読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

文フリ振り返り(1):ヒグチさんの『多重要塞 第四号』「日常系とは何か」 #bunfree

思えば文フリも昨年の秋で、もはや二ヶ月前。その後も冬コミだなんだと色々あって、どうにもまとめられていなかったので、ぼちぼち読み返している次第です。

今回はヒグチさんの『多重要塞 第四号』掲載「日常系とは何か〜死者の目・生を相対化するまなざし〜」を読み直しましたので、以下その感想。

 

・雑感

まずヒグチさんの文は(最新の「日常系とは何か」も、アニクリに寄稿いただいた『SHIROBAKO』論「キャラクターの生まれる渚」もそうですが)いずれも問題設定がクリアで読者を迷わせるところがなく、かつ、次ページをめくらせる動因を与える躍動感がとても好みです。クリアと言っても作品の要素をそぎ落としてるわけではなくて、作品のどこに着目してるのかが読者の手に取れるような感じで、動線がはっきりしているといったほうがいいかも。

 

・例示:『ほしのこえ

ということで「日常系とは何か」に戻って。

そこでは、日常系の系譜を1930年代の戯曲『わが町』や映画『ロープ』から現代の漫画・アニメまでをつなぎ合わせた上で、「死者の目線」という一つのテーマに引きつけて論じています。特に新海誠ほしのこえ』のところへの接続と言語化が非常に巧みだと感じました。以下はそこに主眼を当てて取りまとめさせていただきます。

おさらいですが、『ほしのこえ』では、同級生のノボルとミカコは異生命体との交戦の中、(半ば自らの意思で、半ばはそうではなく)宇宙と地上とに引き裂かれます。彼らは恋人というわけではないのですが、互いがともに過ごした時間を懐かしみつつ、互いにメールを送りあいます(途中から途絶)。末尾の場面ではミカコからのメールが銀河間をまたぐことで8年という時差を伴って、さらにはノイズで部分的なものに留まりつつも、未来のノボルの下に届きます。

これを受けてのモノローグの場面が、本作において傑出した箇所です。彼らは、互いの時間や場所は遠く隔たりつつも、彼らは同じ言葉で同じ「ここ」という場所を指し示します。いつかの、そして遠くどこかの〈彼方〉に隔たった彼らのモノローグが「ここ」という言葉において重なり合う。互いに独立でありながら「同じ言葉」で重ねられていくそのモノローグは、以下のような形で進行していきます。

 

---(引用)

ノボル「ミカコからのメールは2行だけで 後はノイズだけだった。でも、これだけでも……奇跡みたいなものだと思う」
ノボル「ねえミカコ、俺はね」
ミカコ「私はね、ノボルくん。懐かしいものがたくさんあるんだ。ここにはなにもないんだもん。例えばね」
ノボル「例えば、夏の雲とか、冷たい雨とか、秋の風の匂いとか」
ミカコ「傘に当たる雨の音とか、春の土の柔らかさとか、夜中のコンビニの安心する感じとか」
ノボル「それからね、放課後のひんやりとした空気とか」
ミカコ「黒板消しの匂いとか」
ノボル「夜中のトラックの遠い音とか」
ミカコ「夕立のアスファルトの匂いとか…。ノボルくん、そういうものをね、私はずっと」
ノボル「ぼくはずっと、ミカコと一緒に感じていたいって思っていたよ」

---(引用了)

彼らのモノローグは重なりこそすれ、決して互いに交わること(ダイアローグになること)はありません。それは、時差が示す通りに同じ時に発せられたものではないからです。そして、同じ場所としての「ここ」で発されたものでもありません。それは片や銀河の彼方のアガルタに飛んだものの「ここ」であり、片や日本の片隅に遺されたものの「ここ」であるためです。言い換えれば、片や15歳という現在にとどまり続けるミカコの「いま」であり、片や24歳という未来において過去の亡霊のようなミカコのメールを受け取るノボルの「いま」であるためです。
しかし、彼らは15歳という時間から互いに取り残されつつも、彼らは「いま」「ここ」にいると言葉を重ねることができます。それは、ノイズや距離という瑕疵があるからこそ見える、どこでもない「いま」と「ここ」のことを指すはずです。単なる郷愁に還元されることのない、かつて過ごしたかさえ定かではない「いま」を、ミカコとノボルは「いま」と名指すからです。

 

---(引用)

ミカコ「ねえ、ノボルくん?わたしたちは遠く遠く、すごくすごーく遠く離れているけど」
ノボル「でも想いが、時間や距離を越える事だって、あるかもしれない」
ミカコ「ノボルくんはそういうふうに思ったことはない?」
ノボル「もし、一瞬でもそういうことがあるなら、ぼくは何を想うだろう。ミカコは、何を想うだろう」
ミカコ「ね?私たちの想うことはきっとひとつ」
ミカコ「ねえ、ノボルくん?」
ミカコ「わたしはここにいるよ。」
ノボル「    ここにいるよ。」

---(引用了)

ヒグチさんの論考は、『ほしのこえ』のこの語りを「現在だけが連続的に積み重なったような立体的な感覚」「死者/宇宙人/未来人的な、時間と空間を「いま」と「ここ」の連続体として感覚するような視点への到達」として、日常系を先取りする視点として取り出します。その要点は、生者が見た出来事の先後や重み付けを持った臨場的な視点から遠のく「死者の目線」です。この主題は、後の『GJ部』『けいおん!』といった日常系において発展させられ、出来事(イベント)の濃淡を持たない無名的で相対化された視点であり、かつ、終わりが定まった期間を振り返ることが最初から内在化された視点として結実する、と変じていくことになる。このようにヒグチさんの論は進んでいきます(※詳細は『GJ部』以降のアニメ作品分析のところを参照)。

やや拙速かもですが、「日常系作品が(視聴者というよりも)キャラクターが見ている過ぎ去った過去としての風景として見られる時、初めて切れ目のない長回しや他愛もない風景描写に寄る画面の意味が明らかになる」、このようにヒグチさんの論を要約できるかもしれません。あるいは視聴者側に寄せて言えば、決して経験としては触れることのできない音と映像の「私的」な重なり(キャラクターに見られることで現前する空間)に、臨死的な視聴とともに接近することは許されている、とも。

蛇足ですが、ある意味では、このヒグチさんの主題はまさに『ほしのこえ』(ノベライズ版)において、過ぎ去ったものとして呼び起こされる冒頭の場面を思い起こすことでこそ明らかになるかもしれません。そこでは電車に乗ったミカコが次のように独白していたからです。「私は電車に乗っていた。乗客席と運転席を隔てる壁にもたれて、後ろ向きに立って、すごいスピードで流れ去っていく景色を自動ドアのガラス越しに眺めていた。でも本当はすごいスピードで流れ去っているのは景色ではなく、電車に乗った私の方だ。そう思った瞬間、なんだか追い立てられたような慌てたような気分になって、無意識に携帯電話を取り出していた」。ここには、まさに生者が死者になる経過をふと思い起こしてしまう瞬間と、その瞬間をつなぎとめるガジェット(メディア)としての携帯電話が現れています。実際には「サービスエリア外です」というよく見知った文字列とともに、ミカコはその瞬間をつなぎとめることはできませんが、これもまた遍在化した「死者の目」の先取りのように思えた次第です。

以上に加え、ヒグチさんの論考がさらに読ませるものになっているのは、このような作品の取り出しにとどまらず、表現論として上記の「死者の目線」を取り出すところに眼目があるものと思います。上記のような視点が、カットの長回し(あえて切り出すべき出来事を持たせないカット)や、出来事としてわざわざ取り出すにはあまりにも瑣末な事物への「寄り」であったりする描写の切り出しにも表れていることをヒグチさんは追っていきますが、この点も、日常系が概して社会状況的な論じられ方やストーリー的な特徴とともに語られるのとは異なり、作品内在的な丁寧な論考に仕上がっていると思いました。

 

※ 2016/1/22追記(1):この記事について、たかひろさん(@kenkyukan)から「(一つの筋としてはありうるものの)セカイ系と日常系のつながりを前提とする論の運びはどうか?」という趣旨の疑問をいただきました。本来一読者にすぎない私がヒグチさんを代弁できるわけではないのですが、せめてもと思い、読み取った限りで若干の情報追加とさせていただきます。

冒頭で述べたように、ヒグチさんの論のうち『ほしのこえ』に議論を集中させたのは私であり、ヒグチさんの論として「セカイ系から日常系へ」というスローガンがたてられているというわけではありません(この点、やや絞りすぎた抜粋のために議論の混乱を招いてしまい、大変申し訳ありません)。ヒグチさんの論は戯曲・映画・漫画・アニメにまたがる共通項として「死者の目」というキーワードを設定し、そこから遡る形で「あたかも『ほしのこえ』が日常系作品として読めるとすればどのような形でか?」という筋が採用されているものと思います(p.39上段を参照)。

たかひろさんからは、「(『ほしのこえ』を起源として日常系の系譜を見るとすれば)アフターストーリーorアナザーストーリーの形が考えられる」というご提案をいただいており、これ自体は一つの見方として至極もっともと思うところであります。一方で、おそらくヒグチさんの記述の趣旨としては、日常系の系譜は(いわゆる「中間項=社会の不在」というセカイ系作品の規定にとらわれず、)価値相対的・無時間的・人間外的といったいわば「人間(生者)の不在」というより一般的で包括的なジャンルとして捉えられているように読み取った次第です。そして、ヒグチさんの文章で(そして私のまとめで)、『ほしのこえ』を「セカイ系」として名指していない理由はおそらくそこにあるものと思います。

では、このようなたかひろさんとヒグチさんの両立する妥当な二つの見方の間でどのような違いが生じるでしょうか。①たかひろさんの「アフターストーリーorアナザーストーリー」という見方をとる場合には、あくまでも作品外的で二次創作的な付け足しとして日常系が付加されることになります。これに対して、②ヒグチさんの場合には、不在の者(死者)の目線がもともとの作品に内在した形で提示されていることになります。つまり、「作品外」というファクターを、①まさに新たな創作として作品外で追加するのか、それとも、②既に作品内に折りたたまれたものとして提示するのか、という作品の位置付けの違いとして、二つの見方の違いは現れるように思います。

実際、ヒグチさんの論の『GJ部』『ゆゆ式』『けいおん!』分析においては、既に日常パートそれ自体において既に懐古的な儚さや淡い憧憬が画面に入り込んできており、それゆえにこそ何気ない日常の瞬間瞬間の輝きが際立つ、という分析がなされています。日常系の風景は(視聴者というより)キャラクターによって見られた、一度たりとも現前はしたことはなく、そしてもはや遠く離れてしまった「いま」「ここ」として、言い換えれば「仮想的に死ぬ」刹那にわずかに触れることが叶うかもしれないようなものとして、その離接感と共に提示されているものと、私の方では読み取っている次第です。

完全な蛇足でしたが、2016/1/22追記(1)は以上です。

※ 2016/1/22追記(2):この記事について 、さらに橡の花さん(@totinohana)からもう一つ鋭い球が来てましたが、今しばらく少し保留とさせてください。(私の無知と勘の悪さゆえに、「過去」のobject(化)のどこに着眼したものか正確に把握できていないためです。デカルト以前/以後における「主観/客観」概念の転換のことかしら? そうじゃなくてカントの超越論性とか物自体とかのアレ? いやはたまたセールとかこの頃のSR系の議論とか? などなど色々迷ってしまって結果わからずという次第。もしよろしければ、橡の花さん、ヒントをいただけましたら幸いです。)

 

・終わりに

思い出せば、ヒグチさんが寄稿してくださったアニクリ3.0での特集(2)「アニメにおける〈音〉」における『SHIROBAKO』論も、映像・音響演出を介して視聴者とキャラクターの隔たりを肥えさせるような表現手法に着目していたわけで、なるほど日常系としてまとめるとこう言う風になるのかと膝を打っていた次第です。また、今思い返せば、この日常系論は同vol.3.0の特集(1)「蟲・生物・人工物」や同2.0での特集「〈彼方〉の思考」とも響き合うものだし、さらには同4.0での特集における史観・慰霊の問題にも通じるところがあるものと考えておる次第です。

次号『アニクリvol.1.0』では「時間(歴史/世代)」をサブテーマに岡田麿里作品の2012−2016まとめを行う予定ですし、『アニメクリティークvol.5.0』では【(原作)アニメ化】のプロセスから作品を見てみてはどうかという意見をいただいており(SpANK888さん感謝です!)、積み残してきた「日常・萌え・不条理ギャグ」をテーマ案として立てることを検討していることもあって、編集側としてもぐっとくるものがあった良論考でした。

※そういえば昨年の作品で言えば、『がっこうぐらし!』をヒグチさんがどう見たのかとかは、また機会を設けて伺いたい所存です。

 

短いですが、良評論を読ませていただき、大変ありがとうございました。

次回は未定ですが、『Life is like a Melody ―麻枝准トリビュート - 死んだセカイ戦線』雑感を予定。