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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

DAVID LEWIS, "UTILITARIANISM AND TRUTHFULNESS" 訳出(仮)

DAVID LEWIS, "UTILITARIANISM AND TRUTHFULNESS" のざっと訳(そのうちなおす)
Australasian Journal of Philosophy Vol. 50, No. 1; May, 1972


(1) D. H. Hodgsonの出す例
 ひとりの悪魔が、二人の、とても合理的な行為功利主義者を捕まえたとしよう。ここではとりあえずその二人を「あなた」と「わたし」としておく。そうして、その二人を別々の部屋に閉じ込める。それぞれの部屋には赤と緑、二つのボタンが設置されている。悪魔は細工をして、二人が同時に赤のボタンを押すか、緑のボタンを押すかすれば、二人にはよき結果が訪れるようにしておいた。しかし、それ以外の場合(※略:色々ある)には、悪しき結果が訪れることになる。悪魔は我々がこれら全ての事実を知っていること、そして我々がそれを知っているということを知っているということ(以下同様)…は確約されているものとしよう。

(2) 続
 あなたはなんとかわたしのところにメッセージを届ける。そのメッセージには「わたしは赤を押した」とある。しかし、言ってる側としても奇妙なのだが、そのメッセージは役に立たない。なぜならわたしは次のように推論するだろうからである。
 「あなたはとても合理的な功利主義者だ。あなたはどんなやり方であれ、それが最もよい帰結を生むと判断する限り、帰結以外の考慮を全く抜きにしてその方法を採るだろう。このことは、メッセージを送るということ自体についても当てはまるはずだ:あなたはどんなメッセージであれ最もよい帰結を生むと判断する限りそれを送るだろう。そこではメッセージが真実であるか否かはどうでもよいこととされるはずだ。それゆえ、わたしにはあなたのメッセージが真実を伝えていると信じるべき理由がこれっぽっちもないことになる。勿論、あなたが真実が最もよい帰結を生むと判断している、とわたしが信ずべき理由がある場合は別だけれど、こと今回のケースにあってはそうではない。今回のケースでは、あなたは真実が最もよい帰結を生むのは、わたしがあなたのメッセージを信じ、メッセージに従ってボタンを押す理由がある場合に限るということを知っているに違いない。そうでないとすれば、真実か否かがもたらすだろう帰結の間では選択をする意味はない。それゆえ、あなたは真実ではないものよりも真実の方を選ぶ理由は全くない。わたしはあなたを信ずべき理由は何一つ持っていない。勿論、あなたがわたしがあなたを信じる理由があると判断した場合は別だけれど、こと今回はそうではない。なぜなら、わたしは(知識と合理性の権化である)あなたが、(わたしが本当にそうでない限り)わたしはあなたを信じないだろうことを知っているからだ。では実際にわたしはどうなのだろう?わたしは、わたしがあなたを信じる理由を持っているということを前提とすることなく、わたしはあなたにわたしがあなたを信じる理由を持っているということを、あなたに見せることはできない。「前提において結論を仮定する論理的な誤り」を冒すことなくして、わたしはあなたにわたしがあなたを信じる理由を持っているということを見せることはできないのだ。以上より、わたしにはあなたを信じることはできない。あなたのメッセージはあなたが赤のボタンを押すことを信じる理由を与えてくれず、それゆえにわたしもまた赤のボタンを押す理由も与えられないことになる。」
 このように長々議論したうえで、わたしはランダムにボタンを押すことになる。偶然に従い、わたしは緑のボタンを押すかもしれない。

(3) 続
 D. H. Hodgsonによれば、これが功利主義のもたらす非効率だという。(Consequences of Utilitarianism (Oxford University Press: Oxford, 1967), pp. 38-46)

(4) D.LewisによるHodgsonの見解の理解
 Hodgsonの言い方をもう少しましにすればこうだ。これは、予期に基づく功利主義のもたらす非効率である。そしてこれは、予期を充たす効用を最大化しようと(功利主義内部の理由付けに従って)画策したところで解消できるものではない、と。
 Hodgsonは次のように述べる。知識と合理性の権化である行為功利主義者は、お互いに真実を述べることを期待する理由はいささかも持ち合わせていない。真実を期待し、真実を述べ合うことがよい帰結を生み出す場合においてさえ、期待できる理由はないのだ;それゆえ、彼らはコミュニケーションがもたらす利得をみすみす逃すことにならざるをえない。同様に、彼らは約束がもたらす利得もみすみす逃すことになるだろう;たとえば先のメッセージが「わたしはこれから赤を押す」というものだったりした場合にも上と同じことが起こることからこれはわかる。
 より一般的に言えば、Hodgsonのいう功利主義者というのは、共通の利益を与え合う行為をうまいこと調和させてくれる慣習の利得をみすみす逃してしまう、そんな存在だというわけだ。真実を述べることと約束を守ることに関する慣習は(功利主義者にとっては)存在しない、ということになる。

(5) D.LewisによるHodgson評
 けれど、自分について考えてみれば、あなたのメッセージである「わたしは赤を押した」を無視すると語ることは、あまりにも馬鹿げている。わたしは次の様な平凡な例を挙げたいのだけれど、通常の状況は、(※功利主義者のみならず)知識と合理性に長けたアンチ功利主義の人にも共有されているという事実は、単純でありながら覆し難いようにおもう。(※だから、真実を述べること自体が不可能になるので功利主義に対する反論になるとする点において)一般的にいえばHodgsonは誤っていると言わざるをえない。
 しかしだとすれば、受け取ったメッセージを無視すべきであるとするHodgsonの議論のどこに瑕疵があるというのか? 上述のHodgsonの推論のうち、イタリックの部分は正しく、それ以外のところは間違っている、というのがわたしの考えだ。

(6) LewisによるHodgsonの誤りの箇所指摘
 わたしは、Hodgsonの議論は、暗黙のうちに次のようなことを仮定する場面で、誤りに陥るのだと考えている。
 その場面とは、①最初のパラグラフで述べた事実(置かれた状況、功利主義、合理性、知識、お互いの知識、などなど)のみ用い、②その上で、あなたを信じる理由をもつということが提示できるというおよそ無理難題を可能にする場合を除いては、わたしはあなたを信じる理由を持つことはできない、という仮定をおく場面である。
 しかし、なぜこんなにも前提は制限されねばならなかったのか?確かに最初のパラグラフで示した事実に矛盾する仮定を導入するべきではないことはわかる;けれど、これらの事実とは独立した前提が利用可能である限り、その前提を用いることは許されるはずだ。

(7) 続
 (少なくともこのケースのように、あなたが十分に知識を持っていることがらに関する正しい信念を持っているということが十分に腑に落ちるだろう場合にはいつであれ)あなたが真実を述べるだろうという前提は、そのような利用可能な前提である。少なくとも、常識的には前提とされるはずだ;そして、その前提を置いてはダメだというのは、まさに今話題にしているHodgsonの議論に乗るときだけだとおもう。この前提は最初のパラグラフで挙げられた事実とは独立だ。
 一方、この前提は、我々の合理性や功利主義、そして我々のそれに関する知識に矛盾しない。だから、あなたが真実を述べ、そしてそう期待でき、あなたもわたしのことをそう期待できる…などなど、という場面においては、あなたは功利主義的に言って真実を述べる十分な理由をもつといえる。
 あなたは、自らの功利主義を切り詰めることなく、また、功利主義に真実を述べるという公理を付け加えることなく、真実を述べる(理由を持つ)。一方、我々のもつ合理性や公理主義、知識や、それらというものには、真実を述べるということは含意されてはいない。というのも、もしあなたがシステマティックに嘘を述べ、わたしがそう疑い、あなたもまたわたしに対してそう疑う…などなどの場面においては、あなたは公理主義的に言って嘘をつく十分な理由があるからである。
 一応付言しておくと、わたしは英語圏における真実を述べること、嘘をつくことについて述べている。だから、英語におけるシステマティックな嘘つきというのは、英語的ではない(英語とは心理条件が別の)言語においての真実を述べることに相当することには一応言及しておきたい。

(8) 結論
 以上より、わたしは次のように結論付けよう。わたしはあなたのメッセージを信じる十分な理由をもって、赤のボタンを押すだろう、と。
 この理由は、一般に受け入れられているように、素朴に我々の状況や合理性、功利主義、そして知識や諸々がこれを前提にしているからではない。そうではなく、真実を述べることというのは、我々が(慣習として)事実上保持し、そして、完全にこれらの事実との一貫性を保っている、付加的な知識なのだ。