書肆短評

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4/5 東浩紀『存在論的、郵便的』を読む 講義 (3) ---第三回 #genroncafe

 

0、前回までの復習

 

デリダによるフッサール、『幾何学の起源 序説』について
 哲学というのは超-歴史的な理念 Idee を探すものとされてきた。しかし、その理念すら歴史的にのみ発見されるというパラドクス。それを前提とするのがフッサールの超越論的現象学、即ち超-歴史的なものが歴史的に生成する(ex.幾何学)ことを捉えるもの。経路依存的でないもの(理念)の経路依存性をさぐるということ。
 大まかには文理の違いに重ねられる。相対性理論アインシュタインがいなくても誰かが見付けるけど、ドストエフスキーの『カラマゾフ』はない。これを『危機』では、ヨーロッパの理念性に重ねてる。ヨーロッパは超歴史的なものの生成をヨーロッパにみていた。

・「歴史/超歴史的理念/分岐可能性」
 歴史は一つだけど分岐の可能性を想定できる。分岐を越えては存在しないというのが、歴史的なもの、歴史に依存した真理ということ。分岐を越えて存在するのが、超歴史的なもの、理念。現実には、①歴史は一つなんだけれども、その上に、②超歴史的な理念(不変/必然)、と、③歴史的な分岐可能性(可変/偶然)が乗っかっている。

 


1、p.50-56 記憶、事後性、亡霊的反覆可能性  19:20-20:00

 

・「記録抹消された、記憶不可能なもの = 争異」differend /「亡霊性」 revenant
 「歴史」と「記録」に関する考えがバッティングするのが、歴史的な悲劇(ex.アウシュヴィッツ)。歴史的な悲劇についてはいくつかの考え方がある。
(1) 有力な一つの考えは、実証・計測。客観性、反復可能性。けれど、これは証拠の及ぶ限りの存在にのみアクセスするということ。一回限りの経験(ex.奇跡)は理論化から外される。証拠が抹消されていた事を「ない」とする暴力の可能性も招いてしまう。科学とするがゆえに、歴史修正主義と同レベルに堕ちる。
(2) 有力なもう一つの考えが、リオタールのもの。記憶不可能なものをどのように記憶するか?表象不可能なものをどのように表象するか?という問い、争異 differend についての問いをまじめにとらえる。日本だと髙橋哲哉。一回限りの出来事を、手を触れられないもの(=実証性の限界)として遠ざける。認識から遠ざけること、出来事へのアクセスを普通の認識の仕方からは遠ざける事で、主体的な「倫理」によって覚えていなければならない、という考え方をとる。しかしこの考えは、事件の絶対化をなすがゆえに(客観性がないはずの)奇跡を信じる信仰に近づいてしまう。否定神学
(3) 最後の考え方が、デリダのもの。この考えは、(2)の考えを否定神学として、それに抵抗するというもの。ある一つの事件が絶対化してしまう。反覆不能な一回性しかなくなってしまう。これと異なるのがデリダ、典型的にはツェランについての『シボレート』。絶対的な一つの事件ではないのみ、同じ日付が「反覆」する。悲劇は絶対的に反復不可能なんだけど、日付は繰り返される。記念日は事件のコピーを記憶として残すために重要となる。事件が反覆されるわけじゃなくて、事件の日付・レッテルのようなものがなぜか繰り返される(反覆可能性)ことで、事件の一回性があとから(apres)産まれてくる、というもの。

・「亡霊」revnant
 亡霊 revnnant とは、繰り返すもの rebvnir(=英語だとcome again)。他の言い回しだと、fantom(=phantom)、hantise(=haunt)、spectre(=specter)。事件は一回的だが、トラウマは反復強迫的に回帰する。一回限りの経験というのは、反覆されることによって初めて(あとから)絶対的なものとして措定される。逆順ではない。
 たとえば、3/11の度にコピーが作られることによって、2011/3/11のあの経験は、コピーによってしか絶対性に近づいていかない。単にコピーの経験から遠ざけること(=(2)の方針)は、歴史修正主義(=(1)の帰結)を呼び寄せてしまう。外傷をとおざけるのではなく、反覆可能性を保持しなくてはならない。

・「エクリチュール」ecriture
 書記、writing。ある言葉のコンテンツ(ex.「電話」)は時代を通じて違うのに、その書き言葉の綴りは時間を越えて連鎖する、という不思議。定義・意味が共通しているのではなくて、まず交換・使用が連鎖するという不思議。
 通常の発想とは異なり、事件が記念日を作るのではなく、記念日(化すること)が事件性をあとから作っていく。

 


2、p.57-62 分岐可能な偶然としての未来(a venir) 20:00-20:30

 

・「未来/分岐可能性」futur / a venir
 反覆されるものの中身は、色んな未来(a venir)があったという感覚。一つの現に訪れる未来(future)ではなく、あったかもしれないいくつもの分岐可能性としての未来(a venir)の感覚。この分岐の感覚が反覆可能だということ。identiteとmeme。外側が同じだからこそ、コンテンツのありえた分岐(①科学でも②奇跡でもない、③歴史的偶然)を構想できる。

・「否定神学的共同体」(p.109)への抵抗、事件の絶対化への抵抗
 (2)は事件の絶対性を信じる。しかし、これは感覚的な仕掛けによって同一化を推進するもの。信じるものたちの共同体を強固に作ることで、共同体の閉鎖を招く。(3)なデリダ岡崎乾二郎としては、このような事件を絶対化する共同体の生成には抵抗しなくてはならない。

・「固有名」proper noun の3つの取り扱い方
 (1)には固有名はいらない(だからこそ主体は単なる性質の束でよい)。(2)はその固有の「私」が重要。歴史的なその一人の主体が重要。だから、(2)によると、出来事における悲劇の当事者、固有名をもったその主体が、死に、不在になったことにたいしては、取り返さない無限の喪に服す事が重要だと主張する。一方で、(3)によれば、本当の問題は、計測不可能な出来事の名前は知っていることによって、初めて、固有名に触れる事ができる。その理由は、他の人が生き残って口述で伝達したから。つまり、他の人は生き残ったのに、別の人が死んだ、という確率的な偶然が、本来的な悲劇の経験を呼び起こす。
 ただこれは2章で細かく書かれるので端折ります。

・「交換可能性」
 東的には、「この私は他の誰でもよい交換可能な何か「だった」ものである」。私は、固有の、かけがえないものではない(=必然ではない)のだが、この一時点を取り出せば「この私」(=必然であること)になる。しかし、その「私」は、分岐可能性から見出される。人生を振り返ると必然に見えるのだけど、未来を観れば偶然しかありえない。つまり、偶然が事後的に(apres)必然として看取される、というプロセスを観なければならない。この、分岐可能な偶然をみれば、交換可能な何かだったはずの偶然、分岐可能な歴史を背負いうること(偶然であったこと)を感覚できるはず。
 例。ハイデガーの『存在と時間』では死を先駆的に考える。つまり、死を先どる。結末からみれば、全てが必然になる。そのため、現在から全ての時間を必然化してしまう。しかし、事前からみれば偶然、事後には必然になる。この構造をすべて事後化することにより、歴史の必然として取り出したのがハイデガー。これはまずい。
 「この私には色々な声が取り憑いている」(p.70)
※ 従ってここから、固有名をもった主体にたいしての喪が(そのコンテンツとしての反復不能性に反して)繰り返されねばならないことになる。

 


3、p.63-73 大陸哲学(歴史)と分析哲学(理念)の間にある「哲学」 20:30-21:30

 

・「哲学」
 哲学とは、本来的に哲学史、固有名を背負わざるをえない。科学的な理論(理念)の形とはかなり違う。理念が歴史的固有名によって成立する、というのを体現していたのが哲学。
 それが、科学としての哲学と、文学・創作としての哲学、という20世紀の大きな対立に行き着いた。それが、分析哲学vs.大陸哲学という対立。歴史を越えたものか、歴史の中にあるものか、という対立。固有名のいらない理念か、固有名が作り上げる歴史か、という対立。
 これに対して、事前/事後の区分を導入することによって、哲学史に全く別の哲学史を見出しうる、というのがデリダの教え。科学と文学の間にあるものとしての哲学、という両義的構造。
 歴史の中から、歴史を越えつつあるものを作り上げていくもの。『危機』のフッサールが見たヨーロッパ的な絶対主義でも、単純な文化相対主義でもない。固有名が不要なのでもなく、固有名に終始するのでもない。固有名が理念を作り上げていくようなプロセスに着目するという両義的な立ち位置。

聖典が自筆で書かれなかった理由?
 ソクラテス(や仏陀、キリスト)のテクスト。それは別の人(プラトンアリストテレス→…)の書記・解釈とともに聖典化されていく。そのプロセスの中で、ソクラテスの思想が体系化・神聖化されていく。ひたすら書く(反復する)プラトンがいたからこそ、書かないソクラテスの「オリジナリティ」が産まれた、というのが『絵葉書』の図(p.64)。

・「脱構築」deconstruction の伝統主義、保守主義(※右翼という事ではない)の意味
・「告白」 confession
 デリダの告白、『絵葉書』『割礼告白』。アウグスティヌスとルソーの伝統のある『告白』とは異なる不思議な告白記。外から主体化(割礼)、内からの主体化(告白)。データベース化(derrida-base)と告白とが併置してあるテクスト。信仰対象になるというよりは、キーワード化が自動進行してしまう事態をあえて示しているテクスト構造。
 過度な歴史物語化、社会学化(社会的属性に還元する)、マイノリティ主義化、アイデンティティポリティクス化に陥らないような、保守主義的な脱構築的「哲学」の構築。これらの立場が標榜する「伝統を無視した「この私」」などという主張は、とてもロマンティックな幻想(ポストモダンによって書き換えられた実存主義への夢想=ポストモダン実存主義)に過ぎない。デリダは、保守的に主体を保持したいのではなく、どんどん主体から固有名が外れていく。「この私」を成立させている「色々な声」の取り憑きに目を向けることで「伝統」を変えていく。
 コミュニケーションは不可能な(届かない)のではない(から柄谷的な私小説的な文法とは異なる)が、充実した遂行もできない。適当にしか連鎖しない、すなわち「失敗」mis する(とりあえず届くんだけど、間違ったところに届く)。しかしその連鎖が作り上げるプロセスは重要。 

・「哲学」の位置まとめ
 「科学(理念)と文学(歴史)」の間に位置する「哲学」
 「分析哲学と大陸哲学」の間に位置する「哲学」
 「絶対主義相対主義」ではない「哲学」
 「経験的でも超越論」でもない「哲学」
 「共有可能(公)でも共有不可能(私)」でもない「哲学」
 「体系(アリストテレス)と語り(ソクラテス)」の間にある「哲学」
 「固有名の要らない理念と固有名が作り上げる歴史」の間に位置する「哲学」

 

 

4、質疑

 

Q1.) 日付とは、可能世界の記憶が再現されていくことという定義が述べられていた。可能だったはずの記憶に想いを馳せるということ。実際に経験した場合とそうでないばあいとで、可能世界への想像が維持できるかどうかが変わるのではないか?
A1.) 可能世界的想像力が追悼になるのだが、その想像力が時間によって風化していく(必然の歴史)感覚があるのはそのとおり。偶然性の感覚、悲劇性の実感がなくなってしまう。記念日をつくったり、施設を残したりするということが、悲劇の記憶を連鎖することに通じる。不存在のはずの「幽霊」が「出そう」という感覚を引き起こす装置がなんなのかによるのかな。
 可能世界などというのは不存在。なのだけど、存在を誤認する錯覚、こそが、忘れてもいい事を反省する事が出来るようになる。経済合理的な思考では、可能世界の記憶をがりがり忘れていく。そうではなく、その可能世界に苛まれることが全てダメ(ex.サンクコスト)という訳でもない。
 
Q2.) 哲学の上記の立ち位置(科学と文学の間)は今後も変わらないのか?
A2.) 人間というのがひとりで、「一回的」にしか生きられないにもかかわらず「普遍」の基準に従って生きようとする生き物である限りは、このことは変わらない。集団的・集合的である(科学=典型パターンである)ことと、単独的・個別的である(文学=パターンからの偏差に位置する)ことの間、この二つの間で引き裂かれた存在としての人間の決定や苛まれを処理しなければならない。つまり、動物(統計的存在)と人間(孤独な実存)の中間としての、動物的人間、超人(※あるいは経験的超越論的二重体?)の倫理を処理しなければならないということ。

Q3.) 『QF』は思想家として書いたのか?文学者として書いたのか?
A3.) 人は文学者としてキーボードに向かう訳ではないので、どちらとしても書いたのではないか。ひとりの人間が書いているのだから、結局「一回的」「反復」などといった概念をどのように表現するかというだけではないか。『QF』と『存在論的、郵便的』、あるいは『クリュセの魚』も、テーマとしては同じ。他の人も書いてないようだし。

Q.4) 二元論の「間」というときの、「間」とはベン図の重なりの事なのか?真空の事なのか?動物と人間は重なってるのか、離れているのか?
A.4) 文学的ソクラテスと科学的アリストテレスの間にあるプラトンのことをイメージしている。彼はひたすら対話編を書いていた。プラトンというによって、アリストテレスソクラテスの間に共有部分(※家族的類似?両者の接続を新たに構成させる集合?)が産まれる感じ。