書肆短評

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第19回文フリでの頒布物より(3)小説---艦これトリビュート、Liminality、しあわせはっぴーにゃんこなどなど #bunfree

第19回文フリでの頒布物で頂いてきたものから、小説を幾つかご紹介。

 1: 艦これトリビュート、

 2: METEOR EP、

 3: しあわせはっぴーにゃんこ、

 4: Liminality、

 5: ゆりくらふと2、

 6: 甘受の才能

まで読み終えました。12/4追加。
 

 

1、艦隊これくしょんトリビュート 京都大学SF・幻想文学研究会(KUSFA)編

 

 京大SF・幻想文学研究会の艦これ二次創作集。艦これSSとしても、史実に基づく歴史ものとしても、SFとしても、圧倒的なクオリティの高さに驚く。その裏付けあっての艦これの設定や状況への着地が巧みで、これは他の頒布会で入手できるのであれば、何を差し置いても読むべき一冊。
 一つ、例を挙げる。例えば、里野サトさん著「わが愛しき艦娘たちよ」では、意識・記憶の概念についてこんなやり取りが続く。
 「記憶は意識よりももっと根源的な現象なんだ。人間には意識があるが、物には意識はない。だが記憶は物にも人間にも等しく備わっている。記憶を記録メディア、意識をその最盛期に喩えてみると判りやすい。もしこの世から最盛期が無くなっても、記録メディアは変わらず残っていて、その中には再生されるべき上方が眠っている。人間というのは言ってみれば最盛期の中の記録メディア、物というのは最盛期を持たない単独の記録メディアだ。普通の最盛期と記録メディアの関係と違うのは、人間ってのは最盛期全体がそのまま記録メディアになっていて、記録メディアだけ取り外して他で再生することができないってところか。もっと正確にいえば、人間というのは進化の過程で自らを再試する機能を獲得した記録メディアに過ぎない…(中略)…人間にとって戦争は遠い過去の出来事に過ぎないが、物にとってはそうじゃない。過去を現在から分かつことで記憶から距離を獲ることができる人間とは違って、物にとって記憶はいつまでも現在に留まり続ける。”奴ら”を戦いに駆り立てるのは、永遠の現在の厚みを持つ歴史の中で、今も繰り広げられている戦争そのものだ」。
 人であり艦船でもある艦娘たちと人間である提督が集う鎮守府という場に、このような意識の概念が持ち込まれることで何が起こるか。そこで提起されるのは、鎮守府とは物の意識を人に植え付けることで、人を物化し、その数々の物のヴァリエーションに人が落ち込んでいく物語として現れるという問題状況だろう。だからこそ「君は君自身に値するか?」という問いは、半物・反人間の艦娘においてこそ、愛憎半ばするシビアな問いであり、希望の言葉として与えられることになるのだ。
 このような重厚な裏付けが、『艦これ』という物語をより苦しく、辛いものとしながら、しかしより愛おしいものに変えてくれることは間違いないし、その力が本書の随所に感じられる。京大SF・幻想文学研で出されているものは、過去分も含めてとてもよいのが多いので(百合特集号とか特に)、ぜひ今後頒布されているところで見かけたら考えるよりも前に購入をお勧めしたい。(※勿論、自分はKUSFAとは何の関係もない単なる一ファンです。)
 今回の『艦これトリビュート』もまた通しで読んで、どれも面白かったが、特に里野サトさん「わが愛しき艦娘たちよ」、谷林守さん「忘れられた船」、船戸一人さん「娘の魂に安らぎあれ」がよかったので、少しだけご紹介。
 (春眠蛙さんの二編、坂永雄一さんのも捨て難かったところですが…)

※以下、著者名等について敬称略とさせていただきます。


(1)里野サト「わが愛しき艦娘たちよ」

 曙と潮を中心とした、現在と過去、意識と記憶にまつわるエピソードを紐解きながら、人が自身を物のように扱わざるをえなくなる状況としての鎮守府という、暗く、出口のない、しかしそこにも胎内する愛情を繊細に描く物語。百合あり、(隠れた)家族愛あり、思春期的苛立ちあり。物語構成も極めて緻密でありつつ、(蔓延する不安の裏返しではあるという皮肉も交えつつ)軽妙な会話のテンポやさりげない引用も相まって、読みやすさも損なっていない。これぞ艦これSSのお手本にしたいという風情の小説。ぜひ他も読んでみたい。
 内容について触れるのはとても勿体ないので、読者にはぜひ、既に引用した意識と記憶にまつわるエピソードを念頭において、読み進めていってほしいとおもう。読後感だけをにおわせておけば、曙の暗鬱とした淡々と生きられただけの生が、自らの死・他なる死に出会うことで、他なる生のその視線によって「私として」生き延びることができるになるという希望を描ききっていて、辛くも暖かな心持ちにいたるはずだ。「私が私として生き続ける限り私と共に在り続ける」二つの生、過去(戦下)の曙の生と現在の曙の生が、ともにいくつもの死に囲まれつつも、別の愛によって彩られているという末尾の箇所では落涙を禁じえなかった。


(2)忘れられた船

 亡霊船と化した第五福竜丸を中心として、船自体の願いと深海棲艦と呼ばれる戦禍の残滓のような存在の両方に向けた鎮魂へと向けられている物語。
 現代から返り見られた「史実」のルポを行う主人公のもとに現れる、都市伝説めいた深海棲艦。彼女を通じて、物に宿った意識へ向き合う仕方が推移していく。「”それ”が、腕を伸ばし」、「彼に触れようとゆっくりと手を近づける」、その手に、人が手を伸ばす場面では身震いに駆られた。
 「史実」もまたその亡霊船のように、何も過去の手がかりがないところでなお、物に化体された記憶を(現在すら越えて)運ぶためにあるのではないか、そんな妄想とともに読了した。全体的に落ち着いたトーンで進めつつ、ふっと記憶の残滓を垣間見せる物語全体のテーマを思わせるさらっとした末尾も、よく合っている。


(3)娘の魂に安らぎあれ

 艦船と化した艦娘たちの自意識と幸福を巡る物語。ごく短いこともあって、概ね対話とその裏にある逡巡に悩む提督のゆれる視線を追うことで、物語が駆動される。あまりにも人間じみた、人間の意識を持つかのような艦娘たちに、提督の目線からではなく艦娘の目線の方から意識が芽生える様を記述していくその触れられなさに、決して縮めることのできない距離を感じ、かつ、それでいて親密な、幸福の届かなさが描写されていく。
 兵器としての純粋性、機械仕掛けの理想形と幸福との関係(いまでいうとロボット倫理とかに通じるのかもしれないけど、こういう話題)について、未だ自分は何も知らないのだなということに打ちのめされる小編でした。

 

 

2、Meteor EP 木野誠太郎さん著

 

 きのせい(木野誠太郎)さんの著で、「青空さんのメテオ」「天使二号」「無限鉄道の夜」からなる小説三編。文庫です。西野田さんの装丁がとても綺麗。飾りたいくらいです。

 まとまりを感じるのは「青空さんのメテオ」。学校という舞台を最大限活用して、逃避としての「妄想」から離脱し、日常へ再着陸する様子が、落ち着いた筆致で描かれていく。からっとした読後感。最も好きな箇所は、present day, present time を「過ごす」ためにも meteor day, meteor time を夢想することでしかやり「過ごせ」ない、という冒頭付近の物語の実質的な始まりの箇所。計87頁、すいすい読めました。

 個人的な好みで言えば「天使二号」。43頁と短かったのでもう少し続きが欲しい感じだったかもですが、そここそ読者側での妄想のしがいがあるとも感じるところ。具体的には、p.127「名前を覚えていてくれた」というセリフから展開される妄想がとまらない。全体を通じて世界観を端的に示して活用できてるのも好みなタイプ。

 

 

3、しあわせはっぴーにゃんこ はるしにゃん編


 はるしにゃん編の(概ね)小説集。どれもフィクションと呼んでいいのだとは思うけれど、(雑多でありつついて一貫している点があるとすれば、)生の避けようもない生きにくさと、それを(軽やかに?)越えていく「はっぴーにゃんこ」という名とともにある生へと振り向ける希望、そんな両者を一挙に捕まえようとする(?)点にあるのだろうか。
 こちらからは、全体のトーンを強く反映しているのではないかと思しき二つを紹介。はるしにゃんの「リトルネロの猫」とK坂ひえきさんの「泉こなたの亡骸に愛を込めて」。四流色夜空さん、教祖☆雨子さんのも好みでしたが、うまくまとめられませんでした。(ごめんなさい…)

※以下、著者名等について敬称略とさせていただきます。

 

(1)はるしにゃん「リトルネロの猫」

 最も判りやすいのは、編者であるはるしにゃんの「リトルネロの猫」。まず、いいタイトルだと思う。勿論、タイトルだけではない。本編は「しあわせ」という音の響きの連鎖から全てが発するのだ、ということに人を開く。これを示す印象的な一節としては次の箇所がある。
 「ただ「彼女に幸せになってほしい」と思っていた。独りよがりにそう思った。それから「彼女に幸せになってほしい」という塊から「彼女に」が剥落して、「しあわせになってほしい」となり、それから「なってほしい」というのも剥落していって、ただ「しあわせ」という言葉だけが残った。それだけが残留して心の中を循環的に舞った。それは錯誤でしかなかった。僕は亡霊に祈っている。僕は無に祈っているのだ。」
 勿論、「しあわせはっぴーにゃんこ」という語を連呼したところで、それによって世界が変わるというのではない。けれど、その語を繰り返すことで生まれるリズムには、おそらくは、世界へと、もう一度自らを開く、詩情めいたものがあるのだろう。そんなふうに感じて「しあわせ」と口ずさみたくなる、そんな一編。
 

(2)K坂ひえき「泉こなたの亡骸に愛を込めて」

 圧倒的に引き込まれたのが「泉こなたの亡骸に愛を込めて」。
 全体を通じてあるのはただ、『らき☆すた』の泉こなたへの愛を、どう止めることなく噴出させることもなく保つべきなのか(或いはそうではないのか)という、暗鬱とした苦しみの叙述である。何度も記述されるように、著者にとっての『らき☆すた』とは「真摯な出来事」であり、画面のこちら側からであれ「共に生活していた」、「主体的に誠実な」生であったのだ。これを、外面を取り繕うことや、逆に、外向けの表現一般に落としてしまうことは赦されないだろう。そこらにいる他者ではなく自己の問題、錯覚であろうとも一抹の(一切の)肯定をもたらす嵐として、泉こなたは記述されていく。
 それでもなお時間は過ぎる。あらゆるアニメが、『らき☆すた』の上に積層していく。そうして、もはや著者には、「泉こなた」という名しか思いだせない。しかしそれでもなお、泣き喚くことなく見ることができる。「愛と追悼を込めて」。
 それが、著者が殆ど動くことなく示す倫理の形である。

※なお、K坂ひえきさんには、本書所収の別稿「天使の位置」がある。そこでも同じく愛と信頼が問題とされている。

 

4、Liminality 小鳥遊さん著

 

 小鳥遊さんの小説。「幽霊」の存在を感じつつも、その避けられない距離についての心象風景とともに、古書店員の女の子と怪談趣味をもつ「先生」を中心とした日常生活を繊細に描いている。怪奇小説、として頁を繰るだけでも勿論面白いのだけど、本書の楽しみはそれだけというのでもない。

 本書では、この世ならざるものへの近づき方が、手を替え品を替え場面を替え、次々と淡々としかし着実に、折り重ねられるように提示されていく。

 読者は読み進めるごとに、まるで自分を呼ぶかのような不気味な声に取り憑かれる。しかる後に、「視える」ものと「視えない」もの、「恐れ」をもって幽霊に触れることと「恐れなし」に幽霊に触れること、「こちら」と「あちら」、そして時の流れなどなどといった、あらゆる境界線を跨ぎ越えるときの”構え”をもつようにと促されるだろう。そうして最後には「怪を暴かず。幽を見出さず」という言葉と共に、この本を閉じることになるはずだ。

 幽霊を取り込むことなく、乱さず、しかし触れようとする瞬間の切迫した気配にこそ、この本のぞくりとする怪奇の醍醐味が詰まっている。

「真実は今や骨となり、灰となり、風、或いは埃の中に紛れてしまっている」。

 冒頭にあるように「恐ろしさ」、「美しさ」、「哀しみ」。これらはどれもが、幽霊を視、幽霊に触れるときに携えていなければならない感覚だ。怪談を、「恐れ」を、単に楽しみの一つとして消費するのではなく、「恐れ」を携えて幽霊に触れようとしなければならない。その上でなお避けようもない「世界に線を引いた」、境界線の上で躍るかの様なその立ち居振る舞いにこそ、(あらゆる「主体」の以前に主体を動かす真犯人たる)幽霊とともにある生が浮かび上がる、のかもしれない。そんなことを思わされる一冊。

 読みやすくまとまりもよく、『艦これトリビュート』の次に気に入ってる文フリ調達小説です。

 

 

5、ゆりくらふと2 彩+省子+八月うまれ さん編


 全編13編に及ぶ百合総合誌。アニメレビューあり、百合小説あり、マンガあり、短歌ありの計232頁。(以下敬称略)

 アニメレビューは、百合アニメ総論と、『ガールフレンド(仮)』、『ヤマノススメ』、『さばげぶっ』、『悪魔のリドル』、『seletor infected wixoss』の五作品のレビュー。百合的に観る、というのを押し進めた熱のこもったレビューでした。『ヤマノススメ』の第13話の8分間の筆者の心の叫び集は是非一読されたい。

 小説からは、中野史子『petunia』と『まずは友達から』、あと『過去からのケーキ』をご紹介(ほか、『艦娘による永遠』)。
 まず、『petunia』は、本書に所収されている以上、百合作品なんだろうなぁ、と言う先入見をいい意味で崩しつつ(手汗のところか…)、淡い百合友情ものへとふんわり着地するという、本書冒頭に相応しい一編。まっすぐに後輩の恋路を応援しようとする「先輩」と彼女への憧れを抱く「わたし」が、別の恋愛事情を機に、自分たちに見合った距離とスピードを再度獲得していくところには、言葉に尽くせない清々しい読後感が残る。かつて芳文社『つぼみ』で連載してたようなさっぱり目の百合漫画の雰囲気だろうか。
 次に、『まずは友達から』は、記憶喪失にいたった「わたし」と、親友と名乗る少女との関係構築のお話。ネタバレをさけつついえば、「わたし」が、記憶が残っていた時代の自分に嫉妬する、自分が自分に焦がれ、焦り、関係の取り戻しに急いてしまうという描写の箇所が、最もお気に入りの箇所。自分と競うという描写って、なかなかにそそるものがある。
 『過去からのケーキ』は、自分の現在の同居人に送られた招待状を機に、同居人の過去の親友へと逢いにいくことから始まる。過去という褪せた関係と、親友という淡い距離感が、一見さばさばとした互いの関係が、招待状への答えによって現在において繋がれることで、色を取り戻す、という雰囲気。力強い同居人へのちりっとした焦燥や不安がよく現れている一編。

 漫画は『遅刻車両』と『dear signal』の二つ。どちらも触れずに触れるという距離を、たまたま一緒だった電車や生活に重ねて、未成年煙草や朝練という若い設定によって、とても丁寧に表していた。『遅刻列車』の高校五年目生のとぼけっぷりというかぬけっぷりが可愛い。

 短歌から、一つすごく好みなのがあったので抜粋。「眼鏡をとられてしまった夜 ぼんやり光る蜂の巣みたいな街灯り」。百合を前提に読むと、とっても…

 

 

 6、甘受の才能 かかり真魚 さん著

 

(うまくまとめることができずに申し訳ありません…)

 読んでいて、息苦しくなるような、真綿で絞められるような生の苦しみがよく伝わってくる…ただ生きるだけでのしかかる辛みがぼとぼとと滲んでくる…そんな短歌・俳句の数々と小説一つ。

 全体を占める雰囲気としては次の短歌がよく示しているように思えた。

「キリストがもし斜視なれば救わるる地点へ伸びる影のあざやか」

 小説においては、このリアルの生の救いのなさが更に強調されていた。学校という閉鎖空間において、教師から(二重の、三重の意味で)「お気に入り」=「目をかけられた」女生徒の苦しみが。好きなブルー・ブラックのボールペンも、お気に入りの薄黄色のノートも、生活のすべてを秘かに彩っていた薔薇のモチーフも、教師にその秘密が「見られている」という事実と記憶によってどす黒い感情に飲み込まれ、もう一度たりとも使えなくなる。とはいえ、他人から来る、優しさ・気持ちの悪さだけなら耐えられただろうに、それらへの迎合を自然になしてしまう自分を、遅かれ早かれ、彼女は何よりも唾棄すべきものとして捉えるに至るだろう。「お気に入り」はそうやって反復され、塗りつぶすのだ。そうして彼女の、他者と自己のすべてを否定・拒絶する意思と、「圧倒的なもの」とを希う祈りが、切々と綴られていく。それも、「圧倒的なものに殺されてみたい」という願いに向けて…。

 ずんと重い全体のトーンの下、短歌の中にはいくつか生活からそのまま転がり出たようなものもあって、あぁこれが本当の救いだなぁと感じ入ったので、一つだけご紹介。

「液化する朝をかさ増しさせているコーンフレークの砂糖 かなしい」

 勿論手放しで幸福が満ちあふれている訳ではないけど、この一編の短歌が数多の中にそっと置かれているだけで、あぁこの瞬間が著者にあったならば自分は少しだけ楽になれた、勝手ながらほっとした、と…恐らくこの同人誌を手に取ったならば同じように感じていただけるのではなかろうか。