex.両親が出会わなければあなたがうまれることはなかった)
 

(14-16段落) 非同一性問題の重要性

・人々への影響関係を基礎にした原則への示唆
 行為が悪いと言えるのは、特定の人々が本来であればそうであったかもしれないよりも望ましくない状態に置かれたときに限る、という原則は狭すぎる。
 (※なぜなら非同一性問題を扱えないから)
 別の人々を選択する(行為をなす)場合、特定の個人はなんら望ましくない状態に置かれた訳ではない。そもそも当該行為をしなければ、当該個人が生まれてさえいなかったためである。
 それゆえ、功利主義者からの批判を免れ得ない。
 
・医療倫理への示唆
 再生産医療において、新しいテクノロジーが、結果として生まれてくる子供達を(ある種の仕方で)「害する」場合には、そのテクノロジーを我々は拒否するはずだ。しかし、differnet people問題を真面目に受け取らなければ、その子供達は未だ存在していないのだから加害の対象にはならないはずだ。
 
・歴史的不正に対する補償論議への示唆
 その不正があった事実に基づいて生まれた(その不正無くしては自身もまた存在しなかった)後代の人々が、いま、過去の歴史的不正を追及するとはどのようなことか?

・社会契約論への示唆
 (今の選択によって生じる)未来の人々を含めた(今この瞬間における)社会契約等、そもそも想定し得ない(しかし含めなくてはならない)というジレンマ。
 カント、ロールズ、ゴティエ、スキャンロンらが陥るジレンマ。


(17-18段落) 功利主義でない論者の苦肉の策と、功利主義との融和

・非同一性問題の無視
 ex.) David Heyd 「何ら未来の人に対する責務は無い。結局は同時代的な判断に依存する」

・多くの非功利主義者による非同一性問題の乗り越え?
 ex.) スキャンロン的契約理論における合理性(合理的配慮の対象)の拡張
 ex.) Rahl Kumarによる責務の対象範囲(遺伝子的繋がりがあれば存在することになる対象を含む)の拡張
 
・Parfitによる契約理論への「不偏性」「非人格性」の含みこみ
 ここまでくると、殆ど功利主義と大差なくなる。
 (実際、契約理論に不可欠な「個人」概念さえ意地できない)


(19段落) 功利主義の優位 
 
功利主義は、非同一性問題に有効に対応できる(唯一の?)見解
 


ii.) 世代間の互恵の欠如


(20-24段落)

・問題:後代の人は現在の人に何一つ利することはない(無報酬性)、という非対称
 ex.) 時限爆弾的な貯蔵核物質や環境被害
 互恵性に基礎を置く限り、これらの問題を解消する理論的な正当化は不可能となる

・苦肉の解答
 責務は無いが配慮はある、とか、責務はないが勘定にいれることはできる、とか。
 ex.) 社会契約論的な解答
 契約を不在の他者と結ぶことは本来は矛盾なのだけれど、あtる有限の未来に対しては契約が機能する場面もあるのではないだろうか。未来の人も、ある種の信託される者としての地位、あるいはオンブズマン的な地位に関しては、有していると言ってよいのではないか。
 
・相互利益に裏づけられた理論の脆弱性、倫理は互恵によるのではないという功利主義の主張
 

iii.) 場違いな楽観主義


(25-27段落)

・楽観主義:上記の非同一性問題や互恵性欠如という問題がないがしろにされてきた理由
 現在において最も望ましい決断をするかぎり、未来の人々は、我々の自由民主的な制度や、反映した経済状態、科学的な進歩のすべてを相続することができるはず。なので、未来の人は、どう転んだとしても我々よりもよりましな状態にあるといえるはず、という楽観主義。

・環境問題が突きつける課題:達観主義ではいられない理由

・新たに生じた問題を無視することで得られる解決(非功利主義的解決)か、その不足を補う解決(功利主義的解決)か?
 


2 集合にまつわるパズル


(28-29段落) 

・「集合 aggregation 」問題
 differnet people問題をさらに、
 ①different number問題:幸福を覚える人の人口を増やせば足りるのか?
 ②same number問題 :同数の人口における幸福の質に着目すべきなのか?
 に、分割しなければならない。
 (※集合問題は、あくまでも幸福に関する理論としてどの立場をとるかとは無関係)
 
・歴史的にみたときの功利主義の二つの伝統
 ①total view :幸福の総量を増やすのが最もよいとする考え
 ②average view:幸福の平均レベルが最も高いものが最もよいとする考え

・幸福を覚える主体の数が異なる場合には、この①②の見方の対立が先鋭化する
 ではどちらが望ましいか?どちらも望ましくないのか。

 

 

i.) 全体を見る見方 total view がもたらす望ましからざる帰結


(30-33段落) 全体を見る見方の難点について

・最大幸福志向:功利主義を採る哲学者の大半に共有されている見解
 
・シジウィックによる反論:望ましくない帰結 repugnant conclusion
 「既に暮らし向きが非常によい状態にいたっている人々(World A)において、更にその人々の幸福が増えないとしても、人口数を増やすことが幸福を増やすことになってしまう」
 →パーフィットの見解:人口数をどんどん増やすことで(World AからWorld Bへ…)やがては個々人の生が生きるに値しない地点(World Z)まで落ちる
 
・望ましくない帰結に対する回答方法:
 パーフィットの直観である「①World AがWorld Zよりもよりよいか、さもなければ、②全体をみる見方そのものをとるはずだ」という二択を、拒否する。
 
 
(34-35段落) 回答①直観そのものを否定するパターン

・パターン1:直観の全廃
 (世界Aと世界Zの比較可能性を否定する)

・パターン2:巨大な数に関わる直観のみ排除
 (J. Broome曰く100億以上の数については直観を信じる理由は無いとのこと)
 
 
(36段落) 回答②全体をとる見方を肯定するパターン

・Yew-Kwang Ng「場違いな部分性」
 世界Aの生活が我々の生活に近いと考えて、Aの人々がAかZかを選ぶ、という局面を想像しているだろうが、これは誤り。不偏的に考えれば、Zのほうがよりよいとわかる。(Zに住む人も辛うじてではあれ生きるに値する人生を送るだろう)
 それゆえ、パーフィットの直観は正しくない。
 

ii.) 平均をとる見方


(37-38段落) 

・平均的な生を比べる見方:経済学者が多く採る見方

・反論:遠くはなれた孤高者問題 hermit problem
 「一切の関わりを持たないところに人を新たに作り出した場合において、その人がこちら側と一切の関わりを持たないとしても、平均をわったら作るのは不正だとする(とする反直感的な帰結)」
 ex,) 人口の単純追加はそれ自体が悪いことではないというパーフィットの反論

・再反論?
 ①その結論で何も悪くはない、と開き直る
 ②平均的見方は、hermit problemを引き起こさない
 ③影響関係にあるものに平均をとる対象を限る
 などなど
 

iii.) 語彙に基づく(※辞書的)見方


(39-44段落)

・塵が積もっても山にはならない、という見方。
 ある種の人々の生が、辞書を引くように優先劣後関係に立つ。
 利点①:望ましくない帰結を回避できる
 (劣った人を作るよりは繁栄した人々を作り出すべきことになる)
 利点②:単純追加問題にも悩まされない

・反論
 ①辞書的な見方は同語反復(望ましいものを先に定めているだけ)
  →再反論:
   とはいえ、実践的に見れば、辞書的な見方は極めて平等主義的な見解。
   未だ自律できない人々を自律の価値へと至らせる道筋をつけることが可能。
 ②なだらかな連鎖があるので、辞書的意味を截然と分けることはできない
   どこに閾の線引きをすればよいかわからない問題
   

iv.) 割引(ディスカウント)問題


(45-46段落) 割引の意味と必要

・割引の理由:
 ①不明確な人々の代理をするということ、究極的には人類がいなくなるだろうことから。
 ②未来の人は現在の人よりもより豊かな生、豊かな科学的水準に基づくよりよい生を送っているだろうから。
 
・議論をよぶ問題
 (現に我々が自身と他人についてもそうやっているように)純粋に時間的な選好を考慮すべきか
 実際に、どのような数にするかで侃々諤々の議論


(47段落)

・反論:時間的な不偏性の強調?

 

v.) 効用の無限性問題


(48-49段落) 

・無限が引き起こすパラドクス
 感覚能力のある存在が(数学的な意味で、または膨張宇宙の意味で)無限に存在した場合、全体の幸福が同一に保たれてしまう問題

(50-51段落) 

・反論:約定にもとづく反論
 問題となる範囲を約定によって限定すれば足りる。

・再反論:理論的問題は解消されていない
 Peter Vallentine and Sherry Kagan 

 

vi.) 単純追加パラドクス
 
 
(52-59段落) 

・パラドクスの内容
 まず、3つの世界を想定。
  ①A世界 :人口10億、繁栄した生活
  ②B世界 :人口20億、Aの半分程度繁栄した生活
  ③A+世界 :人口20億、そのうち10億はAと同程度に繁栄した生活、
        残りの10億はB以下の幸福水準、全体平均はBよりも低い。
 ここで世界比較をする。
  a.) A+はBよりも悪い(∵ 全体的観点、平均的観点、平等的観点からBが望ましい)
  b.) AはA+より悪い(∵ A+には10億の幸福な生が単純に追加されただけ)
  c.) BはAよりも悪い(∵ 望ましくない帰結)
 これは矛盾する。


(60-61段落) 

・反論
 ①非推移性の受け入れ
  仮にAよりCが望ましいからといって、
  AよりBが望ましく(かつ)BよりCが望ましい、ということにはならない。
  これに対してBroomは「〜よりよい」という言い方は直観に叶っているといって再反論する。
 ②相対的モデル
  そこに住んでいる人の利益に相対的に評価を加える、というもの。
  観点相対的な評価手法(person-affecting consequentialism)


 
3 正しい行為にまつわるパズル


(62-66段落) 

・正しい行為についての見解 ex.) 行為帰結主義(しかし問題含み)
 問題①:高すぎる要求を課してしまう問題
 問題②:再生産に対する自由を縮小させる
 問題③:再生産に伴う義務の非対称性の無視
    (不幸な者を生まない義務の存在/幸福な者を生む義務の不存在)
 非人格的な価値を最大化しようとする際に避けられない3つの問題
 これを甘受しようというのが行為帰結主義
 (※ミル『自由論』5章における再生産の自由の議論も類似したものだが、同一ではない)


(67-68段落) 

・正しい行為についての穏健な見解(反-行為功利主義の理由)
 行為功利主義が分けられない二つの理由付け:
  ①望ましくない帰結を避けるのは、ZがAよりも悪い(からAに向かう義務がある)
  ②Aの住人はZに世界を変えなければならない義務を課されていない。
 行為功利主義にとり二つの世界の間の選択肢が在るということは、どちらかを選ぶ義務があるということ
 対して、穏健な見解においては義務が課されるという結論を否定することができる


(69-71段落) 

・ありうる回答
 ①実践においては、時間的な不偏性を捨て、純粋な時間選好を採用するというもの
  未来の人々の福利が我々のそれとおなじく価値あるものだとしても、
  我々は道徳的な配慮にもとづいて未来の人の福利を割り引く視覚が与えられている、とする。
 ②不偏性を認めた上で、一定の価値の重み付けをすることも許す、というもの
  (Samuel Scheffer)
 ③行為功利主義ではなくルール功利主義を採用するというもの
  理想的コードによるルールと特定のコンテクストの含み込み
  義務を課すことはせずに、相対的な価値への考慮を失うこともしないという利点

 

4 幸福について、再検討


(72-段落) 

・同時代人に対する義務の拡張、としてではない義務の観点
 通常の思考順序としては、①正しい行為、人間の幸福、集合についての選好に基づく考慮をして、②その後に、それらを世代間の問題へとあてはめる。
 それに対して、功利主義は(一挙に世代間の問題を含む幸福についてのある見解に基づいて)別の思考順序をとる。


(73-75段落) 

・快楽主義をとっても選好功利主義をとっても、遠くはなれた未来の人々にあてはめるのは妥当ではない
 (選好功利主義の先鋒ピーター・シンガーですら、近頃は、未来人に対する義務についてはなんらかの客観的な価値という要素を必要とする、と述べている)
 辞書的な見方は客観的リスト説に自然に接続できる。

 

5 壊れ行く世界に対して功利主義がなせること

 

(76-79段落) 

・壊れ行く世界という描像が突きつける問題
 復習①:平均的な見方に突きつけられる問題:
  平均以下の者が追加される場合の(反直観的な)帰結。
  壊れ行く世界においては未来が全くなくなる。
 復習②:辞書的な見方に突きつけられる問題:
  現在の我々の生活水準を参照することによって未来の基準を定めるので、
  そうそううまくはいかないかもしれない。
 復習③:全体的な見方に突きつけられる問題
 
 
(80-81段落) 
 
・壊れ行く世界と言う描像が突きつける現在の人との対立の先鋭化
 ①行為功利主義への問題提起
 ②ルール功利主義への問題提起
 ③権利、自由、民主主義への問題提起


(82段落) 

・未来に対する楽観主義は、豊饒さがきえゆく世界においてはガイドにならない
功利主義者は思考不可能なものを思考するという傾向ゆえに(たとえばアンスコムによって)非難されてきたが、壊れ行く世界においては、その思考不可能なものこそ思考されなければならず、この傾向性は悪ではなく、必要な徳となる。

告知、アニバタ Vol.9 [特集]けいおん! & たまこラブストーリー寄稿

たつざわさん編集の『アニバタ Vol.9 [特集]けいおん! & たまこラブストーリー』に拙稿が掲載の運びとなりました。
http://www.hyoron.org/anibata9

 

タイトルは「物語(ラブストーリー)の外にあるもの---宇宙、遠近、大人」というストレートなものとなりました。内容としては、たまこともち蔵、二人のラブストーリー(としての成長譚)とは別の線として、トレーラーなどで導入される「宇宙の入り口(から足を踏み出すこと)」、「近くて遠い(距離を生き抜くこと)」、「(後悔をなかったことにしない)大人になること」というテーマの意味を検討しようというものです。

 

ざっと本稿の見立てを以下。本稿の見立てでは『たまこラブストーリー』においては、「変わりたい」もち蔵と「変わりたくない」たまこが対立しているという訳ではありません。つまり、最終的にたまこが「変わりたい」もち蔵の側へと移行した(京都駅で追いついた)という訳ではありません。二人は共に物語(ラブストーリー)に絡めとられすぎていて、自らが置かれた時間や歴史に対する考慮を無視してしまっているように思います。性急な決断は「変化」や「不変」という相反するスローガンとは裏腹に、それらのスローガンはともに二人の歴史を無時間的に固定してしまうからです。いわば二人の「変化」も「不変」も、ともに時間を無化するものといえるでしょう。

「いつも」から始め、「変化」も「不変」も含み込みつつ、絶えず積層・風化されつつあるまだ見ぬ「いつも」の動的な生成。この動性をこの今の瞬間に一挙に折り畳んでしまう愚をどのように脱し、どのように新たな時間と歴史へと自分を押し開くか。牧野かんなの立ち居振る舞いを梃子に、この問いへの向き合い方を検討するのが本稿の趣旨となります。

 

その意味で、本稿は『アニバタ Vol.9』では第四部「家族・大人論」に置かれていますが、第三部「日常・時間論」、第五部「みどり・かんな論」にもテーマをかぶせつつ、両者の間をつなぐ論として読んでいただければ、と思う次第です。

 

なお、もともとタイトル別案としては、「物語の前で考えること---By always thinking unto "construction".」というのも候補に挙げていました。
たまこラブストーリー』冒頭に出てくるニュートンの言を捩ったもので、あまり直截的でないという理由から不採用ということになりましたが、constructionが「construct(建築:かんなの建築志向)」と「construe(言葉の組み立て:視聴者の解釈志向)、二つの意味を兼ね備えていることから、本稿の要約としてはなかなかいいのではないかと思っています。
読み終わった後に、成る程ね、と言っていただけたら嬉しい限りです。

 

最後に、本稿で読者への謎かけとして提示した問いだけ、ここに抜粋しておきます。

「一つの物語がそこにあるとき、われわれは新たな歴史へと編み込まれる糸を組み込むことで、この現在の「いつも」において、新たな「いつも」を再構築しなくてはならないのではないだろうか。このプロセスに生きることこそ、物語を脱してなお編さんを繰り返す物語、物語なき物語の原理(プリンシプル)ではないだろうか。そしてこれこそ、「By always thinking unto them.」、「いつもその(建築 construction の)ことばかり考え
ていた」かんなの示した、(宇宙の)時間、(近くて遠い)空間、(大人という)様相を貫く物語の原理(プリンシプル)ではないだろうか。われわれは、「By always thinking unto
them.」という言葉とともに、物語にちりばめられた構造の解釈 construction を再構成しなければならないのではないだろうか。」

"Cambridge Companion to Utilitarianism" sec.13. 徳倫理が功利主義から学べること What virtue ethics can learn from Utilitarianism (Daniel C. Russel)

13章 徳倫理が功利主義から学べること(ラッセル)


第1節 なぜ全ての人が結果について思いめぐらせなければならないのか
 i.) 結果を真面目に受け取ることは必ずしも帰結主義に至るわけではない
 ii.) どのように結果が徳倫理に関わるか
 iii.) 結果に関わる実践的知性
第2節 ハードケースとジレンマ:取扱法および予防策
 i.) イージーケースとハードケース
 ii.) ジレンマと「そうすべき正しい事柄」
 iii.) ジレンマにおいて実践的知性がなせること
 iv.) ジレンマに対して実践的知性がなせること
第3節 結果に対して責任を取ること:制度的アプローチ
 i.) 緊急手段と制度的解決との峻別
 ii.) 制度に関する徳とは何か?
 iii.) もし問題がビジネスに過ぎないとしても徳が存在するとすればどこに存在するだろうか?
第4節 最初に検討すべきフィジビリティ(実行可能性)
 i.) 悪徳は消せない、しかし徳も強靭である
 ii.) どのように手段が目的を正当化するか
第5節 結論

 

【各節ごとの要約】


(1-2段落) 導入、筆者のスタンス

・筆者は功利主義者ではない。徳倫理にシンパシーあり

・筆者の理解する功利主義
 「ある行為や政策が正しいか否かは、専ら、関係者一同にとっての結果によっている」とする見解
 
・筆者の理解する徳倫理:
 「正しいことは究極的にはある種の人格へとなることのうちにある」とする見解
 (例えば、気前がよく、分け隔てせず、それでいて情に厚いなどといった)いくつかの性格における徳を(単に心でそう思ったり動機付けにしたりするだけではなく)現に行為において外に表すことができるような、そういう人格へと至ることのうちにある。

・徳倫理が功利主義から学べること
 よき功利主義には備わっているある種の原因結果思考 cause-and-effect thinking
 


第1節 なぜ全ての人が結果について思いめぐらせなければならないのか


i.) 結果を真面目に受け取ることは必ずしも帰結主義に至るわけではない


(3段落) 帰結主義的思考と、結果についての思考の違いについて

・二つの思考法

 ①帰結主義思考:(cf. Sinnott-Armstrong)
 「ある私的な行為や公的な政策が正しいかどうかは、専ら、その行為や政策がもたらす帰結によるのであり、それ以外のものによることはない」という考え方
 ※功利主義は、この帰結主義に属する主要な立場

 ②結果についての思考:
 「我々が責任をもって行為を選択するためには、結果に関する考慮を抜きにして語ることはできない」という考え方。
 帰結主義のいう帰結が最終的な試金石とはならない、と考える


(4-7段落) 帰結主義とその他の立場を対立的に捉えすぎてきた問題

帰結主義を「劣った立場」にしてしまう傾斜(の問題点)
 これまでの道徳哲学者達は、当然のように帰結主義を道徳的に劣ったものとして捉えてきてしまった。そのため、帰結(のみ)を真面目に追及する立場か、そうではないより「本当に問題になっていること」を捉える立場か、という誤った傾斜 slide へと陥ってきた。
 しかし、有徳な人間になるか、結果を真面目に受け取るか、という立場の間の選択には先がない。

・上記傾斜の2つ目の問題点
 実際、そうした傾斜は、これまでの倫理学の伝統において結果についての考慮が重要な役割を占めていたことを忘れさせてしまう。ベンサム、カントといった思想家をそういう学派に押し込めることは、彼らを重要な点で誤解してしまう。

・筆者のカントについての理解
 カントは、道徳における動機付けを特に重視した。それは確かである。
 その一方でカントは「我々が動機付けられる主要な事柄のうちには、我々がより幸福な生を送ることのできる世界を作り出すという事柄が含まれている」と考えていた。
 カント曰く、徳をもつとは、「人々の生をよりよくする行為や政策を選ぶことと、お互いにとって望ましい生の仕方を促すという目標をもつこと」にほかならない。

・筆者のベンサムについての理解
 ベンサムは「功利の原則」に則り、次のように考えた。「公共政策は、偏見なしの、公正で、平等な考慮に基づき、結果を真面目に受け取ることによって、形成されるべきである」と。
 この点ではカントはベンサムに賛同することはできないだろうが、カントであっても、「我々は、我々の暮らし向きをよくするよう努めるべきであり、そして我々が行為するその仕方によって引き起こされる結果に注意をむけなければ我々の目論んだ善は達成されない」という点においてはベンサムに同意したものと思われる。
 
(8段落) 結果に対する考慮を含んだ徳倫理という解決策


ii.) どのように結果が徳倫理に関わるか

(9段落) 結果についての思考法①:道具的理性の行使

・結果についての思考
 結果についての思考は徳倫理において重要な一部。
 有徳な行為というのはある結果の達成を狙うものだから。

・例:気前のよさ、という徳
 徳を有していると言えるためには、正しい目的を有していなければならない。
 (例:「気前のよさ」---誰かに資源を分け与えることで当人を助けるといった目的。現に助けとなることをなすこと。結果抜きには語れない目的。)
 そこでは、どの資源が足りないか、どの資源が利用可能か、どうしたら資源を有効利用できるか、といった道具的理性の行使が必要となる。
 つまり、道具的な知識 savvy やノウハウ know-how を含む実践的知性を用いて善き意図を支えることで、その人が本当に有徳であるといえるようになる(アリストテレス)。


(10段落) 結果についての思考法②-1:中間ステップのはさみこみ、フロネーシス

・道具的理性に留まらない結果についての思考(目的不確定ケース)
 もし有徳に考えるということが単に道具的理性の行使にすぎないとすれば、その結果を達成する幾つもの方法を考えるのに先立って、どの目的が有徳かを正確に知ることができることになる。しかしそうではない。
 (2003年コロンビア難民のケース:間断なき援助を継続することで却って彼らの自立的な生活を損なってしまったケース)


(11段落) 結果についての思考法②-2:中間ステップのはさみこみ、フロネーシス

・コロンビア難民のケースで失敗した理由
 このケースでは、目的が達成不可能なほどに大きかった訳でもない。
 一方で、手段が目的達成にとって不合理であった訳でもない。
 問題は、「難民を助ける」というお題目が、いまだ一般的な目的設定に過ぎず、不確定な目的設定に留まっていた(のに目的と解決策のセットを既にもっていると勘違いした)ことにある。

・比較:医師による治療のケース
 医師が治療をするという場合、目的は確定されており、手段も確定されている、と考えがちだ。
 しかし、そのような治療行為においてさえ、大目的と手段の間の中間ステップとして、治療の結果として患者がどういう状態に達するか、という中間的決定をする必要がある。

・中間ステップとは:
 一見確定しているかに見える目的と手段の間に、中間的目的(中間的実行手段)をはさみこむ思考ステップ。これにより、目的を真に確定させる。
 還元すれば、そのときその場の状況において、目的を真に現実化するとはどのようなことかを理解するステップ。

・難民のケースの問題:長期的な影響を見すごしたこと
 目的や手段だけみれば正しかったかもしれないが、長期的に援助を与え続けることがいかなる結果を引き起こすか、についての考慮(中間ステップ)が足りなかった。


(12段落) 結果についての思考法②-3:中間ステップのはさみこみ、フロネーシス

アリストテレスのフロネーシス phronesis (=実践的知性の徳)
 アリストテレスは、この中間ステップを、フロネーシス(=実践的知性、知恵)と呼んだ。
 中間ステップは「人々を幸福にするためになされる深い理解によって導かれなければならない」。
 
・徳の実行フェイズに必要となるフロネーシス
 (誤)常識や直観が促すところの「見たところの気前のよさ」「公平らしく見えるもの」
 (正)気前のよさや公正が、我々の生活において現にそのようなものとして働き、その現実化を助け、問題の解決に導くものについて、十分に知性と熟慮を働かせた鑑識眼が必要とされる
 

iii.) 結果に関わる実践的知性


(13段落) 実践的知性の結果思考性①:何が問題か、ではなく、どう実行するか

・結果と一連になった目的の確定
 気前の良さ、勇敢さ、正義…などなど、あらゆる徳は、お題目として提示されるだけではなく、どう実行するかに関わっている。
 つまり、徳の実行のためには、何が問題かを理解するだけではなく、現実にどうそれが働くかを理解する必要がある。
 そのため、結果についての思考を抜きにして「種々の徳が何であるか」を知ることはできない。

(14段落) 実践的知性の結果志向性②:総体的な考慮 overall way を促す役割

・徳の実行における状況依存性
 ある徳は正しい目的を指示するが、いつも他の徳が指示するのと同じ目的を指示する訳ではない。そのため、状況に応じて最も適切な、ある徳と別の徳の間のバランスを捉える必要がある。
 例:気前のよさ:資源や機会(その他金回り)が有限だった場合、どこになにを配分するかを決めねばならない。
 いかなる徳を追及するにあたっても(別の徳を実行しなかったという意味で)機会は失っている。
 よって、有徳な人は費用便益のような考慮をいつも果たさなくてはならない。


(15段落) 次節への導入


2 ハードケースとジレンマ:取扱法および予防策


i.) イージーケースとハードケース


(16-19段落) イージーケース
 
・事例:激痛を伴う大胆な治療法をとるかとらないか、というケース
 ここでは実践的知性は要らない。生活の構えと常識があれば足りる。

・イージーケースをもとにした徳の理論(cf.Michael Slote)
 スロートは、このケースが真に有徳な人がおかれた状況であるとしている。
 事実が十分に手元にあれば熟慮なしに明確な答えを見付けられるとする。
 重要なのは結果についての熟慮ではなく事実であると考える。
 (著者はこれに反対する。)


(20-23段落) ハードケースとイージーケースを分つ判断の難しさ、実践的知性の役割

・ハードケースの判断が困難であることをもとにした徳の理論(D.C.Russel)
 ハードケースとは?:
 徳があり、事実も手元にあるにもかかわらず、どうすればよいかが明らかではないケース。本当に問題がイージーなのかを判断するためにも、実践的知性と結果についての考慮を必要とする。
 
・事例:大気汚染を改善する政策を選ぶケース
 片方がよい高い待機汚染防止効果をもつ、とわかっている場合には、イージーケースに見えるかもしれない。しかし、実際には二つの成果 outcome の間の選択をするものなので、そう簡単にはいかない。
 どちらの政策が「実際に今後(どの程度のコストで)汚染された大気をよりよいものにするか?」という結果についての実践的知性に基づく思考を必要とする。
 例えば、より品質の高い車が(単純に)高価なものに留まれば、昔ながらの車を使い続ける人は多いだろうから、結果的に大気汚染の状況は改善できなくなる、などなど。
 ハードケースかイージーケースかを判断するにあたっては、一見したよりも多くの判断が要される。

・我々がそれを欲するかどうか、という安易な判断では解決できないもの
 ハードケースも、安直に考えれば、イージーケースとして(誤って)処理してしまえる。難民のケースもこの安直な解決を図った結果の悲劇。
 問題は簡単かもしれないが、問題解決において思いも寄らない結果が引き起こされてしまうのが、ハードケースに安易な解決を施したときの問題。
 そこでは、(ハードケースであることを見過ごして)一見したところの「明らかな」答えを選んでしまうことそれ自体が問題となっている。
 そのため、「何をすべきか」のみならず、「なぜ、何をするべきか、を知ることが難しいのか」を察知するためにこそ、結果についての実践的理性に基づく思考が必要となる。


ii.) ジレンマと「そうすべき正しい事柄」


(24-26段落) ハードケースの特殊事例としてのジレンマ

・ジレンマ:採りうる全ての選択肢が望ましくないパターン

・事例:2011年大統領選挙前討論会における保険加入問題
 (健康な若年者が不必要な保険料を支払うのを止めた途端に彼に不幸が起こり、昏睡状態となってしまった。誰が医療費を支払うべきか?という問題)
 患者への支払を大きくすれば個人の金銭的負担が増大する、一方、患者への支払を小さくすれば個人の負担は縮小する。慈悲深くあろうとすれば残念なことに個人の金銭負担を増大させねばならず、公平であろうとすれば患者への支払は小さなものにせざるをえない。


(27段落) ジレンマへの対処
 
①通常の仕方
 何かをしたり、よりましなものを選んだりすること

②徳倫理の観点
 何を選んでも後悔から逃れることはできない
 「そうすべき正しい事柄」が常にあると考えてしまうと、出口のない円をあてどなく彷徨うことになる。
 ジレンマにおいては、何一つ真に満足の行く答えというものはない。(※まずはこの事実を受け入れねばならない)


iii.) ジレンマにおいて実践的知性がなせること

(28段落) なしうること①:結果についての計算

・現実に対する安易な解答を禁じる
 まずある人がおかれた状況が本当にジレンマなのかを把握する為には実践的知性が要され、また他の選択肢がもたらす帰結についての考慮無しにそうすることを禁じる。
 (保険の例、再論)
 結果に対する考慮を離れた解答を禁じる。
 
 
(29段落) なしうること②:犠牲に供したものの保持

・当該オプションをとったときにえるものよりも、他に失う価値あるものがどれだけ大きいか、の検討を促す。
 勿論、慈悲と公正のコストを図る共通通貨は存在しない。(人間の幸福という観念を持ってきても解決しない)
 有徳に選択するとは、(それでよしという)満足を得ることではなく、犠牲に供したものを知ることを意味する。
 
 
(30-32段落) 費用便益分析との違い、+と−の非対称

・David Schmidz の(妥当な)指摘
 「費用便益分析によって便益が上回ったとしてもそれは決定的とは言えない。人はそこから、他の人に負担を課すことを正当化できるかを議論しなくてはならない。反対に負担の方が大きい場合には、そこから議論をする余地はない。」
 「というのも、全ての状況で、価値あるものを最大化しなくてはならない訳ではないからだ。価値を高めることはその価値に敬意を払う唯一の方法という訳ではない。価値を最大化することなく、それに敬意を払うようにと促すときもある。」
 結果についての思考は有徳に選択をする方法であるが、唯一のものというわけではない。実践的知性は、「いつ結果の重視が決定的となり、いつ結果の重視が決定的とならないか」という場面の切り分け方を知るためにこそ、要される。


iv.) ジレンマに対して実践的知性がなせること
 

(33-34段落) ジレンマが生じるに至った過程についての考慮へ

・問題:ジレンマにおいて何がなせるか、ではなく、ジレンマに対して何がなせるか?
 ジレンマの結果についての思考ではなく、他の事柄の結果としてのジレンマについての思考。

・保険の例、再論:
 なぜそもそも保険適用外の患者が存在することになったか?
 どんな政策決定の過程によって我々がジレンマに追い込まれたか?
 どんな政策決定がより責任あるものだったか?
 それはうまく回るのか?
 そしてある単位の治療は別の単位の予防に比べてましなものか?


(35-36段落) 予防という方法について
 
・車両不備への対応の例

 対処法①:
  よくないことが起こるまで待ち、おこったら機械工のところへ出す、という方法
  これは大抵の場合不便だし、費用がかさむやり方となる
 対処法②:
  定期検診に出す
  これは緊急事態における行動を全体として冗長にするかもしれない。
  しかし、そもそも緊急事態を減らす上、その被害も小さなものにする。
  
・予防法の分類
 ひとたび事件が起こってしまえば、採りうる策は①しかない(ジレンマ)
 しかし、自分たちの力で避けることができる欠陥である限りは、②もまた必要(脱ジレンマ)

・予防的問題解決、実践的知性の使いどころ、ジレンマの予防
 我々は社会的な制度(公的/私的な制度)をもっている
 そのため、緊急事態を手をこまねいて待つよりも、よりましな選択肢をもっている


3 結果に対して責任を取ること:制度的アプローチ


(37段落) 社会的制度と予防的問題解決の密接な関係

・日常的な衣食住が途端にジレンマに囲まれた試練のようなものへと化してしまう。
 よき制度があってはじめて、我々はジレンマに拘泥することなく、日々を過ごすことができる。
 (※ジレンマを解消する予防的制度を作ってきた歴史の重要性)


i.) 緊急手段と制度的解決との峻別


(38-40段落) Cohenのジレンマ

・Cohenの事例:
 強靭なものと、虚弱なものの二人が、ある土地で生きていくことになった。条件と選択肢は次のとおり。
 (a)私的所有:その土地の資源は二人で分けることができる。そのため半々に分けることもできるが、そう分けたとしても、虚弱なほうは自分が生きていけるだけの資源を作り出せない。
 (b)共同所有:その土地の資源に対する正統な支配は、二人の手に委ねられている。虚弱な方は、強靭な方に、全ての土地の資源を利用してよいから、その代わりに生産物の分け前(例えば50%)をくれるようにと取り決めをなすことが考えられる。

 
(41-42段落) Cohenのジレンマの解消法

・Cohenの事例がジレンマにあたることの確認

・Cohenのジレンマは解消可能であること
 ゼロサムゲームではない形へと事例の見立てを変化させること。そうすることで、よりましなものにすることができる。
 人類史を概観すれば、近視眼的な見通しの悪さが、このような虚弱者を作り出してきたと考えることができる。
 そこで正しい制度の出番。
 制度によって、生産や交換は見立てを修正する産業構造を作り出した。そこでは、虚弱な者が強靭な者へと姿を変える。それも、人々の支払うコストによってではなく、互いにうまくやっていく仕方を作り出すことで、そうしたのである。
 Cohenのジレンマは、制度の存在が、現状の限界を越えていけることを示している。
 緊急時にどうするのが正義かという問題とは別に、どのようにして制度がそういう緊急状態を過去のものへとかえてきたかを問うことができる。
 

ii.) 制度に関する徳とは何か?


(43-45段落) プリマス入植事例とその評価

・北アメリカへの移植(プリマス)類似事例:
 一定の数の集団がある土地へと移植した。彼らの当初の計画は、誰かが作った者はすべて共通の貯蔵庫へと容れて、そこから自身の取り分をとっていく、というものだった。彼らは、この単純な制度を維持しつつ計画を続けていくことができるし、また別の制度へと変えることもできる。

・評価
 移植当時の緊急時にはよかった制度。しかし、この制度では種をまいた者が刈り入れるわけではない。生産意欲は減退、不満と不穏な空気が醸成されていった。
 そこで計画は、土地の分割と私的所有によって、自分で種をまき、自分で借り入れる生産形態へと移行した。これは全体を繁栄へと導いただけではなく、平和で結合力のある共同体を作り出すのに成功した。


(46-49段落) プリマス事例の含意

プリマス事例は功利主義的に説明がつく事例とされる。一方、徳倫理的には冷ややかに見られるべき事例なのか?(サンデルの「市場による(徳の)腐敗」)
 そうではない。
 
私有財産制や市場のような制度
 (サンデルと似た様な反対案に)全ての人が有徳であれば、市場など要らないとするものがある。
 これも誤り。価格メカニズムに拠る情報伝達機能などは徳が合っても足りない。


(50-52段落) 徳倫理の陥りがちな誤り①:市場が育むよき結果への無関心


 種をまく行為はそれ自体として刈り取られることがなくとも有徳である、という発想。
 これは、はっきりと誤り。
 犠牲を支払う心づもりがあることが有徳なことだが、継続的に犠牲に供されることが予定されている場合はダメ。
 機会費用を計算し、その後に、結果的になしですませられてしまった機会について、その生産活動に費やしたものを埋め合わせる制度は有徳である。
 
・徳倫理的発想との調和
 アリストテレスがより強靭な共同体を促進しようとした理由
 アリストテレス:徳は行使されることによってのみより強い物となる、そして、

・制度形成
 制度を形成する際、全ての人がそうだとは言えないような事実について現実主義的であることは有徳なことだ。反対に、人々に莫大なコストを課すことや、徳はそれを埋め合わせるのだという希望を抱くことは、有徳なこととは言えない。

プリマス事例の最終評価:失敗
 しかし、その理由は、脆弱な制度の上で徳を発揮できなかったことではなく、脆弱な制度しか作れなかったことが失敗だった。


iii.) もし問題がビジネスに過ぎないとしても徳が存在するとすればどこに存在するだろうか?


(53段落) 徳倫理が陥りがちな誤り②:市場による徳の醸成の無視


 商業社会が徳を追いやるという議論には、もうひとつ別の誤った前提がある。商業主義は商業的利害関心に動機付けられた取引がなされる為に、他の参加者に対する徳を要求されない、というのがその前提だ。
 ここから直ちに徳の入り込む余地はない、という結論は導かれない。
 個々の人がその財を手にしていないと側面に加えて、全ての市民が取引に参加できるということのうちに、徳は存在する。


(54-56段落) 生産と交換

 なぜそのような制度に敬意が払われるべきなのか?それは一回の繁栄のみならず、そうした繁栄が拡大していくことのうちにある。
 プラトンは全ての物を共有にするようにという教説で有名だが、同時に彼は生産性を高めるのが交換によることも主張していた。


(57-58段落) 制度に敬意を払うべき理由①:維持

・生産は繁栄の一側面である。繁栄のもう1つの側面は、維持にこそある。
 制度は維持にむけた悪徳を必要とすることもあり得るが、徳に対して維持にむけた力を与えることもありうる。
 無主の放牧地で家畜に草を食ませるケース。最終的には、新たな牛を追加することで、草量が全ての牛の適正レベルを下回ってしまう地点に到達する。けれど、その直前までは自分の牛こそ追加させることで価値が高まるので、われさきにと牛を追加することで資源の枯渇を招く。
 そんなときに、もっと有徳になれと行ったとしても、それはポイントを外している。なぜなら、有徳な人は(有徳な人が最も気を遣うはずの)生活をサステナブルにまわしていくことになんら役立たないためだ。有徳な人は、より有徳になりたいのではなく、有徳さを実現する能力をこそ欲している。
 私有財産制の様な制度は、資源を枯渇させることに至らないような限界を引き、物を維持することを促す。資源を遣い尽くすことが高くつくように価格を誘導したりすることで、そうするのだ。


(59段落) 制度に敬意を払うべき理由②:徳の醸成

 制度の存在が、お互いから資源を得ることを可能にすることで、お互いに敬意を払うように促す。
 売り買いというルールによって取引がなされることで、我々は物を手に入れるとともに、我々は一連のプロセスにおいてお互いに対して敬意を払うことができるようになる。
 
・ビジネスがまさにビジネスであることによる利点
 徳はなによりも不偏的 impersonal であることを要求する。
 
サンデル本「それをお金で買いますか?」は、市場秩序に則って売られている訳だけれど、書き手であるサンデルにとっては朗報なことに、出版社にとっては本来な欲求がなくても出版社は本を売る理由をもてる。また読み手にとっても、わざわざひとに頼んだりすることなく本を読むことができる。
 制度が人が誰であるかに頓着しない不偏性をもつからこそ、我々はわざわざ許可を求めずに売ったり買ったりすることができる。
 
・もし、制度から離脱しようとしたらどうか?
 ミルはそれが平等ではないという理由で反対している。それは彼らに対する義務の互恵性に反する。
 サンデルは市場は冷たくて、人間を見ないひどいものだと言っているけれど、それは同時に恩恵でもある。ビジネスだけに頓着するというのは、自由で多元的な社会においては、真の徳なのである。

 
(60-61段落) フィジブルであること

・一つひとつの取引は、商業的なインセンティブから生まれていて特に由来するものではないかもしれないが、それにも関わらず、取引システムに参加することはそれ自体が有徳なことでもあるのだ。そうした参加は、人々が彼ら自身の生を生きる権利をもつことを確認させ、利用可能な財を増やすスキームを通じて、他者のニーズと自分のニーズを調和させる責任を与えることで有徳な人へと至る第一歩となるためだ。

・以上の議論から、次のような物言いは完全に間違っていることがわかる。
即ち、我々は、現実にフィジブルであるような制度がなんであるかを知ること無くして、正義や気前のよさといった徳がなんであるかについてを確定させることができる、という物言いは完全に誤っている。
 徳が要求するものはまさにそれがそう機能することに依存しているのである。

 

4 まず検討するべきはフィジビリティ(実行可能性)だ、ということ


i.) 悪徳は消せない、しかし徳も強靭である


(62-64段落) ローリー・ダーラムにおけるハリケーン事例

・ローリー・ダーラムにおけるハリケーン事例
 1996年、上記地域がハリケーンに伴う停電に見舞われた際、近隣地域から冷蔵用の氷を$1.7で買付け、上記地域で$12で売りつけた事例(違法な便乗値上げとして逮捕されている)

・問題点
 ビールを冷やす人は氷無しですますだろうが、そうでない人もいる。糖尿病のためインスリンを冷やす必要がある人。その人からすれば違法にみえる。
 サンデルによれば多くの人は便乗値上げを違法とするだろう。強欲という悪徳は市民的な徳と調和しないとされるからだ。完全にそれを消し去ることはできないとしても、「そんな悪徳をずうずうしくも表にだすことは抑制することができるし、社会はそれをみとめないというシグナルを出すこともできる」。
 サンデルの思考順序:徳→社会政策
 便乗値上げを禁じる法は、悪徳の強さを前提としつつ、徳においても強靭であり得るようにとシグナルを出している。


(65-67段落) 便乗値上げに対処する有徳でフィジブルな対処法

・便乗値上げを原則として禁じる政策の行き着くところ
 ユタ州:30%までの値上げは許している。(これが全米最大)
 その場合、30%分の値上げ幅(上の例だと、500袋売りさばけて$255)で、保冷トラックと燃料、食料、(便乗値上げ中の)宿泊費、(道路を作る値段は置いておくとしても)売り手の時間という費用を負担しなければならない。最も多い30%ですら赤字になる。売らない方がましだし、なにより合法的だ。(しかしこれでよいのだろうか?)

・有徳な対応の問題
 いくらかかってもやれ、というわけにはいかない。そうすると、ビールを飲みたい人まで氷をもらってしまう。(そのためインスリンを欲する人に行き渡らないかもしれない)
 こうして反便乗値上げ法に「護られた」地域には誰もいきたがらないことになる。
 
・徳と市場が両立するフィジブルな解決法
 反対に、値段があがれば買い手は買い控えるし、売り手は供給のインセンティヴが高まる。走行するうちに、競争により値段はさがるだろう(と主張されるかもしれない)
 しかし、第三の道がある。平時の段階で、貯蔵のための発電機と石油を備えておくということだ。ハリケーンに襲われがちな地域にあっては、一家に一台、一社に一台、または公共施設にこれを備えることで、対応が出来る。とはいえ、全ての事故時にこのようなことがフィジブル(実行可能)である訳ではない。
 サンデルはいう。「よい社会において人は協調し、そして互いに助け合わねばならない」。確かにそうだが、緊急時に物資が尽きることが間違いなければ、協調などできるわけがない。我々は、まずフィジビリティを高めることによって、互いに助け合うことができる。フィジブルなことを市民的な徳はまず必要としているのである。


ii.) どのように手段が目的を正当化するか


(68-70段落) 若年者死亡を減らすためのファンド事例

・解決のための二つの選択肢
 (a) 数的に主要な早期死亡原因を減らすファンド
 (b) 早期死亡原因を減らす遠因に着目するファンド
 
・評価
 若年者死亡を減らすという目的は、不確定な目的である。
 (a) をとれば目的はとりあえずは確定したようにみえる。しかし、そこにはパラドクスがある。
 それは現状採りうる方法に手段が限定されるということだ。そのため、たとえば1番目の解決策はなく、6番目の解決策のみあれば、6番目の解決策がもっとも数を減らすことのできる策となる。(米これでは(a)の本当の目的に沿わない。)


(71段落) フィジブルな事柄の確定

・それゆえ(b)である。我々が何かを成し遂げる為には、まずはフィジブルな事柄を先んじて確定させ、その後に目的を確定させることが必要だ。
 目的が常に手段を正当化してくれるとは限らない。現に先の例で言えば、1番目の死亡原因を減らすというのはりっぱな目的なわけだが、資源を分散させるという理由で今まさにできる6番目の死亡原因を減らすことを差し置いて、そのために資源を割くことは正当化されなくなってしまう。

・Steven Rhoad 曰く、「他の目的に向かう進歩を諦めたときにだけ、我々は任意の目的をもっともよく達成することを知ることができる」。
 あるものが価値高いということから、それが正しいということを伝えることは、フィジブルにならねばならない。そうして、目的が確定したときに、ようやく手段は目的を正当化してくれるのである。


5 結論

(72段落) 筆者のスタンス、再論

・筆者は功利主義ではない
 実践的知性なしには徳はなく、結果に対する考慮抜きの実践的知性はない。
 同時に、実践的知性は、結果が問題ではないときがいつかを理解することを抜いては成立しない。
 
ミケランジェロのシスティナ礼拝堂天上画の例:
 皆が思うのは、ミケランジェロが彼の最高傑作を作るのに、つまらない価値に気取られることがなかったらよかったのに、ということだ。彼の最高傑作を作り出す能力というのは、彼の時間が第一に価値を有するものにするものである。そのためん、天上は時間を費やすべき者であるかどうかと問うことは、その時間がどこに向かうべきかを理解しそこなう。

・ルターの例:
 ルターは、ヴォルムス帝国議会において、彼の著作の撤回を求められたがその求めを拒否した。
 そのとき彼は(事実はもはやわからないけれど)費用便益分析からそうしたわけではないだろう。
 それは、良心に誠実に誓うことなしには、彼の行為が価値高いものとはならないということによっている。彼の勇敢さという徳は、ここに表れているのである。
 

(73段落) 功利主義から学べること、meaning wellとdoing well の峻別

・筆者が功利主義ではない理由
 費用便益は、すべての場合を一刀両断してくれるような万能ナイフではない。(勿論、結果というのは殆どの場合には重要なものかもしれないけれど)本当に結果が試金石になる場面(とならない場面)を切り分ける実践的知性は必要だ。
 それゆえ、総体としてよりよい生を送るためには実践的知性が不可欠といえる。

功利主義から学べること
 意味としてよりよいこと meaning well と、実践としてよりよいこと doing well の峻別。
 ・意味 meaning well :
  まずは自分の優先順位をつけ、その後フィジブルな手段を選んでいく、という方法
 ・実践 doing well :
  まずは何がフィジビリティをもつ理解した上で、その後優先順位をつけていく、という方向
 それゆえ、よりよい社会とは、何が機能するか、そして、何が関係する問題となっているのかを知ることによっている。
 つまり、それ自身のもつ秩序のうちで、それらのものを理解することにかかっている。
 

DAVID LEWIS, "UTILITARIANISM AND TRUTHFULNESS" 訳出(仮)

DAVID LEWIS, "UTILITARIANISM AND TRUTHFULNESS" のざっと訳(そのうちなおす)
Australasian Journal of Philosophy Vol. 50, No. 1; May, 1972


(1) D. H. Hodgsonの出す例
 ひとりの悪魔が、二人の、とても合理的な行為功利主義者を捕まえたとしよう。ここではとりあえずその二人を「あなた」と「わたし」としておく。そうして、その二人を別々の部屋に閉じ込める。それぞれの部屋には赤と緑、二つのボタンが設置されている。悪魔は細工をして、二人が同時に赤のボタンを押すか、緑のボタンを押すかすれば、二人にはよき結果が訪れるようにしておいた。しかし、それ以外の場合(※略:色々ある)には、悪しき結果が訪れることになる。悪魔は我々がこれら全ての事実を知っていること、そして我々がそれを知っているということを知っているということ(以下同様)…は確約されているものとしよう。

(2) 続
 あなたはなんとかわたしのところにメッセージを届ける。そのメッセージには「わたしは赤を押した」とある。しかし、言ってる側としても奇妙なのだが、そのメッセージは役に立たない。なぜならわたしは次のように推論するだろうからである。
 「あなたはとても合理的な功利主義者だ。あなたはどんなやり方であれ、それが最もよい帰結を生むと判断する限り、帰結以外の考慮を全く抜きにしてその方法を採るだろう。このことは、メッセージを送るということ自体についても当てはまるはずだ:あなたはどんなメッセージであれ最もよい帰結を生むと判断する限りそれを送るだろう。そこではメッセージが真実であるか否かはどうでもよいこととされるはずだ。それゆえ、わたしにはあなたのメッセージが真実を伝えていると信じるべき理由がこれっぽっちもないことになる。勿論、あなたが真実が最もよい帰結を生むと判断している、とわたしが信ずべき理由がある場合は別だけれど、こと今回のケースにあってはそうではない。今回のケースでは、あなたは真実が最もよい帰結を生むのは、わたしがあなたのメッセージを信じ、メッセージに従ってボタンを押す理由がある場合に限るということを知っているに違いない。そうでないとすれば、真実か否かがもたらすだろう帰結の間では選択をする意味はない。それゆえ、あなたは真実ではないものよりも真実の方を選ぶ理由は全くない。わたしはあなたを信ずべき理由は何一つ持っていない。勿論、あなたがわたしがあなたを信じる理由があると判断した場合は別だけれど、こと今回はそうではない。なぜなら、わたしは(知識と合理性の権化である)あなたが、(わたしが本当にそうでない限り)わたしはあなたを信じないだろうことを知っているからだ。では実際にわたしはどうなのだろう?わたしは、わたしがあなたを信じる理由を持っているということを前提とすることなく、わたしはあなたにわたしがあなたを信じる理由を持っているということを、あなたに見せることはできない。「前提において結論を仮定する論理的な誤り」を冒すことなくして、わたしはあなたにわたしがあなたを信じる理由を持っているということを見せることはできないのだ。以上より、わたしにはあなたを信じることはできない。あなたのメッセージはあなたが赤のボタンを押すことを信じる理由を与えてくれず、それゆえにわたしもまた赤のボタンを押す理由も与えられないことになる。」
 このように長々議論したうえで、わたしはランダムにボタンを押すことになる。偶然に従い、わたしは緑のボタンを押すかもしれない。

(3) 続
 D. H. Hodgsonによれば、これが功利主義のもたらす非効率だという。(Consequences of Utilitarianism (Oxford University Press: Oxford, 1967), pp. 38-46)

(4) D.LewisによるHodgsonの見解の理解
 Hodgsonの言い方をもう少しましにすればこうだ。これは、予期に基づく功利主義のもたらす非効率である。そしてこれは、予期を充たす効用を最大化しようと(功利主義内部の理由付けに従って)画策したところで解消できるものではない、と。
 Hodgsonは次のように述べる。知識と合理性の権化である行為功利主義者は、お互いに真実を述べることを期待する理由はいささかも持ち合わせていない。真実を期待し、真実を述べ合うことがよい帰結を生み出す場合においてさえ、期待できる理由はないのだ;それゆえ、彼らはコミュニケーションがもたらす利得をみすみす逃すことにならざるをえない。同様に、彼らは約束がもたらす利得もみすみす逃すことになるだろう;たとえば先のメッセージが「わたしはこれから赤を押す」というものだったりした場合にも上と同じことが起こることからこれはわかる。
 より一般的に言えば、Hodgsonのいう功利主義者というのは、共通の利益を与え合う行為をうまいこと調和させてくれる慣習の利得をみすみす逃してしまう、そんな存在だというわけだ。真実を述べることと約束を守ることに関する慣習は(功利主義者にとっては)存在しない、ということになる。

(5) D.LewisによるHodgson評
 けれど、自分について考えてみれば、あなたのメッセージである「わたしは赤を押した」を無視すると語ることは、あまりにも馬鹿げている。わたしは次の様な平凡な例を挙げたいのだけれど、通常の状況は、(※功利主義者のみならず)知識と合理性に長けたアンチ功利主義の人にも共有されているという事実は、単純でありながら覆し難いようにおもう。(※だから、真実を述べること自体が不可能になるので功利主義に対する反論になるとする点において)一般的にいえばHodgsonは誤っていると言わざるをえない。
 しかしだとすれば、受け取ったメッセージを無視すべきであるとするHodgsonの議論のどこに瑕疵があるというのか? 上述のHodgsonの推論のうち、イタリックの部分は正しく、それ以外のところは間違っている、というのがわたしの考えだ。

(6) LewisによるHodgsonの誤りの箇所指摘
 わたしは、Hodgsonの議論は、暗黙のうちに次のようなことを仮定する場面で、誤りに陥るのだと考えている。
 その場面とは、①最初のパラグラフで述べた事実(置かれた状況、功利主義、合理性、知識、お互いの知識、などなど)のみ用い、②その上で、あなたを信じる理由をもつということが提示できるというおよそ無理難題を可能にする場合を除いては、わたしはあなたを信じる理由を持つことはできない、という仮定をおく場面である。
 しかし、なぜこんなにも前提は制限されねばならなかったのか?確かに最初のパラグラフで示した事実に矛盾する仮定を導入するべきではないことはわかる;けれど、これらの事実とは独立した前提が利用可能である限り、その前提を用いることは許されるはずだ。

(7) 続
 (少なくともこのケースのように、あなたが十分に知識を持っていることがらに関する正しい信念を持っているということが十分に腑に落ちるだろう場合にはいつであれ)あなたが真実を述べるだろうという前提は、そのような利用可能な前提である。少なくとも、常識的には前提とされるはずだ;そして、その前提を置いてはダメだというのは、まさに今話題にしているHodgsonの議論に乗るときだけだとおもう。この前提は最初のパラグラフで挙げられた事実とは独立だ。
 一方、この前提は、我々の合理性や功利主義、そして我々のそれに関する知識に矛盾しない。だから、あなたが真実を述べ、そしてそう期待でき、あなたもわたしのことをそう期待できる…などなど、という場面においては、あなたは功利主義的に言って真実を述べる十分な理由をもつといえる。
 あなたは、自らの功利主義を切り詰めることなく、また、功利主義に真実を述べるという公理を付け加えることなく、真実を述べる(理由を持つ)。一方、我々のもつ合理性や公理主義、知識や、それらというものには、真実を述べるということは含意されてはいない。というのも、もしあなたがシステマティックに嘘を述べ、わたしがそう疑い、あなたもまたわたしに対してそう疑う…などなどの場面においては、あなたは公理主義的に言って嘘をつく十分な理由があるからである。
 一応付言しておくと、わたしは英語圏における真実を述べること、嘘をつくことについて述べている。だから、英語におけるシステマティックな嘘つきというのは、英語的ではない(英語とは心理条件が別の)言語においての真実を述べることに相当することには一応言及しておきたい。

(8) 結論
 以上より、わたしは次のように結論付けよう。わたしはあなたのメッセージを信じる十分な理由をもって、赤のボタンを押すだろう、と。
 この理由は、一般に受け入れられているように、素朴に我々の状況や合理性、功利主義、そして知識や諸々がこれを前提にしているからではない。そうではなく、真実を述べることというのは、我々が(慣習として)事実上保持し、そして、完全にこれらの事実との一貫性を保っている、付加的な知識なのだ。

6/29 日哲WS: 戦争とロボットについての応用哲学的考察

6/29 日哲WS: 戦争とロボットについての応用哲学的考察

 

 

第一 技術的な水準の議論


1、本田「アイアンマン」スーツと軍隊の徳の変容


(1) 装着型ロボットをめぐる現在の状況

 脳から身体への命令(脳波)を用いたパワードスーツ、腕や足からの神経からの信号を増幅するパワードスーツなどは既に発表されている
 兵器開発の必然的流れおよび戦争の仕方の変更により正規戦争制度の変容が生じうる


(2) モジュールの変容過程、産業構造との連動

①破壊体(素材等:刀→炸薬生物兵器化学兵器→核弾頭→"飽和")
②発射体(腕の摸倣、外化:投擲具→弓→投石→火器→ミサイル→”飽和”)
③運搬体(足の摸倣、外化:歩兵→騎馬→船→内燃機関→エンジン→”飽和”)
④運用体(唯一発展可能性がある領域?)
 a:出力系…通信衛星→”?”
 b:入力系…情報組織→”?”
 c:評価系…軍事組織→”判断支援型人工知能”へ?

 
(3) 正当化とその問題点

(正当化)
・戦争の変容
・勝利の定義の曖昧化
 →パワードスーツはより倫理的な装置であるとさえいえる
(問題点)
・これまで軍がもってきた「徳」の変容?
・専門性の消滅?


2、岡本「(無人戦闘機)プレデターは本当に道徳的か?」


(1) 何が出来るか?何が問題か?

・無人航空、遠隔操作(ex.ターゲットキリング)
 →ユーザーの心理的負担、会戦の敷居の低下、非対称性の拡大(貧富国差)、誤射増加
 →結局テロを招くのではないか?という懸念
 →再反論として、これまでのミサイル等の時に言われていたことと同じ。
  無人機特有の問題ではない、というもの。

(2) 「不必要リスクの原理」
 
・Xが、より目的を達成するようにYに対して命令する際には、
 「Xは目的を達成する手段の選択に置いて、Yの潜在的リスクを可能な限り最小化する手段を選ぶ義務が在る。(不必要なリスクを課す命令は不正である)」
 →正しい戦争の為であれば、無人戦闘機を導入することはむしろ必要である。


(3) 「不必要リスクの原理」の問題点
 
・いくつかの前提を欠いている
 ①他の事柄が同じ場合、
 ②正義の要求に反しない場合、
 ③世界を悪化させない場合、といったもの
・制度的な困難
 ④道徳的制約のプログラミング不可能性
 ⑤責任の所在


第二 倫理的な水準の議論


3、九木田「ロボット兵器と道徳的行為者性」


(1) これまでの検討結果
 
 https://sites.google.com/site/aphilrobot/


(2) 反対意見/賛成意見

①能力:民間人との区別とかはうまくいかない?
②戦争増加:会戦ハードル下がる?
③責任:責任所在が明確ではない?
④人体被害:全体としてむしろ上がる?
 
 cf.) http://www.kurzweilai.net/


(3) 責任とは何か?

 プログラムを遵守すること?規範と現実との間の葛藤を抱えること?
 →規範改定サイクル無しの道徳的責任というのはないのではないか?
 →「脳と手の間にあるのは心でなくてはならない」"metoropolis"より引用


4、佐々木「ロボットにはなぜ責任が帰属できないのか」


(1) ロボットへの責任帰属が出来ないという直観の理由、その限界

(直観) 
 ・自由意思の帰属を想定し得ないから
 ・別様の規範や価値を体得していけるから
  →人間は「未来に開かれている」、ロボットは「未来に開かれていない」
(限界)
 ・自由意志はそこまで確固なものではない
 ・体得範囲すら状況/環境に依存する
 (人間だって規範生成サイクルに常に取り込まれているわけではないと思う)
(代替案1:Fisher & Ravizza 1998 "Responsibility and control")
 自由意思によらない責任理論
  条件①:適度な理由反応性があること
    (いくつかの内から選択された理由と環境メカニズムとの連環を想像できること)
  条件②:そのシステムが行為者自身のものであること
 
  
(2) 佐々木の提案「規範的統制原理」

 代替案2:「規範的統制原理」
 「人間は実際したのとは別様な行為も行いうる存在者であり、自らの性格や価値観を変更することの自分次第である」

(利用目的から判断される)
 一般的にドローンについては「手段」利用のみの存在なので、自然法則が適用される。
 利用目的が「手段」ではない場合(完全な道具であることをあえて外れていくドローン)にはそこに、自然法則から外れた責任帰属主体に「なる」
 (メモ者注:別種の理念を投影されることで、そこに「(人)格」が生まれる)


(3) 暫定的結論


 ①責任帰属には自由の理念の適用が必要、そして
 ②現状は責任帰属されないロボットに対し当該理念を適用するよう動機付けられていない
 →よって、現状では、ロボットは責任主体になっていない


5、セッション

(1) 久木田から本田、岡本への質問

 Q.) 心理的距離が重要だったのではないか?技術とはどういう関係にたつのか?
 A.) 結局、今の話と言うのは直観や常識を代弁してくれただけなのではないか。
  どちらを重要視すべきかの基準にはならないのではないかと思う。
 Q.) 道徳的距離が離れると帰結主義的になる。
  道徳的な要素には流動的であることがウ組まれる。
  いわば、技術論は帰結主義を強制してしまうのではないか?
 

(2) 佐々木から本田、岡本への質問

 Q.) 軍隊の徳は変容するのか?知識人を利用するのは最も知識のムダな訳だし…
 A.)


(3) 会場から質問

 Q.) アルゴリズム改定プログラムはロボットの方がすぐれている。なぜ久木田は人間にそれを見出し、その能力を重視するのか?
 A.) 規則に従っているだけではだめということで、従っている規則自体を終始絵する能力こそが重要と言える。
 
…個々に面白いところは合ったけど、あんまり議論がかみあっていなかった感じでそそられず。メモ放棄

 

 

6/28 日哲-73「未来という時間」(※仮まとめ)

6/28 日哲-73「未来という時間」(※仮まとめ)


1、提題


(1) 青山拓央「時間は様相に先立つか」の筆者要約

(a.「今」の特殊性) 
・Lewis的指標詞には「現実」「今」「私」がある。しかし、このうち、「今」だけは別ものではないだろうか。
 なぜなら、「今」だけは、全体としての「これ」が別の「これ」へと推移する(「なる」)という動的な指標詞だから。
 他の「これ」という全体性に「なる」ということが可能なのは、「今」だけ。
・ここから、無時間的な指標詞として把握するのではなく、時間的な指標詞として把握するべきであると考えた。
 即ち、「なる」を「ありうる」先行させるべきである。

(b.タイプとトークン)
・現実の信長は、信長タイプの論理的可能性に吸収される(論理的可能性は「タイプ的」にのみなされる)。
 一方、トークン的繋がり(紐帯)があることで、はじめて現実の信長へと接続される。
 それゆえ、現実の信長の可能性を検討するためには、トークンそのものとしての「実現可能性」を把握する必要がある。
・そこでは信長タイプの論理的可能性ではなく、信長トークンの実現可能性を把握する必要がある。
 現実の信長トークンの論理的可能性は存在しない。

(c.時間が様相に先立つ=「実現可能性(なりうる)が論理的可能性(ありうる)に先行する」)
・Witgenstein 『確実性について』についての青山の見解
 トークン的かつ指標的な知識(ex.私の手があること)さえもが疑われない知識に含まれている。
 法則からトークン知識を得ることはできない
 法則とトークン的から、別のトークン的知識へは繋がりうる
・既に「現実世界」にいることを私は知っている。これは論理や文法や生活形式、勿論自然法則の外にある。
 即ち、どこに自分がいるかをタイプ的な知識から知ることはできない。
・信長タイプについての知識を得ようとも、現実の信長トークンには繋がらないし、そもそも現実の信長トークンが存在することさえ保証できない
 信長トークンの内側から諸可能性を開かなくてはならない。
 まとめると、「時間が様相に先立つ(=実現可能性(なりうる)の論理的可能性(ありうる)に対する先行)」

(d.追加論点:「ありうる」「なりうる」の根源たる、ニーチェ的な「なる」)
・時間の動性:この現在が全体として未来になる(× 言語が無時間的に可能性という幻を与えるという議論)
・未来が「今」になることは、可能性の現実化とは全く別もの。
・根源としての「なる」というニーチェ的な観念があるのではないだろうか?


(2) 須藤訓任「未来への態度」+「「わたし」の死と「ひとの死」」

(ブランショにおける「死」、「到来することのない到来」)
・絶対的に固有の可能性たる私自身の死は消え、「人が死ぬ」が残る
・個体が死ぬとき、①死体と、②「人が死ぬ」という無名性の「存在」、が残る
・「無」が存在化されて残るときに、その存在に人は苛まれる
・存在が消えたときに、新たに残りはじめて持続をはじめるもの(文学空間)


(3) 中島義道「超越論的仮象としての未来」に対する自己評釈

(3-1:「未来」は時間系列に属するものではない)
・時間様相、時間性格ではない。順序という図式。これはイメージに過ぎない。
 「もうない」「まだある」という様相的な議論とは別にしたい。
・勿論、時間はある。ただし、そこでいう時間とは、現在と過去。しかし「未来」は世界を説明するのに必要がない要素。
フッサール的なRetention:「まだない」というのは全くないのと等しい。実現するだろう、というときの「だろう」。
 いまだ何もないときに「次」を考えさせるというのは一つのトリック。

(3-2:なぜ「未来」があると思ってしまうのか?)
・一つ目は未来というのは「湧き立つ」モデル/もう一つは無時間モデル
 意味が定まってないモデル/意味が定まっているモデル(とはいえ「意味を付与しつつある」という状態は既に「生じている」)

(3-3:出来事に属するものとしてのみ時間を考える)
・箱みたいに過去・現在・未来と考えている。時間帯のようなものを考えている。
 しかし実際には微小な単位しかない。
 たとえば知覚とか、触覚とか。状況推移しかない。
・「いま」というのは解釈的構成物。どのていどにでも伸ばせる。出来事の単位w説明する単位がすべて「いま」になる(宇宙は膨張している、という出来事の「いま」は36億年)。
・測定する場合には、現象の同時性を決めなければならない。
・「次のとき」と考える未来の描像はダメ。
 そもそもカントさえ「未来」については論じない。アンチノミーは過去に置いて生じるにすぎない。未来は完全に無視されている。
 空虚な時間(Leere Zeit)。無でさえない未来。世界が終わったとしてもその次を見てしまう。ないものを外側から、時間的に、見てしまう。これは錯覚だろう。
・無という形で有化してしまう。ヘーゲルとかの論法。けれど、時間については、このヘーゲル論法を安易に使っているのではないか?

(3-4:「未来」は端的に言えば「無い」)
・カントの「形式」は、絶対的に、理性的に説明概念を導入しただけ。「形式」の実在を保障するものではない。「質量」の完全無視。
・意味付けした世界の方を実在という傾向が在るけれど、意味付けつつ在る世界のことを忘れてしまっている。
・質量的アプリオリのことを考えていた節も在るけど、そのうち老衰で死んでしまった。

(3-5:「到来」とは?)
・全ての人が(× 動物)もってしまう仮象(Shein)。
・現在と過去は一元化できない実在。なのに、それを拡大して、一つの客観的世界を作ってしまった。そこに、意味の固定した世界をすべて囲う為に「未来」が導入された。
 人間的な道徳感性として要求するのはわかるけれど、それが実在を生み出すものではない。

 

2、セッション


(1) 斎藤

(1-a.全員に対する質問)
 青山、須藤、中島の三者は論理的な「知」の及ばない対象としての「未来」の形では共通している。
 しかし、なぜそのような不可知の「未来」の可知性の身分が重ねられていくのか?
 また、仮に重ねられることがありうるとしたら、どうしたら可能か?
 あるいは、未来に対してどういう態度をとるかという問題はどう考えていけばよいか?

(1-b.質問1:青山へ)
 トークンにおける「なる」と「ある」。ここでは何が起こっているのか。
 時間の連続性が前提にされているようにきこえたが、「なる」>「ある」という系列の前提はどのように定立されるか?その前提として「同一性」はどう考えているのか? 
 斎藤自身としては「ある」というのはその都度(断続)の現実性にすぎないので、連続性というのはない(無自由とは端的にこの断続のことを指す)のではないのか、とおもっていたが、青山の描像はこういう見解とは違うだろう。では、青山の「ある」「なる」の連続性の強調にはどのような意味があるのか?  

(1-c.質問2:須藤へ)
 決して囲い込めないものとしての「未来」と、思いを定めておく「未来」という二つの(一見矛盾する)態度決定はどう両立しているのではないか?
 何もできない「未来」が端的にそこに存在するというのも事実。もはや応答することは不可避なのでは?未来に対する責任を考える上では重要では?

(1-d.質問3:中島)
 「未来」なく生きる態度を称揚するようにみえるけれど、単なる錯覚とはやはり異なるだろう。
 中島自身も、主観的な錯覚の必然性がそこにあるわけだから、「ある」に引かれる我々の実存にとって「未来」をどう使うかを考えてよいのではないか?
 
 
(2.入不二:Question.) 青山、須藤、中島の三者は論理的な「知」の及ばない対象としての「未来」の形では共通している。

(2-a.まとめと質問)
・全体の枠組みとしてはこう考えた。三つの問題がある。
 ①時間の推移と流れというのが問題。②時制区分。③様相という観点。

【争点③:様相】
・青山は、③様相を導入する。そこでは「なりうる」に重きを置く。「未来」の可能性様相は、論理的可能性ではなく実現可能性として捉えている。
 残りの二人は、③様相について対立する。論理的可能性を無にする(不可能性を強調する)見解。(そもそも実現可能性を切り出さない。)
 つまるところ、青山(「未来」=可能性 説)、斎藤・中島(「未来」=不可能性=無 説)

【争点①:時間推移】
・青山・須藤は時間的な生成、時間的推移を認めるもの。
 中島は過去と現在だけしか認めない。推移というものがない?

【争点②:時制区分】
・三者とも、時制区分と時間推移が一体化して考えられているようす。どうなんだろう?(たとえば、青山が「いま」が「未来」に「なる」というとき、)
 本当はこの区分は別物ではないかと考えている。

(2-b.質問:矛盾の強調?)
・青山でいえば、ある全体が別の全体に「なる」ということはありえないはず。矛盾を含む。
・須藤だと「準実在」という「未来」の姿を見ている。それは実在なのか、不在なのか。結局なんなのかわからない。
・中島は「未来」の不在の強調の意味。全事象がやってこない、ということをいうためには、その可能性が実現してないよね、という言い方が正当であることが必要なのではないか。

 
(3.青山:Answer)

・僕は、齋藤さんみたいに現に「ある」「ある」「ある」というショットの連続としては捉えていない。だらっとしたものがある。
 「今が動いている」というのはいずれにせよナイーブな比喩。そうかもしれないが、比喩をとおして理解はされていればいいのではないかと思う。
・「予測」「予期」というのは基本的には曖昧なんじゃないか、といわれる。けれど、これは認識にたいするつっこみにすぎない。それは未来の存在に対する固有名が使えないようなもの。
 しかし大事なのは存在論。未来に対する無知と存在論的な非実在性を直結させることはできない。
・「未来」を通して可能性を理解するということを今回は書きたかった。「未来」の多様的可能性についてはタッチしない、中立的でありたいと考える。
・僕は「未来の存在」については疑ったことはない。「未来」がないということがわからないから。
・元来、可能性とは未来に向かってどのようなことが起こるか、ということ。そうじゃないところに可能性概念を使うのはどうかと思う。
 「未来がくるときに何が起こるか」こそが、可能性理解のベースに置くべきもの。
 しかし、言語がその概念をひたすら拡張して論理的可能性というのが出てきたのではないかと思う。
 それとの関係で未来の質量がないというのは理解不能ではないか? 流石に言語の越権行為ではないかと思う。
 

(4.須藤:Answer)

・未来はわからない、というのは、いつだって後から到来してみるとそうであったことを確かめられない、ということ。
 これをいいたいがために、「到来しない到来」「過ぎ行かない過ぎ行き」を主張していた。
・様相という意味での可能性と同次元の不可能性ではないメタ不可能性のことを考えていた。
 

(5.中島:Answer)

・実践的関心を抱く理由はない。未来はあたかもあるかのようにかんがえられるのだから「未来」に対する責任はないのか?という問題であれば答えられる。
 カントのいう道徳は、その実在を主張した者とすればすべて間違い。全部「理念」でよい。
 勿論、仮象の方がつよいこともよくあるのだから、それでよいのではないかとおもう。
・不可能性というよりは「偶然」といいたい。
 次の時間というものを保証するものはなにもない。その単純な意味において消滅を待っているということ。
・可能性以前の過去、可能とさえいえないというもの。偶然性をこそ強調したい。
 今までの世界しか知らないわけだから、そこからある「まだない」の無意味性をこれまでの意味論から定義することはできない。(青山の議論はそれができる!という論法になってる)
 一切の発言権すらない未来のことを考えている。
 

(6.フロア討議:discussion)
 
Q1.フロア) 「なりうる」が出てきたことで何が見えてきたかがわからない。齋藤さんがいうように、「ある」と「なる」の関係を明確にしてもらいたい。
A1.青山 ) 可能性というのを言語の無矛盾な組み合わせ(Lewis的な。)という考えとは違う形で取り出したかった。言葉の組み合わせだけで懐疑をたてる感じになってしまう。
 それってタイプ的な組み合わせとしてはそうだよね、ってことになってしまう。この現実世界の疑いの疑いを立てるためには、この現実のトークン性を考えなければならない。
 指示の因果説と起源の本質説が繋がっている、という形でクリプキを捉えることもできると考えた。

Q2.フロア) 時間の向きについて訊きたい。現在の視点からすべてが発しているのか、それともやはり時間系列というのを考えているのか。
A2.中島 ) 時間の向きをもつその「未来」を考えている訳ではない。
 運動論的な語りに引き込まれずに、「未来」という言葉の「次のとき」という言葉の意味を考える、ということ。
 須藤さんのように認識が難しい、というレベルじゃなくて、認識不可能な概念になっていると言いたい。
A2.青山 ) 昔『科学哲学』に書いた論文で書いてる。
 
Q3.フロア) 中島のように「いま」を出来事相対的に捉えるのであれば、未来に対しても適用していいのではないか。
A3.中島 ) これは関心の例を挙げた例。

Q4.丹治 ) 中島の「未来不在説」については計画を立てるとか言う普通の実践はどうなってしまうのか?そこそこ実現されるということを結局「未来」と呼んでいいのでは?
A4.中島 ) どんなに約束しようが、その実在にはコミットしていない。けど、まぁ信仰があるからそこそこにはやるでしょうが。存在論的にないんです。実践的に在ろうとも。
A4.青山 ) 最終的には現実のトークンがあるという世界のことを把握していればよいのではないかと思う。

Q5.フロア) 実践的なところから「存在論的コミットメント」を繋いでいいのではないかと思うが…
A5.中島 ) 現在・過去二元論から考えている。カントについても全部「Shein」で説明できる、という解釈でよいと思っている。

Q6.フロア) 単独の知性者が世界に向き合っているという描像からの時間論しか本日はなされなかった。共同主観や他者との共存の場面を持ってもいいのではないか?いわゆる「他なるもの」?
A6.中島 ) 共同主観というのはよくわからない。最終的には自己に拠る承認というところに落ち着かせることが出来るのではないかと思う。
A6.須藤 ) 共存とか言う経験レベルでのアプローチとは別でいいのではないかと思っている。
A6.青山 ) 他者は重要なんだけど、未来についての予期は強くてよい。他者が記録や記憶のネットワークを紡いでくれてるから信じてる。
 しかし、無自由的世界観をとった場合には、自由意思が消滅する。日常に引き戻される。そこでこそ、未来は可能性があるのだという他者による引き戻しが在る。それは夢かもしれないし、別のものかもしれない。

Q7.フロア) 「未来」というときに実在と存在を混同しているのでは?
A7.中島 ) 思考上だけで存在するもの(=カントの言う「神」)というのは、中島的には存在しないと考えてる。世界のあり方は私が存在しているという限りに置ける意味で存在していると考えている。未来は単に思考の対象である。「概念」と読んでもよい。三角形と同じように、思考する度に生ずるもの。

ほか色々あったが、割愛。青山の実現可能性を「能力」に対応させようとした質問がなされてたけれど、時間切れだったため回答はなし。

 

 

"Cambridge Companion to Utilitarianism" sec.7. ルール功利主義 Rule utilitarianism(Dale E. Miller)

"Cambridge Companion to Utilitarianism" sec.7. ルール功利主義 Rule utilitarianism(Dale E. Miller)

 

【見出し】

 第1節 ルール功利主義とは何か?
 第2節 集合的な理想的コードによるルール功利主義
 第3節 その他のルール功利主義
 第4節 ルール功利主義の魅力
 第5節 ルール功利主義への反論

 

【各節ごとの要約】

 

第1節 ルール功利主義とは何か?

 

(1) ルール功利主義:行為功利主義の代替案として提示されるもの

・ルール功利主義とは?
 「個々の行為が正しかったりそうではなかったりするのは、効用を目的とした防御、正当化、帰結を導く一群のルールを参照することによって決定される(必要がある)、と考える功利主義の理論」David Lyon, "In Forms and Limits of Utilitarianism"
 (内容i) 行為の道徳的地位は「権威ある authoritative 」道徳規則 moral code または道徳的ルールの集合によって決せられる。「権威ある」道徳規則に基づいて禁止される行為は正しくなく、道徳規則の集合によって必要とされる行為は義務的なものとなる、などなど。
 (内容ii) 功利的な基準を満たすことは「権威ある」道徳規則に必要な条件である。

 

(2) ルールの役割についての比較

・行為功利主義にとっての「ルール」とは?
 「ルール」は、(注:個別の事例の後に来る)「要約」や「経験則」を含む「判定手続き decision procedure 」としての役割をもつ。これらのルールを参照して道徳的評価をなすものではない。功利最大化を害する限り、そのルールは(いかに正しい判定手続きに従ってなされたとしても)道徳的に正しくない。
・ルール功利主義にとっての「ルール」とは?
 「ルール」は、それが権威ある道徳規則であるかぎり、単なる判定手続きや発見手続きではなく、道徳的か否かを評価する「基準」となる。

 

(3) 「ルール功利主義」という用語の来歴

・始まりはR.Brantd(Smartが「限定的功利主義」と呼んだもの)
 他の用語法に寄れば、「間接的功利主義」。しかしこの語法は曖昧。
  
(4-5) ルール功利主義的発想の歴史

・(1900年代半ばに)名付けられる前の「ルール功利主義」的な発想
 バークリ:「神学的」ルール功利主義
 バークリによれば、神は人間の幸福を意志する義務をのだから、その目的にしたがって幸福の促進を為さねばならない存在である。そうして看取された定められたルールと道徳的教説は、人間の総和の幸福を必然的に最大化するものとなる。
 神がそうするようにと命じた事柄というのは、人間の幸福を高めるとされるそれらのルールに従うことだと、バークリはいう。

(以下、第5段落)

・通常「ルール功利主義」とは見られない論者たちにも、この発想はみられる。
 Mill:(後述)
 Kant
 「我々がある仕方で行為し、他の全ての人もまたそのように行為する場合には、幸福は最大限実現されることになる。我々はそのように行為することで、幸福というにふさわいしい存在になるのである」

 

(6) ルール帰結主義 rule consequentialism との関係

・1990年代以降は、ルール功利主義の議論は(より広い)ルール帰結主義の議論へと転回
 Brad Hooker:非功利主義的なルール帰結主義
  幸福に加え、徳 virtue と平等 equality にも固有の価値を割り当てる見解
  (注:筆者(Miller)はHookerの議論をルール功利主義適合的に解釈し直せるのではないかと考えている、とのこと)
 Derek Parfit:Parfit版ルール帰結主義
  ※ここでは名前が挙げられただけ

 

(7) 功利主義に対するRawlsの定説に対する批判

・John Rawlsの「正義の二概念」論文
 要約的ルール観と実践的ルール観の区別をなし、後者を重視すべきだとする見解
 ① 要約的見方:合理的な行為の集積
 ② 実践的見方:実践を明確にし、作り出すもの

・この定式から外れた、区別をこえたものが重要ではないか?
 (ex.) ③不運な者への所得再配分の例:これは(ii)ではないが、(i)でもない
 ルール功利主義者のいう「権威ある」道徳規則を作り出すルールは、要約的ルールに留まるものではない。しかし、かといって実践的ルールに留まるものでもない。
・このようにこの二つを越えたもの(注:混合的なケースに留まらないもの?)がある。
 それがルール功利主義者のいうルール③である。

 

(8) 予備的注意

 ルール功利主義多様性
 

 

第2節 集合的な理想的コードによるルール功利主義

 

(9) 現代のルール功利主義における主流:要素α「集合的」、要素β「理想的規則」

・基本的なアイデア
 (内容i) 同じ道徳規則が一定の規模の集団メンバー全員に権威あるものとして認められていることを前提として、
 (内容ii) その規則が「一般的に公認 general adoption される」ことで効用最大化(即ち、当該集団における「一般的公認による効用」が他の規則よりも大きいこと)に繋がる
 →「集合的な理想的規則によるルール功利主義」collective ideal-code rule utilitarianism
 (※以下、レジュメにおいては便宜的に「CIC」と略記することもあり)

・【CICの要素α】「集合的」collective とはなにか?
  同じ道徳規則が集団内の全メンバーに権威あるものとして認められていること

・【CICの要素β】「理想的規則」ideal-code とはなにか?
  現実に広く公認 adopt されているかは問わず(注:トイウ意味で「ideal」に)、
  権威ある道徳規則が(一般的公認 general adoption によって)効用最大化に通じるとされていること

 

(10-11) 現代のルール功利主義における主流:要素γ「公認」

・【CICの要素γ】一般的「公認」general adoption とはなにか?
  一つの見解:ルールに対して完全に従う comply perfectly こと

・このように考え、ルール功利主義を否定的に捉える論者
 ①Smart:行為功利主義
  「ルール功利主義は外延的に行為功利主義の原則に一致するばかりではなく、実際にはただ一つの行為功利主義の原則によって構成されている」
 ②Brandt:ルール功利主義
  一つに定まるわけではないにせよ、「ルールは多すぎて、結局行為功利主義と同じくらい煩雑な規定群になる」
 ∵ あらゆる状況に応じた具体的なルール、状況に応じてきっちりと区切られたルールが必要となるから。
  そのセットを得たときに、ようやく一般的な遵守は功利最大化を果たすことができる。

(以下、第11段落)

・更に別の見解
 ③LyonによるBrandtへの反対
  ルール功利主義は行為功利主義と外延的に一致しない
 別の解釈の提案

・【CICの要素γ 再論】一般的「公認」general adoption とはなにか?
  ルールを受け入れたり accepting 、内面化する internalizing こと:
   ここでの内面化とは?
    ある種のルールに従う obey 心理的傾向 psychological disposition をもつこと
    将来を見越して良心の呵責に苛まれる傾向を持つこと

・Brandtのみならず、Hookerも(またもともとのミルなども)おそらくはこの言い方を好んだはず。ある箇所でBrandtが言っていることによれば、道徳的規則を公認するとは、次のことを指す。
 ①ルールに従う固有の動機付けを得ることであり、規則を侵害した場合に罪 guilt の意識を抱え、他の人がそうしたなら非難を加える disapprove こと、
 ②また、規則が従って行為するのは重要だと信じ、規則に従う動機付けを持った他人を尊重し、「道徳的になすべし」という規則に関連した特殊な語法を用い、そしてこれらの動機や罪の感情、賞賛や尊重と言ったものが正当化できることを信じていること

 

(12-13) 「一般的公認」の基礎に単に内面化を置くだけでは足りないこと

・内面化の罠①
 どう考えても天文学的な数の規範(例外則が複雑化した規範も同様)を内面化することはできない
 →ここから、単一の「効用最大化」ルール(注:行為功利主義の規範に外延的に一致するもの)を引き受けたとしても、現実に効用最大化に繋がるとはいえないことが帰結する
 →自分たちの行為が功利最大化に繋がるかを殆ど知ることができないため、効用最大化をしそこないつづける
・内面化の罠②
 加えて、どの行為が最善の世界を生むのかがわからないために、人は容易に自己利益の最大化へと駆り立てられてしまう
 →何が最善なのかについての懐疑論に行き着く
・内面化の罠③
 更には、(ルールを内面化したとする)他人が、どのように行動するかは予期不能なものとなる。それは社会的協同 cooperation を損なうだろうことを帰結する
・内面化の罠④
 他者に対してルールを内面化するように促す「教育コスト」を支払うことになる

(以下、第13段落)

・前節の帰結から「内面化」が要求するもの
 具体的な行動指針の複雑化・高度化
 (一つの)効用最大化というルールでは足りない 
 我々が従うことができる一定の限度・レベルを把握する必要がある
 ※理想的規則によるルール功利主義は行為功利主義に陥る訳ではない

 

(14-16) 現代のルール功利主義における主流:要素δ「一般的」公認

・「一般的公認 general adoption 」の「一般的」とはなにか?

・【要素δ-1】公認する集団の範囲はどこまで(空間的に、時間的に)広がるか?
  HookerやParfit:広く全人類・時間的幅をもつ全体を考える
  Brand:所与の集団、特定の時機(注:例えば現在)の集団を考える
  Mill:これらとはまた別の考えをしている(注:検討されず)
 
(以下、第15段落)

・【要素δ-2】公認が「一般的公認」に至るためには、果たして何%の人口の公認が必要か?
  Parfit案:人口の100%を要求
  Brandt案:不確かなままとする
  現実主義:100%は無理だが、数を決めるのは困難

・Miller案の理由代替案
 上述のように「公認」について内面化の契機を強調したことからすれば、最初から教育コストには、将来世代に対して教え込むコストが織り込まれていたはず
 内面化前の人にとっては「余計な superflous 」ルールが教え込まれることは織り込み済み
 規則は内面化をなす全ての(注:100%の)人の効用を最大化することはないことは前提とされてよい
 
(以下、第16段落)

・【要素δ-2 再論】
  Miller案:多くの人(BrandtやHookerは概ね90%)という基準

・90%基準の理由
 現実には90%に充たない公認で規則が出来ることもあるし、実際に、それが効用最大化を為すことも多いかもしれない。
 しかし、もしルールを拒絶するマイノリティ集団に対しても権威ある規則がルールを適用しようとするなら、そのルールが、公認をした(だから反対意見には根拠がない)マイノリティであるのかどうかを決定するルールなのかどうかが問われる(従ってそれを考慮する必要がある)ことになる。
 また、90%の人の効用を最大化するルールの場合には、そこからはじかれる残りの10%にはどのような対処をすればよいか、という問いを検討するように促される。
 それゆえ、別のコードなら公認してくれるだろうか?また彼らはニヒリストに過ぎないのか?といった問いに応えることが要求される。
 マイノリティの包摂していくにあたっては、以上のような問いを問うことは適切なはず。

 


第3節 その他のルール功利主義

 

(17) version①:「集合的な現実的コードに基づく」ルール功利主義

・「理想的」ではなく「現実的」とは?
 規則が置かれた当該社会の慣習的道徳 conventional morality との関連を保持すること
 勿論、単に慣習であるというのではなく、それが効用最大化に繋がることは必須

・Richard Millerの「現実的」の定式化
 ①当該社会における正統 legitimate な倫理的ルールによって禁じられる場合に、道徳的に正しくないものとなる
 ②正統な倫理的ルールと言えるのは、それがデファクトルールとして通用している場合に限る
 ③その正統な倫理的ルールは、壊滅的な悪い結果を避ける場合には無視してよいものでなければならない
 ④その正統な倫理的ルールにより影響を受ける人の幸福を増進させるものでなければならない

・このような主張の根拠
 効用最大化という(注:あいまいな?)ものよりも「十分性 satisfying 」を重視する重視したことが根拠となる
 Miller「幸福を増進するルールは理想的なものに留まる必要はない。それは他の代替案よりも生を豊かにするものであればどんなものでもよい」
 (注:要するに理想化された効用概念に留まる限り、そこから大した帰結は導きだせないということだろうか?)

 

(18) version②:「個別的な理想的コードに基づく」ルール功利主義

・「集合的」ではなく「個別的」とは?
 権威ある道徳的規則が、その人のみならず他のメンバーに対しても権威を持たねばならない、という前提を不要とする。
 権威ある規則は、功利主義的観点から「その人」にとって公認できればそれで足る。

・D. H. Hodgsonの見解
 少なくとも行為功利主義の「個人ルール」に従うよりは、望ましい帰結が導かれるはず。
 なぜなら、個別的なルール功利主義ならば、その理論を受け入れる限りではそのルールに従うことが公認されるので、結果的に社会の慣習的道徳のルールに近似することがありうるからだ。一方、行為功利主義のいう個人ルールでは、全てが個人の計算に還元されるので、こういう近似はありえないだろう、と結論付ける。
・Hareとの関係
 ただ結局こういう要素はHareが行為功利主義でも取り込んでいけるとしているので、Hodgsonの主張は彼の経験則に基づくものといえるかも。

 

(19) version③:「素朴な規則功利主義

・現在、そのまま主張する人はいない。
 「ある行為が正しくなるのは、行為がルールの集合と一致する場合であり、そのルールに従うことが問題となるケースにおいて効用を最大化する場合に限られる」
・Lyonはこれを「功利主義の一般定式」と考えている。
・素朴な規則功利主義には、どのくらいのルールが含まれるかとか、どのぐらい具体的に例外則が盛り込まれるべきか、といった考慮が欠けている。このために、行為功利主義から、結局個別の状況、個別の行為、個別の行為者ごとに異なる道徳的立場があるだろうという反論を招いてしまうが、まぁこれに応えられるぐらいに洗練させていければよいことがわかる(注:という理論的意味はあるだろう)。

 


第4節 ルール功利主義の魅力

 

(20) 導入
  

(21-22) 魅力1、効用最大化をなす結果において行為功利主義よりもすぐれている

・John Harsaniの正当化手法
 「行為功利主義を採るいずれの社会よりも高いレベルの社会的効用を得ることができる」
 ①incentive:嘘をつくことが許されるような社会では人々の長期的な期待が保てなくなる
 ②procedural utility::手続き的効用が無視されてしまう
 ③coodonation effect:もし社会が行為功利主義者のみによって構成されていたら、彼らは集団的な行為によって得られる利益を生む機会を逸してしまう

・ex.) 投票行動
 社会的に有用な政策と投票行動の例。自分が足を運んだときに同政策が成立する場合にのみ投票にいくと考える。そして皆がそう考えることにより、投票が成立しなくなる。
 これと反対に、最もよい状態を実現しようとするルールは、全ての人を投票するように方向付ける。
 (Harsaniがルール功利主義が正しく構築できることを説明しようしているのに対して、Brandtが(構築済みのルール功利主義について、その)道徳規則の中身を論じているという違いはあるが、二人の主張はよく似ている)
 
(以下、第22段落)

・魅力1に対する留保
 Harsaniは行為功利主義を低く見積もりすぎている(Hodgsonと同様に)
 全員が行為功利主義の社会など馬鹿げた社会像。
 せめてHareが提示した洗練された行為功利主義の社会くらいを相手にしてほしい。
 実際、こういう議論が許されてしまうなら、ルール功利主義者の側だって、およそ現実の人間像とは乖離した「理想的規則」を全員が受け入れた社会などありえない、という批判を甘受しなくてはならないはず。

 

(23) 魅力2、我々が現に生きている「道徳的な直観」「熟慮された道徳的判断」に近い

・Harsaniの「常識」論
 行為功利主義は、個人が権利を持っていたり、良心が子供を保護する特別の義務を負っているという常識と齟齬をきたす、というもの
・Hookerの「反照的均衡」論
 大した利得もない場合における約束反故の事例や、自己犠牲の強要事例 

 

(24-25) 魅力3、人間本性としての「良心」

・Mill由来の議論:人間本性としての「良心」
 ①人はすでに理想的良心(非難語とか)と言えるようなものをもってしまっている
 ②経験的にみても、心理的な強制装置が埋め込まれた状態は達成されている
 ③規範的にみて、良心という観念は功利主義的には効用最大化に言い換え可能である
・現実に観察してみて、現実社会のメンバーが、いくつもの同一の道徳規則を(多かれ少なかれ)内面化しているという事実からは、権威ある道徳規則が現実の人間に付与されていることを前提にしてよい。
 
(以下、第25段落)

・Brandt「良心の功利主義 conscience utilitarianism」
 「道徳的にいって正しくない」とは、次のような道徳規則によって禁じられたものを指す。即ち、そこでいう道徳規則とは、
 ①もし人生をそこで過ごすとした場合において、
 ②十分に合理的な人間ならば、
 ③社会の行為者に対して、そうしたいと思ってしまったりまたはそうはすまいと思ってしまうだろうような、
 道徳規則である。
・Brandtの道徳理論の選択とは、社会的な道徳規則の選択に還元できる。要するに、個々の自己利益とか共感可能性とかを越えたパブリックな選択をなすように迫る。
・とはいえ、やはりHareのような修正行為功利主義の主張と殆ど変わらないだろう。

 

(26-28) 四つ目:カント理論と帰結主義の接続

・Parfit「三重理論」
 ①カント主義とルール帰結主義を接続した上で、②そのカント型契約論と、③スキャンロン型契約論を総合する理論。
 ①カント主義と帰結主義の接続においては、「誰もが分別を持って選び、そして意志するだろう普遍的に受け入れ可能な原理には、誰もが従わねばならない。普遍的な受け入れ可能性は、結果的最善を導くようなものである」とされる。
 結果的には便益の総和から負担の総和を差し引いて与えられる利益が最も大きい場合に正しいなものとされる。

 ※注:より厳密には、ある行為が不正となるのは、その行為が、次の原理によって否認される場合だけである、即ち「オプティミフィックであり、比類なく普遍的に意志され、かつ分別を持って拒絶することが出来ないような原理、によって否認される場合だけである、とされるよう。 
 

 

第5節 ルール功利主義への反論

 

(29) 導入

(30) 反論1、滑り落ち論 collapse

・行為功利主義へと不可避的に移行してしまう、という既に見た反論
 これは「内面化」という面を重視する本稿にしたがえば回避できている

 

(31-32) 反論2:はりぼて論 Rubber Duck

功利主義帰結主義を前提としている。しかし、帰結主義は定義上「行為者独立 agent-neutral」でなければならないはずにもかかわらず、ルール帰結主義(含む:ルール功利主義)は「行為者中心的 agent-centered」な理論になっている。
 つまり、功利主義帰結主義)の名に反しており、義務論にむしろ近いのではないか、という反論
・もしそうだとすると「福利最大化の義務論」とでもいいかえられるかもしれない、とHoward Snyder は述べる。

(以下、第32段落)

 Hookerは、Howard-Sydneyが不当に帰結主義の定義を歪めているのだろ主張するが、もはやここまで来るとネーミングの争いに過ぎない。
 本稿では別にネーミングはどうでもいいと考えている。

 

(33-35) 反論3、非一貫性 incoherency 

・ルール功利主義に潜む前提を暴くもの。最も重視すべき反論。内容は以下のとおり。
 ルール功利主義が前提としている権威ある道徳的規則は、それが一般に受け入れられることで効用を最大化するという信念に基づいている。しかし、この理由づけは、ルール功利主義が効用最大化が何よりも優先されるべき価値であるという観念にすでにコミットしていることにほかならない。
 しかし、効用最大化が本当に何よりも優先されるべき価値であるとすると、結局、コードを守ることよりも高い効用が得られる場合においてはいつでも、コードを侵害するほうが望ましいことになってしまうだろう。
 よってルール功利主義の内容は、ルール功利主義的に正しくなる別の議論との間に齟齬を来してしまう。

 

(以下、第34段落)

・Smartによる言い換え
 「行為功利主義によれば、道徳的なルールは経験則に過ぎないにもかかわらず、望ましくない経験則として機能してしまっている。」
 「しかし、もし我々が本当にルールを破るべきだという結論にいたったならば、そしてもし我々が自身の誤りやすさと責任を追っていることとの間のバランスを採らねばならないとしたら、どのようなルールを守る理由が残るだろうか?」
 「私の答えは「世界を最善に近づけること」というものこそ、行為のよき理由となると思う。」
 「しかし、そうだとすれば、「世界を通常は最善に近づける行為の集合に属するもの」や「一般的な集合よりはより世界を最善に近づける集合に属するような行為の集合に属するもの」はなぜよき理由とはならないのか?あなたは何度もこの続きを考えることができる。」

 

(以下、第35段落)

・上記ルール功利主義批判の要約
 ルール功利主義は(この反論をかわそうとするなら)そのルールが最初に推奨されたのと同じ考慮をしたならばそれを破ることを肯定しただろうときでも、ルールの集合を遵守するべきであると主張するだろう。これにたいして、反対派が「ルール崇拝 rule worship 」と呼んで反対するのには理由がある。
 これは強力な反論である。しかし、ルール功利主義の理論のすべてが、上述の前提を持っている訳ではない。いずれの議論も「よさを最大化することにコミットすることヘの橋渡し」と呼んでいるものに前提を置いている訳ではない。