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C90『アニメクリティーク vol.4.5 ガルパン特集号』記事紹介 (1−2_01) Column 03. 爆音轟く無声映画---付:「極上爆音上映」トーク総括 #c90

(4.5目次など詳細情報は下記リンクにて)

nag-nay.hatenablog.com

 

上記アニクリ新号では、本編評論に加え、レビューコメント、コラムの充実を図っております。

短く読めるテーマコラムは現状6つですが、まだまだ増える可能性があります。

以下のような体裁で各種各様のテーマを検討しておりますので、ぜひ「こんなものも検討してほしい!」とか「自分で評論は書かないけどここは気になった!」とかご意見ございましたら、ぜひお寄せください。

 

 

以下、コラムの3つ目、「Column 03. 爆音轟く無声映画---付:「極上爆音上映」トーク総括」となります。

 

Column 03. 爆音轟く無声映画--- 付:「極上爆音上映」トーク総括

 

(1)マクロの視覚、ミクロの聴覚:刹那における信と知

 

敵戦車の砲塔が十字を切ったら注意し、砲塔が止まったならば死を覚悟しなくてはならない。照準を合わせる段階において横移動は方位、縦移動は距離(高度差)の割出しを意味している。

光は音よりも早く到達するので、ここで耳を澄ませていては回避にはおよそ間に合わない。縦移動が完了したことを目視した刹那のうちに、相手の砲弾は我々を貫くに至るだろう。


一方で、耳は、識別能力から言えば目よりも精密な器官である。目が50分の1秒ほどの明滅(ルビ:フリッカー)しか認識できないのに対して、耳は1000分の1秒のズレを認識することができる。

だから、視聴する側から見れば、画面の表面の精緻さと運動の厳密さに加えて、我々はより信頼のおける音をリアルな世界把握の源泉にしているものと思われる。


マクロでは視覚がより信頼に値し、ミクロでは聴覚がより信頼に値する。この客観的な物理と主観的な識別のズレが『劇場版』では強調されていた。

例えば最終戦において、会話は咽頭マイクを通じてなされているものの、視聴者にその声は届かない。エキシビジョンを見ている観客たちに聴こえているのと同様に、最終戦にあるのは、戦車の発する砲撃音、エンジン音、旋回に伴う軋み音の他には遊園地遊具が次々と破壊されていく音だけだ。

戦闘における指令(「こうすればああなる」)はここで頓挫し、ただ未見・未聴の刹那にある世界の事実(リアル)だけが残される。

 

(2)極上爆音上映と遅延の功罪

 

さて、自らも音響監督を兼務することもある水島監督作品は、監督オーディオコメンタリーやインタビューでもしきりに「音」へ言及している通り(参照:『ガルパンの秘密』監督インタビューなど)、以上のような音と映像の関係についての並々ならぬ拘りを見せる。

本作でも音響へのこだわりは随所に見られ、その表れとして立川「極上爆音上映」を筆頭とした各所の音響上映の成功につながっていると見ることができる。


そこで、立川における音響チームの3名とプロデューサーによるトークショー(2015.12.26)を振り返りつつ、以下紹介しておこう。

トークショーは、まずは立川シネマシティの音響へのこだわりを示す、剥き出しスピーカー等の音響設備の特殊性、レコーディングスタジオのような壁面床面構造・音響調整卓の存在に触れるところから始まった。その後、各場面における音へのこだわりポイントを(センター/LR/後方スピーカー、サブウーファーごとに音を分解しつつ)解説していく流れで進行していった。


実演で取り上げられたシーンは3つである。

(1)冒頭の茶柱シーンの会話では戦車チャーチル内の反響音を意識した音作りへのこだわり、(2)「戻りなさい、ローズヒップ」のシーンでは、無線を介した会話における効果の調整へのこだわり、(3)継続高校戦闘シーンでは、セリフ、音楽「Säkkijärven polkka」、効果音の組み合わせへのこだわりが、それぞれ確認されていった。

興味深いコメントとして、録音調整の山口氏から「仮に音が識別できないとしても、そこにあるわずかな違いを感じてほしい。そこにこそリアルがある」という旨のコメントがあったことである。

識別されないなら差異はないのではないかと突っ込みを入れることもできるだろうが、この趣旨はおそらく、最初は聴き分けられないだろう微妙な差異を、再視聴や低速視聴、コマ送りなどを介して、そこにあるリアルを掴み取って欲しいというメッセージであるのだろう。


最後に、多人数制作で仕上げの時間がとりづらくなってしまうハリウッドシステムとの違いとして、音響効果を一人に絞る『ガルパン』の仕組みが今回は奏功したのではないか、という言及で、トークショーは閉じられていた。

 

・・・

 

筆者としては非常に満足して家路に着いたわけだが、一点だけ、トークショーにおいても言及されなかったシーンでどうしても気になってしまう箇所が残った点に触れておきたい。それは、エンドロールで流れる「piece of youth」の重低音である。

本編の重低音に力点を置いた調整の結果であろうか、この劇伴の重低音箇所が筆者にはどうしても1/4拍ほど遅れて聴こえていた。


誤解がないように言っておけば、周波数帯における伝達速度の差異は存在しないため、低音が遅れて聴こえるというのは事実に関する話ではなく、あくまでも視聴者の認識に関する話である。

つまり、物理的には重低音だろうが高音だろうが速度に違いはないのであるが、重低音は音の立ち上がりからのサスティンを認識するまでに時間がかかる。そのため、アタックが認識されにくく、皮膚や服が振動された後になって「ドンッ!」と低音が響くように感じたのだろう。

 

しかし、この遅延の経験もまた、エンドロールの幸運ともいうべきか、視聴の快楽の資源となる。大洗女子学園への短期入学という刹那の邂逅を終えて帰省する各校メンバーを、遠ざかりつつ見送るかのような錯覚に、視聴者を駆り立てるのである。

この遅延は、再視聴や低速視聴といった作品への接近のみならず、視聴者の意識していなかった未聴の新たなリズム(への信頼)を浮きだたせてくれるのである。

 

(3)轟音の最中にある無声映画:「刹那主義には賛同できない、でも、彼女たちを信じよう」

 

認識に上らない音、聴こえない音は(少なくとも主観的には)存在しないのと同じだ。しかし、本作において聴きとれない音、あるいは遅れて聴かれる音は、私たちに聴こえない音を(想像するのとは別の仕方で)聴かせてくれる。

その未聴の音は、轟音にかき消された無声と遅延前の刹那にある二重の「アタック(頭音・急襲)」に追いつくように、視聴者を鼓舞するだろう


この点を確認すべく、いま一度、対カール自走臼砲作戦に戻ろう。

そこで継続高校・ミカは、急襲によって周りを守る戦車の引き付けるよう指示を受けていた。一見無謀とも見える作戦に対し、ミカは「刹那主義には賛同できない」と言葉を向けるが、その刹那の「彼女たちを信じよう」と言ってカンテレを(はっきりとしたアタック音とともに)爪弾き始め、「Säkkijärven polkka」の律動を響かせる。


この場面こそ、音の間を縫う連携が最も冴えわたるシーンである。

リズムに乗ったBT-42は相手戦車の目を引きつけ、まんまとリズムに乗せるに至る。肩を弾ませリズムを埋め込むミカ・アキ・ミッコは、互いの動きを同期させつつ相手のリズムを撹乱する。履帯を外したクリスティー式BT-42、その最高時速75kmの俊足は、敵戦車を追い越し、彼女たちの軌道の狭間に引き入れる。そうして最後、ミカの「Tulta」の声の後、遅延された刹那の間を以ってアキは敵戦車を砲撃・撃破するに至るのだ。


かくして、『劇場版』においては、爆音が轟き渡る戦場における聴かれるべき音が、潜在的な形で聴かれうる。音はモノとして確かにここにある、視聴者はそう信じることができるはずだ。しかし、音のみならず、画面を取り巻くすべてのモノの中にサインが散りばめられていることをも、今や私たちは信じられるだろう。

この信ゆえにこそ、本作は極上のサイレント映画と呼ぶに相応しい。轟音で何も聴こえない中、その反対にすべての潜在的な音が立ち上がる刹那に、本作を前にした視聴者は直面するのだから。

 

 

以上