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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

6/28 日哲-73「未来という時間」(※仮まとめ)

6/28 日哲-73「未来という時間」(※仮まとめ)


1、提題


(1) 青山拓央「時間は様相に先立つか」の筆者要約

(a.「今」の特殊性) 
・Lewis的指標詞には「現実」「今」「私」がある。しかし、このうち、「今」だけは別ものではないだろうか。
 なぜなら、「今」だけは、全体としての「これ」が別の「これ」へと推移する(「なる」)という動的な指標詞だから。
 他の「これ」という全体性に「なる」ということが可能なのは、「今」だけ。
・ここから、無時間的な指標詞として把握するのではなく、時間的な指標詞として把握するべきであると考えた。
 即ち、「なる」を「ありうる」先行させるべきである。

(b.タイプとトークン)
・現実の信長は、信長タイプの論理的可能性に吸収される(論理的可能性は「タイプ的」にのみなされる)。
 一方、トークン的繋がり(紐帯)があることで、はじめて現実の信長へと接続される。
 それゆえ、現実の信長の可能性を検討するためには、トークンそのものとしての「実現可能性」を把握する必要がある。
・そこでは信長タイプの論理的可能性ではなく、信長トークンの実現可能性を把握する必要がある。
 現実の信長トークンの論理的可能性は存在しない。

(c.時間が様相に先立つ=「実現可能性(なりうる)が論理的可能性(ありうる)に先行する」)
・Witgenstein 『確実性について』についての青山の見解
 トークン的かつ指標的な知識(ex.私の手があること)さえもが疑われない知識に含まれている。
 法則からトークン知識を得ることはできない
 法則とトークン的から、別のトークン的知識へは繋がりうる
・既に「現実世界」にいることを私は知っている。これは論理や文法や生活形式、勿論自然法則の外にある。
 即ち、どこに自分がいるかをタイプ的な知識から知ることはできない。
・信長タイプについての知識を得ようとも、現実の信長トークンには繋がらないし、そもそも現実の信長トークンが存在することさえ保証できない
 信長トークンの内側から諸可能性を開かなくてはならない。
 まとめると、「時間が様相に先立つ(=実現可能性(なりうる)の論理的可能性(ありうる)に対する先行)」

(d.追加論点:「ありうる」「なりうる」の根源たる、ニーチェ的な「なる」)
・時間の動性:この現在が全体として未来になる(× 言語が無時間的に可能性という幻を与えるという議論)
・未来が「今」になることは、可能性の現実化とは全く別もの。
・根源としての「なる」というニーチェ的な観念があるのではないだろうか?


(2) 須藤訓任「未来への態度」+「「わたし」の死と「ひとの死」」

(ブランショにおける「死」、「到来することのない到来」)
・絶対的に固有の可能性たる私自身の死は消え、「人が死ぬ」が残る
・個体が死ぬとき、①死体と、②「人が死ぬ」という無名性の「存在」、が残る
・「無」が存在化されて残るときに、その存在に人は苛まれる
・存在が消えたときに、新たに残りはじめて持続をはじめるもの(文学空間)


(3) 中島義道「超越論的仮象としての未来」に対する自己評釈

(3-1:「未来」は時間系列に属するものではない)
・時間様相、時間性格ではない。順序という図式。これはイメージに過ぎない。
 「もうない」「まだある」という様相的な議論とは別にしたい。
・勿論、時間はある。ただし、そこでいう時間とは、現在と過去。しかし「未来」は世界を説明するのに必要がない要素。
フッサール的なRetention:「まだない」というのは全くないのと等しい。実現するだろう、というときの「だろう」。
 いまだ何もないときに「次」を考えさせるというのは一つのトリック。

(3-2:なぜ「未来」があると思ってしまうのか?)
・一つ目は未来というのは「湧き立つ」モデル/もう一つは無時間モデル
 意味が定まってないモデル/意味が定まっているモデル(とはいえ「意味を付与しつつある」という状態は既に「生じている」)

(3-3:出来事に属するものとしてのみ時間を考える)
・箱みたいに過去・現在・未来と考えている。時間帯のようなものを考えている。
 しかし実際には微小な単位しかない。
 たとえば知覚とか、触覚とか。状況推移しかない。
・「いま」というのは解釈的構成物。どのていどにでも伸ばせる。出来事の単位w説明する単位がすべて「いま」になる(宇宙は膨張している、という出来事の「いま」は36億年)。
・測定する場合には、現象の同時性を決めなければならない。
・「次のとき」と考える未来の描像はダメ。
 そもそもカントさえ「未来」については論じない。アンチノミーは過去に置いて生じるにすぎない。未来は完全に無視されている。
 空虚な時間(Leere Zeit)。無でさえない未来。世界が終わったとしてもその次を見てしまう。ないものを外側から、時間的に、見てしまう。これは錯覚だろう。
・無という形で有化してしまう。ヘーゲルとかの論法。けれど、時間については、このヘーゲル論法を安易に使っているのではないか?

(3-4:「未来」は端的に言えば「無い」)
・カントの「形式」は、絶対的に、理性的に説明概念を導入しただけ。「形式」の実在を保障するものではない。「質量」の完全無視。
・意味付けした世界の方を実在という傾向が在るけれど、意味付けつつ在る世界のことを忘れてしまっている。
・質量的アプリオリのことを考えていた節も在るけど、そのうち老衰で死んでしまった。

(3-5:「到来」とは?)
・全ての人が(× 動物)もってしまう仮象(Shein)。
・現在と過去は一元化できない実在。なのに、それを拡大して、一つの客観的世界を作ってしまった。そこに、意味の固定した世界をすべて囲う為に「未来」が導入された。
 人間的な道徳感性として要求するのはわかるけれど、それが実在を生み出すものではない。

 

2、セッション


(1) 斎藤

(1-a.全員に対する質問)
 青山、須藤、中島の三者は論理的な「知」の及ばない対象としての「未来」の形では共通している。
 しかし、なぜそのような不可知の「未来」の可知性の身分が重ねられていくのか?
 また、仮に重ねられることがありうるとしたら、どうしたら可能か?
 あるいは、未来に対してどういう態度をとるかという問題はどう考えていけばよいか?

(1-b.質問1:青山へ)
 トークンにおける「なる」と「ある」。ここでは何が起こっているのか。
 時間の連続性が前提にされているようにきこえたが、「なる」>「ある」という系列の前提はどのように定立されるか?その前提として「同一性」はどう考えているのか? 
 斎藤自身としては「ある」というのはその都度(断続)の現実性にすぎないので、連続性というのはない(無自由とは端的にこの断続のことを指す)のではないのか、とおもっていたが、青山の描像はこういう見解とは違うだろう。では、青山の「ある」「なる」の連続性の強調にはどのような意味があるのか?  

(1-c.質問2:須藤へ)
 決して囲い込めないものとしての「未来」と、思いを定めておく「未来」という二つの(一見矛盾する)態度決定はどう両立しているのではないか?
 何もできない「未来」が端的にそこに存在するというのも事実。もはや応答することは不可避なのでは?未来に対する責任を考える上では重要では?

(1-d.質問3:中島)
 「未来」なく生きる態度を称揚するようにみえるけれど、単なる錯覚とはやはり異なるだろう。
 中島自身も、主観的な錯覚の必然性がそこにあるわけだから、「ある」に引かれる我々の実存にとって「未来」をどう使うかを考えてよいのではないか?
 
 
(2.入不二:Question.) 青山、須藤、中島の三者は論理的な「知」の及ばない対象としての「未来」の形では共通している。

(2-a.まとめと質問)
・全体の枠組みとしてはこう考えた。三つの問題がある。
 ①時間の推移と流れというのが問題。②時制区分。③様相という観点。

【争点③:様相】
・青山は、③様相を導入する。そこでは「なりうる」に重きを置く。「未来」の可能性様相は、論理的可能性ではなく実現可能性として捉えている。
 残りの二人は、③様相について対立する。論理的可能性を無にする(不可能性を強調する)見解。(そもそも実現可能性を切り出さない。)
 つまるところ、青山(「未来」=可能性 説)、斎藤・中島(「未来」=不可能性=無 説)

【争点①:時間推移】
・青山・須藤は時間的な生成、時間的推移を認めるもの。
 中島は過去と現在だけしか認めない。推移というものがない?

【争点②:時制区分】
・三者とも、時制区分と時間推移が一体化して考えられているようす。どうなんだろう?(たとえば、青山が「いま」が「未来」に「なる」というとき、)
 本当はこの区分は別物ではないかと考えている。

(2-b.質問:矛盾の強調?)
・青山でいえば、ある全体が別の全体に「なる」ということはありえないはず。矛盾を含む。
・須藤だと「準実在」という「未来」の姿を見ている。それは実在なのか、不在なのか。結局なんなのかわからない。
・中島は「未来」の不在の強調の意味。全事象がやってこない、ということをいうためには、その可能性が実現してないよね、という言い方が正当であることが必要なのではないか。

 
(3.青山:Answer)

・僕は、齋藤さんみたいに現に「ある」「ある」「ある」というショットの連続としては捉えていない。だらっとしたものがある。
 「今が動いている」というのはいずれにせよナイーブな比喩。そうかもしれないが、比喩をとおして理解はされていればいいのではないかと思う。
・「予測」「予期」というのは基本的には曖昧なんじゃないか、といわれる。けれど、これは認識にたいするつっこみにすぎない。それは未来の存在に対する固有名が使えないようなもの。
 しかし大事なのは存在論。未来に対する無知と存在論的な非実在性を直結させることはできない。
・「未来」を通して可能性を理解するということを今回は書きたかった。「未来」の多様的可能性についてはタッチしない、中立的でありたいと考える。
・僕は「未来の存在」については疑ったことはない。「未来」がないということがわからないから。
・元来、可能性とは未来に向かってどのようなことが起こるか、ということ。そうじゃないところに可能性概念を使うのはどうかと思う。
 「未来がくるときに何が起こるか」こそが、可能性理解のベースに置くべきもの。
 しかし、言語がその概念をひたすら拡張して論理的可能性というのが出てきたのではないかと思う。
 それとの関係で未来の質量がないというのは理解不能ではないか? 流石に言語の越権行為ではないかと思う。
 

(4.須藤:Answer)

・未来はわからない、というのは、いつだって後から到来してみるとそうであったことを確かめられない、ということ。
 これをいいたいがために、「到来しない到来」「過ぎ行かない過ぎ行き」を主張していた。
・様相という意味での可能性と同次元の不可能性ではないメタ不可能性のことを考えていた。
 

(5.中島:Answer)

・実践的関心を抱く理由はない。未来はあたかもあるかのようにかんがえられるのだから「未来」に対する責任はないのか?という問題であれば答えられる。
 カントのいう道徳は、その実在を主張した者とすればすべて間違い。全部「理念」でよい。
 勿論、仮象の方がつよいこともよくあるのだから、それでよいのではないかとおもう。
・不可能性というよりは「偶然」といいたい。
 次の時間というものを保証するものはなにもない。その単純な意味において消滅を待っているということ。
・可能性以前の過去、可能とさえいえないというもの。偶然性をこそ強調したい。
 今までの世界しか知らないわけだから、そこからある「まだない」の無意味性をこれまでの意味論から定義することはできない。(青山の議論はそれができる!という論法になってる)
 一切の発言権すらない未来のことを考えている。
 

(6.フロア討議:discussion)
 
Q1.フロア) 「なりうる」が出てきたことで何が見えてきたかがわからない。齋藤さんがいうように、「ある」と「なる」の関係を明確にしてもらいたい。
A1.青山 ) 可能性というのを言語の無矛盾な組み合わせ(Lewis的な。)という考えとは違う形で取り出したかった。言葉の組み合わせだけで懐疑をたてる感じになってしまう。
 それってタイプ的な組み合わせとしてはそうだよね、ってことになってしまう。この現実世界の疑いの疑いを立てるためには、この現実のトークン性を考えなければならない。
 指示の因果説と起源の本質説が繋がっている、という形でクリプキを捉えることもできると考えた。

Q2.フロア) 時間の向きについて訊きたい。現在の視点からすべてが発しているのか、それともやはり時間系列というのを考えているのか。
A2.中島 ) 時間の向きをもつその「未来」を考えている訳ではない。
 運動論的な語りに引き込まれずに、「未来」という言葉の「次のとき」という言葉の意味を考える、ということ。
 須藤さんのように認識が難しい、というレベルじゃなくて、認識不可能な概念になっていると言いたい。
A2.青山 ) 昔『科学哲学』に書いた論文で書いてる。
 
Q3.フロア) 中島のように「いま」を出来事相対的に捉えるのであれば、未来に対しても適用していいのではないか。
A3.中島 ) これは関心の例を挙げた例。

Q4.丹治 ) 中島の「未来不在説」については計画を立てるとか言う普通の実践はどうなってしまうのか?そこそこ実現されるということを結局「未来」と呼んでいいのでは?
A4.中島 ) どんなに約束しようが、その実在にはコミットしていない。けど、まぁ信仰があるからそこそこにはやるでしょうが。存在論的にないんです。実践的に在ろうとも。
A4.青山 ) 最終的には現実のトークンがあるという世界のことを把握していればよいのではないかと思う。

Q5.フロア) 実践的なところから「存在論的コミットメント」を繋いでいいのではないかと思うが…
A5.中島 ) 現在・過去二元論から考えている。カントについても全部「Shein」で説明できる、という解釈でよいと思っている。

Q6.フロア) 単独の知性者が世界に向き合っているという描像からの時間論しか本日はなされなかった。共同主観や他者との共存の場面を持ってもいいのではないか?いわゆる「他なるもの」?
A6.中島 ) 共同主観というのはよくわからない。最終的には自己に拠る承認というところに落ち着かせることが出来るのではないかと思う。
A6.須藤 ) 共存とか言う経験レベルでのアプローチとは別でいいのではないかと思っている。
A6.青山 ) 他者は重要なんだけど、未来についての予期は強くてよい。他者が記録や記憶のネットワークを紡いでくれてるから信じてる。
 しかし、無自由的世界観をとった場合には、自由意思が消滅する。日常に引き戻される。そこでこそ、未来は可能性があるのだという他者による引き戻しが在る。それは夢かもしれないし、別のものかもしれない。

Q7.フロア) 「未来」というときに実在と存在を混同しているのでは?
A7.中島 ) 思考上だけで存在するもの(=カントの言う「神」)というのは、中島的には存在しないと考えてる。世界のあり方は私が存在しているという限りに置ける意味で存在していると考えている。未来は単に思考の対象である。「概念」と読んでもよい。三角形と同じように、思考する度に生ずるもの。

ほか色々あったが、割愛。青山の実現可能性を「能力」に対応させようとした質問がなされてたけれど、時間切れだったため回答はなし。