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【期間限定公開5】 アニクリ vol.7.0_5『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論 コード・シンボル tacker10 #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

 ↓↓

nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

 

コード・シンボル 『機動戦士ガンダムサンダーボルト』論
tacker10


Intro first-cut/first-contact

ファースト・カット、金属的な冷たさを感じさせる不穏なBGMが流れる中で、自動車や看板、街路樹など、かつて人が生活を営んでいたことを示す残骸の閉じ込められた奇妙な氷塊が映し出される。その氷塊をカメラが徐々に上へティルトして行くと、開けた視界の先、ズタズタに引き裂かれて廃墟と化したスペース・コロニー跡の光景が広がっている。その惨状を背景に挿入されるタイトル。
『MOBILE SUIT GUNDAM THUNDERBOLT DECEMBER SKY』。
一連の映像はかつてこの宙域で起きた激しい戦闘の傷跡を現在もまざまざと見せつけている。まるで、その瞬間に凍て付いてしまい、時間が止まったままであるかのように。
しかし、カットが変わると、生物の気配を感じさせない絶対零度の宙域でデブリの陰に身を潜めながら長距離狙撃ビーム砲ビッグガンの狙いを定めているザクⅡが映し出される。ザクⅡはを光らせ、口元から排気煙を噴出しながら、背部より伸びたサブ・アームで漂って来る邪魔な自動車の残骸を掴み取るとぞんざいに投げ捨てる。
このザクⅡのパイロットこそが、本稿にて扱う『機動戦士ガンダム サンダーボルト』で主人公の一人に数えられる人物、ダリル・ローレンツだ。ダリルは、大部分が傷痍軍人で構成されたリビング・デッド師団に所属しており、彼自身も失った両足に義足を装着している。
但し、ダリルは標準を奪われただけの存在ではない。彼は失った運動性を眼に変える。仲間内から「千里眼」とも呼ばれるその眼は、失われた理想的運動の代補であり、肉眼のままでは捉えられないはずの超遠距離の相手を眼差し、その物理的位置を執拗に割り出すためにある公国の器官なのだ。
そんなザクⅡの視線の先へとカメラが進むと、そこには無数に漂うデブリがまるで雷のような放電現象を放ち続けるサンダーボルト宙域を挟んで対峙中の地球連邦軍所属ムーア同胞団の艦隊が浮かんでおり、先程とは一転したジャズをBGMに、先述の動きにも増して自在に忙しなく動き回って行く人々の姿が描かれる。彼ら一人一人の動きやカットの切り替わりは、さながら音の粒とシンクロしたダンスのようだ。
その最たる例が、同作でもう一人の主人公とされる、イオ・フレミングの描写だろう。イオはコクピットにテープで張り付けたラジオから流れる海賊放送の録音を聴きながら、ドラム・スティックを奔放に叩き、更には両手両足を使って複雑にジムの各パーツを操縦してみせる。


第一部 「かな/真名」論の応用と展開 象徴の構築----

1.「性(セックス)と暴力そのものよ、愛なんか後から付いてくる」
(1)運動のシンボル/視聴におけるシンボル
開始からまだ三分弱、既に見事な障害者と健常者の対比描写だが、その上で重要なのは、これが鑑賞者と「アニメ」との関係そのものでもあり、そして実は対立していないという点だ。
そもそも、ダリルと同じく、鑑賞者もまた座席に付き、照準を合わせるかの如く視線を画面に注ぐ際、それは自分の眼ではなく、単眼カメラを通じて映像を観ている。鑑賞者がもしも自分の眼で画面を現実的に観ているならば、本来なら肉眼で捉えることの出来ない敵機体は、カメラで辛うじてスクリーンへ引き延ばしていたとしても、実際の大きさより遥かに小さいプラモデルのようなスケールで認識せざるを得ないはずだ。だが、鑑賞者はダリルと同様、それが巨大なモビルスーツであると感じられる。鑑賞者は自身の身体だけではなく、カメラであるかのように他人へ憑依する形でも対象を観ているのだ。翻って、一見すると動いていないかのように見える鑑賞者も、実際はカメラが動くと共に(ズレを孕みながらも)まるで幽霊の如く空間を飛び回っているのだとも言えよう。
すると、その時に、鑑賞者は鑑賞に必要な部分だけの身体、まさしく手足を失った傷痍軍人のような状態を暗に理想としてしまうことには注意が必要である。我々の内にはそうして身体を捨てた純粋な状態で普段は観ることの出来ない光景、自分に不可能と思われる華麗なアクションなどに同化する欲望が存在している。鑑賞者は決してずっと座席に縛り付けられることではなく、(カメラを通じてでも)動き回ることこそを望んでいるのだから。
「スナイパーには機動力は必要ない」
口ではそう言いつつも、後々にダリルが己の四肢を切り落としてリユース・P・デバイス装備高機動型ザクⅡに乗ることは、この事実を端的に思い出させてくれる。
その上で、ダリルが自身の身体を満足に動かせず、彼が義肢の先に夢見ている理想的な運動性(先述のリユース・P・デバイス実験中にダリルが涙する、浜辺を駆け回った過去の光景)を取り戻すことは既に叶わないことを踏まえるなら、冒頭に描写したサブ・アームなどの動きがまるで人間であるかのように極めて生々しく手描きでアニメーションされている(にもかかわらず、それは通常の身体ならば存在しない義肢である)のは、実に適切であると同時に、何とも皮肉に感じる。

(2)フレーム・レート選択とシンボルの進化(8fps/12fps/24fps/60fps)
だが、もう一方で強調しておかなければならないのが、ここで観られている側の映像、健常者もまた(特に「アニメ」においては)、よく動いているかのように見えても、例えばダリルが欲するような理想通りに思うまま動く身体ではない、ということだ。
所謂「アニメ」は、ユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカの「リミテッド・アニメーション」を一つの参照項として、一秒間八枚の「三コマ打ち」を基本に作られた。その描き方は、秒間六十フレームほどで認識している人間の眼にとっては本来の現実的な動きの感覚には程遠いものだ。勿論、一般的な実写映画でも通常は敢えて二十四フレーム(×2)を選択していた通り、ここでの現実的な動きの感覚にヒエラルキーはなく(毎秒六十フレームが理想なのではなく)、種々の理想を構築することに向けられた技法の歴史がある。その中で動きというもののより理想の感覚へと近付くことを目指し、時には枚数を増やしながら、「アニメ」はようやくいまの洗練された形へ辿り着いている。
その過程で行われて来たのは、例えば歩くという行為の本質が何処にあるのかを分析し、歩いているように見える基本的(そこからアレンジ可能な)パターンとして抽出しながら、それを様々に展開する行為だったと言えよう。
そのようなアニメの営みは、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』という作品において軸の一つとなるジャズで言えば「コード・シンボル」に例えられるかもしれない。そこで参照したいのが、『機動戦士ガンダム サンダーボルト』にて劇伴を担当した菊地成孔と、大谷能生の著作『東京大学アルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編』における以下の記述である。

 バークリーにおいては、コードっていうものは基本的には四声、四つの音で構成されています。これはオクターヴの中でコードのキャラを成立させるためには四つ音を指定すれば充分だ、ということなんですが、もっと遡って考えてみると、西欧音楽における伝統的な作曲法の基本としての「対位法」。特に四声の対位法から導き出されたものだと考えられると思います。四つの音に関係性を持たせながら、それぞれを横に動かしていって旋律を作る。そういった作業を対位法では行うわけですが、そうした作曲中に頻繁に現れる定型的な音の動き、曲を構成する際に効果的な音の動きっていうものをタテ割りに切り取って、で、汎用性のあるような形にまとめていく。そういう作業からコードっていうものが生まれてきて、で、コード・シンボルっていうのは正にこのコードを「シンボル化」してしましたものなんですね。

菊地曰く、この「コード・シンボル」は象徴であるが故に、ある程度の柔軟性があり、例えば「その記号に指示されている和声の機能さえ守っていれば、どの音を下にしてどの音を上に持ってくるか、などは演奏者が自由に選択できる」解釈の幅を持つジャズの即興演奏を可能にしたと述べる。これをアニメに転用すると、例えば走る動作が描かれている場合に、コマ毎の画は、走っているように見える機能さえ守っていれば、宮崎駿が著作の中で述べている通り、最も無難だと云う一歩を六コマで走る以外でも、適宜の目的に沿う形で「一歩五コマ、一歩七コマの走りがあってもいいはずだ」(『出発点』)、ということになるだろう。そのようにして象徴的に描かれるのが、アニメにおける様々な行為なのだ。
また、『アニメクリティークvol.5.0』所収『「撮られるべきもの」についてのノート』の、橡の花による以下のような記述も参考になる。

或る時間軸(8枚/秒のワンショット)上で分割された“「行為」の「形態」”。運動を「象徴」する8枚のポーズ(モーメント)。
逆説的には「見慣れた動き」に認知機能的に隠されてしまった幾つもの姿勢を暴いた静止画装置「マイブリッジの連続写真」(1878)の正統。

エドワード・マイブリッジによって撮影されたギャロップの連続写真を通じた分析は、連続する画から動的錯覚が得られることを示すと共に、それまで信じられて来た走行する馬の脚運びという観念を一変させた。常に脚の前後どちらかを地面に付ける形ではなく、四本脚が全て地面から離れる瞬間もあると明らかにされたことで、まさにジャズにおける「コード・シンボル」が様々な即興の指針となるように、これ以降、馬の描き方は大きく変わることになった。人は馬の走りに対する「コード・シンボル」を新たに得たのである。
本稿では、これらの系譜の先に上記の「アニメ」が行為を観念的に抽出して来た営為も重ねていくべきだと考える。日本の「アニメ」は、十全に動き続けるかのようにも見える「フル・アニメーション」の更に先へと夢見られる運動感覚に接近する術を、表現をより抽象化する中で、「行為」を観念的な「象徴(シンボル)」として描き出す方向に求めたのだ、と。
その結果として、画の一枚ずつは歩くなどの様々な行為の「象徴」となって、そこから多くのレトリック、即ち演出を生み出した。ダリルと同様に、先に挙げたイオの描写も、その延長線上に存在しているのである。
それは、例えばイオが、正当な起源という(土地の、身体の、アニメという媒体の!)重みを抱えつつ、自由への跳躍を果たそうとする姿に現れる。
「同胞、ね。まったく、生まれた土地はいつまでも俺を縛りがやる」
出撃前に艦長代理であるクローディアからの檄を聴きながら苦々しく呟き、その果てに、自身が望む十全な運動性という自由への活路を、戦争という狂気の中でしか生きられない(抽象化された)男として、まさしく一年戦争の「象徴」たるガンダム、その中でもフルアーマーガンダムの力へ彼が仮託したことに、文字通り「象徴」されているのだ。
ダリルとイオ、両者はかけ離れているようでいて、例えばイオの夢には亡き父親が好きだった単調で平和なポップスが取り憑き、逆にダリルの夢には(解体と構築を繰り返す)フリー・ジャズ的な運動性への嫉視が現れているように、実際にはどちらも標準から遠く突き放されながらも、同じように理想的な運動を夢見ている存在である。それは、現実のポップスとジャズもまた、切っても切れない緊張関係にあったかの如く。
そして更に、規律違反を犯してでも画面に音を取り込もうとする彼らの欲望は、各々の足場から互いの理想を新たに洗練させようとする「アニメ」という歴史の複数の糸を反復している。そのような(悪)夢同士の緊張関係こそが、閃光の如き崇高さを放ちつつも、しかしどちらか一方のものにならないまま共有されて行く奇妙で正体不明の事後的に立ち上がる「アニメ」という媒体なのだ。

(3)猥雑であること
さて、以上が本稿における軸(ルビ:フレーム)であり、句(ルビ:フレーズ)である。その軸はまさしく画面の異物であるところの音声に関わっている。そして、こうした軸を用いながら『機動戦士ガンダム サンダーボルト』の分析、再構築をより具体的にして行く反復行為の中では一つの指針を貫くことが重要になって来るだろう。
それは本質的にシンボル操作であるアニメにおけるフレームと音の歴史を断片(それもまたシンボルである)へ解体し、再構築する中で上書きすることである。
そもそも大田垣康男によるマンガ『機動戦士ガンダム サンダーボルト』のアニメ化にて監督を務める松尾衡が特異なのは、一般的に「アフレコ」が主流とされて来ている日本の「アニメ」業界で、珍しく「プレスコ」での制作を選択して来た人物だという点である。
近年になって、ようやく他の「アニメ」でも「プレスコ」の作品が増えて来たが、未だ日本においては、その理論的な軸はただ音声と映像のシンクロ率を高め、現実性を強めるために「作家」が用いる特殊な手法という単純な枠内で収まっているように思われる。
だが、歴史的には「アニメ」に対する「アフレコ」手法の結び付きは必然的ではない。
更に、事後的に立ち上がる奇妙で正体不明な(筆者が寄稿した過去の文章に寄せるなら「無銘」の)主体が「アニメ」の表現に利して来た点も多々ある。
この遅れを「プレスコ」制作された作品を通じて取り戻すことこそ、松尾の特異さだけではなく、広く「アニメ」一般に残されている可能性を掘り出すことへも繋がるはずだと考える。
上記の「プレスコ」とは、アニメにおけるフレームと音という異物の重要性を示す一つの範型なのである。本稿はその範型を反復することで、以下の内容を目標とする。
第一に、日本の「アニメ」がこれまで長い年月を費やして「象徴」と呼べるまでに試行錯誤して来た表現の中でこれまで見落とされがちだった映像の視覚的修辞性、例えば演出などが対象に対する思考のフレームとして与える影響を梃子に、アニメが持つ複雑性を、公用語論などを参照しつつ再考すること。
第二に、そして、その抽象化された「象徴」的な映像に対して、視覚の修辞性と同様に、音声がフレームとなって与える影響を、認知心理学詩学などを参照しつつ再考すること。或いは、そのような映像と音声の交わり方が、これまで正統的だと考えられて来た身体の動かし方とは異なった方法論の模索であったということを、演劇や映画などを参照しつつ再考すること。
最後に、上記のフレーズを即興で繰り返しつつ引き伸ばし変形すること、この点で本稿自体がジャズ的であることも目指す。時に「作家」という主体の意図から積極的に外れることすら厭わず、複数人による猥雑な会話(セッション)の中に、読者を引き入れたい。
上記の可能性を評価する以上、本稿もまた、単一の明確な「作家」という主体の意図が隅々まで行き渡った輪郭を持つ文章ではなく、始まりも終わりも不明瞭で、時に作品から遠く離れた話題も交えつつ複数人で交わす雑多な会話のように努める必要がある。それは、例えればシュルレアリスムにおける「自動筆記」やジャズにおける「即興」などのように。
前衛的であることを評価するためには、そうした実践の徹底も要請される。それ故に、本稿は一般的に論文が期待されるような結論へ明確に辿り着くことをあらかじめ放棄していると言っても過言ではない。しかし、そのような文章も、同人誌だからこそ可能になる醍醐味の一つとして読者の方々にご了承頂ければ幸いである。

 

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以下章立て


第一部 「かな/真名」論の応用と展開 象徴の構築
2.「アニメ」の系譜的不純性
(1)「東映系/虫プロ系」区分の解体
(2)アニメの系譜的「かな/真名」性
(3)「かな/真名」混交事例①
3.アニメの視覚的修辞性
(1)「作画/演出」区分の解体
(2)変化における「かな」/「真名」性
(3)「かな/真名」混交事例②
4.視聴覚体験の複層性
(1)「映像/音」区分の解体
(2)画面と音における「かな/真名」性
(3)「かな/真名」混交事例③

Interlude 諸混淆事例と「サイレント映画」批判

第二部 アニメにおける「声」の問題 デペイズマンと事後的主体

5.二つ以上の声と画面
6.二つ以上の声と声主
7.二つ以上の声と肉体
8.二つ以上の声と政治

Solo Part 外部から呼び込まれる声と記憶

9.「無銘」のものたちと向き合うこと
10.線形的な時間から切り離されたもの


以上-------------------

 

 

新刊vol.7.0全体目次は下記

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