書肆短評

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10/04 日本倫理学会 主題別討議3 「リスクの倫理学的考察」

1、導入

・視点: リスクの哲学的考察に加えて、リスクの倫理学的考察を行いたい。
 ・既存の研究: リスク学者(水質学、工学(失敗学)、リスクコミュニケーション)
 ・その問題 : 規範的な観点の不在(科学技術社会論のうまくいかなさ)
 ・今後の課題: 倫理学的な観点導入による問題解決の可否?


2、伊勢田「専門家は価値についても専門家か?エンドポイントの倫理学に向けて」

・定義: リスク = (1)ネガティヴな出来事の重大さ、と、(2)その確率、の積
 今回の話は、(1)について: 出来事の評価(事実評価面/価値評価面)

・関心:
 評価におけるエンドポイント(損失余命、種の絶滅…)
 どのようにこの各種評価を「足す」のがよいのか?

・概観: 現状の取り組みとそれへの倫理学的目線
 LCA(ライフサイクルアセスメント: 清算から廃棄までの全過程を通じた評価手法)
  ①目的と調査範囲の確定
  ②インベントリ分析 (物質や音→環境問題リスク→影響・貢献評価)
  ③影響評価
  ④解釈、評価、意思決定
  → LIME(ライフサイクル環境影響評価手法)※現在はヴァージョン2
 →倫理学者(伊勢田)からの問い:
  √ どうやってエンドポイントを選んだか?
  √  エンドポイントの重要性をどのように判断したのか?
 
・検討: 現状の取り組みの詳細
 (a) エンドポイントの選択
  人間社会と生態系という二本立て
  →「生存権」の二つのパターン: 健康・社会資産と生物多様性
 (b) 統合化手法の選択: 問題比較型→被害算定型
  被害算定は専門家パネルが行うのか、一般人の経済感覚(仮想評価)から考えるのか
  コンジョイント分析(社会調査法などの手法の採用: 選好功利主義的)
 (c) 評価
  分析全体の中での一般人の見解の取捨選択
  公平性(利益享受者/その他という分類を無視した分析)
  世代間倫理(現在人/未来人: ReCiPe)
  社会体制への影響
  一般市民感覚の無制限なオーソリティ化(≠問題発見機能)
  (たとえば生物種の減少を一般感覚で本当に問題だとわかるのか?)

・展望: 倫理学者にはなにができるか?
 素朴には倫理学視点は役に立たない?すくなくともそう思われてしまう。
 個々の倫理学説ではなく、倫理学利用法論を提示する。
  

3、蔵田「潜在的被害者の視点から見たリスク評価」

・問題関心: 「誰」の視点からリスク評価をするのか?
 →行政なのか、被害者なのか、潜在的被害者(hazardの高い人)なのか?
 →科学技術論的な「欠如モデル」(知識欠如による問題)から「潜在的被害者モデル」へ
 →ネーゲル的な「主観-客観」を軸としたリスクアセスメントの可能性
 
・問題の所在
 (1) 不平等
  健康リスクの分布の不平等(弱者のバリエーション)
  利益享受者と被害者のギャップ
  利益配分(受益圏/受苦圏)
 (2) リスク認知バイアス
  リスクの心理的側面を無視できるか?
  専門家支配の問題
 (3) 責任
  当事者責任の問題
  倫理的な悪としてのリスク増大
 →これらを解消すること = リスク曝露の受け入れ可能条件?

・紹介: リスクコスト便益分析(RCBA)
 ①確率的リスクアセスメントの問題:
  潜在的被害者のリスク増大の正当化への利用
    政策論-マクロ的な対策コスト削減手法としての利用=「権力性」
    リスクの過小評価
    実質的な選択の自由を失わせる
  ②確率的リスクアセスメントの利点
    不可逆事例への予防原則(絶対的衡量)通常事例への費用便益分析(相対的衡量)の併用
    社会的文脈を導入したリスクアセスメント

・検討: リスクの不確実性と評価の「客観性」
 ①不確実性
   ランダムネス
   データ不足
   対策の明確化
 ②客観性
   客観性の不存在
   実のところ「誰」の目線かの選定を前提にしている
 ③主観性
   価値観や意図の主観性
   解釈の主観性
   専門家認知バイアス(Kahnemanなど、ほかパターナリスティックな自己欺瞞)
 →impersonalな観点の不可能性のうえで、リスクの実在性を想定させ、審理に載せること

・結論: 「欠如モデル」から「潜在的被害者モデル」へ
 ①「欠如モデル」の問題
   リスクを減らすことではなく問題認識と予算を「啓蒙」へと振り向けてしまう
   lay-expertの知識の軽視
   フィードバックの欠如
   参加型アセスメントの無視
 ②「潜在的被害者モデル」による評価法
   便益とリスクのパッケージを受容するかどうかの判断を委ねる
   権利規定的-非帰結主義的-リスクアセスメント
   評価のためのニーズから出発する


4、原「対話型科学コミュニケーションと科学者の社会的責任」

・対話型科学コミュニケーションの利点・難点
 「啓発・行動変容」「信頼・相互理解」「問題発見」「合意形成」「被害回復・和解」
  → 社会的合理性と科学的合理性の調整の必要
 
・科学者の社会的責任論
 ①内部責任と外部責任
 (科学者共同体の内部の職業倫理)と(社会の成員に対する知的責任/応答責任)
  →これらの分離のメリット(秩序維持)/分離の不都合
 ②前向き責任/後ろ向き責任
 (行為者自身の役割に応じて引き受けるべき責任)と(実際にやった行為と帰結への責任) 
  →システム問題(知識凄惨や伝達の問題)か個人問題(意図や感情)かは未規定

・まとめ: 他者加害についての責任の定式化の必要
 

5、討議

Q1.) 現状は文系自体、存亡の危機にある。そういう状況の中で、科学論についての哲学・倫理学の立ち位置を論じることはどのようになせばよいか?
 →
(i )共同作業で開発するしかない。
(k)ある種のガイドラインに対するメタ的な批判を内在化する立ち位置を提示できるかも。
(h)お題を貰ってから考えればよい(受動的でよい)と思うがどうか。

Q2.) 蔵田先生の主張を考えると、潜在的被害者からみたリスク評価はあるのだけど、それを阻害している要因がある、ということをいったほうがいいのでは? 結局、アドボカシーをもった専門家の問題なのでは?
 →
(k)ある意味では専門家のアドボカシーを不要とする可能性も考えて入るけれど。

Q3.) 潜在的被害者論というのは、結局のところ、どういう方法論を採用したいと考えているのか?
 →
(k)問題は、ハザード×確率という計算において「えいや!」で決められたナイーブな条件について考えている。恣意的なモデル選択において、被害者寄りのデータ選択、被害者寄りの解釈を考えていく。計算法自体を捨てるものではない。

Q4.) 内部責任と外部責任の峻別について
 →
(h)科学者の責任を問わない方向で展開された議論を、なるべく問う方向で考えていきたい、ということ。

Q5.) 科学者共同体と国策の関係はどのように考えていればいいのか? 現実離れした仮定なのでは?
 →
(h)科学共同体を規律しようと言う意図が希薄で、科学共同体を正当化しようとするロジックが興隆していることに対して、批判的検討を加えたもの。

Q6.) 倫理学利用法論といったとき、それはアクティヴな意味なのか、それともパッシヴな意味なのか? あるいは科学共同体に対する外側からの批判なのか、科学共同体の内側からの批判なのか?
 →
(i)一つは、功利主義とかからのある立場を示す。その上で、第二に、それぞれの立場に重要なポイントがあるはず、というそのポイントを組み込むような倫理と付き合っていくという立場を提示する、ということ。

Q.7) 藤垣さんが、法的責任に注力し過ぎな歴史的状況のなかで、前向き責任を押し出した意味はどのように考えているのか?
Q.8) 原さんの対象としているのは、科学者なのか、技術者なのか?
Q9.) ローカルナレッジの組み込みはどのようになされていくべきか? 妥当性領域と責任の箇所について。
Q.10) リスクについて論じられた鼎談だった。そこでは、倫理学の受容者は、リスク論者や一般市民だったということだったと思うが、そこでの方法論は変わるのか? どうなのか?
Q.11) 義務論の使い方とか、非-帰結主義的という言い方と「潜在的被害者」との関係はどのように考えればよいか?
Q12.) 三方の考えとしては、各論(ここの論者を各個撃破していく)というよりは(トータルな)総論が必要なのでは?