書肆短評

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1/15 東浩紀『存在論的、郵便的』を読む 講義---第二回 #genroncafe

1、『郵便本』第一章第二節(1) 導入と哲学史的補足 ---19:05-19:35

 

(1) 冒頭

・「幽霊」ghost, spector に憑かれた哲学、の意味:存在論ontologie の憑在論化hauntologie としてのデリダの語法

 

(2) 「存在」についてのいくつかの哲学史的補足:

ハイデガー形而上学とは何か』による「存在」についての考え方

 「what is this ?」に対して、①科学は「S is P」の「P」部分について探究する。これに対して、②哲学は「S is P」の「is」部分について探究する。

・「分析哲学/大陸哲学」

 この時期は、哲学が、科学・論理学寄りの分析哲学(カルナップ)と形而上学寄りの大陸哲学に別れようとしていた時期(〜1930年代中盤くらい)

 前者①についてはその後、分析哲学の自壊(『哲学探究』)からクリプキウィトゲンシュタインパラドクス』における「名指し」、Quine-Davidsonの翻訳問題への継承

 一方で、後者②ハイデガーの意味は、普遍論における唯名論-実在論の素朴な対立のアップデートにある。(『存在論的、郵便的』4章で扱う) その方法は、現象学phenomenologie のよりよい継承の仕方にある。デカルトのコギトとカントの超越論哲学の掛け合わせ。意識に基礎を置く(Husserl)ことで、現存在の存在了解・性起へと向かう

・「普遍論争」補足

 res cogitans 考えるもの→主体→現存在

   res extens 伸びているもの→外延→存在者

・「視覚」「音声」「文字」

 デリダへと通じるのが「存在の声」。これを『マルクスの亡霊たち』で「幽霊の声」として引きつぐ。Huserlの「視覚」中心主義への抵抗かつHeidegarの「音声」中心主義への抵抗として、ecriture論が提示されている。(日常の頽落形態からの引き戻しのために「存在」だけに頼ることはできない。そのために「文字」性の取り扱いがポイントになる。)

 

 

2、『郵便本』第一章第二節(2) 時間性・起源・歴史 p.28-p.34 ---19:35-20:35

 

(1) 「時間性」の問題p.28

ハイデガーデリダに共通する、「リアルタイム」ではない「別の時間」をどのように差し込むか?という問題意識

・『マルクスの亡霊たち』では、「time is out of joint」が重要視されている。これは、timeの調律によって接続される調和状態(accordation, Fug)の外部としてのanachronismeを指している。「現前的時間」(同期)と「非現前的時間」(非同期)の区分。

 ※anachronicは「an」「a」「chrono」なので、二重否定性がたたまれている面白い言葉になっている。

・これは現在のアテンションメディアに対する批判にも繋がる論点。

 

(2) 「起源」に含まれる「非歴史/歴史」という区分ついて

フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』と『起源』:

 「数学の定理(ピタゴラスの定理)は人間が発見する前から非歴史的に存在するのか?」「今後人類があらゆる発見をしたとしても、けっして揺るがされない基盤を作ることができるか?」

・「経路依存性」について

 普通に考えると、ピタゴラスの発見と伝達仮定がなくても、つまり、誰も発見しなくても、ピタゴラスの定理は存在するはず。にもかかわらず、フッサールはこれを逆転させる。歴史的な発見が伝達仮定を経て理念化する(文学に見られるように、経路依存的なものとして成立する)、という論証をしている。

 「文学は原理的に歴史学にしかなり得ない」by 東浩紀

・これをデリダは別の形で翻訳する。「非歴史的なものが歴史的に生まれてしまう」という問題が、なぜそのように成立するか?という問いに転換する。

 ここで導入されるべきは、「科学」「文学」「哲学」という区分:それぞれ「非歴史の理念」「歴史的産出」「非歴史を産むような歴史」に相当する。

・例示:これは人生や愛の様な物を考えればパラフレーズできる。

 愛とは何か。人生とは何か。運命とは何か。これ自体は、完全に経路依存的な偶然にすぎない。一方で、人が生きるとは、それを物語として超越論に捉えなおす必要がある。

「人が生きて行くことに超越性、物語性を見出さないと人は生きて行けない」。この錯誤こそが哲学の対象となる。

 

(3) 「超越論的歴史の複数性」:「複数の可能な歴史から複数の可能な理念が立ち現れる一般理論」p.32

・「エスノセントリズム」と「相対主義」の時代

・「超越論的哲学」:経験的な単独の歴史を理念的に肯定する(「この一つ」を強く肯定しすぎてしまう問題)。

 これに対するアンチテーゼとしての「経験的諸哲学」:文化人類学などから、複数の歴史を経験的に観察しようとした(安易な相対主義

 更に、ここからの外側としての「複数の可能な歴史から複数の可能な理念が立ち現れる一般理論」を作りたい。

 (ex.「人権」の唯一性はないとしても「人権」を解消せずに介入する方法を探る必要はある。これを旧来の文明・野蛮図式に置き換えたロールズハーバーマスのようにならない必要がある)

・「系外惑星」「化学合成生物」について考えることは、このことに通じる。別の宇宙や、別の生物の歴史を考えること。

 

 

3、『郵便本』第一章第二節(3) いくつかの概念補足 p.34-p.43 ---20:35-20:55

 

(1) 「伝達ミス」による「伝承過程」の可視化について p.33-34

 

(2) 「meme/identique」の区分(※以下、だいたい前回分で既出。前回分を参照)

・「一つ」の単語が複数に訳せることの意味:「同じ」言葉が複数のコンテクストに反覆iterabilityによって出てくる、ということが、「同じもの」を支えている

・「partage」

・「khora」

プラトンは理念から様々な現実が生まれると考えた。

 これに対して、Kripkeは逆に考えている。複数の可能性を一つにまとめあげる「理念読み取りの心の機構」、あるいは、問い返しRuckfrage によるイデア産出のことを考えている。

 もしこうだとすれば、①名指しの失敗により、②Wittgenstein的に概念が「謎変化」を起こすことがある。

 言い換えれば、「記号の到達の失敗が理念を変形し複数化する」by 東浩紀

 

(3) 補足;このようなことを東浩紀が考えるようになったわけ。

・Evaの二次創作SSを読みまくったことで、複数の惣流アスカラングレーに触れ「すぎて」しまった。そのために、様々な人生を追加することで、あり得た生に開かれた者としてのアスカが立ち上がっていく。これは、人間の固有名に対する態度の本質を構成している。

・この頃だとホームズの映画におけるBL描写がある。

・人間や虚構の登場人物ですら、潜在能力の一部が経路依存的に表れているにすぎない、というふうに、後づけで理論化していくもの。だとすれば、これを、別の可能世界との照合のもとで、その人の本質を暫定的に作り上げていく。

・一つの人生と「ありえた」人生についてのいくつかの補足(※注:M原のはなし。電波途切れた)

・「寛容」について:リベラルでは「更正」の問題として捉えられるが、本当は「可能世界」にある、という風に考えた方がいい。これからの一つの時間軸(※性犯罪者は更正しないかもしれない。これだと論拠薄弱になる。)ではなく、かつても複数だった、という歴史の複数性。ローティの偶然性 contingency の解釈は、このような可能世界解釈そのものであるが、あまり言及されていない。

・「偶然性」は、現実ではないので、(強い精神性の発露としての)共感作用が必要ない。だから、同情能力によることなく、偶然性に対する受容ができるようになるはず。これはたぶん簡単。よって、「更正」ではなく、こちらの線を追及するべきではないか。

 

 

4、『郵便本』第一章第二節(4) 脱構築と正義の重要な関わり p.43-p.50 ---20:55-21:25

 

(1) 「脱構築」の居直り感?ジジェクによる批判

・「哲学か、サブカルか?」という区分の二項対立になってはまずい。ジジェクの批判とかも、サブカルにいけよ、という話になってしまってはまずい。この二項の外に出なければならない。

・p.46-47はローティ的な現在の問題意識に繋がってるので重要

・「友敵」についての別の考え:集団の関係(政治)が対立してても、個人の繋がりは残る。このような関係を作り上げることが必要なのに、カール・シュミット的な闘争や論点一元化が横行している。これは集団と個人を同一視するパターンを繰り返しているだけ。

・「正義」とは友敵分割を絶えず壊して行くことに成立する。これがローティやデリダから引き継げる主張。友愛 amitie とfraternite(=brotherhood)の違い。amitieにおいては友敵関係が破壊されていく。ここにこそ、固定的ではない偶然的関係が生まれていく。

 

(2) 補足:『サイバースペースとはどう呼ばれるか』

・F.K.Dick論:冷戦構造を反映したSF作家。「善」と「悪」と「不気味な物」(非生物やアンドロイド)、という参考対立で考えている作家。『ユービック』において、現実と虚構、禅と悪の対を壊して行く第三項的道具立て、が強調されている。萌えやエンパシーの別の解釈。

 

(3) 「責任」responsibility=可能世界の記憶=非相対主義

・「唯一の現実がないと可能世界がない」。この意味としては、最初から複数の場合には、固有名の固定がないから。例えば、複数の現実敷かなければ、夏目漱石を名指さない。そこには指示がない。相対主義とは異なる。脱構築相対主義ではない。

・「唯一の超越論的哲学の歴史があるからこそ、複数の可能な歴史から複数の可能な理念が立ち現れる。最初からオープンソースで作っていたら、二次創作という概念がない」by 東浩紀

・ゆえに公式二次創作は認め難い。(二次創作の概念に反する)

・歴史との応答reponsibility があるからこそ、様々な可能世界を開くことができる、というポイント。脱構築とは、①保守主義的に伝統を重視するからこそ、②新たな設計主義が可能になるという思想。本筋を重視するからこそ、二次創作が面白くなる、というようなもの。二次創作作家としてのデリダ。ゼロからでも伝統べったりでもなく、伝統の読み替えに拠る設計の作り上げ、幻視の思想。

 

 

5、質疑応答

 

(Q1) 国分対談のときは、ハイデガーは故郷に戻る思想、デリダは故郷から離れる思想、という風に整理していたはず。背景としてのレヴィナスによる影響はどうか?

(A1)ユダヤ問題ということとして理解した。デリダディアスポラについてそれを肯定していた訳でもない。

 福嶋の『復興文化論』。ハイデガーの存在は「家」が本質だが、日本では「宿」が中心なのではないか、という考えだった。「家」に対してディアスポラを立てがちなのだけれど「宿」は故郷なき転々としたテンポラルな帰属状態の肯定がある。

 英語圏での講演の様子などを見ていればわかるが、デリダ自身がhospitarityとともに「旅」する存在。フランスを出ないドゥルーズセクシャルマイノリティであるフーコーは、「家」と「ディアスポラ」に相当する。デリダは中途半端な思想だけれど、その留まりに見るべきものがあると思う。

 

(Q2) 保守主義と設計主義と脱構築という三対について。ハイエク的なものは脱構築的な役割に入る?

(A2)ハイエク脱構築にいれるのはいいのでは?まさに。

 

 

 

---以上、第一章第三節直前(『存在論的、郵便的』p.50)まで