書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

Wake up, Girls! 1- 12話 感想メモ: 未来視の作用、「見る-見られる」の交錯の向こう側へ

全話見直しはできず。これまでTwitter上で書き散らしたものを集めたメモ。

 

 

0、導入---奇妙な「偶像」アニメ

 

「もう読むな──見よ!もう見るな──行け! 行け、お前の時に、姉妹はない、お前はいま─」(パウル・ツェラン『迫奏』)

 

『Wake up, girls!』は奇妙なアイドルアニメである。そもそも(その素人感を狙っているにせよ)画の動きが極めてぎこちない。歌や踊りといった「見せ」は極端に少ない。時たま、その「見せ」があるにせよ、雑音まじりであったり、一部のみでカットされたりと、流れとしての「見せ」が機能していない。あるいは「見せ」自体が、アイドル業界的「見せ物」であることを表すがごとくに、性的な視線に晒されていたり、観客と一緒に映り込んだり、引いたカットが多いなどなどと、一々、アイドルを「見る」側の我々、という立場を顕示化することで、アイドルへの没入体験を拒み、体験の相対化を図ってくる。いわば、邪魔な者達が入ることで、アイドルとの関係を確立することを、『WUG』は拒絶してくる。

しかし、勿論、この映像体験の一見したところの奇妙さは狙われたものだ。視聴者が『WUG』を見る際の没入が拒絶されるとき、そこに、WUGのメンバー達がもっていたはずの数奇な生の来歴が立ち現れるからだ。そこには、アイドル=偶像はないし、イデアもまたない。そこにあるのは、我々とカットを同じくして映り込む、自他の区分が曖昧なイメージとしての揺れ動く身体である。WUGにも物語はあるかもしれない、トラウマがあるかもしれない、しかし、そんな還元的な要素に抗するように、WUGは、その一つ一つの問題ごとに、「これが最後」という意志とともに、我々視聴者に可視的な画面へと(不完全ながら、その捻れた足で)飛び込んで来るのである。それも、奇妙な時間性とともに。

そこにこそ、『WUG』の非-アイドル性の強調を、そして、WUGメンバーによる「見る-見られる」という目線の交錯を、更には、その先にある(ノスタルジーとも異なる)かつて在りし未来視の作用の伝播を、読み取ることができる。このアニメの奇妙な魅力はここに現れている。

 

 

1、Wake up, girls!---「見る」「見られる」の先にあるもの

 

さて、Wugが興味深く示しているのは、アイドルは、客に見られた偶像でも、アイドル達に見られたイデア(=自己イメージ)でもなく、「見る」「見られる」が交錯する瞬間を開示することにこそその価値がある、という事実である、と述べた。

この視線交錯は、第一には、アイドル自身にとっての過程として起こるだろう。アイドルは「見られ」の極大化と内面化によって成立するが、その「見られ」から身体的・市場的に、常にズレて、置いていかれる運命に置かれている。そもそも、アイドルが現実に(たぐいまれに)成立するとしたら、無数の市場的困難と物理的労苦と不可逆の過程を具体的に飛び越えなくてはならないのに、そういうことは舞台裏に押し込まれて来たし、仮に表に出されるにしても、「舞台裏の表面化」という形式の演出としてしか「見せ」は成立し得なかった(ex.頭髪剃毛謝罪会見など)。しかし、そうまでして成立させようと躍起になるアイドルとは自分自身にとって何なのかを、キャラクターが捻り、そして飛び越えることが求められる。これが第一の方向である。

第二に、そのアイドルの自己イメージからの離脱、非対象化を、それを「見る」側が、あたかも自分自身の問題として問い直す過程に晒されることが挙げられるだろう。即ち、第二の方向は客、或いは視聴者において作用する。そこで客、視聴者は、Wugを「見る」だけ、品評するだけの主体ではないし、かといって、アイドルから目線を「もらう」だけの主体でもない。そうではなく客は、Wugにプロセスを生きることそれ自体を見る。アイドルの一つの極北である、与えられた物語でも完璧な技巧(虚構a)でもなく、かといってもう一つの親しみやすさや距離(虚構b)ですらない、生きた歴史とプロセスをにじませながら今を提示する姿(虚構c)に、その周りの人間が、各々の彼ら自身のその歴史やプロセスを、かつてあったかどうかさえ定かならざる歴史やプロセスに在りし未来への目線(未来視の作用)を、自ずから思い起こすのである。

 

2、5-6話。アイドルへの拒絶感の意味=虚構性a,bの排除

 

例えば、5話から6話、藍里がWUGから早川の圧力により離脱させられかけた回にかけては、この「見る-見られる」の視線交錯の展開が、よく見てとれる。

①i-1公演で(駅前スクリーンと同じく)画面の中心に映し出されるWUGメンバーらと、②(客席・控室・トイレ等々の延長で)客らと共に映るWUGの面々の立ち位置は、そのまま、①外から常に「見られ」、憧れら「れる」i-1と、②自分をまだ定義づけられずに、立ち上がろうとするWUGの差違に対応している。i-1を逃れた真夢は、6話のi-1センターとの邂逅により、②を追及する意志を新たにするが、この主体的な意識、(外から見られた自分ではない)自分を好きになろうとする意志は、未だWUGメンバーには共有されていない、独りよがりなものに留まっている。そのため、真夢は、自分のすぐ側にあるWUGというグループ(或いは実母との関係)を新たに定義し、まとまらせることができない(そのためには、まだ時間が足りない)。

そもそも主体的な意識の獲得だけで乗り切れるほど、市場や業界は甘くはない。特に、「虚構性」を何らかの意味(※例えば、前述のa〜cのパターン)では避けられないアイドルを作り出すには、意識変革ではおよそ足りないのだ。

アイドルは「虚構性」を避けられない。とはいえ、WUGにおけるアイドルの「虚構性」とは、問われることなく既に与えられたイメージを未だ持っていない。それは、映画版から最終話にかけて展開されたように、ア.)自身の幸せ、イ.)身近な人の幸せ、ウ.)沢山の人の幸せを、どのように接合するかという「問い」を練り上げ、乗り越えられる形で、はじめて露顕するものである。

これらの三つを、練り上げることなく、単に概念的に統合することは容易い。「みんなで幸せに、「日本」が幸せに!」と歌う、アイドルの典型たるi-1の描かれ方は、この統合の失敗例ではなくもちろん一つの「成功例」だ。しかしWUGは、これら概念の拙速な癒着によってではなく、「問い」に巻き込んでいくことで、客も自分をも、幸せにする所作を問う「主体」にしたてあげにいく。あたかも、「幸せとは何か?誰かを(既にその所作・態度に取り込まれているはずの)幸せにするとはどのようなことか?」という問いを問う誰もが、「アイドル」の一歩目を踏み出している、と言わんばかりに。

※5話、i-1公演においてWugは、ただ単に「見る側」に立っていた。ある意味では、容易い日常として「見る側」に安住していたともいえる。そこに、6話、音楽プロデューサー早川が介入することで、ゲームバランスが崩れ、Wugの面々はそのプロとしての、そして早川が目論む市場におけるアイドルゲームに強制参加させられ、翻弄されることになる。勿論、この翻弄は、戦力外通告により藍里が「見る側」に留まるという、6話のテーマに象徴されているが、ほかにも、Wugメンバーの疲労蓄積により「見られる側」としてのプロたらんと仕向けられていること、i-1白木からWugがライバルとして認知され、「見られ」始めたことにも、同じく表れているだろう。

 

以上に見られるように、i-1に代表される所謂アイドルは、自意識としての「アイドルらしさ」によってではなく、より直裁に「見せ」によって常に自分を、無意識に、意識を欠いて、状況に翻弄させることによって成立する。逆説的に言えば、i-1は、「アイドルらしさ」をメンバーが自分で省みないことによって「アイドル」となっている。I-1は、①自意識と、②他者認知としてのみ「アイドル」を身につけた、ファッションとしての「アイドル」の権化とも言える。

「休まない、愚痴らない、考えない。いつも感謝!」。I-1白木が、絶えずメンバーに復唱させる、アイドルの心得にはそうあったはずだ。そこには、②他者認知とともにある、優しい「ふれあいプロジェクト」としての、①自意識しかない、ともいえるだろう。ここで、②と①は常に一致している。万人の共有財産であるアイドルの偶像性が、ここには遺憾なく発揮されているとも言える。

(※なお、この問題は、人は潜在的な「見たいもの」をどうしても視野から除外することができない、という『CANAAN』の視線の問題に通じるものがあるだろう)

しかし、幸運なことにWugはその、①自意識と②他者認知の強制的なセットという地獄の、その手前に留まっている。なにしろ、WUGが示すところによれば、アイドルは、単に「見せる(見られる)」対象なのではなく、その中から「見る」とともに「見られ」、「見せる」と同時に共に「見る」存在であることができるのだから。つまり、Wugには、まだ他者認知と解離したアイドルとしてどのようでありたいかという問いが、未定未決の問いとして残されている。これを、③絶えざる主体化の問い、と名付けることもできるだろう。

5-6話の脱退を迫られる藍里は、②「見る」、①「見せる(見られる)」の役割交換のその間に佇む。それ自体は、自らも客をも主体にしていく可能性を肯定的に示している。しかし当時、藍里を含むWUGメンバーの誰も、この事態の曖昧さを肯定的には捉えられていない。これは、よくある自意識の葛藤(ex.うまくできない自分が嫌い)ではない、そうではなく、外在的な状況に拠る疎外であるのだが、そうはいっても藍里にとっては端的に「見せ」に繋がらないことによって、③主体化の契機を奪われる結果となっている。

(※主体が状況によって決断(「10分以内」!)を迫られ抜け落ちて行く描写がなされている。人は状況依存的な理念によって、容易く主体の地位の剥奪を強制されてしまうのだ。)

それでも、藍里は、過去と人とを捨てて得られる(「見せ」への)決断ではなく、過去と現在、ひいては「見る」客と「見られる」アイドルを、「見る」アイドルと「見せる」客へと絶えず転換させつつ繋ぐことで、たったひとりの誰か(※藍里にとっては真夢である。)を、誰もが幸せにすることができる作用を手にする。そこで、自意識は他者認知から解放され、また他者認知は自意識から解放され、それらが絶えず彫塑しあう③主体化の契機がひらかれる。

勿論、この作用は、自意識や情緒的な葛藤でも、市場での交換価値でもないし、そうあってはならない。「変われるかもしれない」ことを願ってアイドルへと足を踏み入れた藍里は、個的な自意識にも、他者からの承認にも寄ることなく、かといって(i-1から離脱し、誰かを元気づけることができるようになった真夢のように)夢をまっすぐに追うこともなく、7人のWugとWugによる多者の充実を志向する最初の存在として現れるのだ。

藍里がその目に浮かべているのは、「見せる」市場から離れることで誰もがアイドルになることができるし、そのようなアイドルになれるのでなくてはならない、という来たるべき未来の自分の像にほかならない。
確かにアイドルは偶像である。しかし、①と②が閉じたI-1型ではない、①と②を問いとして浮かび上がらせるWug型のアイドルであるならば、そのアイドルは、上記の来たるべき未来の自分の像が誰もにとっての像の反映でもあることに気づかせてくれる。そして、見る客が有している、アイドルを惰性で「見る」自らへの問いの反省を与えることによって、はじめて、アイドルの作用は完成するのである。

 

3、もう一つの虚構性(虚構c)へ。かつて幻視した未来への目線の想起と身震え。

 

この「問い」の終着点は、物語消費にならない「幸せにすること」にあり、そのプロセスで「見る」「見られる」を(佳乃の足のように)捻り、飛び越え、どのように、「幸せ」の概念をねりあげるかにある。それを一挙に飛ばして幻想を作り出すだけの(i-1の新曲「極上スマイル」における)「日本」というような語は、いわゆる有象無象のアイドルたちにその象徴として競争を任せていればそれで足りよう。そうではなく、アイドルゲームからの降り方の振る舞いや、一つのグループであることへの態度が自ずと示してしまう振る舞いが、WUGのみに賭けうるものなのだ。

i-1当時の島田脱退事件に見られるように、象徴を降りること自体が象徴化されるような、非日常化の作用が極限まで高められた(そして内面化された)市場、業界の一部として、i-1アイドル達が描かれてることは疑いない。一方で、そんな全てが「見られ」で成立するメタ構造を、WUGのように、足を捻りながらもスルーして、物語化の圧力から脱し、様々なカットが飛び交う次なる日常へみんなで跳ぶこともまた可能であるのだ。自分たちがアイドルのゲームに乗らず、客をもまたアイドルのゲームに乗せないことは、その前提だ。

白木や早川が皮肉にも述べるように、アイドルという「型」が市場の中で形式化されると、その訴求力の伸びは逓減する。たとえその構成員にたえず変更があろうとも、客がアイドルを「見る」品評的な見方は変わらない。そこには運動が、「見る」側と「見られる」側とを交換し、視線を再帰させる運動が欠けている。非日常の物語ではなく、作られた日常の物語でもなく、その視線交錯こそが、WUGが与えるだろうものなのだ。

 

最終話。WUGを介して、周囲のみなが「あの時」から見られただろう「これから」を幻視する。i-1センターは変わらない真夢が掴んだ新たな「みんな」を、白木は自分を見る真夢のその「顔」(看板でもある)と「結果に現れない勝利」を、早坂はかつての「橋上のライブ」に始まるもう一つのi-「1」を…そしてWUGのメンバーは「1年前」から始まり今も弛まぬ「幸せ」の伝播の偶然に思いを馳せざるをえなくなる。

過去にふと夢見ただろう未来への目線を、今思い出すことは端的に不可能だ。それは、「今思いだされた、未来への憧憬、についての憧憬」という形でしか現前しない。つまり思いだしたとすれば勘違いであり、思いだせないとすれば端的に無であるようなものとして、未来視の作用はその身を隠しつつ示す。しかし、WUGの捻られた足は、無であるはずの、来るはずのない姿がそこにある事で、過去を幻視させ、失われた目線をふと与えてくれるものでもある。

勿論、失われた目線といっても、WUGから与えられるのは、かつてありし過去でもそこから今に続く物語でも、それらが回顧されたノスタルジーでもない。かつて想った未来像でも、未来を見上げていた意志でもない。そうではなく、未来をふと見上げる身体の震え、もはやあったかさえ思い出せない未来視の作用が伝播されるのだ。もはやあったかさえ思い出せない未来視の作用。それが真夢のいう「幸せにする」ことの意味なのだ。

即ち、「幸せ」とは幸せな人から恵まれ与えられる一方通行のものではもはやない。それは、自他境界を越えて「あったかもしれない」未来視の記憶(真の夢)を喚起することで震わせられた生そのものを指す。WUGは、客を現実逃避のノスタルジーに陥らせることも、かといって一つの偽史=物語に生きさせることもしない。各人が在りえた歴史をもちえ、そして各人が在りえた未来をもちえていることを、捻れ、センターをズラしてなお不恰好に跳躍するWUGは、物語に陥ることなく、自他に、共に、示しているのである。

対照関係に立つことなく、自分と他人とが、自分と他人とに共にタチアガルこと、その伝播が、WUGの躍動する身体に賭けられているものである。