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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

5/31 東浩紀 『存在論的、郵便的』を読む 講義 (4) ---第四回:2つの手紙、2つの脱構築、そして2つの人生 #genroncafe

 

0、2章の成立・その周辺について


・「excellent !」
 本の中では最もスマートな議論をやっている(浅田彰から「excellent !」と褒められた)


・「思考不可能なもの」、「穴」、「合理の限界」
 ラカン否定神学)とデリダ(郵便)との違いを「思考不可能なもの」という点から明確に提示しようとしたのが、2章。言い換えると、論理的に考えて認識できない「穴」についての議論。余談。カントの批判哲学とか以来、この「思考不可能なもの」、合理・理性の限界のことを考えている(前近代が合理主義、近代が非-合理主義(→ロマン主義?)と整理した方がよい)。なお、この議論は、超人(ニーチェ)や無意識(フロイト)、存在(ハイデガー)へと繋がっていく。
  

・「神秘主義」、「singularity」、「google
 近代哲学というのはこういう流れで「神秘主義」へと近づくぎりぎりの地点にいる。ヘーゲルの「絶対精神」とか。それが、神秘主義者ティヤール・ド・シェルダンの神学(特異点 singularity 概念)を通じて20世紀になっても「グローバル・ブレイン」とか「グローバル・ヴィレッジ」(→ニューエイジ思想→ハッカー文化としてのグーグル・アップル…)とかに繋がっていく。

 

1、思考不可能なもの、否定神学、郵便 19:40-20:10


・「思考不可能なもの」に対するいくつかの態度(cf. ガタリの図p.200 を参照)

(0) 経験的合理主義: 思考不可能なものは実在しない。
(1) 神秘主義   : 思考不可能なものは実在する。
(2) 否定神学   : 思考不可能なものは実在しないが、実在すると考えないと世界が説明できない。
 →思考不可能なものが「単数」の世界。定冠詞の世界。ラカン
(3) 郵便思考   : 思考不可能なものは実在しないが、実在すると考えないと世界が説明できない。しかし、それはあちこちにある。
 (cf.「天使」概念、「多神教」概念のようなもの)
 →思考不可能なものが「複数」の世界。不定冠詞の世界。デリダ


・『Glas』による文体実験、その米国的解説『Glassary』(用語集 glossary のもじり)


・「真理の配達人」=「真理のファクター」について

 『絵葉書』、70年代からのデリダの到達点。envois=「送ってるもの」=「送る言葉」から始まり、「フロイトについて思弁する」=「フロイトに賭ける」、「真理の配達人」=「真理のファクター」、あと断片集と続く構成。
 3章は「真理の配達人」。エドガー・アラン・ポー「盗まれた手紙」に関して、ラカンはこの話を、人間にとって「思考不可能なもの」が盲点として常に存在する、即ち「手紙は常に届く」と考えた。「神を仮定しないと世界が説明できない!」と考えるために神をよびだすという否定神学に陥っている。自分の思考の「穴」が転写されているのが「神」。埋め合わせ。
 これに対して、デリダは「手紙は届かないかもしれない」と考える。「神」を「穴」の転写として考える思考を否定する。

 ※「アレーテイアー」について。覆いを剥ぐこと=存在の負債に対する返済。返済には必ず切手が張ってある、という思想。これにより、デリダハイデガーの存在論をずらしている。 
 
 

2、二つの脱構築---ラカン脱構築デリダ脱構築① 20:10-21:10


・「deconstruction」:ハイデガーの「Destruction」の翻訳

 構築でも解体でもないもの。一つは建築『ポスト・モダニズムの建築言語』へ、もう一つは、文学イェール学派へと受け継がれる。

 ちなみにこのときに柄谷が渡米して『日本近代文学の起源』を書いてる。時期的にポストモダンの思想を取り入れることができた、英語圏の講義を経て書かれた教科書。そのあとに繋がる『内生と遡行』、『隠喩としての建築』、『言語、数、貨幣』とかの仕事の基礎作りをしてる。私小説的な哲学書。文学書でも哲学書でもない、世界的にみても謎なスタイルをとっている。ここで一旦仕事ができなくなって、最後『探究』で復活。
 この柄谷によると、脱構築とは「形式化(構造主義)の自壊」のこと。形式化を突き詰めると、思想活動のほとんどの根拠を失ってしまう、という着想に基づく。
 この柄谷の転回を、「前期デリダ(論文調)/中期デリダ(文体実験)/後期デリダ(倫理)」の区分に重ねられるのではないか?

 ここで出てくるのが、クリプキを読んだ柄谷+ジジェクの「固有名」という概念とデリダの「手紙」という概念を重ねられるのではないか、と考えた。


・p.78「理論から実践へ」という先入観の誤り

 柄谷からは後期デリダの評価は低い。後退したデリダ(p.78 テクストの戯れ?)に抵抗するために、柄谷は「教える-学ぶ」「固有名」「交通」「他者」というキーワードで語るようになる。この柄谷に重ねられるデリダの時期はどこか? それが中期の「幽霊論」である、と(実は連載時ではなく単行本化するときにあとから)考えた。


・p.84『割礼告白』

 「post」の多用に着目。表層批評、テマティック批評的。「post」というのはコミュニケーションの媒体だ、としている。そしてその「post」は届いてるかどうかがわからないもの。送るだけ送ってあとの様子は知らない。届いてないかもしれないし、開封されてないかもしれない、無視されたのかもしれない。けど、忘れた頃に返ってきたりする。つまり、「post」は、不透明で遠い、当てにならないコミュニケーションメディアである点で、LINEやメールとは異なる。
 現在のLINEやメールとはすこし違うコミュニケーション形態が採られていた。真理とか家族とか告白は透明で確認できるコミュニケーション。当てになるメディア。
 当てにならないメディアと、当てになるメディアの間。「血の郵便制度の完全性」=「知の郵便制度の完全性」には瑕疵がある。私生児の哲学としてのデリダの哲学。


・「散種」dissemination
 
 種(semi)のばらまき(dis)。家族的な閉鎖性、安全性、確実性に対する対抗的なメタファー。純粋な伝達経路(伝統 tradition、家系図)には瑕疵がある。伝統を引き受けつつ、伝統を読み替える。受容しつつ、冒涜する。家系から切り離された個人ではない、家系の中にあるのに家系を疑う曖昧な存在。
 大家族の中の私生児のようなポジション(ドストエフスキー的にはスメルジャコフのポジション)。『思想地図β vol.2』的には、猪瀬のいう「家長」でも「放蕩息子」でもない「私生児」。この頃の東の関心で言い換えると、「村社会」でも「旅人(稀人)」でもない「観光客」のポジションにも重ねられる。
 ちなみに、このことはデリダユダヤ人なのに、レヴィナスみたいにあえてユダヤ性を強調したりはしないところにも表れてる。レヴィナスハイデガーから分家しようとした「放蕩息子」。デリダはあくまでも家の中にいる「私生児」ポジション。


・「デッド・ストック」dead stock


・「シュプレマン」supplement
 
 こう考える。人は健康であるべきだ、サプリメントを飲んで健康になろう、しかし本当に健康だったらサプリメントはいらない、しかしサプリメントを飲んでしまう、それは健康の人の刷る事ではない、これは矛盾、という関係のこと。
 プラトンパルマケイアーでのソクラテスの話。記憶を書き留めると忘れてしまうから止めよ、というもの。強めようと思うと返って弱まってしまい、依存が高まっていくという話。疎外や搾取の原型といえる。
 脱構築の方法論。
 
 
 
3、もう一つの脱構築---デリダ脱構築② 21:10-21:40


・「倫理的転回」における「絶対化」「神秘化」
 
 『法の力』における倫理的転回。単純化されたデリダの思考開陳。「法は脱構築可能だが、正義は脱構築不可能」。正義は「経験不可能なものの経験」、言葉にできないもの、未定義でしかありえないもの。しかしこの言い回しは、正義の誤った「絶対化」「神秘化」に繋がっている(いったもの勝ちに至る)。法はある明文化されたシステムであり、形式は脱構築可能。
 一方で、脱構築不可能なものの脱構築を野郎としていたのが、中期デリダではないか?と考えた。


・p.92「ゲーデル脱構築デリダ脱構築
 
 形式知脱構築ゲーデル脱構築)か、脱構築を諦めるか(『法の力』)ではなく、その間にある、脱構築不可能なものの脱構築デリダ脱構築)の追及過程をこそ追うべきである。
 

・余談:「フクシマ」に重ねられる

(1) 「フクシマ」は汚染されてない
(2) 「フクシマ」を表象にして搾取してはならない!(アドルノの否定弁証法っぽい)
 →批判精神が反転して、言ったもの勝ち、沈黙を強いる装置、になってしまう。
 →脱構築不可能なもの(ex.アウシュヴィッツ、WW2時の死者)の負債(罪)の前に絶対的に沈黙しろ、うなだれてろ、という暴力。
(3) 「フクシマ」は表象不可能だけれど、どう沈黙しないで動くか?

 

4、質問


Q1.) ピーター・シンガーの「歴史修正主義に開かれていなければならない!」という立場は、東の方針と似ているのか?
A1.) 自らを否定する勢力にも言論の機会を与えるというのが本来のリベラル。よって、確かにそこには類似性がある。
 ただ、ピーター・シンガーは極端な功利主義者。「神とは妄想である」といった世俗的人間主義、徹底した世俗主義者。実は本日の議論的には、(0)に位置する議論の人たち。だから、彼の立場とはちょっと違う。
 だから、(0)と(3)が、極端な地点では重なる点があるという不思議がある。そういう意味では結論は似てるんだけど、思考プロセスは違う。


Q2.) 『Glas』について。ああいう芸術でも文学でもないもの、DTPについて検討している本はある?
A2.) そういうのは知らない。グラフィカルな特徴、実験について調べてみてもいいとおもう。
 思いだした話。ネットは途中からスタイルシートになる。HTMLの論理構造をスタイルシートに任せるようになる。グラフィックデザインの否定。
 論理にならないことをいかに頁の上に表現するかを考えたデリダの否定。もはやデリダのやり方を再現する為には、ダメなテーブルを作らなきゃいけないくらい。


Q3.) ランダム性は言語化可能?どのようにして受容できるようになる?
A3.) 言葉にできないものは天から降ってきた、という物語に回収しちゃうのが否定神学思考。無根拠について考えていくとハイデガーの現状肯定に至るのが普通。つまり、無根拠だと否定する事もできなくなる、という隘路。
 だけど、偶然が可能世界によって数えられる(骰子の目のようにわかる)のであれば、その複数のうちの一つ、として把握することが可能になる。
 出される骰子の目だけじゃなくて、受け取る主体さえ偶然。無根拠にせよ与えられてしまった(必然の)この生を引き受けねばならない(ハイデガー)のではなく、無根拠なんだから確率的には別でもあり得たなぁ(デリダ)と考える。偶然が必然に反転した「運命」じゃなくて、徹底した「確率的偶然」を生きること。

 
Q4.) 合理主義的なシステム(ex.ビットコイン、STAP)から外にある郵便というところから、観光地化計画という具体的な計画を、どうやって頭の中から引き出すことができたのか?
A4.) 観光というものの中途半端さに着目すれば自ずと出てくる。面白いものをやっていくなかで、抽象的な話しが出てくる。共同体の内でも外でもないものへの着眼。階級のキャンセル。旅行先だと他の階級を見ちゃう。旅行でも行かなければあえて見ようとしない。遠くの外国に行ってはじめて身近な差別に気づく、みたいなもの。人間は近すぎると深くは関わりたくなくなるときがある(左翼的な課題な責任など持てない)、そういう生き物。


Q5.) ルーマンとか工学的な知とかはどのように位置づけているのか?
A5.) どこだろう。貨幣とかをみてみる。実在しないんだけど、実在するもの。
 岩井克人否定神学。神秘化した一元論
 安富の初期の仕事『貨幣の複雑性』はいい。複数の商品があるとそのうちのいくつかが媒介商品として生成されてくる。あるパラメータにすると一つだけ媒介商品が出てくる。そんな感じで、基本は貨幣なんて複数あるものから、偶然的に一つになっている、というもの。シミュレーション的思考。
 しかし、結局安富さんの現在をみると、再度神秘化しているというのが、不思議なところではある。