書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

5/16 蟲師 特別編 鈴の雫 視聴

バルト9、12:45の回「棘のみち」「鈴の雫」および監督コメントを観に行く。

 

蟲師』を振り返って、別所に寄稿した文章から抜粋して載せておきます。

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「視えるものは、決して視ることのできないものの方へと絶えず引き戻されつつある」。

 本作がもたらすのは、視えぬものへの否認でも抵抗でも諦観でもない。そうではなく、人と蟲、生と死、今と永き時の間を決して埋めることなく縮め、綻ばせながら縫う蟲師ギンコのあてどなさ(狩房淡幽に言わせれば「あてにならなさ」)こそ、本作がもたらすものである。

 本作において人間は、山の前にあっていずれも卑小であり、世界に対して脆弱なものとして描かれる。災いにあっては足を折り、天に向かって祈ることしか叶わない。蟲師ギンコにあってもことは同じである。ギンコを含む人は決して、「私」を失ったヌシにはなりきれず、生死の境を失った蟲になることもない。

 それでもなお、人は山の一部であり、数え切れない生と死の一部であり、気の遠くなるような永い時を統べる理の一部とされる。だからこそ、人は草木というモノの中にヌシの耳目を見ることができ、山々の間に木霊する「理」の声をときに聴くことができる。

 おそらく本作の視聴者は、ギンコに自らを重ねるのでも、ヌシに身を重ねるのでも、ましてや「理」に自らを重ねるのでもないだろう。視聴者は、この茫漠たる世界に対してただ目を開き、その奥行きの豊かさや歴史的な時間の永さを見ることしかできないはずだ。そうすることで、自らの卑小さを前にして、そこにはおさまりようのない時間と空間の重畳性の中に入り込むことになるだろう。

 それゆえにこそ、本作の視聴経験において「二つ目の瞼の裏側」という形象は際立つだろう。異なる世界に住まう異形のものへの畏怖と救いこそ、本作が指し示そうとしたものに他ならないためである。
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以下、当日の監督らのコメント中、気になったことを備忘としていくつか。

 

・作成経緯について:

 もともと1時間枠になることは前提だった。そこで「日蝕む翳」同様に前後編に跨らせないで枠を取れないか考え、結果、劇場版として公開することになった。さらに劇場版ということになれば、蟲師 第1話「緑の座」で言われた本作のテーマであるところの時や場所の共有(の問い)の意味も考えられるだろうし、とのこと。

・「棘のみち」について:

 同時上映の「棘のみち」については、「鈴の雫」での”みち”とは異なる”みち”についてのものだが、いずれも本作の根本的問題を扱うもの。同時上映できてよかった。音響は5.1chで録り直してるので、ぜひ劇場で聴いてほしい。

・今後について:

 原作についてはこれで完了しているものの、「これで終わり」という気が不思議としない。いつかまた、5年10年先とは言わずに、戻ってこれたらと思う、とのこと(ちなみに、パンフレットにもある通り、同様のコメントが原作漆原先生からもあり)。サントラの完結版は7月発売。

 

本作において”終わり”なるものがあるとは思えないように、監督本人から”終わる気がしない”というコメントが出たのは非常に嬉しいところ。

追加エピソードであるところの「日蝕む翳」のように再会を期しつつ、本日はここまで。