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C90『アニメクリティーク vol.4.5 ガルパン特集号』記事紹介 Column 07. ボコられの系譜 #c90

(4.5目次など詳細情報は下記リンクにて)

nag-nay.hatenablog.com

 

上記アニクリ新号では、本編評論に加え、レビューコメント、コラムの充実を図っております。

テーマコラムは結果として10となりました。

以下は、2章にある7番目コラム「ボコられの系譜」です。ご笑覧ください。

 

 

Coliumn6.ボコられの系譜

 


(1)ボコミュージアムの応援 必衰必敗に抗して

 

 おそらく係員の他には人っ子一人いないボコミュージアムの玄関には、ひとつのオブジェがある。何もしていないにもかかわらずボコボコにされる「ボコられグマのボコ」である。その「ボコ」を象ったロボット、通称・生ボコはミュージアムの顔であり、それゆえ正面玄関に鎮座しているわけだが、予算不足のためかひどく原始的な仕組みしか内蔵しておらず、同じ言葉をただ繰り返すだけのチープ感満載の機械仕掛けでしかない。ギシギシと鳴る軋み音とともに繰り返されるのは、「おう!よく来やがったな、お前たち。おいらが相手してやろう!ボッコボコにしてやるぜっ!」、「おっ、なにをする!やめろー!」、「やられたー! 覚えてろよ(ガクッ)」という通り一遍の挙動である。ここでツッコミ役・武部沙織が、「何もしてないって」と最早ツッコミの体をなさない機械的なテンドンに徹しざるをえないのは、ボコの単調さゆえである
 勿論、この「何もしていない」には二つの意味がある。①一つには物理的な攻撃を何一つ受けていないという意味であり、②いま一つには殴られる理由が何一つ無いということである。①物理的な刺激なしに自動運動を繰り返すボコは、通常人にとってはコミュニケーション不可能な対象(ツッコミ潰し)として現れるし、②殴られる理由が無いことは見るべき筋を見失わせ、「ナニコレ...」と嘆息せざるをえない単調な筋に結びつかせる。そもそもミュージアム自体が浦安の某施設のパクリであることからしても、資本・商業・娯楽的には見るべきドラマの起こらない場として朽ちていく宿命にあることは、想像に難くない。
 しかし、このような常識に対して西住みほ(及び島田愛里寿)は、自動運動と単調な筋を体現する必衰必敗のボコを見て、目を爛々と輝かせていた。勿論その答えは(もはやボコのアイデンティティと化した)必衰必敗の「結果」を、みほと愛里寿が望んでいることにはない。みほの「退いたら道はなくなります」や、愛里寿の「私が勝ったらボコミュージアムのスポンサーになって欲しいんだけど。このままでは多分廃館になっちゃうの」というセリフを思い出そう。彼女らは結果の必然ではなく、ボコショーにもあったように「次」という言葉を携え、必然に抵抗するボコのあり方に感化されていた。
 ボコはいつも負け続ける単調な筋の中にあって「次は頑張るぞ」と述べる、言行不一致の矛盾を抱えた存在だ。だからこそ、西住流と島田流、盛者必勝の二つの道の後継者だった彼女たちは、自身に宿命的に課された必然に抗う道を模索しているのではないか? 既定路線とはずれた「すごく頑張ってた」ボコの姿を見い出すことで、「次」に感化される立場を、ここで保持したがっているとは言えないか?
 「何もしていない」ところに何かを見出すこと。一つの筋しかないところに分岐する「道」を見出すこと。必然の中に「次」に向けた態度を形成すること。オブジェの中に主客の転倒を見出し、「ボコリボコられ生きていく」術を学ぶ、彼女らなりの戦車道の萌芽が、ここに見て取れる。

 

(2)遊園地戦のチームワーク 抵抗する二つの戦車道

 

 とは言え、彼女たちの動機は全く同じ訳ではない。
 片や愛里寿にとってボコは、必然としての資金不足や力不足ゆえに耐えず傷つきうるがゆえに、「私が助けてあげるからね」と言葉を掛けるべき、か弱い主体として現れる。片や、みほにとってボコは、「困難な道」でも「厳しい戦い」を回避することが決してない(ただし貧弱な)主体として現れる。愛里寿にとってのボコは脆弱な他者であり、みほにとってのボコは非力な我々のうちの一人として現れる。愛里寿がボコを籠の中に囲うのに対し、みほはボコを自らの部屋に住まわせているのは、この分岐の表れだろう。
 西住流ならぬ西住みほの戦車道のモチーフがここには現れている。奇策を用いない正道でありながら「型どおり」でもない、車両数や戦力に基づく分析を覆しうるチームワークを生かした戦法がそれである。TV版最終話で一対一のフラッグ車同士の戦いに持ち込んだ分断作戦のみならず、劇場版後半における大洗女子学園チームの攻防は、分散的意思決定に基づき急造チームにおける役割分担を随時進めていく方式を採用していくことになる。伝統である突撃を封印し、特殊迷彩を活かした(?)ゲリラ戦を展開した知波単学園を筆頭に、基本的には平面的なゲームである戦車戦を(GPS役を担うことで)立体的なゲームに変えるアンツィオ高校、「重戦車キラー」を返上して「軽戦車キラー」へと転身した一年生チーム、「優雅な勝ち方」を返上して「データ主義」に徹した聖グロリアーナなど、各車は自車の最善ではなく、一つの戦場における配置の最善を期して、大洗の勝利のために邁進するに至るのだ。

 

(3)最終戦のヴォイテク 視聴者はスキをあきらめない

 

 もし深読みを続けるなら、ここで最終戦の戦いを一時中断させたボコ風の乗り物(ヴォイテク)のことを思い出すことができるかもしれない。
 センチュリオンと4号戦車の間にヴォイテクが歩みを進めたのは、単なる偶然の所産である。しかし、この偶然は(決して外部の刺激に反応することがなかった)ミュージアムの生ボコとは異なり、彼女らの戦いの中で生じた瓦礫への衝突によるものである。つまり、彼女らがボコとコミュニケーションを取りたがっていたその希求は、この場面において意図せざる形で成立しているのである。
 センチュリオンと4号戦車の間にヴォイテクが割り込んだことは、当然ながら「出来すぎ」の筋書きのように思われるかもしれない。しかし、ここで彼女らは、ボコのことが「スキ」である(だから撃てない)ということとともに、ボコが「割り込んだ」(だから撃ってはならない)ということを重視しているように見える。少なくともみほと愛里寿の間では、「ボコ」が彼女たちの二つの戦車道の間で生じた試合を司っていることが、ここで示されている。
 だからこそ、自らの負けを導いたヴォイテクに乗った愛里寿が、かつてみほから譲ってもらったボコのぬいぐるみを「私からの勲章よ」と差し出すことは象徴的だ。もちろん彼女たちはいずれかの勝利のために戦っていたのだが、勝利はボコを失うことやボコに負けの原因を帰することで成立するわけではない。ボコは勝者と敗者のいずれかにも帰属することではなく、互いに交換される「わだかまりのない」戦闘の証であり続けることに、その意義があるのだろう。そこでは、どちらかに勝者と敗者が振り分けられることが必然であるという理由で、試合が無意味化するわけではない(両勝ちというものがありうる)ということが、ご都合主義とは別の形で示されているのである。

・・・

 さて、ここから先は錯覚体験の記述である。
 必然であるという理由で抵抗を諦めない(スキを諦めない)のは、みほだけではない。劇場を見て応援していたみほのように、画面を見つめる私達もまた、一つしかない筋を見に、何度となく劇場へと足を運んだだろう。ボコミュージアムの正面にある生ボコの同じ動きに目を釘付けにされていたみほのように、視聴者もまた、同じ画面に釘付けにされ、また釘付けにされたいと望んでいたはずだ。
 ヴォイテクが彼女たちを制止するかのごとき歩みを進めた時、一視聴者である私は、目を画面に釘付けにされながら、みほと愛里寿の不毛な戦闘を止めたいという欲望と、この素晴らしい戦闘をいつまでも続けて欲しいという願いを、ヴォイテクが一瞬だけ叶えてくれたように錯覚した。
 もちろん、この錯覚は一瞬でしかありえない。しかし、もしボコがみほにとって並列的に存在するように、我々にとってのキャラクターへの錯覚がありうるとすれば、このようなボコを介した試合への(錯覚的な)介入という方法でしかありえなかったのではないかとも思うのである。ボコがキャラクターを見る刹那において、私たちはキャラクターの目線を感じられた。そのような錯覚こそが、視聴者が何度も同じ試合を見に足を運んだ理由だとするならば、それは幸せな錯覚と呼んで差し支えないように今なお思えなくもない。私は抵抗=スキを諦めない。

 

以上