8/19 東 「『一般意志2.0』とその後」第七回 メモ #genroncafe
8/19 東 「『一般意志2.0』とその後」第七回 メモ #genroncafe
0、前談:福島第一原発観光地化計画について
【 (1) 観光地化計画の現状:都心との関連】
【 (2) 福島へのおそれ(忌避)強化ではなく、福島支援に向かう方向へ:知的生産の軸を】
【 (3) コンテンツを作るときのイデオロギー解除:パシリムの特殊性】
1、フィクション構築・キャラクターについての目線
【 (4) 日と米の関連を取り扱われていたフィクション作品:小松左京の樋口真嗣による翻訳】
【 (5) キャラクターの取り扱い方:新井素子の手法】
2、セカイ系の乗り越え方
【 (7) セカイ系の乗り越え方という問題圏】
【 (8) 新井的キャラクターのcoolさではない血なまぐささ】
【 (9) 押井的ループにおけるキャラクター】
3、質問
(Q.) 性の取り扱われ方と、ループの関連。女性的な子宮、世代の永劫回帰、データベースのイメージは関連しているのか?
(Q.) 性差による表現技法の差を埋めている、うまく性差を超えて描くことが出来ている小説という事はあるか?「らしさ」のシミュレーションの精度。
(Q.) セカイ系の背景状況はあるか?
0、前談:福島第一原発観光地化計画について
【 (1) 観光地化計画の現状】
原則部分に加えられた付加コンテンツの内容について
福島在住者、復興大使からの提案を下に作成中
原発跡地の観光地化、だけではない。
跡地以外の「打ち捨てられた土地」について、衝撃を与えられる。
(原発は観光資源として「弱い」、よってJ-villageの跡地を再開発する、東京都心(品川)との導線強化)
【 (2) 福島へのおそれ(忌避)、ではなく、福島支援、に向かう方向へ】
※誤解を恐れずいえば、(義務的な「福島について考えなきゃいけない」という面倒くさい事としてではなく)福島について考える事を知的で最先端な事にする、という方針転換が必要ではないか。
文化運動としての「観光地化」の強化。
七年越しの長期的な計画である、単発的な思いつきで終わらせてはならない、よって現地にイベントセンターを作成・利用。
単純な「距離」の問題:首都からの距離が近いというだけで、活動の中心になりやすい
福島は、チェルノブイリ事故に比べて首都圏に近接している(200km)はず。これを逆手に取って、転用しなければならない。
(コンテンツとしての当ては、写真や家「ゲンログ・ハウス」など、何個か。)
【 (3) コンテンツを作るときのイデオロギー解除】
一般に、名前の付け方には絶えずイデオロギーがついて回る。
例えば、ゴジラというコンテンツの衝撃(原爆投下から15年しか経ていない段階で出てきたコンテンツ)
当時の、国全体のストレスを、どのように文化的に昇華(消化?)したか、という問題。
現在の、文化人、批評人が継続的に処理すべき課題。
戦後、日本が生み出してきたコンテンツとの比較、およびそれとの関連付け
(ex.村上隆「シーブリーズ」「タイムボカン」の原爆投下利用。ニューヨークでの個展「リトル・ボーイ」の二義性(日本人宛の原爆を意味するとともに、小児的日本人に拠る逆輸入))
(ex.「スタートレック」の冷戦構造(露・中など)の反映構造、その後政治反映ものは一旦途切れる、その複数同時並行シリーズの中では、”ネクストジェネレーション”だけが文化多元的葛藤状況に適合している。こういうのがSFだった(クリストファン・ノーランとかもそうだけど)。のだが、この頃だと「パシフィック・リム」のバカ映画っぷりは、屈託を全く失っている。逆に日本らしくなってきたのかなぁと。日→米→日への逆輸入もの。)
1、フィクション構築・キャラクターについての目線
【 (4) 日と米の関連を取り扱われていたフィクション作品】
(4-1)
樋口真嗣(『eva』の特殊監督)の日本論、対米志向:樋口真嗣による2003年版「日本沈没」
社会派SFモノの小松左京要素は完全に失われている(ちなみに、柴崎コウの扮した下町型のキャラクターは存在しない。)
樋口真嗣版は、国家的な政治話(群像的人間模様)はほぼ出てこなくなる。人々の生活だけがトピックになる。即ち、セカイ系(秋山瑞人、新海誠、高橋しん)。
(4-2)
セカイ系の構図:「君と僕」と「セカイの破滅」の短絡・直結。( @maeQ 君が東浩紀から引用したもの。)これは、想像界と現実界の短絡直結という話題。
所謂、象徴界の頽落問題(新井素子「ひとめあなたに…」作品評に、既に出していたテーマ:※ 地球破滅時に大学生が別れた恋人に頑張って会いにいくという話)
「君と僕」の関係を描くためだけに、「セカイの破滅」という背景が召喚されている。
SF的設定を使っているのに、SFを全く展開しないという特徴。
星新一(プラス一応、小松左京、筒井康隆)によるデビュー推し。
1970とは、村上春樹による純文学の内破(固有名が失われた寓話小説から開始)、新井素子によるラノベの作成。新井自身の自覚としての、アニメやマンガをモデルとした小説を書く、という手法。ライトノベルの起源とも言える(キャラ立ち)。文学の転換点。
※柄谷による「日本文学の起源」はよかった。日本の小説から意味が失われていたことをきちんと指摘していた。しかし、途中から、日本文学の意味を過剰に推すようになる。これにより資源を失っていったように思える。
【 (5) キャラクターの取り扱い方】
新井「絶句…」によるメタフィクション性の特殊性。
メタフィクション使用自体は特殊な事ではない。そうではなく、メタフィクションの最後に、全員の記憶が消滅するという話に至っている。
「絶句…」で、新井素子は、フィクションのキャラクターを現実界に出す。そのことによって主人公を含めてキャラクターたちは、フィクションの間の記憶を失う。そのキャラクターたちが、全て、新井素子の他の小説に登場してくる。
これは、サーガ的でありながら少し違う。サーガは悪までの一つの物語をまとめあげる手法。むしろ新井素子キャラクターは、サーガの外に出ている。むしろキャラクターデータベースが、生で、転がっている状態。キャラクターを転がすためだけに書かれたもの。
コミュニケーションに拠るコンテンツ消費という側面。キャラクターを遊ばせておく、その後でキャラクターを組み合わせる、つまり、そこから物語りがついてくる。新井から20年を経たライトノベル的手法を先取りしている。
2、セカイ系の乗り越え方
①想像界:いわば、性の世界:欲望の世界
※ex.)新津保建秀さんのアイドル写真作品
②象徴界:いわば言語の世界:現実感を持てる世界、記号の世界
③現実界:いわば、死の世界:「本当の現実は捉えられない」という地点の現実性のこと
※ex.)池上隆史、渋谷慶一郎とコラボしている新津保建秀さん作品(数列をそのまま写真と音楽にするような作品)
【 (7) セカイ系の乗り越え方という問題圏】
象徴界の「分らなさ」:セカイ的想像力:象徴界が「分らない」ことが、そのまま作品になるようになった世代(17970年代小松から1990年代樋口への移行)
ここでの問題。
セカイ系の乗り越え方、どのようにセカイを乗り越えるのかという問題圏:近著「セカイからもっと近くに」:押井守「スカイクロラ」を好意的に捉えるもの
押井守1955〜の作家:post全共闘世代=想像力がセカイを変えてくれない、という世代の人。
●類型1:
大江健三郎、中上健次的は虚構的融和に基づいて作品を作る。現在で言えば、アイデンティティポリティクスも同じ。このように「繋げてしまう」感覚は、今や普遍的な感覚ではない。もはや「繋がれない」ことが一般的。
●類型2:
押井や村上春樹、新井素子、ウェルベック的なものは、下記乖離切断を取り扱っている。
※彼らの間にある距離感構図:
●想像力←(虚構的融和/乖離切断/融和)→社会
●文学 ←(虚構的融和/乖離切断/融和)→政治
(一見すると、新井もまた、繋がった「家族小説」を書く。しかしそれも「キャラクター家族の小説」である。新井のエッセイに特に顕著、ぬいぐるみの目線から書かれたキャラクターの家族の関係性を描いたもの。ぬいぐるみの目線から、反射的に描くということ。)
クールではない、血なまぐさい(?)キャラクター
【 (8) 新井的キャラクターのcoolさではない血なまぐささ】
●新井「チグリスとユーフラテス」:母星から隔離された不妊惑星における冷凍睡眠者を、覚醒させて、話を訊く女の子の話。4章仕立てでそれぞれセカイの破滅について話しをする。自分が生きて死ぬということを肯定して終わる。
ポイントは、そのセカイの全ての生命を肯定するという話に至るということ。そこでは、全ての生命がキャラクターと等置された上で、肯定される。
薄められた生命しか持たない(全てが生命を持つ様な意味で生命を持つ)キャラクターが自動生成するセカイの肯定
【 (9) 押井的ループにおけるキャラクター視点の両義性】
●押井:1984「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」「スカイクロラ」におけるループ性
押井における「女性」の扱い方の特殊性と、ループは関係しているはず
ex.)高橋留美子(SF+民族+女性)と押井守の闘争によって生み出されたのが「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」
※萌えの特殊性は「男性から女性への視点に”なっていない”事」のほうが重要。萌え絵師たちは殆ど女性の手になるもの。女性(ex.樋上いたる)が、男性から見られたら静的だろうと思う様な、絵として、萌え絵が成立している。その女性マンガ視点が、更に吾妻ひでおに再導入されるなど複雑な経緯を経ている。
※このことが高橋vs.押井の闘争にあらわれている。高橋原作版は、人を振り回す女の子キャラクターに重要な視点を与えている。押井版では、「メガネ」というキャラクターに重要な視点を与える。高橋留美子(SF+民族+女性)の特殊性が、押井版になると、それを男性への視点転換されている。
①メタフィクション構造の交錯とともに、②目線構造の交錯を重ねて描いたもの
想像力が現実を変えられない、そこで何回もリトライするというのが、押井の回答。
そこではかんなぎという男(何度も死ぬ:成熟しない:キルドレ)が主人公として(主人公の死とともに)絶望的に表現されつつ、女(成熟済み:しかし未熟な風貌)が主人公になっている。
(※Nag注:ここでは、主人公の死と言う絶望を絶望に還元されていない。主人公転換によって絶望が(絶望ならざる事態)に転換されている。)
※ナショナリズム=運命化する装置という構造のバカっぽさ
キャラクターとは複数の現実を生きる事ができる。
何度も何度も自分の人生を生きる事ができる。これは、ロールズ的な無知のヴェールの問題に重ねられるはず。
3、質問
(Q.) 性の取り扱われ方と、ループの関連。女性的な子宮、世代の永劫回帰、データベースのイメージは関連しているのか?
(A.) ループを話題にする場面で、偶然と必然について考えている。
ex.) 構図としての「偶然事態vs.必然事態」ではない。一方から見たら「偶然」であり、他方から見たら「必然」であるという差異のほうが重要。
押井的な無邪気なラムによる「責任とってね」の意味。逃亡の象徴としての男性主人公、次回に眼を向けているラム。
(※Nag注:事態に対する「偶然目線vs.必然目線」の際が重要?差異の産出が重要。)
(※Nag注:反復脅迫=ループができるのは、典型的には男性に帰せられる負債の様なもの。しかし、押井では女性がループをしているということで構造が逆転している)
(Q.) 性差による表現技法の差を埋めている、うまく性差を超えて描くことが出来ている小説という事はあるか?「らしさ」のシミュレーションの精度。
(A.) うまく描くという事の意味。そもそも人間をうまく描くという事の意味がよく分からない。
いわゆる「人間的なリアリティ」をもって描くという事ではない。押井も高橋も、構造を反映しているだけ。作品のトピックとして性が描かれているわけではない。
性を描くのではない。性が構造的に描かれているという状態。
(Q.) セカイ系の背景状況はあるか?
(A.) 昭和後期の「背景のなさ」が現れているということでひとまずまとめていいのではないか。パシリムは「無意味」という意味しかない。記号的なイメージの連結しか無い。社会を読み込んでも仕方ない。「まどかマギカ」に社会派を読み込むことの無意味に似ている。
もしかしたら、現在では、新しい社会派の台頭が示唆されているのかもしれないけれど、あんまり…。
「まどかマギカ」のループの圧倒的無意味さには清々しさを感じる。
(Q.) ロリ像と妊娠しないということは関係している?
(A.) 男性の処女信仰の対応物は女性には無いかも。ロリが妊娠との関連で語られるようなものではないようにも思う。