"Cambridge Companion to Utilitarianism" sec.13. 徳倫理が功利主義から学べること What virtue ethics can learn from Utilitarianism (Daniel C. Russel)
13章 徳倫理が功利主義から学べること(ラッセル)
第1節 なぜ全ての人が結果について思いめぐらせなければならないのか
i.) 結果を真面目に受け取ることは必ずしも帰結主義に至るわけではない
ii.) どのように結果が徳倫理に関わるか
iii.) 結果に関わる実践的知性
第2節 ハードケースとジレンマ:取扱法および予防策
i.) イージーケースとハードケース
ii.) ジレンマと「そうすべき正しい事柄」
iii.) ジレンマにおいて実践的知性がなせること
iv.) ジレンマに対して実践的知性がなせること
第3節 結果に対して責任を取ること:制度的アプローチ
i.) 緊急手段と制度的解決との峻別
ii.) 制度に関する徳とは何か?
iii.) もし問題がビジネスに過ぎないとしても徳が存在するとすればどこに存在するだろうか?
第4節 最初に検討すべきフィジビリティ(実行可能性)
i.) 悪徳は消せない、しかし徳も強靭である
ii.) どのように手段が目的を正当化するか
第5節 結論
【各節ごとの要約】
(1-2段落) 導入、筆者のスタンス
・筆者は功利主義者ではない。徳倫理にシンパシーあり
・筆者の理解する功利主義:
「ある行為や政策が正しいか否かは、専ら、関係者一同にとっての結果によっている」とする見解
・筆者の理解する徳倫理:
「正しいことは究極的にはある種の人格へとなることのうちにある」とする見解
(例えば、気前がよく、分け隔てせず、それでいて情に厚いなどといった)いくつかの性格における徳を(単に心でそう思ったり動機付けにしたりするだけではなく)現に行為において外に表すことができるような、そういう人格へと至ることのうちにある。
・徳倫理が功利主義から学べること
よき功利主義には備わっているある種の原因結果思考 cause-and-effect thinking
第1節 なぜ全ての人が結果について思いめぐらせなければならないのか
i.) 結果を真面目に受け取ることは必ずしも帰結主義に至るわけではない
(3段落) 帰結主義的思考と、結果についての思考の違いについて
・二つの思考法
①帰結主義思考:(cf. Sinnott-Armstrong)
「ある私的な行為や公的な政策が正しいかどうかは、専ら、その行為や政策がもたらす帰結によるのであり、それ以外のものによることはない」という考え方
※功利主義は、この帰結主義に属する主要な立場
②結果についての思考:
「我々が責任をもって行為を選択するためには、結果に関する考慮を抜きにして語ることはできない」という考え方。
帰結主義のいう帰結が最終的な試金石とはならない、と考える
(4-7段落) 帰結主義とその他の立場を対立的に捉えすぎてきた問題
・帰結主義を「劣った立場」にしてしまう傾斜(の問題点)
これまでの道徳哲学者達は、当然のように帰結主義を道徳的に劣ったものとして捉えてきてしまった。そのため、帰結(のみ)を真面目に追及する立場か、そうではないより「本当に問題になっていること」を捉える立場か、という誤った傾斜 slide へと陥ってきた。
しかし、有徳な人間になるか、結果を真面目に受け取るか、という立場の間の選択には先がない。
・上記傾斜の2つ目の問題点
実際、そうした傾斜は、これまでの倫理学の伝統において結果についての考慮が重要な役割を占めていたことを忘れさせてしまう。ベンサム、カントといった思想家をそういう学派に押し込めることは、彼らを重要な点で誤解してしまう。
・筆者のカントについての理解
カントは、道徳における動機付けを特に重視した。それは確かである。
その一方でカントは「我々が動機付けられる主要な事柄のうちには、我々がより幸福な生を送ることのできる世界を作り出すという事柄が含まれている」と考えていた。
カント曰く、徳をもつとは、「人々の生をよりよくする行為や政策を選ぶことと、お互いにとって望ましい生の仕方を促すという目標をもつこと」にほかならない。
・筆者のベンサムについての理解
ベンサムは「功利の原則」に則り、次のように考えた。「公共政策は、偏見なしの、公正で、平等な考慮に基づき、結果を真面目に受け取ることによって、形成されるべきである」と。
この点ではカントはベンサムに賛同することはできないだろうが、カントであっても、「我々は、我々の暮らし向きをよくするよう努めるべきであり、そして我々が行為するその仕方によって引き起こされる結果に注意をむけなければ我々の目論んだ善は達成されない」という点においてはベンサムに同意したものと思われる。
(8段落) 結果に対する考慮を含んだ徳倫理という解決策
ii.) どのように結果が徳倫理に関わるか
(9段落) 結果についての思考法①:道具的理性の行使
・結果についての思考
結果についての思考は徳倫理において重要な一部。
有徳な行為というのはある結果の達成を狙うものだから。
・例:気前のよさ、という徳
徳を有していると言えるためには、正しい目的を有していなければならない。
(例:「気前のよさ」---誰かに資源を分け与えることで当人を助けるといった目的。現に助けとなることをなすこと。結果抜きには語れない目的。)
そこでは、どの資源が足りないか、どの資源が利用可能か、どうしたら資源を有効利用できるか、といった道具的理性の行使が必要となる。
つまり、道具的な知識 savvy やノウハウ know-how を含む実践的知性を用いて善き意図を支えることで、その人が本当に有徳であるといえるようになる(アリストテレス)。
(10段落) 結果についての思考法②-1:中間ステップのはさみこみ、フロネーシス
・道具的理性に留まらない結果についての思考(目的不確定ケース)
もし有徳に考えるということが単に道具的理性の行使にすぎないとすれば、その結果を達成する幾つもの方法を考えるのに先立って、どの目的が有徳かを正確に知ることができることになる。しかしそうではない。
(2003年コロンビア難民のケース:間断なき援助を継続することで却って彼らの自立的な生活を損なってしまったケース)
(11段落) 結果についての思考法②-2:中間ステップのはさみこみ、フロネーシス
・コロンビア難民のケースで失敗した理由
このケースでは、目的が達成不可能なほどに大きかった訳でもない。
一方で、手段が目的達成にとって不合理であった訳でもない。
問題は、「難民を助ける」というお題目が、いまだ一般的な目的設定に過ぎず、不確定な目的設定に留まっていた(のに目的と解決策のセットを既にもっていると勘違いした)ことにある。
・比較:医師による治療のケース
医師が治療をするという場合、目的は確定されており、手段も確定されている、と考えがちだ。
しかし、そのような治療行為においてさえ、大目的と手段の間の中間ステップとして、治療の結果として患者がどういう状態に達するか、という中間的決定をする必要がある。
・中間ステップとは:
一見確定しているかに見える目的と手段の間に、中間的目的(中間的実行手段)をはさみこむ思考ステップ。これにより、目的を真に確定させる。
還元すれば、そのときその場の状況において、目的を真に現実化するとはどのようなことかを理解するステップ。
・難民のケースの問題:長期的な影響を見すごしたこと
目的や手段だけみれば正しかったかもしれないが、長期的に援助を与え続けることがいかなる結果を引き起こすか、についての考慮(中間ステップ)が足りなかった。
(12段落) 結果についての思考法②-3:中間ステップのはさみこみ、フロネーシス
・アリストテレスのフロネーシス phronesis (=実践的知性の徳)
アリストテレスは、この中間ステップを、フロネーシス(=実践的知性、知恵)と呼んだ。
中間ステップは「人々を幸福にするためになされる深い理解によって導かれなければならない」。
・徳の実行フェイズに必要となるフロネーシス
(誤)常識や直観が促すところの「見たところの気前のよさ」「公平らしく見えるもの」
(正)気前のよさや公正が、我々の生活において現にそのようなものとして働き、その現実化を助け、問題の解決に導くものについて、十分に知性と熟慮を働かせた鑑識眼が必要とされる
iii.) 結果に関わる実践的知性
(13段落) 実践的知性の結果思考性①:何が問題か、ではなく、どう実行するか
・結果と一連になった目的の確定
気前の良さ、勇敢さ、正義…などなど、あらゆる徳は、お題目として提示されるだけではなく、どう実行するかに関わっている。
つまり、徳の実行のためには、何が問題かを理解するだけではなく、現実にどうそれが働くかを理解する必要がある。
そのため、結果についての思考を抜きにして「種々の徳が何であるか」を知ることはできない。
(14段落) 実践的知性の結果志向性②:総体的な考慮 overall way を促す役割
・徳の実行における状況依存性
ある徳は正しい目的を指示するが、いつも他の徳が指示するのと同じ目的を指示する訳ではない。そのため、状況に応じて最も適切な、ある徳と別の徳の間のバランスを捉える必要がある。
例:気前のよさ:資源や機会(その他金回り)が有限だった場合、どこになにを配分するかを決めねばならない。
いかなる徳を追及するにあたっても(別の徳を実行しなかったという意味で)機会は失っている。
よって、有徳な人は費用便益のような考慮をいつも果たさなくてはならない。
(15段落) 次節への導入
2 ハードケースとジレンマ:取扱法および予防策
i.) イージーケースとハードケース
(16-19段落) イージーケース
・事例:激痛を伴う大胆な治療法をとるかとらないか、というケース
ここでは実践的知性は要らない。生活の構えと常識があれば足りる。
・イージーケースをもとにした徳の理論(cf.Michael Slote)
スロートは、このケースが真に有徳な人がおかれた状況であるとしている。
事実が十分に手元にあれば熟慮なしに明確な答えを見付けられるとする。
重要なのは結果についての熟慮ではなく事実であると考える。
(著者はこれに反対する。)
(20-23段落) ハードケースとイージーケースを分つ判断の難しさ、実践的知性の役割
・ハードケースの判断が困難であることをもとにした徳の理論(D.C.Russel)
ハードケースとは?:
徳があり、事実も手元にあるにもかかわらず、どうすればよいかが明らかではないケース。本当に問題がイージーなのかを判断するためにも、実践的知性と結果についての考慮を必要とする。
・事例:大気汚染を改善する政策を選ぶケース
片方がよい高い待機汚染防止効果をもつ、とわかっている場合には、イージーケースに見えるかもしれない。しかし、実際には二つの成果 outcome の間の選択をするものなので、そう簡単にはいかない。
どちらの政策が「実際に今後(どの程度のコストで)汚染された大気をよりよいものにするか?」という結果についての実践的知性に基づく思考を必要とする。
例えば、より品質の高い車が(単純に)高価なものに留まれば、昔ながらの車を使い続ける人は多いだろうから、結果的に大気汚染の状況は改善できなくなる、などなど。
ハードケースかイージーケースかを判断するにあたっては、一見したよりも多くの判断が要される。
・我々がそれを欲するかどうか、という安易な判断では解決できないもの
ハードケースも、安直に考えれば、イージーケースとして(誤って)処理してしまえる。難民のケースもこの安直な解決を図った結果の悲劇。
問題は簡単かもしれないが、問題解決において思いも寄らない結果が引き起こされてしまうのが、ハードケースに安易な解決を施したときの問題。
そこでは、(ハードケースであることを見過ごして)一見したところの「明らかな」答えを選んでしまうことそれ自体が問題となっている。
そのため、「何をすべきか」のみならず、「なぜ、何をするべきか、を知ることが難しいのか」を察知するためにこそ、結果についての実践的理性に基づく思考が必要となる。
ii.) ジレンマと「そうすべき正しい事柄」
(24-26段落) ハードケースの特殊事例としてのジレンマ
・ジレンマ:採りうる全ての選択肢が望ましくないパターン
・事例:2011年大統領選挙前討論会における保険加入問題
(健康な若年者が不必要な保険料を支払うのを止めた途端に彼に不幸が起こり、昏睡状態となってしまった。誰が医療費を支払うべきか?という問題)
患者への支払を大きくすれば個人の金銭的負担が増大する、一方、患者への支払を小さくすれば個人の負担は縮小する。慈悲深くあろうとすれば残念なことに個人の金銭負担を増大させねばならず、公平であろうとすれば患者への支払は小さなものにせざるをえない。
(27段落) ジレンマへの対処
①通常の仕方
何かをしたり、よりましなものを選んだりすること
②徳倫理の観点
何を選んでも後悔から逃れることはできない
「そうすべき正しい事柄」が常にあると考えてしまうと、出口のない円をあてどなく彷徨うことになる。
ジレンマにおいては、何一つ真に満足の行く答えというものはない。(※まずはこの事実を受け入れねばならない)
iii.) ジレンマにおいて実践的知性がなせること
(28段落) なしうること①:結果についての計算
・現実に対する安易な解答を禁じる
まずある人がおかれた状況が本当にジレンマなのかを把握する為には実践的知性が要され、また他の選択肢がもたらす帰結についての考慮無しにそうすることを禁じる。
(保険の例、再論)
結果に対する考慮を離れた解答を禁じる。
(29段落) なしうること②:犠牲に供したものの保持
・当該オプションをとったときにえるものよりも、他に失う価値あるものがどれだけ大きいか、の検討を促す。
勿論、慈悲と公正のコストを図る共通通貨は存在しない。(人間の幸福という観念を持ってきても解決しない)
有徳に選択するとは、(それでよしという)満足を得ることではなく、犠牲に供したものを知ることを意味する。
(30-32段落) 費用便益分析との違い、+と−の非対称
・David Schmidz の(妥当な)指摘
「費用便益分析によって便益が上回ったとしてもそれは決定的とは言えない。人はそこから、他の人に負担を課すことを正当化できるかを議論しなくてはならない。反対に負担の方が大きい場合には、そこから議論をする余地はない。」
「というのも、全ての状況で、価値あるものを最大化しなくてはならない訳ではないからだ。価値を高めることはその価値に敬意を払う唯一の方法という訳ではない。価値を最大化することなく、それに敬意を払うようにと促すときもある。」
結果についての思考は有徳に選択をする方法であるが、唯一のものというわけではない。実践的知性は、「いつ結果の重視が決定的となり、いつ結果の重視が決定的とならないか」という場面の切り分け方を知るためにこそ、要される。
iv.) ジレンマに対して実践的知性がなせること
(33-34段落) ジレンマが生じるに至った過程についての考慮へ
・問題:ジレンマにおいて何がなせるか、ではなく、ジレンマに対して何がなせるか?
ジレンマの結果についての思考ではなく、他の事柄の結果としてのジレンマについての思考。
・保険の例、再論:
なぜそもそも保険適用外の患者が存在することになったか?
どんな政策決定の過程によって我々がジレンマに追い込まれたか?
どんな政策決定がより責任あるものだったか?
それはうまく回るのか?
そしてある単位の治療は別の単位の予防に比べてましなものか?
(35-36段落) 予防という方法について
・車両不備への対応の例
対処法①:
よくないことが起こるまで待ち、おこったら機械工のところへ出す、という方法
これは大抵の場合不便だし、費用がかさむやり方となる
対処法②:
定期検診に出す
これは緊急事態における行動を全体として冗長にするかもしれない。
しかし、そもそも緊急事態を減らす上、その被害も小さなものにする。
・予防法の分類
ひとたび事件が起こってしまえば、採りうる策は①しかない(ジレンマ)
しかし、自分たちの力で避けることができる欠陥である限りは、②もまた必要(脱ジレンマ)
・予防的問題解決、実践的知性の使いどころ、ジレンマの予防
我々は社会的な制度(公的/私的な制度)をもっている
そのため、緊急事態を手をこまねいて待つよりも、よりましな選択肢をもっている
3 結果に対して責任を取ること:制度的アプローチ
(37段落) 社会的制度と予防的問題解決の密接な関係
・日常的な衣食住が途端にジレンマに囲まれた試練のようなものへと化してしまう。
よき制度があってはじめて、我々はジレンマに拘泥することなく、日々を過ごすことができる。
(※ジレンマを解消する予防的制度を作ってきた歴史の重要性)
i.) 緊急手段と制度的解決との峻別
(38-40段落) Cohenのジレンマ
・Cohenの事例:
強靭なものと、虚弱なものの二人が、ある土地で生きていくことになった。条件と選択肢は次のとおり。
(a)私的所有:その土地の資源は二人で分けることができる。そのため半々に分けることもできるが、そう分けたとしても、虚弱なほうは自分が生きていけるだけの資源を作り出せない。
(b)共同所有:その土地の資源に対する正統な支配は、二人の手に委ねられている。虚弱な方は、強靭な方に、全ての土地の資源を利用してよいから、その代わりに生産物の分け前(例えば50%)をくれるようにと取り決めをなすことが考えられる。
(41-42段落) Cohenのジレンマの解消法
・Cohenの事例がジレンマにあたることの確認
・Cohenのジレンマは解消可能であること
ゼロサムゲームではない形へと事例の見立てを変化させること。そうすることで、よりましなものにすることができる。
人類史を概観すれば、近視眼的な見通しの悪さが、このような虚弱者を作り出してきたと考えることができる。
そこで正しい制度の出番。
制度によって、生産や交換は見立てを修正する産業構造を作り出した。そこでは、虚弱な者が強靭な者へと姿を変える。それも、人々の支払うコストによってではなく、互いにうまくやっていく仕方を作り出すことで、そうしたのである。
Cohenのジレンマは、制度の存在が、現状の限界を越えていけることを示している。
緊急時にどうするのが正義かという問題とは別に、どのようにして制度がそういう緊急状態を過去のものへとかえてきたかを問うことができる。
ii.) 制度に関する徳とは何か?
(43-45段落) プリマス入植事例とその評価
・北アメリカへの移植(プリマス)類似事例:
一定の数の集団がある土地へと移植した。彼らの当初の計画は、誰かが作った者はすべて共通の貯蔵庫へと容れて、そこから自身の取り分をとっていく、というものだった。彼らは、この単純な制度を維持しつつ計画を続けていくことができるし、また別の制度へと変えることもできる。
・評価
移植当時の緊急時にはよかった制度。しかし、この制度では種をまいた者が刈り入れるわけではない。生産意欲は減退、不満と不穏な空気が醸成されていった。
そこで計画は、土地の分割と私的所有によって、自分で種をまき、自分で借り入れる生産形態へと移行した。これは全体を繁栄へと導いただけではなく、平和で結合力のある共同体を作り出すのに成功した。
(46-49段落) プリマス事例の含意
・プリマス事例は功利主義的に説明がつく事例とされる。一方、徳倫理的には冷ややかに見られるべき事例なのか?(サンデルの「市場による(徳の)腐敗」)
そうではない。
・私有財産制や市場のような制度
(サンデルと似た様な反対案に)全ての人が有徳であれば、市場など要らないとするものがある。
これも誤り。価格メカニズムに拠る情報伝達機能などは徳が合っても足りない。
(50-52段落) 徳倫理の陥りがちな誤り①:市場が育むよき結果への無関心
・
種をまく行為はそれ自体として刈り取られることがなくとも有徳である、という発想。
これは、はっきりと誤り。
犠牲を支払う心づもりがあることが有徳なことだが、継続的に犠牲に供されることが予定されている場合はダメ。
機会費用を計算し、その後に、結果的になしですませられてしまった機会について、その生産活動に費やしたものを埋め合わせる制度は有徳である。
・徳倫理的発想との調和
アリストテレスがより強靭な共同体を促進しようとした理由
アリストテレス:徳は行使されることによってのみより強い物となる、そして、
・制度形成
制度を形成する際、全ての人がそうだとは言えないような事実について現実主義的であることは有徳なことだ。反対に、人々に莫大なコストを課すことや、徳はそれを埋め合わせるのだという希望を抱くことは、有徳なこととは言えない。
・プリマス事例の最終評価:失敗
しかし、その理由は、脆弱な制度の上で徳を発揮できなかったことではなく、脆弱な制度しか作れなかったことが失敗だった。
iii.) もし問題がビジネスに過ぎないとしても徳が存在するとすればどこに存在するだろうか?
(53段落) 徳倫理が陥りがちな誤り②:市場による徳の醸成の無視
・
商業社会が徳を追いやるという議論には、もうひとつ別の誤った前提がある。商業主義は商業的利害関心に動機付けられた取引がなされる為に、他の参加者に対する徳を要求されない、というのがその前提だ。
ここから直ちに徳の入り込む余地はない、という結論は導かれない。
個々の人がその財を手にしていないと側面に加えて、全ての市民が取引に参加できるということのうちに、徳は存在する。
(54-56段落) 生産と交換
なぜそのような制度に敬意が払われるべきなのか?それは一回の繁栄のみならず、そうした繁栄が拡大していくことのうちにある。
プラトンは全ての物を共有にするようにという教説で有名だが、同時に彼は生産性を高めるのが交換によることも主張していた。
(57-58段落) 制度に敬意を払うべき理由①:維持
・生産は繁栄の一側面である。繁栄のもう1つの側面は、維持にこそある。
制度は維持にむけた悪徳を必要とすることもあり得るが、徳に対して維持にむけた力を与えることもありうる。
無主の放牧地で家畜に草を食ませるケース。最終的には、新たな牛を追加することで、草量が全ての牛の適正レベルを下回ってしまう地点に到達する。けれど、その直前までは自分の牛こそ追加させることで価値が高まるので、われさきにと牛を追加することで資源の枯渇を招く。
そんなときに、もっと有徳になれと行ったとしても、それはポイントを外している。なぜなら、有徳な人は(有徳な人が最も気を遣うはずの)生活をサステナブルにまわしていくことになんら役立たないためだ。有徳な人は、より有徳になりたいのではなく、有徳さを実現する能力をこそ欲している。
私有財産制の様な制度は、資源を枯渇させることに至らないような限界を引き、物を維持することを促す。資源を遣い尽くすことが高くつくように価格を誘導したりすることで、そうするのだ。
(59段落) 制度に敬意を払うべき理由②:徳の醸成
制度の存在が、お互いから資源を得ることを可能にすることで、お互いに敬意を払うように促す。
売り買いというルールによって取引がなされることで、我々は物を手に入れるとともに、我々は一連のプロセスにおいてお互いに対して敬意を払うことができるようになる。
・ビジネスがまさにビジネスであることによる利点
徳はなによりも不偏的 impersonal であることを要求する。
・サンデル本「それをお金で買いますか?」は、市場秩序に則って売られている訳だけれど、書き手であるサンデルにとっては朗報なことに、出版社にとっては本来な欲求がなくても出版社は本を売る理由をもてる。また読み手にとっても、わざわざひとに頼んだりすることなく本を読むことができる。
制度が人が誰であるかに頓着しない不偏性をもつからこそ、我々はわざわざ許可を求めずに売ったり買ったりすることができる。
・もし、制度から離脱しようとしたらどうか?
ミルはそれが平等ではないという理由で反対している。それは彼らに対する義務の互恵性に反する。
サンデルは市場は冷たくて、人間を見ないひどいものだと言っているけれど、それは同時に恩恵でもある。ビジネスだけに頓着するというのは、自由で多元的な社会においては、真の徳なのである。
(60-61段落) フィジブルであること
・一つひとつの取引は、商業的なインセンティブから生まれていて特に由来するものではないかもしれないが、それにも関わらず、取引システムに参加することはそれ自体が有徳なことでもあるのだ。そうした参加は、人々が彼ら自身の生を生きる権利をもつことを確認させ、利用可能な財を増やすスキームを通じて、他者のニーズと自分のニーズを調和させる責任を与えることで有徳な人へと至る第一歩となるためだ。
・以上の議論から、次のような物言いは完全に間違っていることがわかる。
即ち、我々は、現実にフィジブルであるような制度がなんであるかを知ること無くして、正義や気前のよさといった徳がなんであるかについてを確定させることができる、という物言いは完全に誤っている。
徳が要求するものはまさにそれがそう機能することに依存しているのである。
4 まず検討するべきはフィジビリティ(実行可能性)だ、ということ
i.) 悪徳は消せない、しかし徳も強靭である
(62-64段落) ローリー・ダーラムにおけるハリケーン事例
・ローリー・ダーラムにおけるハリケーン事例
1996年、上記地域がハリケーンに伴う停電に見舞われた際、近隣地域から冷蔵用の氷を$1.7で買付け、上記地域で$12で売りつけた事例(違法な便乗値上げとして逮捕されている)
・問題点
ビールを冷やす人は氷無しですますだろうが、そうでない人もいる。糖尿病のためインスリンを冷やす必要がある人。その人からすれば違法にみえる。
サンデルによれば多くの人は便乗値上げを違法とするだろう。強欲という悪徳は市民的な徳と調和しないとされるからだ。完全にそれを消し去ることはできないとしても、「そんな悪徳をずうずうしくも表にだすことは抑制することができるし、社会はそれをみとめないというシグナルを出すこともできる」。
サンデルの思考順序:徳→社会政策
便乗値上げを禁じる法は、悪徳の強さを前提としつつ、徳においても強靭であり得るようにとシグナルを出している。
(65-67段落) 便乗値上げに対処する有徳でフィジブルな対処法
・便乗値上げを原則として禁じる政策の行き着くところ
ユタ州:30%までの値上げは許している。(これが全米最大)
その場合、30%分の値上げ幅(上の例だと、500袋売りさばけて$255)で、保冷トラックと燃料、食料、(便乗値上げ中の)宿泊費、(道路を作る値段は置いておくとしても)売り手の時間という費用を負担しなければならない。最も多い30%ですら赤字になる。売らない方がましだし、なにより合法的だ。(しかしこれでよいのだろうか?)
・有徳な対応の問題
いくらかかってもやれ、というわけにはいかない。そうすると、ビールを飲みたい人まで氷をもらってしまう。(そのためインスリンを欲する人に行き渡らないかもしれない)
こうして反便乗値上げ法に「護られた」地域には誰もいきたがらないことになる。
・徳と市場が両立するフィジブルな解決法
反対に、値段があがれば買い手は買い控えるし、売り手は供給のインセンティヴが高まる。走行するうちに、競争により値段はさがるだろう(と主張されるかもしれない)
しかし、第三の道がある。平時の段階で、貯蔵のための発電機と石油を備えておくということだ。ハリケーンに襲われがちな地域にあっては、一家に一台、一社に一台、または公共施設にこれを備えることで、対応が出来る。とはいえ、全ての事故時にこのようなことがフィジブル(実行可能)である訳ではない。
サンデルはいう。「よい社会において人は協調し、そして互いに助け合わねばならない」。確かにそうだが、緊急時に物資が尽きることが間違いなければ、協調などできるわけがない。我々は、まずフィジビリティを高めることによって、互いに助け合うことができる。フィジブルなことを市民的な徳はまず必要としているのである。
ii.) どのように手段が目的を正当化するか
(68-70段落) 若年者死亡を減らすためのファンド事例
・解決のための二つの選択肢
(a) 数的に主要な早期死亡原因を減らすファンド
(b) 早期死亡原因を減らす遠因に着目するファンド
・評価
若年者死亡を減らすという目的は、不確定な目的である。
(a) をとれば目的はとりあえずは確定したようにみえる。しかし、そこにはパラドクスがある。
それは現状採りうる方法に手段が限定されるということだ。そのため、たとえば1番目の解決策はなく、6番目の解決策のみあれば、6番目の解決策がもっとも数を減らすことのできる策となる。(米これでは(a)の本当の目的に沿わない。)
(71段落) フィジブルな事柄の確定
・それゆえ(b)である。我々が何かを成し遂げる為には、まずはフィジブルな事柄を先んじて確定させ、その後に目的を確定させることが必要だ。
目的が常に手段を正当化してくれるとは限らない。現に先の例で言えば、1番目の死亡原因を減らすというのはりっぱな目的なわけだが、資源を分散させるという理由で今まさにできる6番目の死亡原因を減らすことを差し置いて、そのために資源を割くことは正当化されなくなってしまう。
・Steven Rhoad 曰く、「他の目的に向かう進歩を諦めたときにだけ、我々は任意の目的をもっともよく達成することを知ることができる」。
あるものが価値高いということから、それが正しいということを伝えることは、フィジブルにならねばならない。そうして、目的が確定したときに、ようやく手段は目的を正当化してくれるのである。
5 結論
(72段落) 筆者のスタンス、再論
・筆者は功利主義ではない
実践的知性なしには徳はなく、結果に対する考慮抜きの実践的知性はない。
同時に、実践的知性は、結果が問題ではないときがいつかを理解することを抜いては成立しない。
・ミケランジェロのシスティナ礼拝堂天上画の例:
皆が思うのは、ミケランジェロが彼の最高傑作を作るのに、つまらない価値に気取られることがなかったらよかったのに、ということだ。彼の最高傑作を作り出す能力というのは、彼の時間が第一に価値を有するものにするものである。そのためん、天上は時間を費やすべき者であるかどうかと問うことは、その時間がどこに向かうべきかを理解しそこなう。
・ルターの例:
ルターは、ヴォルムス帝国議会において、彼の著作の撤回を求められたがその求めを拒否した。
そのとき彼は(事実はもはやわからないけれど)費用便益分析からそうしたわけではないだろう。
それは、良心に誠実に誓うことなしには、彼の行為が価値高いものとはならないということによっている。彼の勇敢さという徳は、ここに表れているのである。
(73段落) 功利主義から学べること、meaning wellとdoing well の峻別
・筆者が功利主義ではない理由
費用便益は、すべての場合を一刀両断してくれるような万能ナイフではない。(勿論、結果というのは殆どの場合には重要なものかもしれないけれど)本当に結果が試金石になる場面(とならない場面)を切り分ける実践的知性は必要だ。
それゆえ、総体としてよりよい生を送るためには実践的知性が不可欠といえる。
・功利主義から学べること
意味としてよりよいこと meaning well と、実践としてよりよいこと doing well の峻別。
・意味 meaning well :
まずは自分の優先順位をつけ、その後フィジブルな手段を選んでいく、という方法
・実践 doing well :
まずは何がフィジビリティをもつ理解した上で、その後優先順位をつけていく、という方向
それゆえ、よりよい社会とは、何が機能するか、そして、何が関係する問題となっているのかを知ることによっている。
つまり、それ自身のもつ秩序のうちで、それらのものを理解することにかかっている。