書肆短評

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凪のあすから全26話メモ(旧)

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http://nag-nay.hatenablog.com/entry/2014/04/08/033538

 

 

 

 

 

0、導入---凪の明日から、凪ぐearthの色

 

凪のあすから』は1期であると2期であるとを問わず、たえず二つの世界を行き来している。1期では、地上と海村、オシオオシとシオシシオを往還する「昔から一緒だった」光たちが、地上の別のグループと対立し、融和し、更にまた海神によってバラバラにされることで、彼らが住まう二つの世界(earth)の繋がりと繋がりの挫折が描かれる。2期では、「変わらない」過去と過ぎゆく現在、置いていかれた光たちと置いていってしまったちさきたち、そして追いつくことができた(と早とちりする)美海たちからはじめることで、この二つのグループがいかに物的にずれつつも言葉上では融和しうるか、しかしそこにどうしても越え難い何かが残ってしまう様が描かれる。

換言すれば、前半では海と地上という世界の関係を通じて「空間」的な二つの世界の並存を描き、後半ではいまや海が凍り付き偽の巴日に照らされている一つの地上の上において、二つの「時間」が同時進行する世界のありようを描いている。、その「空間」と「時間」の狭間、住まいを異にする地上と海という「空間」とともに、5年という避け難い「時間」のズレによって分断された二つの世界に生きる者たちのジレンマ。

第一の利点

無論、このような分断と再接続の物語は物語構造としてはよく見られるものだし、恋愛劇に終始しすぎた物語展開にもいくぶんか問題がないではない(※それは補論で書いた)。しかし、そんな中でも『凪のあすから』が興味深く見えるとすれば、それはおそらく、地上と海、時間と無時間との間に引き裂かれた者たちの生において求められた、世界認識の精緻な群像が見えるからだ。第二の利点。

大人にはわからない、14歳の子供の厳しい世界への防備がある。緊迫している

そこには細やかに描かれた心の機微のみならず、ジレンマを越えようとする意志の多様なパターンが見て取れる。しかし、その意志だけを追うとすれば、(光のように)意志することで却って隠蔽してしまったものを見失うことになるだろう。即ち、引き裂かれたことによって生じた避け難い「変化」にどのように向き合うかという、彼らの態度自体の変化について、見て見ぬ振りをすることになってしまうだろう。「変化」への認否のみならず、変化にいかにむきあうかという態度こそが、『凪あす』では問われているのだ。

①光、ありし過去、現在はむしろ過去を忘却したところにある

②ちさき、進んでしまった現在しかない、諦念、紡はそれをつなぐ

③まなか、それは風化と忘却である、しかし光もたんじゅんかである、複数の過去へ、未来へ、たんなるげんざいではないものへ

①は「」、②は「」、③は「」。①は

それがタイトルのearthにつながる

 

凪のあすから』、転じて「Earth Color of a Calm」、「凪ぐ」earthの色、「凪いだ」明日の色。勿論、この明日の色、は多義的だ。地上の緑色であり、凪の時期のぬくみ雪の白一色であり、地球の海の青色でもあるだろう。このような凪の色は、彼ら自身の心の色、「心の色、君の色に通じている。凪で止まった白一色の無時間の色、風化して地上の色に染まる緑色、時化によって海の時間にたゆたう青色というように…。光、紡、まなか…彼らの心の凪を、そして凪の終わりを見てとるだけではその可能性を掬いとれてはいないだろう。彼らが直面せざるを得なかった凪の終わり、即ち、「海の色。大地の色。風の色。」とあるタイトルの、海の時化、風の風化、地上の凪の始まりに焦点をあてることでこそ、留まることへと抗うとともに、留まらない作用に翻弄されるだけではない、「凪の明日」から、顧み透かし見られた今と未来を希求する態度が、物語へと陥ることなく今と未来とを見透かす視線が、見出される。

 

 

1、お伽話と「凪」の海--- 光-美海のケース

 

(1)導入:「お伽話」と「凪」の作用、『truetears』における二つの絵本との類似

 

さて、光と美羽なが過去にとらわれたことの意味するところ:

想い人を想うというフィクショん、ひかりは紡が好きなまなか、を、みうなはまなかがすきなひかりを

しかし、これが極めて脆弱な素朴な家庭にのっている、純粋な家庭

そして純朴な振る舞いが過去に届くわけでは勿論ない。準某さのフィクションが至るかこでもなんでもないもの、これが(キャラクターに読まれる)海神のお伽話が、(視聴者に見られる)光のストーリーに重ねられていることは疑いない。

海神が地上の者に恋したおじょしさまを奪ったように、光もまた紡に恋した(かに見える)まなかを再度取り戻そうとひたむきになる(前半で明かされた海神のお伽話①)。海神が本当は自身に(も)向いていたおじょしさまの心を奪って、彼女の幸福を願ったように、光もまた、本当は自身に(も)向いていたまなかの心を、誤って紡への想いを梃子に取り戻そうと努める(後半で明かされたお伽話②)。

『凪あす』の物語は、光が「海神の物語」を通じて、自己自身による「海神の物語」の反復に陥っていたことに気づくという構成をとっている。海神は物語を作り出すことによって自らミスを犯していた。何しろおじょしさまを傷つけまいとする「好きの心を奪うこと」は、却って、自分に向けられていた愛情を無に帰すことに行き着いたのだから。そこで、おじょしさまは、一方で、地上の好いた男を偲んでいたばかりではなく、他方で、自身が共に生きる海神とその子らのこともまた、同じく好いていた。にもかかわらず、外からおじょしさまの心を奪うというのは、この二つの「好き」を、一挙に、双方ともに、無化してしまうことにほかならなかった。海神はおじょしさまの心に、地上への想いという変わらぬ「凪」を独りよがりに見出した。海神はこう思ったに違いない、もしそうならばいっそ海神と過ごした歴史は一切忘れて在りし過去のとおりに生きるのがおじょしさまにとっての幸せになるはずだ、と。そう思って、海神はおじょしさまの「好きの心」を奪うことで、新たに心に過去とおりの「凪」を与え、心の揺れ動きの可能性の一切を奪ったのである。

果たしてこれは光にも同様に当てはまる。光もまた、まなかによる紡への恋慕を独りよがりに想像し、光自身のまなかへの恋慕を断ち切るべく、まなかの紡への(存在しない)想いを取り戻そうとした。光は、自身を過去に、「凪」にとどめることで、過去のまなかの本当の想い(と光が信じたもの)を取り戻そうとし、却って、光へのまなかの想いを、視ずに済ませてきたのである。

ここには、見ようとすることで無視するに至ること、自らを見誤ることで他者を視ずに済ませるに至ること、という視線の陥る罠がよく表れている。海神、光、美海においては、この現在が在りし「凪」によって把握され、そののち、来たる「凪」とともに取り戻そうとされているが、この作用自体が時をとどめ、関係を固定させていることに三人が気づくのは、遠く26話に至ってのことである。

 

ここで一つ、クッションを挟む。

物語内の物語によって自己の態度を反省する構造は『true tears』では眞一郎の二つの絵本で試みられたものだが、『凪あす』でもこの構造が踏襲されているといえるだろう。そして、この物語内物語の読解が空転することをも物語内で示す点において、『凪あす』は『truetears』を一歩進めたものになっている。『truetears』の眞一郎にとって、絵本を作ることは、自らの心の底に沈み、その心の底から自身を反省することに他ならなかった。それは乃絵によれば「真実の涙」「きれいな涙」と評されているように、一応は及第点を与えられた解法だった。しかし、眞一郎の心の底とは、自身によって見出され、作り出された(『tt』1話でいうところの)「君」=「不変」の比呂美を求める心でもある。この眞一郎の短絡は大変まずいからこそ、『tt』においては、「不変」ならざる何ものかではないものを求める心の意味、乃絵にとっての「跳ぶこと」の意味は、未解決の課題のままとされていたのである。

『凪あす』の海神のお伽話においても、物語を反復することは同様に「不変」を求めることで、却ってその中にあるはずの心の揺れ動きを無化し、在りし過去のとおりの真実を現在に呼び出すことに留まってしまうことが示唆される。ぬくみ雪ふる現在に固定してしまう「不変」の世界、ぬくみ雪による白一色に染まったcolor無き世界は、時によって姿を変えることなくその身を止め、たいそう美しいし、時に美しく思い出されることだろう。しかし、その「不変」が自らの心の色を反映し、その心を模して成立している擬似的な模造であることに、光は気づかねばならない。海神と光、そして美海の三者において、物語は取り間違えられたのではない。単に、その内部に(無矛盾の)不足があるのだ。無矛盾の不足、おじょしさまにとっては海神への思いと地上への思い、まなかにとっては光(海)への想いと紡(地上)への想いがある。それらを短絡させることで、双方一挙に無きにすることは許されない。

 

(2)問題点:光-美海の「お伽話」への再没入 

 

2期の光は、時を留めるぬくみ雪に埋もれたまなかの「不変」の在りし心を現在に取り戻すべく邁進する。これは「不変」から「可変」への移動とは決してならない。光が求めているのは、変わらず残り続けるはずの(と光が想定した)、在りし日のまなかの「紡への想い」だからだ。これは、一つの「不変」から別の「不変」への移動に過ぎず、本来的な揺れ動く心の作用とは無縁の移動にすぎない。即ち、ここで、ひかりはもう一つの物語を求めてしまっている誤ちに気づかねばならない。ぬくみ雪は過去と現在をそのままに止めているが、光は、その手で、その埋もれた(はずの)過去を暴こうとしているにすぎないのた。そこには「揺れ」が欠けている。海神の、そして光の中にある「楽になりたい気持ち」、「不変」の凪を求める意志が、現実に「凪」を要請してしまう。そして、その今を変えたいという意志に反して、パフォーマティブには「凪」を維持しもしてしまうのだ。ここに三者の陥る隘路がある。

この隘路から抜け出すのに必要なのが、歴史の「もしも」だ。在りし過去も、斯くある現在も、不動の、死んだ、固定された一点では全くない。そこには常に偶然が宿っており、今もその偶然とともに垣間見られるより他はない、ゆらゆら移ろう虚像として現れる。歴史の「もしも」を這わせることで、「凪」を動かす意志、時間を先後関係という楔からはずしてしまう意志、あったかもしれない海の音に耳を済ませる意志を、呼び覚ますことができるのであろう。そうすることで、光は「お伽話」を紡いでしまう「凪」の作用から抜け出すことができるはずだった。

しかし現実には、光は26話においても、このお伽話のドラマツルギーを反復することで、再度、物語に囚われてしまった。26話では、これまで、過去の記憶どおりのまなかだけを取り戻そうと努めてきたことで、すぐ傍らに寄り添っていた美海の心に気づくことができなかった自分を厭い、目の効かない自らの短慮を憎み、そんな心の連鎖が生み出すいくつもの物語を一掃しようと、単純に、短絡的に「好きな気持ちを奪ってくれ」と願うに至る。しかし、そんな光の短絡的な願いは何の意味も持たなかった。事態が動いたのは、海神が美海とまなかの心に触れ、かつておじょしさまに関して自身が描いたかのお伽話とは異なる「真実」に触れるや否や美海とまなかは共にその心とともに解放されたことにある。それに伴い、「凪いだ海が動き出」し、失われていた在りし過去が一挙に取り戻される。即ち、二つの世界が一つの時間の中へと一気に折り畳まれることで、光は、なんの寄与もないままに、美海とまなかの両方を一挙にこの現在に取り戻すのである。そんな光は、労せずして、そして何らの迷いも見せることなく、なぜかまなかを当然のごとくに選び、まなかとともに歩生へと足を進めることになる。

 

というように、ここには、一つの欺瞞が潜伏している。光は、事態の進展に何らの寄与も果たすことなく、単なる偶然に訪れた幸運をそのまま無批判に享受している、そしてその奇跡の到来を忘却しているにすぎない。光の「俺の好きの心を奪ってくれ」という願いは、どこにも届くことなく、もとより次の瞬間の自分にすら届くことなく忘却されてしまってあたる。そこには「運命なんてない」という言葉が白々しく響くほどに運命の導きのままに、一直線に進む光をみてとることができるだろう。

勿論、光は、このお伽話のドラマツルギーに気づいていたのかもしれない。もしかしたら、自らの凪を求めてきてしまった心の作用を厭うことで、「好きの心」を失うことなく「好きの心」を願い続ける心性を獲得したのかもしれない。そうかもしれない。しかし、少なくとも劇中でそれが描かれていたと読むことは難しいだろう。確かに、26話に至って、光は「変わるのも変わらないのも自由だ」と変化についての自分の見解をまとめる。しかし、その直前で、光の変わらぬ「好き」を変わらず「好き」な美海の心に気づくことで、それを無視してきた自分を強く厭いたことを、タイムラグはないはずなのに、光は殆ど忘れてしまっている。光の心は、現実にまなかの心が帰って来ることで、さらに美海が海神の更なる犠牲にかけられなかったという偶然の事実によってこそ支えられている。例えば、美海かまなか、そのいずれかが、仮に欠けたとするならば、光がその世界に絶望し、自分を責めるだけにとどまるだろうこと、即ち世界を受け入れることができないだろうことは、想像に難くない。つまり、光は自らが陥った過去と斯くある現在に対する欺瞞に満ちた目線(一度は強く拒絶したはずの嫌な目線)をただ忘れているに過ぎず、その目線をいまだ真実には批判しえてはいないことが判明する。

 

(3)象徴としての巴日:光と美海の結託によって見出される幻日=現実

『凪あす』では、心を海神の下へと留める犠牲の連鎖が終わりを迎えたことが、「止まった凪が動き出す」と形容され、称揚される。しかし、その凪の終わり(光の言う「運命」の欠如)が、同時にその安寧としたまなかと美海のいる日常を前提として、彼女らに支えられているというご都合主義を、無視することは許されない。光は、まなかと美海、両者がこの世界に回帰する糊塗なしには、自らの心に向き合うことはまったくできていなかったと云える。

つまり、光は、自分が見てこなかった斯くある現在について、再度の忘却に沈み、そして自分が囚われていた在りし過去どおりの現実(まなか)が訪れることで、これまでの悩みのプロセスを一挙に無視し、無化している。そこに、光による再度の「お伽話」への再没入、自分が見たいものだけをその中に読み込む「お伽話」を介した視線回避を見て取ることは容易だろう。「運命なんてない」のに、自らの想い描いた過去どおりの現実を手にするとき、光には、自らの態度への反省を経たならば当然そこに入り込むはずの一瞬の躊躇すらも、欠けているのである。

巴日:光が冬眠後に最初にみたもの、拒絶反応

しかし①巴日は、海面にうつったもの、過去の経験のとうえいでしかない

 ②巴日は太陽の虚像であること、真偽はない

そこに真偽を読み込むことが、光の問題

それを後押しするみうなも問題。真偽は関係なく、あとおしできる、フィクションにいきるもの、母親とか光がいるしおししおへの憧れで生きているのがみうな

真偽ならざるもの、として、とも海老や物語からぬけるひつよう

26話で慟哭する光は、その嘆きに見合う生を送るのであれば、フィクションに彩られたともえびやお伽話の物語が働かないところでなおも生きる、という方向へと目を遣らねばならなかった。それにもかかわらず、海神が物語を取り違えたように、光もまた、物語によって現実を取り違え続けている。『凪あす』のお伽話におけるご都合主義は、単に制作上の不備ではなく、どこかで時の止まった物語、「凪」の物語を求めてしまう心の至る隘路をこそ、指ししめしているにもかかわらず…