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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

アニメクリティークvol. 5.0「アニメ化する資本・文化・技術/作画アニメ×ギャグアニメ特集(仮)」寄稿募集(〆切:2017/2/1へ延長)

告知

注:内容充実のため、〆切を2017/2/1へ延長しました。宜しくお願いします。

 

1、検討・寄稿募集作品例:

(概ね2010年以降における)アニメ制作の特徴・環境・変化を読み取ることのできる任意のアニメ作品。

※ 2010年という区切りは便宜的なものです。編者の念頭には、深夜アニメ放映数の急激な増加や3DCGの全面的なアニメへの導入、ショートアニメのTV放送枠の拡大などなどの画期的変化がありましたので、時代区分としてひとまず設定しました。他の観点から、より遡るべき適切な区分が存在する場合には、その旨を明記しつつ作品を自由に選定くだされば幸いです。


対象作品例:

(見通しをつける趣旨での例示であり、作品を限定する趣旨ではありません。複数カテゴリーにまたがるものは順不同で記載)

 

(1)第一部「アニメ化する資本・文化・技術(art)」

①VR、アニメ化する身体
 「コングレス未来学会議」「戦場でワルツを

 「フリップフラッパーズ」「キズナイーバー

 「屍者の帝国」「ハーモニー」
 「てーきゅう」「無彩限のファントム・ワールド
 「ガラスの花と壊す世界」etc

②資本/文化/芸
 「昭和元禄落語心中
 「すべてがFになる THE PERFECT INSIDER
 「スペース☆ダンディ 」「キルラキル
 「四月は君の嘘
 「C」「狼と香辛料」「ワールドエンドエコノミカ」

 「じょしらく」etc

③技術:美術、撮影、CG(※挙げればキリがないのでごく一部のみ)

 「シン・ゴジラ」「この世界の片隅に」「聲の形」

 「甲鉄城のカバネリ
 「灰と幻想のグリムガル」「亜人」「GOD EATER
 「機動戦士ガンダム サンダーボルト
 「響け!ユーフォニアム」「境界の彼方
 「楽園追放 -Expelled from Paradise-
 「バケモノの子
 「シドニアの騎士」「蒼き鋼のアルペジオ」「RWBY
 「蟲師」etc

④制作プロセスの可視化
 「少女たちは荒野を目指す
 「SHIROBAKO
 「アニメーション制作進行くろみちゃん
 「妄想代理人」etc

 

(2)第二部「作画×ギャグ×不条理」

①作画(※挙げればキリがないのでごく一部のみ)
 「プリンス・オブ・ストライド オルタナティブ
 「リトルウィッチアカデミア」「同級生」
 「ガンダムユニコーン
 「ワンパンマン」「血界戦線」「ローリング☆ガールズ
 「かぐや姫の物語
 「終わりのセラフ」「アカメが斬る!
 「Fate/Stay Night UBW」etc
 
②不条理ギャグ
 「おそ松さん
 「だがしかし」「監獄学園
 「月刊少女 野崎くん」
 「侵略! イカ娘」「のうりん
 「日常」みなみけ
 「さよなら絶望先生
 「百合星人ナオコサン
 「苺ましまろ」etc

③異世界転生ほか
 「この素晴らしい世界に祝福を!
 「Re:ゼロから始める異世界生活
 「ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?
 「ノーゲーム・ノーライフ
 「はたらく魔王さま!
 「ソードアートオンライン
 「ゼロの使い魔」etc

※ なお、劇場版を含む〈物語〉シリーズについては『vol.6.0』取扱予定となりますので省いています。また、『アニメクリティーク』誌の前号までで取り扱った諸作品についても幾つかは意図的に省かせていただきましたが、再度取扱うことも前向きに検討しています。ご意見お寄せください。

※ 上記のリストで概ねどこに着目して選定していいるかは浮かび上がってくると思いますが、他により適切な作品がありましたら是非編集(@nag_nay)までお寄せください。リストの充実に資するために、検討・採用させていただければ幸いです。

 

2、寄稿募集要項

(1)募集原稿:

 アニメ作品のうち、寄稿募集原稿例に掲げた作品(など)を中心として、「資本・文化・技術」あるいは「作画・ギャグ・不条理」に絡めて論じられるもの。二つの特集を接続するものも推奨です。 
 

(2)装丁・発刊時期:

 オフセット印刷、A5、100頁程度で企画しています。
 発刊時期は、2017年春の第24回東京文フリ(5月)を想定しています。
 

(3)募集原稿様式

a. 文字数:
 ①論評・批評 : 3000字程度から15000字程度まで。
 ②作品紹介・コラム:500字程度から2000字程度まで。

b. 形式
 .txt または .doc

c. 締め切り
 第一稿:2017/2/1 (※注:内容充実のため延長しました)
 (※ 個別に連絡いただけましたら延長することは可能です)
 (※ その後、何度か3月中旬まで原稿の校正上のやり取りをさせていただけましたら幸いです。)
 最終稿:2017/3/31 (※注:内容充実のため延長しました)

d. 送り先
 anime_critique@yahoo.co.jp
 ※ 参加可能性がありましたら、あらかじめご連絡いただけましたら幸いです。その際、書きたい作品、テーマ、内容についてお知らせくださると、なお助かります。
 ※ 原稿内容について、編集とのやりとりが発生することにつき、ご了承ください。


(4)進呈

寄稿いただいた方には、新刊本誌を進呈(※ 進呈冊数は2を予定)させていただきます。

 


3、企画趣旨: アニメ化するのは誰か? アニメ化していくのは誰か?


第1、特集1:アニメ化するための/自らがアニメ化する資本・文化・技術

 

(1)資本・文化・技術(art)の分節化

次号特集1「アニメ化する資本・文化・技術」には、少なくとも2つの意味合いが含まれている。[1] 一つには、アニメを作り上げるための(=アニメ化するための)基底となる資本・文化・技術(art)という意味合いであり、[2] いま一つには、アニメを作り上げる資本・文化・技術自体が戯画的・アニメ的(caricature)な形でアニメを参照し、再帰的に自らを構成しているという意味合いである。

 

[1] まずは第一の点について。

現在、アニメは視聴者にほど近いコンテンツとして、地理的、世代的、娯楽的な制約を超え出る広大な裾野を持っているかに見える。(折しも新たに企画されたと伝え聞いた)日本博(ジャポニスム2018)の開催など、コンテンツとしてのアニメ「利用」は拡大の一途を辿っている。

しかし、アニメが視聴者にとって第一義的にはコンテンツ(趣味判断の対象)として現れるとしても、云うまでもなくアニメ制作それ自体は第一義的にはコンテンツではない。

アニメが視聴者に届くまでの間には例外なく、①アニメを受容する層との関わりで放送枠(本数)が決定される自生的な環境形成のプロセス、②制作会社・放送局・出版社・スポンサーなどが長い時間と多大なコスト、各々異なる商業的意図をかけて行う企画のプロセス、③資金リスクや権利問題を縮減するための経済-法技術的プロセス、④そして何より脚本・絵コンテ・レイアウトから原画・動画・美術・撮影etcに至る制作のプロセスなどなどの諸プロセスが控え、潜在している。

とりわけ最後の④制作プロセスについては補足が必要である。そこでは、(4-a.)技術的な側面のみならず、(4-b.)労働環境や教育訓練の側面における問題をも含んでいること(またこれに対抗する形で、『亜人』劇場版とTVシリーズを同時並行で進めることに成功したポリゴン・ピクチュアズの記事などにあるように、プリプロを詰めることによって問題解消の動きが広まっているとのこと:「亜人」から広がるポリゴン・ピクチュアズの今後 ― 瀬下寛之総監督、守屋秀樹Pに訊く(後編)http://www.inside-games.jp/article/2015/11/30/93537.html (前編)http://animeanime.jp/article/2015/11/29/25885.html)がよく知られるところとなっている。

また『アニメスタイル007』記事で明らかにされているように、(4-c.)2015年視聴者を震撼させ、劇場版も上映中の『響け!ユーフォニアム』では、美術・撮影段階が(単に役職名の追加にとどまらずに)既存のアニメ工程とは異なる形で非常に重視されていることが見て取れる。他にも近年の作品で言えば、背景美術への関心を感じさせる『灰と幻想のグリムガル』や、新たに"化粧"工程を加えた『甲鉄城のカバネリ』、あるいは劇場版アニメ『バケモノの子』や『蟲師』においてもこの点は顕著かもしれない。

(4-d.)勿論、このような既存の制作現場・制作工程自体の変化は美術に限らず、CG工程においても起こっており、日本でのフルCGの本格的な進化を示す『楽園追放』や『シドニアの騎士』『蒼き鋼のアルペジオ』(本邦の作品ではないが『RWBY』)など近年のアニメを技術・資本環境とともに分析するためには、避けて通れない視点となるだろう(詳しくはCGワールド記事などを参照)。

最後に、(4-e.)NPO法人アニメーター支援機構などの存在は、アニメを視聴する我々と制作サイドの距離の変動を示す一つの徴候と言えるかもしれない。

・・・

以上つらつら述べてきたものの、第一の点の主眼は、上述のようなトリヴィアルな事実を指摘することそのものにはない。「個的で純粋な趣味判断こそが全体的な資本・文化・技術に依存的である」という上述の指摘は非常に単純なものであり、理論それ自体としては合意を得られやすいものではあるだろう。しかし、その転倒を指摘することを超えてアニメをめぐる環境を実践的かつ批判的に考察する段になると、途端に大業な問いが立ち現れるためだ。

【TVの前あるいはPCの前でボタンを押すだけで映るコンテンツとしてのアニメの前には、上述のような企画制作へと至るプロセスがあり、当該プロセスの中には各々異なる利害を持った声が入り込むことで絶えず"綱引き"が生じていることが目に明らかだ】としても、その"綱引き"が常態化することを前提とした「政治的正しさ」や「商業的な無難さ」「権利保護を前提とした保守性や比較考量」などといった「正しい」奔流に抵抗することには、非常な困難が伴う。否、「正しさ」をめぐる闘争すらそこでは引き起こされることがなくただ流されてしまうこと自体が、アニメ評論の困難と言えるかもしれない。

このように、一見したところのアニメの地理的、世代的、娯楽的な広がりとともに、アニメの「正しい」自己抑制や陳腐化が同時に進行しているとするならば、まずは、その拡大と縮小のプロセスや先鋭化と保守化の鬩ぎ合いを表裏一体のものとして分析する必要がある。その分析は、最前線の橋頭堡に立つアニメ関係者へのささやかな援護を期したものでしかないが、アニメを作る環境(兵站)改善の役割をこちら側が法的・経済的・政治的に引き受ける基礎をなすものではありうることと考え、第一の趣旨を掲げた次第である。

そこでは(昭和落語との心中を語る『昭和元禄落語心中』ではないが)、文化や資本との応酬や協働関係をそもそものはじめから抱えつつ、取り込み、延命を果たしてきた大衆芸能の存立条件をも、この特集を機に詳らかにしていきたいと考えている。(世代を超えたバトンの渡し方があまりにも巧すぎた『スペース☆ダンディ』を雛形とするのは、あまりにも他の作品にとっては課題な要求かもしれないけれど、当該作品はその傑出した例である。)

・・・

いずれにせよ、視聴者が見ているアニメは、(視聴者主観から言えば)当世的な支持を受けた膨大なコンテンツの一つであるとともに、(環境側から言えば)様々なプロセスを通過する中で「厳正な」選別を受けた類稀なる制作物でもある。

【「作画崩壊」や「紙芝居」といった外野からの野暮な揶揄でも、反対に製作会社に過度に寄り添った諦念的受け入れや無条件の支援でもない形で、アニメ制作環境の多様性確保を達成する方法を考察することはできないか?】 この問いと共に、商業・流通・技術・文化といったコードの制限を掻い潜って作り上げられたアニメから遡って、制作へと至る資本・文化・技術(art)に関する諸条件を分節化する(articulation)とともに再構成することを、「アニメ化する資本・文化・技術」パートでは練り上げていきたいと考えている。

 

(2)資本の模倣芸術(Economimesis)の先鋭化

[2] 第二の点について。

さて同「アニメ化する資本・文化・技術」に関する第二の指摘は、上記のようなアニメ化を作るための諸基底とを前提としつつも「その諸基底自体がアニメという現象を再帰的に反復(構成)しているのではないか?」という仮説から出発している。

この仮説は、製作側の視聴者に対する「媚び」問題や原作モノを用いたメディアミックスの蛸足化、もはや通俗化したと言ってよいだろう意図的な聖地化(萌えおこし化)といった例に現れるような、視聴者の視線を先取りする(その共軛関係が『神々の歩法』さながらに阿吽の呼吸によるものなのか、ズレたリズムを含み持つものなのかはここでは問わない)製作と視聴者の共同作業に関わるものである。

あるいは、『少女たちは荒野をめざす』『SHIROBAKO』『ハケンアニメ!』(あるいは古くは『アニメーション制作進行くろみちゃん』『アニメがお仕事!』)のような視聴者の制作プロセスへの興味関心を背景とした自己言及・コンテンツ化にも、密接に関わるものである。

ここで『コングレス未来学会議』の「でもここから先はアニメーションしか入れません」というセリフを思い出しても良いかもしれない。同作の世界は、資本(Capital)と幸福の行き着く先にある、リアルに生きることとアニメの世界を生きることがほぼ等価になったディストピア的世界である。そこで主人公は、未来を変える大文字の(Capital)会議(Congress)への参加条件として、自分を生身の人間側ではなくアニメ的な意匠を纏うよう義務付けられる。アニメの意匠に自身を変じさせない限りは人間が人間のままで未来の門をくぐることは許されない(しかし勿論、外的な強制はされないというこの場面はアニメ化するための基底自体が資本・文化・技術環境に流されるがままに戯画化=アニメ化していくプロセスを同時に示している点で、本誌にとって非常に示唆的である。

ここでは、アニメ制作自体がアニメ的であろうとする戯画的な現象一般を問おうとしている。技術環境を背景として、(実際にはスケジュール上ほぼ不可能ではあるのだが)視聴者と制作との間のリアルタイムな応酬が辛うじて可能にみえるばかりに、視聴者の世界的な広がりや慣れといった条件にアニメ制作側(資本、文化、技術)が過度に拘束されているようにみえる点も、その一端として理解できるだろう。

・・・
繰り返しになるが、〈資本〉といった時には上記のアニメ製作資金のみではなく声優のアイドル化(アニメ雑誌へのインタビュー記事の多さはその一例であるだろう)やアニメーター育成といった人的資本、アニメに付随する政治的・経済的・社会関係的な文化資本、そして『コングレス未来学会議』が戯画的な形で示したような視聴者自身の物理的な身体反応そのもの(=快楽の活用)もまた、アニメというメディアの一部をも含むものとして把握できるだろう。
あるいは、〈文化〉といった時にも、大衆文化それ自体であるのみならず、大衆文化への再焦点化(『昭和元禄落語心中』や『じょしらく』)であったり、アニメ製作における社内文化、アニメ視聴自体の(良き/悪しき)教養化をも含みうる。最後に〈技術〉もまた、アニメ制作における作画、撮影、効果といった各テクネーを分節化しつつも、視聴者に現象するアニメの技法一般(art)をも含むものである。
この点では、既刊vol.3.0のタイトルにある人工物(artifact)の問いや、お約束を含む芸(art)、そして芸自体が時代を通じて新陳代謝し、持続するための条件についての問いをも射程に含んでいる。『フリクリ』のように、とは言わないが、視聴者の反応を先取りするのでも拒否するのでもなく極限まで先鋭化した作品を生み出すようなアニメの緊張関係を析出することが、第二の趣旨の課題である。


第2、特集2:作画、ギャグ、不条理

以上を踏まえて、第二部では「作画、ギャグ、不条理」という括りを用いて、幾つかのアニメ作品を横断的に論じていきたいと考えている。
ともすればアニメ評論誌においては、単に多岐にわたる物語を要約したり、そこに一つの筋をつけるだけに終わってしまう評論も多々見受けられる。このような評論に対する自己批判も兼ねて、本誌では筋からの逸脱と取り込みの運動を内部に組み込む「ギャグ」に焦点を当てることとした。加えて、ともすればアニメーター追跡自体が目的になっているかに見える作画についての分析を評論の文脈と接続する必要から、作画アニメと呼ばれるジャンルとギャグアニメ(特に不条理ギャグアニメ)を同時並行で論じてみてはどうかと考えた。
ここでは多くは論じられないが、『おそ松さん』の商業的成功をやはり無視することはできないし、近時の『このすば!』を筆頭として異世界転生というジャンルが長い時間をかけて形成され、現在に花開いている事態もまた軽視することはできないと考えている。
特集1の「アニメ化する資本・文化・技術」の深堀りを期して、幅広い作品を放り込める特集2の作品群を縦横に論じていただきたいと、編集側としては考えている。

 

 


以上