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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

1/18 宮台・東 「ニッポンの展望」 #genroncafe

宮台-東 「ニッポンの展望――2013年総括&2014年大予言!」 #genroncafe 

 

 

※発言どおりのノートテイクではないので、全体の雰囲気を感じられるようなものになればと。

 

 

1、序

 

・先日、video newsで既に対談している(サイゾー2月号に載る予定)

 http://www.videonews.com/on-demand/661670/003112.php

・昨年12月、宮台新刊『恋愛学』が発表されている:帯文「性愛」に帰ってきた宮台

 

 

2、過去編:2013年まで、と、その問題点

 

(1) 全体の見通し---「システム」から私性への回帰:感情劣化-教養劣化という現状のハードル

 

●東:「政治改革の20年」に一区切りついた年。ここで「性愛」に戻ったことの意味とは?

○宮:この本を読んで、読者は変われるのだろうか?DV男やジェンダー固執者を変えることはできるか?と自問する。「こうするべき、ああするべき」というこの本に出てくる話が彼らに認識できたとして、実際にそうするかというと、勿論するわけではない。社会学は、もともと(人に帰される)「人格」に規定される「人倫」、ではないシステムから考える、という思考スタイルをとっている。しかし、その社会学の制度志向だけでは足りない。やはり、感情的劣化した状態、教養的に劣化した状態にある場合には、制度や社会の変更によって、彼らを変えることはできない。政治でいえば、頭首を変えても何も変わらない。そのため、自己治癒的なもの、セルフメディケーションのようなものに近づいている。

 

○宮:東と喋るといつも変性意識状態に入る。いつも楽しい。

●東:(ナンパされてる?) とりあえずまとめると、2012年総括をvideo newsでやった。安倍政見の話とかが振られるけど、そこでは、宮台-東は、希望がないという点で一致してしまった。そこでは、もはや全体というよりは、地味な教育とかにやはり期待するしかない。人間の立て直ししかない、という方針で一致した。

○宮:やはり、自分をどうこうすること(自己陶冶)は簡単ではない。それ自体、もっとも難しい。現在の政治哲学では、感情劣化、教養劣化によって、民主政が回らなくなる、というのが通説になっている。たとえば、インターネットの影響をみてみればいい。現在のネトウヨの残念なところが、ヘイトスピーカーの跋扈などに表れている。かつては、右翼も、周りのひとから「なにやってんだ!」と怒られたものだけど、いまはそういう教育機会がない。そこからの派生物として、ポピュリズムやネグレクトという感情劣化が明らかになっている。「社会はどうあれ経済は回る」の逆で、「経済は回ろうが、社会・生活を回そう」という志向にシフトしないと、状況は厳しい。そこで、ワークショップ的なものに頼らざるをえない。現状として越えることのできないハードルを越える為の地味な選択が必要。

 

 

(2) 2013までの宮台と現状:SF的-長期の想像力、と、「聖」「性」「政」の三幅対

 

●東:宮台といえば、かつては援助交際問題を論じたもの。論壇ゲームをまわすよりも、リアルな語りにシフトしていった。それが90年代(前期からの「転回」の時期)になり、大文字の政治へのコミットメントに近づいて行った。天皇憲法の話題をしていったのもその時期。そこでは、論壇とは異なる宮台言論空間が醸成されていった。再度10年代になって、大文字の政治から性へと戻ってきたということか?

○宮台:もともと僕は『権力の予期理論』で博士論文を書いているように、国家権力論が十八番。政治論・宗教論・国歌論が中心。これは吉本隆明が『共同幻想論』とほぼ同じ範囲をカバーしている。そこからフィールドワーカーへの移行をして、論壇に援助交際問題をぶち込んだ。これは、いわば、園子音のような「いやがらせ」的介入。宮台が出てくる朝生が日常化したとしたら、その閉じた読者-筆者状況を問題視して、すぐさま潰すという営みをやっていった。その後、青少年育成条例関係への介入から政治家とのネットワークを構築していった感じ。同時期、神保のvideo newsで、政治生活へのコミットメントが増大していったというところも大きい。

 

○宮:とはいえ、僕も東さんも基本はSF好きで、政治とかとは違い、極めて長いスパンでものを考えている。たとえば、離散民族としてのディアスポラユダヤ的なもの以外にもいくらでも存在はした。そうかんがえていくと、「人類」の未来のために、「日本」が捨て石になるというのもあり得る選択だと、この頃は考えるようになっている。もともと、2010年段階で、日本がダメになる過程を記録することによって、人類のための役割をもてる、という観測をもっていた。だから、民主党のときに、すこし夢を持ってきてしまったけど、実際には変わらなかったことで、がっかりしたところも大きい。

●東:2013年というのは、1993年の政治改革が結果を実らせずに、だらだらと終わった時代。90年代に仕込まれていた種が出てきたんだけど、震災を経てすべてが終わった。これは宮台の20年とほとんど同じなのではないか。大文字の政治に関わるようになった、というのも2000年代と附合している。実際、宮台がコミットした政治家(枝野さんとか)は大物になっている。けれど、それがうまくいかなくなっていったので、「性愛」に戻るというシフトをしている。これは別のいいかたをすれば、「性」「政」「聖」と言い換えられる。宮台は、基本「聖なるもの」(超越的なもの)に惹かれている人。宮台は、その「聖なるもの」を最初は「性」に注入して考えていた。次に「政」に「聖なるもの」を注入して考えたんだけれど、うまくいかなかった。そこで、再度「聖なるもの」を「性」として改善のフックにしようとしている。

○宮:そのとおり。ヴェーバー的には、近代というのは、予測可能性を高める手続主義の合理化、によって定義される社会のこと。要するに、メカニズムによって予測可能性を高める。しかし、それは同時に「鉄の檻」でもある。つまり、我々の主体や実存が、合理主義によって消えてしまう。あえて非合理人にならないと、主体・実存が担保されない。近代社会は「変性意識」なるもの、宗教や麻薬、祝祭的な物を、どんどん時間的な物を空間化することで囲い込んで行く。社会の枢要なる物が、変性意識と結びつかないように囲い込む。パーソンズ的には、政治的な物と性なる領域においてだけ、「聖なるもの」が残された。なぜなら、永遠の絆に拠って結びつくというものが、家族や国家の領域では、やはり求められたから。「情熱としての愛」と「愛国心」の二つが残されたことになる。確かに、すべてを批判してもいい、なぜなら所詮全てが作り物だから…しかし、「聖なる物」がきえてしまったことで、我々は、ホームベースを失い、再配分や相互扶助の範域の自明性も崩れて行った。その結果として、ポピュリズムやネグレクトをするような感情劣化連中が大勢になりつつある。このどうしようもない状況に抗うことは、マクロ的には無理だな、とおもったので、とりあえず世が滅びようとも風の谷で暮らす、という心性にうつってきた。

 

 

(3) 「美学」をインストールした合理主義、の設計:二枚舌の欠落と忘却癖の蔓延

 

●東:論壇が経済論壇に支配され、ネットも現状では経済合理的な人間が前提になっていたのだけど、いまや政策論や政治論がなされている。そこには「聖なる物」が消えている。

○宮:まさにいまや政治と性愛のレベルだけで、ロマン主義が華開いている。政治的ロマン主義、性愛的ロマン主義。それらの「全体性」を担保する物が、ロマンティック・ラブや、総力戦と関連している。これは三島由紀夫の問題圏。「なぜ日本で喋っているのか?なぜ日本で聞いているのか?ここにしかないHeimatがそんざいしないこと、この場所を措いて他にない何かはあるのか?」。それらを無視したところに、現状の政策論がある。勿論、いまや、ロマン主義的な物をそのまま成り立たせることはできない。しかし、我々は、そういう「どうでもいい政策論」には背を向けて、フーコー的な美学的態度の陶冶に励むべきである。

●東:つまるところ、「合理主義」と「美学(ロマン主義)」の領域を分割できないのが、人間の本性。合理的な人間観だけを前提としたシステム設計は全て誤る。ロマン主義を個人の中にインストールしないと、合理的な社会設計が出来ないということ。それに対して、ロマンティックな物は危険なので合理主義でいこう、というのが20世紀後半だったが、それこそが非合理的だった、という話しにできる。

 

○宮:合理的なものを追及すると非合理になる、というのはよくある話。例を出そう。バカ左翼から日本の失敗は始まった。靖国問題に象徴される。A級戦犯従軍慰安婦問題・護憲平和憲法の嘘を、むかしの左翼は知っていた、それでいて「あえて」主張していた。それが10年もしないうちに、ベタに信じる輩が跋扈するようになった。

●東:今や右翼の嘘を真面目に信じるようになったのが、ネトウヨ化に象徴されている。

○宮:他の例では、55年に「北方領土」という名前が作られた。ロシアとの関係ではなく日米関係で作り上げたということさえ、今や忘れられている。この忘却はと何なのか。端的に言うと「パトリオティズム」がないから。なんで僕が靖国で火入れをやっているのかといえば、あくまでも彼らが公共的な動機で死んだ連中だから。日米が「A級戦犯が悪かった」というネタを作ったことで、日本国民と天皇の「責任」が「免除」された。こんなネタ話だったものが、単純に忘れられている。A級戦犯で手打ちにしたというネタが忘れられている。

●東:言い換えると、それは国内問題と国外問題を分けられていない問題ではないか。グローバリズムの問題。たとえば、A級戦犯についても、国内的戦後処理的には「A級戦犯によって我々が救われている現状がある(※宮:その反面としてのクズ朝日新聞の欺瞞がある)」、国外的戦後処理的には「A級戦犯のせいでひどいことになって僕ら日本国民も被害者です」という二枚舌で運用しなければならない。

○宮:これはネットによって加速された問題ではないかと思う。「述べ伝えられ」が失われて行った。

●東:しかし、この二枚舌自体が、現状では成立しなくなっているではないか。

○宮:周恩来を思いだそう。彼は「一部エリートが起こした戦争で、天皇と一般人は悪くない」と公式発表している。あのとき、これは凄いやつだなと。あえてネタをきちんと使っているとおもった。

●東:しかし、後世のやつらがわかるだろうと思ってやってると、結局忘れて酷いことになる、というはなし?今後、40代とか忘却世代が中心になると困る事態が生じるだろう。

○宮:結局は、僕とあなたが同じ様な存在であるという相互承認が、「手打ち」のチャンスになる。誰しもが忘却癖にまとわりつかれるようなパターンが蔓延している。これを利用したり調整出来ればよかったが、いまやこれは無理そう。空洞的な安倍ちゃん問題と同じ。

 

 

(4) 記憶・記録・歴史:公敵の無さという日本の土壌

 

○宮:「何ができなかったから滅びるのか」を(トーラー的に)記録する必要がある。この場所あっての我々である(場所が全体である、という主観の作用)、という認識に基づいて、「述べ伝え」を実効化しなければならない。どんな”部分”であれロマン主義は必要。入れ替え可能ではないものへのコミットメントが不可欠。特定ロマンそのものは相対的なものだが、ロマン主義という器は普遍的なもの。その認識すら日本は欠いている。

●東:近代は、ロマン主義を埋め込むことで安定を図った。しかし、同時に土地や階級を流動化させる作用も同時に進行した。たとえば、普通選挙の帰結というのは、平準化の過程でしかないのが当然。今エリートが選ばれているのは、昔の残滓の様な物。結局、共感できる奴しか選ばれなくなる。それに対して、効率よく「政治的手腕」二長けている奴を選ぶ方法を作り上げない限り、うまくいくはずがないのでは?

○宮:1920年代、1950年代の大衆社会論を参照してみる。「コミュニケーションの二段の流れ」概念など。メディアと群衆の関係については、情報収集と解釈者というオピニオンリーダー(を通じたフォロワー)という中間項の役割が強調されている。しかし、日本ではこれが維持されていない現状がある。だからこそ、ミクロ的な構築にいくべきだとおもう。アメリカ的なリバタリアニズムやフランス的なアナーキズムの本質は、小集団・中間集団の重視にある。それは、ホームベースの重視に加えて、アンチ大衆動員(アンチポピュリズム)の思想があった。感情の「釣り」に弱い群衆への対応が必要だった、ということが、この思想の基礎にある。もともとアメリカでは場所帰属意識が小さいので、教会・牧師のような結社性が強い。アメリカ的なリベラリズムとヨーロッパのリベラリズムとは別物。エリートと市民の違いに対応している。アメリカでは市民に対する信頼がない。

●東:今後はヨーロッパ的な「市民」ということなのか?アメリカに親和的に聞こえたが…

○宮:日本のモデルとしては難しいと考えている。アメリカは宗教があったからまだうまくやっていける。donationがあるから小さな政府なんだ、という思想。一方で、日本では、お任せマインドしかないのに、小さな政府、という状況になっている。難しいとは思うが、ヨーロッパ的な方針にシフトしなければならないのではないか。

 

○宮:ここで考えているのが、「お互いさま」という心性。署名運動とかをやってて、普段は敵と味方を分けたがる人が「なんであいつは署名しないんだ!」とか怒っても、「近くに東電社員の宿舎あるじゃん?」とかいうと、「まぁそうか」という感じで、なんだかわかってくれる。相手の立場・身になれるという、のんびりした気質があるようにおもう。

●東:カール・シュミットは友敵を分ける政治の話。絶対的友と絶対的敵という区分を日本人は知らない、というところに通じてそうな話しだと思った。シュミットは「公敵 hostis」の問題を考えている。プライベートな関係があっても「公敵」は存在する、という思想。別の言い方をすれば、ヨーロッパ・アメリカ的な政治が、日本では成立しにくい。お友達、で、全てがなし崩しになる状況。

○宮:そのときのシュミットは、あくまでも「ごっこ」として友敵を記述している。初期の彼は敬虔なクリスチャン。「超越的全体」に奉仕する国民が存在する。中期シュミットは、「超越的全体などない」のだから「ねつ造せよ」といいだす。(これに対してスメントは超越性を信じている)

●東:ハイデガー問題と同じ。アンチグローバリズム問題。すべてが流動化されて、為し崩される関係性に立つので、そこには政治も失われる、そうではなく「我々のホーム」を作り出さねばならないとした。この点でシュミットとハイデガーは極めて似ている。

○宮:後進性の問題、と言い換えることができる。参照点は『邪宗門』。過剰な流動性に耐えられるのは、中国系とユダヤ系の血縁ネットワークだけ。シュミットはこのことを知っている。後進性の中にいる。後進性の意識を抱えつつ生きて行く為には「あえて」全体性に向かう。そうであればまだいいのだけれど。

 

●東:しかし宮台ポジションは、単純に超越的な「聖なる物」を呼び出そうとしているように見える。そういうときにはどうすればいい?

○宮:大きなレベルではなく、より小さなレベルで考えることで回答する。「聖なる物」のレベルをミクロな規模に抑えつつ、顔の見えるパトリオティズム、という線を考えている。集合的沸騰によって繋がることは必ず失敗する(デュルケーム)。国家を否定することはない、中間集団の醸成が必要。

●東:でも、それって世田谷区のことしか考えてないということでは?

○宮:公式見解としては、みんな自分のいるところで、やれるところからやっていこう、というスタンス。今のリソースをどう編み上げて行くか、という思想。山本七平の「空気」論。目に見える、なまなましい現前性があれば、いきなりころっと変わってしまう。自明性の空気を変えるためには、従来とはまったく違う物が出てきた、という事態を使う。別の形での広域連携の機能もそう。福島第一原発観光地化計画もそのような広域連帯によるリソース連携のことを考えていけると思う。

●東:世田谷区の特殊事例性、つまり我々が開眼する要素とは何か?

○宮:世田谷の人口流入はすごい。ある意味、沖縄と世田谷だけ。現状では、リッチな層の流入という特殊性がある。緑の党的なものの母胎にはなりうる。沖縄の手打ち・交渉の仕方には学ぶべきことがある。沖縄の絶望的に条件の悪い場所。

 

●東:例えばフクシマ第一原発観光地化計画について。浜通りの人はわりと観光地化計画に親和的。なぜかというと彼らは追いつめられてるから。「地元のネットワークが大事」云々というきれいごとは、会津などが外野から言ったりすることにみえる。双葉を一つの市にまとめることの意味はおおきい。福島というカテゴリーではなく、原発災害の「浜通り」という一つのカテゴリーを考える。放射線量で考えてみればすぐわかる。

○宮:この頃のはやりとしてのdiversityという綺麗さがあるけど、実際に、いろいろある、としかいえないもの。その実現の為には、日本全体の規模では無理。小さな町単位の自治を活性化させる以外に方法はない。

●東:二つのことがまざって喋られているように思う… ①はっきりいってエリート主義しかない、②複雑な現実にコミットしなければならない、という…。

○宮:いい主張。①とは、サンスティン・フィッシュキン的な卓越主義では感情劣化と民主政が両立しないという主張に関連している。熟議もそれだけでは民主政をはかいしてしまうような状況がある。民主主義は自明で回ると思われていたが、実際には、グローバル化による中間共同体破壊に拠ってもはや回らない。民主政に生命維持装置をつけるしかない、という方法が最前線課題となっている。インタフェースとしての卓越者がポイント。「二階の卓越主義」。絶対に背後に回って集合知の仕組みを設計する人が、感情の劣化した田子作が権力を持たないように設計していくか。一方で、②というのは、まさに感情劣化に対応するというもの。

 

 

3、未来編:2014年の展望

 

 

(1) 2014年に何をすべきか?:「感情教育」の実装、と、プロセス設計-交渉術

 

○宮:ギデンズ的には「感情の民主化」、ローティによれば「感情教育」、そういう感情を統治に組み入れなければならない。

●東:若手論壇においては、ガス抜きと教育の区別がつかない、という現状。ブラック企業批判をしているのだが、同時に、AKBを礼賛する、という対が酷い。

○宮:懸命に遣るというのは、認識に加えて、関心をもつということ。価値コミットメントは認識とは別。

●東:感情教育は、制度外のレベルでやられていた。現状はこれすらできていない。むしろ、あらゆること(就職、結婚…)に対して理性的であれ、と言われ続けている状況。感情教育をないがしろにした状況。

○宮:人たらしを経て、自他転換の上で、陶冶がなされて行く。右翼は右翼国際主義でしかあり得ない(鈴木邦夫)。だれもがホームをもっている、という前提に立っている。現状はこのことすらできない。たとえば軟派スキルがない。自他転換ができない。真理の認識をいくら逞しくしても、その真理に対して動機付けられていない。つまり、ハーバーマスのように道徳的直観主義

●東:出会いや直感を強くするためのもの?

○宮:例えば近著で欠いているのだけど、「近づくプロセス」と「絆を作るプロセス」は別もの。ナンパクラスタは、近づくことしかできない。自己犠牲をしてもよいと思える関係性を作るプロセスについての態度も能力もない。

●東:政治家と一緒。政治家の発言記録をすべて並べるとか、ナンパ師の発言記録をすべて並べるとか、本当にムダ。政治家はアジテーターでもある。理性主義でガバナンスすることは無理では?

○宮:民意を背景にした外交、というのも、空気読み合い・立場交換のことだった。誰しもが同じ状況にあるということを(システム運用上の)交渉材料にしていくことが必要。

 

○宮:現象学的な意味での、自他未分の状態-一体感が、動機付けをくれる。利害損得は初発ではあるけれど、その後に、利害損得を離れた「我々」が醸成される。ゲームではプレイヤーは対立している訳ではなく、ゲーム好敵手同士の「お互い」「我々」がやっていく状況が大事。

●東:そこには時間が必要。毎年首相が変わっているのは問題。

○宮:すくなくとも予期として、話しが分かる可能性がある、とオバマに思われていない段階で、そのシグナルが出されている段階で、まずい。今後としても、安倍には撃つタマがない。

 

 

(2) 政治について:東京都知事選と原発再稼働問題について

 

●東:宮台が(小泉を介して推している)細川は、僕は問題と思う。知事はやりたい人にやらせるべきでは?

○宮:それはそうなんだけど、現状の政治的脱力感を打破するために、小泉-細川連合の役割があるという形になっている。これは「お灸を据える選挙」としてみればいいのでは?すくなくとも中央政治と東京を両建てで見ている。これは比較考量の問題。原発再稼働問題は後にあとに続いて行ってしまう問題だから、たとえ中央政治に目を向けるとしてもやむない、と考えている。

●東:原発再稼働と原発新設は別の問題。40年も立てば自動的脱原発になる。山口県は現状でそうなっているのはまずい。しかし、再稼働は対して問題ではない、という考えでいいのでは?

○宮:とはいえ、地震予測が90年代から外れている。それは再稼働のリスクそのものを無視することはできない。

●東:政策決定のファクターとして容れることはできないのでは?

○宮:U.ベックはだから原発を止めろ、というはなし。40年の間のリスクを無視することはできない。ダメな空気が左右してきた状況打破の、一回的キャンセルとして、小泉の戦略に乗りたい。

●東:しかし、東京都民にとって「脱原発」はキャッチフレーズでしかない。全然知らない問題。

○宮:原発「推進」派がよくわかっていないのが問題。倫理的にはシンメトリーではない。脱原発は気分でいい。「推進」側は倫理的な責務を負っている。細川はいつでも変えられる。だから優先順位は明らか。誰も責任も取れない問題を作り出していいのか、という話で、いまは何もハードル越えてない。

●東:しかしそれは比べようがないものを比べている。東京都知事選と関係ないではないか。

○宮:リスクはベイズ統計的なもの。活断層がないことすら確認していない。各人について言うと、いろいろなリスクの主観評価がある。

●東:細川当選→山口県知事選→国政への影響、というのは、完全な仮定ではないか?

○宮:シュミレーションは仮定に過ぎない、っていうのは、戦時中の総力戦研究所の研究じゃね?

●東:本当にお灸を据える効果があると思うの?

○宮:あると思う。政治的未来は「賭け」。これは避け難い。しかし、安倍政権のサポートをするような「賭け」はできない。これ自体が倫理的な問題ではない?今回の都知事選の重要性からすれば、今回は細川でよい。他の条件が等しいのであれば、細川なんか推さない。だが、現状では、安倍政権という条件がよくないので、今の選択は、この問題に注力すべき。小泉が約束するかどうかはあまり関係がない。

●東:小泉は空気読みのポピュリストにほかならないのでは?

○宮:日本には政治的な文化が盤石ではない。空気に照準を合わせるしかない。産業構造、マスメディアがもっている空気をかく乱し、キャンセルする為に有効な戦略をとるべき。

●東:むしろ「空気読み」の結果がこれまでの状況をつくってきたのでは?

○宮:空気には空気で抗う、というサイクル。細川の主観がシリアスかどうかは関係ない。

●東:しかし結局「信念」じゃね?「信念」ないとおし辛いよ。

○宮:そこはoppotunisticにやるしかない。ただ、制度的惰性体の温存の「倫理」的価値を問わねばならない。3.11後の倫理とはこういうもの。「信念」があればいい、とは思えない。間違った「信念」であればないほうがいい。

 

 

(3) 世の中改革(の諦念)と共同体自治の連関について

 

○宮:引き受ける構造に近づける為の運動をやっている。住民投票によって、構造を変えることができるのではないか。そういう玉突きを起こすことが重要。

●東:しかし今回の細川の論点は「架空の論点」だと思う。そして、世の中を変えるのは地味に変えるしかないと思う。

○宮:勿論、それ「だけ」で変わるとは言っていない。ただし、次に繋がる様な公共的な帰結が得られるという話。細川がドジ踏むとしても、ロスは小さい。東京都知事選挙はすでにTV有名人選挙になっている。いずれにしてもポピュリズム選挙。そして信念については滑稽な信念というものもある。センカク問題で日中関係を完膚なきまでに破壊したのは、石原-猪瀬ライン。安倍に塩をおくるくらいなら東京都民が水をかぶれ、ということ。

 

 

4、Q&A

 

 

(1) 東は誰に投票するの?白紙投票って、東さんが何もしない、っていうこと?

 → 選挙行かない、茶番、白票。

 

(2) 東自身の20年の変遷はどうか?東の「聖なる物」への回帰はないの?

 → 93年といえば柄谷が政治化したとき。

 → 専門用語しか話せなかったときからは、いまは平易な言葉で喋れている。同じジャーゴンで喋っている奴は単純に頭の悪い奴。哲学から運動、理論から実践、というわけではない。

 

(3) 宮台は宇都宮についてはどう考えてる?

 → 宇都宮に会いに行った。レクチャーもした。公開討論会の重要性やワークショップの重要性を説明しに行った。宇都宮の背後にいるのはプロ市民的なひとたち。そういう意味だと、機関決定に従うひと、党派的なひとの言いなりのひとでもある。政治の素人。

 東と宮台は感情の劣化に抗いたい、この点では、一致している。感情の「釣り」をどのように回避していくか、これを考えないといけない。

 「正しい信念」に肩入れしすぎてて、帰結を考慮してない。悪の凡庸さ、が形になったようなパターン。どこの仲間に入っているかによって、何でもしてしまう問題。

 

(4) 東のこのコンテンツの広がりは?

 → 広がるように見えて広がらない(東)

 → 感情の政治には敵対している。コミットメントの強い連中が、劣化の少ない状態で、知恵を集約し、コミットを高めるかが重要。都知事が誰になろうがあまり興味ない。最終的な住民投票運動にとって追い風になるかどうかでみている。小沢さんには自治マインドがないので、その意味では菅直人がよかった。最終的に、何に繋げるかを前提に評価・行動しなければならない。見解が分かれたとしても仲良く出来る。(宮台)

 → こういう対立があったとしても、それを込みで見れる客はそんなに多くない。数を制限することで出来る話しもある。影響力の考え方からいっても、深い影響力を与えることもありうる。現在のネットの様な影響力が薄まるネットは残念。結局ディープな影響関係にはならなかった。(東)

 → 認識に拠る付和雷同ではなく、関心・信念に基づくコミットメントの重要性に興味がある。東くんが「いやがらせ」ポジションを採るのもわかる。PC的なもの、なんかしらの「ism」、が劣化させてしまう感覚、の問題。(宮台)