書肆短評

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ドゥルーズ『襞ーライプニッツとバロック』河出書房(1998版)より抜粋

『襞ーライプニッツバロック』河出書房(1998版)「III部 身体をもつこと」より抜粋。


第7章 襞における知覚

p.147
私は身体を持たねばならない。このことは一つの道徳的な必要であり、一つの「要請」である。そして第一に私が身体をもたねばならないのは、私の中に薄暗い部分があるからである。しかし、この第一の推論から、もうライプニッツの独創性は際立っている。彼は、身体だけが精神において薄暗いものの理由になっている、というわけではない。そうではなく、精神は薄暗く、精神の底は闇に包まれている。そしてこの闇に包まれた本性こそが身体の理由であり、身体を要請するのである。
…無数の個体的モナドが存在するからこそ、各々のモナドは個体化された身体を持たねばならないのであって、この信頼は一つのモナドの上に映ったほかのモナドの影のようなものである。一つの身体をもつがゆえに、われわれの中に薄暗いところがあるのではなく、われわれの中に薄暗い場所があるがゆえに、われわれは身体をもたねばならないのだ。

p.151−152
宇宙論的なものから微視的なものへ、しかしまた微視的なものから巨視的なものへ。
ライプニッツは、ときどき全体性を示す言葉で語ることがあるとはいえ、均質な部分の和以外のものを問題にしている。問題は部分-全体の関係ではない。全体は部分と同じく、感覚し難いことがあり得るからである。あまりに慣れてしまっていると、私には水車の音も聞こえはしない。
…実はライプニッツは、小さな知覚と意識的な知覚との関係は部分と全体の関係ではなく、凡庸なものと、顕著なものあるいは注目すべきものとの関係だということを、たえず明言しているのだ。
…海鳴りを(※例に)とってみよう。少なくとも二つの波が生まれつつある、かつ異質なものとしてかすかに知覚され、それらが、ほかに「勝り」意識的になる第三の波の知覚を決定し得る関係の中に入らなくてはならない(そのためには海の近くにいなければならない)。
…巨視的なレベルの「決まった形」は、いつも微視的レベルに依存するのだ。

p.156-157
ライプニッツが保存しようとする「明晰かつ判明な」デカルト的表現の射程とは、一体何なのだろうか。それぞれのモナドの特権的帯域は混乱した出来事からなるにもかかわらず、なぜたんに明晰であるのみならず、判明でもあるといえるのだろう。要するに、このようなものとしての明晰な知覚は、決して判明ではなく、注目に値するとか、顕著であるという意味で「秀でている」のである。それは、ほかの知覚との関わりで際立っており、最初のフィルターとは、凡庸なものに働きかけて、そこから注目すべきもの(明晰にして、秀でたもの)を抽出するフィルターである。しかし判明なものとは厳密に言えば、別のフィルターを前提とし、これは注目すべきものを規則的なものとみなして、そこから特異性を抽出するのだ。これはすなわち、理念の、あるいは判明な知覚の内的特異性である。ここで特異なものから凡庸なものをひきだす第三のフィルター、十全なもの、あるいは完全なもののフィルターについて言及すべきだろうか。そうするとフィルターの組織は、たとえその最後のフィルターはわれわれの力を上回ってしまうにしても円環状のシステムになるのだ。
…特異性とは、なによりもまず屈折であり、ほかの特異性の近傍にまで延長され、距離の関係に従って宇宙の線を構成する屈折の点である。そして特異性とは、遠近法の関係に従ってモナドの観点を定義する限りでは、凹の側の曲線の中心である。最後に特異性とは注目すべきものであって、モナドの中における知覚を構成する微分的関係にしたがう。さらに、第四の特異性というものもあり、物質あるいは広がりにおいて、それが「極地」つまり「極大」と「極小」を構成する事をのちに見てみよう。

p.163−166
なぜ身体なしではすまされないのか。何がわれわれをして、現象または知覚されたものを超えさせることになるのか。もし知覚の外に身体がないとしたら、ただ知覚する実体だけが、宇宙の多様性や動物性を犠牲にして人間的であり天使であるに過ぎないだろう、とライプニッツはしばしば々述べている。知覚されたものの外に身体がないとしたら、知覚するもの自身において、これほどの多様性はないだろう(それはまさに身体に結合され「なくてはならない」)。しかし実際の推論ははるかに奇妙で複雑である。つまり、知覚されたものは何かに似ており、知覚されたものはわれわれはこの何かを考えるように強いる。
…第二に、知覚されたものが何かに似ているということは、即座に知覚が一つの対象を表象するということを意味するのではない。デカルト主義者たちは、知覚の幾何学性を強調したが、それによって明晰で判明な知覚は、広がりを表象するのに適していたのである。あいまいな、あるいは混乱した知覚の方は、表象性を欠き、それゆえ相似を欠いた慣習的な記号としてしか作用しないのである。ライプニッツの観点はまったく異なっていて、相似に関しても、同じ幾何学、同じ地位は成立しない。
…第三に、それなら相似させられたものは、先の類比に従えばどのように現れるだろうか。類似の物質的側面はどのように現れるのか。魂における心的メカニズムに一致する物質的物理的メカニズムなどを引き合いに出してはならない。モナドの内にある心的メカニズムはあらゆる外的因果性を斥けるからである。


第8章 二つの階

p.171
すでに初期の文章でライプニッツは、唯名論者たちが集合的な全体しか認識せず、そのため概念を捉えそこなってしまうと非難している。概念のない方は、配分的(distributif)であって集合的ではない。羊たちは集団的に一つの群れのメンバーであるが、人間たちはそれぞれ個別に理性的である。そこでライプニッツは、理性的存在としてのモナドたちは、みずからの概念のない方に対するように世界に対することに気づく。それぞれのモナドが、それぞれに世界全体を包摂するのである。モナドたちはおのおの(every)である、一方身体たちはone, some, any なのである。
モナドは、おのおのと全体の関係に従って配分的な単位なのであり、一方、身体はあるものと他のものという関係に従って、集合的であり、群れであり、集積なのである。

p.178-179
世界、世界の錯綜した線はモナドにおいて現働化される潜在的なもののようだからである。つまり世界は、モナドの中においてだけ現働性をもつにすぎず、おのおののモナドは世界を自分固有の観点と固有の表面において表現するのである。しかし、潜在的-現働的という対は問いを終わりにするわけではなく、さらに可能的-実在的という非常に異なる対が存在する。例えば、神は無数の可能世界から一つの世界を選ぶ。つまり、他の諸々の世界も、それらを表現するモナドにおいて等しく現働性をもっていて、アダムは罪を犯さないし、セクストゥスはルクレチアを犯さないのである。従って、必ずしも実在的ではなく、可能なままにとどまる現働的なものが存在する。現働的なものは実在的なものを構成しないのであって、それ自体実在化されなくてはならないのである。そして世界の現働化という問題に加えて、世界の実在化という問題がある。神とは、「存在化するもの」であるが、〈存在化するもの〉とは一方で〈現働化するもの〉であり、他方では〈実在化するもの〉である。世界とは、モナドあるいは魂の中で現働化される潜在性であるが、また物質や身体において実在化されなければならない可能性である。実在の問題が、諸々の身体についてたとえ外観ではないにしても単なる現象に過ぎない身体について提起されるのは奇妙なことで、反論の余地がある。(※すぐ下に続く)

p.180
しかし、厳密に言って現象とは、モナドにおいて知覚されるものである。知覚されるなんらかのもの=x に似ているおかげで、われわれはたがいに作用し合う身体が存在し、そのような身体にわれわれの内的知覚が対応するのではないかと問い、まさにこのことによって現象の実在化という問題、より正確には知覚されたものを「実在化するもの」という問題、つまり、現働的に知覚された世界を客観的に実在的な世界、客観的な〈自然〉に変形するという問題を提起するのである。実在化するのは身体ではなく、身体において何かが実在化されるのであり、それによって身体そのものが実在的あるいは実体的になるのである。

p.181
ライプニッツの哲学は、アルノーへの手紙に書いてあるように、精神的なモナドとの関連でも、物質的な宇宙との関連でも、世界があらかじめこのように理念的に実在することを要求し、出来事のあの沈黙し、陰に隠れた部分を要求するのである。出来事について語りうるとしたら、それを表現する魂と、それを実現する身体にすでに組み入れられたものとして語りうるだけである。しかし、そこから逃れてしまうあの部分がなければ、われわれは出来事についてまったく語ることができないだろう。このことがいかに困難でも、ある回線については、それを導く魂からも、それをやってのける身体からも逸脱する潜勢的なものから出発して考えなければならないのだ。

p.181
物質的宇宙も、魂も、世界に関して表現的であるといわれるのである。魂の方は、現働化しながら表現し、物質的宇宙の方は実在化しながら表現する。確かにここには、まったく異なり、実在として区別される二つの体制がある。一方は配分的であり、もう一方は集合的であるからである。それぞれのモナドは、他のモナドとは無関係に反応し合うことなく世界全体を表現するが、すべての身体は他の身体の印象や反応を受け取り、様々な身体の集合が、物質的な宇宙が、世界を表現するのである。だから予定調和はまず、二つの体制の間の一致として現れる。しかし、これらの体制は第二の相違を抱えている。魂の表現は全体から特殊に至り、つまり世界全体から特権的な帯域に至るのだが、一方宇宙の表現は部分から部分に、近いものから遠いものに至る。身体は魂の特権的な帯域に相当し、徐々に他のあらゆる身体の印象を受け取るからである。

p.185
魂と身体の予定調和は、実在的な区別を律するのだが、一方では統一がそれらの不可分性を決定する。私が死ぬときでさえも、私のモナドは身体から分離されず、そのもろもろの部分は対抗するのに甘んじている。すでに見たように、モナドはそれ自身において身体なしに知覚することなど出来ず、身体に「似ること」によって知覚する。

p.204
ライプニッツはしばしばモナドについて3つのクラスを区別している。知覚しか持たない裸のエンテレケイア、あるいは実体的形式。記憶、感情、そして注意を備える動物的魂。最後に理性的精神である。この分類法の意味はすでにみたとおりである。しかしモナドにおけるこのような「度合い」と「あるものがいろいろな度合いで、他のものを支配する」という事実の間にはどんな関係があるのだろうか。

p.207−208
世界は魂において現働化され、身体において実在化される。それゆえ世界は二度折り畳まれる。それを現働化する魂において畳まれ、それを実在化する身体においてさらに折り畳まれる。それぞれの場合に、魂の本性あるいは身体の限定に対応する法則の体制に従うのである。そして二つの襞の間には、間-襞、二襞、二つの階の折り目、蝶番、縫い目をなす不可分性の帯域がある。身体が実在化するということは、身体が実在的であるということを意味しない。魂において現働的なもの(内的作用あるいは知覚)を、何かが身体において実在化する限り、身体は実在的になるのである。われわれは身体を実在化するのではなく、魂において現働的に知覚されたものを、身体において実在化するのである。身体の実在性とは、身体における諸現象の実在化ということである。実在化するのは、二つの階からなる襞、紐帯そのもの、あるいはその代替物である。ライプニッツの超越論的哲学は、現象よりもむしろ出来事に向かい、カント的な条件付けを、超越論的な現働化と実在化という二重の操作で置き換える(アニミズムとマテリアリズム)。


第9章 新しい調和

p.219
感覚し得る対象を連続性の法則に従う形象や相の系列に変えること、これらの形象化された相に対応し命題の中に記入される出来事を指定すること、命題の概念を含み尖端あるいは観点として定義される個体的な守護に対して命題を術語化すること、概念と個体の内面性を保証する識別不可能性の原理。ライプニッツはこれを、ときに「遠近画-定義-観点」という三対として要約している。ここから出てくるもっとも重要な帰結は一と多の新たな関係に関わる。一とは客観的な意味で常に多の統一であるが、こんどは主体的な意味で、一「の」多様性と多「の」統一があるのでなければならない。こういして一にして多、多にして一という関係が、セールが示し多ように、一にして一、多にして多によって補足される限りにおいて、「万物が一つの中にある」という一つの円環が実在する。

p.233−234
物質的な宇宙は、外延における、水平的で集団的な統一性に到達するが、そこでは展開するメロディ自体が対位法の関係に入り、それぞれが自らの枠をはみ出て、別のメロディのモチーフになり、こうして〈自然〉全体が様々な身体とその流れの巨大なメロディとなる。そして外延におけるこの集合的統一性は、主体的、概念的、精神的、調和的、そして配分的な別の統一性と矛盾しないのであって、これに身体を与える限りにおいて反対にこれに依存するのだ。それはまさにモナドがまさに身体と諸器官を要求し、それなしには自然を知りえないからである。「諸感覚の符号」(メロディ)は私が現実の中に調和を識別するためのしるしである。単に和音の中に調和があるのではなく、和音とメロディの間に調和があるのだ。このような意味で、調和は魂から身体に、知性的なものから感覚的なものに至り、感覚的なものにおいて持続するのである。

p.236
ライプニッツモナドは、閉鎖と選別という二つの条件に従う。一方でモナドは、その外には実在を持たない世界全体を包摂している。他方でこの世界は、第一の収束する選別を前提とする。この世界は、当のモナドによって排除される、他の、可能ではあっても発散してしまう世界とは区別されるからである。そしてそれは、第二の共和する選別を伴う。なぜなら問題になるそれぞれのモナドは、それが包摂する世界において明晰な表現の帯域を自分のために切り開くからである(この第二の選別こそは、微分的な関係または調和的な近傍によって行われる)。ところでこれは最初に、そしていずれにしても消滅することになる。調和的なものが序列の上でのあらゆる特権を失ってしまったら、もはや不協和音は「解決」されることなく全音階を逃れるセリーの中で発散は肯定され、このセリーではあらゆる調性が解体される。しかしモナドが共可能的なものでないもろもろの世界に属して発散する系列に結ばれる時には、また別の条件が消滅するのである。いくつかの世界にまたがっていたモナドが、まるでペンチで半開きにされたかのようである。

p.237
問題はあいかわらず、世界に住み着くことである。しかしストゥックハウゼンの音楽的な住まい、デュビュッフェの造形的な住まいは、内部と外部、指摘と公的の相違を存在させない。それらは変化と軌道を一致させ、モナド論をノマド論によって二重化する。音楽は住処であり続けたが、変わったのは住処の組織とその性格である。確かにわれわれの世界とテクストを表現するのはもはや協和音ではないが、われわれはライプニッツ主義者であり続ける。新しい外皮とともに、新しい折り方を発見するが、われわれはライプニッツ主義者であり続ける。なぜなら問題はあいかわらず折ること、折り目を広げること、折りたたむことだからである。