書肆短評

本と映像の短評・思考素材置き場

12/7 東浩紀『存在論的、郵便的』を読む 講義 #genroncafe

 

 

1、概観

・東のこれまでの仕事:存在論的郵便的、動物化するポストモダン福島第一原発観光地化計画。

・問題:ゼロ年代思想の対象が、アニメ、アイドルに収斂した。しかし、ゼロ年代の思想というのは、本来は、このようなサブカル論、ではない。そのために、新しい読者は東の仕事の一貫性を見出せなくなっているのではないか。

 

 

2、『郵便本』第一章第一節(1)---19:00-19:35

 

(1) 冒頭:ジャックデリダの解説?ではなく。

・冒頭、文芸評論の文ではない:極めて機械的な変な文章を採用。

・これは東の戦略。蓮見(ぬるぬるしたヌーヴォーロマン文体)と柄谷(「交通」とか「他者」という歌舞伎調の文章)。所謂、否定神学調の文章でもある。『存在論的、郵便的』の形式自体が、彼らに対する抵抗、否定神学批判となっている。スタイル自体の批評的な意味がある。敢えて採用された非-デリダ的な機械的文体。

・スタイルの「変換」自体に、批評意志を読み取ってほしい。

 

(2) 構造

・1章:「幽霊」というテーマで最初は書き始めた。まだ「手紙」「郵便」のことは考えていなかった。そのため、ほぼ書き換えられた:結局、第一章は読みづらいはず。

・2章:「二つの手紙」(ラカン/デリダ)、「二つの脱構築」というアイデアを思いついた。

 

(3) 経緯

・本書書きはじめの経緯、ひとつめ:分析哲学科、野家がナラトロジーの問題に関心を持ち始めた時期:クワイン、デイヴィッドソン、パースとデリダの関連性を論じていた:これがデリダとの出会の出発点

・もう一つの経緯:当時のデリダを巡る状況:デリダは翻訳がやられ始めた時期:けれど、前期と後期が完全に乖離していた:鵜飼-髙橋-増田ラインにより、倫理的展開以降(後期)デリダがリアルタイムのまま輸入されてしまった、という問題

・(分析哲学は好きだったが)科学哲学から外れていった感:ちなみに、佐々木力が仕切っていた科学哲学科では(批評空間界隈系からの)デリダは入れづらくなってきた。 

 

(4) 補足:東の日本語文体について

・英語圏の「セオリー」の文体・イディオムを強制的に採用した。「一方では」など。実際に東が英語文献を読んでいたことがある。

・フランス語圏の哲学研究の為に、英語文献が圧倒的に増えていった時期に重なっている。フーコーデリダの活躍の場がカリフォルニアにうつっていく:英語圏におけるベース形成(ex.現代思想での「フーコーのアメリカ特集」、千葉雅也の英米型ドゥルーズ受容)

 

 

3、『郵便本』第一章第一節(2)---19:35-20:15

 

(1) p.7

・「constative / performative」=「object / meta」= 「gramatticary / rhetorical(ド・マン)」

・オースティン、サール経由の「言語行為論」:サールは実際には、言語行為論は3つの区分を採用している(発話行為、発話内行為、発話関係行為)わけだが、これをベタ/メタという区分に重ねる為に利用した:これは割と人工的操作ともいえる:現在であれば、三幅対に重ねられるはず。

・「constative / performative」を、60年代(テクスト) / 90年代(実践)のデリダに重ねて、この二文法的な区分を放棄しよう、というのが冒頭でいいたかったこと:倫理的展開に何故向かっていったのか、という問いが無視されてきたのは、知的不誠実と呼べる様なものではないか!と憤っている。

 

(2) p.8-11:いくつかの前期の主著について

・第一章のメインは『幾何学の起源序説』(60年くらい、デリダ30歳くらいのときのフッサール『危機』解説):フッサールの問い:ピタゴラスの定理の「理念」は発見される前から「あった」のか、という問い:理念の非歴史性をどう考えればいいか

・『声と現象』、『エクリチュールと差異』、『グラマトロジーについて』:最後のについては、イメージとシンボルの間にあるもののことを考える:雑談ぽい思いつきがおおい:拡張エクリチュール論のところ(その後は、結局展開されなかったけど):その後、『ポジシオン』、『哲学の余白』

・これに対して、70年代以降、『散種』、『弔鐘』、『絵葉書』に至ると、変なテクストを書くようになって行く:創作物的著作が多くなる。しかし、暗号解読としての「読解行為」も問題:動機読解無しに解読に興じても意味はない。

・脚注2:サイモン・クリチュリー:シャンタル・ムフの論集の中にはいっているものを参照してきた。

デリダの転回には「理論から実践」ではなく、そこには「異様なもの」が含まれているはず。しかし、人は「理論から実践」という簡単な物語に嵌りがち。これではまずい。デリダにおける「異様なもの」を取り上げなくてはならない。

・なお、このときのデリダへの評価(当時の空気感)がよく出ている。デリダ政治的評価が低いとか、フーコーの表象分析が高いとかは、今では逆だと思うから。

・また、「驚き」「躓き」「他者」「巡り」が批評だという先入観があったが、むしろ「クリアにする」「前進する」のが(今思う)僕の批評の役割。

 

(3) p.12-13

・「he war」の二義性の話題:いまは余りいい例とは思えないけど、ここでは決定不能性を表す為に持ち出した。そして、「決定不可能」なテクストは「効果」として、ジョイス産業化をもたらす:この産業化状況に対する皮肉が込められている。

・「多義性」(ポリセミー)と「散種」(ディセミナシオン)の違い:この違いというのは、後に記す確定記述と固有名の違いに写される。数え上げられ、重なっていったもの(解釈が畳み込まれた多義性(=固定性))と、重なる運動(エクリチュール、散種)の差異。

・「espacement」:空間化といわれるが、「スペースをいれる」というもの:たとえば、「hewar」の間にポンと「he war」とスペースをいれる、そうすると意味が確定する。だらだら繋がったものを「切る」というもの。これが、多義性(ポリセミー)の話であり、確定記述の話 

 

 

3、『郵便本』第一章第一節 補論:二章の先取りと関連---20:15-20:30

・「固有名」の話の先取り:後の二章の話を先取りすると「固有名」は、確定記述を越える。固有名を意味の集合に分析するという一派(ラッセルとか)がいたが、そうではなく、固有名の剰余に着目した派もいた(クリプキとか):僕らが簡単に反実仮想文を作り出す(意味を持たせる)ことができるのは、現実とは違う仮想的な剰余を前提にしているためである。:即ち、固有名は確定記述に還元できない。

・「確定記述」(ポリセミー)の背景にはコンテクストがある、このコンテクストは「現実」のことを意味する。固有名というのは、このコンテクスト自体の「”諸”現実」「反実仮想」のこと、コンテクスト横断の力を意味する

・「コーラ」:プラトンティマイオス』における「khora」=容れ物、という概念は、過剰な受け入れ可能性を意味している。「オーバー・パッシヴィティ」といってもいい。現実と無関係な意味を受け入れてしまう力こそが、誤配を可能にする力、幽霊を生み出す力のこととなる。

 

 

4、『郵便本』第一章第一節(3)---20:30-21:00

 

(1)  p.14-17

・「イマココ」というものと、イマココを越えたもの、という対比:現実からの「切断力」(byデリダの語法)。現実に過剰にparasiteしていくもの、についての議論

・ここら辺は、先述した言語行為論の話。

(ex.冗談と本気の差異など、ハラスメントの問題の曖昧さ・非対称性から考えると、同じところにたどり着くと思う。例えば、身体的暴力と言語的暴力(これは本当に「ある」のか?解釈の問題ではないか?)の違い、にも近いはず。)

・「接木」:「散種」とおなじく生殖のメタファーとして把握できる

・「転移」:deplacement(英語だと、displacement)=場所替え、の意味:デリダの中では、場所とか空間は劣位の概念。むしろ、場所が変わって行くことや空間が空いて行くことのほうが優位におかれている。

・そして、引用付概念について。

(※なお、引用付多用の批評家はダメでは?)

 

(2) p.18

・「脱構築」について:普通の説明だと、目的論的な説明(アンチ-音声中心主義、アンチ-男性中心主義)が多いがこれはダメ:工学的方法論の方が重要では。そのために、哲学とは、社会を変える為のengineeeringとして考えればいい。

・たとえば、現在の福島:災害オリエンタリズムといえるようなもの:単純なイメージ化(「フクシマ」)の暴力に、どのように拮抗して行くか、が重要:表象文化論は、かつて起きた暴力には敏感なのに、現在の暴力には敏感になれていないのでは。

・以上より、僕の現在の仕事は、表象文化工学のようなものとして総括できる。

 

(3) p.20

・「パロール」:声と言われるけど、別に声であってもエクリチュールとして機能することはある。

・「ダブルバインド」:デリダはあまり使わない言葉(ただ『ユリシーズ・グラモフォン』(gramm+phone)には出てくる):日本の現代思想のコンテクストで多用される:ベイトソン『精神の生態学』由来の概念、メンヘラ(別のパターンでは共依存)を作り出す論理的整合性をもっていない命令の差異

・「identite / meme」、英語だと、identicalとsameを分ける。identiteは確定記述、memeは固有名。

・「目と耳の間の空間」:フランス語では、三半器官はラビリンスと呼ぶ、そして、鼓膜のことをタンポンという。

・「アポリアの経験」:後期に頻出するこの言い回しはまずい表現。最終的に「不可能なものの経験」へと行き着いて終わりになってしまう。立ち尽くせばいいことになっちゃう、これはまずい。知的怠惰を生み出すものになってしまう。

 

5、『郵便本』第一章第一節(4)---20:30-21:00

・「代補性」:supplementarite:サプリメント。何かを実現する為に必要な付属物、なのだが、この付属物がなければもとがなりたたないもの、のこと。(ex.現場と経営の関係など。どちらにも権力者を想定できない):『プラトンのパルマケイアー』では、記憶について、覚え書きが記憶の本質になってしまう。たとえばソクラテスが「文字に残すな」という命令さえもプラトンによって文字化されている、ということに、代補の論理が働いている。

・「脱構築」というのは、記号が「二重」であることのために、別の意味に開かれて行き続ける、ということの意味。だから、ハラスメントは脱構築によって見出されるもの。表現を確定することによってなされるものではない。常にコンテクストが変わって行くことに対応して行かねばならない、というのが前提にされるべきもの

 

(2) p.21

・「現前」:presence:現在、ということ。現前から逃れるエクリチュールが残る、そのために誤配状態が生じる、それを(消滅させるのではなく)”引き受ける”ことなしにはコミュニケーションはない。

・「symbolic / semiotic」:父たる象徴界の下に、母たる意味聖性空間がある、というクリステヴァの議論。表層の下に深層があるという考え方。この議論がデリダの議論と同じか、というと、そうではない。actualの下に現にvirtualの世界がある、という風に現実化してしまう。そうではなく、デリダは、symbolicしか現実にはないが、symbolicが過剰な運動を引き起こすので、semioticが「ある」ように見えてしまう、というもの。だから、「郵便空間」は存在しない。(※注:「郵便原理」の効果だけがある。)

・「深層/表層」:日本の現代思想2期(浅田柄谷ら)のように「表層しかない」という言い方はあり。だけど、それをいうことであれば、ドゥルーズよりはデリダではないか。たとえば、可能世界論でも、この一つの現実を更正する記号が、別の可能世界に僕らを開いてくれる、という世界観。

・たとえば、千葉雅也『動きすぎてはいけない』は「郵便空間」を、あくまでも存在論的に捉えている。それが成立しうるとすれば、どういう形を採るか、という議論を展開している。

 

(3) p.26-28

「可能世界」「並行世界」について時間性の議論と重ねてる議論。(ここはうまくいってない)

・「分有」partage についての議論:地震にしても(partageの原義たる)ミサのパンにしても、①バラバラな経験がありながら、②一つの記号に結びつけうるという想像が働くことの意味 :本来的にはイデオロギーの「共有」は不可能なままに留まるし、それは不要:同じ釜の飯を喰うことで、本当は何も共有していないのに、なぜか連帯できてしまう、ということが重要

 

6、質疑応答

(Q1) コロンブス:可能世界を想像することについてのこの頃の東の議論(とそれへの「非現実的だ!」という批判)と、『郵便本』p.42 における現実性についての議論、との関係について。

(A1)  一つ目に、思考実験こそが現実を作るという趣旨は、質問者の質問(p.42)のとおり。他方で、福一計画の現実性は、人が思うよりも(というのも、みんなのまえにはまだ出してない潜伏した話しもあるので。)、単純に確保されている、という二つ目の意味もある。東電視察など。この両方の現実性確保の方策を同時に進めて行きたい。

 より突っ込んで話すと、『郵便本』4章の話は、欲望の話し:ハイデガーではなくフロイトの話しに繋げることで、(批評空間派がこぞって避けてきた)欲望の実存的核の話が中心となっている。その意味で、『動ポモ』が語った欲望はまだ限定的だった。『ゲーリア』でも、性的差異を存在論的差異に読み替えて考えていた:性的差異と存在論的差異の問題は近い:例えば、射精の問題と妊娠の問題。それらを論理的に解釈しようと試みた:美少女ゲームの論理としての読み替え:これはラカン-デリダハイデガーの読み替え(存在論的差異の性的差異への読み替え)に近い;新著『世界からもっと近くに』では、欲望についてよりメタ/オブジェクトという点から直接に詳述するもの。

 

(Q2)コロンブス;一般意志2.0の現実性・実在性について

(A2)一般意志2.0は人のコミュニケーションたる熟議に対する重しの様なもので、ここには誤配はない。実在ではない。動かせない統計的リアリティとして一般意志は存在する(ex.この店の客の入り状況など)。一般意志2.0は、郵便とか誤配とかとは別の話として考えていい。今書くなら、ルソーの性の話などを考慮にいれるはず。

 

(Q3)てらまっと:『郵便本』p.50,p.58でのボルダンスキー・リオタールへの「確率」に関する言及と、近年の福一計画などとの関係について。

(A3)二つの回答がある。

①確率性の問題は停戦量被爆の問題に直接に結びついている。統計的な数字で言えば被害がないのに、やはり怯えが残るということの意味。確率、統計を前にした恐怖の話。

②観光地化という、リオタール・ボルダンスキーが、おそらく考えもしなかった、アートとツーリズムとの接近について。アートが既存秩序への破壊の役割をもっていることは変わりない。しかし、かつて、キャピタリズムへの抵抗として行われたアート(美術館的アート)が、いまや、その中で駆動しているということの環境変化には見るべきところがあるのではないか。

 

(Q4)現実には「この世界」しかないなかで、濃淡のある「連帯」の可能性を、実際にはどう探ればいいのか?

(A4)同じ空気、同じ釜「だから」仲良く出来る、という同調圧力イデオロギーは失敗する。そういいたいのではなく、それでもなお、世界を分有しているということに意味を見出そうとする方向性がある。

なお、連帯ということで言えば、「この私」というものを共有するということは、閉じたサークルを作ることにしかならない。誰もが「この私」でしかなく、その孤独さしかわからず、でもその孤独さだけは分有できるということが、連帯の鍵になる。同調できなさがゆるやかに繋げる連帯がある。

 

(Q5)北川:一般意志2.0では、それが数学的に存在する一方で、その解釈の問題については「インターフェース」の重要性が説かれていた。一般意志2.0については、無限の解釈や誤解、散種からの疎外として捉えられるが、このインターフェースと一般意志2.0自体の関係はどうなっているのか?

(A5)今後の宿題にしたい。

現在の考え:人間的コミュニケーション空間こそ郵便空間になるはず。それに対するインターフェース導入の必要はあるが、それが数学的実在(エクリチュール性が欠如した物自体のような)一般意志2.0だった。勿論、一般意志2.0の統計的解釈は郵便空間内部にあるのであるが。

 

 

---以上、第一章第1節(『存在論的、郵便的』p.28)まで