書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

J. デリダ『ヴェール』「蚕」1章

『ヴェール』より、主にシクスーの「savoir」とデリダの「Un ver à soie」1章のメモ。

作成に当たっては、引用箇所を(終章である)3章まで含めた上、意図的に順番を組換えたのちにまとめています。改題的なまとめ、ということで、ご了承ください。

※ 全体の本の中での各箇所のテーマの取り出しの方を優先させました。なお、書き終えた今となっては、「ヴェール」の多義性に寄せた解釈よりは、さっさと2章3章で詳細に展開される「タリート」の解釈に移行してもよかったかな、とは思います。すこし無理やりヴェールに色んなものを積み過ぎたかもしれません。

※ なお、 @nag_nay_2 でのスペース☆ダンディ11話についての所感が、本メモをまとめた直接の契機としてはあります。よければご参照ください。

 

 

0.導入---「savoir」p.9-p.25

 

(1) 告白。近視(というヴェール)を除去しようとした過失についての:

 

 近視についての自伝部分(「savoir」)で、シクスーは、次の趣旨のことを述べる。

・近視のときには、近視を、視覚を阻害する靄でありヴェール、打ち破られるべき「門」、或いは「他者」として、捉えていた。だから、近視を治す手術・操作によって、そのヴェールは剥ぎ取られ、世界へのより親密な関係が回復する、と考えられていた。

・しかし、近視とは、たんに①(他の人には自明の)現実へのアクセスを阻害するものであるだけではなかった。むしろ、②(他の人が陥る)可視の拙速をとどめおいてくれるバッファであり、「親愛なる秘密」、「身内」として、世界へのアクセスを(逆説的に)可能にするものでもあった。

・それゆえ、シクスーが近視を手術によって治した(実際にそうしたわけだが。)としても、(デフォルトで存在すべき視覚がシクスーから奪われていたのに)視覚が今や「返還された」[邦訳p.15]、というふうにはならない。

・手術の前によって近視は治るが、接触を媒介にした近くの関係だけを結んでしまう状態は、手術によってよりよくなるということはない。そこには(術前に期待されたはずの)近視が阻害していたと想定されていた、世界とのより密接な近接状態は訪れない。そうではなく、単に、新たに<裸眼>の関係(視覚を媒介にした遠くの関係だけを結んでしまう状態)に立つことしか、術後にはなかったのである。

・単なる近視から裸眼への移行、近視を失いつつある移行。そこには世界への接近がない。このように、いわば人は、視覚”の”ない世界か、視覚”しか”ない世界か、の選択・分岐にとどまらざるをえない。

・このように、手術の後においても、もはや"見える"と"見たい"のセット、"見えない"と"見ない"というセットだけが分岐として残されていたことがわかるに過ぎず、ある盲目(視覚なし)から別の盲目(視覚しかなし)に移行したことが判明するに過ぎない。そこには喪がある、「視力の只中が見えるようになるがゆえにそこには喪があるのだ」[p.80]。不可視のものを、視覚に汚染されることなくそのままに留めたいという希望は、ここでは悉く挫折させられてしまっている。

※後に見るように、この分岐を強いるヴェール剥ぎの暴力をハイデガーの「アレテイア」に重ね、その代替案として、ヴェールと共に来るべき審判を待つ(<未視>の審判とともに生きる)という振る舞いを分析、析出するのが、デリダの課題となる。

 

(2) 除去によって失われた真実、除去に誤って期待された「真実」:

 

 シクスーが手術・操作により近視ではなくなった瞬間、かつてありし近視の「秘密」、「身内」であったヴェールの「奇妙な善行」[p.21]は、姿を消して、もはや元には戻らない。近寄ること、及び、力を加えることだけで出来ていた(触覚だけで出来ていた)近視の者達の「煉獄」[p.22]、或いは「<世界以前の現前>」とシクスーが呼ぶもの[p.23]は、近視のものには見えないままだし、見えるものにとっては既に失われてしまっているからである。

 この奇妙な事態について、シクスーは告白を試みる。確かに、彼女は、この奇妙な事態を体験し、かつ、言葉にできる、数少ない者のひとりである。そのひとりとして、「<見ないことから見ることへ移行した近視>のもの」として、シクスーはその証言者たりうる視覚をもつ、というわけだ。しかし、その証言者もまた、可視と不可視の間を択一的にしか移行できないという条件のために、証言者たる資格はやはり剥奪されている。喩えれば、朝、夢現の状態から目覚めていくときのように、術前には未だ証言できず、術後にはもはや証言できない。「彼女は忘れるだろう。…死すべき人間達には、両方の側に属することは許されていない」[p.24]

 このようにシクスーは、手術後、避けようもない見えることに驚き、かつてありし見えないこと(障害)をノスタルジックに回顧し、それでいてその力強い見えないこと(障害)を「見よう」と「欲し」てしまう[p.25]。なにしろ、それしかできないからだ。見ることの領域に一旦入ってしまった以上、視覚をつうじてしか不可視の領域にアクセスする術が失われており、欲するのも視覚になってしまっているというのが、この記述にはよく表れている。

 そして、ここにこそ視覚の盲点がある。換言すれば、視覚中心主義が見誤っていたヴェールのもつ「秘密」がある。

 

 

1.応答---「Un ver à soie」1章(=自己(soi)の方へ(vers)という主題) p.31-p.77

 

 だから、デリダは一章で、このヴェールの「秘密」について応答することになる。

 それにあたり、まずはシクスーが採用した「告白」という言語行為について応答することになる。なぜなら、告白には、望ましくない告白(啓示)と、望ましい告白(捧げ物)とが存在するためであり、視覚の盲点を突くシクスーの告白が後者に属していることを明らかにするためである。

 

(1) ヴェール剥ぎと審判の(無)関係:啓示ではない告白へ:

 

 さて、シクスーの告白である。

 これはまずは、見えていなかったことと見えるようになったことを一挙に短絡しようとする手術というヴェール剥ぎに頼ったことについての発言であり、その結果としては世界への近さにはなにも獲得できていなかったと回顧されるものである。一見すると、ヴェールを剥ぐこと、「今日の光の啓示」[p.53]として、告白が提示されているかのように見える。

 実際、告白という行為自体は、抽象的にみれば、(例えば回顧という名を騙って)かつての認識を「過失」であり、今の認識が「真実」であると看做す、過剰な決断の作用にほかならないのだが[p.56]、シクスーはその過剰性を知っていながら、あえて啓示的に見える告白行為に及んでいた。

 シクスーがこのような危険をおかし、告白行為に及んだ理由は、次の様なものである。

①確かに、告白の作用には、秘密を剥ぐこと、短絡する決断の作用を伴うことが避けられない。それは宣言し、かつ、啓示してしまう。それは事実確認のフリをして、事実を仮構する。前述のように、裸眼の関係に入ることとは、世界が「見える」ようになることであるとともに、世界が距離をもった離隔(のレンズ verte )を通してしかアクセスできないようになることでもあった。そのため、啓示による真実、真実性、真言性は、「審判の真実の言葉」[p.34]とは端的に逆を向いている。ヴェール剥ぎが真実や真実性と関わるのとは異なり、「真言性なき審判」は来るべきものに留まる。物自体に触れることがないのは自明として、その前のヴェールにさえ触れることはない[p.34-35]。(α:告白の第一の意義

②しかし、だからこそ、シクスーの、過去の告白を現在において告白する行為は、自らの過失を暴露しつつ、その過失の"避けようもなさ"をも吐露していることになる。「告白”そのもの”が過失だった」[p.56]。ここで告白は、単に①のようなヴェールを剥ぐこと、過失なく真実を開示することに終始してなどいない。ここでシクスーは、告白によって見ることなく触れ、<未視のもの>を引き留めること laisse (=引き綱 lisse)を可能にしている[p.55]。「過失」が予め、避けようもなく折り畳まれているという彼女の宣言は、ヴェールの剥奪(非隠蔽化)とは全く無関係に、「自らを捧げ物として差し出すことにおいてその力の裏をかく」[p.57, 60]、ヴェールの転用作用を伴っているのである。(β:告白の第二の意義

告白は、このβ、ヴェールを明かすことなく転用する第二の意義において、その力を発揮する。

 

(2) ヴェール剥ぎと真実の(無)関係:剥奪ではないヴェールの保持へ:

 

 ここで用いられる「ヴェール」とは、勿論、ハイデガーのいう「アレテイア」の「ヴェール」である。即ち、A-letheia、Un-verborgenheit、隠されて-いないことが真実だという、かの教説における「真実の覆い」[p.62]のことである。ハイデガーの言を引けば、次のようになる。「いつもすでに真理と非真理のうちに」Daseinはある。言い換えると、「真理と非真理の内に同根源的にある」Dasein、覆いの剥奪と覆いの復元、ヴェールの剥奪とヴェールに拠る覆い、或いは隠蔽(退隠)と開示の非-隠蔽、の内に同根元的に存在するDaseinがある。[ハイデガー存在と時間』細野訳(上)p.461,p.474]。

 しかし、こんな隠蔽としての啓示(とその逆)にかんする見かけの対立には、うんざりさせられる、とデリダは散々愚痴を書き連ねる[p.62-66]。なぜうんざりするかといえば、ヴェールを剥ぐ行為それ自体が一つの命令、比喩として機能してしまうのが、ハイデガーが何度も傾向的に陥る問題だからだ。そこでは、ヴェールを剥げば世界が現れるという短絡に一挙に結びついてしまう。「証拠に頼っていると真理は疲弊してしまう」[p.62]のに、ハイデガーはその証拠を審判することに終始するのだ。一つの真理を聞き取らせることによって[p.39]。ハイデガーは、始めから終わりまで、真理の啓示を期待し、ヴェールを剥ぎとりたがり過ぎている。

 それゆえ、ハイデガーによるヴェールの剥ぎ取りは、聴き取るにまかせること、聞き取りをまつこと[p.41]、審判が到来するのを(「かのように」のもたらすメシア的瞬間[p.39]において)待つことの対極に位置してしまうことを避けられない。デリダが重視するのは、勿論この後者である。そして、これら待つことのためには、距離と時を縮めないこと、短絡に抗する差延と遅延とが不可欠なのである。

 即ち、デリダによれば、来るべき日において出頭を要求され、遅延し続ける審判が下ることに対して、身構え、待つ「かのように」、遠くから書くことが必要となる。世界の果てまで「遠ざかり」、世界の編成を「堪え」、編み目が減るのを「見守る」ことが要求される。[p.33, 38]

 とはいえ、勿論、デリダもまた、ヴェールを全く無きにしてしまおうというのでもない。「ヴェールとの決着がつくという事態が、いつか生じるなどというチャンスはありえない」[p.40]。「ヴェールは喪のしるしとしてまとわれる」[p.79]ことを避けられず、一方で、そのヴェールなしでは「到来するもの」を待つことはできないのだから。更に、ヴェールは人と密接な関係を持ち、「人類というものは、羞恥、抑制Verhaltenheit、裸性、悪を犯すための知、悪についての知、善悪を知る木、罪、堕落あるいは頽落、つまりヴェールとともに生まれる」[p.68]のであるから。

 ここでいう「喪」とは、『喪とメランコリー』におけるフロイトによれば、過去を清算し、忘却するためのものである。一方で、デリダによれば、「喪」とは同時に、来たるべきものを待つための条件を整えるものでもあった。ここで、シクスーの告白にみられるように、近視からの回復は裸眼への移行でしかなく、「視覚はそもそもの初めから<未視のもの>の喪に服していた」[p.81]こと、を思い起こすべきだろう。ヴェールもまた、「喪」のしるしとして、「喪」と同様の役割を担っている。ヴェールは、真理についてそれを啓示的に開示する(フリをする)と同時に、来るべきものの審判を待つ為の条件として機能する、といえるだろう。

※後述するように、3章でデリダは、「知が知らないこと、それは到来するものである。そしてこれこそが到来するものである」と述べる。そこで到来するものとは、「私が操作するのではなく、私を操作する操作」であり、それは「知」によっては到達しえない。<私>はヴェールの動きとして存在する。そのために、真実をもたらすと僭称する審判作用から離れて「真の夢」から始めなければならないのである。そうして、「審判の現実(=現実そのものとなった審判)に対してさらによく身構えるために」書かねばならない[p.136, 137]のである。

 

(3) ヴェールと<私>性との密接な関係:編み込みではなく「目」の減少へ:

 

 このように、人は、あるいは<私>は、ヴェールを避けることはできない、或いは、ヴェールを一回的に避けることはできないので何度も避け続けなければならない。問いを問い、問い方を問うだけでは、世界に向かうにはまだ足りない。そうではなく、ただ、ヴェールを介して、ヴェールとともに、待つことへと開かれるほかはない。ヴェールを剥ごうとも、それは(<裸眼>の世界という、近視とは異なるだけの別世界のように)新たなヴェールに参与することを伴うのだから、ヴェールとの関わりへの吟味無しには、ヴェールの作用を切断することはできないままに留まるだろう。

 「ヴェールに決着をつけるとは、常にヴェールの動きそのものであったことになってしまう…」、「<ヴェールの剥奪=非隠蔽化>において、ヴェールを再肯定してしまう…。ヴェールと決着をつけること、それは自己と決着をつけることだ」。なるほど、たしかにそうかもしれない。だがしかし、「君は確かに終わらせるかもしれないが、ヴェールと決着をつけることはできないだろう、自己と決着をつけること、それがヴェールなのだから…君が決着をつけるまさにそこで、ヴェールは常に君よりも長く生き延びるだろう」[p.40, 49]

 ヴェールは、決着を期待することによっては避けることはできない。ヴェールは、時間的に、また操作的に、私を越えて長く延長する。その避けられなさを受忍するのであれば、ヴェールを保持しつつ、ヴェールを転用することに開かれるまではあと一歩である。そこでは、ヴェールを一者へと断固として還元しない出来事、「参照という出来事」[p.120]によってのみ、ヴェールを越えて未来を待つことができるだろう。

 そのときに現れる、未来の「1+n者」は、輝かしい奇跡のようなもの、「もはや奇跡となるべきもの」ではありえない。そうではなく、「端的に、もし可能であれば、現実の現実性、幻想ないし幻覚を越えて遂に取り戻されるありふれた現実性となるべきもの」なのである[p.138]。

※そういう意味であれば、この「いかなる静止画も残らない」動的現実の調律のあわなさを含むものとして、ヴェールのアレテイア、問いを問う行為は、再度復活することができるかもしれない。ヴェールを与えよとの神命を受けた贈与[p.44]としてならば、奇跡ならざるありふれた現実性としての「復活」としてならば、あるいは…。

 以上のような、ヴェールと人の密接な関連、過去と現在の密接な関連、与えられたものと与えられた物が開示する現実によって編みこまれた編み物の中に人は生きる。その上で、この編み物をほどくことなく、編物の編「目」を減らさなくてはならない。そのように、冒頭[p.32]ですでにデリダは問題提起をしていた。

 「目を減らす」という聞き慣れない表現がここでは用いられているが、これは、a.) 編み物を編むことにも、b.) 編み物をほどくことにも、ともに抗っている。c.) 「作業中の作品の網の目を少なくしなければならない」。その厳命の下、a.) 編み物を完成させもせず、b.) ほどくままにもせず、c.) 編み目の一部を一つ-また一つと減らしていかねばならない[p.32-33]。言い換えると、a.) 作品を作る真理にも、b.) 作品のヴェールを剥ぐ真理にも、ともに抗わねばならない。

 「目を減らす」、これは文字通りの形で言い換えれば、「視線」を減らすことに他ならない。編むこととほどくことの間で、物自体を仮構しようと欲したりヴェールを剥ぎさえすればいいと短絡する視線でなく、ヴェールを保持する振る舞いをこそ、この「目減らし」という語は指し示している。「私達は見ることも触れることも同様に諦めなければならないだろう。そして言うことさえも。終わりなき減少だ」[p.35 ※なおここで『触覚』の序章「我々の眼が触れ合うとき」も参照すべきかもしれない…]。

 ここでは、「減少」は肯定的な概念として提示されている。音楽記号のディミニエンドが、音を減少させること、即ち表現を少なくすることで、聴者に対してより多くを聴き取らせるに「任せる laisser 」[p.34]ことができるように、ヴェールとその剥奪の間には多くの「時の経過」[p.146]が詰まっており、かつ、そこにこそ、ヴェールの未だ聴取されざる秘密、別のヴェールの張り方が潜在している。いわば、減少によって増大する音の聴取、死と隣り合わせにあることによって増殖する幽霊への視線が、そこには(1者の真理への期待とは反対に)待期されている。

 

(4) まとめ

 ベンヤミンを引きつつ、デリダはこのヴェールの転用について述べていた。

弁証法的思想家にとって寛容であるのは、世界史の風を帆に受けることである。志向するとは、こうした弁証法的思想家にとっては帆を張ることを意味する。どのようにその帆を張るかが重要なのだ。言葉の一つひとつが弁証法的思想家の帆である。言葉という帆がどのように張られるか、その仕方によって言葉が概念になる。帆は概念である。しかし弁証法的思想家にとって、帆を自由に操るだけでは十分ではない。肝心なのは、帆を立てる技である」[p.136、ベンヤミン『パサージュ論』岩波現代文庫、p.213]

 ヴェール(概念)を逃れ、剥ぎ取ることは、真言性なき審判(の真実の言葉)を待つことへの道には続いていない。ヴェール(概念)を無きにする、ヴェールの剥ぎ取りと受容とは、ともに、帆(ヴェール)を操ることに、帆(ヴェール)を確定させることに、帆(ヴェール)を真理のうちに操作すること、「自由に操ること」に、終始してしまう。終わりから始めまでが、操作と決断、啓示とによって、一挙に繋げられてしまう危険がそこにはある。

 それゆえ、ヴェールは、新たに立てられなければならない。「目」の減少によって、より多く。

 「君はヴェールと決着をつけたがっている。君は確かに終わらせるかもしれないが、しかし、ヴェールと決着をつけることはないだろう。自己と決着をつけること、それがヴェールなのだから…君が決着をつけるまさにそこで、ヴェールは常に君よりも長く生き延びるだろう」[p.49]

 だからこそ、ヴェールはたえずそこから探究をはじめることができるチャンスを、その地点を提供している。副題にあるとおり「他なるヴェールに刺さった無視点 point という地点 point から、秘密のヴェールへの探求が押し広げられる。その秘密のヴェールは、答へと還元されること、解かれることを待っているのではない。そうではなく、より多くの秘密とともに生きられるはずの生をこそ、ひっそりと、しかし(知られぬままに)こんこんと、提供し続けているのである。

 

(5) 跋

 最後に、1章の副題(Un ver à soie」:絹の虫=蚕)は、「自己(soi)の方へ(vers)」とも聞こえる「Un ver à soie」の音をもつ。ヴェールの秘密は、単に手元にあってそれを剥ぎ取るものではなく、自己の内とともに自己の下をも還流し続けるものであり、かつ、自己そのものをおいていき、自己よりも長く生き延びる時間環境そのものでもあった。それゆえに、編まれた秘密にたいしては、よく「視る」ことや、よく「知る」ことではなく、むしろ「目」を減らし、秘密が自己の方へと流れてきた時の経路に、言い換えれば、転倒したクロノロジー(時間秩序)が立て直される前の「時の経過」に、身を委ねることからはじめなくてはならないとされていた。

 そうであるからこそ、以下の様な、避けられないクロノロジー(時間秩序)の転倒が「ありふれた現実性」[p.138]となるような地点=無視点 point から、はじめなくてはならないのだろう。

 「あまりにも(※絶対的に)遅く、私は(※既に)あなたを愛したことになるだろう…愛するときがやってくるのは常に遅い…あなたは私とともにおられたのに、私はあなたとともにはいなかった」[p.51-52]

 

(了)

 

※以下、

2.比喩「Un ver à soie」2章(=絹(soie)の虫(ver)=蚕) p.79-117

3.展開「Un ver à soie3章(=自己(soi)を通すレンズ(verte)) p.119-146

については、他日。