書肆短評

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自由意志論についての公聴会

A先生の公聴会に行ってきました。自由意志論と様相の形而上学が主題となる博論の講評会でした。 

非常に心踊るというか興味惹かれる内容だったのですが、おそらくは2016年中に単著としての公刊が予想されるところでもあり、細かな論点への指摘は控え、ざっと概要をまとめた図だけ載せておきたいと思います。

 

私事で恐縮ですが、思い出すのは今北さん(@facebookersjp )とのやり取りをさせていただいた2014年夏あたりのこと。そこでは、結果的にA先生の博論(全体で第4章)の第3章となった日本哲学会@北大での報告について、事前にスリリングなやり取りをさせていただいておりました。

またいつかこの単著を機に検討を加えていきたいところです。   

 

1、アマルガムとしての自由(※赤字部・灰色字部など一部追記)

 

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 (引用)

我々が「自由」と呼ぶものは、各頂点から提供された諸成分のアマルガムであり、逆に言えば、ある単一の頂点のみから捉えられるものではない。ここに「自由」の豊潤さがある反面、不安定な合金としてのもろさがある。というのも、各人称の純粋な中立点に我々が立つことはできず、それゆえ、我々は随時この三角形内のどこか一点を、その時々に応じた一点を、「自由」として取り出す他ないからだ(自由とは何かという問いに対し、衆目の一致する回答がないのはそのためだろう)。

第4章における自由意志の議論は、〈不可視〉の他我を源泉としている。求められたのは、様相の時間分岐における諸可能性選択の〈起点〉であり、そしてその起点の時間的な不可視性だ。分岐問題における起点の時間的定位の困難が、私自身の決断の場合のようにあからさまであはないこと、それゆえに生じた「偶然と必然の中間地帯」に、錯覚であっても、行為主体を置く余地があること、ここに自由の他者性がある。「非存在が不可視であることはもちろん、存在が可視であることとはまったく違う。にもかかわらず、我々はこの非論理的な置き換えを生きているのではないか。

他方、三人称的観点において、「偶然と必然の中間地帯」は消える。分岐問題への応答は、偶然と必然のいずれかに帰着し、より正確に言えば、一回ごとの生成における「要因のなさ」としての偶然か、様相の時間単線性を認める決定論のいずれかに帰着する。第1章第6節で見る通り、因果的決定論は(広義の)「単線的決定論」の一部であるが、単線上の決定性が三人称的な具体的知見(行為の説明や予期にまつわる)として与えられる際には、因果的知見の形をとる。こうして、三角形の右下の項点からは、〈偶然〉と〈必然〉が提供される。

三人称的観点から因果的に解される時間単線性は、一人称的観点からは〈理由)と行為との一貫性として解される。すなわち、単線性の説明項が、物理的「原因」から心理的「理由」へと求められていく。したいことを妨げられずyにすることは、〈可視〉的な意図・欲求・計画などからそれらに応じた行為実現への接続によって果たされるが、そこでは諸可能性の選択ではなく、単線的歴史が合理性を持った物語となっていることが肝要である。「この描像下での意思決定とは、私的な予言のようなものだ。現在の状況から過去の状況を言い当てることが不思議でないように、現在の状況から未来の状況を言い当てることも不思議ではない。とりわけ、自分がこれから何をするかについては、現在の身体状態や意識状態を私的な情報源とすることで、高精度の「予言」が可能だろう。

身体運動の感覚や、記憶や予期、そして効用や価値についての合理性を伴った様々な内語。こうした一人称的体験は、個々を見ればどれも平凡であり、自由の中核を担うものとは言えない。それらはせいぜい、「私」の自由感を支えるものに映る。しかし、こうした平凡な要素があってこそ、他我の不可視性はその価値を増す。他者の見えない内面にもこの種の自由感が生じているのでなければ(そのようなものとして、私が他者を「私」化するのでなければ)自由な他者の承認は、過度の抽象化の負荷をかけられるからだ。私を叩いた他者への態度は、その他者の内面に何を読み込むかによって、主体に向かうものにもなるし、客体に向かうものにもなる。

先ほどの図に記された円は、三角形の内部におけるアマルガムとしての自由の「現れ」である。二つの点を差し当り述べておく必要があるだろう。それぞれの縁の置かれた位置は、「現れ」の主要な源泉の位置であり、しかしながら、その「現れ」の影響は三角形内の他の位置にも及ぶ。また「不自由」はむ自由とは異なり、何らかの自由の否定であって、それは自由の類縁として理解されるべきものである(だからこそ「不自由」は三角形の中にあり、無自由はそうではありえない)。

図において「両立的自由」が一人称の側により、「自由意志」が二人称の側に寄っている点は、意外に思われるかもしれない。だが、本校の議論が妥当であれば、二人称化された両立的自由と一人称化された自由意志は、二つの源泉がお互いに影響を受けあったのちの産物である。他者は「私」化されることで可視的な〈理由〉形成を伴う両立的自由の主体とみなされ、「私」は他者化されることで、不可視な〈起点〉性を伴う自由意志の主体とみなされる。ここで興味深いのは、他者の「私」化においては時間の単線性が、「私」の他者化においては時間の分岐性が、間接的影響を及ぼしていることだ。

三人称の側にある「不自由」は二重の意味合いを持っている。つまり〈理由〉と〈原因〉の均衡としての不自由と、〈起点〉と〈偶然〉の均衡としての不自由である。三角形の右斜辺と底辺におけるこれらの均衡を無視するなら、単線性も分岐性もそれ自体としては「不」自由ではない。すなわち、不自由は、両立的自由か自由意志を脅かすものとなった時、真に「不自由」と呼ばれるに価する。そしてまた、両立的自由と自由意志の側も、三人称の側から脅かされることによって、つまり不自由の再否定として、「自由」の呼称を堅固なものとしていく。時間が様相的分岐を含むのか否か、つまり偶然が実在するか否かが未解決な謎である以上、右斜辺と底辺の対立が消えることはない。

(引用、了)

 

 

2、アマルガムとしての自由(公聴会後の検討ver.)

 

ここからの検討余地として、無自由と不自由の融和、無自由と一人称の融和、無自由と二人称の融和が考えうる。

前二つについては入不二先生から示唆を得られた。ただし、最後の「二人称」と無自由の融和についても、同様に「差異がつぶれる」地点を観念することはできるだろう。以下はその図となる。

 

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