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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

『たまこまーけっと』視聴雑感:「好きにしていいんだよ」に憤るたまこ、および、過ぎ去る時間を受け止める「商店街」

今更ですが、急に思いだしたので、記憶限りで『たまこま』で気になったことを書いておきます。

 

1、「好きにしていいんだよ」がもたらす暴力

(1) 導入

 『たまこま』では、最重要のメチャ王子に関する事件を除いては、事件らしき事件はあまり起こらない。たまこを巡る恋愛じみたやりとりと、みどりの部長の責務に絶えられずに困ってしまうところくらいだ。

 しかし、メチャの事件は、他の事件とは随分異なる。メチャの事件は「商店街」のみんなの対応が、これまでの事件や普通の対応とは、真逆をいく対応が撮られていたためである。その対応というのが「好きにしていいんだよ」である。

(2) メチャの事件の特殊性:強いられる「決断」

 これまで商店街のみんなは、たまこをはじめ、あんこ、みどりにたいして、「みんな」でそれぞれのことを想いあい、「みんな」で解を作り上げていく方式をとってきた。バレンタインであれ、肝試しであれ、あるいは引っ越しの話しであれ、誰かに不備が在ればそれぞれが陰に陽にそれぞれを補い、助言を与える形をとってきた。

 しかし、メチャの事件では、この「みんな」が消えてしまう。「結婚」という個人的な事柄を申し込まれた事に加えて、メチャの人柄のよさを目の当たりにした商店街のみんなは、「みんな」でたまこのことを考える方策を、今回に限ってはとれなくなってしまうのだ。商店街のみんなの気持ちとしては、たまこのことを考えると辛いけれども「たまこちゃんの好きにしていいんだよ」と云わざるを得なかった、ということになるだろう。

 つまり、ここでは唐突にふってわいた話にすぎない結婚という事項が、いつか到来すべきはずだった決断機会の現実化として、受け入れられている。そのせいで、決断機会が現実化した今や、この「決断」(了承するか/断るか)をしなければならない、と、たまこはみんなから強制されてしまう。いつもはみんなで解決していけるはずの問題が、今回はおかしなことに、たまこの自律的で規範的な「決断」事項にされてしまうのである。

(3) たまこの非-決断

 ここで、たまこは、この「決断」事項にされたことに、「なんだよ〜」と混乱し、地団駄を踏み、憤りを露にする(たまこが誰かに苛立つのは、おそらくこのときが初めてである)。たまこは、ふってわいた結婚話になど、殆ど興味を示さない(商店街のメダルの方が大事)。たまこにとって大事な事は、「日常」と「結婚」とを天秤にかける決断の上で前者を「決断」することによって達成されるわけでは、全くないのである(「好きとか嫌いとかじゃないんだけど〜」)。

 たまこにとっては、むしろ、大事な「結婚」がありうるとすれば、それは、いまのところ「日常」の延長としてしかあり得ない。たまこはみんなの日常の生活の中に住んでおり、「決断」はその生活の中に場を持たない限りは、端的に受け入れがたいものに留まる。

 つまり、たまこにとっては、決断を介しての「了承するか/断るか」という二者択一が重要なのではなく、二者択一が強制されない状況的保障こそが重要であった。決断を強制されてしまえば、「みんな」は個々にばらばらになり、消滅してしまうだろう。たまこはそうではなく、抽象的な「みんな」を生きる。人を孤立化させ義務を課し合う「決断」の契機から「みんな」で逃れ、非-決断を生きることこそ、たまこの願いに他ならない。

※ その意味で、「決断」を強いなかった「いつもどおりの」家族3人は、たまこを安心させることになったのは当然であるだろう。

 

2、日常系アニメと「商店街」の時間性

(1) このような「みんな」「商店街」の役割は、むしろ、日常系アニメの発展の一つの形として位置づけうる。

 かつて日常系には時間がないという指摘がなされていたように思うが、これに対しては、『けいおん!』が反証として提示されていたように記憶している。(『けいおん!』においては時間性は不可逆に進み、卒業というテーマは後半のあずにゃんにとり切実な問題を孕む。)

 これに対して、時間を導入した(半ば窮屈となった)日常系に再度、不可逆な時間を受け止めてくれるバッファを導入するのが「みんな」「商店街」だといえる。

(2) 仮に学校に留まる限りにおいては、進路指導や学年の序列、卒業と進学という離散的な推移は避ける事が出来ない。そこには個別化された「決断」の契機が山と眠っている。

 しかし、そのような「決断」は、長い「日常」の継続からすれば、微々たる「決断」にすぎない。むしろ、そのような「決断」のチャンスを受け止め、あるいは時機が熟していないとして「決断」を大真面目に受け止めずにいられる場を構築する事の方が、確定的な終わりをもたずに続いていく「日常」の語義に適合している事だろう。

(3) ともすれば、「商店街」を描くとは、学校という場所の複雑さから目を背ける選択とも見えるかもしれない。『たまこま』には大きな葛藤も衝突も、表面上は描かれる事がないようにみえるかもしれない。それは、視聴者の現実からの逃避として消費される可能性を増大させるかもしれない…。

 しかし、これまでのアニメが思春期の葛藤を”関係性の中心問題として”描きすぎていると考えれば、むしろ、「商店街」を描くとは、「日常」に本来内在し、また日常に内在し続ける問題へと視座を転換させうることになる。『たまこま』は、商店街をえがくことで、不用意にかつ暴力的に「決断」が迫られてしまう二者択一関係を回避するための地点を指し示している。

(4) 日常は、学校を越えて時間的に延長して、かつ、場所的にも学校の外に延び続けている。

 擬似問題に過ぎないかもしれない微々たる「決断」…流されてしまえばもはやその決断に入るか否かが自動決定されてしまうような「決断」…そのようなものを真剣に受け取りすぎないようにしてくれる場が存在しうる事を描く点において、「商店街」の選択は「日常」の名にふさわしい場面選択となるように思う。

 そしてこの場面選択は、日常系アニメの一つの歩む道筋を示すものとしての重要性も併せ持つように思われる。