書肆短評

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tacker10さんの評論冒頭(抄録)

さて、コミケ期間限定で、tacker10さんの評論冒頭1節(といっても7000字超ありますが)を紹介します。

これは『アニクリvol.4.5_β ガルパン総特集号』の第1章の基調となる「アニメにおける輪郭線と音」についての論考です。(本来ならここで編集側での概説を加えるべきでしょうが、あくまでも紹介につき、今回は省略するということでどうぞよろしくお願いいたします。)

本誌においては、本論考に続いて、@totinohana さんと、@yokoline さんからのレビュー、そして 、@tackerx さん自身によるリプライが掲載される形となります。

 

以下、抜粋となりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

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0.はじめに


 二〇一二年放送のTVアニメ『ガールズ&パンツァー』第一話「戦車道、始めます!」冒頭シーン、隊列を組みながら前進して行く敵軍を捉えた戦車の一人称視点とも言うべき画面に、二人の少女が身を潜めて喋る声が何処かから聴こえて来る。

「マチルダⅡ四両、チャーチル一両、前進中」
「流石、綺麗な隊列を組んでますねえ」
「うん、あれだけ速度を合わせて、隊列を乱さないで動けるなんて、凄い」
「こちらの徹甲弾だと正面装甲は抜けません」
「そこは、戦術と腕かな」
「へへっ、はい!」

 我々は、その声が果たして誰の発した音なのかを画面に探す。しかし、この時に音源となるはずの二人は画面に存在せず、喋り声は誰のものでもない「フレーム外の音」として反響する。代わりに、まさに描かれている砲台の如く声の主を探して画面上に向けられた我々の視線=照準線は会話の対象となっている戦車の隊列を発見する。つまり、画面上を彷徨う声は、その主ではないが、会話の対象となっている遠景の戦車の姿に己が落ち着くべき居場所を得ているのだ。
 そこから、すぐさま画面上には輪郭線を基本に描かれた二人の少女が現れる。崖下から駆けながら偵察から帰還したらしき二人は、一方がそのまま戦車をよじ登って画面手前へ消えて行くのに対し、もう一人は画面内に留まって、操縦席に手を伸ばして車中の人物を起こす芝居を見せる。それと同時に、画面には「麻子さん起きて。エンジン音が響かないように注意しつつ展開して下さい」という先程と同様の声が与えられていることで、つい先程までは「フレーム外の音」だった喋り声が、映像におけるキャラクターと声の芝居のシンクロによって、今度はいままさに画面内に映る少女から発された「インの音」として鑑賞者に理解される。そして、それまでは遠方を進軍する戦車の隊列に視線を促しながら彷徨っていた声が目の前に自身の宿るべき主を見出されるのに伴い、我々の意識もまた、遠景から近景へダイナミックに運動するのだ。
 このようにして、作中で最初に画面上を彷徨う声の主という大役を戦車から受け継いだ彼女こそが本作の主人公、西住みほである。

 このシーンが端的に示す通り、「映像作品」において画面上の音はミシェル・シオンが『映画にとって音とは何か』で定義した「イン/フレーム外/オフ」の境界を筆頭に様々な隙間を、さながらどのように困難な場所も踏破する戦車のように軽々と踏み越えて行く。例えば、先述した場面、画面内で発されたみほの「麻子さん起きて下さい」という声は、実際には描かれてはいないものの車中に存在するであろう呼び掛けられた対象としての「麻子」というキャラクターを画面外の余白に生じさせながら、その「みほ」と「麻子」という異なる輪郭線で区切られた二人の人物の隙間を越えている。キャラクターを境界に囲まれたある種の枠(フレーム内フレーム)であることを考えれば、会話もまた、人物のフレームからフレームへと声が境界を跨ぐことに他ならない。
 翻って、アニメーションにおける輪郭線には、先程の場面で「麻子」を眠りから起こすための線で描かれた芝居に声が同期することで、かつて「フレーム外」を漂っていた声が西住みほというキャラに吹き込まれる(「イン」になる)かのように複数の線で描かれたコマ毎に異なった形のキャラクターをキャラとして結集させると共に音の在り処を即座に同定させる力がある。しかも、運動の方向は、外から内のみではない。アニメーションに特殊な輪郭線は、何処まで行っても仮初であり、それ故に音源の一意性を越え出て行く。よって、画面の中に一旦は位置付けられた音も、まるで鳥たちが止まり木で羽を休めた後に再び力強く羽ばたいて行くかのようにその輪郭線から、次のコマ、次のカットという新たな空間へと形を変えながらより力強く運動して行く。再び冒頭シーンで説明すれば、偵察から帰還した二人が画面の手前に消え、同時に「麻子」を起こすみほの声によって、画面の手前にはみほの指示する「展開」を行うだけの余白が既に充分な形で伸びている。その余白に対して実際に画面は「展開」され、その中をまた声が渡って行くことで画面は(同時に我々の意識も)運動して行く。
 そもそも文芸、音、映像、舞踏といった諸技術は各々が独立した空間認識と時間認識を持つ。それらの形式が折り畳まれた複合芸術であるアニメにおいては、それぞれの要素が複数のリズムでお互いに介入し合いながら映像内外に伸縮する広い空間への運動を生んで行くのだ。
 以上を確認した上で、本稿では、アニメ『ガールズ&パンツァー』シリーズにおいて、主人公の西住みほが自由に動き回ることの出来る大洗女子学園戦車道チームという開けた空間=充分な余白を得ることで本来の大胆さを発揮して行った姿に注目する。
そうすることで、同作が先述の境界を踏み越える音の特性への自己言及的な内容を展開して行く点を捉えるためである。
そして、その自己言及が行き着く先に、もはや声が台詞自身すらも必要としなくなった臨界点としての異なる声が自由に共存し得る場である輪郭線まで辿り着き、アニメという媒体を捉え直すことが本稿の目的だ。

 では、実際に本編の内容に踏み込んで行こう。

 

1.繋がる輪郭線、共有される声

(1)戦車から大胆に飛び降りること
 アニメ『ガールズ&パンツァー』の主人公である西住みほは、元来非常にアクティブな性格の持ち主だ。それは二〇一五年に公開された映画『ガールズ&パンツァー劇場版』で挿入される回想シーンに描かれた彼女の幼少期の姿を観れば一目瞭然である。
 何処までも広がる畔道を走る戦車上で、幼少期のみほは目を輝かせ、自由に飛び回る鳥たちに飛び跳ねながら手を振り、戦車を降りる際にも姉のまほが差し出した手にかぶりを振って自分の力で飛び降りようとする。眉の動きや頬の高潮に現れているように、彼女の表情は感情表現も豊かに描かれており、年齢の割には既に落ち着いた描写の姉とは極めて対照的である。
 しかし、前述の回想シーンから数年後の時点となる、『ガールズ&パンツァー』第一話「戦車道、始めます!」で県立大洗女子学園に転校して来たみほにその溌剌とした面影は全くない。寧ろ、どちらかと言えば気弱で、引っ込み思案なタイプという印象に描かれている。
 それにもかかわらず、実際には彼女こそが後にこの弱小高校の大洗を率いて戦車道全国高校生大会優勝を果たすのである。
 それも第一話の印象から思いも寄らない大胆な作戦を用いて。
 故に、ここで重要なのは、彼女の立てる作戦の大胆さが、元来彼女が持ち合わせていたアクティブな性格の発露であったと劇場版で捉え直されている点だ。当然のことながら、映画『ガールズ&パンツァー劇場版』が『ガールズ&パンツァー』の後から制作をされた作品で、みほの幼少期の挿話も事後的に追加された描写であることからすれば、「みほは大洗女子学園で変わったのではなく、大洗女子学園において本来の大胆さを取り戻した」という仮説を立てることはそう不自然なことではない。事実、追加された回想シーンが、みほを(建前上)勘当した母・西住しほとの厳格な会話シーンの直後に置かれていることから考えてみても、みほが西住流・黒森峰女学園で自らに課された役割にきつく縛られ、西住の名に伴う重圧を背負い続けていたことを強調しているのは間違いないだろう。
 そもそも、黒森峰を追われる原因となった戦線離脱もまた、回想シーンと合わせれば、役割の持つ閉塞性を否応なく強調する場面として解釈できる。回想シーンで、みほは戦車からの飛び降りに(姉の支えもむなしく)失敗するが、泥だらけになった二人は当たりも外れも区別がつかなくなったアイスの棒を見て笑い合う。「撃てば必中」(=必ず当たりを引く)を標榜する西住の名と役割を背負う前の二人は、その名に泥を付けることを厭わず己で決断して戦車から飛び降りるような大胆な行動を取り、例えそれが失敗したとしても結果に対して屈託なく笑いあうことがまだ出来たのである。そのような思い出が描かれた回想シーンが挿入されたことで、みほが取り戻すべきものが明確に示される構成になっているのだ。
 つまり、みほに必要だったのは、自身の背負った重責を下ろし、かつてありし日に発揮していた大胆さを取り戻すことが出来るための環境だったのだ、ということをこのシーンでは再確認できるのである。
 そして実際、第一話「戦車道、始めます!」は、彼女が大胆に動き回れるだけの環境を得るまでの物語を描いている。では、ここから実際に第一話の内容を確認してみよう。

(2)輪郭線を跨ぐ声
既に述べた通り、大洗に転校して来たみほは、それまで過ごして来た黒森峰での過去が原因で引っ込み思案な性格になってしまっていた。そんなみほだが、クラスメイトの武部沙織と五十鈴華に声を掛けられることで、次第に明るさを取り戻すかに見える。しかし、それも束の間、生徒会が戦車道の授業を履修するように迫ると、彼女の姿は同ポジに固定され、全く動かないままカメラに捉えられる(或いは、囚われる)。また周囲に促されて保健室に向かう際も、まるでその眼はゾンビのように虚ろになって、声を発する余裕すらなく、無言のまま立ち去ってしまうのだ。この一連のシークエンスで明確なように、転校当初のみほにとって戦車道とは未だ重く圧し掛かるだけの、自身の動きを阻害し、封じるものでしかない。
 反対に、沙織や華と一緒に話す時には彼女の動きが大きく躍動していた(例えばみほが二人と喋りながら食堂で踊るように喜ぶ)ことは非常に重要である。何故なら、この時点から彼女たちがみほにとって自由に動き回るためのキーとなることの予兆が既に示されているからである。
 そして事実、沙織と華こそが後にみほが大胆に動くための環境を得る契機となるのだ。
 以下、更に詳しく見てみよう。角谷会長を筆頭とした生徒会の面々はみほを呼び出し、戦車道の履修を拒んだことを口々に責め立てる。この生徒会の面々に対し、沙織と華は、自分たちは戦車道を選びたかったはずなのに、みほを励ますかのように手を握りながら、怯えて黙り込んでしまっている彼女の代わりに弁護を行う。
そもそも、みほは戦車道が嫌いだった訳ではない。みほが避けているのは西住流戦車道であり、更に言えば、自分の心の赴くまま仲間一人すら助けることを許されないような、固定的に閉ざされた道の厳格さに他ならない。
 そして、仲間を助けるために声を上げる沙織と華は、戦車道に異を唱えるのではなく、やりたくないみほに固定的な道を押し付けることに反対している。
 だからこそ、ここにみほにとっての戦車道の転回が訪れる。そこで重要なのが、二人が行った代弁により、みほから発されるはずの声は自身の肉体という輪郭線を越え、異なる形に変形された輪郭線へと共有され、そこから発されたということだ。沙織と華の声は、一人の輪郭の内に閉ざされた空間を踏破する道(=余白)を切り拓いている。そのようにして沙織と華が切り拓いた新たな空間を得て一人の輪郭が三人の輪郭へと変形したことを契機に、みほの内に留まっていた声は溢れ出て、再び戦車道へとしかし西住流とは異なる形で戻ることを彼女は決意することが出来るようになるのだ。
 そこから第一話終盤、戦車前で振り向いたみほを捉えるカメラが高速で引いて行くと、いままで彼女たちが過ごしていた空間が学園艦という巨大な船の上だったことが明らかになる。これまでの検討を踏まえるなら、このシークエンスの重要性は明らかだ。 みほは、かつて畦道を走り、そして飛び回ったような大胆さを、西住流の名と責任と共に限定され続けてきた。その西住流から逃れる術は、戦車道自体を離れるということしか、みほには考え付かなかった。しかし、今やそうではない。みほはこれまで背負い続けて来た重圧に押し潰されていた声を共有してくれる友人たちを通じ、いま再び大胆に動き回れるような環境を得た。そして、みほの中にある道はその新たな空間(=余白)の踏破を開始する。即ち、「装甲も転輪も大丈夫そう。これでいけるかも」というみほ自身の声が彼女自身の姿から戦車、戦車から倉庫、倉庫から学園艦へと引いていくその超ロングショットには、これから大洗の皆で作り上げるだろう新たなみほ自身の戦車道が重ねられるはずである。このカメラの運動によって示される余白の広さという環境こそが、みほが再び在りし日の大胆さを発揮出来るようになるために得られた環境に他ならない。
 そして、そのような伸縮の余地を生む重要な役割を担ったのが、声と輪郭線の相互介入なのである。

(3)異なる次元の境界を渡る
こうして第一話では声が発されるための条件が描かれる訳だが、その点を踏まえてまず思い出したいのは、そもそもアニメのキャラクターが声を持たないということだ。我々に聴こえているのは、実際は声優に吹き替えられた声である。だが、それがキャラクターの発した声だと理解されるのは、キャラクターのイメージと声優により吹き替えられた声が共に与えられているからに他ならない。例えば、西住みほというキャラクターの声は西住みほというイメージと声優の渕上舞が揃うことではじめて機能するように。
 まず、西住みほの声が成立するために、声優(の渕上舞)が必要であることは、誰でも容易に想像がつく。何故なら、平面上に輪郭線で描かれたキャラクターには具体的な発声器官が存在していないことを知っているからだ。
 では、キャラクターのイメージのほうはどうか。
 そこで、例えば『ガールズ&パンツァー』が存在しなかった別の世界を想定してみれば良い。その世界で、もしたまたま渕上舞が「パンツァー・フォー!」という台詞を発したとしても、そもそも西住みほというイメージが存在しない以上、それが西住みほの声だと認知されることはあり得ない。そして、その反対に、冒頭で触れた通り、画面に発された声が画面内に現れて芝居を見せる少女のイメージとシンクロすることで己の宿るべき主を見出されるに至ってようやく、西住みほの声が成立するのである。
 即ち、キャラクターの声は、ある境界で区切られた、輪郭線で囲まれた器となるようなキャラクターのイメージを前提にして、その余白に声を吹き込む声優の身体という二つの輪郭線の境界(アフレコ方式で言えば、録音マイクを間に挟んだ声優と声を吹き込むべき映像が映し出されるスクリーンの隙間)を跨ぐことで動き出すのだ。
 そうした意味で、みほの声にならなかった声が、みほと沙織と華の三人が手を繋いで、隙間を跨いだより大きな輪郭線に共有されることでようやく外へ開かれて行ったことと、キャラクターの声が機能する条件は相同的なのである。
 そうして動き出した声を軸に、アニメ『ガールズ&パンツァー』シリーズはこれ以降、己を内に抑え込むのではなく、より開けた空間へ飛び出すような大胆さを是とする映像と音の特性を軸とした物語を展開して行く。視覚的に分かり易い例で言えば、大洗女子学園戦車道チームの面々が凝り固まった戦車のイメージへと囚われることなく、自分の好みにそれぞれの戦車を改造してしまうことが挙げられる。この大胆さは、戦車の起源が過去の第二次世界大戦の歴史にではなく、未だ余白である現在の彼女たちの戦車道にあることを示している。
 その大胆さを用いて大洗女子学園戦車道チームは、例えばサンダースの通信傍受による進路の先回り、アンツィオのデコイによる足止め、プラウダの大軍による包囲といった、自由な運動を抑圧しようとする様々な作戦を打ち破って行くのだ。
特にプラウダ戦では生徒会チームが自分たちだけで抱えていた (これまた門戸を閉じることである)廃校の危機という大きな秘密を他のチームメイトにも共有することで、ようやく重荷から解き放たれることになる。
 そして、隊長であるみほは、その重荷を引き受けつつも、活路を拓かなければならない必然性を、踊り(視覚)と歌(聴覚)に合わせてチームへと伝播することになる。
 この場面は、一人で戦いの起源を引き受ける必要などなく、より広い空間へ共有されるように運動が開かれる(それこそが戦車道である)という軸に貫かれていることを端的に示してくれるだろう。
 彼女たちが真にその重圧を共有する際に行うのが音に合わせて踊ることであるように、みほたち県立大洗女子学園戦車道チームの快進撃は音が新たな空間へと切り拓かれて行くことの追求と並行していたのだと捉えられるのだ。

2.コマとコマの間を越えて

(1)声優:コマに合わせすぎる不自由さ
 そうして声優とキャラクターの境界を越えた新たな基盤を得て成立したキャラクターの声は、更に別の境界も跨いで越えて行く。それは、コマとコマの間だ。
 そもそもアニメの画面はコマの連続であり、実際はコマとコマには間が存在している。しかし、その間を渡るように、声は各コマを貫いて踏破する。つまり、映像(視覚)と声(聴覚)の間には、必然的にズレが介在してしまうのである。
 その際、日本で主にアニメと呼ばれる三コマ打ちの作画を基本とした作品では、映像と音声がズレて違和感を覚えさせないように、コマ毎の口パクにきっちり収まるよう演技をする高度な技術を必要とし、事実、声優はそうしたスキルを習得している。
 しかし、ここで実は声優の技術力が高いことが問題になる場合がある。声優があまりにきっちりとコマにハマるように演技をし過ぎると、例えば会話の間が次第にアニメで主に使用される六、九、十二コマという間ばかりになってしまい、本来の会話にある多様性が失われてしまう可能性があるのだ。例えば、この問題に対して実際に言及をし続けているアニメ監督の松尾衡は、そうした多様性の喪失を避けることを目的の一つとして、日本のアニメで一般的に使用されるアフレコではなく、プレスコを採用している。 それは、この多様性の確保をスタッフだけの能力に頼るのではなく制作過程において実現するためだ。確かに、松尾が危惧するように、音が画面にただ追従するようにせせこましく窮屈に押し込められた演技になることは決して良くない。例えば、余韻を残すなどのために、台詞の言葉尻を次のカットに溢す演出をしたい際は、そのオーダーに対して大胆に対応して貰う必要があり、きっちりカットに収める演技しか出来ない場合では困るためだ。そのような演出のオーダーを理解し、臨機応変に対応することも声優に求められる能力である。ここには、声優と演出という制作過程における課題が露呈しているのだと言えよう。

(2)キャラクター:コマ間の臨機応変を映像内で実現する
 そうしたアニメ制作における課題こそが、みほ率いる県立大洗女子学園と彼女がかつて在籍していた黒森峰女学院の決勝で描かれている。
 そこで、大洗と黒森峰の試合展開を順に追ってみよう。

 

(以下略)

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以後、2(2)が続いたのち、

 

3.複数の声が共存する輪郭線へ
(1)劇場版における定石と臨機応変
(2)リズムと共に再生される「らしい」戦い
(3)輪郭線と輪郭線の間

4.おわりに

 

で論はしめられます。

 

なお、橡の花さんとヒグチさんからのコメント(とリプライ)については、以下の通りです。

 

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以上