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【 期間限定公開1】アニクリ vol.7.0_1『この世界の片隅に』論 現在(いま)を紡ぐ、あちこちのあなたへ makito×Nag #bunfree

新刊より一部紹介します。

なお、新刊vol.7.0全体目次は下記

 ↓↓

nag-nay.hatenablog.com

 

 

 

現在(いま)を紡ぐ、あちこちのあなたへー『この世界の片隅に
makito×Nag


Intro

 映画『この世界の片隅に』の描写の多くは、戦時下に置かれた人々の「暮らし」に焦点が当てられる。もちろん、製作者による緻密な考証が、広島と呉の過去の風景を忠実に再生することを可能にした。それゆえに、「私の父がいる」とか「完全にかつて見た広島だ」といった鑑賞者の反応を惹起し、多くの人々が共有する過去の広島の「暮らし」を再現したものとして受け止められている。作品の数々の受賞歴に現れているように、1945年の戦争という「世界」の分岐点を嫌でも象徴してしまう「ヒロシマ」を、フィクションを通じて巧みに再現しえた傑作として、広く世界に知られることとなった。
 しかし、本作で強調されるのは、そのような再現が、すずという名の一人の少女から見られた、辺鄙でありつつ秘密に満ちた広島の「暮らし」に魂を吹き込んで(アニメートして)いる、という点である。本作は英訳で、極東という「隅」、かつ、すずが嫁いだ北條家の立地たる「隅」の意のほか、辺鄙・秘密・窮地の意も持つ「In this Corner」と訳された。まさに「世界」を緻密に描こうとすればするほど、その現実への肉薄が、同時に替えがたい、辺境に生き、秘密を抱えた描き手の存在を必要とする、という点がここに現れている。
 すなわち、本作で特に興味深いのは、すずという少女が、自身を絵に描きこむ(アニメートする)ことを通じて、自らの住む場所が一体どこなのか、自分が一体何を欲し、何であろうとしていたのかを確認してきた者だという点にある。この点は、ドキュメンタリーを徹底するためには、アニメーションという現実歪曲的で脆弱な、しかし替えがたい語り部の存在が必要になるという、『アニメクリティークvol.5.0』所収の「視線をはじくもの」)で展開した論点に重ねられる。
 そこで展開したように、人は現在目の前にあるものさえも、数々の物語なくしては見ることができない。記憶に従い自身を物語ることは、過去を取り戻す力であるとともに過去を歪曲する暴力でもある。しかし同時に、現在の自分の理解を確認することを可能とする最後の砦でもあった。
 「ぼーっとしとる」ために現在から常に遅れてしまうすずについても同様だ。外からやってきた、結婚や戦争という物語に従って自らを物語ることで、すずは、彼女の現在を歪曲する暴力に自らを晒してしまう。そこにおいて、絵に自らを書き込むという作業は、彼女の現在を守るための最後の砦であったと言えるだろう。つまり、自分から見た(ちょっと前の、つまり遅れがちなすずからすれば「現在」の)風景の中に自らの姿を書き込むことで、余りに早く過ぎ去り、かつ、遠くへと進み過ぎる現在の暴風から、彼女は自身の現在を守っているのだ。
 しかし現実は残酷であり、彼女は結婚とともに絵を描く習慣から離れがちになり、戦争とともにノートを奪われ、歪な形でしか希望の象徴たる鷺を描けず、終いには絵を描く腕さえ失うに至る。一連の外来の出来事に流されながら、彼女は自身を絵の中に書き込めなくなっていく。それでも現実を超えた何物かを物語ろうとする衝動は、時に自らの周囲を塗りつぶす悲劇にも通じ、反対に妹や夫や孤児を癒す祝福にも通じうる。このことを、すずの物語は教えてくれる。
 これら一連の事件は、ドキュメンタリーをアニメーションによって補完する、又はアニメーションをドキュメンタリーの介入に晒す、という『vol.5.0』の展望の前提である、描き手・語り部といった脆弱な存在をどのように保持するか、という問いに答える必要を示している。本稿が扱うのはこの問いである。

 

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以下章立て

第1章、世界の片隅=秘密をいかにして描くか?

(1)外来の物語という暴風
(2)現実を目の前にして描くこと
(3)描くことを拒む戦争の顔

第2章、右手の代わりに描き継ぐもの

(1)片隅において描かれ”え”た断片
(2)描き継ぐためには右手はいらない
(3)私が死んだのか?あなたが死んだのか?なぜどっちが死んだとわかるのか?

Outro.

 

以上------------------------------

 

新刊vol.7.0全体目次は下記

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nag-nay.hatenablog.com