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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

アニメクリティーク vol.1.5_β「心が叫びたがってるんだ。」の事後諸々 ♯anime_critique ♯ここさけ

冬コミでは新刊vol.1.5_β ここさけ特集号は、ほぼ完売となりました。お手に取っていただいた皆様には大変お世話になりました。どうぞ忌憚のないご意見、どうぞ宜しくお願い致します。

「入手できなかったよ!」という方については、COMIC ZIN様のアニメクリティークページにて通信販売をやっていただいております。移転した秋葉原の店頭または新宿の店頭にもあるかもしれませんので、こちらでもどうぞよろしくお願い致します。

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さて今日の話は、wakさんこと 超成瀬順を性的な視線で見る奴バスターズさん にご寄稿いただいた内容紹介と、事後のつぶやきについてです。

(「超成瀬順を性的な視線で見る奴バスターズ」という文字列は非常に共感する名前ではあるのですが、以下では諸々の便宜のため「wakさん」に統一させてください。)

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1、アニメクリティーク vol.1.5_βのwakさんの評論について

 

wakさんにご寄稿いただいた評論は、本人がおそらく20回ほどの劇場での鑑賞を経て書かれたものであることを如実に示すような、丁寧かつ作品への(あるいは成瀬順への)愛情に溢れた評論となっています。全体は三部構成となっており、構成は以下のとおりとなっております。

 [ wak評論 構成 ]

 ・1、はじめに
 ・2、ミュージカルを作り上げるまで
 ・3、ミュージカルの先へ
  (1)逆転1 虚構から現実への反映
  (2)逆転2 罵倒する側にまわる成瀬順
  (3)虚構と現実、二つの和解

 

冒頭「1、はじめに」では、総特集号の巻頭にふさわしく、本作を見開き1頁で的確に要約いただいています。その上で、同評論の関心が「成瀬順の幻想が反映されたミュージカルと、ミュージカルの筋書きが反映された地域ふれあい交流会当日の展開」にあることが確認されています。

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察しのよい読者であればここで気づくように、次の「2、ミュージカルを作り上げるまで」では、言葉を失った少女・成瀬順の過去・妄想・願望がいかにミュージカルへと反映されていったのかという過程が、丁寧に追われていきます。第一幕から第五までは喋れなくなった成瀬順ができあがるまでの過去(や現在まで続く成瀬順の"覗き癖"のような傾向性など)を示しているものとして整理され、第六から第七前半までが現在まさに進行中の「みんな」でミュージカルを作り上げるリアルタイム過程が反映されたものとして整理されています。

この突合せは、まさにストーリーを書いている成瀬順目線から見たものとしてはまさにそのとおりであると思います。というのも、成瀬順が家から飛び出し、バスの中で「私の言葉を歌にしてください」というメールとともに坂上に送ったミュージカルのストーリーは、まさに第一幕から第五幕までの尻切れトンボのものであったからです。クラスで初めてまともに口をきいてくれて「歌なら気持ちが伝わるんじゃ」という言葉をくれた「王子」・坂上にならば、自らの過去を一緒にミュージカルにしてくれるように頼むことができるし、言葉を歌に乗せることのできる 「すごい坂上くん」=「王子」の助けを借りることができれば「玉子」の呪いを解くことができるかもしれない。そう、成瀬順は考えたはずです。

実際このことを示すかのように、上記箇所までの段階では未了であった第六幕以降は「この先はまだ…」との言葉どおり、その後の坂上の曲当てや田崎・周囲のみんなとの交流・和解の中で作り上げていったものとして書き足されていきます。第六幕〜第七幕前半までは、まさに現実の「みんな」とのミュージカル創作の中で、同時並行で作り上げられていったものなのです。

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以上のことを確認した上で、「3、ミュージカルの先」では、そのような流れがことごとく逆転させられる様子が緻密に追われていきます。最初の(1)虚構から現実への反転 では、現実を成瀬順の願望によって色付けるかのようにミュージカルを作り上げてきたストーリー(成瀬順の願望>現実)が逆転し、ミュージカルのストーリーを坂上がトレースするかのように秩父市内を奔走する筋(現実>成瀬順の願望)へと転換されます。これは、前日の「俺は別に成瀬のこと、そんな風に思ってない」との言葉を盗み聞きしてしまったことを契機として、「王子」・坂上に対する願望どおりのストーリーが頓挫してしまったことで、その現実をミュージカルによって塗り替えることができなくなったためであると考えられます。

この箇所でwakさんが「「夢見がちな引きこもり体質の少女がクラスメイトと頑張ってミュージカルを演じきることで自分の殻を破って成長する」というテーマなら、クラスのみんなで『青春の向う脛』を無事に上演すれば目的を果たせるはずです。でも、そうならなかったのは何故か?」という問題提起をしているのはまさに蒙を開かれる感じがしました。wakさんの整理を敷衍すれば、成瀬順が自分の気持ちを伝えたい相手は「王子」・坂上なのだけれど、ミュージカルを介して気持ちを伝える相手は「みんな」に拡大しているというギャップのために、成瀬順は「王子(偽)」・坂上との何らかの折り合いをつけることなしにはミュージカルに戻れない、というジレンマに遅まきながらも直面せざるを得なくなった、という風にパラフレーズできるかもしれません。

次の(2)罵倒する側にまわる成瀬順 では、全てを放り出したことで「みんな」から罵倒されるはずだった成瀬順が、やや唐突ながら罵倒する側にまわったことの意味が検討されることになります。その直前で成瀬順は、第三幕に重ねる形で「みんな燃えちゃえばいい!!」と叫んでいました。その劇と現実のシンクロニティは、第一には「みんな」の舞台が燃えちゃえばいい(それによって私を罪人にしてくれ!)という含みをもつとともに、第二には坂上も「私の王子様」ではなく「みんな」の一員にすぎないという糾弾の意味をもあわせもつものと思われます。

wakさんは罵倒シーンについて、「少女の精神世界の廃墟の中で、好きな相手と二人だけになり、本当の言葉を相手にぶつける…私にはこれが根源的なコミュニケーションを描いているように感じ、成瀬順の罵倒を受けてとても昂揚してしまいました」と書かれています。この記述は、罵倒シーンを介するまでは「王子(偽)」・坂上を遠ざける趣旨であったことを示す点に眼目があるものと思われます。成瀬順は罵倒シーン前においては、理想の「王子様」に適合するかしないかを判断できる特権的な地位を手放しておらず、罵倒シーンによって理想の「王子様」という理想自体に別れを告げるに至るという流れが、上記の簡潔な一文には込められているのではないかと読み取った次第です。その後、成瀬順がミュージカルに復帰した後でも、「少女」という「王子」と対になる存在ではなくその裏にある「心の声」役として、「少女」の影でなく別の姿をとって現れる理由は、ここに求められるでしょう。

最後に(3)虚構と現実、二つの和解 では、「少女」の役割を脱した成瀬順が「心の声」としてミュージカルに復帰することと、母親らを含む「みんな」と坂上、二者との新たな和解が虚構と現実の双方で達成されたことで、彼女の『青春の向う脛』が本当の終わりを迎えたことが確認されます。現実の反映である虚構、虚構の反映である現実、それらを超え出る和解の契機を経ることで、幼少期の終わりと青春の痛みを抱えつつも「思ったより綺麗」な世界へと飛翔する。そのような希望を描き切った物語として、また劇中劇と作品とが呼応し合う稀有な作品として、本作があったと総括されることになります。

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と、このようにwakさんの議論は作品内容と作品構造に定位しつつ場面転換を丁寧に追い、wakさん自身が心揺さぶられた箇所を深堀りすることで作品の核を見出すという、読者にその情熱を伝播する良随筆になっています。編集の私にとって残った若干の疑問としては、その議論で引用されなかった場面・幕があるということに関わっています。その引用されなかった場面とは、第七幕の後半から最終幕にかけての箇所です。引用すると、「その時、少女の目から涙がこぼれ落ちました。少女の涙は大地に沁み渡り、それが芽吹き、花が咲き、鳥が飛んできて、少女の閉じ込めていた想いを、花や鳥たちが代わりに歌います。心を叫んでごらん、こわがらずに大きな声で、あなただけの言葉が、この世界を輝かせるよ。少女の本当の気持ちを知った人々は少女の罪を許しました。そして世界が少女に向かって歌い出したのです」。

この箇所は非常に重要に思えましたので、アニメクリティークvol.1.5_βの目次ページにあえて引用しておきました。また第七幕の後半を形作ることになったエピソードもまた、裏表紙に引用することで補足とさせていただきました。上記のエピソードは、「王子」・坂上の両親の離別の悲しみ(忘失)を前にした成瀬順が「少女は王子に、どんな言葉をあげられる?」と自問するとともに、悲劇をハッピーエンドに変更することを提案した箇所です。

この箇所は場面的には離れた罵倒シーンにも、かなりクリティカルに関わっています。成瀬順というのは自罰感情に駆られるその性格ゆえに、自分をミュージカルという上辺に寄せることでしか自分を表現できなかった存在です。そんな成瀬順は、坂上の両親との確執を垣間見たことで、ある種短絡的に、「王子」がくれたような優しい言葉を返してあげれば「王子」も救われるんじゃないか、と短絡的に思ったのではないかと思われるためです。

上記のような成瀬順の気持ちが間違っているというわけではありません。そういう「優しい」言葉というのが成瀬をかつて救ってくれた「王子」の言葉でもあるからです。しかし「優しい」だけの言葉は「卑怯者」のセリフに他ならず、「思わせぶり」な言葉は「いいかっこしい」の現れかもしれない。それらをただ与える坂上を、成瀬順はのちの罵倒シーンで糾弾していました。翻って、その罵倒の言葉は、まさに、成瀬順が変えようとしたハッピーエンドのご都合主義的ストーリーそのものへもブーメランとして返ってくるはずです。ただ「優しい」だけの思いというのは、人を傷つける「一番タチの悪い!」ものでしかない。そのことを、罵倒シーンは、成瀬の口を介して、成瀬自身と坂上とに、ともに言い聞かせるものであったと言えるのではないでしょうか。この点で、上記の第七幕の後半という新たに付け加えられたエピソードは示しています。

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実際に、そのような「少女」・成瀬順の決断は坂上の介入によって、活かされるとともに別のものに変化しています。坂上が提案したクロスメロディ(悲愴+Over The Rainbow)によって、悲愴でも喜びでもないそれらが混ざり合った別の気持ちとして、そのような成瀬に内在した二つの気持ちが双方ともに息吹を取り戻すことになります。このことのもたらす意味に気づくのは、成瀬も坂上もともに、罵倒シーンを介してではありますが。いずれ、安直な「優しいふりして卑怯者」の言葉を捨てるのは、成瀬も坂上も同時であり、それは、このクロスメロディの場面に潜在しているように思います。

このように考えていくと、わざわざ成瀬順の物語を二重化したクロスメロディの二声というのは、単純に妄想・願望であるところの「少女」「王子」「玉子」を棄てさせるためだけにあるわけではありません。おそらくは、成瀬順に「心の声」を捨てることなく「玉子は私」という言葉を与える重要な役割を持っていたはずです。それをミュージカルの奇跡と呼んでも良いかもしれません。既定の「少女」から離脱した一人の裸の個人としてだけではなく、ミュージカルは成瀬順に「心の声」の役割を与えることができますし、坂上の前において自らに溜め込んだ言葉を解き放つ「玉子」の役割を背負うこともできます。そこで成瀬順は、妄想の「少女」「王子」「玉子」から脱して、心の声と玉子を携えて誰か(本作では仁藤ですが)に「王子」を届けるものとして現れます。

罵倒をするというのは、自分にとっても相手にとっても厳しいものではあります。しかし、自分への本心からの罵倒なしには、とりわけ自分を守るための自虐芸や自罰感情にとどまらない罵倒なしには、成瀬順は、自分も相手もまた理想的な「王子」ではなく、汚点を携えた「玉子」であることに気づくことはできなかったでしょう。「玉子は私」という言葉は、かつて自らが夢中になっていたピアノのために両親の離婚を引きおこしてしまったと感じた坂上に対して、成瀬順が罵倒する役割を引き受けたあの罵倒シーンの後ならば、「玉子はあなた」にも変換されているはずです(※ 2016/1/5 wakさんからの指摘を受けて下線部分を追記いたしました)。無垢な「少女」はありえませんが、言葉を溜め込み、外圧から自らを守る殻をなす「玉子」なしには、私もあなたもない。このことをうけいれるためには、相手の言葉に踏み込み、その本心からの言葉に耳を傾けるための殻を必要とする。そのことを示す場面として、罵倒シーンは際立った重要性をもっているのではないでしょうか。

またこのように考えていくと、冒頭の吊るし玉子の神様をめぐるおじいさんとの会話もまた、一風変わった様相をもって立ち現れてくるようにも思えます。その神様は「おしゃべりが大好き」なため、「いろんな言葉を詰める」ことで「御供えの代わり」となります。言葉をかけた人々は、その言葉でもって神様を喜ばせることができるものとされます。そんな荒唐無稽なお話に、当初の坂上は冷ややかな態度で 接していました。しかし、実際にその後、妙に縁のあるエッグマラカスを見たことをきっかけに成瀬順の心に届く玉子の歌を紡ぎだすことができました。玉子の妖精とは異なり、ここでの玉子というのは、単に自分の内部に引きこもるための心の殻というだけではありません。「ご利益」があるかどうかはわからないけれども、ひとまずその心の殻の中に染み入る言葉を携えつつ、自分の外側にある玉子に自分の願いをかけて捧げてやる。最後の成瀬順が至った地点も、一人で閉じこもっていた玉子というのを超えて、自分の外部にあるその玉子に言葉を捧げる、という振る舞いの連鎖へと入り込むことだったのかもしれません。(※ 2016/1/5 wakさんからの指摘からちょっと考えたことを、下線部分で追記いたしました)。

これが、wakさんの評論へと編集側として付け加えたい蛇足の言葉というか、やや遅れ目の質問となります。

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2、事後諸々:坂上の言う「みんな」とはなんだったのか?

(正月休みにかまけて若干切れ切れの空き時間ができたことを理由に散々長々と書いてしまいましたが、)このエントリは本当はここから先のことを検討したかったのでした。ここから先というのは、上記3の(2)罵倒する側にまわる成瀬順 の冒頭、「行こう成瀬、みんなが待ってる」という箇所です。ここでなぜ坂上は、自分を名指すことなく「みんな」という言葉を用いたのか、というところに関わっています。

wakさんの本誌の文章から引けば、「坂上が成瀬順を迎えにラブホテルの一室へ到着した際、彼は「みんなが待っていることを強調します。『青春の向う脛』は成瀬順の個人的な幻想を元にストーリーを作り上げたはずなのに、クラスメイト全員で作品として作り上げていく過程で、成瀬順の個人的な幻想ではなくなってしまい「みんな」のものとなってしまいます。」という箇所の周辺についてです。

実は私は、教室で成瀬を探す場面で「俺」という主語を使ったのは違和感がなくて、ラブホテルの時に「みんな」と言ったのもそこまで違和感を感じなかったので、wakさんの指摘を受けてハッとしたところでした(というのも、実は主語の話はキーワードコラムにも載せたり、vol.1.5_β 掲載の拙稿「見られたい心を見つけた玉子」2(2)にも載せたりしていたのですが、この場面は主語というテーマにおいては重要視していなかったのです。)。

この違和の箇所を見過ごしていた理由としては、(「行こう成瀬」という文は坂上+成瀬が主語だし、「みんなが待ってる」は理由上の機能しかもってないから、「みんな」にそこまでの協調を与えられているかなぁと一見すると思ったという瑣末な点はさておき、)以下のような感じかと述懐した次第です。

(a.)教室の場面:「みんな」との対峙

教室で坂上が「俺」といったのは、「みんな」の空気が成瀬悪玉論に傾斜していたところで、その裏切りを裏切りとして了解した上で、「みんな」の空気とは別の欲求(成瀬に舞台に立ってほしい)をもっているものとして、自分を立てる必要があったからだと思っていました。その意味では田崎に「お前はどうすんだ!」と詰め寄られた言葉に対して、坂上なりに大真面目に向き合ったんだなぁと。つまり「みんな」とは別の自らの心の声に、あの時の坂上は向き合ったとは言える。恋愛対象じゃなくても応援はできるわけで、(Febriかどこかで脚本・岡田麿里さんも言ってたように)むしろそういう非-恋愛的な応援の契機こそが非常に力強い助力になるとも思える次第ですし。

(b.)自転車での捜索中の場面:「みんな」と「俺」に引き裂かれる坂上

これに対して、ラブホテルに行く時、着いた時に、坂上がもっぱら気にしていたのは「成瀬にどんな言葉をかけてやればいいか」という問いだったと思う次第です。実際に、坂上は「みんな」からの電話を受けて、成瀬の母が会場に来ていることを知りますが、この電話の場面は「俺」という主語で出てきたことと引き裂かれている描写と言えます。成瀬の母が「周りの人にどう言われているか」を気にしている人であることを鑑みれば、ここでも「みんな」の問題が、「俺」という主語を使った坂上に刺さる言葉になっていると思いました。あくまでも成瀬がミュージカルに向き合っていたのは「みんなのため」のミュージカルと個人的な成瀬自身のためでもあるわけですから、目的としての「みんな」と個人は両立するようにも思えます。

(c.)ラブホテル冒頭の場面:「みんなのため」の「俺」

ではなぜ、ラブホテルで現に成瀬に対峙する段階で、坂上は「みんな」という言葉から始めたか。坂上の目的としては、あんなにミュージカルを介して言おうとしたことがあった成瀬の本当の言葉を聞きたいということもあるでしょうし、実際にミュージカルで言おうとしたことが「みんな」で幸せになるための限られたルートだったということもあるでしょう。それを軽率に「俺」といったのでは、それこそが坂上の本心に反することなんじゃないかなぁ、と思います。「俺」という主語を引き受けることはもちろん大事なのですが、それこそ幻想の「王子様くずれ」でしかない奴から本心の言葉を向けられたところで、あの段階の成瀬順には響かなかった可能性が高い。成瀬順の受け取り体制が未だ整っておらず「玉子がいなければ困る」云々と言っている以上は、目的としての「みんな」を出すとともに「(俺と一緒に)行こう」という言葉を向けたことはそこまで変ではないかなぁと思ったのでした。

以上をまとめると、(a.)で「みんな」に対抗するための「俺」を打ち立てる必要があり、(b.)で「みんな」と「俺」が引き裂かれつつも「みんなのため」の関係を明示した上で、(c.)ではその目的としては「みんなのため」のミュージカルあっての坂上として「一緒に戻ろう(理由:みんなが待ってる)」という言わねばならなかったのではないか、という感じでした。こう考えれば、「みんな」という語で主語を誤魔化すという面もあるとは思うのですが、まさに坂上は主語としての自分・「俺」が引き受けられる限界にある言葉を誠実に選んでいたのではないかとも思えた次第です。

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これに対して、wakさんの見解としては、以上の流れは「坂上自身の本心を言葉にするのを回避するため」という流れで理解したほうがいい、という話だったと思います。

この見解は、実際、罵倒を向けられた坂上が「おれ、成瀬と一緒だよ」と、本心が言えなくなっていた自分を見出すという流れにも適合する良解釈と思います。よって、もちろん成り立つとは思うのですが、そうすると全体的に坂上はかなり成瀬順に救われただけの救いがたいボンクラになってしまうとも思います。

そこで私としては、もうちょっと坂上がそういう仕方をとった理由を突めたいと思いました。例えば、上記の罵倒シーンへと至る流れを、目的としての「みんな」をクロスメロディの一声をなす重要部分として、やはりあの場面の直前に導入したことには重要な意味があるのではない、と。

実際、罵倒を請うというのは、ミュージカルの筋にはない奇妙な挿話です。「王子は優しい言葉をくれたのでした」にも、「少女は王子にどんな言葉をあげられる?」にも回収されない言葉です。なぜなら、完全であるはずの王子が自分の汚点を見つけてくれ、糾弾してくれ、罪人にしてくれ、という撞着めいたことを請うのですから。そうすると、あの罵倒を請う言葉は、まさに「玉子のせいじゃないとしたら、一体何のせいにすればいいのかわからない」成瀬順に対して、自罰感情以外の感情を与えるために、坂上自身を罪人であり「玉子」にするものであったと考えることができると思います。

その意味で、たそがれさんの次の指摘にある

というtweetの「でも罵倒してくれって頼むんだよ」という一文は、かなり示唆的なのではないかと思った次第です。なぜなら、罵倒を請うその言葉は、成瀬順を「罵倒されるべき罪人」の地位においてはくれないからです。成瀬順は、自らの立場を、なぜか「王子(偽)」を罵倒する本当の言葉を駆使する「少女(偽)」という倒錯した立場に置かざるを得ないためです。そう考えてみると、坂上の情けなさは意図されたものではないにせよ、極めて誠実な態度に思えたところでした。もちろん、

と書かれている通り、そんな坂上の態度はどこまでいっても情けないものです。そこにリアルな人間を感じるものでもあります。これについては100%同意です。しかし、全部を見返したときには、あの真剣な目で請う言葉がなければ、成瀬順は妄想と自罰という安直な逃げ道から解き放たれることはなかったと思うのです。その意味では、情けなさをさらけ出したことは(実際そんなこと考えてない以上、打算や狡猾さの表れとは言いませんが)成瀬順にとっては、人が良すぎるが痛くもある救済の言葉であったと思います。ダブルミーニングでやはりイタい言葉であったと言えるでしょう。

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 以上は、成瀬順が過去を反復するだけの存在として読解するもので、若干成瀬順に対しては意地の悪い見方であり、坂上には好意的すぎるだろうという見方であるとは自覚しています。一方で、このような読解によることで、「王子」である性質を剥奪された坂上をただの人(あるいは単なるポンコツ)に貶めることもなく、やはりそれでも成瀬順の回想に現れ、彼女にとっての重要な存在であることを掬い取れるようにも思う次第です。

以下は蛇足ですが、罵倒といっても、成瀬から出る言葉は関係のない他人にとっては可愛いものです。あるいは「綺麗な」言葉といっても良いかもしれません。罵倒の言葉を請うたところで成瀬順からは綺麗な言葉しか出てこない。そのことだけは坂上は知っていたかもしれません。すくなくとも、どんな言葉が出てこようとも、出そうとした成瀬の真摯な気持ちだけは本物でしょう。坂上が心打たれたのは、そのような「玉子」を抱えた成瀬順と「玉子」を抱えた坂上の姿が、二人にともに突き刺さる罵倒によって重ねられたからだ、というのは読み込みすぎかもしれませんが。

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というところで、ひとまずは今日はここまでです。

さっき思い出してざざっと書いたため、乱筆あらかじめお詫びいたします。 

 

 

 Nag