書肆短評

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【告知】PRANK寄稿文「邯鄲の夢と現実」について少しだけ

明日の東京文フリで頒布されるPRANK最新刊、VR/AR号に寄稿しました。

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こちらのタイトルは「邯鄲の夢と現実」です。「VR関係ないのでは...」と思わず、読み進めていただきましたら幸いです。内容は以下のとおり。

冒頭は「邯鄲の夢」として知られる中国の故事と、その芥川龍之介による解釈を簡単に示した上で、再解釈としての「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」(柴田勝家)を元に、VRと現実への没頭との関係について論じていき、当該作品が捧げられた伊藤計劃『ハーモニー』『indifference engine』にもちょっとだけ触れます。その後は、オルタナファクトとか歴史修正主義の話とかヘイトスピーチの話とかにつなげていき、最後はテロとは異なる現実への迫り方について検討する、というものです。
末尾は、「スー族」の語源を邪推しつつ、人の原型(プロトタイプ)について検討。「私は夢見るために毎朝目を覚まし、現実に帰るために仮想のVRを着けたつもりで、私の邯鄲の夢を見たいと思う。それが現実に迫る方法でないとすれば、一体他の何が現実に迫る方法であるというのだろうか?」というのが文章の終わり。
「やはりVRと関係なさそうでは?」と思った人にこそ読んでいただきたい小論です。

(久々にアップダウンの激しい文章を書きました。多分、アニクリの方に寄稿してくれたtacker10さんにあてられたのだと思います)

以下、とりあえず、羽海野さんへの営業妨害にはならず販促になるだろう範囲で、冒頭部分だけ抜粋しておきます。

 

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0、はじめに

 趙の時代、自らの生活の平凡さを嘆いては出世を望む盧生(ルビ:ろせい)という男がいた。男は道士に出会い、夢が叶うという枕を授かる。その枕を使って眠りにつくと、目覚めてからの男はみるみる内に出世を果たし、波乱万丈ながらも栄華と幸福に満ちた50年を過ごす。惜しまれながらもこの世を去ると、実は50年の人生が全てが粥を炊く束の間の夢であったことがわかる。
 八世紀後半に著された故事、「邯鄲(ルビ:かんたん)の夢」の概略は以上のとおりである。いわゆる夢オチではあるものの、話のオチは「人生は夢の如し」という人生訓にもないし、「現実がこの現実であるとはどのようなことか」という形而上学的問いにもない。本当のオチは、夢から覚めた後にある。
 原典たる『枕中記』(沈既済)で夢の中で夢を叶えた男は「此れ先生の吾が欲を窒ぐ所以なり」(※脚注1)と、欲を払った人生へと踏み出す。経験機械は不要だというわけだ。これに対し、『枕中記』を翻案した『黃梁夢』(芥川龍之介)では、男は次のように答える。「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢(注:現実)もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか」(※脚注2)と。
 『枕中記』と『黃梁夢』の盧生、両者の態度の差異は、コンテンツはどうせ夢の中で叶えられるのだからこの現実に夢想を求める必要はないという態度と、生きられた以上はコンテンツにおいて差はないのだから夢想は現実化される必要があるという態度の差異である。この対立は夢物語では決して無い(※脚注3)。
 とはいえ、この態度の差異それ自体は、どちらが優位に立つというものでもない。『楽園追放』のアンジェラがほとんどすべてを知り尽くしつつも、味覚を(現実に!)現実で知る。そこでは夢は現実へと一層漸近しつつ(※脚注4)、それでも「本物さ」への憧憬が描かれる。錯覚が錯覚でありうるのは夢と現実の区別が意味をなす限りにおいてであり、これらが十分に離れていれば錯覚はないし、これらが識別不能であればそもそも錯覚であるということに意味はないのだから、この憧憬が描かれることは必然だ。
 一方、夢と現実が微妙に近づきつつある現状においては、錯覚を錯覚として名指すことにではなく、現に体験をエンハンス(enhancement)してくれる装置の持つ魅力と危うさ(enchantment)の双方を明示化することが課題となる。


1、「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」

 確かに、PlayStation VR(以下、PSVR)が市販され、『アイマス』をはじめとする人気IPにより需要を牽引するVR元年の現在、夢想を現実化したいという欲望の方が興隆を極めているようにも見える。キスショット・アセロラ・オリオン・ハートアンダーブレードやTHE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLSらは、次元をまたいで艶かしく高揚を誘う。それらは現実を諸成分へと分解しつつ、一部を遮断し一部を増幅させた、現実とは別種の体験を新たに作り出す。
 しかし、その熱狂は同時に、利用者を別種の孤独へも誘う。「映画は劇場上映で得られる『没入感』と『共有体験』の相互関係が醍醐味」にもかかわらず、「3D立体映像の問題は、映像が個人的な視点として認識されてしまう」(※脚注5)とするのは、『ダンケルク』の監督クリストファー・ノーランである。彼はいう。「撮影に関していうと、映画で主観を表現するのは非常に難しい。『カメラの視点をキャラクターの視点と一致させる』といった手法は昔からありますが、これだと観客は誰がカメラなのかを観ている間じゅう考え続けることになり、主観的な体験になりません」(※脚注6)。このように主観視点が無条件の没入を導かない。さらには、VRはその構造上アクションの場所を指示することができないために、一つの作品を「共有」しているという事態さえも曖昧にしかねない。
 没入体験を与えるためのテクノロジーは様々あり、映画には映画の、テレビにはテレビの、ゲームにはゲームの、技法的洗練の歴史がある。例えばこのことは、一般にVRが我々の時間感覚を操作せず、観る我々の地位を堅持させる点にも表れているだろう(※脚注7)。視点の移動やクローズアップといった操作は、(カット割りで済ませられる映画と異なり)VRにおいてはユーザーの現在位置からの物理的な移動や、急なアップへの場面移行を自然なものとして説明する背景設定を必要とする。夢に没入させるはずのVRはここにおいて、ユーザーの位置や速度の感覚を大きくは変えず、移動や設定への拘束という点でユーザーが既に持つリアリティを強化してしまうというジレンマを抱えてしまう。
 VRコンテンツが精神的外傷に対する治療(※脚注8)や歴史学習(※脚注9)、学習・訓練(※脚注10)や医療施術(※脚注11)等に有効なツールであると考えられながらも、それが既にある傾向性を強化こそすれ、それを大きく変えるものとはならないという指摘は度々なされる。報道におけるVR使用について、「見る者の心を揺さぶるが、そこにはコンテキストも解説もストーリーもない」「没入型ポルノ」であるとの非難は、ジャーナリスト自身による言及である。(※脚注12)「ポルノ」という厳しい言葉使いには、我々が既に持っているリアリティから離れることなしには報道や発見はない、VRはその既存のリアリティからの離脱の契機を与えない、という含みがある。すなわち、我々が既に知っている経験を増幅させるものでしかないならば、それは夢ではなく、ただの現実の埋め合わせに過ぎない、というわけだ。


2、「生は死の始まり、死は現実の続き、そして再生は夢の終わり」

 では、現実の埋め合わせとは異なる、現実への没入、夢への没入とはどのようなものか。『邯鄲の夢』の現代版翻案と呼ぶべき「雲南省スー族におけるVR技術の使用例」(柴田勝家)を確認しよう。そこでは、仮想世界に暮らす中国の雲南省以南の少数民族のやや特殊な風習が、謙抑的な報告調で淡々と綴られていく。

(以下略)

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項目のみ示せば以下の通りです。

0、はじめに
1、「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」
2、「生は死の始まり、死は現実の続き、そして再生は夢の終わり」
3、「僕の夢はどこ?それは現実の続き。僕の現実はどこ?それは夢の終わりよ。」
4、「微笑みは偽り、真実は痛み」
5、「溶け合う心が私を壊す」
おわりに 

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以上。