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記事紹介+期間限定公開:アニクリvol.6.5(本号)改めアニクリvol.6s 特集〈アニメにおける線/湯浅政明監督総特集〉」 #bunfree

アニクリ6.5(本号)改め、アニクリ6s「アニメにおける線/湯浅政明総特集号」のご紹介+期間限定公開(各章冒頭記事である難波論考、tacker10論考、DIESKE論考)です。

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発刊は2019.05.06 東京文学フリマエ-39〜40
152頁/A5版、お値段700円での頒布です。

 

さて、本誌は、本年初頭に公開した寄稿募集/企画趣旨文に応じて寄稿者計15名の協力を得て作成されました。
各論考は内容に応じて3章に配置され、各々
 1、理論編「アニメにおける線」
 2、応用編「動画における平面/光」
 3、各論編「湯浅政明森見登美彦アーカイブス2017」
に分類されています。
目次は以下のとおりです。

[目次]

0、発刊趣旨
 Nag. 総論
 「アニメを形作る線/アニメの中の線 etc.」
 http://nag-nay.hatenablog.com/entry/2019/02/24/145014

1、アニメにおける線
 1) 難波優輝 総論 [新世紀エヴァンゲリオン, かぐや様は告らせたい, ルクソーJr. 他]
 「アニメーションの美学 原形質性から多能性へ」
  commentator: tacker10, シノハラユウキ
 2) こもん 『夜明け告げるルーのうた』論
 「異形の異-形 『夜明け告げるルーのうた』における「形態」」
 3) 竹内未生 『魔法少女まどか☆マギカ』試論
 「線と表情の魔法」
  commentator: tacker10, すぱんくtheはにー
 4) すぱんくtheはにー 『ピンポンthe Animation』『 Devilman crybaby』『悪の華』論
 「悪魔の囁きに耳を貸せ 変身と叫べ、我が身体」
  commentator: 猫鍋奨励会
2、動画における平面/光
 1) tacker10 『Spider-Man: Into the Spider-Verse』論
 「平面の/複数の/混淆の可能性」
  commentator: すぱんくtheはにー
 2) unuboreda 『Spider-Man: Into the Spider-Verse』論
 「シュミラークルのアウラ
 3) 猫鍋奨励会 『夜明け告げるルーのうた』論
 「水面に揺蕩うものたちへ」
3、湯浅政明森見登美彦アーカイブス2017
  Column: 今村広樹 a.k.a. yono & Nag.
 1) フクロウ 『ペンギン・ハイウェイ』論
 「科学・フィクション・アニメーション ペンギン・ハイウェイ評註」
 2) DIESKE 『夜は短し歩けよ乙女』論
 「四畳半期の終わり 映画『夜は短し歩けよ乙女』の時間と社会性」
 3) ねりま 『夜は短し歩けよ乙女』『四畳半神話大系』論
 「乙女と妖怪」
 4) 小菊菜 『夜は短し歩けよ乙女』論
 「なぜパンツ総番長は学園事務局長に恋をしていたのか?」
 5) テリー・ライス 『夜は短し歩けよ乙女』論
 「演劇詭弁論 アニメ映画としての「夜は短し歩けよ乙女」」
4、後記/奥付

(※commentatorとあるのは、いつも通り、各論へのレビュー・コメント、それへの著者からの応答を合わせています。)

 

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以下、各々の論考の紹介+期間限定公開です。

 

1、アニメにおける線

 

1) 難波優輝「アニメーションの美学 原形質性から多能性へ」  
  commentator: tacker10, シノハラユウキ

 対象作品:『人形のおどり』『惡の華』『リズと青い鳥』『この世界の片隅で』『新世紀エヴァンゲリオン』『かぐや様は告らせたい』の「チカダンス」、『ルクソーJr.』他

www.dropbox.com


(期間限定公開)

 

https://twitter.com/deinotaton/status/1123502705723371520

 


以上のツイートに見られるとおり、難波論考は、エイゼンシュテインの原形質性概念をひきつつ、素材/メディウム/内容の各レベルにおける「アニメーションの自由度」としての多能性概念を取り出しています。

特に3章のメディウム/内容における自由さについて、アニメーションが(種々の画像システム/映像システムなどなど)様々な記号システムを採用することができる(cf. Kulvicki/難波)点に着目することから、内容上の多能性(すなわち、内容p(pictorial)/内容m(moving- pictorial)が重なり合う内容a(animational))を抽出している箇所は、今後のアニメーション分析を行う諸議論に共通した起点を与えてくれるものと考えます。

アニメーションを作る/見るときに、どのレベルで表現が模索され、選択され、創造されているのかを把握する標準となる議論として、本誌では第1章冒頭に置かせていただきました。


さて編者が難波論考を初めて一読して思いだしたのが、「マンガのおばけ」に関する伊藤剛氏/シノハラユウキ氏の議論でした。手塚治虫の『地底人の怪人』には「耳男」というウサギのキャラクターが出てくるのですが、そのウサギは普段は(自らの長い耳を隠すため)帽子をかぶって人間の変装をしています。現実には、単に耳を隠すだけならば(単なる帽子をかぶったウサギに過ぎないので)およそ変装にはなりえません。しかし、漫画においては体毛などは省略される(そういうお約束である)ので、耳を隠してしまえば(描写された対象と内容とが別々でありながら重なり合うことができる)「そういうもの」として耳男が描かれるというわけです。これは描写の哲学の問題でもありますし、「隠喩」のコノテーションに関わるところでもあります。

以上に基づき、シノハラユウキ氏及びtacker10氏に掲載用コメントを依頼し、コメントをいただくことができました。難波氏からリプライも合わせてお読みください。

 

(なお、(難波論考とは全く出発点は違うのですが)後述する「キャラクターを描くときにはキャラクターではないものを描いている」というすぱんくtheはにーさんの論考との重なりも見せるところで、興味深いシンクロだと思っているところです。)

 


2) こもん 「異形の異-形 『夜明け告げるルーのうた』における「形態」」

 対象作品:『夜明け告げるルーのうた

 

こもん論考もまた、アニメーションにおける図像の変形、とりわけ「形態」の異化効果に着目しています。そして湯浅政明監督の『ルー』が、この異化効果を体現するアレゴリカルな特徴を持っている、という仮説とともに、アニメーションにおける「形態」についての複数の見立て(マティスシーニュマラブー的可塑性/リオタール的フィギュール)を提示し、作品の分析につなげています。
湯浅政明作品の特徴としてしばしば指摘される(本人もインタビューで語っている通り)キャラクターデザイン上の特徴と作業環境(フラッシュアニメーション)の選択は不即不離の関係にあり、それは同時に「形態」を保ったままの可塑的変形(運動イメージ/シュミレート/フリースケール性)を可能とする、という観点は、指摘されればなるほど湯浅政明監督作品の線を論じるにあたっては必然のように思えるところでした。
この点もまた、難波論考でいう画像システム-映像システムとの関連に加えて、記録=参照/産出するものとしての「アーカイブ」(Jacques Derrida)との関連においても興味深い論点を提示するように思います。


3) 竹内未生 「線と表情の魔法 『魔法少女まどか☆マギカ』試論」
  commentator: tacker10, すぱんくtheはにー

 対象作品『魔法少女まどか☆マギカ
 

 

https://twitter.com/carta_pergamena/status/1123523811993722880
 
 
竹内論考は、『魔法少女まどか☆マギカ』において特徴的な多重線(下図参照)を例に出しつつ、線と表情の相互関係/相互創出について具体的場面(計26シーン)に即して論じています。

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そこでは、図像的なレベルにおいて、場面によって顔の意味(表情)が構成されるとともに、顔の表情によって場面の意味が構成されるという二重性が定式化された上で、表情「顔」「手」「セリフ」「風景」といった様々な各描写が当の「場面」全体と相互に意味づけ関係にある、という方向へと議論が進められます。
もっとも興味深かったのは、最終話の(まどか概念化時の)眼の描き方についての言及です。

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そこでは、ループを繰り返した末に線が上書きされていったほむらとは対照的に、まどかの目は円環(ループ)をなすシンプルな線で構成されるようになります。この点を、物語のレベルと描写のレベルの相互陥入として理解することができるとする点は、作品論とアニメ分析の方法論が共同して進む様を示す恒例であると考えています。


4) すぱんくtheはにー 「悪魔の囁きに耳を貸せ 変身と叫べ、我が身体」
 commentator: 猫鍋奨励会

 対象作品:『ピンポンthe Animation』『 Devilman crybaby』『悪の華』論

すぱんくtheはにー論考は、湯浅政明作品から主には『ピンポンthe Animation』『 Devilman crybaby』を取り出し、それをロトスコープ作品『悪の華』と比較することで、自らを意味付ける線/抵抗の起点としての線という両義的な線の運動性を取り出しています。そこから進んで論考は、湯浅作品においては自らを意味付け直すというモチーフとの相同性を取り出すことで、湯浅作品に通底する倫理的テーマとの関連を指摘しています。
この点は、すぱんくさんによる竹内論考へのコメントに現れているアニメ『ULTRAMAN』(2019)論とも強く相関するところであり、、是非あわせて読んでいただきたいと思います。コメントでは、アニメにおいて「単線を描くこと/多重線を描くこと」という対立から「一つ以上の線を見いだす」要請を引き受けること(その倫理性)への移行が示されています。描写のレベルから運動のレベルへ、そして運動のレベルから作品-視聴者のレベルへと、すぱんく論考の運びは湯浅作品全体(ひいてはアニメ視聴態度)へのまなざしを変更させうる潜勢力を持った論考と言えるかもしれません。

 


2、動画における平面/光


1) tacker10 「平面の/複数の/混淆の可能性」
  commentator: すぱんくtheはにー

 対象作品:『Spider-Man: Into the Spider-Verse』論

www.dropbox.com


(期間限定公開)


tacker10論考は、『Spider-Man: Into the Spider-Verse』から「平面をわたる」というモチーフを取り出し、素材/画面/技術etc..の混濁と(一時的な)融和の連続に焦点を当てて、本作品-シリーズ(そしてアニメーション映画)の今後の展開への批判的-発展的視座を提示するものです。
tacker10論考が(パルクールやフリー・ランニングといったストリート文化を横目で確認しつつ)指摘する通り、本作がコミックという平面を画面へと置き換え、引いてはアニメーションという媒体の運動の中に取り込む時には、立体的なキャラクターを如何にして平面の上に位置付けるか、平面を獲得するか、という課題が見出せます。伊藤剛の「漫画の2つの顔」論考において提示されるように、一つのマンガの「スタイル」には二つ以上の「顔」の重ね合わせが読み取れるのであり、アニメーションにおける運動にもまた、線=輪郭のレベル/平面=ウェブのレベル/コマ=フレーム間のレベルの重ね合わせにおいて、こうした異種的なものの同居性が(その政治的危うさを含めて)読み取れるというのが、tacker10氏の本作への(文字通りに見たときの解釈)と言えるでしょう。つまりは、一つの歴史(と我々が語りにおいて示すもの)に一つの線(のみ)を見出してしまうことへの危惧感が、『Spider-Man: Into the Spider-Verse』の描写/運動と並走する形で論じられていると言えます。


さて、こうした素直な読解とともに、本論考へはすぱんく氏からのコメントとして「この論自体の出自/歴史性/欲望はなんぼのもんか?」という趣旨(多分...)のコメントが付されています。作品の(技術的)出自とともに歴史の混淆性を問う眼差しを持った論考自体への批判は(3.2節の節名の通り)tacker10論考でも自覚的ではあった論点ではありますが、この点をリプライにおいては丁寧に解いていただいています。この点も含め、(一つの)作品を(一つ以上に)論じることの倫理性という、先のすぱんく氏との並走が浮かび上がる、という点も含めて『Spider-Man: Into the Spider-Verse』的なコメントの応酬と言えるでしょう。是非ご笑覧ください。


2) unuboreda 「シュミラークルのアウラ
 対象作品:『Spider-Man: Into the Spider-Verse』『LEGO(R) ムービー』
 
前稿tacker10論考に続き、unuboreda論考が追うのは『スパイダーバース』を成り立たせる技術と物語との(一糸乱れぬ)即応関係です。
最も顕著なものとして例示されるのがエンドロール、様々なスタイルのスパイダーマンが「ブロック」のように画面を埋め尽くす描写です。本作のキャラクターがCGで構成されていることから考えれば、本来的には本作のキャラクターは崩れることがありません。しかしながら、本作はあえてそこにコマの間の分裂を可視化し、表象することになります。
分裂した(せざるをえなかった)ものが、パーツを寄せ集める=縒りあわせることで固有の接触を見せる。それは、マイルスの父親と叔父の関係においてであれ、スパイダーマン同士の関係であれ、マイルスという一少年とヒーローとの関係であれ、幾度も反復を見せることになります。
unuboreda論考は、上述した反復を「グラフィティ」の物理的特性/記号的特性に照らして明らかにしています。とりわけ「からっぽの記号表現」(ボードリヤール)と「表面積の格闘」(戸田ツトム)を引用しつつ、絵画的なものとCG的なもの、文字を「打つ」ことと文字の力学的運動の差異(反復)をもとに『スパイダーバース』を読み解く仕方は、物語をその描写的・技術的・映像的特徴から訓み解くひとつの好例と言えるものと考えます。
以上はおいても、『LEGO(R)ムービー』や『バットマン』との比較において本作の位置付けを明確に与えようとする点のみにおいても、本論考の価値は高いものと考えます。是非ご一読願えれば幸いです。
 
 
3) 猫鍋奨励会 「水面に揺蕩うものたちへ」
 
 対象作品: 『夜明け告げるルーのうた』論
 
猫鍋奨励会論考が最初に着目するのは、こもん論考と同じく、『ルー』の線を形作ることになった技術(フラッシュアニメーション/ベクター)の特性です。ただし重要なのは、フラッシュがもたらす独特の違和感(それは監督も自覚している。)にも関わらず、湯浅監督があえてフラッシュアニメーションを自作の表現として取り入れたことの動機と効果にこそあるでしょう。
例えばその「効果」として本論考があげるのが、「リアリティ」を写し取る(作り出す)ための歪んだ線です。本論考の例とは異なりますが、現実の我々には輪郭線はない、という端的な事実を考えてみても良いかもしれません。我々の身体は線で区切られているわけではないし、線によって構成されるべき部分を持っているわけでもありません。しかしながら、我々が自分の姿を観念するときには、こうした線を象徴的に想定してしまいます。本論考が『ルー』の歪んだ線に見ているのは、この「リアリティ」の根底にある未加工のブレであり、線を呼び出す「(ex.遠近)法」の彼方を「描写の範疇に迎え入れようとする」試みです。
猫鍋奨励会論考は、この理路を提示すべく、東=村上的な「スーパーフラット」概念や、ラカンの「資本主義のディスクール」、メタファーとしての「セイレーン」(アポローニオス)、「人魚」(『諸国里人談』)を並置させ、最終的には、線を逸脱する「光」というモチーフを取り出すに至ります。それらはいずれも、「法が失効した世界」におけるリアリティの所在を運動の中で追い求めるふるまいに重ねられるはずです。とりわけ、奇しくも『ルー』末尾において、長らく光を妨げていたお陰岩が崩れるとともに、人工物たる半透過性の傘によって(フィクションの)人魚たちの実存が保持されたことに思いを馳せるならば、技術(人工物)=フラッシュから光=フラッシュに戻る論考の構成は、本論考自体が『ルー』で表現されたことを今一度文字によって再現し直したものとも思えます。
蛇足ですが、末尾の『四畳半神話体系』樋口師匠へのさりげない言及もまた、湯浅監督による森見作品解釈とオリジナル作品とに等しく光を投げかけるものとして、注目に値する点であると言えるでしょう。

 
 
3、湯浅政明森見登美彦アーカイブス2017

  Column: 今村広樹 a.k.a. yono & Nag.
  
  
1) フクロウ 「科学・フィクション・アニメーション ペンギン・ハイウェイ評註」

 対象作品:『ペンギン・ハイウェイ』論
 
 (underconstrution)
 

2) DIESKE 『夜は短し歩けよ乙女』論

 対象作品:『夜は短し歩けよ乙女』『おとぎ話』
 

www.dropbox.com

(期間限定公開)

  (underconstrution)

 

3) ねりま 「乙女と妖怪」

 対象作品:『夜は短し歩けよ乙女』『四畳半神話大系』論

  (underconstrution)
 

4) 小菊菜 「なぜパンツ総番長は学園事務局長に恋をしていたのか?」

 対象作品:『夜は短し歩けよ乙女』論

  (underconstrution)
 

5) テリー・ライス 「演劇詭弁論 アニメ映画としての「夜は短し歩けよ乙女」」

 対象作品:『夜は短し歩けよ乙女』論

  (underconstrution)


以上 

 

※ 2018.12発刊の前号アニクリvol.6.5_β「文字と映像」と、小冊子(コピ本)アニクリvol.6.1「四畳半神話体系×夜は短し歩けよ乙女」(2017.05発刊)の続刊であり、一部再販合本(32/152頁分)となります。