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書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

12/14 國分功一郎×東浩紀「来るべき民主主義」講 #genroncafe

1、民主主義論とは---選挙か、行政統制か?

 

(1) 「不断の介入」:行政に対する不断の働きかけ=介入装置とは?ドゥルーズ哲学との関係は?

・東『存在論的、郵便的』『一般意志2.0』との緊密の関係

・国分著『ドゥルーズの哲学原理』:Story性が強いが、そこで出してる小咄との関係:ドゥルーズにおけるヒューム本との関係:社会契約論否定者というマイナー哲学者に対する読み取り:人を締める「法」ではなく人を動かす「制度」によって社会が構成されているという目線

・結婚「制度」、所有「制度」…といったものが社会を構成しているというモノ

・『来るべき民主主義』では、色々なパーツの組み合わせを強化するものとして考えればいいのでは?:一般意志2.0は、来るべき民主主義の「実装提案」として考えればいいのではないか。

 

(2) 「法」と「制度」:デリダは「法」ばかり考えていた、ドゥルーズは「制度」の哲学者

・『一般意志2.0』はデリダ主義的な「法」論になっている。国分本の考えとしての「制度」拘束論

・警戒区域関連の議論の根拠は法(原子力災害基本法)的には曖昧。現在、警戒区域は存在しない。経産省が別の3区分を導入しているが法的な根拠はない。各自治体の判断に任せられている。アドホックな状態が随時改変されて継続している。

・このような日本の「制度」中心状況において、この行政への介入は重要になる

 

(3) 「立法」による統治、「アドホック」な判断の前景化

・1993からの政治改革・政治主導・官僚批判の難点:「制度」側が強すぎるので、「法」側がなんとかできるか、という目線だったが、うまく行かなかった

・現在の反動としての自民回帰の乗り越えの必要:いかに直接の市民介入を考えられるか?

・挑発的な『来るべき民主主義』の提案:国政か、地域政治か、という区分:国政の問題はどう考えたらいいか、まだ判断がついていない(国分)

 

 

2、国政、地域政治について:議員の役割、運動の役割

 

(1) 「議員」とは?

・地域代表でありながら、国家単位のことを考えるということの、インセンティヴ上の矛盾がある。原理的に考えると、王-官僚制ですら、情報フィードバック機構さえあれば(ヘーゲル主義?情報公開がなされた中国共産党政権?)OKになてしまうが…(東)

 民主主義は目的ではなく、手段に過ぎない:これを取り違えると原理主義的になる(国分)

(※補注:鈴木健も似た様なことを指摘していた。行政回路を生命システムにおける「センサー-モーター」の回路に比較し、ひたすら回すことの効率性を高めた制度進化に期待している。)

・民主主義自体の善性は重要ではない。よき統治を狙っている。議員への訴えかけ(ロビイング)については、そこまで期待していない。

 

(2) 「イメージ」の問題

フクシマ第一原発観光地化計画:既存のイメージを変える=心の中に入り込む:これは、議員へのロビイングとは違う:新しいことをやるというのは15分のプレゼントは異なる:ウクライナフクシマの人とのパイプを作り上げて行くということに期待している。

・これに対して、即時的な情報提供ツールとは違うはず:twitterとか本の問題かもしれない。「わかっていること」しか読まれないという問題

・人との繋がりの重要性:「パイプ」の意味:友達になるということ?政治では具体的なイメージが出来づらくなってる:人間と人間との繋がりこそ重要

 

(3) 「運動論」との接続

・ネット上の関係、ネット上の話題の持ち上がりと現実的重要性のギャップ:「乖離」を埋める処方としてのコミュニケーション手段の必要:所謂「人間関係」に収斂していく議論

・これを運動論として考えて行きたい:ex. 柄谷のNAMの問題:イソノミアへの否定神学

 genronについては、NAMの後継versionとして自分は考えている:「歴史反復」の記憶が失われていきていることが少し気になっている:あえて後継として定義したい

・柄谷『哲学の起源』:デモクラシーではないイソノミア(=逃げ場があるにもかかわらず繋がるもの):デリダにおけるメシアニズムなきメシア性:否定神学的メシア主義:イソノミアが否定神学になってしまっているところこそ問題(東):運動論のうまく行かなさ=柄谷においてはプレソクラティックなものへの関心を裏付ける証拠・技がない:ゴシュウ性がイソノミアと違うのかさえわからない:ありうべき制度としては「5つ目」は(おそらく「4つ目」すら)ない

 

 

3、「来るべき民主主義」democracy avnirの隘路と脱出口

 

(1) 「民主主義」概念の隘路

・demos=みんな、とは誰かという境界問題が絶えず生じる:デリダの主張と柄谷の議論はどう違うか?

・全体主義的なルソー像との関係:第一にコミュニティがある、その境界はわからない:内と外を分けざるを得ないのが民主主義、という困難を最初から抱えている

・境界の問題(決定的暴力)の概念上の重要性:デリダもまた民主主義については忸怩たる想いを抱えていたはず:例えば、小平じゃないネット民の盛り上がりによって小平の市政が決まるというのは民主主義なのか?むしろグローバリズムではないのか?:ネットについていえば、この決定的暴力の契機が忘れられているのではないか?

 

(2) 「境界」問題

・ルソーの自然状態論とコミュニティ論の接続がない、創発っぽい議論(一人組むと、他の者達も結集し始める)をしている:これに対して、ホッブスは自然状態からコミュニティへの移行についてすごく議論をしているのに対比的

・「市民」ということばの曖昧性:「住民」というのは無色:とりあえず住んでいるという包摂性:しかし、国政レベルではこのような概念区分のアナロジーを使いづらい:現行国家単位は使いづらい、不便な道具立て

 

(3) 「来るべき民主主義」の帰結とは?

・EUのようなものを構想している(国分)、地域-国家-国家共同体の3層構造化の重要性:毎日のように官僚が顔を突き合わせているということの重要性:人的交流の重要性を制度に埋め込んで行く

・東アジアではどうか?ヨーロッパ的共同体とは包摂的中国そのもの:帝国主義ならざる<帝国>:どちらかといえば、日本はEuにとってのトルコの様なもの:この歴史性の際は残るはず。ヨーロッパ的internationalityはまだ類似性に依存しているのに対して、日本とか中国との関係にそのまま適用できるか、という問題。

・民主主義における本質とは多数決ではない(国分)、プロセスの重要性:行政の拡大・横暴という点における問題点:古い政治のロジックの問題が表面化している:一方で、議会制民主主義には統治的な意味で「決められること」への期待もある:「決められる政治」ではない「決められないための政治」だという内田たつるの議論は問題:プロセス論一辺倒だと人は離れてしまう(東)

 

(4) 「忘れやすさ」の避け難さ

・国政における人の「忘れやすさ」「風化」というのは政治の論点化の間違いやすさ:一方でフクシマのモンスター化という山本候補が通ったことの無意味さ

・イタリアにおける専門家だけの内閣など:選び方等はわからないが、その行政の機敏さは評価されるべき(国分):政治意識とは何か? 一連のキャンペーンにおける法違反の強調は原理主義的:脱官僚の外部経営者たる猪瀬やめさすキャンペーンにうんざりしている(東):問題があるときにぱっと動ける社会がいい。

・(政局論しばし)

 

 

4、スケールの問題と言説の力

 

(1) 「スケール」:ルソーにおけるスケール問題

・小国じゃなければうまくいかないルソー、小国連合を考えていたルソー:小平における実践、小規模の地方公共団体においては希望を持てるという事例と通ずるところがある:「小さいもの」の重要性を無視してはならないのではないか(国分)

・都政とか国政の「不分明性」:言葉が軽い:上滑りしてしまう内田問答:安定している「安全なポジション」からくるトークの消費:かつての「左翼の過酷さ」が失われているのではないか?批判的知識人ポジションかな?

・フランス現代思想というのの政治的な「弱さ」:サルトルの世代とかとの違いのようなもの:テクストとテクストの外は一体に評価されてしまう

・フランス現代思想におけるデリダのぎりぎりのポジションやフーコーの政治性:日本人はこの「ひ弱さ」を受け入れて、乗り越えて行かねばならない:ドイツが作り出した近代思想・大学制度の中で大学に抵抗するというポジション

・柄谷によるデリダに対する軽蔑:人民の中へ、という標語の野蛮さを失っているかもしれない

 

(2) 「傷つき」について:小熊英二とのゲンロンカフェでの話

・小熊のリベラルの敗北についての鈍感さ:原発がアジェンダにならなかったこと、民主党が敗北したことを、真面目に傷ついていない:左翼としての「真剣さ」が自らの敗北を見失わせている:そのポジションを貫徹すれば、傷ついているべきなのにそれが全く認められない。

・小平における「傷つき」の上での、再度のコミットメントの話

・「内容」的にはわからないけど「動機」において共感する、ということは十分ある:「内容」ごりおし、動員ツールとしてのtwitterだけであれば、何も自分を豊かにしない:賛成なら買う、反対なら買わない、というだけの情報伝播ツールなら全く意味はない

 

(3) 「友敵」論の外:「脱社会性」

・連帯とは何か?友とは連帯しない、敵とは連帯しない:友と敵の間の存在(=「脱社会的存在」、デリダ的には友と敵の間にある「amitie」)と連帯する:宮台のいう「脱社会的存在」との連帯可能性とはなにか?

・「脱社会敵存在」との関わり:物理的なホームレス、文化的なエロ漫画家などなど:一般的には「テロ」に見えるものをどのように包摂できるか、許容できるのか、というのが社会の豊かさを表象している。ポリティカル・コレクト一元論の様なものは正しくない:引きこもりが引きこもりであり続け、オタクがオタクであり続ける社会は豊か:これは民主主義的ではない社会の「良さ」なのではないか?

・「幽霊」や「誤配」をどのように社会内に取り込んで行くか、という問題圏:みんな、とは異なるフェイズをどのように確保すればいいか?:「社会的存在」と「脱社会的存在」とのスイッチ切り替え:時には政治的になり、時には非政治的になる、ということを使いながら、制度構想をするという意味

・シュミットにおける敵の精緻化:『パルチザンの理論』:慣習上の敵、現実的な敵、絶対的な敵(殲滅対象、デリダ的hostis):友の類型化もできる:Roty的な連帯とDerrida的なamitieを併せていける

 

 

5、「連帯」と「解離」の併存

 

(1) 「association」or「dissociation」から「dissociated association」

・association / dissociation = 連帯/ 解離 の区分:後者の優位を考えている:dissocaited association のことを考えている(東)。それって、卑近な例では小平の、個人的繋がりなきビラ真希の様なものでいい?糾弾しない提案型-fashionableな提案(国分)

・associationは囲い込みになる:dissociated associationは、パートタイム連合の様なもの:囲い込まない連帯可能性:意識なき連帯をどのように考えていけばいいか?:

・ジャン=リュック=ナンシーのpart-age:ピザのシェアの話:バラバラのピザを食ってるけど一つのピザを食ってる、という経験は、震災のバラバラ経験の「単一性」経験と類比的:震災は人の性質属性によって全く別の経験をするのにバラバラにしているのに、震災という経験に寄って繋げることがありうる

・今までの運動論は、デモも飯も意識も一緒くたにしていた:partageの対象の限定が必要なのではないか (国分)

 

(2) 「contingency」の根源性

・Roty的な根源的偶然性(他可能性)の強調:個別の経験や個別の存在への共感が繋がって行く、別の可能性を想起できるという経験こそが、連帯の条件、連帯の起源になっている:何かの綱領は要らない、それはparty:束にならない、一対一の共感の連続

・小さい規模における「contingency」への収斂(国分)

 

6、質疑

 

(Q1) 左翼的活動には「結果」が伴ってない:国家解体と国家連合を標榜した場合に、外交・対外防衛などに対する対応はどうなって行くのか?

(A1:国分) まず、民主主義の可能性の例として、国家連合の話しは提供した。モデルの様なものとして受容してくれればいい。

 次に、左翼の理想の混雑はあれど、国分型であれば「安全」「成熟性」としてデンマーク型の政治を考えて行ければいいと思う。これまでの左翼の典型では国家に対する糾弾しかしてこなかったという状態。

 最後、ネトウヨについて。内容は何でもいいんだろうなという感じ。20年前にネットがあったらネトサヨが勃興しただけではないでしょうか、という感じ。大衆社会だな、と。

(A1:東)まず、市民的連帯こそが、まずは「安全」の尊重の為には、正直大事。政府レベルで対立は煽られる。それを繋げて行くのが文化連合の様なものである、と。国家安全保障という観点からはそう考えたほうがいい。

 東南アジアと組んで行くという方向が多分有望。中国・韓国との関係もそこまで変わらない。どうせNo.2で確固たるポジションを確立して行くべき。外交について、中国や韓国に着いて考える、というのがしょぼい。この注力の仕方が自体罠の様なもの。今後は東南アジア(或いはロシア)の役割が主流になっていくはず。

 

(Q2) 日本人には多かれ少なかれ、蔑視思想がある?

(A2) 日本人のコンプレックス:歴史的、地政学的に、日本が、所詮中韓のデッドコピーであることは自明:日本がここ500年力が強いので、相互に加害者だと考えている厄介な関係:これはもはや数十年単位で解消しようがない:歴史認識において一致しないという点で一致するしかない:認識不可侵条約を結ぶしかない:言葉のharassmentの解釈の相違問題に近い:そういう論争はどこかでやめるしかない、サスペンドにしておくしかない。

 物理の暴力は理系的に決められる。けれど、言葉の暴力は文系的にしか決められない。というか、証拠がいくら積み上がっても、やむを得ない。曖昧なままでの「止め方」を、プラクティカルな「知恵」として考えるべき。

 歴史修正主義ではなく、原理(※注:エクリチュール)の問題。

 

(Q3) 国家の解体と道州制について。

(A3) 北海道などの独自性はある。けれど、道州制それ自体の意味はあまり認められない。

 現状は損切りの方便として利用されているに過ぎない。

 

(---国分コラム部分)

 東の面白さについて:東のまずさとして捉えられたことは「反リベラル」性がある。情報自由論を本にしなかったことの意味がある。東はリベラルなのだが、批評空間派的なリベラル性への反対は殆どない。東は、イデオロギーや所属団体で分けることはあり得なくなって行く。つまり、イデオロギーでなんとかするという発想が、東にはない。

 だから、主義主張を全面に「見せる」ことそれ自体がなくなって行ったのが、東。

(---東コラム部分)

 ゼロ年代の批評の価値がサブカル批評成分は終わっている。それに留まらない本質、脱社会性をどう捉えるか、という問題圏がある。カウンターカルチャーではない、単に脱理-社会外存在、棄権者をどう捉えるか、という問題。それが、包摂されない外部を同包摂するか、という問題。

 これはイデオロギーによっては何ら分別できないし、むしろ邪魔。一般市民がフクシマ第一原発を見れるという状態をどう確保するか、において、イデオロギー対立など障害にしかならない。反原発だからなんなのか。「見る」の優位を実現するために、手段として有益か否かしか考えてない。

 市民運動が政治運動しかないという問題にも繋がってる。かっこわるいホームページ、政治色が強すぎる。文化運動としての運動の余地がない、というところが、日本の弱さ。かつてあった「前衛」というのについて、文化的な意味のそれを取り戻さなくてはならない。文化と政治のコネクトのために、文化運動の余地を作り出さなければならない。アニメだろうが福一だろうが、文化から政治への回路のなさ(=分断)が、むしろ恐ろしい。

 Tsutaya図書館の武雄市、これは武雄市が準市民の違憲を反映させられてしまっている。緩やかな関心が無責任なコミットメントをしている人がいっぱいいる。この事実を、どのように政治的な意味で調達して行くか。これはひとりの中の矛盾した感覚をよく表してる。移民は嫌いだけど、無関心な観光者は欲しい、という考え方:これって観光であり政治である、そういうぼんやりしたレベルの人々をどのように調達して行くか。政治的決定の中にどのように組み込んで行くのか、という問題。境界の問題を崩して行くための方法論。あるいは、境界を渡る為の処方。

 

(Q4) 国レベルの横暴への対応はどうしていけばいいか?エネルギー基本計画についてもそうだが継続性が重視されているものにどう対応すればいいか?

(A4:国分) 「法」というのは、制定とともに運用が重要。運用をどのように考慮して行くか、を今後は考えて行ける。そういう余地がある。

 計画も同じ。どのように遂行されていくか、を全て考えて行く。一発逆転案はない。地道な対応が必要。その為にも、ここ1年の事実をどのように憶えさせて行けるか、という問題は重要。

(A4:東) 国分の答えは、全く正しいのだが、同時に、ネット的-街宣車的なストーカー万能主義にも聞こえる。これは日本社会をダメにしている論理でもある。例えばアンチカオスラの粘着体質者の問題。自粛、遠慮を期待しているのだが、これは市民運動論とネットの近似性を示している。

 市民運動家のやり方をどうかえていくか、という問題意識がない。デモ形式自体の変革を変えていく必要がある。社会をダメにする糾弾主義の問題は、「嫌がらせ」に近いものになってしまう。

 ここで、国に対するものについては仕方ない?と考えられるかもしれない。しかし、本当にそうか。国分のいう声が上がらないフランス型デモは一つの形と国分はいうが、現状では、選挙の重要性はやはり覆せない面はある。

 

(Q5) マスコミが取り上げないという問題は?

(A5) 「取り上げられない」ということは甘え?取り上げられるまでやれ、というのが大事?(国分)

 けどそれって順応主義では?(東)

 東には露悪主義がある。それが福一計画の取り上げられ度合いを失っているのでは?(国分)

 しかし、マスコミも限界があるだろう。それに対する反論は必要なはず。(東)

 

(Q6:東) 国分はもうドゥルーズ止めたの?千葉本に対する浅田の「優等生的理解」という文章のやばさ。

(A6:国分) あればどうかとおもったのは確か。浅田による国分書評に対する説教があった。マッチョな文体なのは確か。

(Q:東)宇野のマッチョ性はどうか?ホモソーシャル

(A:国分)僕はdissociationが強い;一人一人のファルス性が中心かもなぁと思う。本について言えば、「Q:おれの場所がないなぁ」という書評があった。つまり、マッチョさが遠ざけた読者がいる。

(Q:東)ドゥルーズのある線を引っ張ればクィアはあるけど、ドゥルーズの伝統主義者性、スクエア性は否めない。千葉のクィア性に対する対立が避け難く生じてしまう。ドゥルーズから出てくるこの両義性が気になっている。僕、東にはデリダ脱構築者としての性質がよく表れている。

(A:国分)やはりマッチョな市民像が滲み出てしまっている。次の連載では、むしろ意志とかを考えてる。

(Q:東)ガタリは魅力なし?引きこもりドゥルーズにも見えるんだけど。

(A:国分)あまり魅力ない。ガタリはドゥルーズの踏み台のような存在に見える。

(Q:東)浅田は自分のことをガタリに寄せて考えている節がある。しかし、この構造自体が歪んでる。柄谷は伝統主義者でもないので、変なことになっている。

 浅田は哲学者を呼びまくったガタリ空間を作りたかった感がある。浅田にはそれは無理だった。彼を中心に空間を作れるかというと難しい。

(A:国分)ガタリからすると浅田は、触媒としての能力を持っていない、と見えたと思う(『ガタリ、東京に来る』)

 文体としては触媒的機能を強く持っていた(『批評空間』)のに、人的空間作りは無理だった。

(Q:東)僕には浅田口伝の様なものがある。会話の切り替え方や喋り方、トークと専門性の往還を、どうにか盗んでほしいと思っている。ゼロ年代の自分はやりすぎた、これによって読者を置いてけぼりにしてしまった。そのせいで拡散して、『存在論的、郵便的』との現在の繋がりが断絶している。本道に戻ろうと思っている。

 

(Q6) ドゥルーズの非意味的切弾と東のdissociationの近接性について

(A6:東) ドゥルーズハイデガーのupdateバージョンと考えてる。けどこれは、ハイデガーベルクソンやヒュームに翻訳したに過ぎないかもしれない。

 ハイデガードゥルーズもHeimに「戻ってくる」思想:これに対してデリダは「戻ってこない」思想。離れて行くものに対する目線が含まれて行くのは、どちらかというと、千葉のクィア論に東の立場に近い。

 そこでいうと、千葉本は東本の近い。でも、ドゥルーズの正統な文章を受け継いだのは国分という感じがする(千葉はデリダっぽい)。しかし、あまりのもドゥルーズ的ということは、政治的ではないということかもしれない?

 「なるようになる」という偶然性に委ねるのか、諦めずに宝くじを買うのか。

(A7:国分) ドゥルーズの政治観としては「溶け込み」もあるけど、やはり政治に関わるのは「業」だと考えている。そうすると、国分としては、人のマッチョさを前提にしてしまうところがないではない。

 なるようになる、けど、どこかで介入の余地がある、という話にしたいところ。